●細菌(生物)戦争
●『BCGと人体実験』 美馬聡昭著
●731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
●防疫研究室と昭和天皇の関係
●1940年と2020年の東京オリンピック
●731部隊と国立感染症研究所の問題
●731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
●情報公開裁判「化学学校記事」「衛生学校記事」
●ABC企画委員会
●731部隊・100部隊展
●記憶の継承を進める神奈川の会
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
関東大震災と朝鮮人虐殺「なかった」ことにしたい集会、誰が参加するの か?
歴史改ざん(「風を読む」)
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルス。これは、細菌戦(生物戦)ではないのか?
過去に、日本が中国で行なった細菌戦のように。(以下は現在分かっている細菌戦)
日本政府・日本医学界が、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に立ち向かわない限り、オリンピック開催はないであろう。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日 731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日 731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日 731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日 731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した
8月 731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月 100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
【コロナは生物兵器か】人工のコロナウイルスショックによる文明の転換点 船瀬俊介氏が語る
米軍300人が新型コロナの感染が広がる前に武漢にいたという。
新型コロナウィルスを撒いたのは??
10分で学びなおす 「731部隊」より(『週刊現代』より)
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
検証・中国に於ける生体実験
東京帝大医学部の犯罪 美馬聡昭著 桐書房(2013年)
第4章 伝染病研究所と「実験医学雑誌」の雑報
日中戦争始まる
731部隊は1938年から活動開始
1938年4月1日から5日間、京都において第10回日本医学会が開催された。4月5日、日本医学会総会の機会を利用して、宮川米次は、各国立大学総長、医学部長、医科大学長らを京都ホテルに招待し、対支防疫事業を説明して、協力と援助を求めた。
宮川米次が、京都ホテルで対支防疫の説明をする直前、所員の石光、中込氏が陸軍技師に任ぜられ、彼らはともに、北満石井部隊に赴任した。それぞれ3月31日、4月2日東京を汽車で出発した(雑報、22巻4号)。
石光とは石光薫(東大 一九二〇年卒)中込とは中込亘(東大 一九二七年卒)である。
また二木秀雄、石川太刀雄丸(京大、1931年卒)、岡本耕造(京大、1931年卒)、田部井和(京大、1931年卒)、吉村寿人(京大、1930年卒)、田中英雄(京大理、1932年卒)なども、1938年3月平房の石井部隊に入隊している。
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
中国の記者が見た判決公判見聞録
會海波(湖南経済テレビニュースセンター記者)
判決の傍聴
裁判長は立ったまま、おもむろに判決書を読み上げ始めた。判決書を読み始めた途端、記者は次々と離籍し、法廷の外に飛び出していった。裁判長はまず最初に、原告らの請求を棄却し、訴訟費用は原告らが負担するという判決主文を読み上げたのだった。その後は44頁にわたる判決理由であった。裁判長は、当時731部隊は陸軍中央の指令の下で、細菌兵器を使用し、多くの民衆が死亡するという結果をもたらした事実については認めたが、「個人の損害賠償請求権を認めない」という理由で、日本政府が謝罪し、18億円を賠償せよという、原告らの請求に関しては、全面的に棄却した。5年間続いた「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟」一審は、敗訴の結果で幕を閉じた。期待と現実の落差があまりに著しく、退廷する際の原告と支援団の顔は、失望と憤怒に満ちていた。
●731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
731部隊の行なった細菌戦
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難
●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
二月六日
晴 風少し 零下十九度 巡察あり遼陽張台子間 午後六時より九時至 中隊総出警戒実施
午前七時起床す 今日は中隊総出の警戒だ 分遣から行かなくてもよさそうなものだ
しかし命令ならば是非もない 遼陽張台子間非常に寒くやり切れない 遼陽を午後六時出発す 今日の巡察は非常に緊張した 最も寒さの為でもあるが 大子河前の二千米くらいの闇道を巡察中 左の部落で銃声を聞く 三発弾の飛ぶような音だ 然し遠き故大したことなし 工事事務所にて休む 非常に親切だ 日本人はつくづくありがたいと思った
出発の時には寒い風の中を見送ってくれた それより一千五○○位の所右の采囥子の部落に於いてまたもや銃声 今度は非常に近し 音よりの推定300位 大きな音は眠れる部落の犬を起こした 一斉に吠え出した 非常にむかつく巡察兵を知ってか知らずか 続いて一発また前よりも一層大きく響いた やむなく兵をその場に伏を命ずると共に その約十分間様子を見れども異常なき故 そのまま巡察した 午後八時ごろだ 支那人なんて危なくてやりきれない 怖い為に撃つらしいが夜中では部落に入ることもできず 腹が立っても 如何ともすることが出来ない
●パネル展「戦争の加害」感想(2020年7月27日~31日)
7月30日(木)
22、よく書かれていますね。マレー侵略について、現地に友人と調べています。ペナンの友人は、当時の衣川毅夫と栗田朝一郎を調べています。
(男性、60代、町田市、メール)【マレー侵略】
1 広島への最初の旅
安井理事長が部屋に入ってくる。待ち受ける理事たちはみんな苛立って疲れ、いくらか悲しげだ。彼らもまた、原爆記念館の廊下とんびの記者達や、平和公園の樹かげに群をなして坐りこんでいる、早く到着しすぎた参加者達同様、つんぼ桟敷で忍耐していたのである。彼らは安井理事長に、怒りと哀願のこもごもあらわになる憔悴した声、ほとんど叫び声に似た声で質問する。もっと率直な連中は、かくも長く彼らを不安な無知の状態においた、担当常任理事(即ち、彼らがこの原水爆禁止世界大会のプログラムを具体的に担当しているのだ)と安井理事長に釈明をもとめる、憤りもあらわに。
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編
序ー 731部隊がいかにして作られ、またいかにして歴史の闇に葬られたのか?
太平洋のアメリカ軍への攻撃、本土のサンディエゴ港攻撃の計画まで立てらたが、ソ連軍の“満洲”侵攻と同時に、軍中央の指示で部隊は全ての施設、器材を破壊し、証拠となる物を焼却して、いち早く日本内地へ逃走、潜伏した。
戦犯の累が天皇に及ぶのを恐れた日本軍上層部の意向は、アメリカの利害の判断、方針と一致した。既に1941年1月から、日本の細菌戦の準備を危惧して除法を収集していたアメリカ軍は、終戦と同時に科学調査団の専門家がムーレイ・サンダース中佐を派遣してすぐさま調査に乗り出した。その間、731部隊との間で、かつての大本営作戦課長服部卓四郎や大政翼賛会の政治家亀井貫一郎、石井の右腕・内藤良一らが暗躍、1946(昭和21)年初めまでには、マッカーサーとGⅡ(参謀Ⅱ部)に戦犯免責を取り付けた。
・『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』
中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
三 警察・憲兵の第731部隊への「特移扱」
芳信雅之自筆供述書(1954年6月18日)
1943年6月、山東省堂邑、冠県地区に於いて、「共産軍が斉子修部隊(兵力約5千人と称していた)の内部で工作を行っている」との情報が入り、しかも同部隊の対中共軍作戦の士気は低下し、日本軍に反旗を翻す恐れがあったため、師団では同部隊を消滅させようと計画した。師団(兵力約6個大隊)による斉子修部隊武装解除の陰謀事件において、私は師団情報係で次のような仕事をした。
・・・・・・・・・
3、武装解除の前日の午後、斉部隊の幹部と部下の者たちを隔離するため、命令伝達という名目で、斉子修と幹部5,6名を呼び寄せた。
4、師団の護衛兵1個分隊を自ら指揮して、博平県城内の斉部隊弁事処を襲撃し、8名ほどの武装を解除した。
子の陰謀実施の結果、戦闘とペテンという手段で、約900人の武装を解除し、偽満洲労工協会を通じて「満洲国」に送り、「特殊労務者」として労役に就かせた。こうした人々のほとんどは、国境地帯陣地構築の過程で死亡したが、石井部隊に送られ細菌実験材料となって殺害された人もいるということだった。
(1)119-2、869、1、第5号
原注:芳信雅之は当時、山東駐留日本軍第59師団参謀ぶ情報主任、中尉であった。
※訳注:満洲労工協会―1938年1月、満洲国の労働需要を満たすため、満洲国政府、満鉄、大東公司などの共同出資で設立された労働統制機関。労働者の募集・訓練。調査などを実施、後には大東公司を吸収した。なお、同協会は1941年10月により強力な労務興国会に改組されたので、本証言中の43年の時点では労務興国会のはずである(小林前掲書、285、466頁、前掲『満洲国史』各論、1160頁)
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第1章 毒ガス兵器の研究と開発
6 日本海軍の毒ガス研究
海軍毒ガス兵器の種類と用法
海軍では毒ガスを含む毒物を「特薬」と呼び、塩化アセトフェノン(催涙性ガス)を一号特薬、ジフェニルシアンアルシン(くしゃみ性・嘔吐性ガス)を二号特薬、イペリット(糜爛性ガス)を三号特薬甲)、ルイサイト(糜爛性ガス)を三号特薬乙、青酸(血液中毒性ガス)を四号特薬と呼称した。また、硫黄を窒素に置き換えて毒性を増した窒素イペリットも開発していた(小池栄二「海軍の研究生活ー平塚技術大佐と共にー」相模海軍工廠刊行会編『相模海軍工廠』)。一号・二号特薬と三号特薬乙は平塚分所で製造し、三号特薬甲は寒川の本廠で製造された。なお、四号特薬の製造設備は特になく、民間企業から調達していたとされる。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第13章
毒ガスは消えず
死の谷踏査記
帰途につくときにはすでに夕日が傾いていた。振り返ると、「毒弾溝」入口の4本の楊の木は忠実な番兵のようにそこに立っている。それは一種の目印であり、一種の戒めである。私たちは無言でその木たちに敬意を表し、別れを告げた。
●『三光』 中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
糧穀の略奪
冷酷非情な取り立て
引地 章(ひきじあきら)
警察署長 警正
(略歴)
学歴 高等小学校卒業
所属 旧満国 図們警察署
年齢 54歳
この日警務科から電話があって、県に帰って来るなら、今朝興隆鎮を出た県の半乗用トラックが、呉新任警務科長を乗せ帰る途中、双河署に回すよう手配するというので、赤沢開拓股長と2名の中国人工作者を残し、引地は双河署から帰県することにした。乗車台には、引地と呉錦寅警務科長、トラックの上には、興隆鎮曹署長と2名の警察官だけだった。引地はトラックから降りて、曹署長たちに何か話ししようと彼らの所へ上がって行ったが、彼らは何となくそわそわしていた。引地は少し変だぞと、例の刑事根性を働かせ、薄闇にすかして見ると、稲わらが積まれ、その下に麻袋らしいのが積んであった。引地は署長にあれはどうしたのかと尋ねた。曹署長は、「これは私と森林隊長と相談して、呉科長殿と警正殿と警務科長に、正月用の餅米5袋、小豆2袋、白麺5袋、ほかに猪3頭を持ってきたのです」と、言うのであった。
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
・731部隊関連の「情報公開裁判」に関する報告
和田千代子(731細菌戦部隊の実態を明らかにする会事務局長)
第3 『化学学校記事』裁判の問題点と争点
公文書である『化学学校史』から『化学学校記事』発行の活動を消したのは、1969年7月から10月に、『化学学校記事』をめぐる社会的事件が起きたことからです。
具体的に言うと1969年7月の沖縄米軍化学兵器接触事故の報道、7月23日、第61回国会の衆議院外務委員会における伊藤惣助丸衆議院議員の国会質疑、8月4日の楢崎弥之助衆議院議員の「在日米軍及び自衛隊における化学・細菌作戦に関する質問主意書」、10月15日、久保綾三氏の出版物『BC兵器』に「化学学校記事」の論文を引用し化学兵器の使用訓練が行われていると批判され社会問題化していました。
・次回『衛生学校記事』情報公開裁判(第26回)東京地裁419号法廷
10月15日(木)14:00~(定員19名・・・コロナ禍?)
・次回『化学学校記事」情報公開裁判は(第16回)東京地裁?号法廷(未定)は
12月16日(水)11:00~になりました。
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。
Ⅳ 安保体制下の生物化学兵器
二 生物・化学兵器と階級的視点
生物・化学兵器と階級的視点
第1次世界大戦後に萌芽を見た国家独占資本主義がその形を整えたのは、1929年に始まる大恐慌の打開策として、国家権力が独占と癒着したしたときにその契機を見出すことが出来る。この典型的形態ははアメリカニュー・ディール政策、イギリスの英連邦特恵制度、ドイツのナチズム、日本の準戦時体制に見られるのであるが、国際貿易では、貿易と為替の国家管理、世界市場ではその再分割をめぐってブロック経済、あるいは広域経済が登場する。それは、必然に1931年の日本による満洲、イタリアのエチオピア(1935年)、ドイツのチェコスロバキア(1938年)への侵略をもたらし、この3国の軍備拡張ー戦争政策が第2次大戦の原因になるのである。
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第13章 遅すぎた降伏
Ⅱ
鈴木内閣と最高戦争指導会議は、皇位ともっとも重要な天皇の大権の将来が絶対的に保障されないかぎり、戦争終結を決定することはできなかったのであり、日本民衆をさらなる困苦から救おうとして和平工作を構想したわけではなかった。その代わり、民衆が反軍、反戦の感情から国体の変革に向かうことを防ぐために、面子を保って降伏する口実が与えられる状況を外敵がつくり出すのをただ待っていた。ソ連参戦に引き続く原爆投下は、彼らが求めていた口実を与えるものであった。8月12日、米内光政が高木惣吉少将に次のように語ることできたのは、(田中伸尚が指摘したように)このような理由があったからである。
私は言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦をやめるということを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は、敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾出来るというのは寧ろ幸いである。
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
地球の温暖化や異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
●『二酸化炭素温暖化説の崩壊』広瀬隆(集英社新書 2010年発行)
第2章 都市化と原発の膨大な排熱
最悪の地球加熱装置
―原子力発電所
自然破壊の実態
白化が問題になっているサンゴ礁は、1998年と2007年に、世界遺産のサンゴ礁グレートバリアリーフや沖縄県の八重山諸島近海でサンゴの白化現象が発生して「地球温暖化だ」と大きく騒がれた。しかし1998年と2007年はいずれもラニーニャが発生した異常な年で、地球の温暖化のためだという根拠はどこにもなく、2007年は寒冷化の時期にあたる。サンゴについて、最近の人間は、地質学や考古学の初歩的知識を知らないらしいので驚く。
※私が考える、今の異常気象の要因は
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
4、自動車社会の排ガス
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
●核実験(ウキペディアより)
若くして白血病で亡くなった夏目雅子、本田美奈子、また五輪候補選手だったスイマーが白血病になったのは、放射能の影響ではないのか?
核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イギリス
イギリス初の核実験を伝える西オーストラリア新聞
モンテベロ諸島と西オーストラリアの間の珊瑚礁(オーストラリア)での核実験。
· 1952年10月3日 初の原爆実験。コードネームハリケーン。
エミュー(オーストラリア)での核実験
1953年実施
マラリンガでの核実験
1957年にアントラー作戦が行われ、3度の実験を行っている。
クリスマス島での核実験
水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)
●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future
●核融合もすべきではない!!
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より
・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。
封印された原爆報告書
水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した!!
JCOの臨界事故
福島第1原発事故
●核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
●日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病
●731部隊(unit731)
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!
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