●731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
●防疫研究室と昭和天皇の関係
●1940年と2020年の東京オリンピック
●731部隊と国立感染症研究所の問題
●731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
●ABC企画委員会
●731部隊・100部隊展
●記憶の継承を進める神奈川の会
対話前に政治犯解放を 民主派「首相」が訴え―ミャンマー
米中の生物兵器開発?
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
日航機墜落事故の原因を究明せよ!!
第6回 戦争の加害パネル展
(感想)
5月6日(木)
45、戦争中に、でたらめなこともした事実を改めて痛感しました。根本的に今も日本の悪しき性質は変わっていない。追記、福島に対して同じことを続けている。恥ずかしい限りである。
(不明、60代、市内、朝日新聞)
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回
731部隊と人権ー裁判から考える
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
731部隊被害者遺族を訪ねて(お話:大谷猛夫さん)
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第6回
隠された毒ガス兵器
『従軍日記』 小津安二郎
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
「公文書管理を考える」(4) 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授
新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】
1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された
歴史改ざん(「風を読む」)
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日 731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日 731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日 731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日 731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した
8月 731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月 100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1929年12月24日~1930年1月4日、長與又郎、1930年4月22日~?宮川米次、1930年4月23日~?宮川の娘婿の岡西順次郎が中国へ出張しているが
何をやっていたのか?宮川の支那漫談とはどんな内容なのか?
実験医学雑誌第16巻雑報
16巻7号(1932年)
6月中職員異動調
月日 異動事項 官職 氏名
5.2 昭和7年5月2日付願研究生継続の件許可す 南茂夫
5.2 昭和7年5月2日付願研究生継続の件許可す 江良一雄
5.3 昭和7年5月2日付願研究生継続の件許可す 大出富吉
5.26大阪府下出張を命ず 教授 二木謙三
〃 大阪府及兵庫県下へ出張を命ず 技師 城井尚義
5.31神奈川県下へ出張を命ず 嘱託 田宮貞亮
6.1 昭和7年6月1日付願研究生継続の件許可す 宮沢国丸
6.3 東京府下へ出張を命ず 技手 工藤正四郎
〃 同 技手 小栗一好
6.21任伝染病研究所技手
〃 同 中村茂一 川喜田愛郎
〃 同 高橋忠雄 藤原正
〃 同 清水文彦 加地信
〃 伝染病研究所における治療研究業務嘱託を解く 中村茂一
〃 伝染病研究所業務を嘱託す 寺岡辰 近藤宙二
〃 同 北川安信 酒井阜二
〃 同 坂野信雄 相良貞直
〃 同 中山高志 原滋
6.30斉藤と改姓 技手 高木亮夫
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
第5 当裁判所の判断
1 ヘーグ陸戦条約3条ないしこれを内容とする国際慣習法に基づく損害賠償請求について(争点1)
(4)事後の実行例に照らした解釈(条約法条約31条3項 (b)
ア 原告らは、各種の判決を挙げ、これ等が事後の国家実行例に該当すると主張するので、順次判断する。
(エ)1997年11月5日ドイツ・ボン地方裁判所判決
第2次世界大戦中に強制収容所において強制労働に従事させられたユダヤ人が賃金の支払いをドイツ政府に請求した事案について、ドイツのボン地方裁判所は1997年11月5日、「侵略者の責任は、すでに両世界大戦の間に国際法の要素となった。その上、占領地の捕虜と一般市民を殺害したり奴隷化したりしてはならないという原則も国際法の一般規則に属しているということについては意見が一致している。この一般規則は、1907年10月18日の陸戦の法規慣例に関するヘーグ第4条条約(ヘーグ陸戦条約)にも表現されている。ドイツ帝国は、ヘーグ第4条を1919年10月7日に批准したので、その規則を遵守しなければならなかった。この条約の付属規則(ヘーグ陸戦規則)52条によると、占領地の市民による課役は占領軍の需要のためにするのでなければ要求することができないし、市民が母国に対する戦争行為に参加する義務も含めてはならない。その上、46条によると、市民の名誉、生命、信仰、宗教は尊重されるべきである。したがって、交戦中のドイツ帝国にとっては、ユダヤ系の市民を軍事工場で、殲滅を目的として非人間的条件下で強制労働させることも禁じられていた。」と判示して、原告の請求を認容した(甲214の1・2)。しかし、同判決では、損害賠償の直接の根拠を国内法(民法典)に求めているから(甲246・52ページ)、この事例をもって原告らの主張を基礎づける国家実行例と評価することは相当でない。
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難
「1931」斉藤準太郎の日記
一月二九日
午前八時起床 関東軍付経理部長来鞍す。加藤家宛に手紙を書く 零下19十九度 晴 風冷たし
朝食が九時半とは驚いた。今日の朝こそ本当に忙しいというような感じがした。関東軍経理部長 佐留閣下という人 顔は見えない いつでも感じることであるが実際嫌になるからね。午後はその反動で割合に暇だ・・・しかし何も書けない 後一日で下番と思っているが もし外れならメンソワーズ 中島が今日も羊羹を持ってきた 友は持つべきものなりか。夜電話をかけて遼陽の瀬谷軍材らに怒られるが面白い。僕もずいぶん変わったものだ。陸軍歩兵軍材を平気でからかえるようになったからな。
斉藤 風邪を引いたよ 中隊のヨーチンに云って薬を送ってくれ 班長殿 班長殿 ほんとうですか まさか色風邪ではないでしょうね。大丈夫ですか。「うん、大丈夫だよ たのむぞ」班長殿 遼陽小唄でも教えてください。服部上等兵の作にかかる唄ね。
横浜の所に手紙を出す。矢張りぶちまけたような書き方で でも信用していてくれる故
安心して出すことができる これで体が自由になったなら僕はあまりに幸せすぎると思ふ
●大江健三郎著
「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)
挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年8月6日ポツダム書店発行)より
Ⅶ 広島へのさまざまな旅
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
ネズミを集め、ノミの飼育
フンドシ一丁の体にノミが・・・・
伊藤影明(いとうかげあき)
1855部隊
(略歴)
1924年生まれ
1943年 北支那派遣軍甲第1855部隊部隊配属
1944年 発疹チフスで入院
1946年 帰国
■この証言は1992年3月の戦争体験を語り継ぐ会(横浜)、731研究会の学習会での発言(94年11月)をもとに本人がまとめたもの。
ノミの飼育
いくら飛び出さないようにしてあってもノミですからその辺に飛び回っています。するとフンドシ一丁ですから、ノミがチョロチョロ足から上がってくるのがわかる。いやもう、これはとてもじゃないけど俺はやれない、と思わずにはいられませんでした。でも、人間「習うより慣れろ」で、最初のうちはそれが上がってくるともう仕事にならず、食いつかれないうちに払っていましたが、そのうち、俺はこれを飼育するために仕事をさせられているのだと思うようになりました。今度は殺さずに掴んで、自分たちの飼育している元の場所に戻すようになりました。愛着と言うのか、そういう気持ちが出てきたわけです。
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ東北
3 遼寧
2 華北
1、河北
紀仇「地獄からの脱出」抄録
盧溝橋で戦争が始まった時、私は北平(1928年から49年までの北京の呼称)が落ちるはずはないと信じ込んでいた。そのため、北平が陥落してからやっとこの地を離れた。だが、途中で日本の憲兵に捕らえられ、私は自分を商人だと言ったにもかかわらず、彼らは私を拘留所に5日間監禁した。暗く陰気で湿気に満ちた拘留所に入ると、中には7,8人が1列に並んでおり、事の次第を見極めた時には、私は驚きで気絶しそうになった。彼ら8人は皆鼻がなく、さらに見ると、耳の位置にには耳の代わりに紫色の血の塊がこびりついていた。7,8人は1本の針金でつながれており、針金は口の中を通って両頬に穴を開けて顎の付け根を貫いていて、まるで馬をつなぐ縄のようだった。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第6章 アジア太平洋戦争期の毒ガス戦
3 1943年中の中国戦線における毒ガス戦 掃蕩剔抉と殲滅戦
江南・江北・常徳殲滅戦
江北殲滅作戦は、漢口・岳州・沙市を結ぶ地帯にいた中国軍の部隊を全滅させる目的で2月13日から3月31日にかけて行われ、第13師団の歩兵第65連隊は、2月1日から3月31日までに「小あか筒」31本・「中あか筒」30本・「発射あか筒」54本・「みどり筒」2本・「みどり手榴弾」5発を使用した(同連隊「江北殲滅作戦戦闘詳報(第44号)」。歩兵第65連隊長櫻井徳太郎大佐は、白兵により〈寡かもって衆を撃つ〉という日本陸軍が理想としていた戦術を体現しようとした代表的な存在だが、3月21日の沙道俔付近の戦闘では(「小あか筒」20本・「発射あか筒」15本も使用)、中国軍が頑強に抵抗するので、「夜襲、而も焼き討ちを決行」して「一挙に敵を圧縮殲滅」する命令を下し、中国軍を完全に包囲して夜に一斉に放火、「沙道俔ことごとく火の海と化し火焔は天に沖し黒煙空を覆いかつ銃声は夜に入ると共に昼間に倍化しその惨憺たる光景あたかも生き地獄に等し」という凄惨な情景をもたらし、攻略に成功した(同前)。江北殲滅作戦の結果、中国軍の遺棄死体8640・捕虜23214名を数え、この地区の中国軍のほとんどを撃滅あるいは捕虜にしたので「文字通りの殲滅戦であった」とされる(防衛庁防衛研究所戦史室編『昭和17、8年の支那派遣軍』)
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第7章 残虐な毒ガス戦
動かしようのない事実
1937年8月13日、日本軍は上海に進攻し、松滬(ソンフー)事変を引き起こすと、上海地区にも別の化学部隊を送り込んだ。
その部隊は次の通りである。
部隊番号 編成時期 所属部隊
迫撃第1大隊 1937 .9.18 近衛師団
迫撃第4大隊 1937 .9.18 第10師団
第2野戦実験化学部 1937.8.24 第1師団
野戦瓦斯第7小隊 1937.8.14 第7師団
野戦瓦斯第1中隊(甲) 1937.9.9 近衛師団
野戦瓦斯第2中隊(甲) 1937.9.9 近衛師団
華北にあった北支那派遣軍の1部が上海作戦に派遣されたことに伴い、その配属下にあった化学部隊も上海に移動した。
●『三光』 中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
核時代39年(1984年)5月初版発行
日本鬼子(リーベンクイズ)
村落掃討
上級将校の罪行
野間栄作
V
ついで、朝の寒さと不安に3時間余りも晒されていた村民を一列縦隊にして、村長の覗いている廟の東側を歩かせ、内側にいる安達少尉の白旗が左右に振られた時に前を通った者を、列外に引き出した。
約1時間半後に、検挙者3名と村落点検の時に捕まえた2名と合わせて5名を縛って、下庄に引き上げ、拷問を加えたが、村落内で捕らえた2名は「病気で寝ていたが、日本軍が侵入したことを知ったので、ただ恐ろしくて隠れたのだ」と言い、他の3名は、「行商のために五家村に来た」と言い、いくら打っても叩いても、それ以上のものは何も聞き取ることができなかったので、癪に触って労工要員として処理するよう命じた。
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。
連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp
『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)
藤井治夫著
第二章国家機密の構造
5 「秘」の性格と内容
すべての文書が「秘」
自衛隊も全く変わらない。その実態について検討をすすめよう。前記航空自衛隊の「秘密保全に関する達」は、「秘」の指定基準として次の19項目をしめしている。
第11条 訓令第5条第3項の秘密区分の秘に指定すべき知識又は文書等は、次の各号の基準 によるものとする
(1)平常時における航空自衛隊の部隊行動、配備計画及び主要補給品、施設等の配置計画並びにこれらに伴う命令、報告等で秘匿を要するもの
(2)平常時における部隊の移動計画、補給品、装備品の配分若しくは輸送の計画又はこれらに関する命令、報告等で秘匿を要するもの
(3)航空自衛隊の出動実力の一部をは握するに足る情報
(4)年度の各種見積で秘置を要するもの
(5)通例の情報報告書
(6)部隊行動の結果得た教訓で秘匿を要するもの
(7)教範又は技術上の取扱書等で秘匿を要するもの
(8)訓練の計画及びその成果で秘匿を要するもの
(9)将来使用さるものを含み、訓令第5条第3号に該当する装備品等並びにこれらに関する資料又は情報
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。
Ⅳ 安保体制下の生物化学兵器
2 生物・化学兵器と階級的視点
戦略兵器の変化
これを軍事戦略で見るならば原爆独占による動員戦略は、ソビエトの原爆開発によって破綻し、アイゼンハワーの「大量報復戦略」どうなって核兵器の軍備競争に発展していった。アイゼンハワー大統領が 退任演説で、第2次世界大戦後の新しい現象として生まれた「巨大な軍事組織と大軍需産業の結合体」(ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス)によって「祖国が未だかつて直面したことのない重大な脅威」にさらされていることについて警告する動機となったミサイル・ギャップ論争が発生するのはこの時期である。
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第16章 神秘性をとりもどす
Ⅲ
その一方で、天皇の戦争責任は、いくら頭を切りかえてもぬぐい去れるものではなかった。天皇への無関心もまた広がっていた。そして少数派の左翼の間では、その口べたはからかいと嘲笑の的であった。
『真相』 第40号 (1950〔昭和25〕年4月1日)。日本の政治思潮が右に振れた時期でさえ、諷刺雑誌はスポットライトのもとで脱帽する天皇を人骨の上に立たせた。アメリカの政策が、極東軍事裁判で天皇を戦犯として起訴することは防いだものの、少数といえど無視できない数の日本人は戦争中の重大な誤りをしっていて、けっして許そうとはしなかった(三一書房『真相 復刻版』より)
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
※私が考える、今の異常気象の要因は
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
4、自動車社会の排ガス
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
● 核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
インド
詳細は「インドの核実験 (1974年)」および「インドの核実験 (1998 年)」を参照
1974年5月18日 ラジャスタン州ポカラン砂漠で初の原爆実験。
1998年5月11日・13日 熱核反応装置(水爆に相当)実験に成功。
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future
●核融合もすべきではない!!
核開発に反対する物理研究者の会通信
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より
封印された原爆報告書
水爆実験
JCOの臨界事故
福島第1原発事故
●核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
●日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病
●731部隊(unit731)
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!
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