2023年5月19日金曜日

細菌戦の系譜!!




政治ランキング 

教育・学校ランキング 



2015年に遺族が第20次再審請求をしている!!
平沢貞通画伯が米寿を迎える頃に獄中で描いたとみられるテンペラ画


5月13日東京新聞















多摩労務管理事務所への裁判闘争
3月29日、多摩労務管理事務所への裁判闘争が原告の主張が全て認められたかたちで、完全勝訴判決を勝ち取りました。

詳細は、追ってご報告致します。

これまで私達の裁判闘争をさまざまな形で支えて下さった皆様にまず感謝を申し上げます。

Union No.6 からのメール

「声上げたら解雇」は許せない!〜「多摩労務管理事務所」に仮処分守れと申し入れ


731部隊の実態をきちんと伝えよう!!
















731部隊で行われていたこと













遺棄毒ガス兵器処理事業の文書を公開せよ!!

旧日本軍の毒ガス戦、戦後の処理























コロナワクチン接種 遺族団体“健康被害の救済認定速やかに”

新型コロナウイルスのワクチンを接種したあとに亡くなった人の遺族でつくる団体が、厚生労働省で会見し、予防接種法に基づいた健康被害の救済制度の認定を、速やかに進めることなどを国に求めました。

新型コロナウイルスのワクチン接種をめぐっては、副反応で健康被害が出たり死亡したりした場合、予防接種法上の救済制度の対象となり、接種との因果関係が否定できないと国が認定した人には、医療費や死亡一時金などが支給されます。

9日の会見には、おととし10月に、当時36歳の夫が2回目を接種した3日後に亡くなり、先月、救済申請が認められた須田睦子さんらが出席しました。

この中で須田さんは「夫が亡くなってから、当時、おなかの中にいた娘と上の子3人を育てていけるのか、不安の中で毎日を過ごしていました。接種の中止が一番の思いですが、せめて同じ不安を抱えている多くのご遺族の迅速な救済を望みます」と訴えました。

このあと団体は、救済制度の認定を速やかに幅広く進めることや、ワクチン接種後の突然死などについて、国が研究を進めることなどを求める要望書を、厚生労働省に提出しました。

救済制度には、先月10日時点で6219件の申請があり、死亡30件を含む1622件が認定されていて、厚生労働省は「審査の回数を増やしており、できるだけ迅速に対応していきたい」とコメントしています。

コロナワクチン8.8億回分、国の確保量「根拠不十分」 会計検査院




731部隊展


日本の機密文書管理はきちんと行われてりるのだろうか?隠蔽されている??機密文書も時間が経過したら、きちんと公開すべきだ!!日本にも積極的な情報開示を求めます!!
【バイデン大統領】自宅から別の機密文書見つかる


 







新型コロナも鳥インフルも生物兵器か??世界のBSL4施設は何を研究しているのか??

 

鳥インフルでの殺処分は適切なのだろうか??

鳥インフルの処分数 全国で1000万羽超える 過去最多

なぜ、いま?リスクは


日本は、きちんと謝罪・補償すべきだ!!





連改革!!拒否権廃止を!!

今こそ拒否権を廃止すべき時だ

あの日本の侵略戦争を反省し作られた憲法9条を、順守すれば、軍事費ゼロ!!戦争をしないように全力で取り組む姿勢を全世界に示す!!【天皇制再考、軍人恩給廃止、戦争被害者(外国も含む)への補償、外交力強化!!】

憲法9条

第二章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。








ブックレット 500円
NPO中帰連平和記念館内
「供述書を読む会」
Tel・Fax 049-236-4711
Email:npo-kinenkan@nifty.com



価格 ¥3,960



放射能の影響を考えよう!!
パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」展


731・原爆・ビキニ


なぜ、こんな危険な原発を、全国にたくさん作ってしまったのか??それも運転期間延長で60年超も??自然環境にやさしいエネルギーの活用ができないものか!!






2022年 パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」アンケート

12月22日(木)
8、歴史を若い人に正しく伝えようという熱意に敬意を表します。(51歳以上、府中市、友人)













大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??

戦犯たちの告白









昨年(2022年)4月2日に開かれた日本医学会記念事業では、「過去の過ちに学ぶ」で、731部隊のことが取り上げられた



731部隊で非人道的な人体実験があったことを述べている!!
(以下の動画、5分20秒過ぎ)

医療倫理・研究倫理の深化




放射能はこわい!!
福島県漁連、森林組合連合会は、放出に反対を表明
その中で、福島県漁業協同組合連合会は、去年は震災前漁獲量の約14%にとどまったが、今年の2月には出荷制限が解除され、これから増産に向けて舵を切ろうとしているところであり、海洋放出に反対だと訴え、福島県森林組合連合会は原木椎茸生産に不可欠な、しいたけ原木の生産が困難な状況が続いており、販売が皆無であること、野生きのこ・山菜等の出荷制限も多くの市町村で継続されている窮状を訴え、大気放出に反対を表明しました。

1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。
原爆初動調査ー隠された真実2
原爆初動調査ー隠された真実3







世界には、核実験(原爆・水爆)、広島・長崎の原爆、原発労働者、ウラン鉱山の採掘者等で被ばくした人はたくさんいる!!
それが、次世代・次々世代に影響するとなると大変な数になる!!反原発!!

被爆二世健診…43年目の真実~データが語る遺伝的影響と「ほしょう」を考える









京都大学出版会(2022年4月10日発行)

もしかすると中国人の人骨も京都大学にはあるのでは??
丹羽雅雄弁護士の話:遺骨という問題は非常に大きな問題なんですよ。死者の尊厳ですからね。死者の尊厳ということは、生きている人の尊厳につながっているんですよね。当時の帝国大学は色々な人骨研究をやっていますからね。そうすると恐らく朝鮮半島の御遺骨の問題も当然あるはずです。リストにありますからね。
それから、台湾もあるだろうし、東南アジアもあるだろうし、そういう風に広がっていく可能性があるんですね。遺骨の問題は先住民の大きな長い歴史の中で国際的にも重要な問題になっていると・・・



遺骨収集には、清野謙次の影響が強くあった。清野は731部隊長石井四郎の強力な支援者だった。(病理解剖の最高顧問)

原告たちのあまりに理不尽な被害

JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子


                





自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。


『日本医学百年史』195711の731部隊の記述


日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」



第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった








パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
 医学と人権を考える




『医学者は公害事件で何をしてきたのか』 津田敏秀著

食品衛生法を適用しないことが決定

 国と熊本県は、水俣病患者は自家用に採取した魚介類によって中毒になった者も多いので、食品衛生法が適用できなかったと、事件当時このような議論が行われていなかったにもかかわらず後付けの言い訳を裁判用に行っている。しかしほとんど自家用に採取された原因食品によって起こった大規模な食中毒事件で、食品衛生法が適用された例が、当時すでに存在していた。既出の静岡県浜名湖のアサリ貝事件である。この事件はアサリ貝が原因食品であるが、病因物質が判明していなかった点でも水俣病事件でも類似している。浜松アサリ貝事件の経緯に関しては、やはり『水俣病の政治経済学―産業史的背景と行政責任』において詳しく説明されている。そもそも自家用だから食品衛生法も適用せず放置しておくと言うこと自体が誤りだ。裁判上の言い訳でしか適用しない議論であろう。









小津安二郎も毒ガス部隊だった


森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!     

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!


     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が 開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置




獄中1万日(帝銀事件) 森川哲郎 (図書出版社)より

 丁野暁春弁護士は、元大審院判事だったが、殺人事件の被疑者が、愛人と一緒にいたことを、どうしても言わなかったので、有罪判決になり、大審院に上告したので、これを問い詰めて、危うく救ったことがあると言っている。また、被疑者の混乱した自供、嘘などを犯人の証拠として並べ立てる刑事や検事は日本でも外国でも意外に多い。未だに平澤クロ説を唱える人のほとんどがそうである。




 

冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!

社会が許さない 釈放後も「地獄」

 

 



1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。



 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

             伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 


●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。


実験医学雑報20巻 第7号(1936年)

本所職制改正

この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。

特別研究室とは何だ??



実験医学雑報22巻 第2号(1938年)

学術集談会
去る1月27日(木)午後1時から講堂に於いて学術集談会が開催されたが、演題は次の如くであった。


演題
4、梅毒血清診断について
  特にBrowning法、ドイツ国法(Sachs法)及びKolmer法に依る三種Wassermann反応
  の比較
    (第1報)
    羽里彦左衛門君、中村茂一君、清水萬之助君、田中芳雄君
5、カラアザール診療用研究団作成
    16ミリ映画供覧

学友会へ寄付金

金8円45銭    須貝井忠男君
金31円06銭    永井吉郎君

     


1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??

浜一中大福餅事件

               
浜松一中の慰霊碑


大牟田の慰霊碑(裏)


(碑文)

「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」


<三池の冬1997 その2>より

わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)

この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。



日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業

                    北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)



アニリン中毒の苦しさ


海軍科学研究部(平塚)にいた内藤健作氏はS剤(2号特薬)製造

「アニリン中毒は生きた人の顔が全くなくなり、死者のようになってしまう。鼻孔が痛くなり、呼吸が苦しい。息を吸う時よりも吐く時に鼻孔が炎症を起こして苦しく頭の中が痛くなる」と中間財を作る工程が12時間かかり、パッキンが1工程耐えるものがなく途中で取り替えられなかった為、ガスが充満するという。



科研を視察する昭和天皇(中央)。久村所長が先導している(元科研職員の小野田悦郎さん提供)


   







この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
 定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
 日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
 この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
 今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
 はないのか?


 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。


第6部

資料・731部隊細菌戦裁判第1審判決全文

被告の主張  (別紙4)

第6 立法不作為を理由とする国家賠償請求について


2 例外的な場合に関する原告らの違法性判断基準の誤りについて


(3)原告らは、立法不作為が国家賠償法上違法となる場合の要件として、当該人権侵害が重大であることと、その救済の高度の必要性があることを主張しているが、その根拠が明らかではなく、また、いかなる場合を想定しているのかも明確ではない。




731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?



●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??

 

           
2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           


731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)

 

 

 

 

日本の中国東北侵略から92年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 



 

六月三日


八月十五日

榊原が総出警戒の実施せらるるその日の朝巡察に行き 路板上を通る支那人3人を捕えてきたのが始まり。其の日の夜には約五、六名 其の次の日と次の日を合わせて十八名ばかり分遣に連れてきた。

そして密偵と中隊幹部が取り調べた、女の小供もいた。

此の時ばかりは国の弱さをはっきり不幸に感じた、泣きたいような気分がした。自分は地方にいる時も軍隊に来た時でも気は非常に弱いのだ。取り調べをすると支那人らしく色々な弁解をするが要するに一理ある答えを致している。


軍都広島での物語

原爆詩集

峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。


    

 

視野を包囲し

視神経を(うず)かせ

粟粒(ぞくりゅう)するひろしまの灯

盛りあがった傷痕(きずあと)

ケロイドのつるつるの皮膚にひきつって

濡れた軌条がぬたくり

臓物の臭う泥道に

焼け焦げた並木の樹幹からぶよぶよの芽が吹き

霖雨(りんう)の底で

女の瞳は(たばこ)の火よりもあかく

太股に崩れる(あざ)をかくさぬ








封印された原爆報告書
日本政府は、原爆が投下された後、その威力調査を行ない、その結果をまとめて、戦後、アメリカへ英訳して渡した。被爆者の治療は殆どされず、人体実験迄行われた。





1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。




  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

 Ⅰ 731部隊

終生の重荷

脳裏にこびりついて離れない断末魔の形相


千田英男(ちだ ひでお)

731部隊・教育部


〈略歴〉

1917年生まれ

1942年 731部隊入隊

教育部付き衛生兵教育

吉村班、植村班、教育部庶務を歴任

■この証言は戦争体験を記録する会(宮城県)編『雲はかえらず』所収「終生の重荷」(1974年)より転載したもの


「私達の実験はいつ終わるのか」

これは禁じられている事だが、1日の配給量では足りないというその中の1人の訴えがあった時から、ここに出入りするたびに持ってくることにしていた。

「大人謝々(ターレンシェシェ)」

ささやかな喜びにしても私にしてはそれが嬉しくもあり、また私にできる唯一のことだった。警備員もそれとわかってか常に見て見ぬふりだった。それから1人1人に、前回接種後の異常の有無や、健康状態などについて問診をするのだが、話は折々に、

「大人(ターレン)、私達の実験はいつ終わるのか」

「間もなく終わるよ」

「そしたらここを出してもらえるのか」

「多分そうなるだろう」

「私は・・・何も悪いことをしていない。故郷には妻も子どももいる。みんな待っているだろう。早く帰してくれ」

私は一瞬戸惑いを感じ、言葉に窮し返事に困るのである。

「よし、わかった。そのように上の人にお願いしてみる」

「よろしく頼む」

「いい返事を待っている」

こんな会話が交わされた。その時の彼らの目は、心なしか生き生きと輝く様であった。


 

日本軍政下香港(1997.7.27)



●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行


速記録
(平成3年9月9日第11回口頭弁論)

甲第267号証を示す 

その点は既に1審でも江口証人によって当方は詳しく立証しておりますので繰り返し伺うことは避けたいと思いますが、証人の結論を一言で言いますと、どういうことでしょうか。

 その点についてごく簡単に申しますと、学術研究書となっていないからそれはいけないんだということではなしに、それはかなり専門的歴史家以外の作家とかジャーナリストとか言う、そういう作品も含めて現代史研究というのは進んでいくんだと、そういう点で、問題は学術雑誌中の論文であるかどうかが問題になるのではなくて、問題はそういう形式ではなくて、何が書いてあるかという内容こそが問題であるという趣旨であります。




●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅲ 日中戦争の全面化と本格的使用の開始  1937―1938

2 武漢攻略作戦



第11軍の戦闘


 こうして、少量の使用でも大きな効果を上げることができたのである。さらに注目されるのは、ここでも毒ガス攻撃で戦闘不能になった国民党軍兵士を刺殺したという報告が現れることである。岡村 第11軍司令官は、「特種煙攻撃を実施せつ地域の敵は勉めて殲滅を期し、これが逸脱を防ぐものとす」として、秘密保持のため毒ガス攻撃を受けた国民党軍兵士は皆殺しにするよう命令している。これが忠実に実行されたのである。


海軍の相模海軍工廠跡(寒川)を訪ねて(2022年4月9日)
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!


略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)







*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)












大久野島の歴史

Ⅲ:大久野島毒ガス工場の稼働 

④ 毒ガス工場へ民間人の動員 


 1943(昭和18)年になると戦況は日本に厳しくなり、労働力不足を補うために子どもたちも動員されるようになりました。小学生・中学生・高等女学校生徒など、学校での授業の代わりに工場などで働かされるようになりました。大久野島にも多くの中学生・高等女学校生徒が動員されました。小学生は忠海町にある工場の倉庫などで草取りの清掃などの作業をしましたが中学生、高等女学校生徒は大久野島まで行って作業させられました。敗戦までに大久野島に動員された生徒数は約1100人に及びます。


 

 

 







●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行

刺突(しとつ)

農民を初年兵の訓練に


江先 光(えさきひかる)

曹長

〈略歴〉

私は山口県岩国市岩国に生まれた。

小学校8年を卒業すると家業を継いで石工となり、

1939年に第39師団歩兵第233連隊第4中隊に入隊、中国に侵略した。

以後曹長となり庶務係、小隊長を経て、1945年敗戦により、9月2日、東北四平において

捕虜となった。今年40歳です。

 

こうして軍は、一方長江を渡り常徳攻略の名の下に、豊かな米、綿、革類、油を略奪し始めた。そうする一方で足元を固め始めたのである。

「よーし・・・乾頭がいは今まで入っていないのだ、物があるぞ・・・・」今までの遊撃隊を殲滅する目的が物奪りに変わった。部隊は夜となく昼となく村落を襲った。だが3か月もなるのに、やっと米が3斗と、鶏が10数羽、豚がわずか2,3頭しか奪れなかった。いったい人間はどこに隠れ、品物はどこに隠したというのだろうか?・・・全く見当がつかなかった。それにもかかわらず、田んぼの稲はいつしか刈り取られ、どこかに運ばれてしまい、畑の野菜は今朝肥やしをやったように生き生きとしていた。



    


    

●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


●『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

藤井治夫著


第3編 主要極秘文書

1 三矢研究



















第三動  研究問題


3、7月21日臨時閣議において決定された我が国防衛の基本方針並びに所要の国家施策についてその子を述べよ〈状況下の研究№12〉


第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。



 1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

 『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。


1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊



第4代衛生学校長


『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1




金原節三と細菌戦


金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。


細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。


金原節三と武見太郎


金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。


※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!


『軍事史研究』2010年9月

軍事史関係史料館探訪(56)

陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館

喜多義人


収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。




●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)

Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦


1、自衛隊の装備・訓練を探る

装備・訓練の実体は


自衛隊教範(14-2-3、14-4-2)から化学兵器の幾つかを紹介してみよう。

M6CN-DM刺激性手榴弾

暴徒、群衆、及び暴動の制圧及び部隊の訓練に使用される。弾体に6個あて3列の噴出口がある。充填剤はクロルアセトフェノン(CN)、アダムサイト(DM),及びEC無煙火薬の混合物10オンスからなる。信管はプーチョン型(M201)。点火すれば約2秒で化学剤を燃焼させ、蒸気は煙状となって放散される。燃焼時間は約30秒。この擲弾(てきだん)はM2型てき弾発射補助筒を使って小銃発射できる。


5代衛生学校長

 

井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

 

1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

  井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。

東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。

※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。

1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

 

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)

 

イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 


●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。



 

 






●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  

    

第2部    仁愛の政治


1922(大正11)年―1930(昭和5)年

 最近の証拠によると、日本国民に共通の自己確認の基準、「肇国」の基本原理としての神話がしだいにゆるみだしたのは第1次大戦末期のころである。陸軍の多くの将校が、大正デモクラシー運動で建軍の精神が失われたと非難し、軍隊における規律の低下や軍と国民との疎隔を「デモクラシー」のせいにした。


日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


RENUNCIATION OF WAR Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

IMAGINE9

解説

9条をつかって、

戦争のない世界をつくる。

01 

軍隊のお金を

みんなの暮らしのために使う世界

1年間に世界で120兆円、日本で5兆円という、想像もつかないほど巨額のお金が、戦争のため、またはその準備のために使われています。1発数千万円ないし数億円もかかるようなミサイルを何百発も準備することが、「国を守るため」として正当化されています。



憲法9条を生かそう!!


『鹿屋(かのや)航空基地  史料館』(鹿児島県鹿屋市)について


~ご理解していただきたいことを文章にしました~


2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)


私は若い頃、『きけ わだつみのこえ』をよく読んでいました。読んでいく中で波長の合う戦没学生を数名見つけて、現在も時々、読み返しています。とりわけ、佐々木八郎さんの残した手記や日記は私の魂にピタッと伝わってきました。その佐々木さんも、当該鹿屋航空基地から出撃しています。学徒出陣の22歳、沖縄海上で戦死。宮沢賢治の『烏の北斗七星』に関連して書いた自分のエッセイを(第一高校の)クラス会にて発表するほど、戦争(戦いで敵を殺すこと)に対して根本的な疑問を持っていた佐々木さんの、出撃直前と思われる機上での笑顔の写真もあります。それは、生来の朗らかさと親友たちへの別れの笑顔が重なったものと思われます。






 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!

※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、戦争、

3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?


「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え




核兵器禁止条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

核被災に苦しむウイグルの人々

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子


・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。


●核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



核実験の種別

核実験の種別:1.大気圏内、2.地下、3.大気圏外、4.水中

核実験は、実施された場所と高度により4つの種別に分類される。




水素爆弾の恐怖・ビキ



ニ環礁 (アメリカ) 

「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】



核実験の人体実験


●核融合もすべきではない!!




なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「反原発!!」と叫ばない!!
 

       

      





































原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。


・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。





水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した









福島第1原発事故



           

















徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!






カンパ大歓迎

ブログ・動画作成・オンラインなどをやっています。

郵貯

記号10100

番号

67985861






















フォロワー

ブログ アーカイブ

自己紹介

新しい自分を発見中