2020年9月12日土曜日

細菌戦の系譜!!

 中国侵略戦争

細菌(生物)戦争
『BCGと人体実験』 美馬聡昭著
731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
防疫研究室と昭和天皇の関係
1940年と2020年の東京オリンピック
731部隊と国立感染症研究所の問題
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
情報公開裁判「化学学校記事」「衛生学校記事」
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会

※日本も大統領制にして、国民投票で決めたらどうですか?



           

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

    関東大震災と朝鮮人虐殺「なかった」ことにしたい集会、誰が参加するの か?   

                   2020年夏「戦争」を考える!!

 

           被服支廠キャンペナーズと喋ろう
                 【日航機墜落事故の真相】

申し込み先のメルアドが間違っていました。失礼いたしました。


 


 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルス。これは、細菌戦(生物戦)ではないのか?
過去に、日本が中国で行なった細菌戦のように。(以下は現在分かっている細菌戦)

 日本政府・日本医学界が、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に立ち向かわない限り、オリンピック開催はないであろう。

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置


【コロナは生物兵器か】人工のコロナウイルスショックによる文明の転換点 船瀬俊介氏が語る

 




米軍300人が新型コロナの感染が広がる前に武漢にいたという。
新型コロナウィルスを撒いたのは??

 

10分で学びなおす 「731部隊」より(『週刊現代』より)





 

 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

 

 

検証・中国に於ける生体実験
東京帝大医学部の犯罪   美馬聡昭著  桐書房(2013年)



 

第4章  伝染病研究所と「実験医学雑誌」の雑報


日中戦争始まる


 宮川米次は、1937年6月1日を第1回目の伝染病研究所記念日とした。その式辞(雑報、216号)で、彼は「各国にも記念日がある。わが国では、神武天皇が即位した211日を紀元節としている。また東大は、従来帝大学令の発布した31日を記念日にしていたが、本年(1937)から、412日に改正した。まだ伝病研究所には記念日ない。61日を伝染病研究所の記念日としたい。この日を選んだ理由は、官立の研究所創立されたのは189931日であるが、芝公園内の研究所が、この地に起工したのが19056月で、竣工したのは19066月であった。ところが関東大震災(192391日)で大破して使用不能になり、現在の庁合は19316月に起工し、19346月に現在の新庁合の竣工にいたった」と述べた。


 

  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

   

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

中国の記者が見た判決公判見聞録 

會海波(湖南経済テレビニュースセンター記者)

 

日中の支援者が共に訴える


 
 このように日本人の中にも、被害者の正当な要求を支持している人たちががたくさんいる。裁判官はもはやこの声の高まりを無視できないだろう。 日本の支持者らは、次のように述べた。「日本政府は過去の犯罪事実を曖昧にせず、きちんと認めて被害者に謝罪をすることが、中日両国の子々孫々友好のためには、欠かせなくなってきているのです。私たちが中国人民の訴訟を支持するのは、私たち自身のためでもあるのです」と述べた。また、管建強さんは、次のように語った。「日本は真の民主か、あるいは嘘の民主か、又真の法制国家か、あるいは嘘の法制国家か、今はこれを判断する重要な時期である」と。




 

●731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
     731部隊の行なった細菌戦


 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

二月二日

午前8時衛兵下番 十二時非常練習あり 晴 暖かし 零下十二度 電話の人。中隊。内藤 山本 川角 大部の市野

衛生下番大隊の守備兵演習勤務実習があるとて、緊張していた所 果たして副官が来た。

一生懸命にやった何分モーターカーに乗ったことにして 三道崗の踏切迄武装して走ったのだからたまらない。着剣して附近に監視の姿をしていたのだ。三道崗は遼陽城内行きの道のある所だ。通る支那人は恐々眺めていた。一日中何もなく 休んだらよかったのに中隊も出動した情況は 遼陽を出た第二二列車(旅客)大子河北方二粮の地点において 馬賊の運航妨害に逢ひ脱線 旅客は略奪れつつありというわけで出動した。


 

 

●パネル展「戦争の加害」感想(2020年7月27日~31日)

 7月30日(木)

17、よく集めてくださいました。もっと多くの方に見てもらいたいです。

(不明、80代、市内)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 

 



挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

1  広島への最初の旅


 朝、大気は既に乾ききり熱く白く輝き始めている。1時間後、市民たちは活動を開始する。まだ朝だか、陽の光は真昼と同じだ、それが夕暮れまで続く。既に広島は夜明けのゴースト・タウンの印象ではなく、日本で最も酒場の数の多い、活気にあふれた地方都市だ。白人や黒人も含めて数多くの旅行者たちが市民たちの雑踏に紛れ込んでいる。大半の日本人旅行者たちは若い。彼らは歌いながら旗を担いで平和公園に向かっている。明後日までに、旅行者たちの数は2万を超えるだろう。


 


 

 

 

 

 日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編


 序ー 731部隊がいかにして作られ、またいかにして歴史の闇に葬られたのか?


 この防疫特務機関は背蔭河守備隊の一部という体裁をとっていたが、実際は秘密の実験場で、土塀と高圧電線に囲まれた掘立小屋の中で、捕らえられてきた“抗日地下工作員”や“匪賊”を使って、人体実験を行っていた。「東郷大佐」(実は石井四郎)、「大山大佐」(北条円了)や「大島少佐(大田澄)などとこの機関では将校は全員偽名を使っており、実験は細菌の効力試験にとどまらず、例えば水だけしか与えない場合と蒸留水のみとでは死に至る経過はどう違うかなど、“軍陣医学”の様々な実験が行われていた。ところが、1934年秋、人体実験をするために 捕らえられていた“囚人”の脱獄事件が起こる。逃げた12人の東北抗日連軍第3軍に保護され、軍長・趙尚志の率いる中国軍第3軍のゲリラ隊が石井の部隊を襲撃してきた。それをきっかけに加茂部隊(石井の郷里の地名から当時子の防疫特務機関のことをそう呼んだとも、京都大にちなんで賀茂川から取ったとも言われている)は、ここを閉鎖、一旦軍医学校に戻った後ハルピン市南崗区に移る。 









 ・『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』


中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

三 警察・憲兵の第731部隊への「特移扱」 

 


三田正夫自筆供述書(1954年6月22日)

1943年5月某日、新京憲兵隊長橘武夫が話があるということで、新京憲兵隊本部隊長室に呼ばれた。彼は私にこういった。「軍司令部のある少将の家に泥棒が入ったことがあるため、軍では新京の現状を大変心配しています。おそらくの『浮浪者』が多くなりすぎたせいでしょう。奴らを捕まえたら少しマシになるはずです」。その時、私はそれは良い方法だと考え、直ちに帰って相談しますと答えた。辞去する際、彼はまた「『浮浪者』を捕まえたら、こちらにその一部をよこしてください。松花江の方に送るんです。松花江に送られるということを中国人が聞いたら、殺されると分かって、『浮浪者』が逃げてしまうでしょうから、このことは内密に願います」と言った。こうしたことを聞いて、私は憲兵隊が失業者に対して特殊な使い方をしている事を知ったが、彼らがあちこちの工事現場にやられたり、銃殺や斬首に処せられたりするのではないのは確かだと思った。具体的な用途は知らなかったが、特殊な使い道があるのを感じ取ったのである。憲兵隊から首都警察庁に帰ると、司法科長松島を協議のため憲兵隊にやった。彼は戻ってから「相談がまとまりました。憲兵隊はは一部を送れと言ってます」と言った。その後、その決定に従って、捕まった失業者やその他の者を憲兵隊に送った。



●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著
第1章 毒ガス兵器の研究と開発

 

 

5、アジア太平洋戦争と科学動員による毒ガス兵器開発の展開

 


毒ガス兵器開発の終焉―日本の敗戦


しかし、青酸の製造で最大の制約となったのは原料の不足であった。そこで、第6陸軍技術研究所では有機物資源を用いない製造法の探求を重視し、石炭・水及びアンモニアの無機原料から青酸を合成する研究を進め、これに原龍三郎・堀内寿郎・岡本剛・小竹無二雄・河島千尋の5名の科学者が参加することになった。アメリカ軍による日本本土空襲が激しさを増すと、第6陸軍技術研究所は日本各地に疎開し、10か所に分散した状態で敗戦を迎えた(防衛庁技術研究所編『本邦化学兵器技術史』)。

 以上検討してきたように、1941年から1945年までの時期が、アジア太平洋戦争中に戦時研究制度による科学者を動員した毒ガス兵器開発が行われた時期【第5期】にあたる・

 



 

  

  ・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第13章

毒ガスは消えず

 

  死の谷踏査記

 

 しかし、40数年が過ぎ、経済的・社会的に飛躍的発展を遂げた今日、真の意味で荒涼と言えるところがあるだろうか。現地の人の口から知ったのだが、ここ20年来、人々の柴刈りや狩猟をする足跡が既にこの山の中にも達しているという。ただ、ここには人をぞっとさせる毒ガス弾が埋められているため、「山を眺めてため息をつく」しかないのである。中国政府が国連軍縮会議に提出した文書の中に、「吉林省敦化地区で発見された化学兵器は、バルバ嶺ダムの上流にあり、その数が膨大で、時間がかなり経っているため、大部分はひどく錆びている。一旦大量に漏れだすと、現地の人民の生命・財産及び生態環境にとって想像し難い危害と結果を引き起こすことは必至である」と述べられている。ハルバ嶺を訪れ、人の心に言いようのない重苦しさを感じさせるこの告示を見た時、私たちは知らず知らず歴史に思いを致していた。







 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題

 

●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

 

糧穀の略奪

冷酷非情な取り立て

 

引地 章(ひきじあきら)

警察署長 警正

(略歴)

学歴 高等小学校卒業

所属 旧満国 図們警察署

年齢 54歳

 

 劉署長がこの際とばかり大声で「静かにしろ」と怒鳴りつけた。引地は通訳からこの話を聞くと、真っ赤になっていきり立ち、眼を三角にして怒鳴りつけた。

「お前たちは何ということを言うのかッ、お前たちが今生きているのは誰のおかげだ、みな日満軍警があるからではないか。命を誰が誰が守ってくれているのか。貴様達は犬や獣ではないだろう、それくらいは考えがつくはずだ。日満一徳一心と言うか、日本と協力して日本の戦争の勝利に感謝する考えが少しでもあったら、三度の飯を二度にし粥をすすっても辛抱できるし、日本軍に出す乾草も、半値でも光栄ではないか。文句を吐く奴は抗日反満分子だ。そういう奴は徹底してやっつけるぞッ」その二度と飯も、お粥も満足に食えないのがが農民の実情なのだ。そんな脅かしでは納得できない農民たちは、まだそこここで盛んに話し合っている。

 引地は、これ以上長居をしたら、又何かを言い出すかもしれないと思ったので、「さあ帰ろう」と、小さく丸く太った不格好な体の肩をいからせ、日本刀を手に引き揚げた。農民は憤怒に燃える眼でその後ろ姿を睨みつけていた。

 

 2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 



●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


日本の毒ガス


●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

・731部隊関連の「情報公開裁判」に関する報告

和田千代子(731細菌戦部隊の実態を明らかにする会事務局長)

2『衛生学校記事』裁判の問題点と争点

 

しかし7年目を迎えた本裁判で、次の2つの事が明らかになってきました。

①『衛生学校記事』発刊当時の衛生学校長であった金原節三氏(戦時中731部隊と密接に関係していた陸軍省医務局で医事課長の職にあり、戦後1955年~57年衛生学校長)が1976年10月に死亡した後、遺族が旧軍関係史料を含め2028点を衛生学校に寄贈しました。

 この寄贈された金原資料は大変貴重なものなので衛生学校は「金原節三先生資料目録」を作成し、1982年9月に「彰古館」(自衛隊三宿駐屯地に内にある自衛隊の展示室)に「金原文庫」を設立して金原資料を収納しました。 

 

 


 

 

・次回『衛生学校記事』情報公開裁判(第26回)東京地裁419号法廷

10月15日(木)14:00~(定員19名・・・コロナ禍?)

・次回『化学学校記事」情報公開裁判も(第16回)東京地裁522号法廷は

未定になっています。




1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊




 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。


Ⅳ 安保体制下の生物化学兵器

 

二 生物・化学兵器と階級的視点



 ドル防衛と自衛隊の拡張


為替の安定、平価の切り下げによる混乱防止、為替制限と通商制限の廃止を謳って、金融取引に必要な短期資金の融通を目的として、大戦中の1945年に設立された IMF は、従来国内における恐慌対策の有力な手段として機能していた為替政策を IMF に移管されることであったが、これによって、為替平価を金・純金1オンス=35ドルかあるいは米ドルと結合させることによって、米ドルは金と同じ国際通貨の資格を得るのである。

 


 

 

 



●昭和天皇の戦争責任を問う!!

天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。


 


 



●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

 


※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
  

     



13章 遅すぎた降伏

719日、佐藤大使は、ソ連が「目的が曖昧(あいまい)との理由から」実際に特使の受け入れを拒絶した(それは佐藤が一貫して主張してきたとおりの結果であった)と東京に伝えた。その翌日、同大使は情勢全般についての感想をまとめ、彼としてはもっとも感情をあらわにした電報を東郷外相に送った。そのなかで、佐藤は(79日に拝謁した有田や、2月以来、戦争終結を主張していた近衛と同様に)、国家は倒壊寸前にあり、すみやかに降伏すべきであるとした。また、佐藤は「国体保持」については「国内問題なりとして講和条件より除外すること」もひとつの方法であると強調した。換言すれば、講和に際し君主制の保障を求める必要はなく、佐藤にとっては天皇の大権を意味する国体は、すみやかな降伏によって護持され、再び日本が独立を回復すればこれを復活させることができるだろう、というのだった。

                    

 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

地球の温暖化や異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!


●『二酸化炭素温暖化説の崩壊』広瀬隆(集英社新書 2010年発行)

第2章 都市化と原発の膨大な排熱

 

最悪の地球加熱装置

―原子力発電所


自然破壊の実態


最近の環境保護運動は、工場・発電所・自動車などの汚染物が生み出す最も基本的な酸性雨についても知らないのである。酸性雨は、排気ガス中の二酸化硫黄と窒素酸化物が、大気中で硫酸と硝酸を作り、これが雲に入って、強い酸性の雨と雪になって降り注ぐ現象である。これが森林に降り注げばどうなるか。北ヨーロッパやカナダ、アメリカなどでは、酸性雨のために多くの湖沼で魚が一匹もいなくなり、針葉樹が枯れ、森林全体が枯れる被害が拡大した。ドイツでは1980年代初めに森林面積34%に被害が広がり、カシの木、トウヒやナラが壊滅しかけた。これがドイツの環境保護運動の出発点だったのである。いまだにその被害の傷跡は、広く分布している。

 

 


 


※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

4、自動車社会の排ガス

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

 

 

 

 

 

●核実験(ウキペディアより)

若くして白血病で亡くなった夏目雅子、本田美奈子、また五輪候補選手だったスイマーが白血病になったのは、放射能の影響ではないのか?

核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 



ネバダ州での核実験



1957年8月7日ネバダ核実験場における核実験(プラムボブ作戦)で破壊された米海軍の飛行船。この飛行船は軍事効果実験のため爆心地点から5マイル以上離れた地点を無人で浮遊中だったが、爆発の衝撃波で崩壊した。

南太平洋での実験は費用が掛かるため、トルーマン大統領の提案により1951年ネバダ州の砂漠にネバダ核実験場 (NTS,Nevada Test Site) が設置された。その後、フォールアウト(放射性降下物)の測定や建物・動物などへの影響を調べるための実験が地上・地下含めて928回行われた。

核実験の振動がラスベガスの建物に影響を与えたため、核出力5Mtの爆発実験の前段階として、1968年1月19日にラスベガスの北130kmにあるトノパー近郊で1Mtの地下実験"FAULTLESS"が行われた。これがアメリカ合衆国本土で行われた最大の核爆発であった。その結果、衝撃で地上に大きな断層ができてしまったために本土で実験は行わないことになり、5Mtの実験はアラスカアムチトカ島で行うことになった。

1997年7月2日 地下実験場で初の臨界前核実験が行われた。

· 928回繰り返された核実験の放射能で、多くの人々がガンになって死んでいるというドキュメンタリーがある。

詳細は「ネバダ核実験場」を参照

 

 


 



水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)

 

 

 




●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future




●核融合もすべきではない!!
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について






なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!

       

      

原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。

封印された原爆報告書




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が
被爆した!!

 














 

           

JCOの臨界事故


福島第1原発事故

核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病


731部隊(unit731)
昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!

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