●細菌(生物)戦争
●『BCGと人体実験』 美馬聡昭著
●731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
●防疫研究室と昭和天皇の関係
●1940年と2020年の東京オリンピック
●731部隊と国立感染症研究所の問題
●731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
●情報公開裁判「化学学校記事」「衛生学校記事」
●ABC企画委員会
●731部隊・100部隊展
●記憶の継承を進める神奈川の会
※日本も大統領制にして、国民投票で決めたらどうですか?
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
関東大震災と朝鮮人虐殺「なかった」ことにしたい集会、誰が参加するの か?
被服支廠キャンペナーズと喋ろう
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルス。これは、細菌戦(生物戦)ではないのか?
過去に、日本が中国で行なった細菌戦のように。(以下は現在分かっている細菌戦)
日本政府・日本医学界が、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に立ち向かわない限り、オリンピック開催はないであろう。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日 731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日 731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日 731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日 731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した
8月 731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月 100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
【コロナは生物兵器か】人工のコロナウイルスショックによる文明の転換点 船瀬俊介氏が語る
米軍300人が新型コロナの感染が広がる前に武漢にいたという。
新型コロナウィルスを撒いたのは??
10分で学びなおす 「731部隊」より(『週刊現代』より)
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
検証・中国に於ける生体実験
東京帝大医学部の犯罪 美馬聡昭著 桐書房(2013年)
第4章 伝染病研究所と「実験医学雑誌」の雑報
日中戦争始まる
まず君が代斉唱の後所長の式辞があり、続いて食堂において簡単な立食の宴が催された。かねてから所内より募集当選した所歌(伝研の歌)を合唱し、席上長与東大総長が祝辞を述べ、二木謙三の発声で万歳を三唱して散会している。
1937年7月7日、日中戦争が始まった。このとき内閣総理大臣は近衛文麿であった。彼は戦前3回内閣総理大臣になった。1回目は1937年6月4日から1939年1月4日、2回目は1940年7月22日から1941年7月18日、3回目は1941年7月18日から10月18日までである。終戦後の1945年12月16日には、青酸カリを服用して自殺した。
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
中国の記者が見た判決公判見聞録
會海波(湖南経済テレビニュースセンター記者)
日中の支援者が共に訴える
これに対して、他の日本人は、支援活動に余り関心を持っていないようであった。常徳支援団の楊さんは、東京地方裁判所入口で、ビラをまいたが2時間後、受け取ってもらえたビラの数は200枚がやっとであった。また、訴訟を支持するのは、ほとんどが年配の人達であった。若者たちはこの歴史的事実をあまり知らず、関心さえも持っていないようであった。日本の若者である近藤さんは、「日本政府は確かに多くの事実を隠蔽しました。我々は事実を全く知りません。私は、調査に参加して初めて、事実を知るようになりました」と述べた。
●731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
731部隊の行なった細菌戦
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難
●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
二月三日
晴 風あり 巡察あり 遼陽張台子間三里半 零下十八度 非常に風冷たく泣き出しそう 構内巡察あり
巡察あり遼陽張台子間三里半の行程は閉口だ。第二八一列車にて張台子に行く車の情景を書く。満州の小学生の通学ぶりを 満州の女学生は内地よりも早熟であることは実際である。小学校六年生位からは早くも変な風に見える テストを踏んだり わざわざ靴下を直したりその他色々ある。しかしこうした小さい車よりも 沿線の父母故に駅に貨物で通学する小供が約二十五名位ある。
今日は非常に寒く風あるために 僕は飛びそうだ 大子河の飯場で少し休ませていただく。矢張り日本人の人達は親切だ いろいろ話しているうちにお茶は頂く、ミカンは頂く、仕舞には入浴に入って行けなんて言われる。なんでも武豊の人だそうだ。広いようで狭いとは実によく云う 故郷が思い出されたもんだ。武豊なら海一つ隔てた割合に良い街だ そんなこと言われると一入故郷が思い出される。なんぼ辛いことか。
●パネル展「戦争の加害」感想(2020年7月27日~31日)
7月30日(木)
19、〇をしたもの(南京大虐殺、731部隊、日本軍慰安婦)は、研究書を読んで知っていましたが、写真・証言など目の当たりにして改めて加害の大きさを実感しました。日本もドイツのように被害者や被害国が納得するまで、謝罪補償を続けるべきでしょう。広島・長崎の記録集のように大判の関係資料集を作って普及すれば事実が広く知られます。事実を事実として受け止める事、事実を広く知らしめることで、初めてスタートラインに立てると思います。被害の体験を展示したり、語る会は多いのですが、こうした加害の展示は非常に有意義であると思います。
(男性、60代、市内、友人)
1 広島への最初の旅
記者章をシャツの衿に付けている僕は、どこでも閉め出されてしまう。閉め出された記者達、早く到着しすぎた参加者たち(早すぎる?しかし今日の午後には平和行進の人々が広島に入って来るし、夕暮れにはその歓迎集会がある、と彼らは反発する)、それに原水協の常任理事たちまでが、途方に暮れて廊下をうろうろしベンチに座り込んで嘆息したりしているのだ。そしてみんな挨拶の言葉のように、≪いかなる国・・・・≫とつぶやいている。それは最初、≪いかなる国の核実験にも反対する、という例のテーマが相変わらずの癌なんだよ≫というような言葉だったのだろう。しかし、今や誰も彼も≪いかなる国・・・≫とだけ憂わしげにささやきがあっては嘆息する。≪いかなる国・・・・≫、ここは、いかなる国、死者の国、他人どもの国?僕は夜明けの荒涼たる無人の印象と旅行者たちの身震い思い出す。
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編
序ー 731部隊がいかにして作られ、またいかにして歴史の闇に葬られたのか?
部隊は八つの部と、ソ連国境の要衝に置かれた四つの支部で、それに大連支部から構成されている。部隊の中心部に2棟の特設監獄があり、38年には“特移扱”(特殊移送扱い)という都合のよい手続きを作ったて、各地の憲兵隊から、思想犯や浮浪者、アヘンの中毒者に至るまでを“マルタ”(被実験者)として「裁判に附さず、事件送致せず」に続々と送り込んで監禁し、自在に研究に使っていた。“マルタ”は中国人、ロシア人、朝鮮人、モンゴル人らで、ときには女性や幼児まで含まれていた。
・『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』
中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
三 警察・憲兵の第731部隊への「特移扱」
三田正夫自筆供述書(1954年6月22日)
しかしこの機関の研究内容と陰謀については、私は知らなかったので、私の送った人達は松花江の方に移送されたとばかり、ずっと信じていた。1949年10月頃、ソ連の日本人戦犯に対する尋問で、寛城子の陰謀機関(100部隊)も細菌実験をしていたことを初めて知った。そこに私は大勢の中国人を送り込んだのである。何人を送り込んだかはあまりはっきりしないが、司法科の報告から推測すると、平均して1ヶ月か2ヶ月に1回ずつの割合で、1回につき最低7、8人だったようだ。このほか、私が自分で許可を下して送った人もいた。例えば1944年3月頃、「満洲映画」の脚本家李季楓の捜査のために、同時に多くの脚本家や俳優、及びその関係者を逮捕したが、特務科長が、その中の一部を憲兵隊に送るよう提案したので、私はこれを許可した。ここから見るに、送られたのは決して、単に失業者のみではなかったのである。このほか、重大な刑事事件の関係者の中にも送られた人がいた。
(1)119―2、763、3、第3号
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第1章 毒ガス兵器の研究と開発
6 日本海軍の毒ガス研究
陸運から教わる
そして、1923(大正12)年に海軍技術研究所研究部内に化学兵器研究室(室長・金子吉忠造兵大尉)が設置されて研究が始まったが、9月の関東大震災により技術研究所は大きな被害を受けた。化学兵器研究室は焼け残った建物を利用して研究を再開するが、翌年には特殊化学兵器研究費が交付されて研究が進展する。海軍の毒ガス研究員は、久村砲兵中佐が陸軍科学研究所で行った講義を聴講するだけでなく、陸軍科学研究所がメッツナーを招いた時も、この講義に参加して知識を獲得した。一般的に陸海軍は不仲で有名だが、毒ガスに関しては親密だったのである。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第13章
毒ガスは消えず
死の谷踏査記
ひとつの石碑の近くで、案内役がスコップで雪をかき分けると、様々な形の砲弾が次々に姿を現した。ゴタゴタとそこに横たわっている。数十年間風雨にさらされ、弾体の本来の灰緑色はもはや存在せず、黄褐色のまだらな錆がこれにとって変わっている。砲弾の信管は既に取り外されているため、弾体のてっぺんには丸い穴がある。軍事面の常識として、これらの砲弾が起爆する可能性のほとんどないことは私たちも知っている。しかし弾の中の毒剤は半永久的に効力を失うことがなく、何時でも流れ出てきて傷害を起こすかもしれないのである。1つ1つの黒い穴は、罪なき庶民に向かってパックリと開いた大きな口ではあるまいか?
●『三光』 中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
糧穀の略奪
冷酷非情な取り立て
引地 章(ひきじあきら)
警察署長 警正
(略歴)
学歴 高等小学校卒業
所属 旧満国 図們警察署
年齢 54歳
子どもは泣き叫ぶ、腰の曲がった老婆は押しひしがれる。荷物は鞄、小箱、風呂敷、布団の類だが片端から解かせて検査するので相当時間がかかる。白麺5斤、粟10斤、餅キビ3斤、白米8斤、朝鮮人の飴10斤とか、高粱米10斤、小豆5斤、餅子20個などが出た。予想外の獲物だと引地は、餌にありついた狼のように、前の車へ行ったり後ろの車へ行ったりして、それを開けろ、これをやれ、口やかましく指示して、どうだと言わんばかりの自慢顔をしていた。この暴圧に、引っかかったものは合計12名であった。 劉署長は恐る恐る、「軽微な者は帰してはどうですか、警正殿」と、言った。引地は目を吊り上げ。「黙れッ、全部署へ同行するんだ。経済保安主任が取り調べをやれ。後で情況を聞くことにする」と、警察署へ同行させてしまった。12人の人たちは代わる代わる劉署長や経済保安主任に、品物は出しますからバスに乗せて帰してくださいと、頼んでいたが、県の県正が許さぬからと叱りながら連れて行ったのである。
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
・731部隊関連の「情報公開裁判」に関する報告
和田千代子(731細菌戦部隊の実態を明らかにする会事務局長)
第2『衛生学校記事』裁判の問題点と争点
金原資料2028点の中には『衛生学校記事』89冊が含まれていますが、これは行方不明の中にあると言うのです。しかし、金原資料を破棄した事実もありませんから、防衛研究所から衛生学校に戻って来てからの資料保管の経過を厳密に調査すれば、出てくるはずなのです。
現在、私達は、裁判で1995年から1996年の金原資料の移管事務を担当した複数の担当者の陳述書を要求しており、近く被告から提出される予定ですし、防衛省の説明責任が求められています(なお次回4月23日は新型コロナのため延期されました)。
・次回『衛生学校記事』情報公開裁判(第26回)東京地裁419号法廷
10月15日(木)14:00~(定員19名・・・コロナ禍?)
・次回『化学学校記事」情報公開裁判は(第16回)東京地裁?号法廷(未定)は
12月16日(水)11:00~になりました。
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。
Ⅳ 安保体制下の生物化学兵器
二 生物・化学兵器と階級的視点
戦略兵器の変化
これを軍事戦略で見るならば原爆独占による動員戦略は、ソビエトの原爆開発によって破綻し、アイゼンハワーの「大量報復戦略」どうなって核兵器の軍備競争に発展していった。アイゼンハワー大統領が 退任演説で、第2次世界大戦後の新しい現象として生まれた「巨大な軍事組織と大軍需産業の結合体」(ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス)によって「祖国が未だかつて直面したことのない重大な脅威」にさらされていることについて警告する動機となったミサイル・ギャップ論争が発生するのはこの時期である。
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第13章 遅すぎた降伏
Ⅱ
佐藤大使、元外相の重光葵、有田八郎のいずれもソ連の仲介で戦争終結ができるとは思っていなかった。東郷外相自身もこれに疑問を持っていた。しかし、東郷は、大権について国際的な保障を求めていた天皇の意に沿って事を処理しようとしていた。そのため8月4日、下村海南情報局総裁が東郷宅を訪問して、「ソ連だけを相手にしていたのではダメではないか。このままでは見込みがないから、米、英、中に裏道からでもいいからわたりをつけるべきだ」と説いたときですら、連合国と直接交渉することに同意しなかった。
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
地球の温暖化や異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
●『二酸化炭素温暖化説の崩壊』広瀬隆(集英社新書 2010年発行)
第2章 都市化と原発の膨大な排熱
最悪の地球加熱装置
―原子力発電所
自然破壊の実態
中国の新疆ウイグル自治区タリム川周辺の砂漠化も、全く同じ農業用の取水によって中流から下流域の流量が激減したことが原因である。
二酸化炭素温暖化論に基づいて発表されている野生生物絶滅などの被害想定は見当違いのものばかりである。
野生生物が生きられなくなる原因を、これらの生き物に尋ねてみれば良い。人間が行う樹木伐採と、山林での道路建設が、ほとんどの原因である残りは密猟だ。
※私が考える、今の異常気象の要因は
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
4、自動車社会の排ガス
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
●核実験(ウキペディアより)
若くして白血病で亡くなった夏目雅子、本田美奈子、また五輪候補選手だったスイマーが白血病になったのは、放射能の影響ではないのか?
核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アムチトカ島での核実験
1965年から1971年までにアラスカのアムチトカ島で3回実験が行われた。1971年11月6日の"CANNIKIN"は地下実験最大の5Mt(迎撃ミサイル「LIM-49A スパルタン」のW71核弾頭を使用)であり、各国の抗議を引き起こした。グリーンピースは、この実験を契機として発足した。
水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)
●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future
●核融合もすべきではない!!
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より
・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。
封印された原爆報告書
水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した!!
JCOの臨界事故
福島第1原発事故
●核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
●日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病
●731部隊(unit731)
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!
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