核のない世界へ!!
「オブザーバー参加を」 被爆者らが「核なき世界」訴え 広島
アメリカも銃規制をしてもらいたい!!
米テキサス州の小学校で乱射 生徒19人と教師2人が死亡
戦争では、何も解決しない!!即時停戦を!!
世界の食糧危機!!、世界の環境破壊!!生態系の激変!!貧困、虐殺、レイプ、人間不信!!
На войне ничего не решить! !! Немедленное прекращение огня! !!
Мировой продовольственный кризис! !! , Всемирное разрушение окружающей среды! !! Кардинальные изменения в экосистеме! !! Нищета, резня, насилие, человеконенавистничество! !!
У війні нічого не вирішиться! !! Негайне припинення вогню! !!
Світова продовольча криза! !! , Знищення навколишнього середовища світу! !! Різкі зміни в екосистемі! !! Бідність, бійня, зґвалтування, мізантропія! !!
Nothing will be solved in the war! !! Immediate ceasefire! !!
World food crisis! !! , World environmental destruction! !! A drastic change in the ecosystem! !! Poverty, slaughter, rape, misanthropy! !!
ウクライナに平和を!!
日本は、戦争の反省をしているのだろうか??
過去最大の防衛予算 歯止めなき膨張許されぬ
「戦争の加害展」プレ企画
*7月18日の加藤哲郎講演は、事情により小河孝講演に変更
になりました。
731部隊全景
No War!!Stop War!!
Нет войне!!Стоп Война!!
Why is America not actively moving towards peace ??
Почему Америка не движется активно к миру??
Article 9 of the Constitution to the World Constitution !!
Статья 9 Конституции Всемирной Конституции
憲法9条を世界憲法へ!!
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, world forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
ОТКАЗ ОТ ВОЙНЫ Статья 9.
Искренне стремясь к международному миру, основанному на справедливости и порядке, мир навсегда отказывается от войны как суверенного права нации и от угрозы или применения силы как средства разрешения международных споров.
Для достижения цели предыдущего абзаца сухопутные, морские и воздушные силы, а также другой военный потенциал никогда не будут сохранены. Право воинственности государства признаваться не будет.
戦争の放棄
第九条 世界は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない
I want the United Nations to do everything in its power to stop Russia's invasion of Ukraine!!
Я хочу, чтобы Организация Объединенных Наций сделала все возможное, чтобы остановить вторжение России в Украину!!
国連はロシアのウクライナ侵攻をやめさせることに全力で取り組んでほしい!!
I want Japan, which has Article 9 of the Constitution, to move more positively toward a ceasefire !!
Я хочу, чтобы Япония, у которой есть статья 9 Конституции, более позитивно двигалась к прекращению огня !!
憲法9条を持つ日本はもっと停戦に向けて前向きに動いてほしい!!
War in the 21st century? ?? In the 21st century, a world without war!!
Война в 21 веке? ?? В 21 веке мир без войн!!
21世紀に戦争??21世紀こそ、戦争のない世界に!!
ビキニデーin高知
なぜ医学界は、核被害を訴えないのか?
森友記録を開示せよ!!
反原発!!
大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??
重慶無差別爆撃
京都大学出版会(2022年4月10日発行)
もしかすると中国人の人骨も京都大学にはあるのでは??
丹羽雅雄弁護士の話:遺骨という問題は非常に大きな問題なんですよ。死者の尊厳ですからね。死者の尊厳ということは、生きている人の尊厳につながっているんですよね。当時の帝国大学は色々な人骨研究をやっていますからね。そうすると恐らく朝鮮半島の御遺骨の問題も当然あるはずです。リストにありますからね。
それから、台湾もあるだろうし、東南アジアもあるだろうし、そういう風に広がっていく可能性があるんですね。遺骨の問題は先住民の大きな長い歴史の中で国際的にも重要な問題になっていると・・・
遺骨収集には、清野謙次の影響が強くあった。清野は731部隊長石井四郎の強力な支援者だった。(病理解剖の最高顧問)
●川崎の徴用工 故・金景錫の闘い お話:梓澤和幸弁護士
●731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
加藤哲郎講演会「パンデミックと731部隊」
(特別集中講座「ヒロシマ講座」)
加藤哲郎講演第1回
加藤哲郎講演第2回
加藤哲郎講演第3回
多磨霊園フィールドワーク
加藤哲郎講演第4回
加藤哲郎講演第5回
加藤哲郎講演第6回
加藤哲郎講演第7回(最終回)
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート11月16日(火)
・頭が混乱していて感想がすぐには出ない。今日から1ヶ月ぐらいかかると思う。
戦争が不条理と思います。部隊全景の航空写真と地図があっていない様に思いますが。道路と飛行場、建物の位置関係が私には解読できないのです。
(70代、市内)
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
『日本医学百年史』1957年1月1日の731部隊の記述
日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第5回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第9回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第10回
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
医学と人権を考える―
薬害エイズ裁判と731部隊
公開日 2001年06月05
★安部英(あべたけし)のその後
薬害エイズ事件において、1985年5月から6月にかけての計3回、手首から出血した血友病患者に対し非加熱血液製剤(血液凝固第Ⅷ因子製剤)を投与してHIVに感染させ、エイズを発症させ死亡させたとして業務上過失致死罪で逮捕・起訴された。2001年の1審で無罪となり、検察が控訴したが、心臓疾患や認知症を発症したため公判停止となり、2005年4月25日に88歳で死去した。
小津安二郎も毒ガス部隊だった
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日 731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日 731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日 731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日 731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した
8月 731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月 100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
戦争犯罪と戦争責任を考える(帝銀事件捜査から)山田朗
(『日中友好新聞』2022年2月15日号より)
捜査資料には、捜査の途中(7月頃)から、米軍と約束したから話せない、と言った関係者の言葉が記録されている。
この口止め工作には、米軍と結びついた有末清三(元中将)などの旧軍関係者も深く関与していたことも分かる。有末は、捜査官に、旧軍関係を探るのはGHQとの関係でやめた方が良い、といったことを忠告している。また、捜査当局に、秘密を話させないということだけでなく、証言を変えさせるということまで行われた。
それは、操作初期の4月の段階で、使用された毒物は旧軍が開発した「青酸ニトリール」という特殊なものだと捜査官に断言していた人物が、毒物に関する知識がない平沢が逮捕されたのち(9月)に、「誰でも入手できる青酸カリだ」と証言を変え、毒物の専門家として鑑定書まで捜査本部に提出し、裁判でも同様の証言をしていることからも分かる。
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
731部隊被害者遺族の訴え!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
実験医学雑報19巻 第7号(1935年)
宮川米次
日本人独創の芸術
又これを画いた絵師も大体庶民出のものであって、大和絵家に見る様な上流の人々でないのでも亦その一般は伺われると思う。そしてその画題は江戸爛熟時代の世相で、美女・美男の姿粧にとり、繊細で描線と強い色調と目の覚める様なあでやかな遊女、若衆(俳優)、思い切った姿態を取り扱ったのを最も特異とするもので、風景の如きはこの種の風俗を画かんが為の背景に過ぎないのである。
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
浜一中大福餅事件
浜松一中の慰霊碑
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
<三池の冬1997 その2>より
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
戦時下 大牟田「爆発赤痢」事件、隠された企業犯罪・国家犯罪
北宏一郎
いわゆる「大牟田爆発赤痢事件」の真相
軍、内務省、県、市の動き
塚本メモの発見
国の力で辞職に追い込まれた水道課長塚本久光氏は水道局の金庫内に2通のメモを残していました。
昭和37年11月9日「夕刊フクニチ」は「25年ぶりに発見された極秘書類メモ」として書類写真を掲載。
そのメモは、
①「水道水ヲ以テ罹患原因ト認メ得ザル理由」
ここには「第三水源井ヲ以テ発症原因ト見做セル如キヲ以テ特ニ三源井状況詳記シ反証トス」として、
18項目を挙げて、水道水汚染説に真っ向から反論している。
②「瓦斯爆発ニ関スル調査報告」
三井三池染料工業所のガス爆発について、詳細に当時の状況を記しています。
9月25日、26日深夜の2回の爆発事故の前、9月22日にも小規模の爆発があったことを記しています。
9月25日深夜の2度目の爆発の時には、防毒面、防毒衣の人に工場内立ち入りを拒まれたこと。工場内死傷者は秘密裏に羽大塚伝染病院に送られたこと、更に、憲兵から10月25日に「赤痢菌弾を目下三井染料工業所ニ於テ制作シツツ事実アリ、海軍関係ハ8割、陸軍関係2割、戦地ニ使用中ナル事、尚菌弾び件ハ小倉工廠調査ノ結果ナル旨聴取セリ」と
この赤痢菌弾は誤りであるが、はからずも、毒ガス製造を憲兵が認めている。
塚本久光氏は昭和27年死去しているが、生涯にわたって、爆発赤痢事件の真相を追い続け、このメモを残していた。
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第7 原告らの損害
1、衡州の原告らの損害
浙江省衡州の原告らは、別紙「原告及び死亡親族一覧表」の原告番号1から14迄の14名である(尚、同番号は7地域通しの番号とする。又、原告の生年月日は、全て1900年代なので、西暦の下2桁のみを表示する。死亡者は、原告の3親等内の親族の被害者である。以下同じ。)
上記14名の原告らは、その家族が、日本軍の細菌戦によって衡州で発生したペスト流行によりペストに罹患し、いずれも高熱、頭痛、鼠蹊腺腫、嘔吐などの症状を呈して死亡したことにより、耐え難い精神的苦痛を被った。更に、敗戦直前から現在に至るまでの被告の徹底した隠蔽行為及び立法不作為によって、原告らは新たな耐え難い精神的苦痛を被った。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。
731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
日本の中国東北侵略から91年
一月二五日
晴 寒し 休日にて図書室で暮らす。 零下二五度
起床ラッパに起こされてから 一日中寝てようと思ったが眠れない 図書室で暮らしてしまった 昨日の苦しみに引き換えて今日は呑気なこと話にならない 未だ足の方は治らないが大変楽になる。これで何も勤務さえなければ極楽だがね。外は非常に寒く外出の元気なし。ペチカ?かかえてほしいようだが一日経ってしまった。平凡な一日楽なことはない。午後四時寝に付く夕食までは白河夜船だ 何も考えたくない 歌でもと思ったが肉体が疲れれば心も疲れるらしい。歌なんていうものは 肉体も精神も揃った時初めてできるのだろう。
内藤が分遣で二週間も勤務だ 菓子でも送ってやろうよ喜ぶだろう この寒いのにご苦労様だ。ペンを走らすさえ嫌になる。なぜこんなになるのだろう。
軍都広島での物語
原爆詩集
峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
盲目
仆れた群に
寂漠とひろしまは燃え
燃えくずれ
はや くれ方のみち汐
河原に汐はよせ
汐は満ち
手が浸り脚が浸り
むすうの傷穴から海水がしみ入りつつ
動かぬものら
顫える意識の暗黒で
喪われたものをまさぐる神経が
閃光の爆幕に突きあたり
もう一度
燃尽する
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅲ 細菌戦部隊の周辺
陸軍病院の軍医として
14人の中国人を生体解剖した
湯浅謙(陸軍軍医)
■この証言は新宿・渋谷731部隊展(1993年7月)、東京東部同展(93年8月)、千葉同展(93年9月)、石川(金沢)同展(1993年11月)ほかの『報告集』よりまとめたもの。
(経歴〉
1916年生まれ
1941年10月 短期現役軍医として旭川28連隊入隊
1942年2月 北支山西省潞安陸軍病院附
1945年8月 現地で敗戦を迎え、年末に国民党軍の徴用を受け人民解放軍と交戦
1949年4月 解放された人民政府病院勤務
1951年2月 捕虜として捕虜収容所へ拘束される
1952年12月 戦犯として太原監獄へ収監
1956年6月 起訴免除により帰国
石井四郎の噂
また、山西省南部の独立警備隊に隊付軍医として派遣されたおりには“従軍慰安婦”7~8人ずつの検査をやりました。その当時は1個大隊800名で、朝鮮人の女性が大隊本部の隣に7,8名おりました。そして、皆が“慰安”に行って性病に感染すると戦力に影響するのでよく診ること、となっていました。とはいえ私の専門外のことですし、まともな診療などとてもできません。膿が出ている、ただれている、リンパ腺が腫れてるなんていう人は除いたとしても、本当は菌を調べたり精密な検査をしなくてはわかりません。ですからいつも合格だ合格だと。ただし肉眼的所見だから、兵隊には予防具の使用を厳重に指示しましたが・・・・。
戦時中の東南アジアの様子(731部隊員増田知貞が撮影したフィルム)
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
解説
証言「供述者」の背景ーある日本人戦犯を中心に
学習活動から手記運動へ
収容者に対する取り調べの行なわれる気配は、依然として、全く見受けられなかった。中国側から、過去の問題に触れることも皆無であった。取り調べの始まるのは、彼らが撫順へやってきて3年半ほどたった1954年からである。だからそれまで、収容者の間では「いつまでこんな所へ収容しておくつもりなのか」という不満の声こそあれ、過去に対する反省の動きなど、一部の意識の進んだ人は別にして、大勢として全く無かった。それが、学習活動が広がりを見せ始め、この告白をきっかけに、特に一処から四処までの兵士・下士官グループの間から、反省の声が上がってきたのである。彼らは口々に「これまで別に意識しなかったが、俺たちのやったことは国民の為でなく、軍国主義の片棒を担いでいたのではないか。自分のやったことを考え直してみようじゃないか」と語り始めた。
消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第8章 戦後史の中の日本軍毒ガス兵器問題
4 毒ガス戦をめぐる歴史資料と国会論戦
「大陸指」をめぐって
次に、焼却されずに旧軍関係者が隠匿した資料のうち、参謀本部が毒ガス兵器の使用を許可した指示=「大陸指」(参謀総長指示)について見てみたい。現在、「大陸命」(天皇の陸軍に対する命令)と「大陸指」は防衛庁防衛研究所図書館が所蔵しているが、これらが所蔵されるに至る経緯について同図書館が作成した史料経歴票は、1945年8月14日に陸軍一般に保管書類焼却の指令が出されたが、参謀本部第2課(作戦課)では「大陸命」と「大陸指」の綴りのみは焼却しないで将校が都内に隠匿し、戦後、第1復員省(局)史実調査部(資料整理部)が編成されると、アメリカ軍の資料追及の監視を避けて部長宮崎周一元中将(元参謀本部第1部長)が自宅に保管した。そして46年12月に宮崎部長が退職すると、後任部長の服部卓四郎元大佐(元参謀本部第2課長)が保管を継承し、戦史の編纂に当たる為これを自宅に保管した。同大佐の『大東亜戦争全史』の著述にはこれが利用された、と説明している。
海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
旧横浜ゴム平塚製造所記念館
明治38年、軍用火薬製造のため、日本海軍と英国の3企業(アームストロング社、チルウォース社、ノーベル社)の合弁で日本火薬製造株式会社(明治40年に日本爆発物製造株式会社と改称)が設立され、本社はロンドン、支店・工場は平塚に置かれた。
工場は明治40年頃に完成したが、この洋館は、英国人支配人の執務室または住居として同時期に建設されたものとも、同44年に焼失し翌年再建されたものとも言われる。
大正8年、会社が日本海軍に買収され海軍火薬廠として発足すると、この洋館は横須賀水交社(海軍将校の社交クラブ)の平塚集会所となり、昭和20年の終戦まで続いた。
戦後は、占領軍による接収を経て、昭和25年、横浜ゴム株式会社が敷地ごと払い下げを受け応接や会議に使用したが、平成16年に平塚市へ寄贈され、同22年に八幡山公園に移築公開された。
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内)
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内)
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)
略史
昭和 5年 海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年 平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年 海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年 特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年 相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年 終戦、廃廠
第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第10章 残酷な人体実験毒ガス実験
黒龍江省航路局自身も毒ガス弾の影響を受けたので、被害者の治療、被害者の家族の世話を見るかたわら、問題の所在を明確にすることにも怠りなく取り組んだ。確実な証拠をつかみ、毒ガス弾の製造者にしかるべき責任を取らせるためである。船員出身の安全監査室副主任、宋偉華さんは、この事件についてより詳しい人である。彼は事件当時、水夫長として紅旗09号に乗り組み、他の船員同様、中毒を被った。視力が落ち、以来メガネの世話になるようになった。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
●『三光』 中国帰還者連絡会編
核時代39年(1984年)5月初版発行
●『三光』 中国帰還者連絡会編
核時代39年(1984年)5月初版発行
細菌戦ー731部隊の蛮行
田村良雄(たむらよそお)防疫診療助手 兵長
(略歴〉
1939年5月 元関東軍防疫給水部本部(731部隊)に入隊
1943年3月 退職
1944年3月 元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年8月 元関東軍125師団軍医部兵長
1952年6月 逮捕さる。河北省永年県において
本籍地=千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢=34歳
須藤良雄は特別班員によって真っ裸にされ、解剖台にかつぎ上げられているところでした。4、5日前までは女の話をしてはキャーキャー騒ぎまわっていた須藤の面影はどこにもなく、骨と皮ばかりになった全身には紫色の斑点が無数にあり、苦しまぎれに引っかいた傷であろう胸一面の引き裂き傷からは血がにじみ出ていました。うつろに開かれた眼には涙が流れ、口をダラリと開けてハーハー苦しそうな息を吐き、そのたびごとにピクピク腹が波打っていました。
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
(2021年2月4日)
在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)
藤井治夫著
第2篇 自衛隊の機密
第2章 日米共同作戦
3 空の共同作戦
制服独走の危険
松前・バーンズ協定にいう日米「共通の運用手順」とは、右のような戦略次元のものではなく、戦術に属するものであろう。戦策または戦則がこれにあたる。「今の防空作戦は、米空軍はもとよりNATO諸国の態勢をみても分るごとく、すべてが『戦策』によって行なわれる仕組みになっている。・・・航空自衛隊・航空総隊の防空作戦に必要な『戦策』は米空軍で作ったものを受け入れ、これを防衛庁長官の行動命令に基づく規制にしたがって設定されている」(国防会議文書17~8ページ)。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
5 生物・化学戦における被害想定
対抗部隊を例にとっても、CBRの最初の使用は国防省で統制し、一度使用された後は、CBR戦の統制は軍に委任されるよう定められている。
有機化学剤は、無防護人員に対し、即時効果を収めうるため戦術的用法に多く、また、生物剤は、攻撃時機と効果発現の間の遅延の為、戦略目標に多く使用されるように従来考えられてきたが、妥当な遅延効果は、戦術行動においても、作戦と吻合し得る場合、利用できることはいうまでもない。」
しかし、自衛隊の作戦計画はどの場合でもそうであるが、防衛を唯一とし、国外侵略を行なわないという自衛隊の建前から考えるならば、前にも見て来たように、生物・化学戦争を準備し、陸上自衛隊が総化学部隊となりつつある現状を見る時、この作戦によって甚大な被害を被るであろう国民のBC兵器からの防護措置が全くないということを指摘しなければならない。
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第一章少年と家族と明治の遺産
Ⅳ
1918年から21年初頭に及ぶ御学問所後半の3年間の時期に、規律の維持は軍の緊急の課題になった。また時代の推移とともに軍人に対する社会の評価も変化した。第1次大戦は、国外ではボリシェビキ革命、国内では「米騒動」をもたらし、陸軍にその性格の再検討を迫った。米騒動は1918年夏に日本中をおおい、その鎮定のため5万7000人以上の兵力が動員された。この抵抗運動に続く3年余りの間、労働運動、小作争議、男子普選運動の高揚にともなって不穏な情勢が広がった。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
※私が考える、今の異常気象の要因は
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
●核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地球を破壊する核爆発・核実験
核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
歴史
・2021年9月23日、チリが批准した。
・2021年10月14日、ノルウェーが第1回締約国会議へのオブザーバー出席を表明。
・2021年11月26日、ドイツが第1回締約国会議へのオブザーバー出席を表明。
・2021年12月10日、モンゴルが加入(直接批准。署名手続き省略)した。
・2021年12月15日、ギニアビサウが批准した。
・2021年12月24日、ペルーが批准した。
・2022年3月23日、コートジボワールが批准した。
・2022年5月17日、コンゴ共和国が批准した。
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核融合もすべきではない!!
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。
・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。
水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した。
JCOの臨界事故
福島第1原発事故
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
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