2023年7月28日金曜日

細菌戦の系譜!!








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●日本が戦時中に使用して、中国に棄ててきた毒ガス兵器。
その遺棄化学兵器の処理が化学兵器禁止条約が発効した1997年から26年経ってもまだ終了していない。本当に内閣府の計画通り、今までに発見されている遺棄化学兵器は、2027年までに処理が完了するのであろうか?


中華人民共和国において日本が遺棄した化学兵器の2022年より後の廃棄計画
 日本国政府及び中華人民共和国政府は、「化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」(以下「条約」という。)の関連規定に従い、化学兵器禁止機関(以下「OPCW」という。)執行理事会の決定(2012年2月15日付けの第67回化学兵器禁止機関執行理事会決定第6号)に関し、協議を行い、中華人民共和国において日本が遺棄した化学兵器(以下「遺棄化学兵器」という。)の処理のプロセスを全面的に加速し、人員の安全確保及び環境の保護を最も優先させるとの前提の下で、可能な限り早期に遺棄化学兵器の廃棄を完了することを目指して最善の努力を払うとの共通認識を確認し、2022年より後の廃棄計画について以下の共通の認識に達した。(以下略)

中国における遺棄化学兵器処理事業について
2023年7月
内閣府    遺棄化学兵器処理担当室

回収数 98293発
処理数 65894発    ※中国に遺棄してきた毒ガス弾はこんな数ではないと思うが?
(2023年3月現在)




ハルビン
2019年に移動式処理設備による処理を開始。






●処理水放出反対!!

IAEAも原子力規制委員会も原発推進機関だ!!

私の魚はあなたの魚


【声明】処理汚染水の海洋放出決定に抗議する



処理水の放出反対 日韓最大野党の議員らが声明 立憲内からは懸念も


日本に渡っていった韓国野党、ついに「IAEAは国連の傘下ではない…新しい機構必要」

香港政府、処理水放出なら「10都県からの水産物輸入禁止」…中国と足並みそろえる

グリーンピースは、汚染水をもっと堅牢で大型のタンクに保管し、現在より精度の高い分離技術を開発するすることを、安全で実効的な解決策として提案しています。
なぜなら、海外ではすでにトリチウムを分離する技術が運用されているからです。
福島には、今以上のタンクを設営するスペースも、十分あります。


処理水報告書「中立性欠く検証」 韓国野党、IAEA批判

「サンモニ」目加田説子氏、福島原発処理水を「汚染水」と表現 IAEAの行動「政府手助けに見える」

今さら聞けない「汚染水」のホントとウソ、まとめました

社民党議員 処理水放出反対の韓国野党と連携

処理水の海洋放出に反対 宮城県議会が全会一致で可決
「処理水放出に反対」、福島県の漁業団体が4回目の決議…日本国内の世論は


●核実験・原発事故・戦争で世界の環境は壊れかけている!!
・日本は生物兵器禁止条約に、1972年4月10日(署名開放日)に署名,1982年6月8日に批准した。
・日本は化学兵器禁止条約に、1993年1月に署名し、1995年9月に批准した。
・核兵器禁止条約が、2021年1月22日に発効したが、日本は不参加。オブザーバー参加もしていない!!

 
             


●防衛省は、『衛生学校記事』・『化学学校記事』を公開していない!!日本の自衛隊は、何をやっているのか、国民に情報を公開すべきである!!
※なぜ、防衛省は、『化学学校記事』公開できないのか?
1966年第21回国連総会において化学兵器及び生物兵器の使用を非難する決議が採択され、1969年にはベトナム戦争での枯れ葉剤使用の被害の深刻さから、ウ・タント国連事務総長が、「化学・細菌兵器とその使用の影響」と題する報告書を提出したことを契機として、国連などの場で化学兵器の禁止が活発に議論されることとなった。(ウ・タント国連事務総長が「化学・細菌(生物)兵器とその使用の影響」と題する報告書を提出するのは、1969年7月2日)
 その世界の潮流の中で、日本でも、国会で毒ガスのことが取り上げられ、また、返還前の沖縄(1969年7月)で米軍の毒ガス漏出事故が起きる。
 日本政府は、国連の動きに反応して、1925年に作成され、1928年に発効したジュネーブ議定書(窒息性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書)を1970年5月に批准する。

 一方自衛隊は、戦後アメリカからのデータに基づき、サリンの合成に1964年に成功し、1973年には最新のBZガスの合成に成功している。

 このジュネーブ議定書を日本が批准したことが、「化学学校記事」の存在が、国際社会では認められないものであると判断して、「化学学校史」に記載しなくしたのではないか。また「化学学校記事」を隠すことになったのではないかと思う。

米 バイデン大統領 “保有する化学兵器 すべて廃棄完了” 発表


日本の化学兵器は
どうなっているのか??

(追伸)1995年に起きた地下鉄サリン事件では、サリンの製造に信者の自衛隊員が加わったとか化学学校の情報が流出したのではないかと言われている。
 そういう情報を、世間に知らせないため、オウム真理教の死刑囚を刑を執行したのではないか。死刑執行前夜の写真











大炎上「赤坂自民亭」は何が問題だったか


●情報公開裁判「衛生学校記事」裁判 第1審東京地裁8月29日(火)判決!!



































●旧統一教会の問題












2015年に遺族が第20次再審請求をしている!!
平沢貞通画伯が米寿を迎える頃に獄中で描いたとみられるテンペラ画




















5月13日東京新聞




映画会の感想

3、貴重な証言活動に感銘を受けました。歴史修正主義(否定主義)の根深さを感じます。

(80代以上、横浜市内、メール)





    



歴史に誠実に向き合い、国家の責任を問い、再発を許さない共生社会への第1歩を!

ビキニデーin高知 2023





























ビキニデーin高知







ビキニ被災者支援ニュース















多摩労務管理事務所への裁判闘争
3月29日、多摩労務管理事務所への裁判闘争が原告の主張が全て認められたかたちで、完全勝訴判決を勝ち取りました。

詳細は、追ってご報告致します。

これまで私達の裁判闘争をさまざまな形で支えて下さった皆様にまず感謝を申し上げます。

Union No.6 からのメール

「声上げたら解雇」は許せない!〜「多摩労務管理事務所」に仮処分守れと申し入れ

【今日でちょうど60年、独占告白】被差別部落出身の青年が「殺人犯」として不当逮捕された…「命の恩人」は三鷹事件で逮捕された男だった


731部隊の実態をきちんと伝えよう!!

長大なトンネルに解剖室…旧日本軍「731部隊」最大規模の“地下実験場”内部が明らかに
英紙報道(共同通信の竹内大志記者による

信濃毎日新聞5月29日

























中日新聞5月29日
教育委員会が提案した案






飯田市の資料収集委員の方が作ったパネル



731部隊で行われていたこと











遺棄毒ガス兵器処理事業の文書を公開せよ!!

旧日本軍の毒ガス戦、戦後の処理








コロナワクチン接種 遺族団体“健康被害の救済認定速やかに”

新型コロナウイルスのワクチンを接種したあとに亡くなった人の遺族でつくる団体が、厚生労働省で会見し、予防接種法に基づいた健康被害の救済制度の認定を、速やかに進めることなどを国に求めました。

新型コロナウイルスのワクチン接種をめぐっては、副反応で健康被害が出たり死亡したりした場合、予防接種法上の救済制度の対象となり、接種との因果関係が否定できないと国が認定した人には、医療費や死亡一時金などが支給されます。

9日の会見には、おととし10月に、当時36歳の夫が2回目を接種した3日後に亡くなり、先月、救済申請が認められた須田睦子さんらが出席しました。

この中で須田さんは「夫が亡くなってから、当時、おなかの中にいた娘と上の子3人を育てていけるのか、不安の中で毎日を過ごしていました。接種の中止が一番の思いですが、せめて同じ不安を抱えている多くのご遺族の迅速な救済を望みます」と訴えました。

このあと団体は、救済制度の認定を速やかに幅広く進めることや、ワクチン接種後の突然死などについて、国が研究を進めることなどを求める要望書を、厚生労働省に提出しました。

救済制度には、先月10日時点で6219件の申請があり、死亡30件を含む1622件が認定されていて、厚生労働省は「審査の回数を増やしており、できるだけ迅速に対応していきたい」とコメントしています。

コロナワクチン8.8億回分、国の確保量「根拠不十分」 会計検査院




731部隊展


日本の機密文書管理はきちんと行われてりるのだろうか?隠蔽されている??機密文書も時間が経過したら、きちんと公開すべきだ!!日本にも積極的な情報開示を求めます!!
【バイデン大統領】自宅から別の機密文書見つかる


 







新型コロナも鳥インフルも生物兵器か??世界のBSL4施設は何を研究しているのか??

 


















鳥インフルでの殺処分は適切なのだろうか??


日本は、きちんと謝罪・補償すべきだ!!





ブックレット 500円
NPO中帰連平和記念館内
「供述書を読む会」
Tel・Fax 049-236-4711
Email:npo-kinenkan@nifty.com



価格 ¥3,960



放射能の影響を考えよう!!


731・原爆・ビキニ





2022年 パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」アンケート

12且26日(月)

5、年を取って字を忘れてしまったのが、多いので「ひらがな」で勘弁して下さい。

私は、終戦6歳でした。住まいは浅草で、4歳から母の実家埼玉県杉戸町に預けれらました。3月10日の大空襲の時、夜中に母の弟に起こされ、「東京が燃えているぞ」と言われました。その2か月後ぐらいの午後その家の庭に焼夷弾が落ち激しく燃えが上がるのを見ました。父は出征し、浅草には母、姉、妹と女3人残っておりましたが、何とか逃げ延び助かりました。父も帰国し、農家の納屋を借りて過ごし、昭和23年2月に浅草に戻りましたが、東武鉄道浅草駅から見た町は見渡す限り焼け野原で、バラック建てがぽつぽつあるだけでした。

 今日は、たまたま図書館へ来て、この展示会を知り、時間の合間わずかですが、拝見し、大変貴重な資料だと思いました。

 私の年代が、戦争を実際に経験している最後の人間になると思います。私も何かしなければと思いながら、とうとうこの年になってしまいました。もっと大勢の人が見に来られるよう、PRをよろしくお願いします。(51歳以上、83歳、市内、図書館に来て)














大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??





南京大虐殺から86年(1937年12月13日南京陥落!)

ロシア軍の残虐行為に「ジェノサイド条約批准を」の声、日本未批准の背景に何がある?

中国 南京事件から85年 追悼式典に最高指導部のメンバーが出席

中国侵略(南京大虐殺、重慶大爆撃等)





しゃべってから死ぬ!南京大虐殺



重慶無差別爆撃



昨年(2022年)4月2日に開かれた日本医学会記念事業では、「過去の過ちに学ぶ」で、731
部隊のことが取り上げられた



731部隊で非人道的な人体実験があったことを述べている!!
(以下の動画、5分20秒過ぎ)

医療倫理・研究倫理の深化



原発事故・幻のシナリオ

全国最大 原発訴訟


放射能はこわい!!

福島の声を聴いてくださいーー福島県の40以上の市町村議会で汚染水意見書

福島県漁連、森林組合連合会は、放出に反対を表明
その中で、福島県漁業協同組合連合会は、去年は震災前漁獲量の約14%にとどまったが、今年の2月には出荷制限が解除され、これから増産に向けて舵を切ろうとしているところであり、海洋放出に反対だと訴え、福島県森林組合連合会は原木椎茸生産に不可欠な、しいたけ原木の生産が困難な状況が続いており、販売が皆無であること、野生きのこ・山菜等の出荷制限も多くの市町村で継続されている窮状を訴え、大気放出に反対を表明しました。

福島第一原発 処理水放出の開始時期 春から夏ごろ見込む 政府




1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。


棄てられた水爆被爆者



「ビキニ事件と俊こつ丸」

核被災と核兵器禁止条約


35円の代償


反原発!!

西村経産相が訪米次世代原子炉の開発や建設 日米連携で一致



世界には、核実験(原爆・水爆)、広島・長崎の原爆、原発労働者、ウラン鉱山の採掘者等で被ばくした人はたくさんいる!!
それが、次世代・次々世代に影響するとなると大変な数になる!!反原発!!


東芝を沈めた原発事業「大誤算」の責任


東芝買収、JIPが最終提案 銀行団が融資確約


ビキニ被爆訴訟





京都大学出版会(2022年4月10日発行)

もしかすると中国人の人骨も京都大学にはあるのでは??

学知と骨ー琉球人骨返還訴訟が問うものー

丹羽雅雄弁護士の話:遺骨という問題は非常に大きな問題なんですよ。死者の尊厳ですからね。死者の尊厳ということは、生きている人の尊厳につながっているんですよね。当時の帝国大学は色々な人骨研究をやっていますからね。そうすると恐らく朝鮮半島の御遺骨の問題も当然あるはずです。リストにありますからね。
それから、台湾もあるだろうし、東南アジアもあるだろうし、そういう風に広がっていく可能性があるんですね。遺骨の問題は先住民の大きな長い歴史の中で国際的にも重要な問題になっていると・・・


731部隊論文 検証求める有志 申入書提出 総長に懇談を要求(2020.04.01)


京大論文「人体実験と結論付けられない」 今後調査せず


遺骨収集には、清野謙次の影響が強くあった。清野は731部隊長石井四郎の強力な支援者だった。(病理解剖の最高顧問)




原告たちのあまりに理不尽な被害

JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子




自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。


『日本医学百年史』195711の731部隊の記述


日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」



第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった








パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
 医学と人権を考える

『医学者は公害事件で何をしてきたのか』 津田敏秀著

Ⅲ 必要な制度の見直し

1、
政策と学者


なぜこんな事態になってしまったのだろうか


 しばしば、「大学医学部や医学会はなぜ機能しなかったのか?」という質問が寄せられる。実は外部の方々の想像とは異なり、日本の大学医学部や医学会はディスカッションがほとんどないところである。対話やディスカッションが最も機能していると思われているはずの学問の世界で、実は全く逆のことが生じているのだ。医学部在学中に、医学生がディスカッションや対話の技術を学ぶ機会はほとんどない。そして卒業後の医師が属する可能性の多い医局は、後で述べるように少数の例外を除いて、そもそもディスカッションや対話とは程遠い仕組みになっている。教授がよほどの人格者でもなければそのような機能は働かない。どう説明してよいか分からないが、一番根本には、和を重んじる部分も少しあり、良くも悪くも「日本的」なのかもしれない。そこに厚かましい学者が取り入る隙間がぽっかりと開いている。残念ながらこれが現実化しているのが医学部の世界だ。


“黒い赤ちゃん”その後も・・・カネミ油症、次世代が訴える症状【報道特集】

戦後、宮川東大教授(元731部隊レントゲン班班長)が関与した動物実験

【薬害エイズ事件】安部 英 容疑者逮捕 厚生省に強制捜査 ニュース

新潟水俣病について解説!【四大公害病】

メチル水銀中毒(「水俣病」)

ドキュメンタリー:イタイイタイ病

神岡鉱山とイタイイタイ病 ①

【実話】イタイイタイ病の闇が深過ぎる…(漫画動画)

(日本の歴史)奇病「イタイイタイ病」はまだ終わっていない!忘れてはいけない公害病(アニメでわかる




小津安二郎も毒ガス部隊だった


森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!     

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が 開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置




戦争犯罪と戦争責任を考える(帝銀事件捜査から)山田朗(『日中友好新聞』2022年2月15日号より)

帝銀事件というのは1948(昭和23)年1月26日に起こった銀行強盗殺人事件である。12人が毒殺されるという日本犯罪史上でも特異な事件だ。この事件は、同年8月に容疑者として画家・平沢貞通が逮捕され、裁判の結果、1955年に最高裁で死刑が確定した。
 しかし、平沢犯行説には多くの疑問があったため死刑は執行されず、さりとて釈放もされず、平沢は再審請求をしながら1987年に95歳で獄死した。

松本清張と帝銀事件第2部


帝銀事件1審第1回公判(東京地裁)


 

帝銀事件①


帝銀事件と薬害エイズ事件

冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!

社会が許さない 釈放後も「地獄」

 

 



1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。



●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

             

伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 


●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。


実験医学雑報20巻 第7号(1936年)

本所職制改正

この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。

特別研究室とは何だ??


実験医学雑報22巻 第6号(1938年)
伝染病研究所創立40周年記念日式辞
             宮川米次 

北支、中支の防疫事業

 昨年私は外務省、陸軍省の嘱託を受けまして 佐藤 、小島両教授等と共に北支満州に出張 致しまして、北支防疫事業を如何にすべきやについて親しく調査して意見を答申致しました。そのうちに南京も吾が軍の手に入りまして 、ここに上海、 南京を中心とする地域に対しましても、防疫は非常に重大なる要求となって現れてまいりましたので、外務省は、同仁会にその事業を実行せられることになりました。私は同会の副会長たるの故を以て、その掌に当たらなければならない次第であります。同会は北支・中支にすでに8班の治療班を送って、支那民衆の治療的宣撫に当り、相当に効果を納めております 。その上 ここに防疫事業延いては医事衛生開発に当ることになったので、従来の同会機構 では到底その目的を達することができませんので、広く天下の医家に協力を求めました。また本所からは高木、石井両博士が、北支防疫事業の主脳者となるために4月20日に東京を出発せられました。高木教授は一旦御帰京になり、万端の用意を整え一隊を率いて、渡支せられ、先発の石井君等と合体せらるることになっております。中支の方は阪大の谷口腆二教授、北大の井上善十郎教授が4月26日に大阪に出立、奥地に赴かれ、北支に於けると同様の段取りによって、防疫事業の衝に当ることになっておるのであります。





1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??

浜一中大福餅事件

               
浜松一中の慰霊碑


大牟田爆発赤痢事件(昭12.9.25)は計画された陰惨極まる国家犯罪である!! : 真因は毒ガス・赤痢菌による人体実験


 






















大牟田の爆発赤痢の慰霊碑(表)





















大牟田の慰霊碑(裏)


(碑文)

「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」


<三池の冬1997 その2>より

わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)

この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。



日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業

                    北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)


敗戦直前、大牟田市は米軍によって5回の空襲を受け、焦土と化しました。特に8月7日の集中的な爆撃で三井の軍需工場としての役割は終わりました。

 戦後は軍需会社からの転換、石炭化学を中心に事業を展開し始める。しかし・・・


三塚化学から三井東圧へ

1968年10月三井東圧が誕生します。























科研を視察する昭和天皇(中央)。久村所長が先導している(元科研職員の小野田悦郎さん提供)
   
























この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
 定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
 日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
 この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
 今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
 はないのか?

米中の生物兵器開発?

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。






731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??

 

           
2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           













731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)

 

 

 

 

日本の中国東北侵略から92年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

















1月1日

わずか2日の勤務にも暖きかないカチカチの兵舎故に有りったけの物を背にして白塔立てる遼陽の化け物屋敷に来たような次第である。

其の位 ・・・故郷。内地明治神宮。鐘。之等のフイルムが回してくれるに充分な11日か12日の食いかけのお供えごと如きの月が 月が浮かぶ白塔沈む露西亜基地。立てる私を眺めている 雨傘つけた昭和5年最後の月・・・さらば昭和5年 私は無事に越年したのだ 思いで語る遼陽の空で






軍都広島での物語

原爆詩集

峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。


  その日はいつか

  

 

われわれはこの屈辱に耐えねばならぬ、

いついつまでも耐えねばならぬ、

ジープに()かれた子供の上に吹雪がかかる夕べも耐え

外国製の鉄甲(てつかぶと)とピストルに

日本の青春の血潮が噴きあがる五月にも耐え

自由が鎖につながれ

この国が無期限にれい属の繩目をうける日にも耐え












封印された原爆報告書
日本政府は、原爆が投下された後、その威力調査を行ない、その結果をまとめて、戦後、アメリカへ英訳して渡した。被爆者の治療は殆どされず、人体実験迄行われた。





1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。




  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

 Ⅰ 731部隊

731部隊を破壊する

1945年8月14日に行った事


溝淵俊美(みぞぶちとしみ)

731部隊・教育部


〈経歴〉

1922年生まれ

1943年 731部隊入隊。教員部配属

1945年 教育助教勤務。ソ連侵攻時部隊警備隊指揮班長

1945年8月 帰国

■この証言は手記『平房燃ゆ』からの抜粋で、本人の了解を得てまとめたもの。


8月10日

夜になっても、“満人”の集団は引き下がらなかった。暗い夜のとばりを透かして、「誰か、誰か」と誰何する声が、遠くから響いてくる、時々発砲する音も聞こえてくる。

 関東軍の作戦命令は、「満州第25202〔731部隊本部の改称名・注〕部隊長〔石井四郎〕は、所属する部隊の重要施設を破壊し、証拠を湮滅して南下せよ」というものらしい。証拠隠滅とは、細菌培養施設、研究用施設、器具(シャーレ、コルペン、ペトリ皿、ピペット、顕微鏡など)の始末だけでなく、7,8棟の収容施設、死体焼却等々である。


日本軍政下香港(1997.7.27)



●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行


速記録
(平成3年9月9日第11回口頭弁論)

被控訴(附帯控訴)代理人(鈴木)

甲第273号証、692号証を示す

北野論文について、北野さんが自分自身は生体実験をやったことは認めていないけれども、北野さんの別の論文だとか、あるいはソ連の研究者のスモルディンテフ、この人に対する言及で、「かれもまた・・・人体実験を行った」というこの2点から、猿を実験台にした研究だと言いながら、これは人間ではないかと、こう言っておりますけれども、これはあくまでも常石さんの推論ではないでしょうか。


 常石さんは猿云々の問題も、1審で問題になりましたが、高熱を出すという風に書いているが、猿は元々高熱があるので、それは人間でなければこういう記述はできないはずだということで、人体実験に違いないと推定したわけです。その推定を覆す論文はそれ以降出ておりません。秦氏は「正論」の中でそれを認めております。それを引用しております。



●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅳ 恒常化する毒ガス戦 1938 ~1941

3  新墻河(しんしようが)渡河作戦

第6師団兵士の毒ガス戦体験記


 彼は、まもなく突撃に移るが、小隊正面の「敵」は退路を絶たれてウロウロしていた。窪地には半ば失神状態」になった兵士がウヨウヨいた。そこで、「立射で射」ちまくると「面白い様に倒れ」たという。この記録から、ガスマスクをつけて突撃すると、銃弾の音も聞こえずやがて苦しくなって頭が痛み出すこと、周りには霧状のガスが漂っていること、ガスを吸った国民党軍兵士は半ば失神状態になっており、「面白い様に」射殺できたことが分かる。




海軍の相模海軍工廠跡(寒川)を訪ねて(2022年4月9日)
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!


略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)

*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)






大久野島の歴史

Ⅳ 日本軍の毒ガス戦

⑥日本軍の毒ガス使用への連合軍の対応

 第2次世界大戦中、日本が毒ガスを使用したのは毒ガスに対する防御能力、毒ガス報復能力のない国に対してでした。中国で使用しても中国国民党軍の毒ガス戦能力は日本の脅威にはならなかったということを調べて中国での毒ガス使用に踏み切っています。戦争中、日本軍の参謀本部は欧米諸国の 軍隊や一般人民に対する毒ガス使用は禁止しています。参謀本部が出した毒ガス使用命令書には「第三国人ニ対スル被害ヲ絶無ニ・・・」とあり、欧米人に対する被害は絶対に出さないようにすること、 欧米人に日本軍の毒ガス使用の情報が漏れないようにすることを指示しています。日本より優れた 毒ガス戦能力を持つ欧米諸国が日本に対して毒ガスの報復使用することを避けるとともに国際条約違反の毒ガス使用の情報が欧米諸国に漏れることのないようにしていました。

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く - 未来に残す 戦争の記憶


中国と日本には、多くの被毒者(毒ガス被害者)がいる!!
チチハル事件以後、一時金は出ているが、不十分である!!

山下基之弁護士の話

 チチハル毒ガス被害は、日本政府が「旧日本軍の毒ガスである」と認めたことが、先行している二つの裁判と 違うところです。しかし政府は、被害を補償するのではなく、「遺棄化学兵器処理事業に係る費用」として三億円を支出したに過ぎません。中国政府は約八割 を、直接、被害者に配分しましたが、一時金では不十分です。事故時の入院費用だけで受領金の三分の一近くかかってしまった人もいる。将来の入院費を心配し て、重篤な症状を抱えたままの人も多い。
 被害者の全面的な健康調査を実施しなければ、全容は明らかになりません。医療保障とあわせ生活保障が必要です。外務省を窓口に継続的な協議をしていくと同時に、世論にも訴えていきたい。

 

認定NPO法人化学兵器被害者支援:​日中未来平和基金







●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行

強制労働

殺人長屋に押し込めて酷使


大西馨(おおにしかおる)

大尉

〈略歴〉

本籍 愛媛県

学歴 高等小学校卒業

出身階級 貧農

所属部隊名 第42野戦道路隊

年齢 47歳

●ー筆者からの一言(昭和57年8月)

私の兵科は元来工兵でしたが、ソ満国境に広大な湿地地帯があり、これに作戦用道路を必要とし、道路隊の創設をみたわけで、これには軍人を少なくし、中国人を使役して道路を構築するよう編成装備されていたわけです。雪解けの春4月から8月まで、東北各地から勤労奉仕隊の名のもとに集ってきた農民を指導して、湿地の土を盛り上げて道路を作り、9月から砂利を運んで敷く作業を、中国戦線で捕虜なった方々を使って作業した手記であり、反省の記録です。



    


    










































●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


●『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

藤井治夫著

第3編 主要極秘文書

1 三矢研究













5 結論 

前項の検討の結果、日米双方の対処方針を確認するとともに、日米協同の対処方針について次の通り決定した。

日米協同の対処方針
 日米両国は、国連憲章を並びに日米の相互協力及び安全保障条約に基づき、次により日本を防衛するとともに、極東の平和及び安全に寄与する。


 1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

 『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。



1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊



第4代衛生学校長


『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1




金原節三と細菌戦


金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。


細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。


金原節三と武見太郎


金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。


※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!


『軍事史研究』2010年9月

軍事史関係史料館探訪(56)

陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館

喜多義人


収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。




●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)

Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦

3,自衛隊における人体実験の疑念 

自衛隊の赤痢菌検査の疑惑

生体実験の事実

 しかしながら、論文の中で、研究者たちが、「ポリラクトンの服用状況を精査した結果、ポリラクトンの投与期間が2か月の長期にわたったため、最初の1か月は指示通り全員に近い隊員が服用していたが、残りの1か月特に7月初旬から多くの隊員が服用したりしなかったりの状態であった。本食中毒患者発生において、実喫食者1089名の隊員中2か月間ポリラクトンを服用した者はごく少数(63名)であった」と書いているように、成年者の隊員の場合、薬剤を服用するかどうかは隊員の自主性がかなりの影響を与え、結果的には、「統計サンプルが著しく不均衡であるので、この資料による効果断定は回避すべきである」と書かざるを得なかったように、実験の成果を見極め得ないという結果を招いている。


5代衛生学校長

 井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

 1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

  井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。

東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。

※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。

1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

 

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)

イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 


●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。


 




●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 ※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  

    
第2部    仁愛の政治

1922(大正11)年―1930(昭和5)年

第5章   新しい皇室、新しい国家主義


 1927年6月15日、天皇は牧野を呼び、田中の人事政策に不満を漏らした。牧野も、政党とくに政友会が、若い天皇を軽視していると感じていた。彼は問題を田中に伝えると約した。政党が「国体」を政治の道具にすることを嫌悪し、議会での彼らの挙動を嘆く牧野には、天皇の政治への関心は「国事多難の際、国家、皇室の為め最も祝福すべき事」だった。彼は天皇の政治的積極性に何ら問題を感じておらず、それを「聖徳培養の為め側近者奉仕の効」に帰している。

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

RENUNCIATION OF WAR Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.


IMAGINE9

解説

9条をつかって、

戦争のない世界をつくる。

世界は、9条をえらび始めた。

02

武器をつくったり売ったりしない世界

これは、2007年1月にナイロビで開催された 「世界社会フォーラム」で、ケニア人の青年が語った言葉です。アフリカは、スーダンやソマリアなど、数多くの内戦に苦しんでいます。子どもたちまでもが兵士とさせられ、武器をもたされ、傷つき、多くの民間人が命を落としています。

 『鹿屋(かのや)航空基地  史料館』(鹿児島県鹿屋市)について

~ご理解していただきたいことを文章にしました~

2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)

 鹿屋海上自衛隊内にある「鹿屋航空基地史料館」は、自衛隊とは全く別の、戦争のコマとされて亡くなった(命令によって特攻に行かされ、現場から上層部に無謀な作戦であると意見しても、全く無視された中で、更に多くの若き兵士たちが犠牲者となった)戦没者たちの史料館なので、別の場所に移動し、公的機関管理の『平和祈念資料館』(もしくは「平和祈念会館」~鎮魂と平和=憲法九条を明確にして平和を発信する「庶民のための」資料館)にすればいいとの考えに、ようやく、数十年かけて、たどり着き、まとまってきました。場所は、どこでもいいでしょうが、例えば、(平成の大合併で鹿屋市に吸収された)串良町平和公園内(海軍串良航空基地跡~特攻で363名戦死)でもいいでしょうし、その場合、既に鹿屋市内にて活動している「平和ガイド」の方々も力を合わせていけるのではないでしょうか。





『PTSDの日本兵と家族の思いと願い大阪証言集会・6月25日』の参加者感想文
2023.6.25

5,アジア太平洋戦争での具体的な侵略加害行為に対して法的な責任が問われたりしたことがない日本に果たして「戦後」を名乗る資格があるのだろうかと思います。戦争責任者が国民の象徴として不気味に国民の空気感を支配し常に軍備拡充に明け暮れ、マイノリティーを差別し、沖縄など地方を犠牲にしてきた現在の日本という国家にとって、戦争トラウマに苦しむ家族は当然の帰結なのではないでしょうか。しかし、勿論、私たちはこの情況に沈黙していていいはずがありません。日本政府が戦前戦後を通じていかに凶器の政策や教育を続けてきたかを明らかにし、自らの経験を語る口をも奪う悲惨な戦争トラウマ被害に対する加害責任を余すところなく国に追及すべきだと思います。







731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!

※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、戦争、

3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え

核兵器禁止条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

核被災に苦しむウイグルの人々

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子


・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。


核兵器禁止条約


署名国・批准国

2021年5月18日現在の署名国と批准国。


署名国         署名日          批准日 (締約日)

キリバス         2017年9月20日     2019年9月26日

ラオス         2017年9月21日               2019年9月26日

レソト                                 2019年9月26日               2020年6月6日

リビア                                 2017年9月20日

リヒテンシュタイン      2017年9月20日



水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ) 

「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】

核実験の人体実験



●核融合もすべきではない!!




なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「反原発!!」と叫ばない!!
 

       

      





































原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。


・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。





水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した










福島第1原発事故



           

















徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!



























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