2009年9月4日金曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!

「日の丸」・「君が代」反対!!

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」


●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年渡満、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。

●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊

『日の丸は紅い泪に』(越定男著:教育史料出版会)より

Ⅲ ああ美しや
※途中、一部を割愛させていただきます。
それでも春はくる
ハルピンは遊ぶ所はいたるところにあった。独身の隊員は私服に着換えると、しばしば夜を徹して遊び、朝帰りする例も少なくはなかった。イラスビンという色素をうつと、化膿菌を殺し、性病にかからぬといわれ、よく使われた。しかし、軟性下疳、いわゆるリンパ線のはれる「ヨコネ」になる隊員もしばしばあり、軍医が内緒で医務室に呼んで、処置する場合も多かった。
 当時兵隊は、1ヵ月8円80銭ぐらいの支給を受けていたが、朝鮮ピー、満州ピーは1回1円であったから、遊ぶつもりになればけっこう遊べたのである。ピーとは売春婦のことで、日本ピーは1回3円から5円もしていて、兵隊にはちょっと高かった。
 各部屋が長屋風に横列に並んでいる売笑窟があり、部屋の前に廊下があって、廊下を歩きながら、品定めをすることができた。朝鮮ピーが20部屋20人で一棟を構成している所があり、その20部屋を総なめにした豪の者もいたと聞いたこともある。
 片言の日本語で客引きをしている朝鮮ピーも、考えてみれば気の毒なもので、自ら進んでとか、極貧の中で身を売って家を助けるとかいったものではなく、大部分は、日本軍によってある日突然、家や街頭から強制的に連行され、銃剣によって日本兵士のゆがめられた性的欲望の餌食にされたものであった。朝鮮女性の恨みはまことに深いと言わざるをえない。(明日に続く)

※従軍慰安婦のこれが実態だ!!日本軍によって強制的に連行されたとある。日本軍の関与は明らかにあったのだ!!決して民間の業者だけがやっていたのではない!!(ノブ)

 ●日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
516部隊

   
731部隊

  
  
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
化学兵器CAREみらい基金ブログ

  
大久野島(毒ガス島)

  
中国人戦争被害者の要求を支える会

  
中帰連

  
ハイナンネット
 
  
南京への道:史実を守る会

  
根津公子さんのページ
  

南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

童学義(男)の証言
 1937年には私は23歳、家は黒墨村17号で、我が家は姉妹6人でした。日本軍が12月13日に南京を占領してから1ヶ月余り、1日中外であちこちに隠れ、飯すら食べられなくて、仕方なく米を見つけに戻って行くしかありませんでした。ところが曹後村の麦打ち場のそばまで来たら、日本兵2人に見つかり、その内の1人は銃を持ち、1人は日本刀を持っていました。その時私を含めてみんなで5人見つかりました。その日本兵2人が5人を一緒に地にひざまずかせ、私たちに刀と銃との狙いをつけました。不意にヒューとした音が聞こえ、振り返ってみると、麦打ち場から余り遠くないところで犬が1匹撃ち殺されたのでしたが、私は吃驚して気を失ってしまい、身近にいた他の4人も日本兵に銃で撃ち殺されたのです。日本軍は私に物を背負わせようとして、撃ち殺さなかったのですが、後に私は彼らの休んでいるのに乗じて逃げ出して来ました。
 1937年の12月に、私は太平門駅の西側に寄ったところで、日本兵2人が20歳くらいの女の人を追いかけているのを見ましたが、その時、史正国という人がその女の人を逃がし、しかも日本兵に「ホアクーニャン(=若い女の人)を探しに連れて行ってやる」と言いました。そこで史正国が日本兵2人にあちこちにやたらと連れて歩いたので、やがて日本兵にも史正国が自分たちをだましているんだと分かり、今の南汽のそばの洞穴まで来たところで、史正国を中に入れ、日本兵は外で藁を燃やして史正国を活きたまま焼き殺したのでした。史正国もあの女の人も私たちの家の門のところの人で、史正国はやられた時まだ40歳前後でした。
 弟の童学才は、その時17歳でしたが、日本軍に捕まって行き、今まで戻って来ていません。
(井升安と丁亜慶が記録) 
※この場面では、5人に対して審問は行なわれなかったようだ。日本軍の2人に、この女の人もよく助かったと思うが、史正国という人の勇気には正直驚く!!捨て身で日本軍に当たったのか?(ノブ)
 

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

武器を使わせない世界


核兵器を全面禁止することこそ必要です。世界のNGOは、「核兵器禁止条約」をつくることを提案しており、国連で交渉を始めることを呼びかけています。
 生物・化学兵器は、国際条約ですでに全面禁止されています。もちろん禁止しても、隠れて開発する国や人々が出てくる可能性はあります。その時には国際機関が査察を行い、科学技術を用いて調査し、法に従って解決すべきです。

 ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もちこませない」という「非核三原則」をもっています。
 原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみを誰にも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!


0 件のコメント:

フォロワー

ブログ アーカイブ

自己紹介

新しい自分を発見中