講演資料12
反核や平和への訴えも…ノーベル賞作家・大江健三郎氏が死去
旧陸軍の特殊部隊「731部隊」の一部展示を見送る…市教委「事実関係確認されず」検討委員会の初会合 長野・飯田市 _ SBC NEWS _ 長野のニュース _ SBC信越放送 (1ページ) 2023-02-24
情報開示請求をしたら、提出された6861ページのほとんどが黒塗りだった。
化学兵器禁止条約に照らして旧日本軍が中国各地に遺棄した毒ガス弾の処理はどうなっているのか。情報のほとんどを私たちは知ることができない。そして無毒化されることのない砒素を含んだ毒ガス弾の行方は闇に葬られようとしている。
新型コロナも鳥インフルも生物兵器か??世界のBSL4施設は何を研究しているのか??
鳥インフルでの殺処分は適切なのだろうか??
鳥インフルの処分数 全国で1000万羽超える 過去最多
なぜ、いま?リスクは
トルコ地震被害13兆円超か UNDP推計、支援求める
国連改革!!拒否権廃止を!!
あの日本の侵略戦争を反省し作られた憲法9条を、順守すれば、軍事費ゼロ!!戦争をしないように全力で取り組む姿勢を全世界に示す!!【天皇制再考、軍人恩給廃止、戦争被害者(外国も含む)への補償、外交力強化!!】
憲法9条
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
軍事費削減!!憲法9条を尊重しろ!!被ばくの問題は重大だ!!
ドイツの大学キャンパスから少女像撤去される 学生会が昨夏設置
ICC、プーチン氏に逮捕状 ウクライナでの戦争犯罪で
【詳細】ロシア ウクライナに軍事侵攻(24日の動き)
「細菌兵器製造の731部隊―731部隊軍医秦正氏の証言」
だから、本書は、731部隊全般について取り上げ3千人以上ものマルタと呼ばれ残酷な人体実験の犠牲者の非業の死という側面を情緒的に描いているわけではない。川村さんは一市民として陸軍軍医学校と「731部隊」に関心があり、知りたいと思ったことを調査し、まとめたのがこの論考であると述べているが、ドイツ留学中の石井四郎と宮本百合子の接点から石井の欧州での動向や石井部隊の初期の研究施設の調査など、一市民ではなしえない研究ではある。この綿密な解析と解明には「人骨の会」のメンバーとしても脱帽ものである
川村さんはまた「731部隊」の実態を検証して思ったことは、「731部隊」というのは細菌戦という特別な目的を持った特殊な部隊で、陸軍軍医学校から派生した「細菌戦部隊」であった。その本質は「軍陣衛生学」にあると述べている。私たちは今また戦争になった時、医学者に限らずそれぞれのスペシャリストが暴走するのをどうやって止めることができるのだろう。
1989年に発見された人骨は発見されたときは「人骨」だったが、廃棄されたときは皮膚や目や脳がある肉眼標本だった。その前は生きていた人間であった。川村さんは本書のあとがきで「私たち人骨の会はこの人骨を『遺骨』として扱い、できうる限り真相を調査解明し、身元確認を行なうことで不本意な思いで標本とされた人々を遺族の許へお返ししたいと考えている」と書いている。事実の検証から見えてくるのはその残酷性である。
放射能の影響を考えよう!!
パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」展
731・原爆・ビキニ
なぜ、こんな危険な原発を、全国にたくさん作ってしまったのか??それも運転期間延長で60年超も??自然環境にやさしいエネルギーの活用ができないものか!!
12月25日(日)
20、所用によりご挨拶のみとなり誠に恐縮な次第です。見たこともない資料も多く、時間の都合とは言え、残念でした。来年こそじっくりと拝見させて頂きます。又何かしらお手伝いできることがありましたら、ご連絡ください。よろしくお願い申し上げます。(21~50歳、市内、友人)
★新宿戸山の陸軍軍医学校跡地から見つかった人骨についての番組を見たい方は
下記のギガファイル便をダウンロードしてください(4月26日までダウンロード可能です)。
桜の下に眠り続ける死者たち
https://81.gigafile.nu/0426-f28efe24152e71e1bbe5a9daa5171a2b4
劇映画「伊藤千代子の生涯」
「731部隊」展示再検討 委員会の設置方針了承 飯田市教委
2022/10/22 清水さん宅
731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」
731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村
731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。
「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。
清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・
久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
飯田市平和祈念資料室
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
原爆初動調査ー隠された真実3
Нет войне!!Стоп Война!!
新聞記事からの報告(ビキニ水爆実験)
忘れられたビキニ被災者たち 裁判の報告
2022 5 7 世界の核被害問題と解決の取り組み
2022 5 7パネルディスカッションのまとめ
中満泉ビデオメッセージ
2022 5 8高橋博子講演
閉会の挨拶
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
イタイイタイ病の原因は鉱毒と訴え続けた医師。「血液の最後の一滴を燃え尽くしてでも」。語り続けた真実。
第7回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品
富山テレビ
地域
2021年12月29日 水曜 午前11:40
救いを求め日本の学者が世界へ訴える
1993(平成5)年5月、世界の中で孤立する日本の中で、「科学の真実を伝えたい」と、猿実験のチーフ・木村正己理学博士(慶応大学医学部分子生物学)が行動を起こした。
木村博士は猿の実験によるデータを示し、「カドミウムの影響を考えざるを得ない」と断言。アメリカ・ワシントンへも赴いた木村博士は、WHOカドミ安全基準グループ座長であるR・Aゴイヤー教授やWHO委員のM・Gチヤリアン教授と対面。
2人の教授にも実験データを見せ、イタイイタイ病とカドミウムに因果関係があること、骨粗しょう症などの症状が現れることなどを伝えた。加えて、「日本の政府は実験を優先的に実行させてくれます。しかし、現場の学者はデータや意見を公表できないのです」と訴えた。
富山県の萩野医師の病院では環境庁(現・環境省)のイタイイタイ病研究班による視察が行われ、イタイイタイ病研究班総括委員会の重松逸造会長も同席していた。
視察を終えた重松会長は、因果関係について「いろんな意味でこれも世界的な問題ですから、日本としては明確な答えをなんとか出す必要がありますので、そのために確認するための研究は今でも続行している」と話した。
記者が「(因果関係は)今はグレーなのか?」と問うと、「関係のあることははっきりしてるのでどんな関係の仕方をしているのか世界的に問題点が残されている。とっくに出ていると言えば出てるし、まだまだ残されている部分があるといえばある。私どもの研究班としてはここ1、2年で最終的な締めくくりをするつもり」とはぐらかしながら、実験に終わりが見えているとした。
太平洋核被災支援センター
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!
社会が許さない 釈放後も「地獄」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑報21巻 第8号(1937年)
人事異動報告(昭和12.8.2)
発令月日 辞令 官職 氏名
6.30 依願免本官 技手 山田秀一
7.10 神奈川県下へ出張を命ず(横浜市へ) 教授 田宮猛雄
7.12 研究生入学許可(第2研究部) 新井三九雄
7.14 同(第4研究部) 濱野基斎
〃 神奈川県下へ出張を命ず(横浜市へ〕 教授 田宮猛雄
〃 同 技手 安藤啓三郎
7.16 依願解嘱 嘱託 手塚悦郎
〃 広島県下へ出張を命ず(広島市へ) 技師 遠山祐三
〃 同 嘱託 安川隆
〃 同 〃 鐡本総吾
7.21 朝鮮へ出張を命ず(仁川出張所) 技手 佐藤久蔵
7.23 佐賀県下へ出張を命ず 技師 城井尚義
〃 同 技手 大久保薫
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
(資料)
朝日新聞
軍医学校報告書
細菌兵器の機密43年経て見えた
伏字の報告文
第99号の報告で石井元中将は「昭和8年以来、特殊研究に従事致しまして」としている。昭和8年は、軍医学校の隣に防疫研究室が新築され、「石井機関」が正式に発足した年と言える。また報告には「基礎的の諸実験は何れも満州で行ないましたので、ここに公表の自由を持たないのは全く遺憾であります」「満州某地に於て行ないました特殊の実験の結果はここに申し上げる訳にはなりません」などという表現も見える。
731部隊を追いかけ、『悪魔の飽食』を書いた森村誠一さん(35)は、第130号「ペスト菌発育促進物質の研究第2編 大量生産の研究」に注目する。「ペストこそ731部隊の研究の本命。ソ連の南下に対する抑止力にしようとしていた。関係者の証言ではわかっていたが、裏付ける研究報告が見つかったのは初めてでしょう」と言うのだ。
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判第1審判決全文
被告の主張 (別紙4)
第3 法令11条により準拠法となる中国民法に基づく請求について
1 本件における法令11条の適用可能性について
被告の主張 (別紙4)
(2)原告の主張に対する反論
イ このような国家賠償法の公法的側面は、国、公共団体の公権力行使の関係は私法的法律関係ではないから、規定を民法の挿入するところは不適当とされて、国家賠償法という独自の法律が制定されたという立法経過にも表れている。
また、本件のような法律関係について法例11条の適用を認めると、不法行為地である当該外国の民法が適用されることになり、我が国を単なる1私人として他国の私法で裁くことになる。しかし、このような結論は、公権力の行使に伴う加害行為に関する我が国の法体系や比較法的視点に照らし、到底考えられないことである。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
五月十七日
晴 風なし 分遣下番 第一六列車 日曜日 四週目の鞍山 姿が変る。
午前七時起床す。第十六列車にて下番 今日は日曜の事とてピクニックらしい人出だ。
大分日本人が多い。野辺の花取りか温泉に行くんだろうよ。下番者は二人なり萩野と僕だ。鞍山の駅からあの広場並木通小学校のポプラ営内の木々 皆姿をかえていた非常にと言ふてもよい位変っていた
中隊を出た時には少しも葉のなかった木々が 今は枝さえ見えない位に青々としている。
原爆詩集
君たちよ出てこないか
やわらかい腕を交み
起き上ってこないか
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
731部隊破壊と証拠隠滅作業
ロ号棟に書かれた血文字が一生忘れられない
篠原鶴男(しのはらつるお)
731部隊・教育部
〈略歴〉
1926年生まれ
1945年5月 731部隊入隊(教育部に所属)第8分隊
1945年8月 帰国
■この証言は鹿児島731部隊展(1994年1月)の『報告集』をもとに本人がまとめたもの
部隊での生活
私達は早速、731部隊員としての教育を受けることになりました。はじめのうちは何が何だかわからないままおりましたが、日が過ぎるにしたがって部隊の様子が段々はっきりしてきたのです。当時日本の医学界ではトップクラスの医学者が部隊に入れ替わり立ち替わり出入りしていて、ロ号棟の解剖室では毎日のように生体実験が繰り返されていると聞いておりました。部隊本部2階の陳列室には1000種類もの、人体の各臓器がホルマリン漬けの標本になってガラスの容器に入っていました。またこの731部隊では細菌戦に備えて、日本の法定伝染病をはじめ、20数種類の菌を培養生産していたのです。私達はまず1番先に消毒学の教育を受けましたが、今考えてみると、細菌を使用しての攻撃的な行動隊員となるためにそれが必要だったからだと思います。
第4 むすび
以上、筆者は、731部隊についての家永の原稿程度の命題が、本件検定の行われた1983(昭和58)年当時、学界で既に確立した認識であったこと、これに対する検定意見やそれを指示する見解が明らかに事実の基礎を欠き、または歴史学の方法に関する常識に照らして、根本的な誤りを含んだものであることを明らかにした。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅲ 日中戦争の全面化と本格的使用の開始 1937―1938
1 日中戦争の全面化と毒ガス戦
晋南粛清戦(山西省南部の戦闘)での使用
核時代39年(1984年)5月初版発行
汚された泉
井戸へ放り込み惨殺
杉本千代吉(すぎもとちよきち)
大尉
〈略歴〉
学歴 中学高卒業
旧部隊名 第59師団第54旅団第45大隊
出身県 静岡県
年齢 38歳(1919年生まれ)
頭大の石は1,2回側壁に当たり、跳ねながら落ちていく。おお命中だ・・・思わず私は手を打った。だが黒影はさっと石を避けていた。「ドブン」大きな水の音、しぶきが側壁と農民の体をバサアと洗った。
「畜生!おい、何をぐずぐずしているんだ。早く石を持ってこい」カッとなった私はうっぷんを部下にぶっつけた。軍靴がガサガサ辺りを乱れ動いた。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
研究―四
三矢研究事前研究項目(対米関係事項)
第4 朝鮮戦線と日本防衛作戦との関係
1 日本に対する波及の様相と段階についての考え方
(1)波及を誘引する要因
共産側が何等かの戦略目的を持って朝鮮に兵力を行使する場合、日本地域が共産側に対して起こす反作用もしくは、日本地域の去就、情勢等に対する共産側の願望は、必然的に共産側の対日本地域行動を誘起し、その結果ここに現実の波及が生起する。
しかして、前者は直接的波及の誘因であり、後者は間接的波及の誘因と見ることができる。
第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
「化学学校記事」
『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
1、自衛隊の装備・訓練を探る
機動隊の催涙ガス作戦
1968年1月のいわゆる佐世保事件で、警察機動隊が使った「催涙ガス」(CN)が大きな社会問題になった。それが69年1月の東大本郷安田講堂事件では、催涙弾の直撃を受けて負傷者428人、失明1人、重傷者76人を出すというこれまでにない残虐行為が行われ、「化学兵器」のもつ非人道性が大きく非難されるところとなったのである。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第2部 仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
Ⅳ
摂政時代の裕仁と側近たちは、軍部がほかの国家機関に対して特権を保持する政治体制の連合政権的性格を無条件に容認していた。この体制のもとでは、陸海軍大臣は現役の将官のなかから選任されるため、どの内閣も必然的に武官と文官が連合した「文武連合・混成」内閣になる。
1888年から1945年まで日本を統治した42の混成内閣では、「軍部は、軍人閣僚をとおすか、天皇を経由する以外に道がなかった。摂政が若くて経験に乏しい間、軍人閣僚や統帥部の長は、病気で能力を欠く天皇にも、未経験の摂政にも、決定以前の政策論議を伝えないようにしていた。しかし、摂政に対するこの配慮にもいくつか重要な例外があった。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
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解説
02
武器をつくったり売ったりしない世界
世界ではいま、 武器貿易を取り締まるための「武器貿易条約(ATT)」をつくることが提案されています。世界的な市民運動の結果、このような条約をつくろうということが2006年に国連総会で決議され、そのための準備が始まっています。
しかし、世界的には武器をつくること自体、また、武器を売ること自体が禁止されているわけではありません。提案されている条約も、武器貿易を登録制にしようというものであり、武器貿易の全面禁止にはほど遠い内容です。
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地球を破壊する核爆発・核実験
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核融合もすべきではない!!