2008年12月21日日曜日

1937年 南京 12月21日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月21日
 日本軍が街を焼き払っているのはもはや疑う余地はない。たぶん略奪や強奪の跡を消すためだろう。昨夜は、市内の6ヵ所で火が出た。
 夜中の2時半、塀の倒れる音、屋根が崩れ落ちる音で目が覚めた。わが家と中山路の間にはもう1ブロックしか家が残っていない。そこに燃え拡がるおそれがあったが、運良く難をのがれた。・・・・
・・・・・・・
 アメリカ人の絶望的な気分は次の電報を見るとよくわかる。
 ほかに方法がないので、日本大使館に頼んでこの電報を送ろうというのだろう。だがこれでは何もかも筒抜けだ。日本は承知するだろうか?

 南京、1937年12月20日、在上海アメリカ総領事館 御中。
 重要な相談あり。アメリカの外交官、南京にすぐ来られたし。状況は日々深刻に。大使および国務省に報告乞う。マギー、ミルズ、マッカラム、スマイス、ソーン、トリマー、ヴォートリン、ウィルソン。
 1937年12月20日南京日本大使館 御中。海軍基地無線を通じて転送を要請します。
                               M.S.ベイツ

 それにしても、アメリカ人は非常に苦労している。私の場合は、ハーケンクロイツの腕章やナチ党バッジ、家と車のドイツ国旗をこれ見よがしに突きつければ、一応の効き目はあったが、アメリカ国旗となると日本兵は歯牙にもかけない。今朝早く、日本兵に車を止められたので怒鳴りつけて国旗を示したところ、相手はすぐに道を空けた。それにひきかえ、トリマーやマッカラムはなんと鼓楼病院で狙撃されたのだ。運良く弾はそれた。だが、我々外国人に銃口が向けられたという事が、そもそも言語道断だ。・・・・・・・
 我々の収容所にいる中国人の誰かが、妻か娘を強姦されたといって日本兵を殴り殺しでもしたら、一巻の終わりだ。安全区は血の海になるだろう。つい今しがた、アメリカ総領事館あての電報が日本大使館から打電を拒否されたという知らせが入った。そんなことだろうと思っていた。

 午前中にガソリンを残らず本部へ移させた。中山路でこれからまだ相当数の家が焼け落ちるのではないかと心配だからだ。そういう火事の前兆はもうわかっている。突然トラックが何台もやってくる。それから略奪、放火の順だ。

 午後2時、ドイツ人やアメリカ人など全員ーつまり外国人が全員鼓楼病院前に集結して、日本大使館へデモ行進を行った。アメリカ人14人、ドイツ人5人、白系ロシア人2人、オーストリア人1人。日本大使館あての手紙1通を手渡し、その中で人道的立場から以下の3点を要求した。

1、街をこれ以上焼かないこと。
2、統制を失った日本軍の行動を直ちに中止させること。
3、食糧や石炭補給のため、再び平穏と秩序が戻るよう、必要な措置をとること。
 デモに参加した者は全員が署名した。

我々は日本軍の松井石根司令官と会談し、全員が彼と握手した。大使館では私が代表して意見を言い、田中正一副領事に、日本軍は町を焼き払うつもりではないかと思っていると伝えた。領事は微笑みながら否定したが、書簡のはじめの2点については軍当局と話し合うと約束してくれた。だが、第3点に関しては、耳を貸さなかった。日本人も食糧不足に苦しんでいるので、我々のことなど知ったことではないというのだろう。

 そのあと、まだ日本大使館にいるときに、海軍将校からローゼンの手紙を受け取った。彼は南京に非常に近いところに停泊しているイギリス砲艦ビー号に乗っているのだが、まだ上陸を許されていない。これ以上多くの人間に事情を知られたくないのだろう。・・・・・・・・・


 ローゼン書記官よりジョン・ラーベあての手紙
南京を目前にして、1937年12月19日
イギリス砲艦ビー号船上より

ラーベさん、
昨日から南京市を目の前にしながら上陸する事ができません。

皆さんのご様子、それからドイツ人の家が無事かどうかお知らせください。
なお、ここからは大使宛の無線で連絡が取れます。
当方にもいろいろな事がありました。このことはいずれお目にかかった折にお話します。
この手紙が日本軍を介して貴君に届くかどうかわかりませんが、とにかくやってみます。(無事返事をいただけるといいのですが)。
よろしく。   ハイル・ヒトラー!             敬具
                        ローゼン

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月21日 火曜日
 毎日がうんざりするほど長く感じられる。毎朝、どのようにすれば日中の12時間を過ごせるだろうかと思案する。
 朝食のあと、例の25人の警備兵が昨夜及ぼした(女性2人が強姦された)件について事情を聴取した。しかし、こうしたことには慎重に、しかも臨機応変に対処する必要がある。・・・・・・


 1時30分、アチソン氏の料理人と一緒に車でキャンパスの西の方角に向かった。料理人は、75歳の父親が殺されたと聞いていたので、是非確認したかったのだ。私たちは、道路の中央に老人が倒れているのを見つけた。老人の死骸を竹やぶに引き入れ、上にむしろをかけた。老人は、危害をこうむることは絶対にないと言い張って、大使館で保護をしてもらうことを拒んでいた。
 2時に大使館に着いたが、・・・・・・・・私たちは領事に、大変申し訳ないが、あんなに大勢の兵士に石炭や茶やお菓子を出すこともできないし、それに、夜間に派遣してもらう憲兵は2名だけで、昼間は1名のはずではなかったか、と言った。領事はとても察しのよい人で、昨夜は25人もの警備兵がキャンパスにいたにもかかわらず、万事うまくいったわけではないことを理解した。
 午後、城内にいる外国人全員で、日本軍のためだけでなく南京の中国人20万人のためにも、南京に平和を回復するよう求める請願書を提出した。私は、ついさっき日本大使館から帰ってきたばかりだったので、みなに同行しなかった。
 日本大使館を出てから、今度はアメリカ大使館の使用人と一緒に三牌樓にあるジェンキン氏宅へ行った。彼の家は、アメリカ国旗を掲揚し、日本文の布告や東京宛の特電の文を掲示することによって護られていたにもかかわらず、徹底的な略奪をこうむった。ジェンキン氏が信頼していた使用人は車庫で射殺されていた。彼は雇い主の家を出て大使館に避難することを拒んでいた。
 かつて南京に住んだことのある人なら、今の街路がどんなありさまになっているのか想像もつかないだろう。これまでに見たこともないほどひどい惨状だ。路上にはバスや乗用車が引っくり返り、すでに顔の黒ずんだ死体があちこちに転がり、捨てられた軍服がいたるところに散乱し、住宅や商店はすべて焼け落ちているか、そうでなければ、略奪されたり打ち壊されたりしている。安全区内の街路は混雑しているが、安全区外では日本兵以外はほとんどだれも見かけない。・・・・・・・
 ・・・・歩いてキャンパスに戻る途中、悲嘆に暮れた男性が近づいてきて、助けてもらえないか、と言った。27歳の妻が女子学院から帰宅したばかりのところに、3人の日本兵に押し入られた。彼は家から追い出され、妻は日本兵に捕らえられてしまった、という。
 今夜はきっと6000人ないし7000人(いや9000人ないし1万人?)の避難民がキャンパスにいるに違いない。私たちはわずかな人数で対処しており、疲れ果ててしまった。こんな激務の後どのくらい耐えられるかわからない。
 現在、大きな火災が北東から東へ、さらに南東の空を照らし出している。毎日、夜はこうした火災が空を照らし、昼間はもうもうとあがる煙によって、いまなお略奪と破壊の行為が続いている事がわかる。戦争の生み出すものは死と荒廃である。
 私たちは外界との接触を完全に断たれている。何が起こっているのか全くわからないし、こちらから外界にメッセージを送ることもできない。校門から外を眺めていると、門衛が、1日1日が1年のように思え、人生から一切の意味が失われてしまった、と言ったが、全くその通りだ。先が見えないのが悲しい。かつては活力にあふれ、希望に満ちていた首都も、いまや空っぽの貝殻のようだ。哀れを誘う悲痛な貝殻だ。
 何日も前に作成した無線電報がいまだに送られないでいる。

「Imagine9」解説【合同出版】より


ひとりひとりの安全を

大事にする世界


 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。

 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。


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2008年12月20日土曜日

1937年 12月20日 南京

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月20日
 委員会本部に日本人将校が来ていた。南京一のホテル、首都飯店を片付けたいので作業員20人集めてくれないかという。このホテルには日本軍の参謀将校が泊まることになっている。私は16人世話した。昼にはこの将校が自分でトラックにのせて連れ帰るうえ、5中華ドル支払われるという約束だった。これが日本軍が示したはじめてのまともな対応だった。中国人たちもあきらかにいい感じを受けていた。・・・・・
・・・・・・・・
 午後6時、ミルズの紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員が訪ねてきた。守山記者はドイツ語も英語も上手で、あれこれ質問を浴びせてきた。さすがに手慣れている。私は思っているままをぶちまけ、どうかあなたのペンの力で、一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。守山氏は言った。「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから」
 いまこれを書いている間にも、そう遠くないところで家がつぎつぎ燃えている。その中にはYMCA会館も入っている。これは故意の、もしくは軍部の命令による放火ではないだろうか。
・・・・・・・
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月20日 月曜日
 悲惨と苦難のうちに明け暮れる近頃では、快晴の天気だけが唯一の天恵であるように思われる。
 8時から9時まで私は正門に立ち、比較的に年齢の高い女性に対し、彼女たちの娘を保護するために金陵女子学院が使えるように、自宅へ引き返してほしいと説得に努めた。みな、建て前としては承諾してくれるものの、帰宅するのを嫌がっている。彼女たちが言うには、白昼に日本兵が再三再四やってきては、ありとあらゆる物を略奪して行くのだそうだ。
 10時から12時まで執務室で、日本大使館に提出するため、キャンパスにおける日本兵の所業について公式報告書を書こうとしたが、無駄な努力だった。というのは、日本兵を追い出しにきてくれと、キャンパスのあちらからもこちらからも呼び出しがかかるからだ。・・・・・・
 3時に日本軍の高級将校が部下数人を伴ってやってきた。建物内と避難民救援業務を視察したかったのだ。将校がキャンパスにまだいる間に日本兵が来てくれる事を大まじめに願っていた。中央棟にひしめく避難民の視察を私たちが終わったとき、果たせるかな、北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵2人が寄宿舎から女性5人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。大急ぎで行ってみると、彼らは私たちの姿を見て逃げ出した。一人の女性が私のところに走り寄り、ひざまずいて助けを求めた。将校は兵士を叱責したうえで放免した。その程度の処置で、こうした卑劣な行為を止めさせることはできない。
 午後4時、・・・・・日本大使館に連れて行ってもらった。再び実状を伝え、使用人2人の送還と、日中の憲兵派遣を要請した。・・・・・
 驚いたことに、夕食のすぐ後、今夜の警備要員として憲兵25人がキャンパスに派遣されてきた。どうやら、午後発生した事件の効き目があったようだ。・・・・・・・
 今夜は渡り廊下にも避難民がいっぱいで、おそらく6000人以上がいるだろう。今夜は東の空が明るい。城内では略奪が続いている。

「Imagine9」解説【合同出版】より


ひとりひとりの安全を

大事にする世界


これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
 緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。

 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。


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2008年12月19日金曜日

1937年 12月19日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
歩兵第65連隊第7中隊の大寺隆上等兵の陣中日記はこう書きとめている。
12月19日
午前7時半整列にて清掃作業に行く。揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に驚く。石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後2時までかかり作業終わる。昼食は3時だ。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月19日
・・・・・・寧海路にある本部の隣の建物には防空壕があって、20人ほどの女性がいたが、ここへ日本兵が数人暴行しに侵入してきた。ハッツは塀を乗り越え、やつらを追い払った。広州路83~85号の難民収容所から助けを求める請願書が来た。

 南京安全区国際委員会 御中
 ここに署名しました540人の難民は、広州路83~85号の建物の中にぎゅうぎゅうに押し込まれて収容されています。
 今月の13日から18日にかけて、この建物は3人から5人の日本兵のグループに何度も押し入られ、略奪されました。今日もまたひっきりなしに日本兵がやってきました。装飾品はもとより、現金、時計、服という服、何もかもあらいざらいもっていかれました。
比較的若い女性たちは毎夜連れ去られます。トラックにのせられ、翌朝になってようやく帰されるのです。これまでに30人以上が暴行されました。女性や子供たちの悲鳴が夜昼となく響き渡っています。この悲惨なありさまはなんともいいようがありません!
 どうか、我々をお助けください!

   南京にて、1937年12月18日
                                  難民一同

いったいどうやってこの人たちを守ったらいいのだろう。日本兵は野放し状態だ。・・・・・
・・・・・・・・


18時
 日本兵が6人、塀を乗り越えて庭に入ってきた。門扉を内側から開けようとしている。なかの一人を懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。だが、大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、すぐにひっこめた。全員また塀を乗り越えて戻っていくことになった。・・・・・
 わが家の南も北も大火事になった。水道は止まっているし、消防隊は連れて行かれてしまったのだから、手の内ようがない。・・・・・・庭の難民は、300人だか400人だか正確には分からないのだが、むしろや古いドア、ブリキ板で掘っ立て小屋を作って、少しでも雪と寒さを防ごうとしていた。だが困ったことに、なかで料理をはじめてしまったのだ。火事が心配だ。禁止しなければ・・・・・・・



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月19日 日曜日
今朝もおびえた目付きをした女性や少女が校門から続々と入ってきた。昨夜も恐怖の一夜だったのだ。たくさんの人がひざまずいて、キャンパスに入れてほしいと懇願した。入れはしたものの、今夜はどこで寝てもらうことになるのだろう。・・・・・・歩いて学院へ戻ってくると、娘をもつ母親や父親、それに兄弟たちが、彼女たちを金陵女子学院にかくまってもらいたいと何度も懇願した。中華学校の生徒を娘にもつ母親は、昨日自宅が何度となく略奪をこうむり、これ以上は娘を護りきれない、と訴えた。
 それから、日本兵の一団を追い出してもまた別の一団がいるといった具合で、キャンパスの端から端まで行ったりきたりして午前中が過ぎてしまった。南山にはたしか3回行ったと思う。その後、キャンパスの裏手まで来た時、教職員宿舎へ行くようにと、取り乱したような声で言われた。その2階に日本兵が上がって行った、という。教職員宿舎2階の538号室に行ってみると、その入口に一人の兵士が立ち、そして、室内ではもう一人の兵士が不運な少女をすでに強姦している最中だった。日本大使館に書いてもらった一筆を見せたことと、私が駆けつけたことで、二人はあわてて逃げ出した。卑劣な所業に及んでいるその二人を打ちのめす力が私にあればよいのだがと、激怒のあまりそう思った。日本の女性がこのようなぞっとする話を知ったなら、どんなに恥ずかしい思いをすることだろう。・・・・・


「Imagine9」解説【合同出版】より



戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界へ


 また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。

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2008年12月18日木曜日

1937年 12月18日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
歩兵第65連隊第7中隊の大寺隆上等兵の陣中日記はこう書きとめている。
12月18日・・・昨夜まで殺した捕虜は約2万、揚子江に二ヶ所に山のように重なっているそうだ。7時だが未だ片付け隊は帰ってこない。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
最高司令長官がくれば治安がよくなるのかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながら外れたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様だ。なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやをおさめた。
 私が家にいる間は問題はない。やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。だが、中国人に対してはそうではなかった。兵士が押し入ってきた、といっては、絶えず本部に呼び出しがある。そのたびに近所の家に駆けつけた。日本兵を二人、奥の部屋から引きずり出したこともあった。その家はすでに根こそぎ略奪されていた。・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・
 中国人が一人、本部に飛び込んできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたと言う。言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで!・・・・・

 家に着くと、ちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。すぐに彼は将校に追い払われた。その時近所の中国人が駆け込んできた。妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で4人だということだった。我々は直ちに駆けつけ、危ないところで取り押さえる事ができた。将校はその兵に平手打ちを食らわせ、それから放免した。
 再び車で家に戻ろうとすると、韓がやってきた。私の留守に押し入られ、物をとられたと言う。私は体中の力が抜けた。・・・・・次から次へと起こる不愉快な出来事に、実際に気分が悪くなってしまったのだ。・・・・・・・

18時
危機一髪。日本兵が数人、塀を乗り越えて入り込んでいた。中の一人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣を放り出し、難民の少女におそいかかっていた。私はこいつを直ちにつまみ出した。逃げようとして塀をまたいでいたやつは、軽く突くだけで用は足りた。・・・・
・・・・・・・
 寧海路五号にある委員会本部の門を開けて、大勢の女の人や子供を庭に入れた。この人たちの泣き叫ぶ声がその後何時間も耳について離れない。我が家のたった500平方メートルほどの庭や裏庭にも難民は増えるいっぽうだ。300人くらいいるだろうか。私の家が一番安全だということになっているらしい。私が家にいる限り、確かにそういえるだろう。そのたびに日本兵を追い払うからだ。だが留守のときは決して安全ではなかった。・・・・・・
・・・・・・・
悲しいことに、鼓楼病院でも看護婦が何人か暴行にあっていた。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月18日 土曜日
 今は毎日が同じ調子で過ぎていくような気がする。これまで聞いた事もないような悲惨な話ばかりだ。恐怖をあらわにした顔つきの女性、少女、子供たちが早朝から続々とやってくる。彼女たちをキャンパス内に入れてやることだけはできるが、しかし、みなの落ち着く場所はない。夜は芝生の上で眠るしかない、と言い渡してある。具合の悪いことに、寒さがかなり厳しくなっているので、これまで以上の苦痛に堪えなければならないだろう。比較的に年齢の高い女性はもちろんのこと、小さい子供のいる女性に対しても、未婚の少女たちに場所を譲るため、自宅へ帰るよう説得を強めているところだ。・・
・・・・・・
たいていの場合、立ち退くように説得すればそれですむのだが、中にはふてぶてしい兵士がいて、ものすごい目付きで、ときとしては銃剣を突き付けて私をにらみつける。今日南山公寓へ行き、略奪を阻止しようとしたところ、そうした一人が私に銃を向け、次には、一緒にいた夜警員にも銃を向けた。
 昨夜恐ろしい体験をしたことから、現在、私のいわば個人秘書をしているビック王を同伴して日本大使館へ出向くことにした。・・・・・・・・・・
・・・・・・・
そこで、私たちの困難な体験のこと、また金曜日の夜の事件のことも報告し、そのあと、兵士たちを追い払うために持ち帰る書面と、校門に貼る公告文を書いてほしいと要請した。両方とも受け取る事ができて、言葉では言い表せないほど感謝しながら戻ってきた。田中氏は物分りのよい人で、心を痛めていただけに、自らも出向いて、憲兵二人に夜間の警備をさせるつもりだ、と言ってくれた。降車する際大使館の運転手にチップを渡そうとすると、運転手は、「中国人が壊滅的な打撃をまぬかれたのは
、ごく少数ではあるけれど外国人が南京にいてくれたからです」と言った。
もしこの恐るべき破壊と残虐が抑止されないとしたら、一体どういうことになるだろうか。昨夜はミルズと二名の憲兵が校門に詰めてくれたので、久しぶりに何の憂いもなく安らかに就寝できた。
 私がこの執務室でこれを書いている今、室外から聞こえてくるわめき声や騒音をあなたたちに聞いてもらえたらよいのだが。この建物だけで600人の避難民がいると思うが、今夜はきっと5000人がキャンパスにいるのではないだろうか。今夜はすべてのホールに、そしてベランダにも人があふれていて、ほかには場所がないため、彼女たちは渡り廊下で寝ている。・・・・・・・

「Imagine9」解説【合同出版】より


戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界


「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。

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2008年12月17日水曜日

1937年 12月17日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
「未曾有の盛事、感慨無量なり」
12月17日、午後1時半に南京入城式が定刻通り開始された。この式には南京攻略戦に参加した全戦闘部隊の三分の一が代表部隊として入城し、中山門から祝賀会場の国民政府庁舎まで三キロにわたり、中山東路の両側に整列した。
 南京入城式のもようは、大報道陣によってニュース映画、ラジオ、新聞、雑誌を通して大々的に日本国内に報道された。入城式のセレモニーで主役を演じた松井石根大将は、得意絶頂にあった。・・・
・・・・


「休養の十数日」
・・・・・・南京攻略戦に参加した多くの師団が、南京警備に残留した第16師団をのぞいて、新たな作戦地域を目指して移動していったのは、クリスマス前後のことだった。それまで、総勢7万以上の日本軍が前後して南京城内に進駐し、10日前後の「休養」を過ごした。・・・・・
 無理難題の南京攻略を強いた将兵の憤懣・反発の「ガス抜き」としてあるいは「慰労」として、多くの部隊が南京城内に進駐し、勝利者、征服者の「特権」として徴発、略奪、殺戮、強姦、暴行、放火などの不法行為に走るのを黙認、放任するかたちになった。しかも12月17日の段階で、南京城内にいた憲兵はわずか17名に過ぎなかった。
 南京攻略戦は参謀本部の作戦計画には元々なかったため、南京を陥落させたものの、次に実行すべき、明確な作戦が陸軍中央にはなかった。陸軍中央部内に、国民政府と停戦・和平を目指す勢力と国民政府をいっきょに壊滅させ、傀儡(かいらい)政府を樹立してこれに代えようとする勢力、すなわち不拡大派と拡大派の対立があったことも無策の原因となった。
 こうして、日本軍の完全占領下に、外部との交通・通信を遮断されて「陸の孤島」となった南京は「密室犯罪」的な環境のもとにおかれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・

 入城式後に激発した強姦
入城式がおこなわれた17日前後から城内の強姦が激増したことをフィッチは、日記に記している。

 12月17日、金曜日。略奪、殺人、強姦はおとろえる様子もなく続きます。ざっと計算してみても、昨  夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は37回も強姦された のです。別の婦人は5ヶ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。野獣のような男が、彼女を強  姦する間、赤ん坊が泣くのをやめさせようとしたのです。抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。
・・・・・・・
・・・・・・・

 南京安全区国際委員会の中心メンバーとして活躍したマイナー・S・ベイツ(金陵大学歴史学教授、40歳)は、アメリカのキリスト者に対する手紙の中に、日本軍による強姦についてこう記している。
 有能なドイツ人の同僚たちは(ラーベらのこと)強姦の件数を2万件とみています。
 私にも8000件以下とは思われません。いずれにしても、それを上回る数でしょう。我々の職員家族 の若干と現在アメリカ人が住んでいる住宅を含めて金陵大学構内だけでも、100件以上の強姦事 件の詳細な記録がありますし、300件ほどの証拠もあります。
 ここでの苦痛と恐怖は、あなたにはほとんど想像できないでしょう。金陵大学区内だけでも、11歳  の少女から53歳になる婦人まで強姦されています。他の難民グループではむごい事にも、72歳と 76歳になる老婆が犯されているのです。神学院では白昼、17名の日本兵が1人の女性を輪姦し  ました。実に強姦事件の三分の一は日中に発生したのです。

 中シナ方面軍の司令部が無策のままに、何万という軍紀の弛緩した軍隊を10日前後も駐留させたため、戦闘とは全く関係のない、膨大な女性の身体と生命が犠牲にされた。それも、南京難民区国際委員会が掌握した事例は部分にしかすぎなかった。難民区外さらに広大な城外近郊区で行われた多くの婦女陵辱行為は記録する者も証言する者もなく、歴史の闇に葬り去られている。・・・・・

 捕虜の殺害
17日について、歩兵第65連隊第1大隊の荒海清衛上等兵の陣中日記は、「今日は南京入城なり。俺等は今日も捕虜の始末だ。1万5千名。今日は山で」と記している。

「南京の質実」(ラーベ著:講談社)
12月17日
二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出て行くと「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」とか何とか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、また、もと来た道をそそくさと引き返していった。

塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。この中の一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。運良く救急車を呼ぶ事ができ、鼓楼病院へ運んだ。いま、庭には全部で約200人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまずく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人の誰かがこんな風に言った。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」
 当たらずといえども遠からずだ。昨晩は1000人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも100人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。・・・・・・
・・・・・・
 軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が30体転がっている。昨日、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町を片付け始めた。山西路広場から軍政部までは道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げ込まれている。
 午後6時、庭にいる難民たちに筵を60枚持っていった。みな大喜びだった。日本兵が4人、またしても塀をよじ登って入ってきた。3人はすぐにとっつかまえて追い返した。4人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。やつらは外へ出たとたん、駆け出した。ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。
 アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは、「ドイツ人だぞ!」あるいは「ヒトラー!」と叫ぶだけでよかった。すると日本人はおとなしくなるからだ。今日、日本大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳(きよし)書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。いずれにせよ福井氏は早速この書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。・・・・・・

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月17日
 7時30分、F・陳と一緒に門衛所で一夜を明かしたソーン氏のところへ伝言をしに行った。
中国赤十字会の粥場で石炭と米がどうしても入用だからだ。疲れ果ておびえた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。(下は12歳の少女から上は60歳の女性までもが強姦された。夫たちは寝室から追い出され、銃剣で刺されそうになった妊婦もいる。日本の良識ある人々に、ここ何日も続いた恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが。)それぞれの個人の悲しい話ーとりわけ、顔を黒く塗り、髪を切り落とした少女たちの話ーを書き留める時間のある人がいてくれたらよいのだが。
・・・・・・・・

午前中は校門に詰めているか、そうでなければ、日本兵グループがいるという報告があり次第、南山から寄宿舎へ、はたまた正門へと駆け回ることで時間が過ぎた。・・・・ここ数日は食事中に、「ヴォートリン先生、日本兵が3人理科棟にいます・・・・」などと使用人が言ってこない日はない。
・・・・・・・・・・・

 終日押しよせる大勢の避難民の面倒はとても見きれない。たとえ収容スペースがあっても、うまくやっていけるだけの体力がない。金陵大学側と話をつけて、大学の寄宿舎のうちの一つを開放してもらうことにした。4時から6時までの間に大勢の婦女子の2グループを引率して行った。なんと悲痛な光景だろう。おびえている少女たち、疲れ切った女性たちが子供を連れ、寝具や小さな包みにくるんだ衣類を背負ってとぼとぼ歩いて行く。彼女たちについて行ってよかったと思う。というのも、日本兵の集団があらゆる種類の略奪品を抱えて家から家へと移動していくところに出くわしたからだ。・・・・
・・・・・
 夕食をとり終わった後で中央棟の少年がやってきて、キャンパスに兵士が大勢いて、寄宿舎の方へ向かっていることを知らせてくれた。2人の兵士が中央棟のドアを引っ張り、ドアを開けるようにしきりに要求しているところに出くわした。鍵を持っていない、と言うと、一人が「ここに中国兵がいる。敵兵だ」と言うので、私は、「中国兵はいない」と言った。一緒にいた李さんも同じ答えをした。その兵士は私の頬を平手で打ち、李さんの頬をしたたか殴ってから、ドアを開けるよう強く要求した。・・・・・
・・・・・・彼らは一階も二階も入念に調べていた。外に出ると、別の兵士二人が、学院の使用人3人を縛り上げて連れてきた。「中国兵だ」と言ったので、私は、「兵士ではない。苦力と庭師です」と言った。事実そうだったからだ。日本兵は3人を正門のところへ連行したので、私もついて行った。正門まできてみると、大勢の中国人が道端にひざまずいていた。その中には、フランシス陳さん、夏さん、それに学院の使用人が何人かがいた。・・・・・・・
・・・・・・
後に残った私たちがその場で立ったりひざまずいたりしていると、泣きわめく声が聞こえ、通用門から出て行く中国人たちの姿が見えた。大勢の男性を雑役夫として連行して行くのだろうと思った。後になって私たちは、それが彼らの策略であったことに気づいた。責任ある立場の人間を正門のところに拘束した上で、審問を装って兵士3,4人が中国兵狩りをしている間に、ほかの兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。日本兵が12人の女性を選んで、通用門から連れ出したことを後で知った。すべてが終わると、彼らはF・陳をつれて正門から出て行った。私は、陳さんにはもう2度と会えないと思った。日本兵は出て行くには行ったが、退去したのではなく、外で警備を続け、動くものはだれかれかまわず即座に銃撃するに違いないと思った。その時の情景は決して忘れる事ができない。道ばたにひざまずいている中国人たち、立ちつくしているメリーや程先生、それに私。乾いた木の葉はかさかさと音を立て、風が悲しくうめく様に吹く中を、連れ去られる女性たちの泣き叫ぶ声がしていた。
・・・・・・・・・
 それからメリーと私は実験学校に行ってみた。驚いたことに、陳さんと婁さんが私の居室に無言で座っているではないか。陳さんの話を聞いて、命が助かったのは本当に奇跡としか思えなかった。・・・

「[Imagine9」解説【合同出版】より


女性たちが

平和をつくる世界


ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
 この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
 国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。


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2008年12月16日火曜日

1937年 12月16日 南京 この世の地獄

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
 南京入城式を翌日に控えた12月16日になると、難民区における「敗残兵狩り」はいっそう過酷になった。その理由は、この日の飯沼守上海派遣軍参謀長の日記から知る事ができる。

 午後1時出発、入城式場を一通り巡視、3時30分頃帰る。多少懸念もあり、長中佐【上海派遣軍司令部参謀部第二課長・長勇(ちょう いさむ)】の帰来報告によるも、16D(16師団)参謀長は責任を持ちえずとまでいいおる由なるも、すでに命令せられ再三上申するも聴かれず、かつ断固として参加を拒絶するほどとも考えられざるをもって、結局要心しつつ御伴する事に決す。(中略)
 長中佐夜再び来たり、16Dは掃蕩に困惑しあり、3Dをも掃蕩に使用し南京付近を徹底的にやる必要ありと建言す。(「飯沼守日記」)

 入城式を17日に決行することに汲々とする松井司令官ら中シナ方面軍司令部に対する反感が吐露されているが、それでも実施を決まった以上しかたないとして、最大の懸念は大通りを馬上行進する皇族・朝香宮司令官の身にもしもの事が起こることだった。飯沼参謀長が用心しつつお伴するといっている相手は朝香宮のことである。まだ多少懸念があるので、第16師団の掃蕩だけでは不安なので、第3師団(名古屋)も投入して南京城周辺を徹底的に掃蕩させよ、というのである。
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 難民区の「敗残兵狩り」を担当した第9師団の歩兵第7連隊は前日の夜に次のような命令を下達した。

 連隊は明16日全力を難民地区に指向し、徹底的に敗残兵を捕捉殲滅せんとす。
 各大隊は明16日早朝よりその担任する掃蕩地区内の掃蕩、特に難民地区掃蕩を続行すべし
 (「南京戦史資料集」)

 上の命令に従って16日には、難民区で男子難民を巻き込んだ「敗残兵狩り」が大々的に実施され た。その様子を同歩兵第7連隊の兵士は日記にこう記している。

 午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通遮断の うえ、各中隊分担の地域内を掃蕩する。
 目に付くほとんどの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を 着剣した兵隊が取り巻いて進行してくる。各中隊とも何百名も狩り出してくるが、第1中隊は目だっ  て少ないほうだった。それでも百数十名を引き立てて来る。そのすぐ後ろに続いて、家族であろう母 や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。
 市民と認められるものはすぐに帰して、36名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もな  い。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだという。多 少の犠牲は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよとの、軍司令官松井大将の命  令が出ているから、掃蕩は厳しいものである。


 難民区の「敗残兵狩り」を担当した第9師団歩兵第7連隊長伊佐一男大佐の日記(12月16日)には「3日間にわたる掃蕩にて約6500を厳重処分す」とだけ簡単に記されている。
この数字は、14日に安全区事務所を訪れた日本軍の連隊長が「安全区内に6000人の元中国兵が逃げこんでいる」とフィッチに告げた数に符合する。しかし、殺戮されたのは、過半が一般市民だった。ラーベはこの「厳重処分」の実相をこう記している。

 武装解除された部隊の各人、また、この日(12月13日)のうちに武器をもたず安全区に庇護を求め  てきたこの他の数千の人々は、日本人によって難民の群れの中から分けだされたのでした。手が  調べられました。銃の台尻を手で支えたことのある人ならば、手にたこができることを知っているでし ょう。背嚢を背負った結果、背中に背負った跡が残っていないか、足に行軍による靴ずれができてい ないか、あるいはまた、毛髪が兵士らしく刈られていないか、なども調べられました。こうした兆候を 示す者は兵士であったと疑われ、しばられ、処刑に連れ去られました。何千人もの人がこうして機関 銃射撃または手榴弾で殺されたのです。恐るべき光景が展開されました。とりわけ、見つけ出され た元兵士の数が日本人にとってまだ少なすぎると思われたので、全く無実である数千の民間人も  同時に射殺されたのでした。
  しかも処刑のやり方もいい加減でした。こうして処刑された者のうち少なからぬ者がただ撃たれて 気絶しただけだったのに、その後屍体と同様にガソリンを振りかけられ、生きたまま焼かれたので  す。これほどひどい目にあわされた者のうち数人が鼓楼病院に運びこまれて、死亡する前に残忍な 処刑について語る事ができました。私自身もこれらの報告を受けました。我々はこれらの犠牲者を  映画で撮影し、記録として保存しました(マギー牧師撮影のフィルム)。射殺は揚子江の岸か、市内 の空き地、または多く小さな沼の岸で行われました。(「南京事件・ラーベ報告書」)


「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月16日
・・・・・・・・・・
 今ここで味わっている恐怖に比べれば、今までの爆弾投下や大砲連射など、物の数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区の中にも及んできている。外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこじ開けられ、荒らされた。福田氏にあてた次の手紙から、この時の状況がおおよそうかがえる。ただし、この手紙に記されているのは、無数の事件のうち、我々が知ったごくわずかな例にすぎない。

在南京日本大使館  福田篤泰様
拝啓
安全区における昨日の日本軍の不法行為は、難民の間にパニックを引き起こし、その恐怖感はいまだに募る一方です。多くの難民は、宿泊所から離れるのを恐れるあまり、米飯の支給を受けたくとも、近くの給食所にさえ行けないありさまです。そのため宿泊所まで運ばなければならなくなり、大勢の人々に食料をいきわたらせることは、大変難しくなっています。給食所に米と石炭を運びこむ苦力(クーリー)を十分集めることすらできませんでした。その結果、何千人もの避難民は今朝、何も口にしていません。・・・・・・

 この状況が改善されない限り、いかなる通常の業務も不可能です。電話や電気、水道などの修復、店舗の修繕をする作業員はおろか、通りの清掃をする労働者を調達することすらできません。
・・・・私たちは昨日苦情を申し立てませんでした。日本軍最高指令官が到着すれば、街は再び落ち着きと秩序を取りもどすと考えていたからです。ところが昨晩は、残念ながらさらにひどい状況になりました。こもままではもう耐えられません。よって日本帝国軍に実情をお伝えすることにした次第です。この不法行為が、よもや軍最高司令部によって是認されているはずはないと信じているからです。
                                       敬具
                 代表    ジョン・ラーベ
              事務局長 ルイス・S・スマイス

 ドイツ人軍事顧問の家は、片端から日本兵によって荒らされた。中国人は誰一人、家から出ようとしない!私はすでに100人以上、極貧の難民を受け入れていたが、車を出そうと門を開けると、婦人や子供が押し合いへし合いしていた。ひざまずいて、頭を地面にすりつけ、どうか庭に入れてください、とせがんでいる。この悲惨な光景は想像を絶する。
・・・・・・・・・・・

 たった今聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出されたという。銃殺されるのだ。そのうち、50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されるという。
 下関(シャーカン)へ行く道は一面死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼き払われていた。ゆう江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯は文字通り死屍累々(ししるいるい)だ。日本軍は少しも片付けようとしない。安全区の管轄下にある紅卍字会(こうまんじかい・・・民間の宗教的慈善団体)が手を出すことは禁止されている。
 銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された人たちもいる。・・・・・・・

 以前うちの学校で働いていた中国人が撃たれて鼓楼病院に入っていた。強制労働にかり出されたのだ。仕事を終えた旨の証明書を受け取った後、家に帰る途中、なんの理由もなくいきなり後ろから2発の銃弾を受けたという。かつて彼がドイツ大使館からもらった身分証明書が、血で真っ赤に染まって今私の目の前にある。
 いま、これを書いているいる間も、日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。ボーイが開けないでいると、塀から頭がいくつもにゅーっと突き出た。小型サーチライトを手に私が出て行くと、さっといなくなる。正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。その側溝にも、この3日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。ぞっとする。
 女の人や子供たちが大ぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大きく見開き、恐怖のあまり口もきけない。そして、互いに寄り添って体を温めたり、励ましあったりしている。この人たちの最大の希望は、「異人」である私が日本兵という悪霊を追い払うことなのだ。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月16日 木曜日
 夜、ジョージ・フィッチに、状況はどうだったか、城内の治安回復はどの程度進捗したかを尋ねると、「きょうは地獄だった。生涯でこの上なく暗澹たる一日だった」との答えが返ってきた。私にとっても全くその通りだった。
 ・・・・・・・・・
 今朝、10時ごろ、金陵女子文理学院に対する公式の査察が行われた。徹底した中国兵狩りである。100人を超える日本兵がキャンパスにやってきて、まず( )棟から査察を開始した。
彼らは、すべての部屋を開示するよう要求した。鍵がすぐに間に合わなかった時のことだが、彼らはひどくいらだち、兵士の一人が、力ずくでドアを開けようと斧を手にして待ち構えていた。徹底した捜索が始まると、気が滅入ってしまった。・・・・・・・

 日本兵は学院の使用人を2度にわたってつかみ、この男たちは兵隊だと言って連行しようとしたが、私がそこに居合わせ、「兵隊ではない、苦力(クーリー)です」と言ったことで、彼らは、銃殺ないしは刺殺の運命から免れた。日本兵は、避難民のいるすべての建物内を捜索した。・・・・・・


 正午を少し回ったころ、少人数の一団が校門を通り抜けて診療所へやってきた。私がそこに居合わせなかったら、彼らは唐の弟を連れ去ったことだろう。そのあと彼らは通りを進んで行き、洗濯場に押し入ろうとしたが、まさにその時私が追いついた。誰でも日本兵から嫌疑をかけられようものなら、一からげに縄でつながれて彼らの後ろから歩いていく4人の男と同じ運命を強いられたであろう。日本兵は4人を、キャンパスの西にある丘へ連れて行った。そして、そこから銃声が聞こえた。
 おそらく、ありとあらゆる罪業が今日この南京で行われたであろう。昨夜、語学学校から少女30人が連れ出された。そして、今日は、昨夜自宅から連れ去られた少女たちの悲痛きわまりない話を何件も聞いた。その中の一人はわずか12歳の少女だった。食料、寝具、それに金銭も奪われた。李さんは55ドルを奪われた。城内の家はことごとく一度や二度ならず押入れられ、金品を奪われているのではないかと思う。今夜トラックが一台通過した。それには8人ないし10人の少女が乗っていて、通過する際彼女たちは「助けて」「助けて」と叫んでいた。丘や街路から時々銃声が聞こえてくると、誰かのーおそらく兵士でない人のー悲しい運命を思わずにはいられない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・


 理科棟の管理人の姜師傳の息子が今朝連行された。魏はまだ戻ってこない。何かしてやりたいのだが、どんなことをしたよいかわからない。というのも、城内の秩序が回復していないので、キャンパスを離れるわけにはいかないからだ。・・・・・・・・
 ・・・・・今夜の南京は、壊れてしまった惨めな貝殻に他ならない。通りに人影はなく、どの家も暗闇と恐怖に包まれている。
 今日は無辜の勤勉な農民や苦力(クーリー)がいったい何人銃殺されたことだろう。私たちは40歳以上の女性のすべてに、娘や嫁だけをここに残し、帰宅して夫や息子と一緒にいるようしきりに促した。
今夜は私たちには、約4000人の婦女子に対する責任がある。こうした緊張にあとどのくらい耐える事ができるのだろうか。それは、言葉では言い表しがたい恐怖だ。
 軍事的観点からすれば、南京攻略は日本軍にとっては勝利と見なせるかもしれないが、道徳律に照らして評価すれば、それは日本の敗北であり、国家の不名誉である。このことは、将来中国との協力及び友好関係を長く阻害するだけでなく、現在南京に住んでいる人々の尊敬を永久に失うことになるであろう。今南京で起こっていることを、日本の良識ある人々に知ってもらえさえしたらよいのだが。
 神様、今夜は南京での日本兵による野獣のような残虐行為を制止してくださいますよう。今日、何の罪のない息子を銃殺されて悲しみに打ちひしがれている母親や父親の心を癒してくださいますよう。そして、苦しい長い一夜が明けるまで年若い女性たちを守護してくださいますよう。もはや戦争のない日の到来を早めてくださいますよう。あなたの御国が来ますように、地上に御国がなりますように。

「Imagine 9」解説【合同出版】より


女性たちが

平和をつくる世界


 戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。

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2008年12月15日月曜日

1937年 12月15日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より

 南京攻略戦下の南京にとどまって取材活動を続けていた4人の外国人記者は、無線記事の送信に利用していたアメリカ砲艦パナイ号が撃沈されたこと、及び日本軍占領下ではもはや記事の送信手段がないことから、12月15日、パナイ号生存者を乗せた米艦オアフ号が下関埠頭に寄ったさいに乗船して南京を離れ、上海へ向かった。このとき、ダーティン記者は、「敗残兵狩り」「便衣兵狩り」で集められ、連行された軍民の処刑場面を目撃した。

 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンド(埠頭)で200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背にして並べされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけ、ひくひく動くものがあれば弾を打ちこんだ。
 この身の毛のよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見せ物を大いに楽しんでいた。(「ニューヨーク・タイムス」37年12月18日、『アメリカ関係資料編』)

 長江沿岸
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 山田支隊の第5中隊長代理角田栄一少尉の回想。
 私たち120人で幕府山に向かったが、細い月が出ており、その月明りのなかにものすごい大軍の黒い影が・・・・・。私はすぐ“戦闘になったら全滅だな”と感じた。どうせ死ぬのならと度胸を決め、私は道路にすわってたばこに火をつけた。(中略)
 ところが近づいてきた彼らに機関銃を発射したとたん、みんな手をあげて降参してしまったのです。すでに戦意を失っていたかれらだったのです。(「南京戦史」)

 山田支隊が捕獲した捕虜の数について、支隊長の山田栴二少将の日記はこう記している。
  (12月14日)他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前4時半出発、幕府山砲台に向かう、明けて砲        台の付近に到れば投降兵莫大にして始末に困る。
   捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せしところ、14777名を得たり、     かく多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外三軒屋に泊す。
  (12月15日)捕虜の仕末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。
   各隊食糧なく困却す。(「南京戦史資料集Ⅱ」)

 上の莫大な捕虜の措置を上海派遣軍司令部に指示をあおぎに行かせたところ、入城式を控えて、  敗残兵・捕虜を徹底的に殲滅する方針でいた上級から、捕虜の全員処刑を命ぜられたのである。
 山田支隊では、これらの膨大な捕虜や避難民を16日と17日とにわたって殺戮した。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より

12月15日

 朝の10時、関口鉱造少尉来訪。少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。
・・・・・・・・・・


 昨日、12月14日、司令官と連絡が取れなかったので、武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に次のような手紙を渡した。

 南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、大きな衝撃を受けております。本委員会は、この地区から中国軍を撤去させるよう、当初から努力を重ねてきました。月曜日の午後、すなわち12月13日まで、この点に関してはかなりの成果を収めたものと考えております。ちょうどこの時、これら数百人の中国人兵士たちが、絶望的な状況の中で我々に助けを求めて安全区に近づいてきたのです。
 我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してはやれない。けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、日本からの寛大な処置を期待できるだろう、と。
 捕虜に対する標準的な法規に鑑み、ならびに人道的理由から、これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。捕虜は労働者として役に立つと思われます。できるだけはやく彼らを普通の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。
                        敬具
                    ジョン・ラーベ、 代表

 この手紙と司令官にあてた12月14日の手紙に対する司令官からの返事は、次の議事録に記されている。

 議事録
南京における日本軍特務機関長との話し合いについて(交通銀行にて)
1937年12月15日 昼

通訳・福田氏
出席者
ジョン・ラーベ氏・代表
スマイス博士・事務局長
シュペアリング氏・監査役

1、南京においては中国軍兵士を徹底的に捜索する。
2、安全区の入口には、日本軍の歩哨が立つ。
3、避難した住民は速やかに家に戻ること。日本軍は安全区をも厳重に調査する予定である。
4、武装解除した中国人兵士を我々は人道的立場にたって扱うつもりである。その件は我が軍に一任するよう希望する。・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 残念ながら、午後の約束は果たせなかった。日本軍が、武器を投げ捨てて逃げ込んできた元中国兵を連行しようとしたからだ。この兵士たちは二度と武器を取ることはない。我々がそう請け合うと、ようやく解放された。ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。さっきの部隊が戻ってきて、今度は1300人も捕まえたというのだ。スマイスとミルズと私の三人で何とかして助けようとしたが聞き入れられなかった。およそ百人の武装した日本兵に取り囲まれ、しばられ、連行された。そして銃殺されるのだ。
 スマイスと私はもう一度福田氏に会い、命乞いをした。氏はできるだけのことをしようと言ってくれたが、望みは薄い。・・・・・・・・

 人々が獣のように追い立てられていくのを見るのは身を切られるようにつらい。だが、中国軍の方も  済南で日本人捕虜を2000人銃殺したという話だ。
 日本海軍から聞いたのだが、アメリカ大使館員を避難させる途中、アメリカの砲艦パナイ号が日本軍の間違いから爆撃され、沈没したそうだ。死者2人。・・・・・・・・・・・・


 スミス氏(ロイター通信社)講演

12月13日の朝、通りにはまだ日本軍の姿はありませんでした。町の南部は依然として中国軍の支配下にあったのです。中華門あたりでは、夜、すさまじい戦闘が繰り広げられました。・・・・
 12月13日の夜になると、中国兵や民間人が略奪を始めました。まず襲われたのは食料品店です。一般の民家からも、兵士が食料を持って出てくる光景が見られました。しかし、中国軍が組織的に略奪行為をもくろんだというのは正しくありません。
 とくに印象的だったのは、中国人の衣料品店前の光景です。何百人もの兵士たちが店の前に押し寄せ、ありとあらゆる種類の服が、飛ぶように売れていきました。有り金はたいて服を手に入れ、その場で着替えると、兵士たちは軍服を投げ捨て、市民のなかにまぎれこんでいきました。・・・・・・
・・・日本軍のパトロール隊を見かけました。彼らは6人から12人くらいで一団となり、メインストリートをゆっくりと注意深く進んで行きました。時たま銃声が鳴り響き、あちこちに市民が倒れていました。
日本軍に言わせると、逃げようとして撃たれたというのです。ただ、日本軍の姿をみると、一般市民の間にはある種の安堵感がたっだよったように思えました。もし、人間らしい振る舞いをしてくれるなら、日本人を受け入れよう、という気持ちがあったのです。
・・・・・・・・・・・・

 12月14日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。しかし昼ごろになると、6人から10人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿があちこちで見られるようになりました。彼らは連隊徽章をはずしていて、家から家へと略奪を繰り返しました。中国兵の略奪は主に食料に限られていましたが、日本兵の場合は見境なしでした。彼らは組織的に、徹底的に略奪したのです。

 私は12月15日に南京を後にしたのですが、それまでに私をはじめ、ほかのヨーロッパ人の見たところによれば、中国人の家はすべて、ヨーロッパ人の家はその大部分が、日本兵によって略奪し尽くされていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 12月15日、外国人の記者団が、南京から上海に向かう日本の軍艦に乗せてもらうことになりました。ところがそのあとで、イギリスの軍艦でいけることになり、桟橋に集合するよう指示がありました。
出発までに予想以上に時間がかかったので、偵察をかねて、あたりを少し歩くことにしました。そこで我々の見たものは、広場で日本軍が中国人をしばりあげ、立たせている光景でした。順次、引き立てられ、銃殺されました。ひざまずいて、後頭部から銃弾を撃ちこまれるのです。このような処刑を百例ほど見たとき、指揮を執っていた日本人将校に気づかれ、すぐに立ち去るように命じられました。ほかの中国人がどうなったかはわかりません。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より

12月15日(水曜日)

たしか、きょうは12月15日、水曜日だと思う。一週間をつうじた規則的なリズムがないので、何日であるか覚えているのは容易ではない。
 昼食の時間を除いて朝8時30分から夕方6時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性はおびえた表情をしていた。城内では昨夜恐ろしい一夜で、大勢の若い女性が日本兵に連れ去られた。今朝ソーン氏がやってきて、漢西門地区の状況について話してくれた。それからというもの、女性や子供には制限なくキャンパスに入ることを許している。ただし、若い人たちを収容する余地を残しておくため、比較的年齢の高い女性に対しては、できれば自宅にいるよう常々お願いしている。多くの人は、芝生に腰をおろすだけの場所があればよいから、と懇願した。今夜はきっと3000人以上の人がいると思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 昨日と今日、日本軍は広い範囲にわたって略奪を行い、学校を焼き払い、市民を殺害し、女性を強姦している。武装解除された1000人の中国兵について、国際委員会はその助命を要望したが、にもかかわらず、彼らは連れ去られ、多分、今頃はすでに射殺されているか、銃剣で刺殺されているだろう。南山公寓では日本兵が貯蔵室の羽目板を壊し、古くなったフルーツジュース、その他少々を持ち去った。・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・外界からの情報はまったくないし、こちらからも情報を送る事ができない。相変わらず銃声が時折聞こえる。

[Imagine 9」解説【合同出版】より


基地をなくして

緑と海を取りもどしていく世界


 基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」

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2008年12月14日日曜日

1937年 12月14日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波書店)

12月14日・・・この日、昭和天皇より南京占領を喜ぶ「御言葉」が下賜(かし)された。

 陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉
中シナ方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、
首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申伝えよ。(『南京戦史資料集Ⅱ』)
 
 この夜、南京陥落を待ちかねていた東京では、市民40万人が繰り出して南京陥落祝賀の大提灯行列をおこない、広い皇居の周囲は提灯をもつ大群衆で埋まった。

 南京の長江上流にも、大きい江心洲があり、そこから2、3百メートルの川幅しかなかったので、小舟や筏で簡単に渡る事ができた。12月14日、同洲に敗残兵多数がいるという情報を得て、「残敵掃蕩」に行った国崎支隊の歩兵41連隊(福山)の中隊は最初に投降した捕虜を利用して、残りの中国兵を降伏させることに成功した。その経緯を歩兵41連隊第12中隊「江心州敗残兵掃蕩に関する戦闘詳報」はこう記している。

  中隊長の計画は図にあたり、午後7時30分より続々兵器を持参し白旗を掲げて我が第一線に投  降 す。中隊長は兵器と捕虜を区別しこれが整理をおこなえり。
  これよりさき支隊長に捕虜の処分、兵器の指示を受けしに、武装解除後兵器は中隊とともに、捕   虜は後刻処置するをもってそれまで同島において自活せしめよとの命令あり。(中略)
  捕虜2350人(『南京戦史資料集』)

 2350人の捕虜をどのように「後刻処置」したのか、公刊された資料には記されていない。
しかし、第10軍司令官柳川平助から「国崎支隊は主力を持って浦口付近を占領し、残敵を捕捉撃滅すべし」という丁集団命令が出されていた(『南京戦史資料』)。 

入城式のための「残敵掃蕩」
巧妙心にはやる松井石根司令官と中シナ方面軍司令部が17日に入城式を強行することにしたため、日本軍は14日から17日にかけて、南京城の内外で全力をあげての徹底した「残敵掃蕩・殲滅」作戦を遂行することになった。
 大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有の盛事、敵の首都への皇軍の入城」の一大セレモニーの日に、式場はもちろん、銃内、城外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下が入城するため一時通行禁止となり」(牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、残虐される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。・・・・・
・・・・・・・・・
(12月14日)昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩にあたり、若い男子のほとんどの、大勢の人員が狩り出されて来る。靴づれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢のよい者、目つきの鋭い者、などよく検討して残した。昨日の21名とともに射殺する。(南京戦史資料集)

 ダーティン記者は、民間人の多くを殺害した、城内の「残的掃蕩」の様子をこう記す。

 南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕が  あるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選び出すのである。しかし、多くの場合、もちろん  軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見逃され、命拾い する場合もあった。
 南京掃討を始めてから3日間で、1万5千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。
 そのとき、さらに2万5千人がまだ市内に潜んでいると強調した。(中略)
 日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、民間人の死骸を毎日のよ うに目にした。老人の死体は路上にうつ伏せになっている事が多く、兵隊の気まぐれで、背後から  撃たれたことは明らかであった。(「ニューヨークタイムス」38年1月9日、『アメリカ関係資料編』)

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より

12月14日

(この日の記述はない。いろいろな事件への対応に追われて忙しかったのか、編集者がカットしたのか分かりません。)


「南京事件の日々」(ヴートリン著:大月書店)より

12月14日 火曜日

午前7時30分。昨夜、戸外は平穏だったが、人々の心の中には未知の危険に対する恐怖があった。夜明け前に再び城壁に激しい攻撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力部隊が進入する際に、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。時折銃声も聞こえた。・・・・・
 下関の方角でも砲声が聞こえたが、想像するに、それは、長江を渡って北の方へ逃走しようとしている中国兵がぎっしり乗り込んだ小さなサンパンを狙ったものであろう。かわいそうに、あの無情な砲撃では、逃げおおせる見込みはほとんどなかったどろう。・・・・・・・
・・・・・・
 昨夜、日本兵によって無理やり家から追い出された人の話や、さらには、今朝日本兵が働いた掠奪の話も耳に入ってくる。・・・・・・・ひどい目にあわせられた少女たちの話が耳に入ってきているが、確かめる機会がまだない。

 4時に安全区本部へ出向いた。委員長のラーベ氏とルイス・スマイスが日本軍の司令官と連絡をとろうと終日努力していたが、司令官はあすまで不在だ、と言われた。・・・・・・彼らは中国兵に対しては情け容赦なく、アメリカ人にはあまり関心がない。

・・・・・・・・
 貧しい人々の家に、そして、一部の裕福な家にも日本国旗がたくさん翻っていた。彼らは、日本国旗を作ってそれを掲げていれば、少しはましな扱いをしてもらえるだろうと考えてそうしたのだ。
 金陵女子文理学院に戻ってみると、学院の前の空き地は日本兵であふれ、校門のすぐ前にも兵士が8人ぐらいいた。彼らが立ち去るまで私は校門のところに立っていたが、そのおかげで、陳師傳を彼らから奪い返す事ができた。私がそこへ行かなかったら、彼らは彼を案内役として連れ去ったであろう。学院の使い走りの魏は今朝使いに出されたまま、まだ戻ってこない。連行されたのではないかと思う。・・・・・・・・
 今夜はみなとても怖がっているが、昨夜ほどのことはないだろうと思う。日本兵は目下、安全区の東にある地区へ移動しているようだ。・・・・・・・・

※血に染まる長江(「南京事件:笠原著)より
 佐々木到一の私記は、「軽装甲車中隊午前10時ごろ、まず下関に突進し、公岸に蝟集(いしゅう)しあるいは江上を逃れる敗敵を掃射して、無慮1万5千発の弾丸を撃ち尽した」と記している。同じ第16師団の歩兵第33連隊の「南京付近戦闘詳報」は、こう記している。

 午後2時30分、前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、舟筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。すなわち連隊は前衛及び速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること2時間、殲滅せし敵2千を下らざるものと判断す。(「南京戦史資料集」)・・・・・・・・・


「Imagine 9」【合同出版】より


基地をなくして
緑と海を取りもどしてい世界


 戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。

 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。

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2008年12月13日土曜日

1937年 12月13日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より

12月13日・・・日本軍、「残敵掃蕩」を開始
大殺戮の開始
「あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし」
 12月12日深夜に南京城を陥落させた中シナ方面軍は、翌13日朝から南京城内外の「残敵掃蕩」を開始した。各師団、各部隊に担当地域が割り当てられ、作戦は徹底、周到なものになった。第10軍(丁集団と称した)司令官柳川平助中将は、こう下令した。

    丁集団命令(丁集作命甲号外)  12月13日午前8時30分
1、〔丁〕集団は南京城内の敵を殲滅せんとす。
1、各兵団は城内に対し砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、これがため要すれば城内を焼却し、とくに敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す(『南京戦史資料集』)
・・・・・
 上海派遣軍第九師団の歩兵第六旅団長秋山・・少将は、「南京城内掃蕩要領」及び「掃蕩実施に関する注意」で次のことを指示した。
 1、遁走せる敵は、大部分便衣(べんい)に化せるものと判断せらるるをもって、その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す
 1、青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし(『南京戦史資料集』)
 「便衣」とは中国語で平服の意味で、「便衣兵」は軍服ではなく民間人の服を着ている「私服兵」「ゲリラ兵」をさした。「便衣兵」と認定するには武器携帯を確認する必要があったが、右のような指示は、一般の青壮年男子を敗残兵とみて「掃蕩」の対象にすることを意味した。しかも「逮捕監禁」といっても、日本軍は「捕虜はつくらぬ方針」で臨んだのである。

 13日の「残敵掃蕩」の模様を、・・・・南京に踏みとどまっていたダーティン記者はこう報じた。
月曜日(13日)いっぱい、市内の東部および北西地区で戦闘を続ける中国部隊があった。しかし、袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。(中略)
無力な中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。(中略)
 塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。ときには縛り上げた兵隊の集団に、戦車の砲口が向けられることも会った。最も一般的な処刑方法は、小銃での射殺であった。
年齢・性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲となった。日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖に駆られて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。(『ニューヨーク・タイムス』38年1月9日、『アメリカ関係資料編』)

 このような敗残兵にたいする集団殺戮は、長江沿いの下関地区一帯でもっとも大規模におこなわれた。・・・・・・・ハーグ陸戦条約にもとづけば、すでに軍隊の体をなさず、戦意を失っているそれらの敗残兵の大軍にたいしては、投降を勧告し、捕虜として処遇してやる必要があった。しかし、日本軍がおこなったのは殲滅=皆殺しだった。同地域の「残敵掃討作戦」を担当した第16師団の佐々木到一支隊長は、その日の「戦果」をこう記している。

 この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて2万以上の敵は解決されている筈である。(中略)
午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊をまとめつつ前進、和平門にいたる。
その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯がばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と10日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。
白米はもはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。(「佐々木到一少将私記」)
  

 日本軍だって食糧補給がなく現地徴発=略奪で食をつないでいるくらいだから、捕虜にしても食わせるものがない、だから始末=殺害してしまえ、ということである。・・・・・
 投降兵、敗残兵を捕虜として収容しないで、殺害せよというのは、第16師団の方針でもあった。師団長中島今朝吾中将は日記(12月13日)に「捕虜掃蕩」という項目で次のように記している。
 
 だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたる(れ)ども、千、5千、一万の群集となればこれが武装を解除することすらできず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるものの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末に困るので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、13日夕はトラックの大活動を要したり。(中略)
・・・・・・・・・・
この7、8千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、2百に分割したる後、適当の箇所に誘きて処理する予定なり。(『南京戦史資料集』)

 この13日に第16師団だけで、処理(処刑)して殺害しようとした投降兵、敗残兵は2万3千人を超える膨大なものとなった。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より

12月13日

日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領しただけで、まだ内部には踏み込んでいない。

本部に着くとすぐ、我々はたちどころに国際赤十字協会をつくりあげ、私が役員として加わった。ここしばらくはこの件を担当していた盟友マギーが会長だ。
 委員会のメンバー3人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよく分かった。砲撃が激しくなった時に医者も看護人も患者を放り出して逃げてしまったのだ。我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気を取りもどした。
 外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。入口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。

・・・・・・・・・ふと前方を見ると、ちょうど日本軍が向こうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は2日後に来ると言った。日本軍は北へ向かうので、我々はあわてて回れ右をして追い越して、中国軍の3部隊を見つけて武装解除し、助けることができた。全部で6百人。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。
 ・・・・・・・鉄道部のあたりでもう一部隊、4百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。
・・・・・・・・・
安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、逃げている中国軍が、安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、壊滅とまではいかなくても徹底的に攻撃されてしまうことになる。
 我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。・・・・・

 本部に戻ると、入口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江を渡って逃げようとして、逃げ遅れたのに違いない。我々に武器を渡したあと、彼らは安全区のどこかに姿を消した。・・・・・

 町をみまわってはじめて被害の大きさがよく分かった。百から2百メートルおきに死体が転がっている。調べてみると、市民の死体は背中を撃たれていた。多分逃げようとして後ろから撃たれたのだろう。
 日本軍は10人から20人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。ドイツ人のパン屋、キースリングのカフェも襲われた。・・・・中山路と太平路の店のほとんど全部。・・・・・・・
・・・・・・・・・・近所の家も皆こじ開けられ、略奪されていた。フォスターは、日本兵が数人で自分の自転車を盗もうとしているのを見つけた。我々を見ると日本兵は逃げ去った。日本のパトロール隊を呼び止め、この土地はアメリカのものだからと、略奪兵を追い払うように頼んだが、相手は笑うだけで取り合おうとしなかった。

 2百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばられ、連行されたのだ。我々が何を言ってもしょせんむだなのだ。
 元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、4百ないし5百人がしばられて連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたに違いない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。・・・・・・

 日本軍につかまらないうちにと、難民を125人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は近所の家から、14歳から15歳の娘が3人さらわれたといってきた。・・・・・・
・・・・・・・・・・・
 被害を報告するため、今朝6時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようとしない。日本人将校はみな多かれ少なかれ、ていねいで礼儀正しいが、兵隊の中には乱暴なものも大ぜいいる。そのくせ飛行機から宣伝ビラをまいているのだ。日本軍は中国人をひどい目にあわせはしないなどと書いて。

 絶望し、疲れきって我々は寧海路五号の本部に戻った。あちこちで人々が苦しんでいる。我々はめいめいの車で裁判所へ米袋を運んだ。ここでは数百人が飢えている。外交部の病院にいる医者や患者の食糧はいったいどうなっているのだろうか。本部の中庭には、何時間も前から重傷者が7人横たえられている。いずれ救急車で鼓楼病院に運ぶことができるだろう。なかに、脚を打たれた10歳くらいの少年がいた。この子は気丈にも一度も痛みを訴えなかった。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より

12月13日(月曜日)

 激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。・・・・・城内でもさかんに銃撃が行われた。実際、私はぐっすり眠りに付くこともなく、日本軍が中国軍を南京城外に追い出し、退却して行く中国軍を銃撃しているのであろう、と夢うつつに考えていた。何か事が起こるのではないかと、誰もが服を着たままだった。5時を少し回ったころに起き上がって、正門のところへ行ってみた。・・・・門衛が言うには、退却する兵士たちがいくつもの大集団をなして通過して行き、中には民間人の平服をせがむ兵士もいたそうだ。今朝、キャンパス内にたくさんの軍服が落ちているのが見つかった。近所の人たちがキャンパスに入りたがっているが、しかし、私たちとしては、キャンパスの中でなくても安全区にいれば安全なのだということ、また、安全区内であればどこでも同じくらい安全なのだということを彼らに分からせようと努力してきた。
 粥場、つまり炊き出し所で今朝初めて粥が出された。寄宿舎の人たちには、キャンパスにやってきた順番に粥を食べさせた。10時半には粥はすっかりなくなっていた。・・・・・


 午後4時、キャンパス西方の丘に何人かの日本兵がいるとの報告があった。確かめるために南山公寓に行ってみると、案の定、西山に数人の日本兵がいた。まもなく別の使用人が私を呼びに来て、家禽実験所に入ってきた兵士が鶏や鵞鳥(がちょう)を欲しがっている、と告げた。すぐに降りて行き、ここの鶏は売り物ではないことを身振り手振りで懸命に伝えると、兵士はすぐに立ち去った。たまたま礼儀をわきまえた兵士だった。・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・


 午後7時30分、粥場を運営している人たちから、米を貯蔵してある、校門の向かいの家屋に日本兵が入り込んでいるとの報告があった。フランシス・陳と二人でその兵士たちの責任者と交渉しようとしたが、どうにも埒があかなかった。門の衛兵は、こちらが顔を合わせるのも気後れするような荒くれだった。後にこのことで安全区の責任者のところに行き、あすその問題の解決に努力してもらうことにしたが、その取り扱いには慎重を期すべきだとする点では、みなの意見が一致した。

 今夜、南京では、電気・水道・電話・電信・市の公報・無線通信すべてが止まっている。私たちは、透過不可能な地帯に隔てられて全く孤立している。あすアメリカ砲艦パナイ号から呉博士と、それにニューヨークにも無線電報を打つ事にしよう。金陵女子文理学院に関しては、これまでのところ職員も建物もどうにか無事だが、これから先のことについては自信がない。みんなひどく疲れている。
私たちはほとんどいつも、全身染み込んだ疲労に耐え切れずに、太くて低いうめき声を発している。8今夜は武装を解いた兵士が安全区に大ぜいいる。城内で捕らえられた兵士がいるかどうかは聞いていない。)

「Imagine 9」解説【合同出版】より


武器を使わせない世界

 生物・化学兵器は、国際条約ですでに全面禁止されています。もちろん禁止しても、隠れて開発する国や人々が出てくる可能性はあります。その時には国際機関が査察を行い、科学技術を用いて調査し、法に従って解決すべきです。

 ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もちこませない」という「非核三原則」をもっています。
 原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみを誰にも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。

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2008年12月12日金曜日

1937年 12月12日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波書店)より

 12日、戦勝報道にわいた日本国内では、官庁と教育界、マスコミ、ジャーナリズムの肝いりで、南京陥落祝賀行事が繰り広げられた。同日の新聞は「きょう帝都は歓喜のどよめき/そらッ!南京陥落だ!/宮城前に奉祝の群れ/讃えよ世界最大の誇り」(『東京日日新聞』)と報じた。宮城前には、朝から東京外国語学校の生徒700名が校長に引率されて日の丸を手に祝賀に訪れたのをはじめ、東京都下の学生の奉祝パレードがおこなわれ、さらに一般の群衆にまじって、校長・教師の先導で東京府内の各学校の生徒たちが終日宮城を訪れ、戦勝祝賀の行進をしていった。
 東京府の府庁舎の空には「祝南京陥落」のアドバルーンが上げられ、銀座などの大通り商店街に日の丸、旭日旗、そして「南京陥落」と書いた幟(のぼり)が飾られた。・・・・・・・

 12日、南京では夜明けとともにかつてなく激烈な日本軍の攻撃が開始された。完全に南京の制空権を掌握していた日本軍機は、中国軍陣地に容赦ない爆撃をくわえ、南京城壁を包囲するかたちで陣地を据えた日本軍の砲列は、城壁と城内に向けて猛烈な砲火を浴びせた。
 南京城の南の中華門外の重要拠点である雨花台陣地には、第六師団(熊本)と第114師団(宇都宮)が猛攻をくわえ、正午までに同陣地を占領した。第六師団は雨花台の南京城内が一望できる地点に砲列を敷き、中華門に集中砲火をくわえ、さらに城内にも砲撃を撃ちこむ。このため、南京の中心街に砲弾が落ち、硝煙が街をおおい、各所に火の手があがった。雨花台の北端に進出した第11師団(善通寺)は、中華門から東の雨花門にかけての城壁に集中攻撃を開始した。・・・・・・・

 12日、日本海軍機、アメリカ砲艦パナイ号を撃沈。南京防衛軍司令長官 唐 生智、撤退命令を出す。深夜、南京陥落。



「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月12日
 日本軍はすんなりと占領したのではないかという私の予想は見事に外れた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうてい無理だ。朝の8時に、再び砲撃が始まった。

 11時に唐将軍の委任により龍上校と周上校がやってきた。3日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。
 休戦協定の内容はーこの3日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。我々は、まずアメリカ大使宛の電報、次に調停を依頼する唐将軍の手紙を作成し、最後に軍使に関する取り決めをまとめあげた。軍使は、白旗に守られて、前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。・・・・・夕方6時頃、ようやく龍が姿を見せる。龍は言った。「残念ながら、せっかくの努力が水の泡でした。すでに日本軍は城内の前まで攻めてきているため、時すでに遅し、とのことです」・・・・・

 18時半・・・紫金山の大砲はひっきりなしにとどろいている。あたり一面、閃光と轟音。突然、山がすっぽり炎につつまれた。どこだか分からないが、家や火薬庫が火事になったのだ。紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。南部から逃げてくる人たちが、安全区を通って家へ急ぐのが見える。その後から中国軍部隊がぞろぞろ続いている。日本軍に追われていると言っているが、そんなはずはない。一番後ろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのを見れば分かる。
 この部隊は中華門、あるいは光華門で手ひどくやられ、パニック状態で逃げてきた事がわかった。次第に落ち着き、最初は気が狂ったように逃げていたのだが、いつしかのんびりとした行進にかわっていたというわけだ。それはともかくとして、日本軍がもう城門の前まで攻めてきていること、したがって最終戦が目前に迫っていることは、もはや疑いようがない。・・・・・
・・・・

 20時・・・南の空が真っ赤だ。庭の防空壕は、避難してきた人たちでふたつともあふれそうになっている。ふたつある門の両方でノックの音がする。中に入れてもらおうと、女の人や子どもたちが必死で訴えている。ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げ込んできた男たちもいる。
 これ以上聞いていられなくなって、私は門を二つとも開けた。防空壕はすでにいっぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。ほとんどの人はふとんを持ってきている。庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で寝ようというちゃっかりした連中もいる。ここが一番安全だと思っているのだ。

 榴弾がうなる。爆弾はますます密に間近に降ってくる。南の方角は一面火の海だ。轟音がやまない。私は鉄のヘルメットをかぶった。忠実な韓のちぢれ毛の頭にものせてやった。我々は防空壕に入らないからだ。入ろうとしてもどっちみち場所はないが。番犬のように庭を見回り、こちらで叱りつけ、あちらでなだめる。しまいにはみな言うことを聞くようになった。・・・・・
・・・・・

 真夜中になってようやく静かになった。私はベッドに横たわった。北部では、交通部の立派な建物が燃えている。

 ふしぶしが痛い。48時間というもの、寝る間もなかったのだ。うちの難民たちも床につく。事務所には30人、石炭庫に3人、使用人用の便所に女の人と子どもが8人、残りの100人以上が防空壕か外、つまり庭や敷石の上や中庭で寝ている!!・・・・

 夜の9時に龍が内密に教えてくれたところによると、唐将軍の命により、中国軍は今夜9時から10時の間に撤退することになっているという。後から聞いたのだが、唐将軍は8時には自分の部隊を置いて船で浦口に逃げたという。
 それから、龍は言った。「私と周の二人が負傷者の面倒をみるために残されました。是非力を貸していただきたいんです」本部の金庫に預けた3万ドルは、このための資金だという。私はこれをありがたく受け取り、協力を約束した。いまだ何の手当ても受けていない人たちの悲惨な状況といったら、とうてい言葉でいいあらわせるものではない。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月12日 日曜日
夜8時30分、このメモを書いているが、市の南西地域で激しい砲声がとどろいている。絶えず窓ガラスが震動するので、用心のため窓際から離れている。一日中激しい爆撃が続いた。・・・・
・・・・・・・
今や日本軍機は意のままに飛来して爆弾をごっそり投下しているが、高射砲や中国軍機による反撃は何もない。犠牲がほとんど効果をあげていないとすれば、城壁外側のすべての家屋、それに内側の多くの家屋をも焼き払ったことは、とんでもない誤算であったと確信する。・・・・
・・・・・・・・・

 あいかわらず避難民がやってくる。現在、三つの建物はすでにふさがっており、文科棟への収容を開始している。あいにく、中国赤十字会が運営することになっている粥場いまだに開業していないので、食料を持ってこなかった避難民にとっては最悪の状態が続いている。・・・・・
・・・・・・・・・
 午後5時、英語による礼拝に出かけた時、紫金山の上の部分三分の一のところを取り巻くように帯状に火の手があがっているのが見えた。どのようにして火災が発生したのかは聞いていないが、松の木がたくさん焼失したことは確かだ。

 夜9時から10時にかけて陳さんと二人でキャンパスを巡回した。洗濯夫の胡さんと、彼の近所に住んでいる農民の朱さんは二人とも、まだ寝ていなかった。今夜彼らは、撤退して行く中国兵を怖がっている。というのも、家族の中に若い娘がいるからだ。今夜、城内では眠れる人はほとんどいないだろう。市の南部と、それに下関が依然として燃えているのが南山公寓から見えた。・・・・・・


「Imagine 9」解説【合同出版】より


 武器を使わせない世界

 世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。
 たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。
 また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。

 広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。
 このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。
 いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう。


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2008年12月11日木曜日

1937年 12月11日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
 誤報におどる国民
 12月11日午後、南京城の水西門・漢中門の西側の湿地帯で、一中隊から小隊長二人の戦死を出すほど苦戦をしいられていた第六師団(熊本・師団長 谷 寿夫中将)の歩兵第45連隊の前田吉彦少尉は、歩兵大36旅団無線から伝えられたラジオ・ニュースを知って驚いた。日本の内地のいたるところで、南京陥落の捷報に祝賀の万歳がわきおこり、提灯行列がくり出されたというのである。
 「このニュースを聞いたこの現時点で南京の守備軍は以前頑強に抵抗を続けあり、上空には高射砲弾幕が絶え間なく、城壁付近また砲煙におおわれ銃砲声の間断なきを聞くというのはいったいどうしたわけなのか?いったい陥落なんて誰が言い出したデマなんだろう」と陣中日記(12月11日)に書いている。(「前田吉彦少尉日記」『南京戦史資料集』)。
 日本国内ではこの日、「皇軍勇躍南京へ入城/敵首都城頭に歴史的日章旗・・・・・・」と各新聞がいっせいに大々的な南京陥落報道を行った。この日の夜、東京では祝賀提灯行列がくりだし、国会議事堂にイルミネーションが点じられた。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月11日
8時・・・水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。次の攻撃に備えているのだ。・・・・・
 爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より「安全区」を信頼しているのだ。ここはとっくに「セーフ」でもなんでもないのだが。いまだに武装した兵士たちが居座っているのだから。いくら追い出そうとしてもむだだった。これでは、安全区からはすでに軍隊を撤退していると日本軍にいえないじゃないか。

9時・・・ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後ろだ。12人の死者とおよそ12人の負傷者。・・・・・ホテルにとまっていた車が二台炎上。さらにもう一発、榴弾(今度は中学校)。死者13人。軍隊が出て行かないという苦情があとをたたない。・・・・・
・・・・・・
 けが人が大ぜい中山路に運ばれていく。砂袋・引き倒した木、有刺鉄線の柵ででバリケードを作っているが、こんなもの、戦車がくればひとたまりもないだろう。鼓楼病院の前で例の将校に砦を築くように頼んだが、相手は穏やかな物腰ながら断固拒否した。病院から龍に電話で報告すると、早速唐将軍に問い合わせるとの返事。

18時・・・記者会見。出席者は、報道陣のほかは委員会のメンバーのみ。ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦パナイで発ったのだ。・・・・・・
・・・・・・・・
 午後8時、韓を呼び、家族を連れて寧海路五号の委員会本部に引っ越すようにすすめた。
あそこの防空壕のほうが安全だ。しかもわが家は、今日本軍から猛攻撃されている五台山のすぐそばなのだ。私もいずれ引っ越そうかと考えている。夜は猛攻撃をうけるだろう。それなのに韓はまだ家を出て行こうとはしない。
   

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月11日
 何日間も終日終夜、城外ーとくに南西方向ーだけでなく城内にも激しい砲撃が加えられた。この小さなくぼ地では、砲声はそれほど大きくなかったし、恐怖を覚えるほどではなかったが、市街は悲惨だった。ジョン・マギーの情報では、福昌ホテルや首都劇場の前、さらにまた、新街口広場にはたくさんの死骸が横たわっているとのこと。市の南東部でしていた激しい砲撃も、夜になるとやんだようだった。マギーは、破壊をまぬがれた、下関の一部地域もきっと今夜焼き払われるだろう、とも言った。こうした破壊や加害に対し、我慢できないほどの激しい憤りがこみ上げてくる。・・・・
 相変わらず避難民がキャンパスに入ってくる。正午には850人ほどになった。その上、三家族が東の中庭に、そして、隣保館には約120人の避難民が生活している。北側の二つの寄宿舎の間にむしろの小屋を造り、知り合いの人にそこで食料品を売ってもらうつもりだ。強く要求しているのにもかかわらず、正門の外に設置された粥(かゆ)場はいまだに開業していない。避難民たちは、安全区について無邪気な考えを持っており、空襲の最中に道路の真ん中に突っ立っていても何の不都合もないのだと考えているようだ。今夜の記者会見で私たちは、そういう場合は家の中に入っているか、そうでなければ塀の陰に隠れているよう避難民に促すことを求められた。・・・・・
・・・・・・・・
 今夜の記者会見には20人ーすべて外国人ーが出席した。4人の新聞記者のほかは、ドイツ人二人とロシア人青年一人を除けば、あとはすべて宣教師だった。サール・ベイツから、中国軍の指揮系統が崩壊し始めているといういささか憂鬱な報告があった。下級将校が防衛司令長官の命令に従わず、いまだに兵士や大砲が安全区内に残されている。実際、今朝私は、キャンパスの敷地内で塹壕が掘られているのを発見した。
 これを書いている間にも、市の南東と南西の方角で激しい爆撃音と機関銃の音が聞こえる。人々の予想では、敵は三日のうちには城内に入るだろうが、その間にはすさまじい破棄をおこなうだろう、というのだ。
 たしか、明日は日曜日だ。今では毎日が同じ調子で明け暮れる。・・・・・・・
・・・・・・・・・・

「Imagine 9」【合同出版】の解説より
 

おたがいに戦争しないと

約束した世界


 地球規模では、世界各国では軍隊を減らす一方、国連に「緊急平和部隊」をつくり、紛争や人権侵害を防止しようという提案がなされています。また、イタリア憲法11条は、日本国憲法9条と同様に「戦争の放棄」をうたっていますが、そこには「国どうしの平和的関係のためには、国の主権が制限される場合もある」と定められています。つまり、国際的なルールや制度によって平和を保つ事が重要であり、「自国を守るため」といって勝手な行動をとることは許されないということです。
 グローバル化の時代、人々は国境を越えて行き来し、経済や社会はつながりあっています。安全を自国の軍事力で守ろうとすることよりも、国どうしで約束をつくり、国際的に平和のシステムをつくることの方が、現実的に必要とされてきているのです。

2008年12月10日水曜日

1937年 12月10日 南京

12月10日、中シナ方面軍参謀副長武藤章大佐と同参謀中山寧人(やすと)少佐は、通訳官をともなって中山門ー句容街道において午後一時まで投降勧告の「回答」を待っていたが、中国側の軍使は来なかった。・・・・こうして10日の午後から12日にかけて、昼夜を分かたず壮絶な南京城攻防戦が展開されることになった。「南京事件」(笠原著:岩波新書)より


「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月10日
 不穏な夜だった。昨日の夜8時から明け方の4時ごろまで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。昨日の朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやいうところで交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退する事ができたという。今朝早く分かったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜、南京は日本軍の手に落ちるだろう、誰もがそう思っている。・・・・・・
・・・・・・・
 
 東部では、決戦の準備が始まったらしい。大型の大砲の音がする。同時に空襲も。
 このままでは、安全区も爆撃されてしまう。ということは、血の海になるということだ。道路は人であふれかえっているのだから。ああ、日本からの返事さえ、日本軍の承諾さえあれば!・・・
・・・・・・・
 今夜のうちに南京が陥落しても少しも不思議ではない、というのが大方の意見だ。とはいっても、今のところはまだその気配はないが、おもてはひっそり静まり返っている。婦人や子どもをふくめ、たくさんの難民がまたもや通りで眠っている。

 深夜2時半
 服を着たまま横になる。夜中の二時半、機関銃の射撃とともにすさまじい砲撃が始まった。榴弾が屋根の上をヒューヒューうなり始めたので、韓一家と使用人たちを防空壕へ行かせた。私はヘルメットをかぶった。南東の方角で大火事が起こった。火は何時間も燃え続け、あたりを赤々と照らし出している。家中の窓ガラスがふるえ、数秒ごとに規則正しく打ち込んでくる砲弾の轟音で家がふるえる。五台山の高射砲砲兵隊は狙撃され、応戦している。わが家はこの射線上にあるのだ。南部と西部も砲撃されている。ものすごい騒音にもいくらか慣れて、再び床に就いた、というより、うとうとした。
こんなありさまでは眠ろうにも眠れるものではない。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
 午前7時30分の時点では、爆弾はたぶん夜通し続くと思っていたが、ときおり街路を行き交う人の足音が聞こえる以外は、奇妙なくらい静かだった。朝7時に警戒警報が鳴ったが、いまだに飛行機の飛来はない。今は機関銃の銃声がはるか南の方角に聞こえる。依然として暖かく、晴天が続いている。
・・・・(前述のことを取り消さなければならない。朝食に行くと、ほかの人たちはみな、朝4時ごろまで夜通し銃声が聞こえたことを話題にしていた。どうやら、私のほうがすっかり疲れてしまって、物音は何も聞いていなかったようだ。)
 引き続き今朝も難民がやってくる。かつての教職員宿舎はほぼ満員になっているし、中央棟も満員になりかけている。・・・・
・・・・・・・・・
 安全区の旗を掲揚するのを手伝うため、午後、F・陳と一緒に西の境界まで行った。希望としては、明日までにすべての中国軍に出て行ってもらい、その旨の電報を日中双方に送る事ができれば、と思う。外出中に激しい空襲があり、何発かの爆弾が神学校の西に投下された。私は、落下する爆弾のヒューッという音や対空射撃の閃光を初めて体験した。私たちは飛行機が頭上から去るまで塚の間に身を隠していた。
 激しい撃ち合いがほとんど終日続いていた。日本軍が光華門のすぐ近くまで迫っているそうだ。市外周辺のあちこちでほとんど一日中火災が目撃されている。今夜は西の空が真っ赤に染まっている。
・・・・・・・・
 今夜の記者会見では、南京が引き渡されたあとの難民の問題が提起された。この先数ヶ月間、誰が彼らの面倒を見るのだろうか。
 城外に取り残された12歳の少女の母親は、ほとんど一日中校門の外に立ちつくし、群衆の中に娘がいないかと食い入るように見ていた。


「Imagine 9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと

約束した世界


 「相手が攻めてくるから、準備しなければならない」
 軍隊は、いつもそう言って大きくなってきました。でも、こちらが準備することで、相手はもっと不安に感じ、さらに軍備を増やしていきます。その結果、安全になるどころか、互いに危険がどんどん増えていきます。
 このような競争や衝突を避けるため、国々は「お互いに攻めない」という約束を結ぶ事ができます。
とくに、地域の中でこのような取り決めを行っているところは多く、ヨーロッパには「欧州安全保障・協力機構(OSCE)」が、東南アジアには「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が、アフリカには「アフリカ聯合(AU)」が地域の平和のための枠組みとして存在します。

 日本を取り囲む東北アジア地域には、このような枠組みはありません。朝鮮半島は南と北に分断されており、中国と台湾は軍事的ににらみ合っています。日本では多くの人が「北朝鮮が怖い」と感じていますが、逆に朝鮮半島や中国の人たちの間では「日本の軍事化が怖い」という感情が高まっています。
 NGOは、「東北アジア地域に平和メカニズムをつくろう」と提案しています。
 その一つのアイデアは、東北アジアに「非核地帯」をつくることです。
日本や韓国、北朝鮮は核を持たないことを誓い、一方でアメリカ、中国、ロシアなどの核保有国はこれらの国に「核による攻撃や脅しをしない」という法的義務を負うような条約をつくるのです。すでにこのような非核地帯条約は南半球のほとんどにできており、最近では中央アジアにもできました。
 また、日本とロシアの間で争いになっている「北方領土」周辺に平和地帯をつくるとか、中国と台湾それぞれが軍備を減らし平和交流を増やすといった提案がなされています。

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2008年12月9日火曜日

1937年 12月9日 南京

9日の夕方、「日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜(むこ)の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってし、これを犯さず」という大日本陸軍総司令官松井石根名の南京防衛軍に対する「投降勧告文」(日本語と中国語)を日本軍機から城内8ヶ所に投下した。(「南京事件」:笠原著)より


「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月9日
 いまだに米を運び込む作業が終わらない。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。苦力(クーリー)がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。委員会が面倒を見るだろう。・・・・
・・・・
 さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながら言うところによると、はじめ歩哨はだめだといったが、結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ40人いた歩哨のうち、誰ひとり生きてはいなかったという。

 燃え盛る下関を通り抜けての帰り道は何ともすさまじく、この世のものとも思われない。安全区に関する記者会見が終わる直前、夜の7時にたどり着き、どうにか顔だけは出せた。そうこうしているうちに、日本軍は城門の前まできているとのことだ。あるいはその手前に。中華門と光華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区中に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える。看護する人はいない。医者も看護士も衛生隊も、もうここにはいないのだ。鼓楼病院だけが、使命感に燃えるアメリカ人医師たちのよってどうにか持ちこたえている。
安全区の通りは大きな包みを背負った難民であふれかえっている。旧交通部(兵器局)は難民のために開放され、たちまちいっぱいになった。われわれは部屋を2つ立ち入り禁止にした。武器と弾薬をみつけたからだ。難民の中には脱走兵がいて、軍服と武器を差し出した。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)
12月9日(木曜日)
 今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らし出している。午後はほとんど、北西以外のすべての方角からもうもうと煙が立ち昇っていた。中国軍のねらいは、すべての障害物、たとえば銃撃の邪魔になる物や、日本兵が待ち伏せしたり身を守るのに役立つ物を取り除くことなのだ。AP特派員のマグダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけているところを目撃したと言っている。この2日間に大挙して城内に避難してきたのは、これら焼け出された人たちである。こうした作戦が仮に日本軍の入城を半日か一日遅らせるとしても、人々にこれほどの苦難を与えてまでもする価値があるのか疑問だ。・・・・・
・・・・・・
 今夜、記者会見の最中に大きな砲弾が新街口に落下し、みなびっくりして椅子から飛び上がった。
青ざめた人もいたのではないかと思う。これは、私たちが初めて体験した砲撃だった。今日は飛行機の爆音がただの一時間も絶えることはなかった。・・・・・今後、記者会見はなくなるかもしれない。

 避難民たちの話は心痛むものだ。今日、ある女性がさめざめと泣きながら私のところへやってきた。
話を聞くと、用事があって南京にきたのだが、彼女の12歳の娘は城門を通してもらえず、彼女の方も、城門の外にいる娘のところへ行かせてもらえない、というのだ。娘は、戦闘が最も激しく行われている光華門のあたりにいる。
 三汊河からやってきた女性は、気が狂ったように母親を捜し回っていた。キャンパスには母親がいないことがわかったので、私たちは彼女を聖経師資培訓学校(聖書講師養成学校)へ行かせた。
 明日は日本軍が全力を挙げて城内突入を図るだろうが、その場合には、おそらく、激しい戦闘の一日になるだろう。(のちに福田から聞いた話では、実際、前衛部隊は12月10日に光華門に達したが、撃退されたそうだ。)


「Imagine 9」【合同出版】より



武器をつくったり


売ったりしない世界



 世界では今、武器貿易を取り締まるための「武器貿易条約(ATT)」をつくることが提案されています。世界的な市民運動の結果、このような条約をつくろうということが2006年に国連総会で決議され、そのための準備が始まっています。
 しかし、世界的には武器をつくること自体、また、武器を売ること自体が禁止されているわけではありません。提案されている条約も、武器貿易を登録制にしようというものであり、武器貿易の全面禁止にはほど遠い内容です。
 
 日本は、憲法9条の下で「武器輸出を原則的に行わない」という立場をとっています(武器輸出三原則)。このような日本の立場は、世界でも珍しい先進的なものです。
 しかし、一方で、日本はアメリカと共同でミサイル防衛の兵器開発を進めており、この分野は武器輸出禁止の「例外」として認めています。
ミサイル開発に携わる企業からは、武器輸出を認めるよう求める声が高まっています。「日本は将来、憲法9条をなくして、ハイテク技術を駆使して武器をつくり世界に売り始めるのではないか」と心配する人も増えてきています。
 私たちは、武器を輸出する国になるのか、それとも「武器の禁止」を世界に輸出する国になるのか、分かれ道にいます。

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2008年12月8日月曜日

1937年 12月8日 南京

いつもの日記に入る前に、1941年の今日12月8日はどんな日であったのでしょうか?
「日中戦争が泥沼化する中で日本が行った仏印進駐(1939年、北部/41年、南部)などによって、アメリカは1941年、石油・鉄くずなどの輸出を禁止し、日米間の外交は行き詰まりました。そこで日本軍は南進つまり東南アジアを侵略し、油田地帯を占領することで石油を確保しようと考えましたが、それは対米英開戦を意味し、マレー半島侵攻とハワイ真珠湾攻撃の同時作戦を決定したのでした。・・・
12月8日未明、英領マラヤのコタバルに日本軍先遣隊が上陸を開始、イギリス軍との戦闘が始まりました。」【アジア・フォーラム横浜ニュースレター】より) そして、真珠湾を奇襲するとともに、アメリカ・イギリス・オランダに宣戦を布告し、アジア・太平洋戦争に突入しました。その突入した日が今日、12月8日。テレビ・新聞などのメディアはほとんどこのことを報道しないでしょう。故意に無視していると思う。
 
8日・・・日本軍、南京城包囲を完成。
「南京の真実」(ラーベ著:講談社より)
 今日の午後、ボーイの張がかみさんを鼓楼病院から連れ帰った。まだすっかりよくなったわけではないが、時が時だけにどうしても子どものそばにいたいというのだ。残りの家族が40マイルも離れたところにいるといって、張は嘆いた。病気の曹の仕事を一部、引き受けていたので迎えに行く時間がなかったのだという。だれもそれを私に言ってくれなかった。だから、張の身内はとっくに全員ここに来ているとばかり思っていたのだ。かわいそうだがもう手遅れだ。
・・・・・・・・・・
 何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日が暮れていく中、この寒空に、家の蔭や路上で横になっている。我々は全力をあげて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにも見えないのだ。城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼き出された人たちが次々と送られてくる。我々はさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実があがらないからだ。・・・・
・・・・

我々はみなお互い絶望しかけている。中国軍の司令部にはほとほと手を焼く。せっかく揚げた安全区の旗をまたもや全部持っていかれてしまった。安全区は縮小されることになったというのだ。大砲や堡
塁(ほうるい)のために予備の場所がいるからだという。どうするんだ?そうなったら、何もかも水の泡になってしまうかもしれないじゃないか。日本軍にかぎつけられたらおしまいだ。おかまいなしに爆撃するだろう。そうなったら、安全区どころか場合によっては大変な危険区になってしまう。明日の朝早く、境界をもう一度調べてみなければ。・・・・・・・・



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月8日(水)
今朝9時、避難民受け入れの訓練を行い、その要領を把握した。・・・地域住民は寄宿舎に入ってもらい、無錫(むしゃく)などの都市からの避難民は中央棟に収容することにしている。地域住民の世帯には隣保館で生活することを許可しており、そこは、すでにかなりいっぱいになっている。・・・・
 今夜は、初めての避難民を受け入れている。彼女たちが聞かせてくれる話は、何と心の痛む話だろう。中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。
 赤色の丸に十字の「安全区」の旗がきょう掲揚された。
 今夜の私は、容貌は60歳、気持ちは80歳だ。避難民の受け入れを手伝いたかったので、記者会見には参加しなかった。・・・・
・・・・

 アメリカ大使館の通達には次のように書かれている。「諸外国の外交官の撤去にともない、残留アメリカ大使館員は今晩アメリカ砲艦パナイ号に乗船し、同艦内に臨時の大使館事務所を開設する。大使館員は、明日の日中は陸上の大使館に戻るものとする。下関門閉門の情報が入った場合には、パナイ号は三汊河の現在の碇泊(ていはく)地点から運行を開始する。南京城壁の乗り越えに用いるロープは、M・Sベイツ博士に保管してもらうことになっている・・・・。」
 

「Imagine 9」【合同出版】より


武器をつくったり

売ったりしない世界


「武器はどこから来るのでしょうか?
ヨーロッパやアメリカから来るのです。彼らは、武器貿易の達人です。アフリカの私たちは戦う必要も、殺しあう必要もないのです。だから、憲法9条は、アフリカにこそ導入されるべきだと思います。9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ってこさせないようにする事ができます。」

 これは、2007年1月にナイロビで開催された「世界社会フォーラム」で、ケニアの青年が語った言葉です。アフリカには、スーダンやソマリアなど、数多くの内戦に苦しんでいます。子どもたちまでもが兵士とさせられ、武器をもたされ、傷つき、多くの民間人が命を落としています。
 世界でもっとも多く武器を輸出している国々は、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、中国といった大国です。これらの国々から、中東、アジア、アフリカ、中南米へと、武器が売られています。紛争で使われる小型武器は、世界中に6億個以上あり、さらに毎年800万個がつくられていると言われています。これらの武器によって、世界で年間50万人の死者が出ていると推定されており、これは「一分で一人」をいう計算になります(「コントロール・アームズ・キャンペーン」による)。

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2008年12月7日日曜日

1937年 12月7日 南京

7日・・・蒋介石、南京脱出。中シナ方面軍、「南京城の攻略および入城に関する注意事項」などを下達。中国軍、「清野作戦」を展開(~9日)【「南京事件」(笠原著:岩波新書)より】

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月7日
 昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい5時ごろ、飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。それが蒋介石委員長の別れの挨拶だった。昨日の午後会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で!
 後に残されたのは、貧しい人たちだけ。それから、その人と共に安全区に残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。
 そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具を抱えて逃げ込んでくる。と言ってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。
 これから文字通りの無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みな共同宿舎で寝泊りし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。受け取るはずの食糧のうち、ここに運び入れる事ができたのはたった4分の1だ。なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に徴発されてしまった。
 今日の午前中に、軍にトラックを2台取り上げられた。これまでに一台しか取り返していない。もう一台、塩が2トン積んであったほうはいまだ返ってこない。いまゆくえを探しているところだ。最高司令部から、たった今、さらに2万ドル、私のところに払い込まれた。約束の10万ドルの代わりに、全部で4万ドル受け取ったことになる。これで満足しなければならないのだろう。寄金が分割払いされていることなど、おそらく蒋介石は知らないだろうから文句も言えまい。
 明日、城門が閉められ、今まで残っていたアメリカ人も船に乗る。・・・・・・・
・・・・・・
 18時記者会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。残りはもう発ったのだろう。
 門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂がひろまり、中華門の近くに住む人たちはパニックに陥っている。何百と言う家族が安全区に押しよせているが、こんなに暗くてはもう泊まるところが見つからない。凍え(こごえ)、泣きながら、女の人や子どもたちがシーツの包みに腰かけて、寝場所を探しに行った夫や父親の帰りを待っている。今日、2117袋、米を買ってきた。明日もまた門を通れるかどうかは分からない。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月7日
 今朝7時、下関の方角から砲声が聞こえてきた。真っ先に頭に浮かんだのは、日本の艦船が到着し、いよいよ砲撃が開始されたのでは、ということだった。さいわい、その推測ははずれたが、本当のところは何なのか、さっぱりわからなかった。
 キャンパスでは引き続き備品を特別室(3階)に移している。今朝も男性たちが、中央棟と理科棟、それに実験学校の作業をしている。それ以外の男性は寄宿舎の掃除をしている。事務助手はポスターや案内標識を書き、一方、事務室では戴師傳〔師傳は技能者への敬称〕が案内係用の腕章を作製している。避難民用に割り当てられた八つの建物に収容できる推計人数をまとめるところだ。2750人(一人当たり16平方フィートを基準とした計算)になるが、それは、私たちが対処しなければならない、ほぼ精一杯の人数だ。(後日、実際には六つの建物に一万人以上を収容した。)・・・・
・・・・・
 城内にはいろいろな噂が飛び交っている。何千人という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのであった。
 記者会見には中国人3人だけが出席した。彼ら以外の者は多忙を極めているか、そうでなければ南京を離れてしまったのだ。〔蒋介石〕総統は、今日午前4時に南京をあとにしたそうだ。2,3日のうちに南京が陥落すると予想する者もいれば、長期にわたって包囲攻撃が加えられると考える者いる。孝陵衛が燃えているそうだ。軍の作戦により放火されたのである。国営公園でたくさんの樹木が伐採されたー同じ作戦によりーとの報告もいくつかあった。淳化鎮に300発の爆弾が落とされたそうだ。
 おそい夕食のあと隣保館に出向いた。今夜は近隣の何世帯かの人たちがきていた。その中には家が取り壊されることになっている胡大媽(大媽は年長の女性への尊称)や、彼女の息子たちとその連れ合いもいた。綴れ織商の呉さん一家やその他の世帯の人たちもいた。ある高齢の教師(78歳)が校門の前で立ち止まった。彼が言うには、家から追い出されたとのこと。年老いた妻は、家から離れたくないと言うので、彼だけがやってきたのだ。今夜は南京でたくさんの悲惨な事件が起こり、大勢の人々が空腹を抱え、寒さに震えている。


(Imagine 9解説)【合同出版】より 

 9条をつかって、

 戦争のない世界をつくる。


 中米の国・コスタリカも平和憲法をもっています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。
軍隊の廃止によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
 ところが、2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクへの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ!」
 裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法はただ単に守ればよいものではありません。平和憲法は人々のもの。人々が使うためにあるのです」

 ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。
 スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたっています。
 こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくる事ができます。「イマジン 9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、皆さんと考えたいと思います。



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2008年12月6日土曜日

1937年 12月6日 南京

6日:日本軍、南京外囲防御陣地をほぼ占領。
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月6日
 ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗り込んだ。残りの人々はいつでも乗り込めるよう準備している。我々の仲間だけが拒否した。これは、絶対に内緒だが、と言ってローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和が来るといい。・・・・・・・
 黄上校との話し合いは忘れる事ができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れると言うのだ。
 「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか、あなた方が安全区を設けさえしなかったら、今底に逃げ込もうとしている連中は、わが兵士たちの役に立てたのですぞ!」
 これほどまでに言語道断なせりふがあるだろうか。二の句がつげない!しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている!ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄をつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?


 それから軍人や軍の施設を安全区から引き上げる時期について聞いた。最後のぎりぎりの瞬間、それよりも一分たりとも前ではない、というのがやつの返事だ。要するに、土壇場まで、市街戦が繰り広げられるその瞬間までいすわろうという肚(はら)なんだ!
 きちんと準備するには、米や小麦粉、塩、燃料、医薬品、炊事道具、あと、なんだかしらないがとにかくいるもの全部、日本軍が攻めてくる前に用意しておかねばならない。医者、救護員、汚物処理、埋葬、警察、そうだ、場合によっては警察の代わりまでやる覚悟がいる。軍隊が退却すれば十中八九警察もいなくなるだろう。そうなったら、治安が乱れる恐れがある。こういうこともみなその時になってからやれと言うのか?
 なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつにとっちゃ、数十万という同胞の命なんかどうでもいいんだ。そうか。貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないと言うわけか?・・・・・・・・・・


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)
12月6日(月)
 今日は寒さが厳しいけれど、幸いなことに、日なたは暖かい。十分な夜具を持っていない避難民は、さぞつらい思いをしているに違いない。雪や雨が降りでもしたら、その苦難はどんなに増すことだろう。神様、この冬の苦難はどんなに厳しいものになるでしょう.UP(ママ)特派員のマグダニエルが今日話してくれたところでは、昨日句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、その後を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦(1)」だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。明孝陵に通じる道路沿いにあった竹林などの美しい樹木はすでに切り倒されていたそうだ。春に見たプラムや桃の花の美しい眺めは忘れる事ができない。
 む湖でのイギリス船爆撃(2)のニュースを聞き、呉博士が漢口に着いたかどうか知りたくなった。
 キャンパスでは終日みんながさかんに活動していた。陳さんと李さんは、職員に指示して文科棟のすべての備品を屋根裏に移動させている。文科棟には、今のところ200人(のちに判明したところでは1000人)の避難民を収容する余地がある。屋根裏が広くてありがたい。今夜中に文科棟と、それに二つの寄宿舎の整理が完了する。明日は理科棟と中央棟を片付けて避難民の収容に備えよう。明日は収容計画を完成し、割り当ての手順をまとめるようにしよう。ここにいて、こうした仕事を手伝えるのは何とありがたいことだろう。程先生一人だけでは指揮しきれないだろうし、彼女以外の人はあまりにも不慣れだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)・・・中国語で「清野作戦」といい、侵攻して来る日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物をすべて焼却してしまう焼野原作戦で、中国軍は南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。
(2)・・・1937年12月5日、日本の海軍航空隊がむ湖を空襲した際、む湖沖の長江に停泊していたイギリスのジャーディン・マセソン社の汽船二隻に爆弾が命中して火災が発生し、船長夫妻が負傷、イギリス政府は日本政府に強く抗議した。

「Imagine 9」(合同出版)解説より


9条をつかって、戦争のない世界をつくる。 

「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
 日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
 第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
 同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。


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2008年12月5日金曜日

1937年 12月5日 南京

1937年12月4日・・・第16師団(中島今朝吾中将)、南京戦区に突入。
「南京の真実」(ジョン・ラーベ著:講談社)より
12月5日
・・・・・・・・
 アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。
やや、詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。
つまり、日本政府はまた拒否してはきたものの、出来るだけ配慮しようと約束してくれたのだ。
 ベイツ、シュペアリングと一緒に、唐指令長官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束を取り付けなければならない。それにしてもやつの返事を聞いた時の我々の驚きを一体どう言えばいいのだろう!「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」だと?そんな馬鹿な事があるか!それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることは考えられない。せいぜい、「難民区」だ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
我々は必死で米や小麦粉を運び込んだ。安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる貼り紙もできている。だが、肝心の安全性については最低の保証すら、与えられないのだ!
 ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいる方が安全だと思っているからだという。・・・・
・・・・・・
「南京事件の日々・・・・ミニー・ヴォートリンの日記」(大月書店)より
12月5日(日)
鼓楼教会へ礼拝に行く時刻のころ「空襲警報」のサイレン(日本軍の前線がすぐ近くまで迫っているので、今では警戒警報は出されない)が鳴り、するとまもなく爆撃音が聞こえてきた。明朝故宮の「西華門」がやられたのだ、とウィルソン医師が教えてくれた。気の毒なことに、爆撃されたのはほとんどが貧しい民間人であった。ウィルソン医師が、ある一家のことを話してくれた。そこの母親と娘は即死、呆然自失のの父親をウィルソン医師が発見したとき、彼は赤ん坊を抱いていたが、その子の頭部は吹き飛ばされてしまっていた。中国軍兵士のことを思うと胸が痛む。負傷兵50人が、20マイル離れたところからやっとのことできょう城内にたどり着いたそうだ。彼らの話によれば、負傷した多くの仲間が路上で倒れていったという。
 大学病院(金陵大学付属鼓楼病院)は、医師や看護婦が絶対的に不足している。看護婦は全員が、そして医師も、中国人医師一人を除いては全員が長江上流へ脱出してしまった。・・・・・・


 昼食直後にキャンパスの緊急理事会が召集され、長時間にわたって避難民の扱い方が検討された。手伝ってくれる人がもっと大勢いればよいのだが。程先生は疲れており、何千人という避難民の世話をすることを考えただけで、もう具合が悪くなってしまう。持参する品を知らせる大きなポスターを校門に掲示する計画を進めている。また、できれば日刊紙(今では紙面が一枚に減ってしまった)に子のポスターを掲載するつもりだ。・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
定例記者会見は長時間にわたった。馬市長と有意義な話ができた。市長の予想では、日本軍がここに到達するまで激しい戦闘が一ヶ月は続くことになるだろう。安全区の旗を立てる事ができるように、軍関係の団体や防御施設を安全区の外に移すため、あらゆる努力がなされている。・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・

{imagine 9}【合同出版】より


想像してごらん、

9条がゆきわたった世界を。

Imagine,

A world filled with Article 9.


憲法9条は、日本という「国」のものではありません。
日本に住んでいる「人々」、つまりみなさん自身のものです。
そしてそれは、日本国民にとってだけではなく、すべての人類にとって重要なのです。
(アメリカ/男性)


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2008年12月4日木曜日

1937年 12月上旬 南京

「南京の真実」(ラーべ著 講談社)より
11月30日
韓に家族をつれて越してくるようにいった。一家は今学校で暮らしている。台所や風呂場は韓が作らせた。韓の友人で・・・レンガ工場の経営者、車を贈ってくれた孫さんも越してきた。新しい防空壕はまだ出来上がらない。全力をあげているのだが。ゆるく積み上げたレンガ壁(セメントがないので両側を厚板で補強してある)が一つあるほかは鉄板を使った。だれが調達してきたのかはわからない。とにかくそこにあったのだ。ほかにもいろいろそういう物がある。おかげでわが家の庭はすさまじいことになっている。水道が止まりはしないかと心配だ。トラックで大型の貯水タンクを運んでこなくては。灯油も買った。ロウソクも。石炭は約一か月分ある。・・・・・・

 スマイスから電話。南京市には6万袋、下関には3万4千袋の米があるとのこと。おそらくこれで足りるだろう。今不足しているのは仮の宿泊所、つまりわら小屋に使うむしろだ。この寒空に、何とかして泊まれる場所を確保しなければならない。
 
 以下は国際委員会が抱えている課題である。
1、資金の調達
2、警察
   安全区入口の検問
   境界の警備
   警察官の総数の確認とその宿泊施設の整備
3、兵士と軍人たち
   撤退の指令と視察
   既に始まっている脱走兵の対策
   負傷兵の看護
4、食糧の配給
   食糧の管理
   食糧の貯蔵と分配
5、輸送と輸送手段
6、避難民の収容施設
   見張り
   建物の使用と管理
   ( a)公共の建物(政府の)
   (b)学校や伝道団の建物
   (c)空き家、わら小屋
7、公共設備
   水道・電気・電話
8、衛生設備と健康管理
   仮設便所・ゴミと糞尿の運搬・病院と医療設備
 

12月1日
9時半に、クレーガー、シュペアリング両人と平倉巷で開かれる委員会へいく。いろいろな役目を割り振って、名簿を作る。馬市長が部下を連れて現れ、米3万袋と小麦粉一万袋を提供すると約束。
残念ながらそれを難民地域まで運ぶトラックがない。米と小麦粉を売ればいい。出来るだけ高値で。難民用の給食所をつくる予定だ。
 3つ目の防空壕が完成した。屋根を鉄板でおおい、入口は土で囲ってある。午後、駐屯軍司令部から2万ドル受け取った。これは、蒋介石からの約束の10万ドルの第一回目だ。残りはいつもらえるかと聞いたが、相手は肩をすくめるだけだった。
・・・・・・・・・・・
18時、会議。南京に残っている住民たちに安全区に移るようにすすめたあとで日本から拒絶されるようなことになったら、我々の責任は重大だ。それについては大多数の委員が、こちらから先に行動を起こそうという意見だった。安全区に移るよう勧める文書は、非常に慎重でなければならない。いちど、残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう。つまり、中国人がどんな様子か聞いてみるのだ。
・・・・・・・・・・・・
 ローゼンがアメリカ人を通じて知らせを受け取った。ラーマン地方支部長が、ヒトラーとクリーベルにあてた私の電報を打ってくれたそうだ。ありがたい!これでどうにかなる。間違いない。総統が私を見殺しになさるはずがない!
・・・・・・・・・・・・
 ローゼンが、ドイツ人に集まってもらいたいといってきた。いつ船に乗るか決めようというのだ。クレーガー、シュペアリング、ヒルシュベルグ先生の子息、オーストリア人技術者ハッツ。この人たちはここに残って私を助けてくれると言う。・・・・・・・・

12月2日
フランス人神父ジャキノを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。
 
 電報  1937年12月1日  南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
 11月30日の貴殿の電報の件
 以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。 ジャキノ

「日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責を負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しない限りにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です」

 ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。
・・・・・結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する所存・・・・云々」は、非常に満足のいくものだ。
 

アメリカ大使館を介して、我々は次のような返信を打った。
南京の安全区国際委員会の報告をジャキノ神父に転送してくださるようお願いします。
「ご尽力、心より感謝いたします。軍事上必要な措置に反しない限り安全区を尊重する旨日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝を持って受け止めております。中国から全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。我々は安全区を組織的に管理しており、既に難民の流入が始まったことをご報告いたします。しかるべき折、相応の調査を終えた暁には、安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。
 日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。また、当局が安全を保証する旨を直接当委員会に通知してくだされば、難民の不安を和らげるであろうこと、さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、日本側にお知らせいただくようお願いいたします。
                    ジョン・ラーベ     代表」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 米と小麦粉を運ぼうとするにも車が手に入らない。せっかくもらったのに、一部、安全区からうんと離れたところで野ざらしになっている。どうやら軍部にかなり米を持って行かれたらしい。3万袋のうち、わずかその半分しか残っていないという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【2日・・・蒋介石、駐華ドイツ大使トラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を表明(日本政府、斡旋断る)】

12月3日
ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。昨晩大使は税関のはしけでこちらに来たのだが、そのまま漢口へとんぼ返りしたという。思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所に行ったのだ。私がそういうと、何度かためらった後、ローゼンも認めた。・・・・・・・・・

ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使宛なのだが、次のような内容だった。

ドイツ大使館南京分室 漢口発  37年12月2日       南京着 12月3日
日本政府は、都市はじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民を出来るだけ寛大に扱う考えを持っております。また、国民政府がその権力を行使することによって、首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、認めるわけにはいきません。日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。     ザウケン

ローゼンは、他の国の大使館はこれに似た内容の電報を受け取っていないことをつきとめた。差出人の名を明かさないまま、この扱いは委員会に一任された。ローゼンは、蒋介石婦人に接触してはどうか、と勧めてくれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

12月4日
どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだがうまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き上げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話をひいている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた8台のトラックのうち、半分しかつかなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。100メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。
 難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙は「外国人」による難民区などへ行かないようにと、繰り返し書き立てている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「南京事件の日々・・・ミニーヴォートリンの日記」(大月書店)より
12月1日(水)
今日は警報が一回あったものの、空襲はなかった。通産103回目の警報だ。もう気にかけない。
呉博士とエルシー牧師は午前9時ごろ、ついに(金陵女子文理)学院をあとにした。昨夜二人が波止場に到着した時には、船が出たばかりだったので、やむなく引き返してきて学院で一夜を明かした。
呉博士が無事に乗船できてとてもうれしい。というのは、何よりもまず、彼女は4ヶ月もの長期間、気を張り詰め通しですっかり疲労困憊していた、さらには今後彼女は来学期の、そして多分、来年の計画のことに頭を切り換えなければならないと思うからだ。南京にいたのでは到底できない相談だ。それに、日本の軍艦がいつ(長江を)遡上してくるか誰にも予測がつかないし、城内が激しく爆撃された時にはもはや脱出できなくなる。
 午前10時、アメリカ大使館に呼ばれ、他の伝道団の指導者たちと一緒に会合を持った。(大使館書記官の)バクストン氏が私たちを三つのグループに分けた。今日にも商船で南京を脱出できる即刻脱出グループ、しばらくは残留しなければならないが、土壇場になったらアメリカ砲艦パナイ号で脱出するー必要とあれば、ロープを使って城壁を乗り越えてでもーグループ、ずっと残留したいと思っているグループである。大使館を出てから、どのグループにするのか、サール・ベイツに尋ねたところ、2番目と3番目の中間あたりだと答えたので、それでは城内の途中で宙ぶらりんになっているようなものだと、二人で笑ってみたものの、それは危険な状態だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

陳さんとそれに私も一緒にキャンパス中を歩き回り、アメリカ大使館の公告文を掲示する場所を決めた。明日になれば、中庭に掲揚されている30フィート四方の国旗に加えて・・・のアメリカ国旗が翻ることになるだろう。・・・・・・・

 11時30分、緊急委員会が招集され、その会議で李さんに、6人の男子職員を組織して自警団をつくり、彼らを訓練し、あわせて彼らの腕章を用意することをお願いした。また、隣保学校の教師をしている・・先生に、キャンパスにいる彼女の生徒や比較的に高年齢の子どもたちを組織して避難民のための奉仕団をつくり、彼らを訓練し、彼らのための徽章を作製することも依頼した。
・・さんの報告によると最悪の危険に遭遇した時には、近隣の婦女子およそ200人がキャンパスに避難したいと思っているようだ。

 今晩の記者会見で安全区の存在が公表され、食料、住宅、財政および公衆衛生を扱う4つの委員会が設置された。市(南京市政府)から米と2万ドルが供与された。
 3日ほど後に来ることになっている日本船を待っている人もいる。書籍を詰めた箱を地下室に移し、予想される避難民に備えて各部屋を空ける作業をしていたとき、陳さんが葬式の準備でもしているような気分だ、と言った。まったく、この世の終焉がすぐそこまで来ているような感じだ。


12月2日(木)
今日は3回空襲があったが、いずれも城外だった。中国軍機が発進し、日本軍機が撃墜されたが、その数についての報告はまちまちだ。・・・・・・・すっかり空襲になれてしまったので、今では空襲の最中でもずっと仕事をしている。
 これまでは漢口や香港を経由してニューヨークや上海あての航空郵便が送られていたが、今夜耳にしたところでは、今後は郵便用飛行機は飛ばないそうだ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 午後、大変な失敗をした。昼寝をしたところ、ひどく疲れていたため、夕方近くまで目が覚めなかったのだ。
 午後6時、再び記者会見に出かけた。安全区計画が進捗している。米が搬入されることになっているが、問題はトラックの入手だ。日本側から知らせが届いているが、それは好意的に解釈すれば、準備完了までに残された時間はあまりない、と言う趣旨である。その情報は、日本軍は三方向から接近中、というものだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


12月3日(金)
いまや情報入手は非常に難しい。昨日も今日も上海や香港の放送の時間帯に空襲があり、そのため停電し、したがって、ニュースが聞けない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 昨日中央棟から備品をあらかた撤去した。今日は避難民の受け入れに備えて男性たちが二つの寄宿舎の片づけをしている。避難民がやってくるまでほんの2,3日だと考えている者もいれば、まだ10日ほど間があると考える者もいて、本当のところはだれにもわからない。
 今夜の記者会見はとても興味深かった。南京市長と防衛司令長官代理が二人とも出席した。安全区の計画が進捗している。事務所は、寧海路五号にある外交部長張群宅に設置された。
目下、城内に、そして安全区に十分な量の米をどのようにして搬入するか検討しているとこだ。・・・・・
・・・トラックを何台かを確保するため、明日は市長が全力を尽くしてくれる。米は金陵大学の礼拝堂に貯蔵されることになっている。ひきもきらず人々がやってきて、安全区の場所はどこか、いつからそこに入れるのか、などと尋ねる。
 今日大使館から最終の問い合わせがあった。三つの選択肢の中から一つを選んで署名しなければならなかった。私は(3)に署名した。【(3)・・・どんな事態になっても脱出しない。】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


12月4日(土)
今夜、門衛から報告があった。昼間、何百人もの中国人が校門にやってきて、金陵女子文化学院が難民収容所になっているのは本当か、と尋ねたそうだ。門衛は、一人残らず寧海路五号の国際委員会本部へ行かせた。トラックが足りないため、城内への米の搬入は困難である。現在は塩も食用油も買えない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私たちは避難民への収容スペースをつくるため、引き続き寄宿舎の備品を屋根裏に運んでいる。また、後日問題になりそうなパンフレット類はすべて破棄している。・・・・・・・・・・・・・・・・


 今夜に記者会見での重要な点は、安全区では塹壕堀のような軍事的予備行動を一切停止すること、軍関係の事務所はすべて安全区外に移すことを(中国)軍が約束したという情報であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 今朝南門付近が激しい空襲に見舞われた。イタリアが日本を支援し、ロシアが中国を支援しているそうだ。スペイン同様にここが第二の思想戦場となるのだろうか。うわさにすぎなければよいが。
 AP特派員のマグダニエル氏によれば、市の東方では数多くの美しい樹木が、砲撃の邪魔になると言う理由で切り倒されてしまったそうだ。東門から湯山に至る間はどこも無人村になっている。村人全員が立ち退きを強制されいたるところで軍が防備を固めているのだ。
 一年前のあの活気溢れる、明るくて希望に満ちた前向きの南京を思うと、気持ちが沈んでくる。分別ある人間がどうして戦争を阻止できないのだろうか。その気になれば阻止できるだろうに。

(IMAGINE 9)【合同出版】より

想像してごらん、

ひとりひとりの安全を

大事にする世界を。


Imagine,

A world that values the safety of

each and every human.



政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が
大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。
政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。
私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に
平和をつくりたい。それが私の理想です。
(イラク/男性)

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2008年12月3日水曜日

1937年南京大虐殺前夜

「南京事件の日々  ミニー・ヴォートリンの日記」【大月書店】より
(ミニー・ヴォートリン・・・南京にあった金陵女学院の教育と運営の実質的な指導者であった。)
1937年11月
5日、日本軍の第10軍が杭州湾に上陸、背後をつかれた上海防衛の中国軍に動揺がはしり、13日に第16師団が上海北西の長江岸の白茆口に上陸すると、中国軍の撤退と潰走がはじまり、やがて総崩れとなり、15日、上海は日本軍の手に落ちた。
 10日は雨天にもかかわらず日本軍機の南京空襲があった。・・・・・・・
 上海発行の英字新聞や上海、香港からの英語ラジオ・ニュースで戦況についてある程度把握していたヴォートリンは、日本軍が南京に侵攻してくるのは時間の問題であり、そうなれば、南京城の攻防をめぐって長い戦闘がおこなわれ、その結果南京には瓦礫と廃墟が残るだけになるだろうと予測して、それが現実になるのを恐れていた。
 20日、ヴォートリンは、宣教師のジョン・マギーらとともに、下関駅に送られてきている負傷兵たちの様子を見に出かけた。そこで彼女が見たものは、医者と看護婦にも見放されて、死体同様にホームに放置されていた数百人の負傷兵の集団であった。蘇州、無錫の攻防戦で負傷した中国兵たちで、南京陸軍病院の医師や看護婦たちがすでに南京から避難してしまった後に、送還されてきたのだった。
 眼も鼻もつぶれてうめき通しの兵士、尻のところまで脚をもぎ取られた兵士、ほとんどが瀕死の重傷を負った兵士たちがベッドもなく横たわっている。あたり一帯に死臭のような悪臭が充満していた。
 昨夜は下関駅の負傷兵の二割が絶命し、今日は三割の負傷兵が息を引き取るであろうと、関係者は言っていた。・・・・・・・・
 ヴォートリンにとって、さながら生き地獄絵のような負傷兵の集団を見たことは、戦場の悲惨さ、忌むべき戦争の実態をあらためて思い知らされ、忘れることのできない強烈な体験となった。
 こうした戦争の悲劇をさらに増大させることになる日本軍の南京攻撃を、なんとか停止させたいと願い、神に祈り続けていたヴォートリンが、最後に望みを託したのが、3日からベルギーのブリュッセルで開催されていた九ヶ国条約会議(ブリュッセル会議と称する)であった。・・・・・・・・
 ブリュッセル会議は、「各国代表は条約の規定(中国の主権・独立とその領土的・行政的保全の尊重を規定していた)を無視する日本に対し共同態度を採ることを考慮する」という日本の国際法違反を非難する宣言を採択して、24日に閉会した(日本とドイツは招請を受けたがボイコットした)。会議は日本の中国侵略にたいして警告宣言を発するという平和的手段に訴えることで終わり、中国代表が希望した具体的な対日制裁措置は決定しなかったのである。
 同会議の宣言を香港からのラジオ放送で聞いたヴォートリンは、23日の日記にこう記す。
 「多くの国が協同して、日本の中国侵略を阻止するためにやるべきことを、今こそ実行するように、衷心から祈るばかりである。日本の硬直した保守的な思想と侵略的な態度が変わるように、そして世界の人道主義的圧力が日本国民に重くのしかかるように、強く願っている。日本国民は世界から非難されて大きな苦痛を経験しなければ、目覚めることをしないであろう」。

 20日、蒋介石国民政府は、首都を南京から重慶に移すことを正式に宣布、同日、唐生智(とうせいち)が南京防衛軍司令長官に任命された。これに前後して政府の中央諸機関は、つぎの暫定首都である長江上流の武漢(同市は漢口・武昌・漢陽の三地区よりなる)に向けて続々と移転を開始した。国民政府当局は、南京の防衛軍は最後の一兵まで戦うつもりであるから、一般市民は市区域から早急に避難していくよう呼びかけた。政府機関の移転とともに、政府官庁の職員とその家族が南京から離れて行き、ついで中産階級の市民が南京から避難していった。脱出していく市民と入れ替わりに、中国軍5万が16日に南京到着、その後も兵士、武器、軍需品を満載したトラックが大通りを頻繁に行き交い、南京城内は戦闘前夜の興奮と緊張と喧騒とに包まれていった。
 ここにいたって19日、金陵女学院の呉学長は、成都に赴くことを決定せざるを得なくなり、涙ながらにヴォートリンに金陵女学院の後事を託した。同日、アメリカ大使館のホール・バクストンが、南京城内が無秩序になり、外国人の生命が危険な状況に陥ったときには、長江に停泊しているアメリカ砲艦パナイ号に避難するように通告に来たとき、ヴォートリンはこう答えた。
  「わたしはどんなことがあっても金陵女子学院の仲間と隣保館の仲間を見放すことはできないのです。彼女(彼)らは私を頼りにしている。状況によっては彼女(彼)らが私を助けてくれるだろうし、状況によっては私が彼女(彼)らを助ける事ができるのです」。
 最終的に、南京にずっと留まることを決意した外国人女性は、ヴォートリンと鼓楼病院(南京大学付属病院)に勤めるイーヴァ・ハインズとグレース・バウアーの3人だけとなった。
 南京に日本軍が侵攻してくることが確実になると、戦火の南京に留まることを決めていたアメリカ人の宣教師、大学教師のあいだに難民区を設定する話が急速に進展し、17日には主要メンバーが集まって、南京安全区(難民区)国際委員会の結成を決定。中国当局の承認と協力を得、アメリカ大使館を通して日本側の了解と認知を獲得するために積極的に活動を開始した。(昨日書いたように委員長にはドイツ企業ジーメンス社南京支社の支配人として南京に残留していたドイツ人のジョン・H・D・ラーべが就いた。)
 国際委員会の申し入れにたいして、中国当局から、委員会の提起した非武装の安全区設置の条件を全面的に遵守するとの回答が寄せられ、日本の関係当局からはしばらくして、難民区が中国軍の軍事目的に使用されない保証があれば、日本軍が攻撃する意図はない、と間接的に認める回答があった。
 日本当局からも一応尊重する旨の回答を得た国際委員会のメンバーは、金陵大学や金陵女学院の中国人スタッフの残留者を総動員して大急ぎで難民区の設定に取りかかった。


南京安全区は、南京城内を東西南北に四等分したその西北部に位置し、東京の台東区や中央区よりやや狭い面積に相当する。この区域に難民区が設定されたのは、金陵女学院や金陵大学もあり、さらに公共の建物が多く、難民を収容するのに便利であったこと、同地にある高級住宅街の洋館の外国人はほとんど避難した後であり、いざという時には難民を収容できたこと、そして何よりも、安全区を運営したアメリカ人やドイツ人たちのホームグランドであった事などの理由による。
 金陵女学院を難民収容所として解放する事が決まったので、ヴォートリンらは、構内の校具、図書、文書の整理・移動にとりかかり、貴金属や装飾品などは長江に浮かぶアメリカ砲艦パナイ号に保管してもらうなど、難民区設営の準備におおわらわとなった。
 国民政府が重慶遷都を宣布した20日、日本では天皇に直属する最高戦争指導機関である大本営が設置され、中国全面侵略戦争を本格的、長期的に指導する体制を確立した。
そして、12月1日、大本営は中シナ方面軍にたいして正式に南京攻略を下令、総勢20万に達する日本の大軍が中国軍の包囲殲滅を目指して南京に進撃して行った。

{Imagine 9}【合同出版】より


想像してごらん、
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界を。

Imagine,
A world that instead of
preparing for war,prevents war.



コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)


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2008年12月2日火曜日

南京事件前夜:国際委員会立ち上げ!

「ラーベの日記」の続き。(「南京の真実」講談社より)
11月20日
18時に号外が出た。中国の新聞で、国民政府が重慶に移るといっている。南京のラジオも同じことを伝えた。それから、南京は死守されるそうだとも。

11月22日
・・・・
17時に国際委員会の会議。南京の非戦闘員のための中立地域設置の件。私は「代表」に選ばれてしまった。辞退したが押し切られた。良いことをするのだ、受けることにしよう。どうか、無事つとまるように。責任重大だ。・・・・・・・

 デンマーク、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国の各国民によって構成される当委員会は、国民政府と日本政府に対し、南京市内ないしはその近郊で戦いが勃発した場合にそなえて、難民のために安全区の設置を提案する。
 国際委員会は、次の点を国民政府に保証してもらうことを約束する。軍事交通局を含むあらゆる軍事施設を「安全区」から撤退させ、非武装地帯とし、ピストルを装備した民団警官のみを置く。また、その場合、すべての兵士およびあらゆる階級、身分の士官の立入りは禁止される。国際委員会は、これらが遵守され、滞りなく遂行されるよう配慮する。
 国際委員会は、日本政府が人道的理由から安全区を尊重するべく配慮してくれるよう願っている。そのような慈悲深い措置こそ、責任ある日中両国政府の名誉となると信ずる。国民政府との交渉を出来るだけ早く成立させ、難民保護のために必要な準備を整えられるよう、日本当局のすみやかな回答を切望する。

 会議から帰ると、ボーイの張が待っていて、医者を呼んでほしいという。かみさんの具合が悪いらしい。ヒルシュベルグ先生の診断の結果、数日前流産した事がわかった。すぐに鼓楼病院に連れて行かなければ。

11月24日
ロイター通信社が早くも国際委員会の計画について報じた。すでに昨日の昼、ローゼンも、ラジオで聞いたという。それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、ということらしい。それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館あてにこんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。

 当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーべを代表に、イギリス人、アメリカ人、デンマーク人、ドイツ人の各委員は、中国および日本に、南京に直接戦闘行為が及んだ場合の一般市民安全区の設置を求めております。アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。
 ドイツ人の代表に免じ、この人道的な提言に対する、非公式の、とはいえ公式の場合に劣らない温かいご支援を乞う次第です。
・・・・・・・・よってこれを転送し、米海軍を介してドイツ総領事館および日本当局の返信を頂きたいと思います。                 ローゼン

 中央病院院長のJ・ヘンリー・劉先生が去り、「後を託された」医師たちも二人ともいなくなってしまった。伝道団のアメリカ人医師たちがいてくれなかったら、この大ぜいの負傷者はどうなってしまったか分からない。先日、贈られたトラックを一台動員した。車が徴発されないよう、運転手の劉漢臣はドイツ国旗を掲げて走っている。中国兵はトラックとみれば残らず取り上げてしまう。カルロヴィッツ社のクリスティアン・クレーガーの話では「命令」が出たという。
 つまり、南京の住民はすべて町を離れるようにという指令である。

11月25日
 医者が足りない。香港、上海、漢口の赤十字に、医師と医薬品を求むと電報を打った。外国人の医者は頼めない。この電報はアメリカ大使館の仲介だが、大使館は(ほかのどこの大使館も同じだ)自国民に対して南京を去るように勧めているからだ。

・・・・・・・・・
 ラジオによると、非戦闘員の安全区に対して、日本はこれまでのところ最終的な回答をよこしていない。上海ドイツ総領事館を通じて、同じく上海にいるラーマン党地方支部長に頼んでヒトラー総統とクリーベル総領事に電報を打とうと決心した。今日、次のような電報を打つつもりだ。

 在上海ドイツ総領事館
 党支部長ラーマン殿。次の電報をどうか転送してくださるようお願いします。

 総統閣下
 末尾に署名いたしております私ことナチ党南京支部委員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万人以上の生命が危機にさらされることになります。
    ナチ式敬礼をもって。           ジーメンス・南京   ラーべ
・・・・・・・・・・

 上海の中国本社からドイツ大使館に私宛の電報が届いていた。
「ジーメンス・南京へ。ジーメンス・上海より告ぐ。南京を発ってよし。身の危険を避けるため、漢口へ移るよう勧める。そちらの予定を電報で告げよ」

 私は大使館を通じて返事した。
「ジーメンス・上海へ。ラーべより。11月25日の電報、ありがたく拝受。しかしながら、当方南京残留を決意。20万人をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました」

 韓が、・・・レンガ工場からガソリン100缶、小麦粉20袋を運んできた。庭では、新しい防空壕の建設中だ。ガソリンはどこか他に置き場を探さなくては。100缶も庭に置くのは危険だ。
 スマイスから電話。東京の新聞が、中立区域があると南京の占領は非常に困難になる、あるいは遅れてしまうと論評したという。もしもこれがうまくいかなかったら、いったいどうすればいいんだ。にっちもさっちもいかなくなってしまう。わが頼みの綱はヒトラー総統だ!

(IMAGINE 9)【合同出版】より


想像してごらん、
女性たちが
平和をつくる世界を。


Imagine,
A world where
women create peace.


戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を
果たす事ができます。
(アメリカ/先住民女性)

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2008年12月1日月曜日

南京事件前夜:日本軍の空襲とイマジン9

多母神さんがまた、外国人記者クラブで持論を性懲りもなく述べたという。
退職したのだから、いろいろな史実に目を向けてくれればいいが!!

「ラーべの日記」を今日も見ていこう。(「南京の真実」講談社より)
10月14日
朝7時。輝くばかりの晴天。ということは、素晴らしい爆撃日和でもある!・・・・・・
日本人が毒ガスを使っているとの噂しきり。地元の新聞が伝えるところによると、すでにここ病院にガス中毒の中国人兵士たちが運ばれてきているという。
 みな毒ガスをひどくこわがっている。南京の一般市民はガスマスクを持っていないからだ。マスクに酢などの液体をしみこませるよう支持されたが、これはしょせん一時しのぎにすぎず、いざというときにはまったく役に立たない。

(日本軍が日中戦争で毒ガスを使ったということを、NHKの番組で見た事がある。毒ガスは戦時中「地図から消された島」大久野島でつくられた。日本軍が戦争で負けたとき大量の毒ガス弾がいろいろなところに遺棄されて、今でも深刻な問題である。最近では、毒ガス弾を掘り出して、被害にあった「周君・劉君を応援する会」もあります。)

10月17日
映画館はすべて営業を停止した。ホテルや店、薬局も大半は閉まっている。市内はびっくりするほど落ち着いている。軍人、警官、民団(民兵)もきちんとつとめを果たしている。外国人は誰も(もう、あまりたくさんは残っていない。ドイツ人について言えば、女性が12人、男性が60人)不愉快な目にあってはいない。逆だ!異国でがんばっているというので、中国人は驚きながらも好意を持って我々を見ているのだ!

 誰もかれも先を争って我が家の防空壕に入りたがる!なぜだか分からない!うちのはおそろしく頑丈だとうわさが立っているらしい。これを作ったとき、せいぜい12人とふんでいた。ところがいざ入る段になってみると、ひどい計算違いをしていたことがわかった。総勢30人。すし詰めだ。
 いったいどこからこんなに大勢の人間が来たのかって?なに、簡単さ!うちのボーイにはそれぞれ、妻や子、父、母、祖父、祖母がいるのだ。だれもいなければ、どこからかつれてくるだけのことだ!いやはや、たくましいかぎりだ。・・・・・


10月19日
今日はまた、ずいぶんと丁寧なご挨拶じゃないか!夜中の2時に空襲警報ときた。ようやくブーツをはき終えた時、爆弾が落ちて、家中がゆれた。

防空壕の仲間へ
この家の防空壕の利用者は、次の規則を守れたし。
婦人と子どもには、安全な場所、すなわち真ん中の席をゆずる。
男性は、はしで立つか座るかしてがまんすること。
この指示に従わないものは、今後一切使用を禁止する。
      南京、1937年10月19日    ジョン・ラーべ

10月27日
中国側は日本軍が上海郊外の大場を突破したことを認めた。

11月11日
爆弾が雨あられのように降ってくる。だしぬけに、おもてで歓声があがった。高射砲弾が一つ命中したのだ。あっというまに防空壕はもぬけのから。こんな見ものを逃す手はないというわけだ。真っ二つになった爆撃機が、炎に包まれ、もうもうたる煙をあげて落ちてくる。5人から7人乗っているはずだが。
なかから2人、炎と煙のなかを飛び降りた。パラシュートもつけずに。20秒には、堂々たる機体は残骸と死体だけになっていた。

11月15日
政府は南京から撤退するつもりだ。私は交通部(運輸省)でそう確信した。執務室も廊下も旅行かばんと荷箱で足の踏み場もない。揚子江上流の長沙に移ることになっているのだ。・・・・・・・

11月18日
今日は、「中華新聞」の南京版も出なかった。印刷工が逃げ出したのだろう。力車や荷馬車、乗用車、トラックが夜昼となく町から出ていく。どれもこれもうずたかく荷物を積んでいる。大半は揚子江へ向かう。船で漢口やその先へ避難するからだ。時を同じくして、北部から新米兵の隊列があとからあとからやってきた。どうやら、あくまでも防衛する覚悟らしい。兵士はぎょっとするほどみすぼらしい身なりだ。みな素足で、黙々と行進してくる。果てしなく続く疲れ切った人々の無言の行列。

(IMAGINE 9)【合同出版より】


想像してごらん、
基地をなくして緑と海を
取りもどしていく世界を。


Imagine,
A world that gets rid of
military bases and reclaims
the forests and the oceans・


森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)


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2008年11月30日日曜日

アンダンテ:フルート発表会

先日の10月11日(土)に以前に私が習っていたフルート教室の発表会がありました。
その時の様子です。関心のある方はのぞいて見て下さい!


アンダンテ:フルート発表会

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南京事件前夜:日本軍の空襲とイマジン9

ラーベの日記を読んでいると、日本軍の南京攻略戦における空襲の様子がよく分かる。

ジョン・H・D・ラーべ(1882年ハンブルク生まれ。1911年にドイツの世界的コンツェルン、ジーメンス社に入社。ナチ党員。日中戦争が深刻化し、首都南京が陥落したときは当地支社長だった。日本軍占領下の南京で、国際安全委員会の代表となって中国人を救おうと奔走する。1950年、ベルリンにて死去する。)が、南京攻略戦前夜から陥落後の様子を日記に書いていた。
[「南京の真実」(ジョン・ラーベ著):講談社]より引用

1937年9月21日
裕福な中国人はとうに船で漢口へ避難し始めていた。農場という農場、庭という庭、さらに公共の広場や通りには大車輪で防空壕が作られた。とはいっても、19,20日と、続けて4度の空襲にみまわれるまでは、ごく平凡な毎日が続いた。
 アメリカ人やドイツ人の多くがすでに南京を去っていった。これからいったいどうなるのか。昨晩、じっくり考えてみた。・・・・・・

10月3日
政府高官筋の人々、とりわけ蒋介石夫人の宋美麗はドイツにあまり好感を持っていないという噂だ。
ドイツが日本と防共協定を結んでおり、ソビエトと同席したくないという理由から、ブリュッセル会議への出席を拒否したからだ。
「私たちの味方でない者はすなわち敵」と夫人は言ったという。それなら、ドイツ人顧問はどうなんだ?いまや中国人があんなに誇りにしている高射砲部隊、つまり防空隊を導入したのはいったいどこの誰だ?ドイツ人の軍事顧問じゃないか!北部ではろくに訓練されていない兵士が逃げ出しているというのに、上海付近の軍隊は勇敢に戦っている。だれが訓練したと思ってるんだ?ドイツ人の軍事顧問だろうが!南京から逃げずにがんばっているのは?ドイツ人の軍事顧問と我々会社員じゃないか!こっちに言わせれば、南京に残るのはまさに犠牲的行為以外の何ものでもないんだ。それなのにやつらにはそれがどうしてもわからない!なんせ自分の国にいるんだからな。・・・・・

 薬がなくなりそうだ。天生薬房(薬局)は、このあいだの爆撃で派手にやられて店を閉めてしまった。
・・・・・・・・
 
けが人を大ぜい乗せたトラックが毎日到着する。大したけがではないが、どの人も痛々しい。汚れた包帯をまいて、泥がこびりついている。まるでたったいま塹壕(ざんごう)から出てきたみたいだ。医師のヒルシュベルクさんがいてくれるのがせめてもの救いだ。彼の家族もまだ残っている。・・・・・

10月6日
18時から19時まで、トラウトマン大使(駐華ドイツ大使)がお茶を飲みに来ていた。一時間ほど一般的な情勢について話し合った。お互い少々悲観的になっている。北部は陥落してしまった。これはどうにもならない。だが、南京は上海に守られているために、中国人は戦争の中心は上海だと思っているようだ。だが、いつまでこれが続くだろうか?

10月13日
薄曇り。不穏な日だ。だが、このあたりは無事だった。8時に空襲警報。だが、15分後に解除された。警報のたびに男も女も子どももみな、貧しい人たちが大ぜいわが家のそばを通り抜け、五台山へと、逃げていく。かなり大きな防空壕があるのだ。これだけでも悲惨きわまりないというのに、小さい子どもを抱いた母親たちのおびえようといったら!見ていられない。今日はそういう人たちが4回もここを通り過ぎていった。
 
 防空壕を広げよう。ドイツ語の話せる沈(セン)さんと馮(フォン)さんが、わが家の近くの支局に転勤してきた。空襲警報が鳴ると二人ともここに避難してくる。いつも郵便物を配達してくれる二人も常連だ。そのうちに泊めてくれといってくるだろうが、場所があるだろうか。私自身はここのところまったく防空壕に出入りしていない。・・・・・


(IMAGINE 9)【合同出版】より

想像してごらん、
武器を使わせない世界を。


Imagine,
A world that doesn’t
let weapons be used.


憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。
なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、
世界はまだ暴力と戦争だらけです。
(アメリカ/男性)


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2008年11月29日土曜日

南京事件の日々

南京が攻略された時、南京に残って安全区を作り、そこに避難してくる避難民を守った外国人たちがいた。
南京難民区で活動した外国人たち【ここであげたうち、ラーベがドイツ人である以外は、すべてアメリカ人】(「南京事件」笠原十九司著 岩波新書)より引用

ジョン・ラーべ
 ジーメンス社南京支社支配人。ナチス党支部長代理。南京安全区(難民区)国際委員会委員長、帰国後南京事件をヒトラーに報告、対中・対日政策の変更を願ったが、逆にゲシュタポに逮捕される。

ジョン・マギー
 アメリカ聖公会伝道団宣教師。南京国際赤十字委員会委員長、南京安全区国際委員会委員、日本軍の蛮行を厳しく批判すると共に、良心的な行動をとった日本人将兵についてもきちんと記録している。

アーネスト・フォースター
 アメリカ聖公会伝道団宣教師。南京国際赤十字委員会書記。カメラが趣味で、多くの記録写真を残している。

ルイス・スマイス
 金陵大学社会学教授。南京安全区国際委員会書記。社会学者として南京攻略戦の被害状況を調査書にまとめた。

ジョージ・フィッチ
 YMCA国際委員会書記。中国蘇州に生まれ、中国語が堪能で南京安全区国際委員会のマネージャー役を務める。

マイナー・ベイツ
 金陵大学歴史学教授。南京安全区国際委員会委員。委員会の中心メンバーとして、財務実務や日本大使館への抗議交渉を担当した。知日派としても知られる。

ロバート・ウィルソン
 金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師。南京国際赤十字委員会委員。南京占領時、唯一の外科医師として医療活動に従事。

ミニー・ヴォートリン
 金陵女子文理学院教授。宣教師。南京国際赤十字委員会委員。強姦・暴行を防ぐために献身的な活動を続けた。1940年アメリカに帰国し、翌年自殺。

明日からは、ラーべとヴォートリンの日記をもとに南京事件をどのように描写したかを見ていきたい


{IMAGINE 9}より【合同出版】より
想像してごらん、
おたがいに戦争しないと
約束した世界を。


Imagine,
A world that promises
not to fight wars with each other


戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にうすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)


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2008年11月28日金曜日

南京大虐殺and IMAGINE 9

日中戦争では、日本刀が広く使われた事が、『「百人斬り競争」と南京事件』(笠原十九司著)を読むとよく分かる。南京攻略戦の途中から百人斬り競争を始めた、二人の少尉は戦後南京の裁判で処刑されたが、その二人はたまたま大新聞の記事になって有名になったから処刑されたのであり、その他にも沢山の日本人兵士が日本刀で、中国人を斬った。それが戦いの最中なら正当性はあるが、残念ながら、敗走する兵を後ろから斬ったり、捕虜にした無抵抗な兵士を据え物斬りしたりもした。前述の百人斬り競争の中身も、このように斬られたものがいたという。
 ともかく、中国戦線に於いては日本刀が威力を振るった。
著書に載っている一例をあげる。地方紙「新愛知新聞 三河版」
【隊長からもらった日本刀で敵の首32!新城町の剣道選手・・・君の痛快な武勲をきく】
(1938年6月17日)
・・・・・・・・・
隊長より特に剣道の腕を見込まれ、隊長所持の伝家の日本刀贈与の栄光に浴し・・・徐州攻撃参加の激戦には真っ先に振りかざして突進、真っ向当竹割と敵兵の首12個を吹っ飛ばした。すでに幾多の戦闘にても18個の首を切り落としており、衛兵勤務の立哨中敗残兵2名が出没したが、このときなどは敵は無茶苦茶で簡単に斬り落とすことができた。現在刀の刃はボロボロに濡れているが零れているが、切れ味は大丈夫だ。
 合計32首を葬ったが、凱旋までには50個を血祭りにあげる覚悟だから安心していてくれ。

このような記事がいろいろな地方紙に武勲として紹介されていた。当然その当時の日本は国民こぞっていけ!いけ!モードであったのだから。
敵国の中国人を沢山斬ることに何の疑問もはさまなかっただろう。たとえ、それが無抵抗なものであっても。勿論捕虜を斬るとか、敗残兵を斬るというのは戦時国際法違反である。


{IMAGINE9}【合同出版】より

想像してごらん、
武器をつくったり
売ったりしない世界を。


Imagine,
A world that doesn't
Make or sell weapons.



紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)

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2008年11月27日木曜日

南京大虐殺andIMAGINE9

南京攻略戦は現地の師団の独断専行によるものであったが、勿論軍中央にも南京攻略を積極的に進めるべきだという勢力もあり、それが力を持つようになった。
 11月20日、天皇が直属する最高戦争指導機関である大本営が設置され、24日には天皇臨席のもとに、参謀本部、陸軍省、軍令部、海軍省の最高首脳部が出席して第一回大本営御前会議が開かれた。開かれたということは、本格的な戦闘に入ったということだろう。
 12月1日、大本営は「中シナ方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第8号)との南京攻略を下令して、中シナ方面軍の独断専行を正式に追認した。
 12月14日、昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」が下賜(かし)された。
 陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉
中シナ方面の陸海軍諸部隊が上海に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京戦史資料集Ⅱ』)
 
大元帥陛下にどのような情報が伝わったか分からないが、中国では以下のような事が起こっていた。
「陣中日記」の続き。
12月27日
午前8時、野菜の徴発に出る。漢中門を出た所には五、六百の死体が真っ黒に焼かれ折り重なって倒れている。焼けただれた皮膚が黄味を帯びて全く見苦しい。戦闘が間遠になっている関係か気持ちが悪くなった。あちこちにこのような無残な死体が散乱していた。
 大きな橋を渡りさらに進む。道端にはさらに遺棄死体が転がっている。・・・・・こじんまりとした部落につく。当部落には避難民が多く集まっているが大多数は老人か子どもである。・・・・・・・・・・・・・(「牧原日記」)
12月31日
逃散兵が河の波打ち際に五,六百名ほど殺されて投げられていた。(「上羽日記」)

{IMAGINE 9}より
想像してごらん、
軍隊のお金をみんなの
暮らしのために使う世界を。
(アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)
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2008年11月26日水曜日

南京大虐殺

笠原教授の「南京事件」の記述による
    南京大虐殺の定義と範囲
「南京大虐殺事件は、日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対しておこなった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。
 事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦(中国にとっては南京防衛戦)の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
 事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中シナ方面軍が南京戦区に突入した、1937年12月4日前後からはじまる。大本営が中シナ方面軍の戦闘序列を解いた38年2月14日が南京攻略作戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後も続いたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村では相変わらず続いていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考える事ができる。だたし、37年8月15日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民に対する無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。」

「陣中日記」の続き
12月22日 
 於南京 馬家山砲台および同火薬庫一帯南側より清沿山砲台、水道塔、文化学院、漢西陵以北の地区内の捜索を実施す。午後四時掃蕩を了し帰還す。(四中隊日誌」)
 特務兵が何処にいたものかシナ兵を引っ張り出して水溜りのところで殺している。你公(にいこう)が大勢たかって見ている。(「北山日記」)
12月23日
 軍司令部南京に移動と共に大隊は軍直轄となり同地の警備に任ず。(「四中隊日誌」)
12月27日
漢中門を出て、菜っ葉、水牛の徴発に行く。出たところものすごい死人の山である。五百を超えるであろう。折り重なって殺されている。敵兵が主らしいが一般の你公の服装のもいる。大方敗残兵をしたものであろう。道路の両側も敵兵の死体でいっぱいである。(「北山日記」)

{IMAGINE 9}より
想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和なせかいを。

でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのかな?
一つひとつ考えてみよう。

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南京大虐殺

昨日書いた食糧の調達についての補足を書きます。笠原教授の「南京事件」に次のような記述があります。
 南京事件の前史
近代戦においては、大部隊は前線部隊と後方の兵站部隊とに別れ、前線の戦闘部隊は後方の兵站部隊からの食糧・軍事物資の補給を受けながら前進していく。したがって、前線部隊の新たな前進は、兵站部が補給可能な位置まで移動してきてからおこなうのが常識であった。ところが中シナ方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦ではこの作戦常識が無視された。上海派遣軍の場合、もともと上海周辺だけを想定して派遣された部隊であったから、各師団の兵站部隊は最初から弱体だった。それにもかかわらず、前線部隊は「南京一番乗り」をあおられ、補給を無視した強行軍を余儀なくされたのである。そのため、中シナ方面軍は糧秣(食糧と軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。これは「糧食を敵中に求む」「糧食を敵のよる」という戦法であり、通過地域の住民から食糧を奪って食べることであった。
 中シナ方面軍の兵士の多くが予備役兵・後備役兵で、妻子を残しての出征であった。上海戦が終われば帰還できると思いきや、そのまま南京攻略戦に駆り立てられた不満や憤りが兵士間にくすぶっていた。それらの不満のはけ口として、軍の上官たちは性的蛮行を「兵の元気をつくるに却って必要」といった理由で黙認する風潮があった。「中国女性を征服し」「力ずくで女をものにする」という戦場の役得としての婦女陵辱行為が兵士を南京攻略に駆り立てるために黙認された(国府台陸軍病院附軍医中尉 早尾乕雄「戦場に於ける特殊現象とその対策」・・・・・・・・・・・・

 このようなわけで、兵士たちは徴発せざるを得なかった。
12月16日(1937年)
 本日各大隊は掃蕩に出る。多くの敵の焼死体があちこちに転がっている。真っ黒にこげた死体、また黄疸のように真黄になり皮の破れた者等々で、戦いが終わってみると可哀想である。何処の部落に行っても若い男は一人もいない・・・豚一頭殺して早速料理して食う。鍋の徴発にはいかにも困った。苦労した。(「牧原日記」)
12月17日
 白水橋着同地付近の警備に任ず。(「四中隊日誌」)
 敗残兵の掃蕩を行う。多数の捕虜広場にいるを見る。(「増田日記」)
 午前八時半、謝塘を出発。部落を通過ごとに火をつけて南京へ向かう。今夜も2,3ヶ所に火の手があがっている。(「牧原日記」)
12月18日
 白水橋西北方地区掃蕩のため大西伍長以下21名午前8時30分出発、午後0時20分帰隊す。(四中隊日誌」)
 ちょう発に出る。面白し。洋服を着るやら、トランクをさげるやら、種種様々の服装でもはや凱旋気分いっぱいだ。(「上羽日記」)
 八時に食事を終わる。皆の者は何時とはなしに徴発に出る・・・あめ、もち米、唯米、それに醤油等、色々と徴発品があったので当番も大助かりだった。(「牧原日記」)
12月21日
 太平門の入口に死体五百名ほどうちころし、無残につんであった。人間ははかないものなり。腹を突き破り、頭、顔など所きらわず切った死体、砲車などなかなか奮戦の跡を思わせる。(「上羽日記」)
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2008年11月25日火曜日

南京大虐殺

日中戦争では、日本軍には捕虜と言う言葉はなかったようである。日本軍人は死ぬまで戦うべきだとして、捕虜になることは最大の恥辱だとされるような風潮があった。1941年には「戦陣訓」が出て、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」という捕虜否定思想の徹底になった。ましてやもっと蔑視、軽視していた中国軍の捕虜に対しては、なおさらその権利を認めなかった。
 中国で戦っていた日本軍(皇軍)は後方支援がなかったから、前進したら、夜営する場所、食糧はすべて、自分たちで見つけなければならなかった。民家に押し入り、食糧や寝床を占拠した。勿論人がいれば殺した。自分たちは正義の戦いをしていると錯覚し、中国人を人とも思わなかったふしがある。人としてどのように扱うか全く考えていなかったようだ。
 中国のその当時の首都南京に入っても、状況は変わらず、当番を決めて、食糧をあさっていた。(徴発していた。)
敗残兵や武器を捨てて民間人に成りすましている(便衣兵)と思われる人などを片っ端から捕まえては、殺してしまった。本来、捕虜を処刑する時、戦時国際法にのっとって、裁判にかけてから刑を執行するのだが、それもしなかった。
 大量の捕虜がでれば、その人たちに食べさせる食糧も必要だ。だが、その時の日本軍には全くの予備の食糧などないのだから、現地指揮官も、どうしていいのか分からなかったのだろう。パニック状態になっていたと思われる。
陣中日誌の続き・・・・
12月15日
話によれば城内北方に敵武装解除したる兵1万5千人いて、これを機関銃で囲んでいるそうな。また、紫金山のトーチカ内に一ヶ師団ほどいて、これも囲んで守っているそうな。ちょう発に行く。面白い、何もかも引っ張り出してさがして行く。(「上羽日記」)
12月16日
南京東側地区掃蕩のため午前7時30分露営地出発、硝石村に向かい前進す。情報によれば南京東地区には敗残兵多数あるもののごとし。連隊主力の掃蕩により敗退する残敵を捕捉殲滅せんとす。
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2008年11月24日月曜日

南京大虐殺

今、私は多くの日本人が出来るだけこの問題には触れたくない・忘れたいと思っている問題を取り上げている。
 でも、加害の事実ははっきりと認識しなければ、日中の真の友好はないだろうし、中国だけでなく、アジアとの共生も難しいと思う。大東亜共栄圏などというまやかしの政策で侵略したのだから。
 笠原教授によると「南京大虐殺の主因は日本軍が南京を防衛する中国軍に対して徹底した「包囲殲滅戦」、つまり中国兵の皆殺し作戦を実行したところにある。その背景には南京攻略戦は「暴戻なる抗日シナのよう懲(日本に歯向かう乱暴な中国を打ち懲らしめる)」のための戦いだという傲慢な考えと、中国軍には戦時国際法を適用しなくても国際的には問題にならないという蔑視と、さらに中国人を「チャンコロ」「シナ人」と蔑称して人間以下とみなす差別意識があった。中島今朝吾第16師団長みずから「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片っ端よりこれを片づくることとなしたる」(「中島今朝吾日記」12月13日)としているように、捕虜は保護せずに虐殺した。
 第13師団山田支隊(若松歩兵第65連隊)も、支隊長山田栴二少将の「陣中日記」に、「12月14日 捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せし所、14777名を得たり。斯く多くて殺すも生かすも困ったものなり」「12月15日 捕虜の始末その他にて本間少尉を南京に派遣し連絡す。みな殺せとのことなり」と書いてあるように、捕虜集団の大殺戮をおこなった。同支隊では16日と17日に長江岸で捕虜を殺戮、18日と19日をかけてその死体を長江に流して片付けたのである。」とある。
 勿論、民間人か、兵士か分からない場合も多々あったので、巻き込まれた多くの一般人も多かったろう。

 昨日の続き・・・
 飛行機残敵掃蕩(「上羽日記」)
 空軍も掃蕩に協力。市の上空を旋回している。午後二時戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。午後12時過ぎ掃蕩から帰る。800名ほど武装解除したらしい。みんな一人残らず殺すらしい。敵兵もよもや殺されるなどと思っていまい。学生が主力らしく大学生なぞ沢山いたという。生かしておけば随分世界文化の発展に貢献する人も有るだろうが惜しいものだ。尊い生命がなんのちゅうちょもなく失われていく。戦争の苛烈な姿をつくづく感じる。(「北山日記」)・・・・

何とも、戦争とはこわいものだ。自分ではしたくないことも強制的にやらされる。
しないと、こっぴどい目に遭うだろう。
皇国日本の軍隊(皇軍)が中国でおこなったことは、何ともむごいことである!!
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2008年11月23日日曜日

南京大虐殺

日中戦争は、満州事変とは比較にならない本格的な戦争であった。日本は1937年(昭和12年)12月の南京占領までの第一段作戦において、陸軍は戦時編成の16箇師団を中国戦線に送り、海軍は第2、第3艦隊と航空隊の主力を使用し、1万8千の戦死者と5万2千の負傷者を出した。(遠山茂樹他著「昭和史」岩波書店)
 近衛内閣は「八紘一宇」などをスローガンに掲げ、侵略を正当化した。【「八紘一宇」とは「世界を一つの家とすること。第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。」(大辞林)】
 天皇が家父長で、周りの国々の人々は下僕として仕えることか?
 国民には勤労奉仕や節約を強制した。パーマネントをやめさせ、国民服やモンペ姿を男女の制服・日の丸弁当をおしつけたりした。
 そのような生活全体が戦争一色の時代である。
南京陥落後、南京で何が起こったか?昨日の続きを書こう。

「今日は国際委員会の設置している難民区へ掃蕩に行くのである。
昨日まで必死で抵抗していた数万の敗残兵は八方より包囲されて唯の一人も逃げていない。結局この難民区へ逃げ込んでいるのだ。今日こそ虱潰しに草の根を分けても捜し出し、なき戦友の恨みを晴らしてやろうと意気込んで配置についた。各小隊に分かれて、それぞれ複雑なシナ家屋を一々さがして、男は全部調べた。大きな建物の中に数百名の敗残兵が軍服を脱いで便服(普段着)と着替えつつあるところを第二小隊の連絡係前原伍長らが見つけた。それというので飛び込んで見ると、なんのそのそうそうたる敗残兵だ。傍らには小銃、拳銃、青龍刀など兵器が山ほど積んであるではないか。軍服のままの者もあれば、早くもシナ服に着替えている者もあり、また、下に軍服を着て、上にシナ服をまとっている者もあるが、いずれも時候はずれのものや不釣合いの物を着ているので、にわかごしらえである事が一目で解った。
 片っ端から引っ張り出して裸にして持ち物の検査をし、道路へ垂れ下がっている電線で引くくり、数珠つなぎにした。大西伍長、井本伍長をはじめとして気の立っている者どもは、木の枝や電線で力任せにしばき付けながら
「きさま達のために俺たちはこんなに苦労しているのだ、エイ」ピシャン
「貴様らのためにどんなに多くの戦友が犠牲となっているのか知れんのじゃ、エイ」ピシリ。
「貴様らのためにどんなに多くの国民が泣いているのか知れんのだぞ」エイ、ピシリピシリ、エイ、この餓鬼奴、ポン「こらこの餓鬼もだ」ポン、素裸の頭と言わず背中と言わず蹴る、しばく、たたく、思い思いの気晴らしをやった。少なくとも三百人くらいはいる、ちょっと多すぎて始末に困った。
 しばらくして委員会の腕章をつけたシナ人に「你支那兵有没有」と聞くと、向こうの大きな建物を指して「多々的有」と答える。その家に入ってみるといっぱいの避難民だ。その中から怪しそうな者一千名ばかり選び出して一室にいれ、またその中より兵隊に違いない者ばかりを選び出して最後に三百人くらいの奴を縛った。金を出して命乞いをする者もあったが、金に欲のない我々は十円札、三枚五枚と重ねたままピリッピリッと引き裂きポイッと投げる。また時計など出すのがあれば、平気で大地に投げつけ靴のかかとで踏みつけて知らん顔している。
 夕闇の迫るころ、六百人近くの敗残兵の大群を引き立て、玄武門にいたり、その近くで一度に銃殺したのであった。(増田六助「南京城内掃蕩の巻」『増田手記』)」
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