中国当局が発表 新型コロナ関連死「6万人近くに」
2023年1月9日 各位
遺棄化学兵器処理事業情報公開請求訴訟
第一回弁論傍聴&報告集会ご参加のお願い
(サポーター募集は追ってお送りします! ぜひご注目ください)
先の大戦で、旧日本陸・海軍は化学兵器(毒ガス兵器)を製造・使用した事実を隠すため、 敗戦
時、日中両国内でそれらを地中に埋めたり、川や海に投棄しました。戦後もこれらの遺棄化学兵器
による被害が後を絶ちません。
日本は1995年に化学兵器禁止条約に批准し、1999年以降、内閣府主導で、それらの化学兵
器を中国で処理していますが、処理してもなお化学兵器に含まれていた有毒物質のヒ素が残って
しまいます。内閣府はこのヒ素を含んだ有害廃棄物の最終処分をドイツで行うことを検討してい
ることが判明し、その検討経緯を知るために、2019年9月に行政文書開示請求をしました。しか
し、「公開」された6861頁のほとんどが黒塗りで肝心の経緯が分からなかったため、審査請求も
行いましたが、昨年5月19日、「ほとんどの文書の不開示は妥当である」という趣旨の内閣府の裁
決がありましたが届きました。
そこで、議論の過程を明らかにするために、12人の弁護士の協力のもと、2022年11月18日
に提訴しました。
≪ 第一回弁論 ≫
2023年1月24日(火)10:30〜 東京地裁703号法廷
予定 ▶︎ 平松真二郎弁護士より意見陳述、原告の意見陳述
\ 報告集会も開催します! ぜひご参加ください /
11時半頃〜12時半頃@衆議院第2議員会館第1面談室
*裁判の進行状況によりますので、前後する可能性がございます。
*閉廷後〜開始前までの間に入館証を配布致します。報告集会開始時には配布を終了致します
ので、予めご了承ください。
≪ 原告より皆様へ ≫
本事業の昨年度までの予算執行額累計は約3,847億円にまで上ります。莫大な税金が投じら
れた一大国家プロジェクトでありながら、ブラックボックス的に進められています。今なお、遺棄
化学兵器によって苦しむ方々がいる一方で、また新たな被害を生み出してしまうかもしれないと
思うと、何もしないわけにはいきません。
自分自身が一人で原告になることは初めてで、とても心細い思いです。ぜひ皆様のお顔を見せ
て頂けますと大変心強いです。傍聴席を埋め尽くし、裁判所に情報公開の必要性を訴えられたら
と思います。サポーター募集のため、現在クラウドファンディングも準備中です。お力添えのほど
何卒よろしくお願い申し上げます!
≪ お問い合わせ ≫
城北法律事務所 Tel:03-3988-4866 担当:平松
新型コロナも鳥インフルも生物兵器か??世界のBSL4施設は何を研究しているのか??
中国 新型コロナ死者 約6万人と発表も SNSでは“もっと多い”
鳥インフルでの殺処分は適切なのだろうか??
鳥インフルの処分数 全国で1000万羽超える 過去最多
あの日本の侵略戦争を反省し作られた憲法9条を、順守すれば、軍事費ゼロ!!戦争をしないように全力で取り組む姿勢を全世界に示す!!【天皇制再考、軍人恩給廃止、戦争被害者(外国も含む)への補償、外交力強化!!】
憲法9条
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
軍事費削減!!憲法9条を尊重しろ!!
日米首脳会談 両首脳 中国念頭に日米同盟さらに強化を確認
与那国ミサイル配備に反発 玉城知事「唐突な予算計上」
玉城デニー知事「敵基地攻撃能力、保有できない」沖縄への自衛隊配備増強巡り見解
防衛増税も迷走「岸田政権」に今、決定的に足りないこと
ミサイルが飛んできても「反撃しない」ことこそが日本の抑止力だ
“弾薬だけ”で8200億円 来年度当初予算案、防衛費が25%増の過去最大 総額114兆円程度で最終調整
【詳細】ロシア ウクライナに軍事侵攻(14日の動き)
放射能の影響を考えよう!!
パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」展
731・原爆・ビキニ
12月22日(木)
1、パネル大きく見やすかったです。祖父も戦死していますので、伝えていかなければと思います。息子が広島に現在住んでおり、知れば知る程、悲しい歴史と言っていました。“ドームの前でピースして写真を撮る人がいたけど信じられない!!”と怒っていました。
今日、写真を見て、良く生き残ってくれた人がいた事に驚きました。もっともっとみんなに見て欲しいです。
2022/10/22 清水さん宅
731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」
731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村
731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。
「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。
清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・
久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
飯田市平和祈念資料室
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
原爆初動調査ー隠された真実3
Нет войне!!Стоп Война!!
新聞記事からの報告(ビキニ水爆実験)
忘れられたビキニ被災者たち 裁判の報告
2022 5 7 世界の核被害問題と解決の取り組み
2022 5 7パネルディスカッションのまとめ
中満泉ビデオメッセージ
2022 5 8高橋博子講演
閉会の挨拶
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
医学者の"名誉"とは
それに対し教授はいかなる対応をしたか。
彼はまず何より戦後20数年たった今日、"隠しおおせた"と思っていた自らの戦争犯罪が「最終講義」というまさに土壇場で曝露されたことに対し驚きと狼狽を示した。
「最終講義は授業の場だから答えられない」といったり、
「最終講義はセレモニーでしかないから追及されるくらいならやめてしまってもよい」などと矛盾したことをいいつつ、公開質問状に回答することを拒否した。
はては「記念すべき退官記念講演の場で私を追及するなんて君らは残酷だ」となどと泣き事ともつかぬ事をいいだす始末だった。
戦後「医学者としての戦争責任」を何ら追及されなかったばかりか逆に医局講座制の頂点に君臨してきたこの教授が土壇場で演じたのは、自らの戦争責任を大衆の場で明らかにすることではなく、自己の"名誉"を必死で守り抜こうとする醜態でしかなかったのだ。
細菌兵器と生体実験によって中国人民を虐殺した731部隊の犯罪性を捨象し、「最終講義で追及されることを残酷だ」としか感じとることのできない人間に「医学者」を名乗る資格はない。
3月2日、われわれの闘いによって講演後2時間余りにわたって宮川教授に対する大衆的な追及が展開された。
われわれの追及に対して、宮川は昭和19年4月から20年8月まで731部隊に所属していたこと、又放射線によるワクチンの研究を行なっていたことを明らかにしたが、「自分が第何部に属していたかは知らない」「人体実験はやっていない」などとうそぶき、"核心"にふれる事については「知らない。忘れた」など一切"黙秘"を押し通すことによって居直り続けた。
そして「医学者の戦争責任」についても、すべて「戦争が悪い」「天皇の命令だからやった、反抗すれば殺されていたかも知れない」などということによって自己を免罪し、あげくの果ては「日本国民全体の中の一人としてなら反省してもよい」などと"反省"にならぬいいわけを並べたて、彼の本質を大衆の面前で曝露した。
防衛大に対しても、「よく知らない」「自衛隊の中にも医者は必要だ」といいのがれをし"軍医養成と軍事医学研究"という指摘をつきつけられるや、「軍医の役割は大きい。軍医は必要だ」とヌケヌケといってのけた。
このように居直る宮川教授に対する追及は、席を立つ学生がほとんどいないという熱気の中で続けられ、731部隊の戦争犯罪を大衆的に確認し貫徹された。
(以下略)
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
冤罪が晴れてもその後の人生に困難を伴う!
社会が許さない 釈放後も「地獄」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑報21巻 第6号(1937年)
山田信一郎君の英霊を弔う
昭和12年6月15日 伝染病研究所長 宮川米治
然しそれでも尚吾々には残り惜しい数々があります。君に借すに尚拾数年の齢を以てしたならば、残さるべき学績はもっともっと偉大なものがあったに相違ありませぬ。これによって人生が享けるべき幸福は決して少なくはないと確信します。たとえ、死所を得たとは言え、これを思うと誠に物足りないのでありまして、残念で堪りませぬ。君の死は吾が伝研の非常なる損失のみではありませぬ。学界の於ける誠に大なる損失であると信じます。今ここに君が英霊を迎え、永久の別を為さんとするに当たって20数年来、手を握り合って暮らして来た私は心から君を弔い、追憶を擅にしたいのであります。君幸に恕して呉れ給え。
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
戦時下 大牟田爆発赤痢事件
隠蔽された企業犯罪、国家犯罪
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
1937(昭和12)年9月25日(土)夜から突如として福岡県大牟田市に「赤痢」が発生し、死者712名、罹患者2万人以上を出す大惨事となりました。爆発的に「赤痢」が発生したとのことで「爆発赤痢」と呼ばれました。
7月7日日中全面戦争から3か月大牟田にある三井三池染料工業所は軍需物資生産にフル稼働していました。
9月25日(土)夕方6時頃、三井三池染料工業所のN工場で爆発事故が起こり、黄色の煙が町を覆いました。直後から風下の住民はのどの痛み、せき、めまい、高熱、吐き気、下痢、そして全身のケイレンで子ども、老人を中心に次々と倒れ、死者も続出しました。病院は人であふれ、治療もままならない状態になりました。
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判第1審判決全文
被告の主張 (別紙4)
第1 国際法に基づく請求について
1 国際法の基本的な考え方
(1) 個人の国際法主体性について
イ 個人の国際法上の権利が認められるためには、条約において個人が自らその権利を行使するための国際法上の実現手続を保持し、当事者としての適格(請求の主体としての資格)が特別に認められていることが必要である。言い換えれば、個人が国際法の単なる受益者にとどまらず、国家に対し特定の行為を行うよう国際法上の手続により要求できる権能を与えられていることが必要である(山本・前掲書164頁以下参照)。この見解は、国際法の通説である。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
四月二六日
前置きはこの位にして日記帳殿 貴女の生命は一頁ずつ使用して四百日ありましたね。貴女は昭和六年と銘打って世に出た。三六五で終わってしまいたいと 否それが本願であると考察しました故 勝手ながら二、三頁又使用しますよ。友に出すからには、書き方も右下がりの俗にいう助平字ではいけないかしら
右上がり左下がりの字で書く K君失礼いたしました。長らくのご無沙汰いたしましたね、K君僕は桜が見たかったよ。見たくて見たくて仕方がない位であった。時々は罪な新聞がしらせるんだよ
桜の話と写真とをね。今年になってから一度も桜の木を見ないんだからね。罪な新聞だ罪な新聞だと思ひつつもね 見たくて仕様がないんだ。やはり四月の記事は不景気でもなんでもよいから花だよりに限るね。
原爆詩集
倉庫の記録
三日め
K夫人の容態、呼吸三〇、脈搏一〇〇、火傷部位、顔面半ば、背面全面、腰少し、両踵、発熱あり、食慾皆無、みんなの狂声を黙って視ていた午前中のしろい眼に熱気が浮いて、糞尿桶にまたがりすがる手の慄え。水のまして、お茶のまして、胡瓜もみがたべたい、とゆうがた錯乱してゆくことば。
硫黄島に死んだ夫の記憶は腕から、近所に預けて勤労奉仕に出てきた幼児の姿は眼の中からくずれ落ちて、爛れた肉体からはずれてゆく本能の悶え。
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
昆虫班でのノミの増殖
ノモンハンでの細菌撒布も
鶴田兼敏(つるたかねとし)
731部隊・少年隊
〈経歴〉
1921年生まれ
1938年 731部隊に入隊(少年隊・田中班)
1939年10月 退職
1945年12月 帰国
■この証言は佐賀731部隊展(1994年12月)の『報告集』をもとに本人がまとまたもの。
解説ーノモンハン事件 (西野留美子)
1939(昭和14)年5月11日、日本が統治する“満州国”とモンゴルの国境ノモンハン付近までモンゴル軍がやって来たのを越境であるとし、日本軍(“満州国軍”)は攻撃をしかけた。それがノモンハン事件(ハルハ河事件)の発端である。7月1日、関東軍は戦車約70両、航空機180機、兵員約1万5000人を動員しソ連軍に総攻撃を仕掛けたが敗退。ハイラル駐屯第23師団、日本が主張する国境の外にソ連軍を追い出したが、戦車などの機械化部隊によるソ連軍の戦力は、日本軍を圧倒した。ソ連軍の戦車部隊を前に、火焔ビンで立ち向かう日本軍の戦力では歯が立たなかった。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅲ 日中戦争の全面化と本格的使用の開始 1937―1938
1 日中戦争の全面化と毒ガス戦
催涙ガスの使用
例えば、北支那方面軍指揮下の第2軍に所属する姫路第10師団(師団長・神頭勝弥中将)は、1937年10月中旬から翌年5月末までに、みどり筒を1619本使用し、広島第5師団(師団長・板垣征四郎中将)は、1938年5月1日から31日の間に、450本を使用している。
海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
訳者あとがき
毒ガス戦の被害状況と遺棄毒ガス弾問題を除けば大半は日本側の資料である。しかし、本書は中国の著者によって書かれた。戦争の真の歴史は、加害責任の意識だけでは書けないものだろうか。しかし、被害の意識だけでも書けるわけではない。歩平先生は、日本を訪問されて、大久野島の毒ガス被害者に(さらに広島の原爆被爆者に)中国の遺棄毒ガス被害者の苦しみを重ね、習志野学校跡の立派な動物慰霊碑の前で、なぜ日中両国被害者の人間の慰霊碑ができないのかと痛恨される。やはり根底は人間愛なのだと実感する。そんな場面が本書の随所に散りばめられている。
訳者の1人として 宮崎教四郎
核時代39年(1984年)5月初版発行
強姦
赤ん坊を殺し母親を犯す
石田幹雄
兵長
〈略歴〉
1913年 山梨県の中農の家に生まれ、
1928年 小学校卒業と同時に東京に出て、印刷労働者となり、
1941年10月20日 補充兵として東部63部隊に入営。
1942年5月末 中国に侵略し、
1945年8月22日 59師団54旅団110大隊兵長として朝鮮においてソ連により武装解除を受ける。
その手へ歯をもって逆らう手強い抵抗に、ますます野獣の本性を現した私は、頭から布団をおっかぶせ、その上に馬乗りになって、身悶えするのを遂に蹂躙したのだ。私は、隣国の中国の領土に侵入して、何の恨みもない、平和を愛し勤勉な沢山の人達を殺し、多くの婦人を犯してきたことを振り返る時、あまりにも獣に似た自分の行為を責めずにはいられない。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
研究―四
三矢研究事前研究項目(対米関係事項)
第2 情況の緊迫に応じとるべき具体的な統幕在日米軍司令部間の連携のあり方
作戦調整所の開設
(3)連絡調整すべき具体的事項
具体的連絡調整事項は事態の区分に応じ別紙第1の通り予期される。
別紙第1(調整事項)
注・〇印 調整事項の発生を予期する場合
◎印 調整事項の多発を予期する場合
連絡調整事項
3、後方補給資源の譲渡及び相互利用
a 燃料弾薬等の消耗補給品等 A2 〇 A3 〇 B ◎
b 衛生支援 B 〇
c 輸送力(主として米航空輸送力) A2 〇 A3 〇 B ◎
d 施設の共同使用等 B ◎
e 回収品の相互利用 B 〇
第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
「化学学校記事」
『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
2、ベトナムにおける生物・化学兵器使用とその背景
ダクウェイ事件とその背景
1943年に、ルーズベルト大統領は、「米国はBC兵器を最初に使用しないだろう」と宣言しているが、「化学・生物兵器の使用」(米陸軍教範3‐10)では、「非致死性、無能力ガス及び細菌の使用は国家政策の1つである。米陸軍、海軍、空軍、海兵隊の指揮官は、その使用において特別の訓練と教育を受けている」と書かれていることは注意しておく必要があるだろう。
BCW攻撃は誰を目標にしているのだろうか。米陸軍教範FM3-10に従えば生物兵器の最初の目標は敵軍である。
しかし、その次の目標は敵軍と市民との混合地域である。同盟の指揮官には次のようなことで同意を求めることにしてある、「友軍にも無警告で、細菌雲で多少の損害が出ることに同意すること」。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第2部 仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
1、摂政時代と大正デモクラシーの危機
Ⅰ
明治天皇の徳は、その質素、学習、息子への教育的配慮などの側面で、1926年を通して教材に供された。仁愛の涵養のために側近が注いだ入念な努力が特に強調された。12月3日に行われたその年最後の進講で、三上は〔岩倉具視が明治天皇に調進した意見書の〕「陛下は物を惜しむ勿れ、万民を以て宝とすべし、玉体を大切にしべし、威徳を崇うするの外、玉容を和げ玉ふべし、臣下を労はらせ給ふべし」という一節を強調した。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
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解説
01
軍隊のお金を
みんなの暮らしのために使う世界
1年間に世界で120兆円、日本で5兆円という、想像もつかないほど巨額のお金が、戦争のため、またはその準備のために使われています。1発数千万円ないし数億円もかかるようなミサイルを何百発も準備することが、「国を守るため」として正当化されています。
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地球を破壊する核爆発・核実験
核兵器禁止条約
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核融合もすべきではない!!