「戦争の加害展」プレ企画
6月18日(土)19時15分〜21時15分
後田多敦さん公開学習会
「沖縄『本土復帰』50年にあたって」
◉オンラインで開催申込→https://peatix.com/event/3207920 (参加費500円)
講師;後田多敦さん(しいただ・あつし、神奈川大学教授)今年5月で「本土復帰」50年を迎える沖縄。「復帰」前と「復帰」後の、本土と沖縄の関係をどうとらえるか。
731部隊の真実
東京ブラックホールー戦後0年
Нет войне!!Стоп Война!!
I want Japan, which has Article 9 of the Constitution, to move more positively toward a ceasefire !!
Я хочу, чтобы Япония, у которой есть статья 9 Конституции, более позитивно двигалась к прекращению огня !!
ソニアの日記
コタバル 伝えられなかった戦争(2011)
セピア色の証言ー張作霖爆殺(86)
開戦ー前編ー
推薦問題に「歴史戦」とやらの余地はない
●南京大虐殺の真相
● 南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
●マギーフィルム(字幕付き)
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
浅川地下壕を歩く(2021年2月7日)
2021 8 15 敗戦の日
日航機墜落事故の原因を究明せよ!!
【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート11月18日(木)
・731部隊の事初めて知ることが出来た。教科書に載っていない事、たくさん勉強できました。満洲での生物実験の証言や映像を見ることが出来たのは貴重でした。
(40代、市内)
11月18日(木)
・731部隊の事初めて知ることが出来た。教科書に載っていない事、たくさん勉強できました。満洲での生物実験の証言や映像を見ることが出来たのは貴重でした。
(40代、市内)
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回
731部隊と人権ー裁判から考える
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
隠された毒ガス兵器
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
実験医学雑報19巻 第7号(1935年)
宮川米次
実戦と科学戦とを聊か比較してみましょう。
日本海の大海戦に際して東郷元帥が敵前に於て、左一ぱい舵を引いて、大転回を為し、敵の意表に出でて、未曽有の大勝を博したのも、一種の奇襲と見なして差し支えない。一軍を率いるものの最も苦心とする所は正攻を為すこともさることながら、奇襲を如何に上手にやるかにある。
それに頭脳の勝れた幕僚が必要である。乃木将軍の北堡塁の隧道爆発の計画を作り、これを断行せられた将軍にも敬服するが、特にこの大海戦に際して、右舵一ぱいか、左舵一ぱいかの計画をたてた加藤友三郎参謀長以下の幕僚の作った作戦には吾等軍人としては敬意を表せざるを得ない。
世には稍々ともすると、東郷元帥の偉勲に覆われて、この幕僚の苦心の結晶たる大作戦計画に大なる関心を払わない傾向がないでもない。右すべきか左すべきかに当たって左一ぱいの断を下した東郷元帥の偉さ、これをその所まで持って行った幕僚の違算ない計画とは共に吾等にはとって亀鑑とすべきものだと将軍は三嘆せられた。流石は参謀としても極めて鳴らしたと言われるだけのことはあるなと、傾聴致したのでありました。
誠に実戦に於ける勝利は名将とこれに伴う幕僚がなければならないのは申すまでもありませんが、これを実地について説明して頂くと今更の感に打たれるので、時の移るのを忘れたものでありました。
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
戦時下 大牟田「爆発赤痢」事件、隠された企業犯罪・国家犯罪
北宏一郎
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第6被告による細菌戦の隠蔽及び細菌戦被害賠償立法の不作為
4 1980年代(第3期)の被告の隠蔽行為
(3)昭和57(1982)年防衛庁防衛研究所の細菌戦記録の非公開扱い
戦後、旧軍関係の資料は、防衛庁防衛研究所戦史部に集められ、1950年代後半から一般に公開されていた。しかし、昭和57年12月、防衛庁防衛研究所は、昭和55(1980)年5月27日付けの「情報提供に関する改善措置について」(昭和55年9月18日防官総第4518号)と題する通達に基づき「戦史資料の一般公開に関する内規」を定めた。そして防衛庁は、同日付けで「公文書の公開審査実施計画」により審査の実施要領を細かく規定した。被告は、これによって防衛研究所戦史部に戦後集められた資料中の731部隊・細菌戦の資料を非公開にし、細菌戦の事実を隠蔽したのである。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
一月一九日
日本謀殺と書いたあけすけの題名には一驚するも 無知に近き支那人のみを祖国愛に立脚して 排日を企てる人が一人でもあれば実に恐るべき結果を生むことは言を待たないであろう。私は決して永遠に満州を日本の物にすることを希望するのではない。只之によって起こる幾多の事件の生み出されることを恐れる為にこんなことを書いたのではない。
実際自分の国にして恐れながら暮らす支那人を可愛そうでならない。巡察兵が通る時小さい支那の小供たちは此の満鉄の踏切さえ通らず、巡察兵の通り過ぎるのを待って逃げるように通る所を見る時いかにそれが国こそ違うとは言え 人類愛から言うならば涙なくは見られぬ情景である。私その署長に対して一言感謝―を (切りがないやめよう)
「ずっと父が嫌いだった」
知られていない 8月5日までの 広島 バージョン2
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅲ 細菌戦部隊の周辺
戦時中の東南アジアの様子(731部隊員増田知貞が撮影したフィルム)
日本軍政下香港(1997.7.27)
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
解説
証言「供述者」の背景ーある日本人戦犯を中心に
変化する収容者たちの意識
孫所長のいう、収容者たちの感情や考え方に変化を引き起こした「1つの要因」の中には、1951年、彼らをハルピンなど東北北部へ移動させた時のエピソードがある。1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、米軍が鴨緑江へ近づき、東北地方にも領空侵犯して爆弾を投下し始めるに及んで。収容者の安全を守るため、一時、収容者を北方へ移すことになった。この時、列車での移送中、何度か食事をしたが、まず収容者に腹いっぱい温かい食事をさせ、職員たちは、彼らが済んだあと、冷たくなった残り物を食べた。この頃は、食糧事情もよくないときであった。それが収容者たちにわかって波紋を投じ、彼らを痛く感動させたのである。
●毒ガス戦
第8章 戦後史の中の日本軍毒ガス兵器問題
4 毒ガス戦をめぐる歴史資料と国会論戦
隠蔽された毒ガス戦の事実
そしてまた、前述したように、敗戦直後に多くの重要な資料が湮滅されたが、その一方で様々な経緯で湮滅を免れ、後に防衛庁防衛研究所図書館に所蔵されるに至った毒ガス戦関係の資料がなかなか公開されなかったことも史実の解明が遅れる大きな要因になった。後述するように、毒ガス戦の実態解明が始まったきっかけは、歴史学者による米国国立公文書館での新資料の発掘や、米国議会図書館作成のマイクロフィルムに収録された日本軍資料の発見であって、国内の資料館などから資料を発掘したのではなかったのである。
そこで、次に陸軍の毒ガス戦関係の代表的な資料が確認されるまでに、どのような経緯と問題があったのかについて検討してみたい。
当時、この地域には平塚市~大野町にかけての広大な土地に海軍火薬廠(現在の横浜ゴム平塚製造所)があったほか、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場(現在の平塚競輪場周辺)、第二海軍航空廠補給部平塚補給工場(現在のJT平塚工場周辺)、日本国際航空工業(現在の日産車体本社工場・第一地区周辺)などの戦争遂行に不可欠な軍需工場が多く存在していた。
アメリカ軍はこれらを破壊すべく空襲の主要目標都市として平塚をリストアップしていた。平塚空襲とは一般的に1945年7月16日から17日にかけて行われた攻撃をさす場合が多いが、同年2月16~17日、7月30日にも空襲があり死傷者が出ている。
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
百年の悲劇は、ここから始まった1
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第10章 残酷な人体実験毒ガス実験
イトガスの混合液体
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
核時代39年(1984年)5月初版発行
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
(2021年2月4日)
在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。
藤井治夫著
第2篇 自衛隊の機密
第2章 日米共同作戦
3 空の共同作戦
敵地攻撃作戦も分担
そればかりか自衛隊は、4次防軍拡計画によって多くの近代兵器を導入し、その体質を一新するF4EJファントム、RF4E偵察機、T2改対地対艦攻撃機、新輸送機を装備する航空自衛隊は、防空空軍から戦術空軍への転換を完了し、タテの役割に加えてヤリの役割をも果たすことになる。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
5 生物・化学戦における被害想定
生物・化学剤と兵器体系
これらの生物・化学剤の性状と効果の概要は、他の章と重複する面もあるが作戦想定の為の条件でもあるので引用すると、第5、6表の通りである。(以下の図表は『化学学校記事』第11号より)
これらの生物・化学剤は、
点源散布方式ー1弾着点から放出する方式の弾薬
複合点源散布方式ー多数弾着点から放出するが、1弾のみでは効果が上がらない方式
線源散布方式ー空中又は地上に線状に放出する方式の資材又は弾薬
の3種類の3方式に分けられるが、この線源散布方式は、前に述べた瀬戸内海沿岸における公害調査を名目として自衛隊が行なったエア・トレーサーの方式である。
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第一章少年と家族と明治の遺産
Ⅳ
御学問行所の教育課程は、教官が主に日露戦争の経験に基づいて教育を行う陸海軍の大学校に範をとっていた。すべての士官にとって、また将来の最高指揮官にはとりわけ、戦略より戦術を重視することがつねに求められ、軍事の要諦は戦闘に専念し、戦闘に勝つことであると強調された。戦争を「国政の一要素」として理解すること、つまり戦争を行うかどうかの決定や戦争の究極目的を達成するための部隊の動員・配置といった側面は相対的に軽視された。海軍の教官たちは、戦争での海軍の目的は、海上遭遇戦の完璧な模範とされた日本海海戦のように、1回の決定的な海戦に強力な大艦隊を投入して勝利することだという考えを植えつけた。陸軍の教官は、歩兵が陸軍の中核であり、戦闘の勝敗は火力より白兵戦で決まると教えた。砲兵や騎兵(近年では戦車や飛行機)は、歩兵の銃剣突撃を支援するために存在し、使用されるものにすぎなかった。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地球を破壊する核爆発・核実験
パキスタン
詳細は「パキスタンの核実験 (1998年)」を参照
1998年5月28日・30日 チャガイで初の原爆実験。5月30日の原爆実験はプルトニウム型である事が判明しており、北朝鮮の代理核実験である可能性が高い。
アインシュタイン「科学者たちの罪と勇気」
メアリーが伝えるヒロシマ
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
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