●長大なトンネルに解剖室…旧日本軍「731部隊」最大規模の“地下実験場”内部が明らかに
処理水??放出反対!!
今さら聞けない「汚染水」のホントとウソ、まとめました
社民党議員 処理水放出反対の韓国野党と連携
処理水の海洋放出に反対 宮城県議会が全会一致で可決
「処理水放出に反対」、福島県の漁業団体が4回目の決議…日本国内の世論は
韓国国会が処理水放出反対決議案可決 野党が強行
福島第1原発処理水の海洋放出反対 韓国最大野党、ソウルで集会
「徴用」解決策拒否4人 韓国 支払いを裁判所に供託手続き開始
異例の起訴取り消し 現役捜査員が証言“ねつ造かもしれない”
マイナカード 相次ぐトラブル受け 5日に衆議院で閉会中審査
旧優生保護法 いきさつなど調べた国会の報告書案まとまる
記録の廃棄「率直に反省」 最高裁長官、全国会議で
陸上自衛隊 “性被害” 裁判 元隊員5人中4人争う姿勢
東京電力本社前で原発の汚染水放出に反対するデモ実施
旧ソ連ブロックにひび ベラルーシ核配備に批判―廃絶訴えるカザフ
東京医大入試 “性別で減点” 一部原告に賠償額増額の2審判決
戦後最大のミステリー「帝銀事件」犯人は何故被害者と同じ毒物を飲んで死平気だったのか?冤罪?真犯人は旧陸軍?
歴史に誠実に向き合い、国家の責任を問い、再発を許さない共生社会への第1歩を!
足摺岬サンセットクルーズ(高知県)
靖国神社参拝反対!!
超党派の議員連盟メンバー87人 そろって靖国神社に参拝
原発の怖さを考えよう!!
ワクチン開発と戦争犯罪
731部隊と日本医学会―「未来への提言」を踏まえて―
※多摩労務管理事務所への裁判闘争
3月29日、多摩労務管理事務所への裁判闘争が原告の主張が全て認められたかたちで、完全勝訴判決を勝ち取りました。
詳細は、追ってご報告致します。
これまで私達の裁判闘争をさまざまな形で支えて下さった皆様にまず感謝を申し上げます。
Union No.6 からのメール
「声上げたら解雇」は許せない!〜「多摩労務管理事務所」に仮処分守れと申し入れ
【今日でちょうど60年、独占告白】被差別部落出身の青年が「殺人犯」として不当逮捕された…「命の恩人」は三鷹事件で逮捕された男だった
731部隊の実態をきちんと伝えよう!!
長大なトンネルに解剖室…旧日本軍「731部隊」最大規模の“地下実験場”内部が明らかに
英紙報道(共同通信の竹内大志記者による)
信濃毎日新聞5月29日
中日新聞5月29日
731部隊で行われていたこと
遺棄毒ガス兵器処理事業の文書を公開せよ!!
旧日本軍の毒ガス戦、戦後の処理新型コロナも鳥インフルも生物兵器か??世界のBSL4施設は何を研究しているのか??
鳥インフルでの殺処分は適切なのだろうか??
鳥インフルの処分数 全国で1000万羽超える 過去最多
原発60年超、異例の多数決 原子力規制委、石渡氏反対
「原発が狙われる」と独り訴えた福井県原子力委員が辞めた理由
福島第一原発処理水 発生量減も 放出の開始時期に変更なし
核融合反対!!
核融合の初の政府戦略案 海外市場に参入し関連産業育成方針
なぜ、いま?リスクは
日本は、きちんと謝罪・補償すべきだ!!
国連改革!!拒否権廃止を!!
あの日本の侵略戦争を反省し作られた憲法9条を、順守すれば、軍事費ゼロ!!戦争をしないように全力で取り組む姿勢を全世界に示す!!【天皇制再考、軍人恩給廃止、戦争被害者(外国も含む)への補償、外交力強化!!】
憲法9条
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
軍事費削減!!憲法9条の推進!!被ばくの問題は重大だ!!
ドイツの大学キャンパスから少女像撤去される 学生会が昨夏設置
「細菌兵器製造の731部隊―731部隊軍医秦正氏の証言」
放射能の影響を考えよう!!
パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」展
731・原爆・ビキニ
なぜ、こんな危険な原発を、全国にたくさん作ってしまったのか??それも運転期間延長で60年超も??自然環境にやさしいエネルギーの活用ができないものか!!
12月25日(日)
11、内容のボリュームが多く、1度だけでは頭に入りきれない。もう少し的を絞ってもよかった。(51歳以上、立川市、チラシ)
劇映画「伊藤千代子の生涯」
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
南京大虐殺から86年(1937年12月13日南京陥落!)
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
第58号 重慶爆撃
【ゆっくり歴史解説】重慶爆撃「百一号作戦」【知られざる激戦110】
医療倫理・研究倫理の深化
福島第1原発関連動画
原発事故・幻のシナリオ
全国最大 原発訴訟
福島の声を聴いてくださいーー福島県の40以上の市町村議会で汚染水意見書
福島県漁連、森林組合連合会は、放出に反対を表明その中で、福島県漁業協同組合連合会は、去年は震災前漁獲量の約14%にとどまったが、今年の2月には出荷制限が解除され、これから増産に向けて舵を切ろうとしているところであり、海洋放出に反対だと訴え、福島県森林組合連合会は原木椎茸生産に不可欠な、しいたけ原木の生産が困難な状況が続いており、販売が皆無であること、野生きのこ・山菜等の出荷制限も多くの市町村で継続されている窮状を訴え、大気放出に反対を表明しました。
福島第一原発 処理水放出の開始時期 春から夏ごろ見込む 政府
棄てられた水爆被爆者
原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略
「ビキニ事件と俊こつ丸」
核被災と核兵器禁止条約
35円の代償
核なき未来へ
安倍の国葬反対!!
安倍氏“国葬強行”「許されない」 “爆発物”逮捕の男 岸田政権批判
西村経産相が訪米次世代原子炉の開発や建設 日米連携で一致
「停止期間除外」を大筋了承=原発60年超運転へ―建て替えに次世代原発・経産省会議
福島県知事選 現職の内堀雅雄氏 3回目の当選
「長崎が最後の戦争被爆地に」田上市長がNPTで訴える
世界には、核実験(原爆・水爆)、広島・長崎の原爆、原発労働者、ウラン鉱山の採掘者等で被ばくした人はたくさんいる!!それが、次世代・次々世代に影響するとなると大変な数になる!!反原発!!
被爆二世健診…43年目の真実~データが語る遺伝的影響と「ほしょう」を考える
東芝を沈めた原発事業「大誤算」の責任
東芝買収、JIPが最終提案 銀行団が融資確約
ビキニ被爆訴訟
「核なき未来へ」
学知と骨ー琉球人骨返還訴訟が問うものー
丹羽雅雄弁護士の話:遺骨という問題は非常に大きな問題なんですよ。死者の尊厳ですからね。死者の尊厳ということは、生きている人の尊厳につながっているんですよね。当時の帝国大学は色々な人骨研究をやっていますからね。そうすると恐らく朝鮮半島の御遺骨の問題も当然あるはずです。リストにありますからね。それから、台湾もあるだろうし、東南アジアもあるだろうし、そういう風に広がっていく可能性があるんですね。遺骨の問題は先住民の大きな長い歴史の中で国際的にも重要な問題になっていると・・・
731部隊論文 検証求める有志 申入書提出 総長に懇談を要求(2020.04.01)
京大論文「人体実験と結論付けられない」 今後調査せず
ドイツと日本の謝罪の違い
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
医学と人権を考える
『医学者は公害事件で何をしてきたのか』 津田敏秀著
じん肺・肺がん事件
そしてわが国では1990年代、粉塵の職業性曝露によって生じたじん肺と肺がんの因果関係の問題についていくつかの民事訴訟が起こったが、それらが学者たちの活躍の場となった。争点は、シリカ曝露あるいはじん肺が肺がんを起こすか否かであり、学者の役割は既存の文献を無視して因果関係を曖昧にすることであった。慶應大学医学部横山哲郎教授、国立がんセンター水野正一氏、産業医科大学医学部東敏明教授らはデータと全く逆行する報告書・具体的データに基づかない意見書等を出して、福岡高等裁判所と広島地方裁判所を誤った判決に導いたのである。
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
そしてわが国では1990年代、粉塵の職業性曝露によって生じたじん肺と肺がんの因果関係の問題についていくつかの民事訴訟が起こったが、それらが学者たちの活躍の場となった。争点は、シリカ曝露あるいはじん肺が肺がんを起こすか否かであり、学者の役割は既存の文献を無視して因果関係を曖昧にすることであった。慶應大学医学部横山哲郎教授、国立がんセンター水野正一氏、産業医科大学医学部東敏明教授らはデータと全く逆行する報告書・具体的データに基づかない意見書等を出して、福岡高等裁判所と広島地方裁判所を誤った判決に導いたのである。
“黒い赤ちゃん”その後も・・・カネミ油症、次世代が訴える症状【報道特集】
※『30年目のグレーゾーン』の録画をお持ちの方は、nobu.goi@gmail.comまでご一報ください!!
太平洋核被災支援センター
※『30年目のグレーゾーン』の録画をお持ちの方は、nobu.goi@gmail.comまでご一報ください!!
太平洋核被災支援センター
戦後、宮川東大教授(元731部隊レントゲン班班長)が関与した動物実験
【薬害エイズ事件】安部 英 容疑者逮捕 厚生省に強制捜査 ニュース
新潟水俣病について解説!【四大公害病】
メチル水銀中毒(「水俣病」)
ドキュメンタリー:イタイイタイ病
神岡鉱山とイタイイタイ病 ①
【実話】イタイイタイ病の闇が深過ぎる…(漫画動画)
(日本の歴史)奇病「イタイイタイ病」はまだ終わっていない!忘れてはいけない公害病(アニメでわかる
小津安二郎も毒ガス部隊だった
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が 開催される予定であったが、戦争の為中止!!1940年 6月4日 731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う10月 4日 731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う10月27日 731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う1941年11月4日 731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 8月 731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う1943年12月 100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
新版 「帝銀事件」 森川哲郎 (抄録)
第1章 犯人適格者の追及
米軍の重要機密戦略に触れる
米軍の政策の大転換
このため、GSははじめ二百数十名が、「あか」とか、「スキャンダル」のレッテルを貼られ、本国へ追放される惨憺たる状況に追い込まれた。ケーディスばMPの調べを受ける身になった。 こうして、GSの支持のもとに成立した芦田内閣は崩壊し、代わりに登場したのが、G2のウイロビーが最も密接に結びつき、強力に推していた反動政治家吉田茂内閣だったのである。
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
松本清張と帝銀事件第2部
帝銀事件1審第1回公判(東京地裁)
帝銀事件①
帝銀事件と薬害エイズ事件
冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!
社会が許さない 釈放後も「地獄」
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑報22巻 第5号(1938年)
城井先生のテーブルスピーチ(要旨)
今回 退職しましたが、辞めたような気がしません。 というのは近頃も時々来ています。もっとも唯食堂へはあまり出ませんが、 私の室もまだそのままになっているというような ためでしょう。 併し今日、本当に辞めたような気がします。重ねてこの所でまた皆様の御厚情に感謝します。(文責在ヒ筆者)
1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
浜松一中の慰霊碑
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
大牟田爆発赤痢事件(昭12.9.25)は計画された陰惨極まる国家犯罪である!! : 真因は毒ガス・赤痢菌による人体実験
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
(資料)
表3―2
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
(資料)
表3―2
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
米中の生物兵器開発?
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
はじめのことば 1904年の日露戦争で負けたロシアはポーツマス条約によって日本に旅順、大連の租借を認め、東清鉄道南部線のうち長春・旅順間の鉄道(後の満鉄)これに付随する利権を割譲する。これら日本の既得権益保全のために軍隊を送り込んだのです。父は鞍山守備隊の一兵卒として主に満鉄と沿線の炭鉱警備に携わりました。そんな日々で見た一部をこんな風に書いています。
「奉天の露西亜人経営の城内行バスが運転手、助手共に露人でありながら自動車の前に日本の国旗を立てて正月の街を走っている。初めて、日本は小国でないことを知った。驚異と共に言い知れぬ誇りと嬉しさを覚えた。だが露人は今でこそ故郷を捨てているものの、露西亜は自分の国だ、そこには故郷もある、懐かしいという気持ちは充分持っているだろう、やむを得ざる国力の差異から日本の旗を立てる彼らに同情をおぼえる。この煙台炭鉱も同じ事であろう。露人が発見―これを守るため一個小隊の露軍が派遣され採炭を始めたのに、今では日本がこれを行い2千名からの支那人を使役し日夜採炭しつつある。この現状はまず日本に生まれたことを喜ぶ前に、最初これに手を付けた露西亜人の心情、または自分の手で自分の国を掘り、人に取られる支那人のことを思うと複雑な思いがする。これを守りこれを末長く・・・机上の外交や単に軍隊の力で確保してゆくことができるのであろうか―中略―ああ、正月の初めから大きなことばかり書いてしまった。寒いのが冬で、暑いのが夏で、高粱が芽を出せ春、実のなるは秋、この位のことしか知らないのだが、これでも大きな嘆きは一人前に言う」(1月4日記)
軍都広島での物語
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
1904年の日露戦争で負けたロシアはポーツマス条約によって日本に旅順、大連の租借を認め、東清鉄道南部線のうち長春・旅順間の鉄道(後の満鉄)これに付随する利権を割譲する。これら日本の既得権益保全のために軍隊を送り込んだのです。父は鞍山守備隊の一兵卒として主に満鉄と沿線の炭鉱警備に携わりました。そんな日々で見た一部をこんな風に書いています。
「奉天の露西亜人経営の城内行バスが運転手、助手共に露人でありながら自動車の前に日本の国旗を立てて正月の街を走っている。初めて、日本は小国でないことを知った。驚異と共に言い知れぬ誇りと嬉しさを覚えた。だが露人は今でこそ故郷を捨てているものの、露西亜は自分の国だ、そこには故郷もある、懐かしいという気持ちは充分持っているだろう、やむを得ざる国力の差異から日本の旗を立てる彼らに同情をおぼえる。この煙台炭鉱も同じ事であろう。露人が発見―これを守るため一個小隊の露軍が派遣され採炭を始めたのに、今では日本がこれを行い2千名からの支那人を使役し日夜採炭しつつある。この現状はまず日本に生まれたことを喜ぶ前に、最初これに手を付けた露西亜人の心情、または自分の手で自分の国を掘り、人に取られる支那人のことを思うと複雑な思いがする。これを守りこれを末長く・・・机上の外交や単に軍隊の力で確保してゆくことができるのであろうか―中略―ああ、正月の初めから大きなことばかり書いてしまった。寒いのが冬で、暑いのが夏で、高粱が芽を出せ春、実のなるは秋、この位のことしか知らないのだが、これでも大きな嘆きは一人前に言う」(1月4日記)
原爆詩集
峠三吉・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
その日はいつか
4
少女の思いのそのなかで
そのとき何がたしかめられよう
その懸命な頭の中で、どうして原子爆弾が計られよう
その手は未来にあこがれながら地に落ちた小鳥のように
手首をまげて地上にひろげられ
その膝は
こんなところにころがるのが、さも恥しいというように
きちんと合せてちぢめられ
おさげに編んだ髪だけが
アスファルトの上に乱れて、
少女の思いのそのなかで
そのとき何がたしかめられよう
その懸命な頭の中で、どうして原子爆弾が計られよう
その手は未来にあこがれながら地に落ちた小鳥のように
手首をまげて地上にひろげられ
その膝は
こんなところにころがるのが、さも恥しいというように
きちんと合せてちぢめられ
おさげに編んだ髪だけが
アスファルトの上に乱れて、
1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
満蒙開拓青少年義勇軍から731部隊へ
撤退時の死体処理は教育部全体で無我夢中でやった
大竹康二
731部隊・教育部
〈略歴〉
1926年生まれ
1940年3月 満蒙開拓青少年義勇軍入隊。同年7月“満洲国”北安省嫩江の訓練所入所。
43年8月開拓団入植
1945年5月 122師団(牡丹江)入隊
1945年6月 731部隊教育部に配属
1945年8月 帰国
■この証言は731研究会の学習会での発言(1994年4月)。95年5月の聞き取りをまとめたもの
解説―731部隊教育部
(越田稜)
教育部の“現役兵”の人数は、1941年の初入隊者300名から数えて合計約2000名だが、各支部及び他部隊への転属などもあって、45年8月の時点では、平房本部には600名の兵士がいた、41年から45年1月までの入隊者は日本国内からの徴集だが、45年5月の最後の入隊者(500名)は、いわゆる関東軍“根こそぎ動員”によって集められた者で、満蒙開拓青少年義勇軍をはじめとしてそのほとんどは“満州国”在住の青年たちであった。この最後の入隊者については、歩兵一期教育は1ヶ月半に短縮されて行われた。
●『論争731部隊』松村高夫編核時代49(1994)年4月発行
速記録(平成3年9月9日第11回口頭弁論)
被控訴(附帯控訴)代理人(鈴木)
第1部は森村さん自身が説明しているように、元隊員からの聞き取りであることははっきり断って、 第2部はアメリカのレポート、第3部が現地という風にはっきり断って区別しているんじゃないでしょうか。
違います。第1部では聞き取りがかなりの部分を占めておりますけれどもそれをつなげたものではないんです。もちろんハバロフスク公判記録の書類とか書類とか可能な限りの医学論文とか突き合わせて、そして書いたものが一部なんです。それはお読みになればすぐわかることです。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅳ 恒常化する毒ガス戦 1938 ~1941
3 新墻河(しんしようが)渡河作戦
毒ガスは使用されたか
南昌攻略後も、中国第9戦区軍は約50個師を擁して第11軍と対峙していた。 特に蒋介石直系軍約30余個師は無傷のまま粤漢(えっかん 広州―漢口)沿線地区にいた。1939年9月、第11軍は、この蒋介石直系軍を贛湘(かんしょう)北境地域で撃滅する目的で作戦を開始した。これを贛湘会戦という。その皮切りの新墻河渡河作戦も毒ガス戦となった。
海軍の相模海軍工廠跡(寒川)を訪ねて(2022年4月9日)日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!
略史昭和 5年 海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設昭和 8年 平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設昭和 9年 海軍技術研究所化学研究部として独立昭和12年 特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに昭和17年 相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる昭和20年 終戦、廃廠 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 ①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) ②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) ③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
大久野島の歴史
Ⅳ 日本軍の毒ガス戦
③日本軍の毒ガス使用の本格化
1938年7月、徐州会戦、晋南粛清戦日本軍は射撃してくる中国国民党軍に向かって、くしゃみ性ガス筒約7000本を並べて一斉に放射しました。放射してしばらくして、くしゃみ性ガスが国民党軍陣地に到達すると国民党軍による射撃が止まり国民党軍兵士は一斉に退却して行ったのです。日本軍にはほとんど死傷者が出ることなく敵を退却させることができ、くしゃみ性ガスの使用は予想以上の成果を上げました。この戦闘を通じて、毒ガス使用を躊躇していた参謀長や部隊長たちは毒ガスを使用すれば、味方の損傷も大幅に減らし、 短時間で中国軍を退却・敗走させることができることを学びました。その後は毒ガス使用反対の意見を持っていた将校たちもその効果を認め、毒ガスを使用するようなり、日本陸軍はくしゃみ性ガスを全面的に使用するようになります。
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
満蒙開拓青少年義勇軍から731部隊へ
撤退時の死体処理は教育部全体で無我夢中でやった
大竹康二
731部隊・教育部
〈略歴〉
1926年生まれ
1940年3月 満蒙開拓青少年義勇軍入隊。同年7月“満洲国”北安省嫩江の訓練所入所。
43年8月開拓団入植
1945年5月 122師団(牡丹江)入隊
1945年6月 731部隊教育部に配属
1945年8月 帰国
■この証言は731研究会の学習会での発言(1994年4月)。95年5月の聞き取りをまとめたもの
解説―731部隊教育部
(越田稜)
教育部の“現役兵”の人数は、1941年の初入隊者300名から数えて合計約2000名だが、各支部及び他部隊への転属などもあって、45年8月の時点では、平房本部には600名の兵士がいた、41年から45年1月までの入隊者は日本国内からの徴集だが、45年5月の最後の入隊者(500名)は、いわゆる関東軍“根こそぎ動員”によって集められた者で、満蒙開拓青少年義勇軍をはじめとしてそのほとんどは“満州国”在住の青年たちであった。この最後の入隊者については、歩兵一期教育は1ヶ月半に短縮されて行われた。
被控訴(附帯控訴)代理人(鈴木)
第1部は森村さん自身が説明しているように、元隊員からの聞き取りであることははっきり断って、 第2部はアメリカのレポート、第3部が現地という風にはっきり断って区別しているんじゃないでしょうか。
違います。第1部では聞き取りがかなりの部分を占めておりますけれどもそれをつなげたものではないんです。もちろんハバロフスク公判記録の書類とか書類とか可能な限りの医学論文とか突き合わせて、そして書いたものが一部なんです。それはお読みになればすぐわかることです。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅳ 恒常化する毒ガス戦 1938 ~1941
3 新墻河(しんしようが)渡河作戦
毒ガスは使用されたか
南昌攻略後も、中国第9戦区軍は約50個師を擁して第11軍と対峙していた。 特に蒋介石直系軍約30余個師は無傷のまま粤漢(えっかん 広州―漢口)沿線地区にいた。1939年9月、第11軍は、この蒋介石直系軍を贛湘(かんしょう)北境地域で撃滅する目的で作戦を開始した。これを贛湘会戦という。その皮切りの新墻河渡河作戦も毒ガス戦となった。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く - 未来に残す 戦争の記憶
中国と日本には、多くの被毒者(毒ガス被害者)がいる!!チチハル事件以後、一時金は出ているが、不十分である!!
山下基之弁護士の話
チチハル毒ガス被害は、日本政府が「旧日本軍の毒ガスである」と認めたことが、先行している二つの裁判と 違うところです。しかし政府は、被害を補償するのではなく、「遺棄化学兵器処理事業に係る費用」として三億円を支出したに過ぎません。中国政府は約八割 を、直接、被害者に配分しましたが、一時金では不十分です。事故時の入院費用だけで受領金の三分の一近くかかってしまった人もいる。将来の入院費を心配し て、重篤な症状を抱えたままの人も多い。 被害者の全面的な健康調査を実施しなければ、全容は明らかになりません。医療保障とあわせ生活保障が必要です。外務省を窓口に継続的な協議をしていくと同時に、世論にも訴えていきたい。
認定NPO法人化学兵器被害者支援:日中未来平和基金
●『三光』 中国帰還者連絡会編日本鬼子(リーベンクイズ)核時代39年(1984年)5月初版発行
強制労働
殺人長屋に押し込めて酷使
大西馨(おおにしかおる)
大尉
〈略歴〉
本籍 愛媛県
学歴 高等小学校卒業
出身階級 貧農
所属部隊名 第42野戦道路隊
年齢 47歳
このようにして、60余人の捕虜を栄養失調と皮膚病で廃人同様にした。街にはちゃんとした陸軍病院があったが、私は1人として入院させなかった、浜野衛生兵に荒っぽい傷の手当てをさせた。週1回来診する井本軍医は、捕虜が着物を脱ぐのにふうふう言いながら、やっと青白い骨に皮をかぶせたような肌を出したのを、「ウム、よし」と肩の上を手で押さえてみたきりで、聴診器は一度も使わなかった。≪なんだ、馬鹿にしやがる≫と口の中で言いながら、患者は痛そうにしてやっと服を着るのであった。
●日米安保条約・自衛隊を問う!!自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
核時代39年(1984年)5月初版発行
強制労働
殺人長屋に押し込めて酷使
大西馨(おおにしかおる)
大尉
〈略歴〉
本籍 愛媛県
学歴 高等小学校卒業
出身階級 貧農
所属部隊名 第42野戦道路隊
年齢 47歳
このようにして、60余人の捕虜を栄養失調と皮膚病で廃人同様にした。街にはちゃんとした陸軍病院があったが、私は1人として入院させなかった、浜野衛生兵に荒っぽい傷の手当てをさせた。週1回来診する井本軍医は、捕虜が着物を脱ぐのにふうふう言いながら、やっと青白い骨に皮をかぶせたような肌を出したのを、「ウム、よし」と肩の上を手で押さえてみたきりで、聴診器は一度も使わなかった。≪なんだ、馬鹿にしやがる≫と口の中で言いながら、患者は痛そうにしてやっと服を着るのであった。
3 日米の対処方針
(2)日本の直接防衛作戦
ロ 日本防衛出動準備について
日本側・・・可能な限り迅速に推進するが、重要軍事資材は米側の支援に期待するものが多く、これを胸算しても概成に至るまで2~3ヶ月を要する旨説明した。
米国側・・・日本の説明に対して米側もこれを了承した。重要軍事物資の援助については可能な限り迅速な援助を約するとともに、日本独自の防衛努力についても強く要望があった。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
3,自衛隊における人体実験の疑念
自衛隊の赤痢菌検査の疑惑
ところが、第1回目の赤痢菌検索によって、2名の保菌者を検出している。その状況を「研究成績」の観察所見で「薬剤服用前に総員の検便を行ない、1416名中2名の赤痢保菌者を発見して隔離し、(4)に述べる通り治療した。薬剤服用1か月及び2か月を経て総員の検便を行なったところ、真正剤服用者群及びプラセボ服用群の双方において、全て陰性であったので、両服用者群の効果比較はできないことになった」と書いている。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●宮川正
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞 ※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第2部 仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
第5章 新しい皇室、新しい国家主義
Ⅱ
大正天皇の死によって休会となっていた第52帝国議会は、1927年1月18日に再開された。昭和天皇とその側近はさっそく政局に関与する機をうかがい、政界に彼の存在を印象づけようとした。
まず1月19日、国の第4の祝日を設ける法案が貴族院に提出されたが、これは宮中からではなく、貴族院自身の発案のかたちをとっていた。しかしその2日前、内大臣秘書官長の河井が公爵近衛を訪れ、議会の両院が明治天皇の聖徳を記念する祝日の制定を考慮していると示唆した。その後、議会は11月3日を「明治節」とする法案を可決し、3月3日、その旨勅令で公布された
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
3,自衛隊における人体実験の疑念
自衛隊の赤痢菌検査の疑惑
ところが、第1回目の赤痢菌検索によって、2名の保菌者を検出している。その状況を「研究成績」の観察所見で「薬剤服用前に総員の検便を行ない、1416名中2名の赤痢保菌者を発見して隔離し、(4)に述べる通り治療した。薬剤服用1か月及び2か月を経て総員の検便を行なったところ、真正剤服用者群及びプラセボ服用群の双方において、全て陰性であったので、両服用者群の効果比較はできないことになった」と書いている。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第2部 仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
第5章 新しい皇室、新しい国家主義
Ⅱ
大正天皇の死によって休会となっていた第52帝国議会は、1927年1月18日に再開された。昭和天皇とその側近はさっそく政局に関与する機をうかがい、政界に彼の存在を印象づけようとした。
まず1月19日、国の第4の祝日を設ける法案が貴族院に提出されたが、これは宮中からではなく、貴族院自身の発案のかたちをとっていた。しかしその2日前、内大臣秘書官長の河井が公爵近衛を訪れ、議会の両院が明治天皇の聖徳を記念する祝日の制定を考慮していると示唆した。その後、議会は11月3日を「明治節」とする法案を可決し、3月3日、その旨勅令で公布された
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
IMAGINE9
解説
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
世界は、9条をえらび始めた。
私の地域では、絶え間ない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。
―レバノン、20代・女性
武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。私の国、コスタリカは武器を持たない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常にすばらしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
―コスタリカ、60代・男性
「グローバル9条キャンペーンに寄せられた世界からの声」
『鹿屋(かのや)航空基地 史料館』(鹿児島県鹿屋市)について
~ご理解していただきたいことを文章にしました~
2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)
鹿屋海上自衛隊内にある「鹿屋航空基地史料館」は、自衛隊とは全く別の、戦争のコマとされて亡くなった(命令によって特攻に行かされ、現場から上層部に無謀な作戦であると意見しても、全く無視された中で、更に多くの若き兵士たちが犠牲者となった)戦没者たちの史料館なので、別の場所に移動し、公的機関管理の『平和祈念資料館』(もしくは「平和祈念会館」~鎮魂と平和=憲法九条を明確にして平和を発信する「庶民のための」資料館)にすればいいとの考えに、ようやく、数十年かけて、たどり着き、まとまってきました。場所は、どこでもいいでしょうが、例えば、(平成の大合併で鹿屋市に吸収された)串良町平和公園内(海軍串良航空基地跡~特攻で363名戦死)でもいいでしょうし、その場合、既に鹿屋市内にて活動している「平和ガイド」の方々も力を合わせていけるのではないでしょうか。
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
内容
・あらゆる核兵器の使用から生ずる壊滅的で非人道的な結末を深く憂慮
・いかなる場合にも核兵器が再び使用されないことを保証する唯一の方法として,核兵器を完全に廃絶することが必要
・核軍備の縮小が倫理上必要不可欠であること並びに国家安全保障上及び集団安全保障上の利益の双方に資する
・最上位の国際的な公益である核兵器のない世界を達成し及び維持
・あらゆる核兵器の使用は,武力紛争の際に適用される国際法の諸規則,特に国際人道法の諸原則及び諸規則に反する
・1946年1月24日に採択された国際連合総会の最初の決議及び核兵器の廃絶を要請するその後の決議を想起
・核兵器を法的拘束力で禁止
・この条約のいかなる規定も,無差別に平和的目的のための原子力の研究,生産及び利用を発展させることについての締約国の奪い得ない権利に影響を及ぼすものと解してはならない
・全ての側面における平和及び軍備の縮小に関する教育並びに現在及び将来の世代に対する核兵器の危険及び結末についての意識を高めることの重要性
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核融合もすべきではない!!
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