笠原教授の「南京事件」の記述による
南京大虐殺の定義と範囲
「南京大虐殺事件は、日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対しておこなった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。
事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦(中国にとっては南京防衛戦)の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中シナ方面軍が南京戦区に突入した、1937年12月4日前後からはじまる。大本営が中シナ方面軍の戦闘序列を解いた38年2月14日が南京攻略作戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後も続いたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村では相変わらず続いていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考える事ができる。だたし、37年8月15日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民に対する無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。」
「陣中日記」の続き
12月22日
於南京 馬家山砲台および同火薬庫一帯南側より清沿山砲台、水道塔、文化学院、漢西陵以北の地区内の捜索を実施す。午後四時掃蕩を了し帰還す。(四中隊日誌」)
特務兵が何処にいたものかシナ兵を引っ張り出して水溜りのところで殺している。你公(にいこう)が大勢たかって見ている。(「北山日記」)
12月23日
軍司令部南京に移動と共に大隊は軍直轄となり同地の警備に任ず。(「四中隊日誌」)
12月27日
漢中門を出て、菜っ葉、水牛の徴発に行く。出たところものすごい死人の山である。五百を超えるであろう。折り重なって殺されている。敵兵が主らしいが一般の你公の服装のもいる。大方敗残兵をしたものであろう。道路の両側も敵兵の死体でいっぱいである。(「北山日記」)
{IMAGINE 9}より
想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和なせかいを。
でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのかな?
一つひとつ考えてみよう。
731を問う!!
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