●処理水放出反対!!
●放射能と人類は共存できない!!
IAEAも原子力規制委員会も原発推進機関だ!!
「汚染水はなぜ流してはならないか」小出裕章講演会
私の魚はあなたの魚
【声明】処理汚染水の海洋放出決定に抗議する
「十分な理由がある」 中国外務省、日本からの輸入水産物の全量検査を正当化 福島第一原発の処理水放出めぐり
福島原発事故10年、汚染水を海に流さないで! 原発もうやめよう!
「汚染水放出反対」釜山の市民団体が訪日へ 韓国南部の海上では抗議行動
「これ以上、海を汚すな!」 原発汚染水海洋放出に世界各地で「反対」の声
処理水の放出反対 日韓最大野党の議員らが声明 立憲内からは懸念も
日本に渡っていった韓国野党、ついに「IAEAは国連の傘下ではない…新しい機構必要」
香港政府、処理水放出なら「10都県からの水産物輸入禁止」…中国と足並みそろえる
処理水報告書「中立性欠く検証」 韓国野党、IAEA批判
「サンモニ」目加田説子氏、福島原発処理水を「汚染水」と表現 IAEAの行動「政府手助けに見える」
今さら聞けない「汚染水」のホントとウソ、まとめました
社民党議員 処理水放出反対の韓国野党と連携
処理水の海洋放出に反対 宮城県議会が全会一致で可決
「処理水放出に反対」、福島県の漁業団体が4回目の決議…日本国内の世論は
●放射能と人類は共存できない!!
戦後最大のミステリー「帝銀事件」犯人は何故被害者と同じ毒物を飲んで死平気だったのか?冤罪?真犯人は旧陸軍?
7、歴史修正から歴史否定に行き着いた社会はまた再び虐殺へと向かう。映画と呉監督の話から深く感じられた。
私は若年の時から反戦闘争に取り組んだが、今の政府と日本社会の動向はまた再び戦争へと向かう 色が濃い。私は高齢ではあるが、自分ができること、戦争阻止へ向けてできることについて考え行動していこうと思う。(70代、横浜市内、チラシ)
歴史に誠実に向き合い、国家の責任を問い、再発を許さない共生社会への第1歩を!
足摺岬サンセットクルーズ(高知県)
靖国神社参拝反対!!
超党派の議員連盟メンバー87人 そろって靖国神社に参拝
原発の怖さを考えよう!!
ワクチン開発と戦争犯罪
731部隊と日本医学会―「未来への提言」を踏まえて―
※多摩労務管理事務所への裁判闘争
3月29日、多摩労務管理事務所への裁判闘争が原告の主張が全て認められたかたちで、完全勝訴判決を勝ち取りました。
詳細は、追ってご報告致します。
これまで私達の裁判闘争をさまざまな形で支えて下さった皆様にまず感謝を申し上げます。
Union No.6 からのメール
「声上げたら解雇」は許せない!〜「多摩労務管理事務所」に仮処分守れと申し入れ
【今日でちょうど60年、独占告白】被差別部落出身の青年が「殺人犯」として不当逮捕された…「命の恩人」は三鷹事件で逮捕された男だった
731部隊の実態をきちんと伝えよう!!
長大なトンネルに解剖室…旧日本軍「731部隊」最大規模の“地下実験場”内部が明らかに
英紙報道(共同通信の竹内大志記者による
信濃毎日新聞5月29日
中日新聞5月29日
教育委員会が提案した案第2弾!!(細菌戦の解説欠如、証言パネルを展示せよ!!)
旧陸軍の特殊部隊「731部隊」の一部展示を見送る…市教委「事実関係確認されず」
731部隊で行われていたこと
遺棄毒ガス兵器処理事業の文書を公開せよ!!
旧日本軍の毒ガス戦、戦後の処理新型コロナも鳥インフルも生物兵器か??世界のBSL4施設は何を研究しているのか??
鳥インフルでの殺処分は適切なのだろうか??
日本は、きちんと謝罪・補償すべきだ!!
「細菌兵器製造の731部隊―731部隊軍医秦正氏の証言」
731・原爆・ビキニ
12月21日(水)
4、731・原爆とパネルを見て、10年前から続く原発事故「処理」と何ら対応が変わっていないと思えた。細菌戦部隊を含め、今回の原発推進者まで原子力マフィアが脈々と続けられていることに空恐ろしさを感じた。(51歳以上、日野市、チラシ)
南京大虐殺から86年(1937年12月13日南京陥落!)
ロシア軍の残虐行為に「ジェノサイド条約批准を」の声、日本未批准の背景に何がある?
中国 南京事件から85年 追悼式典に最高指導部のメンバーが出席
中国侵略(南京大虐殺、重慶大爆撃等)
中国侵略(南京大虐殺、重慶大爆撃等)
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
【ゆっくり歴史解説】重慶爆撃「百一号作戦」【知られざる激戦110】
医療倫理・研究倫理の深化
原発事故・幻のシナリオ
全国最大 原発訴訟
福島の声を聴いてくださいーー福島県の40以上の市町村議会で汚染水意見書
福島県漁連、森林組合連合会は、放出に反対を表明その中で、福島県漁業協同組合連合会は、去年は震災前漁獲量の約14%にとどまったが、今年の2月には出荷制限が解除され、これから増産に向けて舵を切ろうとしているところであり、海洋放出に反対だと訴え、福島県森林組合連合会は原木椎茸生産に不可欠な、しいたけ原木の生産が困難な状況が続いており、販売が皆無であること、野生きのこ・山菜等の出荷制限も多くの市町村で継続されている窮状を訴え、大気放出に反対を表明しました。
福島第一原発 処理水放出の開始時期 春から夏ごろ見込む 政府
棄てられた水爆被爆者
「ビキニ事件と俊こつ丸」
核被災と核兵器禁止条約
35円の代償
核なき未来へ
反原発!!
西村経産相が訪米次世代原子炉の開発や建設 日米連携で一致
東芝を沈めた原発事業「大誤算」の責任
東芝買収、JIPが最終提案 銀行団が融資確約
ビキニ被爆訴訟
「核なき未来へ」
学知と骨ー琉球人骨返還訴訟が問うものー
丹羽雅雄弁護士の話:遺骨という問題は非常に大きな問題なんですよ。死者の尊厳ですからね。死者の尊厳ということは、生きている人の尊厳につながっているんですよね。当時の帝国大学は色々な人骨研究をやっていますからね。そうすると恐らく朝鮮半島の御遺骨の問題も当然あるはずです。リストにありますからね。それから、台湾もあるだろうし、東南アジアもあるだろうし、そういう風に広がっていく可能性があるんですね。遺骨の問題は先住民の大きな長い歴史の中で国際的にも重要な問題になっていると・・・
731部隊論文 検証求める有志 申入書提出 総長に懇談を要求(2020.04.01)
京大論文「人体実験と結論付けられない」 今後調査せず
ドイツと日本の謝罪の違い
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」 医学と人権を考える
『医学者は公害事件で何をしてきたのか』 津田敏秀著
Ⅲ 必要な制度の見直し
2、学者製造機構としての医局
医局というところ
以上の医局のメリットの基盤には、医局への帰属意識がある。これは難関母校医学部への帰属意識でもある。医局の中では、平成○○年○○大学医学部卒もしくは昭和○○年○○医科大学卒という肩書が生涯ずっと重視されるように、基本的に年功序列の組織である。これ自体も官僚機構と似ている。
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
『医学者は公害事件で何をしてきたのか』 津田敏秀著
Ⅲ 必要な制度の見直し
2、学者製造機構としての医局
医局というところ
以上の医局のメリットの基盤には、医局への帰属意識がある。これは難関母校医学部への帰属意識でもある。医局の中では、平成○○年○○大学医学部卒もしくは昭和○○年○○医科大学卒という肩書が生涯ずっと重視されるように、基本的に年功序列の組織である。これ自体も官僚機構と似ている。
“黒い赤ちゃん”その後も・・・カネミ油症、次世代が訴える症状【報道特集】
※『30年目のグレーゾーン』の録画をお持ちの方は、nobu.goi@gmail.comまでご一報ください!!
太平洋核被災支援センター
※『30年目のグレーゾーン』の録画をお持ちの方は、nobu.goi@gmail.comまでご一報ください!!
太平洋核被災支援センター
戦後、宮川東大教授(元731部隊レントゲン班班長)が関与した動物実験
【薬害エイズ事件】安部 英 容疑者逮捕 厚生省に強制捜査 ニュース
新潟水俣病について解説!【四大公害病】
メチル水銀中毒(「水俣病」)
ドキュメンタリー:イタイイタイ病
神岡鉱山とイタイイタイ病 ①
【実話】イタイイタイ病の闇が深過ぎる…(漫画動画)
(日本の歴史)奇病「イタイイタイ病」はまだ終わっていない!忘れてはいけない公害病(アニメでわかる
小津安二郎も毒ガス部隊だった
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が 開催される予定であったが、戦争の為中止!!1940年 6月4日 731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う10月 4日 731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う10月27日 731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う1941年11月4日 731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 8月 731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う1943年12月 100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
獄中1万日(帝銀事件) 森川哲郎 (図書出版社)より 毒物に対する検事論告の矛盾 以前に、 仙台東北大の高瀬薬局に、松井博士の紹介だと言って現れたモンタージュによく似た男のことが、新聞紙上を賑わしていたが、そのことは平沢には少しも結びつかず、毒物の入手経路は何一つ判明しなかった。 検事はついに、この追及を諦めてしまったのである。そこで検事は次のような論告を行う。「市販の青酸カリは、終戦時ばらまかれたものが沢山あり、各交番のこれに対する管理もルーズであったから、容易に手に入れられるはずであります。入手の可能性は充分にありますから、具体的なつながりはなくても良いのであります。他の証拠から立証できます。」
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
松本清張と帝銀事件第2部
帝銀事件1審第1回公判(東京地裁)
帝銀事件①
帝銀事件と薬害エイズ事件
冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!
社会が許さない 釈放後も「地獄」
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑報22巻 第6号(1938年)伝染病研究所創立40周年記念日式辞 宮川米次
無症(状)感染 多くの病原体によって、人体並びに動物体が侵さるる場合に、常に一様に同様な疾患を発来するものでないことは、古くより知られた事である。有症状感染の中にも、極めて軽度なるものより、生命を奪う迄の差異のあることも亦周知のことである。多くの細菌性疾患 、即ちチフス、パラチフス、赤痢、コレラ、ジフテリア 等に於いて、この現象が認められ、然も無症感染は健康保菌者等にと呼ばれ、自個は終生それによって発症することはなく終わるものもあるし、又身体的環境の変化によって発症することもあることが報告せられている。又この菌株が他人に伝播した場合に、必ずしも他を保菌者たらしめずに、多くは有症感染をすら起こすものである。肺炎菌のごとき常時人体の咽頭部に保持せられおるものが相当に多い。然るにこれによって、諸種の免疫体、感染防御体の構成を見ることなく、寒冒、風邪等に際会して、終に深く侵入して、肺炎を惹起することも略〃承認せられた事実である。ジフテリア菌等においてもこれと類似の事実があるらしい。パラチフス保菌者が、数年後 発病した例の報告がある。是等健康保菌者と有症感染者との間に於ける所謂免疫体の発生の相違はどんな具合であるであろうか。知りたい事柄の1つである。又如何なる身体的状態のものが、無症感染を起こすものなりや の点も是非知らなくてはならない事柄である。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
浜松一中の慰霊碑
大牟田爆発赤痢事件(昭12.9.25)は計画された陰惨極まる国家犯罪である!! : 真因は毒ガス・赤痢菌による人体実験
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
戦時下
大牟田爆発赤痢事件
隠蔽された企業犯罪、国家犯罪
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
いわゆる「大牟田爆発赤痢事件」の真相
塚本メモの発見
国の力で辞職に追い込まれた水道課長塚本久光氏は水道局の金庫内に2通のメモを残していました。
昭和37年11月9日「夕刊フクニチ」は「25年ぶりに発見された極秘書類メモ」として書類写真を掲載。
そのメモは、
①「水道水ヲ以テ罹患原因ト認メ得ザル理由」
ここには「第三水源井ヲ以テ発症原因ト見做セル如キヲ以テ特ニ三源井状況詳記シ反証トス」として、18項目を挙げて、水道水汚染説に真っ向から反論している。
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
戦時下
大牟田爆発赤痢事件
隠蔽された企業犯罪、国家犯罪
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
いわゆる「大牟田爆発赤痢事件」の真相
塚本メモの発見
国の力で辞職に追い込まれた水道課長塚本久光氏は水道局の金庫内に2通のメモを残していました。
昭和37年11月9日「夕刊フクニチ」は「25年ぶりに発見された極秘書類メモ」として書類写真を掲載。
そのメモは、
①「水道水ヲ以テ罹患原因ト認メ得ザル理由」
ここには「第三水源井ヲ以テ発症原因ト見做セル如キヲ以テ特ニ三源井状況詳記シ反証トス」として、18項目を挙げて、水道水汚染説に真っ向から反論している。
米中の生物兵器開発?
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。
日本の中国東北侵略から92年●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
1月4日
煙台炭坑 分遺隊上番 晴れ温度最高零上5度 最低零下18度
十五夜の寒月冷し
日本全国民が少しでも僕ら位の満州に関する関心を持っていたら 満蒙問題も太陽の出るより確実に有利に 既得権利の保全位朝飯前のことであろう。
それゆえ僕が陸軍大臣になれば いの一番に条約に於いて定められし以内の最大限度に軍隊を送る そして軍人としてはもとより一般国民としての覚悟を養成せしめ一方移民を積極的に進める・・・ハハハ
寒いのが冬で 暑いのが夏で 高梁が芽を出せば春 実れば秋・・・この位のことしか知らないのだがこれでも大きな事だけは一人前に云ふ
もうやめよう紙が損だ また電話でからかってやろう外出している奴らを・・・
軍都広島での物語
●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
1月4日
煙台炭坑 分遺隊上番 晴れ温度最高零上5度 最低零下18度
十五夜の寒月冷し
日本全国民が少しでも僕ら位の満州に関する関心を持っていたら 満蒙問題も太陽の出るより確実に有利に 既得権利の保全位朝飯前のことであろう。
それゆえ僕が陸軍大臣になれば いの一番に条約に於いて定められし以内の最大限度に軍隊を送る そして軍人としてはもとより一般国民としての覚悟を養成せしめ一方移民を積極的に進める・・・ハハハ
寒いのが冬で 暑いのが夏で 高梁が芽を出せば春 実れば秋・・・この位のことしか知らないのだがこれでも大きな事だけは一人前に云ふ
もうやめよう紙が損だ また電話でからかってやろう外出している奴らを・・・
原爆詩集
峠三吉・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
あとがき
私はこの稿をまとめてみながら、この事に対する詩をつくる者としての六年間の怠慢と、この詩集があまりに貧しく、この出来事の実感を伝えこの事実の実体をすべての人の胸に打ちひろげて歴史の進展における各個人の、民族の、祖国の、人類の、過去から未来への単なる記憶でない意味と重量をもたせることに役立つべくあまりに力よわいことを恥じた。
然しこれは私の、いや広島の私たちから全世界の人々、人々の中にどんな場合にでもひそやかにまばたいている生得の瞳への、人間としてふとしたとき自他への思いやりとしてさしのべられざるを得ぬ優しい手の中へのせい一ぱいの贈り物である。どうかこの心を受取って頂きたい。
封印された原爆報告書
日本政府は、原爆が投下された後、その威力調査を行ない、その結果をまとめて、戦後、アメリカへ英訳して渡した。被爆者の治療は殆どされず、人体実験迄行われた。
1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
“マルタ”の監獄を建設
憲兵としての“マルタ”狩りも
志麻田実(しまだみのる)(仮名)
731部隊・部隊建設班
〈略歴〉
1918年生まれ
1938年1月 731部隊入隊(建設班)
1939年4月 新京の関東軍憲兵隊入隊
1945年 戦犯抑留
1956年 中国最高人民法院の判決により釈放
■この証言は1995年の聞き取りをまとめたもの。
私は、731部隊長石井四郎の出生地に近い所で生まれ育ちました。初めて石井部隊長の姿を見た時、6尺(約180㎝)の堂々たる体格で、もみあげ迄髭が生え、口髭を両端にはねあげていました。分厚い唇と顔の形が、明治天皇によく似ており、「軍医にしては恐ろしい顔をしているな」と思いました。
●『論争731部隊』松村高夫編核時代49(1994)年4月発行
速記録(平成3年9月9日第11回口頭弁論)
被控訴(附帯控訴)指定代理人(矢野)
「フェル・レポート」について、これが日本語に翻訳されて、日本に紹介された初めは、どういう書物においてでございますか。
常石さんが「標的・イシイ」の中で翻訳されている海軍省の、例の8月1日の中で、「フェル・レポート」の結論部分が書いてある、それが一番最初です。フェルという風に明記されて翻訳されたのは、増補版の資料の中で初めてです。
「標的イシイ」は昭和59年ですね。
はい。
「フェル・レポート」は証人はいつ頃入手されましたか。
「ヒル・レポート」と「フェル・レポート」と同時に入手しました。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅴ エスカレートする作戦 1939‐1941
1 イペリット・ルイサイトの実験的使用
華北での使用
陸軍の第3飛行集団(集団長・木下敏中将)は、華北で50kg投下きい弾を1939年7月に66発、 9月に12発を使用している。これは山西省の奥地での使用だろう。
同年11月から12月にかけて、陸軍航空部隊は山西省夏県付近にガス空襲を行った。その時投下されたガス弾の多くは不発弾で、住民に被害はなかった。不発弾数発が押収され、一発がメリーランド 州にあるアメリカ陸軍エッジウッド兵器廠に送られた。検査の結果は、容積比で内容量の40%がルイサイト、残りがイベリットで、おそらく少量の溶剤も含まれているというものだった。(なお、重量比では50%・ 50%となる)。こうして欧米に知られないように注意して使用したにもかかわらず、爆弾の性能が悪いため不発弾が生じ、びらん性ガス使用の事実がいち早くアメリカ軍によって確証されることになった。
海軍の相模海軍工廠跡(寒川)を訪ねて(2022年4月9日)日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
略史昭和 5年 海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設昭和 8年 平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設昭和 9年 海軍技術研究所化学研究部として独立昭和12年 特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに昭和17年 相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる昭和20年 終戦、廃廠 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 ①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) ②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) ③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
大久野島の歴史
Ⅴ:敗戦と大久野島
②東京裁判で歴史の闇へ 日本の敗戦後、中国の調査などにより、日本は戦争中、中国で国際条約に違反して少なくとも2000回以上毒ガスを使用し、8万人以上の中国人民を毒ガスで殺傷したことが明らかになりました。1回でも使用すれば国際条約違反である毒ガス使用を2000回以上使用したわけですから1946年の東京裁判では当然、日本の国際条約違反の毒ガス使用が訴追されるはずでした。
日本政府は、原爆が投下された後、その威力調査を行ない、その結果をまとめて、戦後、アメリカへ英訳して渡した。被爆者の治療は殆どされず、人体実験迄行われた。
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
“マルタ”の監獄を建設
憲兵としての“マルタ”狩りも
志麻田実(しまだみのる)(仮名)
731部隊・部隊建設班
〈略歴〉
1918年生まれ
1938年1月 731部隊入隊(建設班)
1939年4月 新京の関東軍憲兵隊入隊
1945年 戦犯抑留
1956年 中国最高人民法院の判決により釈放
■この証言は1995年の聞き取りをまとめたもの。
私は、731部隊長石井四郎の出生地に近い所で生まれ育ちました。初めて石井部隊長の姿を見た時、6尺(約180㎝)の堂々たる体格で、もみあげ迄髭が生え、口髭を両端にはねあげていました。分厚い唇と顔の形が、明治天皇によく似ており、「軍医にしては恐ろしい顔をしているな」と思いました。
「フェル・レポート」について、これが日本語に翻訳されて、日本に紹介された初めは、どういう書物においてでございますか。
常石さんが「標的・イシイ」の中で翻訳されている海軍省の、例の8月1日の中で、「フェル・レポート」の結論部分が書いてある、それが一番最初です。フェルという風に明記されて翻訳されたのは、増補版の資料の中で初めてです。
「標的イシイ」は昭和59年ですね。
はい。
「フェル・レポート」は証人はいつ頃入手されましたか。
「ヒル・レポート」と「フェル・レポート」と同時に入手しました。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅴ エスカレートする作戦 1939‐1941
1 イペリット・ルイサイトの実験的使用
華北での使用
陸軍の第3飛行集団(集団長・木下敏中将)は、華北で50kg投下きい弾を1939年7月に66発、 9月に12発を使用している。これは山西省の奥地での使用だろう。
同年11月から12月にかけて、陸軍航空部隊は山西省夏県付近にガス空襲を行った。その時投下されたガス弾の多くは不発弾で、住民に被害はなかった。不発弾数発が押収され、一発がメリーランド 州にあるアメリカ陸軍エッジウッド兵器廠に送られた。検査の結果は、容積比で内容量の40%がルイサイト、残りがイベリットで、おそらく少量の溶剤も含まれているというものだった。(なお、重量比では50%・ 50%となる)。こうして欧米に知られないように注意して使用したにもかかわらず、爆弾の性能が悪いため不発弾が生じ、びらん性ガス使用の事実がいち早くアメリカ軍によって確証されることになった。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く - 未来に残す 戦争の記憶
中国と日本には、多くの被毒者(毒ガス被害者)がいる!!チチハル事件以後、一時金は出ているが、不十分である!!
山下基之弁護士の話
チチハル毒ガス被害は、日本政府が「旧日本軍の毒ガスである」と認めたことが、先行している二つの裁判と 違うところです。しかし政府は、被害を補償するのではなく、「遺棄化学兵器処理事業に係る費用」として三億円を支出したに過ぎません。中国政府は約八割 を、直接、被害者に配分しましたが、一時金では不十分です。事故時の入院費用だけで受領金の三分の一近くかかってしまった人もいる。将来の入院費を心配し て、重篤な症状を抱えたままの人も多い。 被害者の全面的な健康調査を実施しなければ、全容は明らかになりません。医療保障とあわせ生活保障が必要です。外務省を窓口に継続的な協議をしていくと同時に、世論にも訴えていきたい。
認定NPO法人化学兵器被害者支援:日中未来平和基金
●『三光』 中国帰還者連絡会編日本鬼子(リーベンクイズ)核時代39年(1984年)5月初版発行
血の会食
市場に砲弾を撃ち込んで略奪
宮崎敏夫
砲手 兵長
〈略歴〉
学歴 旧制中学校卒業
旧部隊名 第59師団第54旅団第109大隊歩兵砲中隊
年齢41歳
野菜や肉、衣服の店などが広げられ、手籠を持った女たちがあっちこっち買い迷うように人波に押されている。
「こいつは悪くないぞ」
舌なめずりした宮崎は、チラリと田辺と顔を合わせるとニヤリと笑った。
「標桿の方向、砲据えッ」
木下軍曹の鋭い号令が、凍った空気を破って響き、ガラガラッ、砲車が鳴って、補充兵がしがみつくようにして射撃準備をした。
「オイ、宮崎、合図だぞ」右手のさっきの林の方を見ていた田辺が怒鳴った。林の中で、赤い小旗を上下に振った宮崎は、急いで砲座に飛び込んだ。
●日米安保条約・自衛隊を問う!!自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
核時代39年(1984年)5月初版発行
血の会食
市場に砲弾を撃ち込んで略奪
宮崎敏夫
砲手 兵長
〈略歴〉
学歴 旧制中学校卒業
旧部隊名 第59師団第54旅団第109大隊歩兵砲中隊
年齢41歳
野菜や肉、衣服の店などが広げられ、手籠を持った女たちがあっちこっち買い迷うように人波に押されている。
「こいつは悪くないぞ」
舌なめずりした宮崎は、チラリと田辺と顔を合わせるとニヤリと笑った。
「標桿の方向、砲据えッ」
木下軍曹の鋭い号令が、凍った空気を破って響き、ガラガラッ、砲車が鳴って、補充兵がしがみつくようにして射撃準備をした。
「オイ、宮崎、合図だぞ」右手のさっきの林の方を見ていた田辺が怒鳴った。林の中で、赤い小旗を上下に振った宮崎は、急いで砲座に飛び込んだ。
〔国策要綱に応じる当面の施策の骨子〕
1 臨時国会の開催2 戦時諸法案と補正予算案の国会提出と成立(別紙A )3 自衛隊の本格的作戦準備の開始(状研№15)4 自衛隊の防衛出動待機下令(状研№13)5 国防中央機構等の整備6 経済及び要員等に関する施策(別紙B)
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
4 公害調査に名を借りたBCW作戦
蛍光粒子使用の意味
最近の実験では、「生きた病原菌」を実際に使った実験が行なわれ、豚などの動物を使って感染度合いの調査がなされ、また、細菌を急速冷凍して乾燥させたものを上空から散布する方法で有効な成果を得たとの報告もある。事実、自衛隊の場合も後に述べるように、ヘリコプターから散布するという方法もテストされている
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●宮川正
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞 ※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第2部 仁愛の政治1922(大正11)年―1930(昭和5)年
第5章 新しい皇室、新しい国家主義
Ⅲ
例えば樺太では、全人口に近い29万5000人(アイヌその他の先住民約2000人を含む)以上が動員された。即位礼の終了後、樺太庁は公園や実験農場の造成から「青年団会館、御真影奉安所、忠魂碑、役場庁舎」などの建設まで、500以上の記念事業を推進した。
総督の斎藤実が1920年代の日本の「文化政策」の一環として朝鮮語新聞の発展を許容していた朝鮮でも、樺太と同様の活動が見られたが、やや控えめだった。総督府はまず11月3日の明治節に景福宮で昼食会を開催した。学校の生徒は旗(もちろん日本の)行列と提灯行列に参加した。天皇の名で気前よく叙勲が行われ、800人を超える高齢者に天皇から下賜品が与えられた。選ばれた協力者たちは朝鮮王宮での晩餐会に出席した。中国人居留から踊り子の代表団が選ばれて街頭を行進した。〔前年2月に〕新設された京城放送局は、11月の祭典と儀式の様子を規定どおり放送した。総督府の公式の朝鮮語新聞も同様だったが、その購読者は2万2000人余りで、朝鮮の三大日刊紙の読者の約22パーセントに当たった。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
4 公害調査に名を借りたBCW作戦
蛍光粒子使用の意味
最近の実験では、「生きた病原菌」を実際に使った実験が行なわれ、豚などの動物を使って感染度合いの調査がなされ、また、細菌を急速冷凍して乾燥させたものを上空から散布する方法で有効な成果を得たとの報告もある。事実、自衛隊の場合も後に述べるように、ヘリコプターから散布するという方法もテストされている
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第2部 仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
第5章 新しい皇室、新しい国家主義
Ⅲ
例えば樺太では、全人口に近い29万5000人(アイヌその他の先住民約2000人を含む)以上が動員された。即位礼の終了後、樺太庁は公園や実験農場の造成から「青年団会館、御真影奉安所、忠魂碑、役場庁舎」などの建設まで、500以上の記念事業を推進した。
総督の斎藤実が1920年代の日本の「文化政策」の一環として朝鮮語新聞の発展を許容していた朝鮮でも、樺太と同様の活動が見られたが、やや控えめだった。総督府はまず11月3日の明治節に景福宮で昼食会を開催した。学校の生徒は旗(もちろん日本の)行列と提灯行列に参加した。天皇の名で気前よく叙勲が行われ、800人を超える高齢者に天皇から下賜品が与えられた。選ばれた協力者たちは朝鮮王宮での晩餐会に出席した。中国人居留から踊り子の代表団が選ばれて街頭を行進した。〔前年2月に〕新設された京城放送局は、11月の祭典と儀式の様子を規定どおり放送した。総督府の公式の朝鮮語新聞も同様だったが、その購読者は2万2000人余りで、朝鮮の三大日刊紙の読者の約22パーセントに当たった。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
IMAGINE9
解説
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
世界は、9条をえらび始めた。
06
女性たちが平和をつくる世界
戦争でいちばん苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人びとは気づき、このような制度を告発しています。
【そもそも解説】防衛装備移転三原則の見直し 今なぜ武器輸出拡大?
『鹿屋(かのや)航空基地 史料館』(鹿児島県鹿屋市)について
~ご理解していただきたいことを文章にしました~
2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え』
●核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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1945年7月16日に行われた人類初の核実験。詳細はトリニティ実験を参照。
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
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