2023年2月15日水曜日

細菌戦の系譜!!















731部隊論文 「検証を求める会」設立 京大の責任を問う
京大「人体実験とする根拠なし」 731部隊論文 本調査はしない方針

学者・研究者の歴史認識・軍事研究を問う!!





731部隊展





日本の機密文書管理はきちんと行われてりるのだろうか?隠蔽されている??機密文書も時間が経過したら、きちんと公開すべきだ!!日本にも積極的な情報開示を求めます!!
【バイデン大統領】自宅から別の機密文書見つかる


 







6861ページのほとんどが黒塗り!〜遺棄化学兵器処理事業情報公開請求訴訟第1回公判
                              根岸恵子

情報開示請求をしたら、提出された6861ページのほとんどが黒塗りだった。
化学兵器禁止条約に照らして旧日本軍が中国各地に遺棄した毒ガス弾の処理はどうなっているのか。情報のほとんどを私たちは知ることができない。そして無毒化されることのない砒素を含んだ毒ガス弾の行方は闇に葬られようとしている。
 ジャーナリストで映像作家の稲垣美穂子さんは、中国に遺棄された化学兵器によって理不尽にも被害に遭った人々に思いを寄せ、日本政府の対応や処分事業などを取材してきた。そして最終処分場として有害物質を含んだ残存物がドイツに運ばれることを知り、情報公開を請求したが、黒塗りの書類では何もわからないと裁判に訴えることにした。
 その第1回の公判が1月24日、東京地裁で開かれた。稲垣さんは「多額の税金を投じた国家事業であるにもかかわらず、その内容を明らかにしようとしないことは、許されることではありません」と訴えた。

*裁判後に会見する弁護団

 毒ガス兵器は安価な大量殺戮兵器として国際条約では禁止されてきた歴史は古い。1907年のハーグ陸戦条約では投射物としての使用禁止、19年のヴェルサイユ議定書では製造・販売・輸出を禁止、25年のジュネーブ議定書では戦争中に窒息性、毒性、その他の毒ガス装置を禁止した。1993年の化学兵器禁止条約では、より包括的な化学兵器の禁止、生産施設の廃棄、遺棄した化学兵器の廃棄を義務付けた。
 しかし、日本は日中戦争において毒ガス弾を使用し、1938年の武漢作戦以降本格的に使い始めることになった、その回数は2091回、死傷者は8万人以上に上るといわれている。敗戦後、日本軍は毒ガス弾を隠蔽するため現地に埋設、川などに投棄した。しかし、戦後になってもそれら遺棄毒ガス弾により多大な被害を中国に与え続けている。
 中でも「きい弾」と呼ばれるイペリットないしルイサイトのマスタード弾の被害は「不治の病」といわれるほど身体、精神を侵し、被害者の一生を奪ってしまう。例を挙げれば、2003年に旧日本軍516部隊跡地の開発事業でイペリットの入ったドラム缶5個が掘り出された。汚染された土砂は中学校の校庭や民家に運ばれ、作業者や一般市民、児童たちが被害にあった。皮膚の水疱、黒色化、だるさ、発汗、頭痛、胸部圧迫など症状は多岐にわたり、一生において重篤な影響を与える。このような被害は中国各地で起こり、それは国家賠償裁判で争われることになったが、十分な保障がないまま今に至っている。
 日本は1995年に化学兵器禁止条約に批准し97年に発効、規定に基づき、中国国内に遺棄した毒ガス弾を処理している。「早期に廃棄を完了すること」を最善の努力目標にすることは日中両国の共通認識となっている。これまで総額3847億円が投じられ、2027年予定の廃棄完了までにはさらなる膨大な予算が必要になる。
 しかし、砒素を含む化学物質を含有する毒ガス弾は爆破焼却しても、完全には無毒化できず、有機砒素化合物を含む有害廃棄物が残存する。2018年の「内閣府遺棄化学兵器処理事業に関する有識者会議」では、突如この有害物質を含む廃棄物の最終処分場としてドイツK+S社が保有する岩盤坑に埋設処分することが検討され、ドイツへのパイロット輸送が検討されていることが明らかとなった。
 原告の稲垣さんはそれを知り、2019年9月20日付でドイツへの最終処分に関する書類の情報開示請求を行った。本来、「行政機関情報公開法」は「国民に説明をする責任を全うされるようにする」「公正な民主的な行政の推進に資する」ことを目的とし行政文書の開示請求権を認めた法律。これは国民主権に基づく権利であり、政府・行政の公開性と説明義務を謳ったものではないのか。しかし、稲垣さんが請求したドイツの岩盤坑跡地に廃棄物を埋設処分するということが決定された経緯については全く明らかになっていない。
 日本は国際法で禁止された毒ガス兵器で戦中戦後も中国に多大な被害を出しておきながら、その化学兵器の最終処分をまた外国に押し付けようとしている。情報は隠され、証拠は隠蔽され、外国でまた被害を出すのだろうか。


“捨てられる裁判記録”は誰のものか


新型コロナも鳥インフルも生物兵器か??世界のBSL4施設は何を研究しているのか??

 

鳥インフルでの殺処分は適切なのだろうか??

鳥インフルの処分数 全国で1000万羽超える 過去最多


あの日本の侵略戦争を反省し作られた憲法9条を、順守すれば、軍事費ゼロ!!戦争をしないように全力で取り組む姿勢を全世界に示す!!【天皇制再考、軍人恩給廃止、戦争被害者(外国も含む)への補償、外交力強化!!】

憲法9条

第二章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

与那国ミサイル配備に反発 玉城知事「唐突な予算計上」

玉城デニー知事「敵基地攻撃能力、保有できない」沖縄への自衛隊配備増強巡り見解


防衛増税も迷走「岸田政権」に今、決定的に足りないこと



ミサイルが飛んできても「反撃しない」ことこそが日本の抑止力だ

“弾薬だけ”で8200億円 来年度当初予算案、防衛費が25%増の過去最大 総額114兆円程度で最終調整

【詳細】ロシア ウクライナに軍事侵攻(15日の動き)






ブックレット 500円
NPO中帰連平和記念館内
「供述書を読む会」
Tel・Fax 049-236-4711
Email:npo-kinenkan@nifty.com



価格 ¥3,960

放射能の影響を考えよう!!
パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」展


731・原爆・ビキニ


なぜ、こんな危険な原発を、全国にたくさん作ってしまったのか??それも運転期間延長で60年超も??自然環境にやさしいエネルギーの活用ができないものか!!




2022年 パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」アンケート

12月23日(金)

17、大量の資料で驚きました。大事な資料ですね。(51歳以上、市内、図書館入口)



新宿戸山の陸軍軍医学校跡地から見つかった人骨についての番組を見たい方は

下記のギガファイル便をダウンロードしてください(4月26日までダウンロード可能です)。

桜の下に眠り続ける死者たち
https://81.gigafile.nu/0426-f28efe24152e71e1bbe5a9daa5171a2b4









「731部隊」展示再検討 委員会の設置方針了承 飯田市教委







飯田市平和祈念資料館の展示の見直しを!!


















2022/10/22 清水さん宅

731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」

731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村

 

731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。

 「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。

 清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・































久保田昇さんが熱く語る731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
飯田市平和祈念資料室




大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??

戦犯たちの告白



「731部隊員だった池田苗夫元軍医の戦後の軌跡」




今年(2022年)4月2日に開かれた日本医学会記念事業では、「過去の過ちに学ぶ」で、731部隊のことが取り上げられた



731部隊で非人道的な人体実験があったことを述べている!!
(以下の動画、5分20秒過ぎ)

医療倫理・研究倫理の深化




放射能はこわい!!
福島県漁連、森林組合連合会は、放出に反対を表明
その中で、福島県漁業協同組合連合会は、去年は震災前漁獲量の約14%にとどまったが、今年の2月には出荷制限が解除され、これから増産に向けて舵を切ろうとしているところであり、海洋放出に反対だと訴え、福島県森林組合連合会は原木椎茸生産に不可欠な、しいたけ原木の生産が困難な状況が続いており、販売が皆無であること、野生きのこ・山菜等の出荷制限も多くの市町村で継続されている窮状を訴え、大気放出に反対を表明しました。

1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。
原爆初動調査ー隠された真実2
原爆初動調査ー隠された真実3







世界には、核実験、原爆、原発労働者、ウラン鉱山の採掘者等で被ばくした人はたくさんいる!!
それが、次世代・次々世代に影響するとなると大変な数になる!!反原発!!

被爆二世健診…43年目の真実~データが語る遺伝的影響と「ほしょう」を考える



戦争では、何も解決しない!!即時停戦を!!
На войне ничего не решить! !! Немедленное прекращение огня! !!
Мировой продовольственный кризис! !! , Всемирное разрушение окружающей среды! !! Кардинальные изменения в экосистеме! !! Нищета, резня, насилие, человеконенавистничество! !!

У війні нічого не вирішиться! !! Негайне припинення вогню! !!
Світова продовольча криза! !! , Знищення навколишнього середовища світу! !! Різкі зміни в екосистемі! !! Бідність, бійня, зґвалтування, мізантропія! !!

Nothing will be solved in the war! !! Immediate ceasefire! !!
World food crisis! !! , World environmental destruction! !! A drastic change in the ecosystem! !! Poverty, slaughter, rape, misanthropy! !!




ウクライナに平和を!!


戦争を停止する道を探れないのか??


No War!!Stop War!!
Нет войне!!Стоп Война!!



憲法9条を持つ日本はもっと停戦に向けて前向きに動いてほしい!!

War in the 21st century? ?? In the 21st century, a world without war!!

Война в 21 веке? ?? В 21 веке мир без войн!!

21世紀に戦争??21世紀こそ、戦争のない世界に!!








京都大学出版会(2022年4月10日発行)

もしかすると中国人の人骨も京都大学にはあるのでは??
丹羽雅雄弁護士の話:遺骨という問題は非常に大きな問題なんですよ。死者の尊厳ですからね。死者の尊厳ということは、生きている人の尊厳につながっているんですよね。当時の帝国大学は色々な人骨研究をやっていますからね。そうすると恐らく朝鮮半島の御遺骨の問題も当然あるはずです。リストにありますからね。
それから、台湾もあるだろうし、東南アジアもあるだろうし、そういう風に広がっていく可能性があるんですね。遺骨の問題は先住民の大きな長い歴史の中で国際的にも重要な問題になっていると・・・



遺骨収集には、清野謙次の影響が強くあった。清野は731部隊長石井四郎の強力な支援者だった。(病理解剖の最高顧問)

原告たちのあまりに理不尽な被害

JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子


                





自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。


『日本医学百年史』195711の731部隊の記述


日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」



第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった








パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
 医学と人権を考える

1954ビキニ 被ばく漁船員の人生 岡村啓佐さんが写真集 過ち、繰り返させない





小津安二郎も毒ガス部隊だった


森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!     

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!


     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が 開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置



(『日中友好新聞』2022年2月15日号より)
帝銀事件というのは1948(昭和23)年1月26日に起こった銀行強盗殺人事件である。12人が毒殺されるという日本犯罪史上でも特異な事件だ。この事件は、同年8月に容疑者として画家・平沢貞通が逮捕され、裁判の結果、1955年に最高裁で死刑が確定した。
 しかし、平沢犯行説には多くの疑問があったため死刑は執行されず、さりとて釈放もされず、平沢は再審請求をしながら1987年に95歳で獄死した。

 

冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!

社会が許さない 釈放後も「地獄」

 

 



1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。



 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

             伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 


●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。


実験医学雑報20巻 第7号(1936年)

本所職制改正

この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。

特別研究室とは何だ??


実験医学雑報21巻 第6号(1937年)


弔辞
 君任に在ること20有余年正確寸毫も苟もせす孜々として倦まざる研究態度を以て幾多の優秀なる業績を完成し新知見を提供す その学界に寄与せる功績洵に大なりと云ふべし
 君資生善良堅実謙譲にして信義に敦く深く門弟を愛し篤く同僚の信頼を受く君はまた広き常識を有し忠君愛国の念に深し 先般カラアザール研究班の組織せらるるや君はその有力なる一員として万難を排し身を挺して決然これに参加せられたり 余は従来の成績に徴して君が必ずや見るべき大なる成果をもたらすべしと信じて疑わざりき 而して 今や職に殉じ 幽明境を異にし 痛嘆極まり莫し 然れども研究を生命としこれに斃れるるは君が平素より本懐とせし所たるべく同僚後進亦能く君が志を汲み遺業の大成を期すべし
 在天の英霊尚くは餐けよ



昭和12年6月15日   
東京帝国大学総長  長與又郎
 







      

 


1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??

浜一中大福餅事件

               
浜松一中の慰霊碑


大牟田の慰霊碑(裏)


(碑文)

「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」


<三池の冬1997 その2>より

わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)

この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。



日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業

                    北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)

はじめに


1915(大正14)年4月22日、ドイツ軍がイープルに於て毒ガス(塩素ガス)を放射、史上初めて戦場での毒ガス戦となりました。

最初は塩素ガス、後に連合軍もドイツ軍もイペリット(マスタードガス)をも使用する事態になりました。毒ガスのむごさは世界が知ることとなり、毒ガス兵器禁止の機運は高まりました。(ハーグ陸戦協定・ベルサイユ条約・ジュネーブ条約)

日本が毒ガス戦の為、研究・開発を始めたのがこの時代からです。極秘に陸・海軍は計画を進めました。




科研を視察する昭和天皇(中央)。久村所長が先導している(元科研職員の小野田悦郎さん提供)


   







この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
 定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
 日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
 この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
 今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
 はないのか?


 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。


第6部

資料・731部隊細菌戦裁判第1審判決全文

被告の主張  (別紙4)

第1 国際法に基づく請求について

2、ヘーグ陸戦条約第3条について

 以下では念のため、原告らの挙げるヘーグ陸戦条約3条について検討する。

(4)起草過程からの解釈について

条約文の審議経過や提案者の意図などは、条約文が曖昧または不明確等である場合に、不足的な解釈手段として例外的に利用されるにすぎず、ヘーグ不戦条約3条のように、条約の文理解釈において国家間の権利義務を定めていることが明らかである場合には、そのような事情を考慮する必要はない。しかし念のため、以下に審議経過に関して反論を述べる。


 


731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?



●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??

 

           
2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           


731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)

 

 

 

 

日本の中国東北侵略から91年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 



 


五月五日


午前六時半起床す 衛生勤務 雨 風あり 花一朝にて消ゆ 人生の命又はかなし 都落ちの悲しさを見る。涙を以っ心からご同情する 兄弟よ小供よ 御丈夫でね。

雨だ 五月雨ではないが内地式に何となくぴったり来ない 何分冷えるからやりきれない。八度と云ふ温度では大したことなさぞうだが 吐く息が白く見えるんだから。少しは冷たい譯には譯だが 近頃風が非常に猛烈故 あんなに咲き誇った花が見事といってもよい位に散ってしまい 見苦しい残骸を残しているが なんとなくセンチメンタル?花も可愛そうなものだ。




軍都広島での物語

原爆詩集

峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。

炎の季節


ウラニュームU二三五号は

予定されたヒロシマの

上空五〇〇米に

人工の太陽を出現させ、

午前八時十五分は

たしかに

市民を

中心街の路上に密集せしめ。

 














封印された原爆報告書
日本政府は、原爆が投下された後、その威力調査を行ない、その結果をまとめて、戦後、アメリカへ英訳して渡した。被爆者の治療は殆どされず、人体実験迄行われた。





1945年9月に被爆地に残留放射線があったにもかかわらず、日米両政府は戦後それを隠蔽してきた。




  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

 Ⅰ 731部隊

エントツから出る黒い煙

ペスト感染による死体がどんどん焼かれていく

小笠原 明(おがさわら あきら)

731部隊・少年隊

〈経歴〉

1928年生まれ。

1943年4月 731部隊少年隊に入隊

1944年4月 第2部(実験部)第2課田中班に配属。ペスト菌などを宿らせ伝染させるためのノミ増殖に従事。

1945年8月 日本への撤退途中で中国人民解放軍に入隊、4年間従軍

1949年 帰国。

■この証言は石川(金沢)731部隊展(1993年11月)、栃木(宇都宮)同展(94年9月)、沖縄(那覇)同展(94年1月)、広島同展(94年3月)の『報告集』よりまとめたもの


田中班への配属

今度はネズミを使ってノミを繁殖させる仕事に入って行きます。千葉県出身の大野さんという阿部大尉の下で働いていた雇員さんに習いながら、実験室の中でドブネズミやラッテ、小さな茶色のハツカネズミ、それに白い小さなマウスといったネズミを使って、ノミを育てる勉強を重ねました。 

日本軍政下香港(1997.7.27)



●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行



第3 1審判決の問題点

1 1審における秦証言批判


ハバロフスク裁判記録を「何度も見ました」と答えた秦は、反対尋問に対し次のように答えている。

(96項)特移扱通牒というものの内容ですね。今、記憶喚起されますか。
秦証人・・・・・トクイという言葉については、記憶あります。
(97項)内容は。
秦証人・・・・内容は、具体的には記憶しておりませんので、お示し願えれば。
(98項)外国人の方を強制的に部隊施設内に収容する手続きの一環で定められている文書なんですが、ご記憶ですか。
秦証人・・・今の731の本の中で、具体的にどの箇所にどういう表現で書いてあったということについては、現在只今のところは精密な記憶はありません。






●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅲ 日中戦争の全面化と本格的使用の開始  1937―1938


1 日中戦争の全面化と毒ガス戦

徐州会戦・安慶作戦での使用

 この会戦での毒ガスの最も早い使用例は、17日午前6時から蕭(しゅく)県城西門攻略を目的としたものであった。この時は金沢歩兵第7連隊(連隊長・伊佐一男大佐)が、あか筒を45本準備したが、風向きが悪く、2本使用しただけで中止した。
 
 同日午後6時から、蕭(しゅく)県城東南4 km の地点で、鯖江歩兵第36連隊(連隊長・脇坂次郎大佐)が、2度あか筒を少量使用したが、毒ガスの使用直後に突入(これを「膚接(ふせつ)して突入」という)することができなかった。しかし、翌18日、北部趙張二庄集落への襲撃では、あか筒30本を使用し、国民党軍内に毒ガスによる「多数の患者」が発生したことを確認した。また、毒ガスを吸い込んで倒れ、担架で後送される途中の国民党軍兵士を「全部射殺」したいる。毒ガスを吸い込んで苦しんでいる兵士を通常兵器で殺していることが注目される。


     

日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備えていた!!







略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)







*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)












大久野島の歴史

はじめに

 もう1つの理由は私たち日本国民自身の中にあるのではないでしょうか。敗戦後、戦争を体験した日本国民は自分たちが受けた悲惨な体験から戦争に反対し、平和の尊さを叫ぶようにはなりました。しかし、それはもっぱら、自分たちが受けた戦争被害の戦争被害を振り返るばかりで、日本の戦争加害の事実を真摯に学ぶ姿勢に欠けていたのではないでしょうか。被害の視点から戦争の悲惨さを考えるばかりでばかりで日本が行った侵略戦争と戦争加害についての反省が十分、行われていないのではないでしょうか。





 

 

 







●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行


 謀殺(ぼうさつ)

予防注射を口実に毒殺


中島宗一

属官

〈略歴〉

本籍 長野県下伊那郡

出身階級 農民

最終学校名 南信学院2部卒業

学校卒業後の職業 農業

最後の所属 旧竜江省警務庁特務科

被捕日時場所 1945年10月8日 旧斉斉哈爾(チチハル)市白済工廠



「荒木君からも既に話したと思うがね、調査の結果、容疑事実が無いことがわかったので、今日君を釈放することにした」もったいぶって言う私の顔をじっと見つめている彼の視線に合うと、私はまたもやおかしさがこみ上げてきて、それを繕う為かれをねぎらうかのように笑いを浮かべて言った。

「長い事留置していて、気の毒かけたね」

無実の罪で捕らえられてより、1年有余いつ許されるとも知れず、説に訴える術もない恨みと苦悶の長い獄中生活、たった一言の慰めの言葉で、それまでの苦しみは消え失せるものではないが、はからずも今、その絶望から解かれようとしているのだ。そう信じ切った彼は、その苦悶も恨みも今日の喜びで拭い去ることができると思ってか、無言の微笑で答えた。




    


    

●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


●『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

藤井治夫著


第3編 主要極秘文書

1 三矢研究

昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)

















研究―四

 三矢研究事前研究項目(対米関係事項)

第3 日本直接防衛のための日米共同作戦

 1 全面戦の誘発を防止すべき情勢下における軍事作戦の限界

(2)核使用の問題

ニ 要約

(3)反撃作戦の限界

 (イ)陸上作戦

   b わが領域外への反撃作戦

   (b)さらに上記(a)項の範囲を拡大し、積極的進攻を企図する場合

   この場合は、進攻地域としては、沿海州地域が考えられるが米ソ戦力の本格的衝突と
   なり、
全面戦への発展の危険性は極めて大である。これを連携して北鮮―満州、状況
   により支那大陸
への進攻も考えられるがこのような場合においては全面戦への発展は
   必須であろう。


  

第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。



 1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

 『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。


1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊



第4代衛生学校長


『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1




金原節三と細菌戦


金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。


細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。


金原節三と武見太郎


金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。


※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!


『軍事史研究』2010年9月

軍事史関係史料館探訪(56)

陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館

喜多義人


収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。

 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)

「化学学校記事」

『BC兵器』 久保綾三著(1969年)


3、沖縄―核だけなく毒ガスも

目に見えない恐怖

「米兵だけでこっそり夜運ぶ弾薬もありますよ。私たちには、絶対触れさせません。しかしほんとは、私たちにこの弾薬を運ばせたいようです。米兵運転手が嫌がっているそうで・・・」
 ある弾薬運搬車の運転手の話である。
 米兵自身が嫌がるその兵器ーそれが日夜、私たちの町を走っている。今日もー。


5代衛生学校長

 

井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

 

1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

  井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。

東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。

※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。

1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

 

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)

 

イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 


●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。



 

 






●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  

    

第2部    仁愛の政治


1922(大正11)年―1930(昭和5)年

1、摂政時代と大正デモクラシーの危機

 関東大震災のあとには不敬事件が多発したが、東京で起きたいまわしい虎の門事件でそれは頂点に達した。この事件で婚儀はまたも延期になる。1923年12月27日、難波大助という若いアナーキストが、議会の開会式に向かう摂政裕仁の自動車を狙撃したのである。弾はガラスを破って東宮侍従長を傷つけたが、摂政は無事だった。難波は衆議院議員の息子であった。彼はふつうは小鳥などを撃つ殺傷力の弱い銃を用いた。相手が摂政でなければ、せいぜい傷害未遂罪というところである。しかし未来の天皇を害する意図があった以上これは大逆罪に相当し、国中に衝撃を与えた。

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


RENUNCIATION OF WAR Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

IMAGINE9 

解説

07


戦争にそなえるより戦争をふせぐ世界


 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、 かえって増えていっています。「テロリスト」という言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。

「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせることができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、 結果的に暴力を拡大させ、人びとの命を奪い、人びとを大きな不安のなかにおとしぃれます。どうすれば人びとが暴力に走ることを予防できるのか考えることが大事です。そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。




 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!

※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、戦争、

3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?


「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え




核兵器禁止条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

核被災に苦しむウイグルの人々

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子


・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。


●核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



地球を破壊する核爆発・核実験


1953年に行われたW9の発射実験。M65 280mmカノン砲を使用した。核出力は広島に投下されたのと同じ15kt。




水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ) 

「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】



核実験の人体実験


●核融合もすべきではない!!




なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「反原発!!」と叫ばない!!
 

       

      





































原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。


・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。





水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した。










福島第1原発事故



           

















徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!




































 

























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