第3回遺棄化学兵器情報公開訴訟 2023 5 30
ウクライナ「盗まれた子ども」約2万人 母親たちが“取り戻す”…敵国・ロシアへ
大手電力7社、6月から家庭向け電気料金値上げ 家庭の負担増
旧ソ連ブロックにひび ベラルーシ核配備に批判―廃絶訴えるカザフ
東京医大入試 “性別で減点” 一部原告に賠償額増額の2審判決
足摺岬サンセットクルーズ(高知県)
ウクライナ戦争は即時停戦を!!
【詳細】ロシア ウクライナに軍事侵攻(6月5日の動き)
靖国神社参拝反対!!
超党派の議員連盟メンバー87人 そろって靖国神社に参拝
原発の怖さを考えよう!!
ワクチン開発と戦争犯罪
731部隊と日本医学会―「未来への提言」を踏まえて―
※多摩労務管理事務所への裁判闘争
3月29日、多摩労務管理事務所への裁判闘争が原告の主張が全て認められたかたちで、完全勝訴判決を勝ち取りました。
詳細は、追ってご報告致します。
これまで私達の裁判闘争をさまざまな形で支えて下さった皆様にまず感謝を申し上げます。
Union No.6 からのメール
「声上げたら解雇」は許せない!〜「多摩労務管理事務所」に仮処分守れと申し入れ
【今日でちょうど60年、独占告白】被差別部落出身の青年が「殺人犯」として不当逮捕された…「命の恩人」は三鷹事件で逮捕された男だった
731部隊で行われていたこと
遺棄毒ガス兵器処理事業の文書を公開せよ!!
旧日本軍の毒ガス戦、戦後の処理新型コロナも鳥インフルも生物兵器か??世界のBSL4施設は何を研究しているのか??
鳥インフルでの殺処分は適切なのだろうか??
鳥インフルの処分数 全国で1000万羽超える 過去最多
原発60年超、異例の多数決 原子力規制委、石渡氏反対
「原発が狙われる」と独り訴えた福井県原子力委員が辞めた理由
福島第一原発処理水 発生量減も 放出の開始時期に変更なし
核融合反対!!
核融合の初の政府戦略案 海外市場に参入し関連産業育成方針
なぜ、いま?リスクは
日本は、きちんと謝罪・補償すべきだ!!
国連改革!!拒否権廃止を!!
あの日本の侵略戦争を反省し作られた憲法9条を、順守すれば、軍事費ゼロ!!戦争をしないように全力で取り組む姿勢を全世界に示す!!【天皇制再考、軍人恩給廃止、戦争被害者(外国も含む)への補償、外交力強化!!】
憲法9条
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
軍事費削減!!憲法9条の推進!!被ばくの問題は重大だ!!
ドイツの大学キャンパスから少女像撤去される 学生会が昨夏設置
「細菌兵器製造の731部隊―731部隊軍医秦正氏の証言」
放射能の影響を考えよう!!
パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」展
731・原爆・ビキニ
なぜ、こんな危険な原発を、全国にたくさん作ってしまったのか??それも運転期間延長で60年超も??自然環境にやさしいエネルギーの活用ができないものか!!
12月23日(金)
11、とても多くの資料が展示してあって、短時間では見れなかった。特に731部隊は、初めて聞いた。広島・長崎は訪れたが。(51歳以上、市内、チラシ)
劇映画「伊藤千代子の生涯」
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
原爆初動調査ー隠された真実3
新聞記事からの報告(ビキニ水爆実験)
忘れられたビキニ被災者たち 裁判の報告
2022 5 7 世界の核被害問題と解決の取り組み
2022 5 7パネルディスカッションのまとめ
中満泉ビデオメッセージ
2022 5 8高橋博子講演
閉会の挨拶
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
『医学者は公害事件で何をしてきたのか』 津田敏秀著
(責任論)
そもそも、本件のような場合に国の賠償責任を認めるかどうかは、本件訴訟における問題にとどまらず、国は国民の活動にどの段階で、あるいは、どこまで介入すべきかという国の行政の在り方の根幹に関わる問題であり、国が責任を持つべき分野を過大に広く認めるならば、過剰な規制を行わざるを得なくなる恐れすらある。加えてこの問題は、究極的には、何らかの損失が生じた場合にどこまで国民全体の負担によりそれを補填すべきかという問題でもあり行政としてゆるがせにできない重要な問題であって、国の責任の有無については、原告側との間で妥協を図ることのできる性質の問題ではないものと考える。
※『30年目のグレーゾーン』の録画をお持ちの方は、nobu.goi@gmail.comまでご一報ください!!
太平洋核被災支援センター
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!
社会が許さない 釈放後も「地獄」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
三井財閥(三井三池染料・三井東圧・三井化学)
化学戦準備には塩素工業の発達の要
1941(昭和16)年三池染料工業所は三井化学となる。
民需から軍需品生産への急傾斜と有機化学工業での軍需品中心の新規事業着手へと突き進んだ。化学兵器原料の設備拡張が著しい。
(三井事業史本篇第3巻447頁)
1941(昭和16)10月予算595万「7C2号」(チオグリコール不凍・陸軍)年1200t玉名工場内
12月予算468万「3号中間薬チオグリコール」海軍年1000t、三池染料内
〈昭和16年11月14日艦本機密第1号10871〉
(三井事業史本篇第3巻 448頁)
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判第1審判決全文
被告の主張 (別紙4)
第6 立法不作為を理由とする国家賠償請求について
(3)国際慣習法に基づく立法義務の主張について
ア 原告らは、戦傷病者戦没者遺族等援護法、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律、台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律の制定をもって、憲法上の諸規定に基づく立法義務の履行である旨を主張する。
しかしながら、戦傷病者戦没者遺族等援護法は、軍人軍属等の公務上の負傷もしくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属であった者又はこれらの遺族を援護することを目的とするものであり(同法1条)、憲法上の立法義務の履行に基づいて制定されたものではない。前掲最高裁昭和62年6月26日判決は、戦争被害等について補償立法をするか否かは政策的見地から判断するものであって、戦傷病者戦没者遺族等援護法の制定は、憲法上の立法義務に基づくものではない旨判事している。
また、台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律も、人道精神に基づき(同法1条)、 その労苦をねぎらい弔意等の意を表す趣旨で制定されたものであり、原告らが主張するように憲法上の規定に基づく立法義務の履行として制定されたものではない。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
原爆詩集
ある婦人へ
あたらしくかぶさる爆音のもと
わたしは語ろう
わたしの怒り
あなたの呪いが
もっとも美しい表情となる時を!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
満蒙開拓青少年義勇軍から731部隊へ
撤退時の死体処理は教育部全体で無我夢中でやった
大竹康二
731部隊・教育部
〈略歴〉
1926年生まれ
1940年3月 満蒙開拓青少年義勇軍入隊。同年7月“満洲国”北安省嫩江の訓練所入所。
43年8月開拓団入植
1945年5月 122師団(牡丹江)入隊
1945年6月 731部隊教育部に配属
1945年8月 帰国
■この証言は731研究会の学習会での発言(1994年4月)。95年5月の聞き取りをまとめたもの
満蒙開拓青少年義勇軍
昭和18(1943)年、18歳になると、私は山口県生まれでしたから長州義勇隊開拓団に入植しました、そこでは食糧増産と軍事教練。穀物なら200トンと目標掲げて、実際ほとんどそれに近いくらい収量ををあげました。“満洲”北安省は寒いとこで、特に嫩江(のんこう)を零下50度になりました。猛吹雪の中での訓練はすごかった。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅳ 恒常化する毒ガス戦 1938 ~1941
1 討伐戦・警備戦での常用
華中の討伐戦・警備戦・進攻作戦での常用
刺殺の感触が伝わってくるような生々しい記録である。毒ガスで倒れた兵士を捕虜とせず、殲滅する戦法は継続していた。同じ12月、南昌付近を警備していた大阪第34師団篠山歩兵第216連隊では、棠渓(とうけい)付近の大塘季村にいた第3中隊の小隊と分哨が、21日に優勢な国民党軍に包囲された。そこで、中隊長は救出のため、22日、「敵陣」に向けて、中あか筒51本を放射した。地表を這うようにして流入する毒ガスと、ガスマスクを着けて突入する兵士を見て、国民党軍部隊は慌てて退却したため、包囲された兵士たちを無事に救出することができた。
核時代39年(1984年)5月初版発行
刺突(しとつ)
農民を初年兵の訓練に
江先 光(えさきひかる)
曹長
〈略歴〉
私は山口県岩国市岩国に生まれた。
小学校8年を卒業すると家業を継いで石工となり、
1939年に第39師団歩兵第233連隊第4中隊に入隊、中国に侵略した。
以後曹長となり庶務係、小隊長を経て、1945年敗戦により、9月2日、東北四平において
捕虜となった。今年40歳です。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
状況下の研究 №11
第1 答解に対する基本的態度
(略)
第2 情勢判断
1、この情勢判断の目的
(1)日本防衛に関する日米協同作戦に関すること。
主として、条約第5条の実施について、以下「日本直接防衛作戦」という。
(2)朝鮮作戦に対する日米相互協力に関すること。
主として、条約第6条の実施について、以下「日本間接防衛作戦」という。
第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
2、研究開発と自衛官の入学拒否
自衛官の入学研究発表の拒否
主として武器などの研究開発という立場から大学などに通学させているもので、32年度から自衛隊内から技官、医官らに選抜して派遣していた。これまで毎年2,30人が入試に合格していたのが、44年度学生については理工系大学院を受験した延べ23人全員不合格となり、3月14日には熊本大学工学部大学院の第2次募集に応募した自衛官と技官が、試験場で大学側から受験を“拒否”されるという事件が起こった。このことがあって全国の大学で相次いで、自衛官の入学拒否事件が起こった。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第2部 仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
第5章 新しい皇室、新しい国家主義
牧野は1929年1月22日、珍田が1週間前に死んだため、海軍軍縮を支持する退役海軍大将鈴木貫太郎を後任に据えた。鈴木はその後1936年に辞任するまで、7年間侍従長を務めた。一方、奈良は武官長を続け、1933年4月に退役した。奈良は軍事に関して以前からの任務を継続し、牧野は政治に関して同様の役を務めたが、奈良は牧野に比べれば宮内官の側面が少なく、政治的には牧野ほどの重要性は持たなかった。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
IMAGINE9
解説
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
04
武器を使わせない世界
ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もち込ませない」という「非核三原則」をもっています。
原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみをだれにも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。
『鹿屋(かのや)航空基地 史料館』(鹿児島県鹿屋市)について
~ご理解していただきたいことを文章にしました~
2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)
この史料館を順路通りに歩いていくと、数々の遺影や、遺品のコーナーがあり、そこで写真を見たり、遺書・手紙の類(検閲を受けたもの)を読む人々も多いです。そして、出口へと向かう最後のコーナーでは、自衛隊戦闘機の操縦席とか、世界平和に貢献する自衛隊ポスターとか、自衛隊賛美のような内容のコーナーを通るという順路になっています。戦没者たちを自衛隊のためにまさに利用する行為は、戦没者たちを踏みにじり冒涜する行為だと思います(近年、展示の仕方や順路等の変更があったとしても、展示の根本思想は同じだと思います)。ですから、この史料館は、他の場所に移設(新設)し、平和祈念会館などの名前で、公的機関が管理すべきではないかと、思うに至りました。少なくとも、自衛隊敷地内に史料館を置いて、まるで戦没者たちが、彼らの持ち物でもあるかのように思い違いし、彼らを正当化するために、利用されてはならないと思います。一人ひとりの戦没者たちは、自衛隊から、解放されるべきです。
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地球を破壊する核爆発・核実験
アメリカ合衆国
ネバダ州での核実験
1957年8月7日ネバダ核実験場における核実験(プラムボブ作戦)で破壊された米海軍の飛行船。この飛行船は軍事効果実験のため爆心地点から5マイル以上離れた地点を無人で浮遊中だったが、爆発の衝撃波で崩壊した。
南太平洋での実験は費用が掛かるため、トルーマン大統領の提案により1951年にネバダ州の砂漠にネバダ核実験場 (NTS,Nevada Test Site) が設置された。その後、フォールアウト(放射性降下物)の測定や建物・動物などへの影響を調べるための実験が地上・地下含めて928回行われた。
核実験の振動がラスベガスの建物に影響を与えたため、核出力5Mtの爆発実験の前段階として、1968年1月19日にラスベガスの北130kmにあるトノパー近郊で1Mtの地下実験"FAULTLESS"が行われた。これがアメリカ合衆国本土で行われた最大の核爆発であった。その結果、衝撃で地上に大きな断層ができてしまったために本土で実験は行わないことになり、5Mtの実験はアラスカのアムチトカ島で行うことになった。
1997年7月2日 地下実験場で初の臨界前核実験が行われた。
928回繰り返された核実験の放射能で、多くの人々がガンになって死んでいるというドキュメンタリーがある。
詳細は「ネバダ核実験場」を参照
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
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