足摺岬サンセットクルーズ(高知県)
ウクライナ戦争は即時停戦を!!
【詳細】ロシア ウクライナに軍事侵攻(22日の動き)
靖国神社参拝反対!!
超党派の議員連盟メンバー87人 そろって靖国神社に参拝
原発の怖さを考えよう!!
ワクチン開発と戦争犯罪
731部隊と日本医学会―「未来への提言」を踏まえて―
※多摩労務管理事務所への裁判闘争
3月29日、多摩労務管理事務所への裁判闘争が原告の主張が全て認められたかたちで、完全勝訴判決を勝ち取りました。
詳細は、追ってご報告致します。
これまで私達の裁判闘争をさまざまな形で支えて下さった皆様にまず感謝を申し上げます。
Union No.6 からのメール
「声上げたら解雇」は許せない!〜「多摩労務管理事務所」に仮処分守れと申し入れ
【今日でちょうど60年、独占告白】被差別部落出身の青年が「殺人犯」として不当逮捕された…「命の恩人」は三鷹事件で逮捕された男だった
731部隊で行われていたこと
遺棄毒ガス兵器処理事業の文書を公開せよ!!
旧日本軍の毒ガス戦、戦後の処理新型コロナも鳥インフルも生物兵器か??世界のBSL4施設は何を研究しているのか??
鳥インフルでの殺処分は適切なのだろうか??
鳥インフルの処分数 全国で1000万羽超える 過去最多
原発60年超、異例の多数決 原子力規制委、石渡氏反対
「原発が狙われる」と独り訴えた福井県原子力委員が辞めた理由
福島第一原発処理水 発生量減も 放出の開始時期に変更なし
核融合反対!!
核融合の初の政府戦略案 海外市場に参入し関連産業育成方針
なぜ、いま?リスクは
日本は、きちんと謝罪・補償すべきだ!!
国連改革!!拒否権廃止を!!
あの日本の侵略戦争を反省し作られた憲法9条を、順守すれば、軍事費ゼロ!!戦争をしないように全力で取り組む姿勢を全世界に示す!!【天皇制再考、軍人恩給廃止、戦争被害者(外国も含む)への補償、外交力強化!!】
憲法9条
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
軍事費削減!!憲法9条の推進!!被ばくの問題は重大だ!!
ドイツの大学キャンパスから少女像撤去される 学生会が昨夏設置
「細菌兵器製造の731部隊―731部隊軍医秦正氏の証言」
放射能の影響を考えよう!!
パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」展
731・原爆・ビキニ
なぜ、こんな危険な原発を、全国にたくさん作ってしまったのか??それも運転期間延長で60年超も??自然環境にやさしいエネルギーの活用ができないものか!!
12、こうした小さな展示がやがて大きな波になりますように祈っています。(51歳以上、相模原市、不明)
劇映画「伊藤千代子の生涯」
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
原爆初動調査ー隠された真実3
新聞記事からの報告(ビキニ水爆実験)
忘れられたビキニ被災者たち 裁判の報告
2022 5 7 世界の核被害問題と解決の取り組み
2022 5 7パネルディスカッションのまとめ
中満泉ビデオメッセージ
2022 5 8高橋博子講演
閉会の挨拶
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
『医学者は公害事件で何をしてきたのか』 津田敏秀著
食品衛生法を適用していれば
また次のような記載もある。四日市ぜんそく事件で後に公害事件に直面した著者の吉田氏にとって水俣病事件の処理が如何に気がかりであったががよくわかる。「昭和31年に最初に発見された水俣病においても、京大医学部西尾研究室(公衆衛生学教室)で直接の私の上司(当時助教授)であった喜田村医学部教授は「水俣奇病」の発見と同時に、水俣に於いて詳細な疫学調査を行い、いくつかの調査結果を総合して、水俣病発生のわずか6か月後に、その臨床症状から考えられていた「異型小児麻痺」というようなウイルス性伝染病ではなく、「本疾患は、魚介類摂取を介する化学性食中毒である」という結論を提出し、これに基づいて熊本県は、「水俣湾での魚介類を摂取しないように」という指導を行ったところ、一時的に後続の患者発生がなくなった。ところが、チッソ水俣工場は、病原物質が確定されていないということでこの疫学的所見を受け入れず、かつ自社の廃水の処理をも行うことなく、一方、漁獲停止については何の補償も得られない漁民は漁業を再開せざるを得ず、これが後の泥沼のような惨禍に到ったという経緯を私自身、喜田村教授を通じ、身近に知る立場にあった」
※『30年目のグレーゾーン』の録画をお持ちの方は、nobu.goi@gmail.com(五井)までご一報ください!!
太平洋核被災支援センター
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!
社会が許さない 釈放後も「地獄」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
松林瞭君
宮川米次君
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
資料
陸軍省受領 759号
陸軍技術本部経由
陸軍技術 昭和9年9月6日
陸科研甲第432号
民間工場指導に関する件申請
昭和9年9月4日 陸軍科学研究所長 久村種樹
陸軍大臣 林銑十郎殿
別紙の通 三井鉱山株式会社より該社三池染料工業所に於ける副産物たる
「エチレンガス」より化学兵器原料「グリコール」1号を製造するに
関し指導方出願せるに付当所令第9条に拠り之が指導実施方認可せられ度
別紙写し添付
別紙
昭和9年9月1日
東京市日本橋区室町2丁目1番地台
三井鉱山株式会社
代表取締役会長 牧田 環
陸軍科学研究所長
久村種樹殿
エチレンガス利用に関する指導願
拝啓 弊社三池染料工業所に於ける副産物エチレンガスより化学兵器原料たるグリコール1号を
製造する装置に関し研究致し度に付きご指導相成奉願候
追面貴所職員中本研究にご経験を有せらるる方々2,3名ご派遣被下度
尚その旅費は弊社に於て負担致すべきに付き申し添え候
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判第1審判決全文
被告の主張 (別紙4)
第6 立法不作為を理由とする国家賠償請求について
2 例外的な場合に関する原告らの違法性判断基準の誤りについて
(3)
イ さらに、原告らは、救済の高度の必要性がある場合には、憲法解釈上一義的に救済立法をすべき作為義務が生ずることが明白であることを前提にしているようでもある。
原告らは、そのような場合に救済 立法をすべき作為義務が憲法上生じる根拠として、日本国憲法の制定経過、特に、議会制民主主義に立つ国会及び内閣をも拘束する原理が基本的人権の思想であり、そのために議会制民主主義の政治制度が採用されたこと、これを保障するために裁判所に違憲立法審査権が付与されたことを挙げる。しかしながら、憲法制定経過に関する原告らの主張は相当ではなく、また、このような抽象的な理念から前記のような状態の場合に直ちに救済立法すべき作為義務が生ずることが憲法上も一義的に明白であるとは到底言えない。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
おわりに
9月、柳条湖付近で満鉄が爆破されたのを機に満州事変が起き、これに出兵した父は足に銃弾貫通の負傷を負い、遼陽の衛戍病院で手術を受け入院しています。そして、この病院で働いていた日赤の従軍看護婦の母を見染め、後に結婚するのです。
原爆詩集
夜
眼帯をかけた列車を憩わせる駅の屋上で
移り気な電光ニュースは
今宵も盲目文字を綴り
第二、第三、第百番めの原爆実験をしらせる
どこからかぽたぽたと血をしたたらせながら
酔っぱらいがよろめき降る
河岸の暗がり
揺れきしむボート
その中から
つと身を起すひょろ長い兵士
屑鉄漁りの足跡をかくし
夜汐は海からしのび寄せる
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
終生の重荷
脳裏にこびりついて離れない断末魔の形相
千田英男(ちだ ひでお)
731部隊・教育部
〈略歴〉
1917年生まれ
1942年 731部隊入隊
教育部付き衛生兵教育
吉村班、植村班、教育部庶務を歴任
■この証言は戦争体験を記録する会(宮城県)編『雲はかえらず』所収「終生の重荷」(1974年)より転載したもの
生体実験
昭和17(1942)年春の事だった。入営以来住み慣れた東満国境の部隊から関東軍防疫給水部に転勤になった時、私に与えられた職務は教育部付きとして各支部に配属される衛生兵の教育だった。それが終了した後、第1部吉村班に出向ということになった。
ここは主として凍傷に関する研究を担当していて、私が行った時、たまたま喝病〔原文ママ〕の生体実験が行われている最中だった。それまでこの部隊は防疫給水、特に濾水機の製造補給が主な任務と聞いていた私には、初めて接する部隊の隠された側面にただ驚くばかりであった。堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に喝病にかかりやすい気象条件を作り出して罹患させ、臨床的、病理的に観察し、その病因を究明するためのものだった。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅲ 日中戦争の全面化と本格的使用の開始 1937―1938
2 武漢攻略作戦
武漢攻略作戦の教訓
第2軍・第11軍両司令部の「実施報告」を受けて、 中支那派遣軍司令部は、次のように毒ガス戦の効果を評価した。
今次作戦間に於いては、戦闘の性質、気象及び地形の関係上、特種煙の使用は相当困難なりしも、敵は防護装備並防護教育極めて劣等なりしを以て、特種煙の効力大にしてその少量を使用するも、よく当面の敵を制圧し、軽小なる我損害を以て敵陣地を奪取し、或いは将に交綏(こうすい)せんとする戦況を打開し、又は逆襲する敵を撃破して予期以上の効果を収め、戦闘の進捗をして有利ならしめたり。
核時代39年(1984年)5月初版発行
刺突(しとつ)
農民を初年兵の訓練に
江先 光(えさきひかる)
曹長
〈略歴〉
私は山口県岩国市岩国に生まれた。
小学校8年を卒業すると家業を継いで石工となり、
1939年に第39師団歩兵第233連隊第4中隊に入隊、中国に侵略した。
以後曹長となり庶務係、小隊長を経て、1945年敗戦により、9月2日、東北四平において
捕虜となった。今年40歳です。
「言えッ!小銃はどこにあるかッ!」青竹が空を切った。ビュッ、鈍い音、地面から一尺(約30㎝)ばかり離れた頭がゆらりと揺れる。「知らねぇ・・・殺せッ!」「なにを!そうたやすく殺してなるもんか」ブーッ、骨を叩く音、「知らんと言ったな」ビュッ、皮の裂ける音、ビリビリと電気がかかったように体が揺れると、「ううう・・・」低いうめきと共に血の様な液が吐き出され、鼻を伝って眼に流れ込む。「こ、殺せと言ったな・・・」ビュッ・・・背中からダラダラと血が流れた。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究の想定(概要)
第3動 自7月1日 至7月31日 状況
1、世界情勢(略)
2、アジアの情勢(略)
(1)(略)
(2)(略)
(3)南北鮮間におけるゲリラ的航空攻撃の応酬は、7月に入っても依然散発し、米軍
はこれに対する要撃作戦について韓国軍に協力するとともに、北鮮内部の航空
偵察を実施中であったところ、中共の介入について確証を得たもののごとく、
7月7日 1000(※10時00分)在日米軍司令部及び駐日米大使は、それぞれ防衛
庁及び外務省に対し、要旨次のような事項を連絡し、同時に、ワシントンにお
いても国防省発表を行った。
イ 共産側は朝鮮休戦を無視し、依然として韓国に対する航空攻撃をやめていない。
ロ 最近中共は、その兵力及び増援物資を輸送中であり、米軍は北鮮における中共
空軍機及び陸軍
部隊を確認した。過去1週間来、中共、平壌間の鉄道及び自動車輸送は異常な活況
を見せている。
第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
1、自衛隊の装備・訓練を探る
装備・訓練の実体は
〔応急手当〕
クロルアセトフェノン蒸気は強く眼を刺激し、気温が高い時は、皮膚を刺激するかもしれない。患者を風に当てるため、非ガス地域へ運び出す。患者に眼をこすらせないようにする。症状が悪化した場合は10%重炭酸ソーダアルコール溶液(50%アルコール使用)で皮膚を洗う。硼酸溶液又は水で眼を洗う。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第2部 仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
Ⅵ
1926年10月、内務省は井上(貴族院議員)の著書(『我国体と国民道徳』)を発禁にした。河井が読んで内大臣の牧野と問題にし、また右翼の憤激を招いていたからである。教育勅語の公的解説書の著者で、保守的なキリスト教批判者である井上は、天皇制の正統性に合理的な基礎を与えようと、「国体」と国民道徳の関係を分析した。1925年に出たその本は、3種の神器と皇統の「天壌無窮」についての「神話」を批判し、神話のみに根拠を置く「万世一系」の公的観念は、近代国民に受け入れられるものではないと主張した。井上によれば、「国体」の特質は、その道徳的で、人道的で、「改革的」な性格にある。この改革性こそが、「民主主義」や「労働者解放」を皇室の伝統的精神の一部にさせるのである。政治的には反動といってもよい従来の経歴にもかかわらず、井上はこうしてはっきり大正デモクラシーの流れに同調した。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
IMAGINE9
解説
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
02
武器をつくったり売ったりしない世界
「武器はどこから来るのでしょうか?
ヨーロッパやアメリカから来るのです。彼らは、武器貿易の達人です。
アフリカの私たちは戦う必要も、殺し合う必要もないのです。だから憲法9条は、 アフリカにこそ導入されるべきだと思います。9条があれば、これ以上アフリカに武器をもってこさせないようにすることができます」
『鹿屋(かのや)航空基地 史料館』(鹿児島県鹿屋市)について
~ご理解していただきたいことを文章にしました~
2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)
願わくは、戦没者たちが、自衛隊の「閉じ」の中から解放され、新たな地にて平和な社会の実現を見守って下さいますように。(鹿屋市内に一定の世論ができて、このような文章を書いているのではなく、私・鶴ヶ岡個人がこだわってきた、「戦没者」ということや「戦没者の遺念」ということへの思いから、書きました。また、鹿屋市当局も、資料館を取り戻すことなど、夢にも思っていないことでしょうし、自衛隊と利益関係でつながる出入り業者の数も多いですので、これまで(戦没者の冒涜に)気づいた人がいたとしても、なかなか声に出すことは出来なかったのではないかと思うのです。それだけ根の深い問題になっていますが、そこに光を灯すべき価値は大いにあるのではないでしょうか。数や金の上にあぐらをかいて、人々を、自分に都合のいい価値観にしばりつけているような地域性の中にある自衛隊の中でも「戦没者たち」が、埋没させられ、利用されてきました。自衛隊を包み込むそのような地域性があることもしっかりと見据えた上で、「自衛隊が戦没者たちを冒涜してきたということと、史料館は新たに平和祈念資料館として移転すべきこと」について、このような小さな声を、風に託すような思いで、届けたいです。)
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
核実験の種別
3.大気圏外実験 大気圏外で行われる核実験であり、実施にはロケットが使われる。この実験の目的は、主に敵国から発射されたICBMを大気圏外で迎撃すること、及び敵国の衛星(主にスパイ衛星)を破壊することの検証である。ただし宇宙空間には大気が無く、核爆発の衝撃波によるターゲットの破壊が出来ないため、目的の達成には近接距離の核爆発による熱線・放射線によるターゲットの物理的な破壊、および電磁パルスによるターゲットの“電子的”破壊(無能化)が必要になる。しかし核爆発で生ずる電磁パルスは、地上の電子機器にまで影響を及ぼすこと、及びターゲットの物理的破壊は近年特に問題になっているスペースデブリを大量に発生させることから、PTBTにて実験が禁止された。
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核融合もすべきではない!!
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