2009年2月27日金曜日

1938年 南京 2月27日とラーベのその後

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
 帰国後のラーベ(エルヴィン・ヴィッケルト編)
尋問は厳しいものではなかった。ゲシュタポはラーベを、彼自身が常日頃強調してように「百パーセント、ドイツの政策に従順」であり、面倒を起こす人間ではないと見てとったのだろう。正しかろうと、間違っていようと、祖国は祖国ーそれがラーベのモットーだった。きわめて疑問の多いこの原則に従って、ラーベはゲシュタポの言うとおり沈黙した。だが戦後、かつてゲシュタポににちょっとつきまとわれただけで、まるでレジスタンス運動の闘士だったような顔をしたがる人間が多かった時代にも、ラーベはこの時の一件を言い立てなかった。・・・・・・・・・・・・・・・・

 ジーメンスに電話してもラーベを連絡が取れなかったため、私は彼の強制収容所行きを信じていた。実際には、彼は社から派遣されてアフガニスタンに赴任しており、まもなくベルリンに戻ったのだが。その後戦争が終わるまでジーメンスで働いたが、もはや責任ある仕事は与えられなかった。ラーベは自分の会社について悪口や批判めいた言葉を決して吐かなかったが、ジーメンスの扱いは理解に苦しむものだった。・・・・・・・

 数十年にわたってラーベは日記を書き続けた。彼はそれに情熱を傾けていた。だが、ゲシュタポに日記を押収されて以来、どうやら日記を書く意欲を失ってしまったらしい。また、今はリスクが大きすぎるという考えもあったかもしれない。・・・・・

 戦後の日記
 ソ連軍がジーメンス・シュタットに進軍してきた1945年4月24日、ラーベは再び日記をつけ始めた。
 ヒトラーや他の指導的立場にあったナチ党員についてはほとんど記されていない。意識から抹殺したのである。ラーベにとって彼らはもはや何の興味もない存在だった。
 ラーベはなかなか非ナチ化(旧ナチ党員を審査し、償いをさせたうえで復権させること)を許されなかった。それは次の2点による。まず、1938年の帰国後、「ナチ党の正体」を見届けた時点ですぐに脱退しなかったため。もう一点は、短期間と言えども南京で党支部長代理を務めたからである。
 第二審でやっと非ナチ化が許され、再びジーメンスに雇われたが、またしても責任あるポストではなかった。
 ベルリンのヴィルマースドルフに住んでいたラーベ夫妻は、1943年、空襲で焼け出されてからは、ジーメンス・シュタットの娘婿の家に移った。その一室が彼の最後の住まいとなった。
 2人は飢えに苦しんだ。ソビエト軍のトラックから落ちたジャガイモを2個拾ったことは、日記に書きとめておくほど価値あることだった。妻が秋に拾っておいたどんぐりの粉で作ったスープも食べた。いよいよ蓄えがなくなったときは、イラクサも食べた。ラーベは、サラダ菜のようにおいしかったと記している。
 だが、ラーベは嘆かなかった。他の人たちも同じ状況か、あるいはもっとひどいのではないかと思ったからである。
 1947年、65歳になった彼は退職したが、年金では暮らせず、ジーメンスで臨時の仕事を続けた。
 この年、ラーベは「ひどく疲れた」と書いている。「南京では何十万の人々の生き仏と言われたが、ここではのけ者、落ちこぼれ打。おかげでホームシックも治ってしまった」
 彼は人生をあきらめた。
 その頃、中国の軍事顧問団が彼の居場所を探し出し、食べ物を持ってきた。蒋介石夫人は秘書を通じてラーベに伝えてきた。南京での恩に報いることができれば嬉しい、と。ラーベは中国に移住するように勧められ、住居も年金も約束された。ただし、東京裁判に検察側証人として出廷するのが条件だった。だが、ラーベは断った。なぜか。
「私は彼らが死刑になるのを見たくはない・・・・それは償いであり、ふさわしい刑罰には違いない。だが、裁きはその国民自らによって下されるべきと思うのだ」
 暮らしに困っているとのうわさを聞いたかつての国際委員会の友人、ミルズの妻がラーベの住所を調べて、アメリカ人や中国人たちから募金をし、救援物資を送った。ラーベはあいかわらず貧しかったが、もはや飢えることはなかった。

 1950年1月5日、昼ごろ、彼は会社で脳卒中の発作を起こし、その後息を引き取った。埋葬には妻や子どもたちの他、数人の友人が参列しただけだった。
    ※以上で一応「南京の真実」からの引用は終了です。

 
 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月27日 日曜日
 今朝は南門キリスト教会で初めての礼拝が行われた。60人近い人が出席。聖パウロ聖堂で40人近い人が出席して2回目の礼拝。聖パウロ聖堂には1人の日本兵のクリスチャンが出席していた。家々を訪問する女性奉仕者がどの地区にもいればよいのだが。・・・・・・・・


 神学院の舎監をしている李さんに、金陵女子学院に転居するよう要請したが、しかし、彼女は現在地を離れることができない。というのも、そこではすぐに仕事が持ち上がるからだ。
 3号でミルズ氏の主宰により礼拝が行われた。主題は「よりよい世界への確信」だった。
 私たちの仲間では病人が続出した。ここではメリーと呉さんが寝込んでいるし、ブランチは入院中、王さんは体調がすぐれない。
 春の天気が続いている。現在、兵士の交替が行われているそうだ。その結果、事態が改善されることになるのだろうか。
 
「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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