2009年2月28日土曜日

1938年 南京 その後のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月28日 月曜日
 うららかな天気が続いている。避難民たちは、日なたにぶらぶらと出て行くのが大好きだ。いたるところで「芝地」が濃くなりつつある。庭師は、折れたり踏みつけられたりした潅木を引き抜き、そのあとによりましな木を植えている。文科棟の屋根の修理が行われている。
 唐老板は、避難民の居住に伴う被害を見積もることに昼間の時間を費やした。その額は、6棟分で概算6800ドルにのぼる。木造部と床板はすべて修理が必要だ。ほとんどすべての壁面の仕上げ直しが必要である。窓の締め具のような金具類は、それがうまく機能しない場合には乱暴に扱われていた。
 ニューヨークに送る報告書の作成に昼間の時間の大部分を費やし、5時にそれを大使館に届けた。日本軍による被害の報告も作成した。ほかの人たちの被害が、私たちの被害と同程度に軽微であればよいのだが。
 午前中メリーは、ひどい風邪としつこい咳で病院へ行った。ブランチ呉が18日間の入院から帰ってきた。彼女は理科棟の実験室で生活すると言い張っており、私としては、それに反対したくてもどうすることもできない。
 午後1時30分、キャンパスの状況視察に将校1名と兵士2名が来訪した。彼らは避難民の人数についても尋ねた。私はいまだに帰ってこない夫や息子たちのことについて彼らと話し合うよい機会を得た。将校が言うには、模範刑務所には1000人以上の捕虜がいるが、彼らは兵士と将校であるとのこと。彼の情報によれば、民間人はいないというのだ。
 午後3時ごろ4人の兵士が見学にやってきた。彼らは友好的で、図書館に深い関心を示した。一番陽気な兵士は手に地図を持っていた。どうやら、南京見物をするつもりらしかった。
 兵士と民間人の死体の埋葬を担当していた紅卍字会の作業員の1人の情報によれば、死体は、それらが投棄された長江から運ばれてきたものだそうだ。彼は、死体数についての情報を提供することを約束してくれた。


3月15日 火曜日
 今日は昨日よりも暖かく、日差しが明るい。飛行機が頻繁に飛んで行く。城内に新しい部隊が入っているそうだが、だからと言って、私たちの平和が増進されるわけではない。・・・・・

 悲劇的事件の1つー18回ないし19回も強姦された女性(48歳)と、2回強姦された彼女の母親(76歳)-を写真に収めるため、11時30分、J,M(ジョン・マギーのこと。検閲される可能性を恐れてイニシャルだけにしたと考えられる)と一緒に城南へ行った。この話は、冷酷非情な心をもってしてもとうてい信じられない。南の各門に通じる街路のいくつかは、いまでもほとんど人通りがなく、人が通っている街路でも女性はお年寄り以外はほとんど見かけない。莫愁路は、全体が活気に溢れた市場だ。商売がさかんに行われている。誰かが言っていたが、10人のうち8人までが商売に携わっているそうだ。それ以外にはすることがないからだという。街路に大勢の人々が集まるのは、1つには、大勢集まっているほうが安心感がもてるからだと思う。女性にとっての危険は、確かに少なくなっているが、しかし、略奪は依然として続いている。残念なことに、まとまったお金のある商人の家に中国人が頻繁に兵士を連れて行くのだ。銃や銃剣を持っているのだから、お金を渡さないのは無分別ということになる。
 避難民の再登録がついさっき行われたところだ。現在、避難民は3310人だ。14人の避難民が新たに収容された。去年の晩秋の頃農村地域へ避難した女性たちだ。お金は使い果たしてしまったし、匪賊は横行しているし、と言うわけで彼女たちは、復路の旅と南京(での生活)に伴う危険にあえて向き合うことにしたのだ。おそらく、彼女たちは、安全区のことや難民収容所のことを聞いたのだろう。
 今朝城南で大勢の兵士ー騎兵や歩兵ーを見かけた。彼らが我が物顔に通りを闊歩するのを見ると、私は、心の隅々まで本当に反発を覚える。私たちが通り過ぎた大通りの商店の大部分は全焼するか、徹底的な略奪をこうむるか、そうでなければ閉鎖されていた。日本人がチョコレート店を再開したものの、商売本来の趣は見られなかった。
 今日は2つのグループの兵士が来訪した。
 このページを書き終える頃、北西方向から句容へ帰還する爆撃機数機の爆音が聞こえる。澄み渡った月夜で、飛行の妨げとなるものは何もない。

「この事実を・・・・・」(章開沅/編  加藤実/訳)より
5月13日 金曜日
 午前中ーというより、その残った時間をー費やして、この秋の学期の初級中学と高級中学のカリキュラムを仕上げようとしている。
 典型的な事例が2つ、今日午前中オフィスにやってきたー江老太と娘さんが来訪した。その物語ー53歳の息子がいて、何年も肺結核を患っている。その息子に、妻と息子がいる。もう1人33歳の息子がいて、稲の脱穀場で機械を動かして、月に40ドル稼いでいた。この息子に、妻と3歳から10歳の子ども4人とがいる。9人全部が、この33歳の息子に頼っていた。家族のうち8人が去年の秋、長江の北へ避難し持ってたものをすっかり使い果たした。33歳の息子が、日本兵に殺された。

 その後ある人が、劉老太の物語を私に聞かせにきたー50歳くらいの婦女で、三碑楼の近くに住んでいる。息子が3人と嫁が2人いる。4日前に、兵士が2人午後10時ごろやってきて、戸を押しても開かないので、無理やり窓から入り込んだら、劉老太の部屋だった。嫁を出せと要求し、彼女が拒否して憲兵を探しに行こうとしたので、顔を2ヶ所切りつけ、心臓を1ヶ所刺した。彼女はその傷で死んだ。
 この2つの悲劇は、今日私が聞いたものだ。ほとんど毎日私は、こういう心張り裂ける話を聞いている。誰だって心痛んで尋ねずにはいられない、「どれくらいこの恐ろしい状態が続くんだろう?どうやったら耐えられるんだろう?」
  
「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが

平和をつくる世界


戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月27日金曜日

1938年 南京 2月27日とラーベのその後

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
 帰国後のラーベ(エルヴィン・ヴィッケルト編)
尋問は厳しいものではなかった。ゲシュタポはラーベを、彼自身が常日頃強調してように「百パーセント、ドイツの政策に従順」であり、面倒を起こす人間ではないと見てとったのだろう。正しかろうと、間違っていようと、祖国は祖国ーそれがラーベのモットーだった。きわめて疑問の多いこの原則に従って、ラーベはゲシュタポの言うとおり沈黙した。だが戦後、かつてゲシュタポににちょっとつきまとわれただけで、まるでレジスタンス運動の闘士だったような顔をしたがる人間が多かった時代にも、ラーベはこの時の一件を言い立てなかった。・・・・・・・・・・・・・・・・

 ジーメンスに電話してもラーベを連絡が取れなかったため、私は彼の強制収容所行きを信じていた。実際には、彼は社から派遣されてアフガニスタンに赴任しており、まもなくベルリンに戻ったのだが。その後戦争が終わるまでジーメンスで働いたが、もはや責任ある仕事は与えられなかった。ラーベは自分の会社について悪口や批判めいた言葉を決して吐かなかったが、ジーメンスの扱いは理解に苦しむものだった。・・・・・・・

 数十年にわたってラーベは日記を書き続けた。彼はそれに情熱を傾けていた。だが、ゲシュタポに日記を押収されて以来、どうやら日記を書く意欲を失ってしまったらしい。また、今はリスクが大きすぎるという考えもあったかもしれない。・・・・・

 戦後の日記
 ソ連軍がジーメンス・シュタットに進軍してきた1945年4月24日、ラーベは再び日記をつけ始めた。
 ヒトラーや他の指導的立場にあったナチ党員についてはほとんど記されていない。意識から抹殺したのである。ラーベにとって彼らはもはや何の興味もない存在だった。
 ラーベはなかなか非ナチ化(旧ナチ党員を審査し、償いをさせたうえで復権させること)を許されなかった。それは次の2点による。まず、1938年の帰国後、「ナチ党の正体」を見届けた時点ですぐに脱退しなかったため。もう一点は、短期間と言えども南京で党支部長代理を務めたからである。
 第二審でやっと非ナチ化が許され、再びジーメンスに雇われたが、またしても責任あるポストではなかった。
 ベルリンのヴィルマースドルフに住んでいたラーベ夫妻は、1943年、空襲で焼け出されてからは、ジーメンス・シュタットの娘婿の家に移った。その一室が彼の最後の住まいとなった。
 2人は飢えに苦しんだ。ソビエト軍のトラックから落ちたジャガイモを2個拾ったことは、日記に書きとめておくほど価値あることだった。妻が秋に拾っておいたどんぐりの粉で作ったスープも食べた。いよいよ蓄えがなくなったときは、イラクサも食べた。ラーベは、サラダ菜のようにおいしかったと記している。
 だが、ラーベは嘆かなかった。他の人たちも同じ状況か、あるいはもっとひどいのではないかと思ったからである。
 1947年、65歳になった彼は退職したが、年金では暮らせず、ジーメンスで臨時の仕事を続けた。
 この年、ラーベは「ひどく疲れた」と書いている。「南京では何十万の人々の生き仏と言われたが、ここではのけ者、落ちこぼれ打。おかげでホームシックも治ってしまった」
 彼は人生をあきらめた。
 その頃、中国の軍事顧問団が彼の居場所を探し出し、食べ物を持ってきた。蒋介石夫人は秘書を通じてラーベに伝えてきた。南京での恩に報いることができれば嬉しい、と。ラーベは中国に移住するように勧められ、住居も年金も約束された。ただし、東京裁判に検察側証人として出廷するのが条件だった。だが、ラーベは断った。なぜか。
「私は彼らが死刑になるのを見たくはない・・・・それは償いであり、ふさわしい刑罰には違いない。だが、裁きはその国民自らによって下されるべきと思うのだ」
 暮らしに困っているとのうわさを聞いたかつての国際委員会の友人、ミルズの妻がラーベの住所を調べて、アメリカ人や中国人たちから募金をし、救援物資を送った。ラーベはあいかわらず貧しかったが、もはや飢えることはなかった。

 1950年1月5日、昼ごろ、彼は会社で脳卒中の発作を起こし、その後息を引き取った。埋葬には妻や子どもたちの他、数人の友人が参列しただけだった。
    ※以上で一応「南京の真実」からの引用は終了です。

 
 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月27日 日曜日
 今朝は南門キリスト教会で初めての礼拝が行われた。60人近い人が出席。聖パウロ聖堂で40人近い人が出席して2回目の礼拝。聖パウロ聖堂には1人の日本兵のクリスチャンが出席していた。家々を訪問する女性奉仕者がどの地区にもいればよいのだが。・・・・・・・・


 神学院の舎監をしている李さんに、金陵女子学院に転居するよう要請したが、しかし、彼女は現在地を離れることができない。というのも、そこではすぐに仕事が持ち上がるからだ。
 3号でミルズ氏の主宰により礼拝が行われた。主題は「よりよい世界への確信」だった。
 私たちの仲間では病人が続出した。ここではメリーと呉さんが寝込んでいるし、ブランチは入院中、王さんは体調がすぐれない。
 春の天気が続いている。現在、兵士の交替が行われているそうだ。その結果、事態が改善されることになるのだろうか。
 
「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月26日木曜日

1938年 南京 2月26日とラーベのその後

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
30年の中国滞在を終え、再び祖国へ(エルヴィン・ヴィッケルト編)
 1938年3月16日、ドーラとコンテ・ビアンカ・マーノ号で祖国へ向かった。香港では、先に行っていた汪がクワイ埠頭で出迎えてくれた。19歳の奥さんとその一族も一緒だった。香港に住んでいるのだ。ここでは3日間、並々ならぬお世話になった。香港のドイツクラブで、ドイツ人会の人たちが歓迎会を開いてくれた。その席で南京での体験を一部、講演した。その後、ファルケンハウゼン夫人をはじめほとんど全員が、船まで見送りに来てくれた。
 マニラとボンベイを経由して、イタリアの豪華大型客船での快適な船旅を終え、1938年4月12日、ジェノヴァに上陸。
 4月13日、ミュンヘンで、息子のオットーが入隊し、オーストリアに進軍したという話を聞いた。オットーとは7年間会っていない。そして4月15日、ベルリンに到着した。


 帰国後のラーベ
帰国前、ジョン・ラーベは中国の全新聞社と世界の主だった通信社を相手に、上海で記者会見を行った。その席でラーベは、アメリカ人宣教師や大学教師、医師などとの緊密な協力、南京の逼迫した食糧事情、人民の窮状などについて語ったが、日本兵による暴虐行為については口を閉ざした。上海の小さなドイツ語新聞「東アジア・ロイド」は、ラーベの日記を一部掲載したが、占領前の空襲に関するところだけで、読者が予想していた残虐行為については触れなかった。・・・・・


 1938年4月15日、ラーベは妻のドーラと共にベルリンに到着したが、ドイツのマスコミは報道を避けた。その後、勲功十字章のほか、中国国民政府から非常に高位の勲章である宝光嘉禾章を授けられた。2つの勲章を胸につけ、タキシードを着こんでかしこまっている写真がある。それを見ると、ハーケンクロイツの腕章を突きつけて日本兵を威嚇し、中国人女性を強姦から守ったラーベとは、まるで別人のように思える。

 ラーベは勲章を誇らしく思ったが、ドイツのマスコミはまたしても報道を許さなかった。その後ラーベは5月2日のジーメンス本社での講演を皮切りに幾度か講演し、同時にマギー牧師が撮影したフィルムを上映した。

 ラーベは講演の草稿を丹念に推敲し、南京での出来事を、生々しく、具体的に描写するよう心がけた。・・・・・・・・・

 ラーベは、予想される質問をあらかじめ見越して、予防線を張っている。例えば、はじめに次のように断っている。
 私は祖国ドイツで反日宣伝活動を企てるつもりはない。公開の場で中国に対する友好的な気運を盛り上げるような講演をするつもりもない。中国の窮状には心から同情を感じてはいるが、まず第一に自分はドイツ人であり、ドイツの政策の「大路線」を正しいと信じているだけでなく、「ナチ党員として百パーセント、これを支持している」と。


 ラーベの切なる願いは、アドルフ・ヒトラー総統に、南京占領の実態と中国人民の苦しみをじかに報告することだった。謁見が叶わないと知った時、ラーベは講演の草稿をヒトラー宛に書簡で送った。・・・・・


 自分の報告を読めば、ヒトラーはショックを受けるだろう。そして対中、対日政策をもう一度考え直すかもしれない・・・ラーベはこう考えたのかもしれない。「君やわれと等しき人」であるヒトラーは、中国人を見殺しにはしない、と。事実彼は日記にそう書いている。それほど素朴だったのだ。

 ラーベはヒトラーからの返事を待っていた。だが返事はこなかった。「それから、思いもかけないことが起きた。」と彼は日記に記している。「それ(ヒトラー宛の手紙を投函して)からほんの数日して、ゲシュタポに逮捕されたのだ。2人の警察官によって6冊の日記帳とフィルムともども車でプリンツ・アルブレヒト通りまで連行された」

 ラーベは何時間も尋問された。だが「丁重に放免され」、「今後、いかなる講演も、いかなる書籍の出版もしてはならないことになった。マギーが撮影したフィルムの上映も禁止された。日記の方は1938年10月に戻ってきたが、フィルムは警察に残されたままだった」



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月26日 土曜日
 うららかな春の天気が続いている。・・・・・・・
 ニューヨークあて無線電報のためのデータ収集に午前を費やした。建物の修繕費用の見積りをしてもらうことなどどうしてできようか。南京には請負業者はいないし、私たちの知っているただ一人の建築設計士である李さんは難民関係の仕事でとても忙しいし、彼に頼むに忍びないからだ。・・・・


 ワクチンの接種は今日も引き続き行われ、700人以上が並んでいる。メリーはひどい風邪をひき、熱を出して寝込んでいる。
 近所の少年3人が私と一緒にキャンパスの西の部分に行った。彼らが一緒に行ってくれて嬉しかったが、彼らのほうも、私に劣らず喜んでいた。お互いに身の安全を守ることになるからだ。いくつかの政治団体が多額の費用をかけてキャンパスの西側の小山に造った巨大な退避壕が目に入った。戦争とはなんと浪費的なものか。1個のヘルメット代が1人の2ヶ月分の食料費にあたり、数ヶ月使用するだけの1つの退避壕の築造費でかなりの規模の小学校が1つ作れるのだ。略奪をこうむった多数の見るも哀れな家や、すべての扉、窓、床板を略奪され、政治的目的で所有されていた何軒かの家を見かけた。そのうちのいくつかの家は、屋根を残して何もかもなくなっていた。この種類の略奪は、日本軍の先鞭にならって一般人が行ったものだ。近隣の人々はとても友好的だ。
 午後、私が外出する時に数人の日本人訪問客があった。どちらかと言えば友好的な新聞記者たちだ。
  

「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。

 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月25日水曜日

1938年 南京 2月25日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月25日
 フィッチとジーメンス中国本社に無線電信で私の到着を知らせた。それぞれアメリカ総領事館と、ドイツ総領事館に打電してもらった。明日の午後、フィッチはアメリカに発つという。その前に是非フィッチに会って南京から持ってきた郵便物を渡したいと思っている。


2月28日
 昨日の午後2時に上海に入港した。もうすっかり出航準備の整ったグナイゼナウのそばを通った時、私の名を呼ぶ声が聞こえたが、何しろ窓の数が多く、どこから聞こえてきたのかわからずじまいだった。フィッチもこの船に乗っていたので、結局郵便物を渡すことができなかった。3時15分過ぎに私が上陸した時には、グナイゼナウは出航しかかっていたのだ。
 税関桟橋を通った時、ドーラの姿が見えた。ドーラの方は遠くて私がわからなかったようだ。


 こうしていま、上海でゆっくりとくつろいでいると、なんだか「ベルリンへ凱旋した鼻高々のドイツ兵」のような気がしてくる。誰もが私を英雄のように扱う。こそばゆくてたまらない。外見からいっても内面的にも、英雄的なところなど何一つないのだから。
 ほめそやされるたびに、あの美しい詩が頭に浮かんでくるーハンブルグの若者が溺れた仲間を助けた。助けてもらった仲間の父親が夕方訪ねてきて礼を言った。「君は命の恩人だ」「命の恩人だって?よしてくれ」こう言って、若者はくるりと背を向けた。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月25日 金曜日
 暖かな天候が続いている。春の球根が顔を覗かせている。庭の棚囲いの中で「迎春花」が咲いている。収容所の新計画作りで午前を過ごした。遅々としてはかどらない仕事ぶりだ。というのも、職員の人数が限られているからだ。
 2時から乳呑児のワクチン接種が始まり、5時20分まで続いた。全部で1117名の接種が行われた。
ブレイディ医師が3人の助手を連れてきた。場所は、2つの南寄宿舎の間の日当たりのよい場所だ。全員に強制的にワクチンを接種することになるのだろうか。
 午後3時、病院の礼拝堂で行われた市内キリスト教徒奉仕者の集会に出席した。聖公会信徒としては男性3人と女性5人の福音伝道奉仕者が出席していた。・・・・・・・・・・・・・・


 ミルズさんは、以前よりも市街が静かなようだ、と言っている。莫愁路はいまや市場通りになりかけている。従来の商店街はまだ出現していない。多くの店がすっかり破壊されたので、商店街の復興には長い時日を要するだろう。
 今日の午後、集会に行く途中、安懐墓地のそばを通った。そこで私は、身元引受人のいない死体の埋葬に紅卍字会の作業員が今も追われている場面を目撃した。むしろにくるまれて壕の中に置かれた、と言うよりは引きずりこまれた死体だ。臭気がとてもひどいので、今では作業員はマスクを使用しなければならない。これらの死体の大部分は占領直後数日間のものだ。
 
 

「Imagine9」【合同出版】より


武器を使わせない世界


 核兵器を全面禁止することこそ必要です。世界のNGOは、「核兵器禁止条約」をつくることを提案しており、国連で交渉を始めることを呼びかけています。
 生物・化学兵器は、国際条約ですでに全面禁止されています。もちろん禁止しても、隠れて開発する国や人々が出てくる可能性はあります。その時には国際機関が査察を行い、科学技術を用いて調査し、法に従って解決すべきです。

 ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もちこませない」という「非核三原則」をもっています。
 原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみを誰にも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月24日火曜日

1938年 南京 2月24日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月24日(ビー号艦内にて)
 11時頃、江陰砲台を通り過ぎた。新聞で読んだほどにはやられていなかった。畑で働いている中国人の姿が見える。軍艦の残骸を通り過ぎた。全部で3隻。日本の砲艦、中国の砲艦、それから中国の巡洋艦海鷹だ。
 
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月24日 木曜日
 晴朗な日々が続いている。避難民たちは毎朝、衣類の洗濯や洗髪に忙しい。水がたっぷりあるのは何という天恵だろう。
 今朝4人の少女が老女に変装して農村からやってきた。彼女たちは、薪炭の山に何週間も身を隠していた。器量よしでたくましい少女たちだが、ひどく悲しそうだ。彼女たちは昼過ぎまでに顔を洗ってきれいになり、午後の集会に出かけた。集会の席に座っているとき、彼女たちはどんな思いを抱いていたのだろうか。
 11時にジョン・マギー、フォースター氏、それにいたって規則正しく説教にやってくる4人の牧師が相談と昼食のためにやってきた。・・・・・・・・・・・

 夜、2月末までに要する避難民対策費一覧と3月の予算を作成した。
 ほとんど毎日、マギー氏かフォースター氏が放送を伝えてくれる。私たちの地区にはまだ電気がきていないので、ラジオが使えないのだ。
 父親、母親、母方の祖母、それに乳呑み児の妹をみな日本兵に殺されたという少年が午後私に会いにきた。少年は彼ら全員が殺されるところを目撃したそうだ。彼と盲目の女性は、金陵難民収容所のことを聞いてここへやってきたのだ。父親は人力車夫だった。
 今朝もまた女性の難民が、12月13日に拉致された彼女の夫の解放に力を貸してもらえないかと、金陵大学からやってきた。彼女は農村出身の貧しい女性で、扶養しなければならない子ども3人を抱えていた。彼女の兄も同じ日に刺し殺されたのだと思う。彼女は、夫が下関にいると思っている。

 

「Imagine9」【合同出版】より


武器を使わせない世界


世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。
 たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。
 また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。

 広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。
 このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。
 いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月23日月曜日

1938年 南京 2月23日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月23日
 アメリカ人の仲間が、そろって別れを告げにきた。シュペアリング、韓、それから発電所の中国人が幾人か、汪氏と私を下関まで送ってきてくれた。9時きっかりにジェフリーとウィリアムズの両人がやってきた。2人の力添えで、イギリス砲艦ビーのランチにすんなり乗せてもらえた。2マイルほど上流に停泊しているビー号で、アームストロング海軍少佐とブレイン=ニコルズ一等航海士が感じよく迎えてくれた。ランチを操縦してくれたのは若い将校ピアソン海軍中尉だ。4人目の乗り組み士官はジョイント陸軍軍医中佐。お医者さんが一緒とは願ってもない。風が抜け切っていないので、今ひとつ気分がすぐれないのだ。
 出発直前に、ベイツが、記者会見用のレジュメを持ってきてくれた。どこまでしゃべっていいものか、よく考えなければ。委員会が窮地に立たされるようなことだけは避けたい。

 ビー号の艦内にて
 ビー号は、朝9時に錨を上げた。午後には鎮江を通る。揚子江の夜間航行は禁止されているので、口岸で停泊する。船旅は快適だ。船室、食事、サービス、どれも申し分ない。どうやら中国人の使用人の間で、汪のことがうわさになっているらしい。使用人でないのは一目瞭然だからだ。しかし、我々は沈黙を守った。ビー号の将校たちは、コンパドーレ(中国人実業家)ではないかと思っている。体の具合は少し良くなってきた。
     
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月23日 水曜日
 今朝ラーベ氏が出発した。彼は使用人1人を同伴した。私の知る限りでは、この男が、南京から出ることを許された3人目の中国人だ。
 午後、ある母親が3人の女の子を連れてきて、彼女たちを収容してほしいと懇願した。1人は、12月初旬に農村地域へ行った彼女の娘で、他の2人は農村からきた女の子だった。彼女たちは、農村地域では恐ろしい思いをした、と言っている。女の子は、地面に掘った穴に覆いをかけて隠れなければならなかった。兵士たちは地面を踏んで、地中に空洞があるかどうかを確かめることによって、こうした隠れ場所を見つけようとした。彼女たちの話では、12月12日以来毎日、ほとんどの時間をこうした穴で過ごしたそうだ。
 午後5時から6時までフランシス陳と一緒に漢口路・虎踞関路・広東路(正しくは広州路)経由でキャンパスを巡回した。私たちは、夜を過ごすために安全区へ戻って行く何人かの高齢の男性に出会った。彼らの話では、昼間は金銭の窃盗が続いているそうだ。同じ運命に私たちが遭わないように、陳さんのお金を私のポケットに入れた。虎踞関路では、夜間そこで生活している4人の老人を見かけただけだった。たいていの家は周りには今も板が打ちつけられていた。実際、そこは寂れて消沈した感じだ。若い人はただの1人も見かけないし、正常な活動は何も行われていない。
 朝9時、金陵大学と金陵女子学院の間の街路から2人の少女が走ってきて言うには、兵士が彼女たちの家に入り込んでいるので、逃げてきた、というのだ。ルイスがたまたま車でキャンパスに来ていたので、2人でその家へ行った。兵士たちはすでに立ち去っていたが、彼らの1人は貧しい男から7ドルを奪って立ち去った。
 飛行機が私たちの頭上をあい変らず北西へ飛んで行く。
 キャンパスでは引き続き今も植樹と掃除が行われている。裏手の小山に大きな壕を掘ったが、図書館の北側の小山にも今から壕を掘るところだ。
 程先生、フランシス陳、それに私とで、建物の被害額のほか金陵女子文理学院が必要とする避難民対策費を見積もるつもりだ。被害額は優に2000ドルを超えるものと思う。多くの点で私たちの収容所は運が良かった。ここには主に女性と子どもしか収容していなかったし、また、各自がそれぞれの部屋で炊事をしなくてもよかったのだから。

 「Imagine9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと


約束した世界



地球規模では、世界各国では軍隊を減らす一方、国連に「緊急平和部隊」をつくり、紛争や人権侵害を防止しようという提案がなされています。また、イタリア憲法11条は、日本国憲法9条と同様に「戦争の放棄」をうたっていますが、そこには「国どうしの平和的関係のためには、国の主権が制限される場合もある」と定められています。つまり、国際的なルールや制度によって平和を保つ事が重要であり、「自国を守るため」といって勝手な行動をとることは許されないということです。
 グローバル化の時代、人々は国境を越えて行き来し、経済や社会はつながりあっています。安全を自国の軍事力で守ろうとすることよりも、国どうしで約束をつくり、国際的に平和のシステムをつくることの方が、現実的に必要とされてきているのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月22日日曜日

1938年 南京 2月22日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月22日
羅福祥氏は空軍将校だ。本名を汪漢萬といい、軍官道徳修養教会の汪上校とは兄弟だ。汪氏は韓の力添えで上海行きの旅券を手に入れることができたので、私の使用人だといってビー号に乗せるつもりだ。南京陥落以来、わが家に隠れていたが、これでやっと安泰だ。日本機を何機も撃ち落したが、南京が日本軍に占領された時は体の具合を悪くしていた。
 もはや揚子江を渡ることができず、逃げられなかった。支流を泳いでいくとき、友人を一人失い、やっとのことで城壁をよじ登って安全区に入ることができたのだ。
 午前中、私は荷造りにかかりきりだった。「老百姓」たちはあれからまたいくども板を運んできてくれた。きっとどこからかくすねてきたのだろう。建設現場から直接持ってきたのもあり、セメントがついていた。日本大使館から、万通号で荷物を上海へ送る許可がでた。あとは積み込むだけだ。これは韓やアメリカ人の友人たちに頼まなければならない。万通号が南京につく頃には、私がもういないからだ。

 13時
 ローゼン宅で昼食、ミルズ、ベイツ、ヴォートリン、マギー、フォースター、ヒュルター、シャルフェンベルグが同席。


 20時
 ローゼンと水入らずの夕食。ユダヤ人の血を引いているための悩みをいろいろ打ち明けられた。 
 夜10時のラジオニュース。ドイツは満州国を承認した。したがって、トラウトマン大使は国民政府に対して難しい立場に立たされることになった。ラジオではまだそれについて何も言っていなかったが、大使が辞任するのではないかと心配だ。(注・事実トラウトマンはその後しばらくして解任された)。ここにいて本国の事情をうかがい知るのはとても難しい。だが、正しかろうが、間違っていようが、祖国は祖国だ!
     
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月22日 火曜日
 ワシントンの誕生日だが、今日はアメリカ大使館でのレセプションはなかった。
 午前いっぱいと午後の数時間をかけて、上海の教授たちに送る図書を捜し、それらを梱包して大使館へ持って行った。明日イギリス砲艦クリケットが出航する。まさしく倦むことなく、見たところ愚痴を言うこともなく、大使館は、私たちのために幾包みもの図書や食料や郵便物を送ってくれる。事実、ふねが出ると聞くたびに避難民たちはたくさんの手紙を持ってくる。いつになったら中国人が上海へ行けるようになるのか私たちにはわからない。大勢の人が南京からの脱出を切望している。脱出したのはわずか2名だけで、それも大変な額の費用を使ってーある金持ちは1500ドルを支払ってー脱出したと聞いている。
 ローゼン博士宅でのラーベ氏の送別昼食会に出席した。再び正常の生活に戻りつつあるのは何と嬉しいことだろう。ローゼン博士はまさしく忌憚なく日本の役人をー武官であれ文官であれー非難しているが、にもかかわらず、全くおおっぴらに日本製商品を買っている。日本製商品の不買が私の数少ない抗議方法の一つであり、今後も私は買わないだろう。市内にはたくさんの日本人商店が開店しているが、しかし、それらは中国人のための店ではなく、日本人だけのための店だそうだ。
 

 「Imagine9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと


約束した世界



「相手が攻めてくるから、準備しなければならない」
 軍隊は、いつもそう言って大きくなってきました。でも、こちらが準備することで、相手はもっと不安に感じ、さらに軍備を増やしていきます。その結果、安全になるどころか、互いに危険がどんどん増えていきます。
 このような競争や衝突を避けるため、国々は「お互いに攻めない」という約束を結ぶ事ができます。
とくに、地域の中でこのような取り決めを行っているところは多く、ヨーロッパには「欧州安全保障・協力機構(OSCE)」が、東南アジアには「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が、アフリカには「アフリカ聯合(AU)」が地域の平和のための枠組みとして存在します。

 日本を取り囲む東北アジア地域には、このような枠組みはありません。朝鮮半島は南と北に分断されており、中国と台湾は軍事的ににらみ合っています。日本では多くの人が「北朝鮮が怖い」と感じていますが、逆に朝鮮半島や中国の人たちの間では「日本の軍事化が怖い」という感情が高まっています。
 NGOは、「東北アジア地域に平和メカニズムをつくろう」と提案しています。
 その一つのアイデアは、東北アジアに「非核地帯」をつくることです。
日本や韓国、北朝鮮は核を持たないことを誓い、一方でアメリカ、中国、ロシアなどの核保有国はこれらの国に「核による攻撃や脅しをしない」という法的義務を負うような条約をつくるのです。すでにこのような非核地帯条約は南半球のほとんどにできており、最近では中央アジアにもできました。
 また、日本とロシアの間で争いになっている「北方領土」周辺に平和地帯をつくるとか、中国と台湾それぞれが軍備を減らし平和交流を増やすといった提案がなされています。 



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月21日土曜日

1938年 南京 2月21日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月21日
 私に音楽の才能がないのがかえすがえすも残念だ!マッカラムが私に敬意を表して、「難民合唱曲」を作曲してくれた。歌詞もついている。「朝ご飯に豆が欲しい、昼ご飯にも豆が欲しい・・・・」すんでのところで日本兵に刺し殺されるところだったこの年取った牧師に、こんなユーモアのセンスがあるとは思いもよらなかった。

 16時
 本部で盛大な送別会。中国語と英語で書かれた公式の感謝状を受け取った。この写しはジーメンス中国本社とローゼンにも送られた。いくつかのスピーチに答えた。身に余る称賛の言葉をもらった。 
 アメリカ人も中国人も私のスピーチに感激してくれた。中国人は、中国語に訳させるので是非原稿が欲しいと言ってきた。それからサインも。大きな白い紙を何枚か持ってきて何か書いてほしいとと言う。気のきいた文句が思い浮かばないので弱ってしまったが、青年時代のサイン帳にあった詩節の記憶を頼りにどうにかひねり出した。

 19時
 アメリカ人の友人たちと気の置けない夕食会。続いて夜8時にドイツ、アメリカ、日本大使館員を招いてのパーティー。イギリス大使館のジェフリー氏は来られなかった。夜8時以降は日本の衛兵が外出させないからだ。これについてはもう長いこと抗議してきたが、控えめな人なので断固とした処置をとることができないのだ。ドイツ大使館からはローゼン、シェルフェンベルグ、ヒュルター、アメリカ大使館からはアリソン、エスピー、マクファディエンの各氏が参加した。日本人の手前、スピーチは幾分慎重にと気をつけた。
  
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月21日 月曜日
 聖書クラスの編成が今日から始まった。10時30分から下級中等学校と上級中等学校の女生徒は大礼拝堂で、6年生は南音楽教室で、そして、5年生は理科棟で授業を始めた。・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 今日は人力車に乗った。12月12日以来見かけた人力車としては4台目だ。100台の人力車が登録され、街頭に出ることを許可されたという話も聞いた。雨後の筍のように出現した店は、寧海路、漢口路、上海路からほとんど完全に消えてしまった。それらは、今度は安全区の南側の通りに出現しつつある。ちなみに、「安全区」はもはや存在せず、南京国際救済委員会に組み込まれた。(1)
 午後4時、寧海路五号で行われた、ジョン・ラーベ氏の送別会に出席した。私は第一部に、メリーと程先生は第二部に出席した。あいにく、よもやま話は第二部で行われた。ラーベ氏に対し、そしてまた、南京の気の毒な人々への彼の献身に対し、心からの深い感謝の念が表明された。サールは、他の委員に代わって国際委員会のとしての感謝の念を表明し、委員会全委員の署名入り感謝状が、ラーベ、ドイツ大使館及びジーメンス社に贈られた。彼は例外的なタイプの実業家であり、自分の祖国に好意を寄せる味方を無意識のうちにつくる人間なのだ。
 午後8時、平昌巷三号でラーベのために行われたもう1つの送別会に出席した。福井、田中、安井、その他の日本大使館員が出席していた。スピーチが行われ、ラーベ氏が適切にして謙虚かつ誠実な答辞を述べ、南京の気の毒な人々のためにいっそうの協力を望む旨を述べた。(ローゼン博士は、多分に無理をしなければ日本人に対して礼儀にかなった振る舞いのできない人だが、今夜は日本人から離れてずっとアルコープにいた。)
 (1)2月18日に南京安全区国際委員会は名称を南京国際救済委員会と変更し、ラーベ委員長に替わって金陵神学院のソーンが委員長になった。名称を変更したのは、南京の秩序が安定したことを印象づけたい日本当局の意向と、難民、市民の生活救済に力点を置くようになった委員会側の姿勢もその背景にあった。


 「Imagine9」【合同出版】より


武器をつくったり

売ったりしない世界



世界では今、武器貿易を取り締まるための「武器貿易条約(ATT)」をつくることが提案されています。世界的な市民運動の結果、このような条約をつくろうということが2006年に国連総会で決議され、そのための準備が始まっています。
 しかし、世界的には武器をつくること自体、また、武器を売ること自体が禁止されているわけではありません。提案されている条約も、武器貿易を登録制にしようというものであり、武器貿易の全面禁止にはほど遠い内容です。
 
 日本は、憲法9条の下で「武器輸出を原則的に行わない」という立場をとっています(武器輸出三原則)。このような日本の立場は、世界でも珍しい先進的なものです。
 しかし、一方で、日本はアメリカと共同でミサイル防衛の兵器開発を進めており、この分野は武器輸出禁止の「例外」として認めています。
ミサイル開発に携わる企業からは、武器輸出を認めるよう求める声が高まっています。「日本は将来、憲法9条をなくして、ハイテク技術を駆使して武器をつくり世界に売り始めるのではないか」と心配する人も増えてきています。
 私たちは、武器を輸出する国になるのか、それとも「武器の禁止」を世界に輸出する国になるのか、分かれ道にいます。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月20日金曜日

1938年 南京 2月20日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月20日
 委員会の中国人メンバーが、明日の午後、私のために本部で盛大な送別パーティーを開いてくれることになっている。大至急スピーチの原稿を仕上げなければ。どの人にもそれ相応の賛辞を贈るつもりだ。もちろんアメリカ人も全員招待された。その後、夜8時にアメリカ人は各大使館の人たちのために別個にパーティーを催すことになっている。ことのほかうれしかったのは、日本人も招待されていたことだ。だがそうなると、ローゼンが顔を出すかどうかわからない。「殺人者」とはもう2度と顔を合わせたくない、と言っていたからだ。だが、外交官の身でそう言うのは明らかに言い過ぎだ。それにしても、あの人にはなにかと苦労する。
 
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月20日 日曜日
 素晴らしい春の天気だ。飛行機が飛び続けている。
 メリーは鼓楼での朝の礼拝に出かけたが、私はずっと家にいた。
 正午過ぎまもなく、秦さんという人ー以前、生物学研究所で2ヶ月近く過ごした避難民ーが戻ってきて午後の礼拝に出席した。彼女の坊やが私たちに会いにきたがったのだ。彼女の情報によれば、何人かの娘さんを含め、彼女の家には何家族かが一緒に生活しており、これまでのところ、兵士たちに悩まされたことはないそうだ。私たちは、貸し付け資金の中から15ドルを彼女に貸すことができたが、彼女はそのお金で米や燃料を買った。彼女の夫は上海に骨董店をもっている。私たちは、彼女のことを知っているようにすべての避難民のことも知っていればよいのだが。彼女は親切で感謝の念の強い人だ。彼女の情報によれば、近所に住んでいる多くの難民は、私たちのキャンパスにいた避難民であり、もし私たちが時間をつくって訪問できるのであれば、扉は大きく開かれて私たちを迎えてくれるだろう、というのだ。
 今日は4時30分からの英語による礼拝を担当した。・・・・・・
 夕食をとるために3号にずっといた。G.フィッチは出かけてしまったが、ブレイディ博士がやってくることになっている。電気はきているが、雑音がとてもひどくて、放送を聞き取ることができなかった。

「Imagine9」【合同出版】より


武器をつくったり

売ったりしない世界



「武器はどこから来るのでしょうか?
ヨーロッパやアメリカから来るのです。彼らは、武器貿易の達人です。アフリカの私たちは戦う必要も、殺しあう必要もないのです。だから、憲法9条は、アフリカにこそ導入されるべきだと思います。9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ってこさせないようにする事ができます。」

 これは、2007年1月にナイロビで開催された「世界社会フォーラム」で、ケニアの青年が語った言葉です。アフリカには、スーダンやソマリアなど、数多くの内戦に苦しんでいます。子どもたちまでもが兵士とさせられ、武器をもたされ、傷つき、多くの民間人が命を落としています。
 世界でもっとも多く武器を輸出している国々は、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、中国といった大国です。これらの国々から、中東、アジア、アフリカ、中南米へと、武器が売られています。紛争で使われる小型武器は、世界中に6億個以上あり、さらに毎年800万個がつくられていると言われています。これらの武器によって、世界で年間50万人の死者が出ていると推定されており、これは「一分で一人」をいう計算になります(「コントロール・アームズ・キャンペーン」による)。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月19日木曜日

1938年 南京 2月19日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月19日
 イギリス大使館から連絡があり、2月23日に砲艦ビーに乗せてくれるという。ありがたく受けることにした。ジェフリー氏は、私の荷物を万通号で送れるよう頼んでくれるそうだ。全部で53箱ある。どっちみち家具は当面ここに残していかなければならない。箱が足りないので梱包もしていない。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月19日 土曜日
 素晴らしい天気だった。春の小鳥たちが戻ってきて、私たちを悲しい気持ちにする。一年前の喜びと私たちの仕事のことを思い出すからだ。文科棟では避難民何人かが大掃除をしている。その棟の玄関の、ガラスに囲まれたスペースで生活してきた若い女性も、そこから移動しつつある。文科棟、理科棟および中央棟のホールには今は人はいない。そこにいた人たちが部屋に移ったのだ。どのくらいの避難民がまだ残っているのか、本当のところはわからないが、およそ3000人だと思う。多くの避難民は昼間は家に帰り、夜間は戻ってくる。錠前や締め金具やついたてがひどい目に遭っているというわけだ。
 耳を澄ます。警報のサイレンが聞こえる。私たちにはその意味がわからない。最近は防空演習もある。昨日は飛行船が長江上空を飛んでいた。
 私が主宰することになっている明日午後の礼拝の準備に午前と午後のひとときを費やした。堅苦しい勉強に取り掛かるのは楽ではない。
 ジョン・マギーがお茶にやってきて、栖霞山の難民収容所に出かけていたことを報告した。その間ずっと2人のデンマーク人がそこに滞在し、およそ1万人の農村難民のために素晴らしい仕事をしていたそうだ。フォースター氏は、白下路の聖公会センターに転居することになっている。南京で活動していたすべての伝道団の欧米人牧師や中国人牧師がそれぞれの教会に戻ってくるとしたら、それは素晴らしいことなのだが。それぞれのセンターは、安全と慰安と教育を与える避難所となるだろう。ミルズとマッカラムは一般業務にかかりきりになっているため、教会の仕事に復帰することができない。(教会の伝道に対して市民の)扉と心はいまや広く開かれている。
 今日私たちは努力の結果を目にした。中央棟の西側の小山に屎尿用の穴が新たに掘られ、これまでに投棄された排泄物がその穴に埋められた。清潔にしておくのは大変な仕事だ。そこの臭気はひどいものだった。たとえ盗まなければならないとしても、どこかで石灰を手に入れてこなければならない。そうでもしないと、陽気が暖かになったら伝染病が流行しかねない。
 男の労働者は大部分が南京から立ち退いてしまったので、適当な労働者を見つけるのは不可能だ。


「Imagine9」【合同出版】より


軍隊のお金を

みんなの暮らしのために使う世界



世界中の政府は、2000年に、貧困をなくすための一連の目標に合意しました。国連の「ミレニアム開発目標」と呼ばれるもので、2015年までに次のような目標を達成するとしています。

●極端な貧困や飢餓をなくす(1日1ドル以下で暮らす人を半減する)。
●すべての子どもたちが、女の子でも男の子でも差別なく、学校に行けるようにする。
●赤ちゃんが栄養失調で命を落としたり、お母さんが出産時に亡くなってしまうことを防ぐ。
●HIV(エイズ)、マラリアなどの感染症の広がりを止める。


 こうした目標を達成するためには、世界的に軍事費を減らし、人々の暮らしや発展のためにお金を回すことが不可欠です。
 国連憲章には、「世界各国は軍事費に回すお金や資源を最小限にしなければならない」(第26条)と書かれています。世界のNGO(非政府組織)は、この国連憲章26条を今こそ実行し「軍事を減らして人々の発展に回そう」という運動を始めています。そうした世界の人々の中からは「国連憲章26条と日本国憲法9条は、同じ目標のための双子のようなものだ。ともに発展させよう」という声が上がっているのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

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2009年2月18日水曜日

1938年 南京 2月18日

2001年1月に放映されたNHKのETV特集では元兵士の性暴力についての証言があるはずでした。ところが実際に放映された番組にはそれがありませんでした。中川昭一・安倍晋三という自民党極右議員がその番組に政治的圧力を加えたとのことです。今回、その中川氏が自らの失態によって財務大臣を辞任されたことは日本の政治にとってとても良い事だと思います!!詳しく知りたい人はこちらをどうぞ!!中帰連
「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
2月18日・・・南京安全区国際委員会、日本当局の要請により、名称を南京国際救済委員会と変更。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月18日
 委員会会議。「緑豆問題」はすっかり片がついた。
 ミルズを副代表ないし私の代理に、という案が受け入れられた。まだあと2ヶ月ほど私は代表を務めるが、2ヶ月たって南京に戻ってこなかった場合、規定どおりミルズがあとを継ぐことになる。南京安全区国際委員会の名称を南京国際救済委員会に変更することになった。フィッチがアメリカに帰るので、ソーンが後任になった。もうしばらくの間スマイスには事務局長のほかに財務委員も兼任してもらうが、いずれ免除することになっている。
 私は今後も南京の国際赤十字の委員会のメンバーにとどまることにした。
 福田書記官が本部に訪ねてきた。上海行きが最終的に許可されたという。手伝いの者を一人連れていってもいいといわれたことについては知らなかった。念のためもう一度問い合わせると言っていた。多分オフィス・ボーイの蔡を連れて行くことになるだろう。
 
 
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月18日 金曜日
 晴れ渡った春の一日だった。たくさんの爆撃機が北西へ飛んで行った。諸都市が破壊され、兵士たちが爆撃されていることを思うと気持ちが重くなる。
 今日は、来週から始めることになっている聖書クラスについての相談に何時間か費やした。・・・・・

 メリーは肝油とミルクを飲むよう奨励するため、朝の時間を使って難民収容所へ出かける。(安全区国際)委員会には、分配する肝油とミルクが大量にあるのだ。程先生がキャンパスでの配給の責任者になり、3人の避難民女性に手伝ってもらっている。
 今日は日本人の訪問者は誰もいなかった。
 リッチー氏は、予定通りに今日上海へ発つことはできなかったが、明日は出かけたいと思っている。フィッチも明日出かけるつもりでいる。大使館が、彼らに一度は出した許可を取り消さなければならなかったらしい。
 ある女性が、ここに避難している娘に会いに農村地域からやってきた。彼女の情報によれば、昨日彼女の近所の家々から慰安のための婦人が大勢連れ去られたそうだ。男性たちを安全区から出て行かせるために、より強力な方法が明日取られることになっているそうだ。赤十字会の粥場の閉鎖によって餓死するおそれがあれば別だが、そうでなければ、女性たちがキャンパスからの立ち退きを強制されるのかどうかは疑問だ。
     
「Imagine9」【合同出版】より



軍隊のお金を


みんなの暮らしのために使う世界



 1年間に世界で120兆円、日本で5兆円という、想像もつかないほど巨額のお金が、戦争のため、又はその準備のために使われています。1発数千万円ないし数億円もかかるようなミサイルを何百発も準備することが、「国を守るため」として正当化されています。
 世界の軍事費は、今世紀に入ってから特に増え続けています。世界の軍事費の約半分はアメリカの軍事費なのですが、そのアメリカが、2001年の「9.11テロ」をきっかけに、「テロとの戦い」と称してイラクを攻撃したり、世界中のアメリカ軍を強化したりして、軍事費を増やしているからです。
 その一方でアメリカ国内では、社会保障や教育すら十分に受けられない人々が増えています。ハリケーンがアメリカを襲った時、これらの貧しい人々が最も大きな被害を受けました。これによって「超大国アメリカ」の中の貧困問題が目に見える形で浮かび上がりました。

 世界的には、いわゆる北の先進国が莫大な軍事費を使う一方で、南の途上国では貧困が広がっています。「人類の5分の1が住む国々では、人々は1杯2ドルのコーヒーを当たり前に飲んでいるのに、別の5分の1が住む国々では、人々は一日1ドル以下で暮らし、子どもたちは蚊帳(かや)がないためにマラリアなどの病気で死んでいる」(国連開発計画=UNDP,2005年)というのが、世界の格差の現実です。




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月17日火曜日

1938年 南京 2月17日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月17日
 郵便局長の李奇氏は日本人と一緒に郵便業務を再開しようとしている。だが、今までこの人が成功したためしはない。
ヴォートリンさんのお別れパーティーはとてもいい雰囲気だった。ベイツとフィッチの他、李奇、アリソン、ローゼンが招かれていた。ごちそうがたくさんあったが、いざ帰るときになってつらい思いをした。!
 この大学にいる難民は女性ばかりで、今ではおよそ3000人ほどになっていた。その人たちが戸口に群がって、私たちを見殺しにしないで下さい、南京を離れないと約束してくださいと口々に訴えたのだ。帰ろうとするといっせいにひざまずき、泣き、文字通り私の服にしがみついて離れなかった。
 ようやくのことで門までたどり着いたが、外に出た途端に門が閉められてしまったため、車を置いていかざるをえず、歩いて帰らなければならなかった。こんな風にいうと、随分大げさに聞こえるかもしれない。だが、ここで共にあの悲惨な状況を見た人なら、我々がこの人たちに与えたものがどれほど大きな意味を持つかがわかるだろう。これらはみな当たり前のことであって、英雄的な行為などではない。
 

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月17日 木曜日
今日は春だ。さかんに飛行機が飛んでいる。対空射撃の演習だ。あのおぞましい12月17日の記念日だ。
 裏のキャンパスをきれいにしようと、李さんと一緒に再び巡回している。中央棟裏手の西南の隅はひどい状態だ。しかし、ソーンは、多くの収容所に比べればここのほうがきれいだ、と言っている。304号室では本格的な大掃除が行われた。女性たちは寝具をすべて外に出し、窓や床の掃除をした。私は、これが次々に広まることを期待している。
 午後早くに将校2名と兵士1名が、多分視察のためにやってきた。来訪者にはすべて、陰険かつよこしまな動機があるのではないかとつい考えてしまう。
 午前中、会計処理に2時間ほど費やした。・・・・・
 現在の状況の下では決して容易なことではないが、午後、メリーと私はラーベ氏の送別ティーパーティーを催した。お客はラーベ氏、ローゼン博士、アリソン氏、ジョージ・フィッチ、リッチー氏、それにサールだった。程先生が私たちを手伝ってくれた。サラダを出し、、私たちとしては初めてのチョコレートの箱を開け、オレンジを食べた。ケーキはまずくはなかった。フルーツの代わりにエスターのひき肉を使って作ったフルーツケーキ風のものだ。南京では中国人の店はまだ一軒も開いていないので、自分の家か格別に親しい友人の家の、空になりかけている食料貯蔵庫の食品にメニューを合わせるようにしなければならない。
 アリソン氏には日本人護衛兵がついていたので、私たちは、彼に先に退出するよう勧めた。というのも、程先生が聞いたところでは、女性の避難民たちがラーベ氏に会って、彼に是非一緒にいてくれるよう頼みたいと言っていたからだ。理科棟の前に来た時に私たちの目に入った光景は思いがけないものだった。そこには2000人ないし3000人の女性が待っていて、ラーベ氏が近づくと、全員がひざまずき、涙を流して哀願し始めた。彼が二言三言しゃべったあと、メリーが彼を裏道から立ち去らせた。私は、ローゼン博士とリッチー氏が退出できるように女性たちを立ち去らせようとしたが、それは難儀なことだった。メリーが再び彼女たちを外に連れ出したが、一方、私のほうは彼女たちの注意をそらし、中庭の向こう側に彼女たちを誘導しようとした。かなりの時間が経ってから私たちはやっと車を校門の外に出すことができた。本来なら、そのころにはローゼン博士とリッチー氏は、彼らの家にかなり近いところまで行っていたに違いない。
 リッチー氏は明日車で上海に行く。彼の報告では、多分、中国側の管理の下に郵便局がまもなく開設されるそうだ。

     
「Imagine9」【合同出版】より



9条をつかって、

  
戦争のない世界をつくる。



 中米の国・コスタリカも平和憲法をもっています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。
軍隊の廃止によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
 ところが、2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクへの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ!」
 裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法はただ単に守ればよいものではありません。平和憲法は人々のもの。人々が使うためにあるのです」

 ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。
 スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたっています。
 こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくる事ができます。「イマジン 9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、皆さんと考えたいと思います。




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月16日月曜日

1938年 南京 2月16日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月16日
 自治委員会の委員でもあり、同時にこっそり我々の仲間にも加わっているジミーからの知らせ。本部の建物を自治委員会が買い取って、国際委員会に贈ることになったそうだ。とてもよい思いつきだ。
 アリソン氏来訪。「緑豆問題」が解決したと知らせてくれる。豆を輸入し、安全区の中でも外でも分配できることになった。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月16日 水曜日
 今日は寒い風が吹いた。甫と老呉が樹木の植え替えを始めている。というのも、今がその時機なのだ。午前9時、衛生状態を調べに李さんと一緒に再び戸外に出た。それは、まさに絶望的な途方もない仕事で、何の効果も上がらない。みなさんに中央棟の裏手の小山を見て、その臭いを嗅いでいただきたいものだ。
 王さんと彼女を手伝う人たちが、赤札を新しい黄札に取り替える作業を終えた。現在、無料配給米をもらっている人は653人いる。無料配給米の札の配布を慎重にやりすぎているのだろうか。それほど慎重にやらなければ、現在以上にたくさんの人がキャンパスにとどまることになるだろう。私たちは、貸し付けたり供与したりする資金を(安全区国際)委員会から預かっているが、しかし、どうすれば賢い貸し付けや供与をすることができるかを見極めるのは、決して容易なことではない。今日は指輪や時計を抵当に2件の貸し付けをした。
 5時から6時の間にY.G.厳さんが訪ねてきた。彼は殺害されたと聞いていたのだが、しかし、彼にはその話はしなかった。彼の話によれば、占領の初期に三汊河で1万人が、燕子磯では2万人ないし3万人が、下関ではおよそ1万人が殺害されたと聞いたそうだ。彼は、多くの夫と息子は絶対に帰ってこないと確信している。頻繁に私のところにやってきては、嘆願書に書かれている情報を何か聞いていないかと尋ねる女性にたいし、あなたたちの夫が帰ってくることは絶対にない、などと、どうしてそんなことが言えようか。
 アリソン氏が、上海から包みを1個、手紙を2通、それにステラにかんする無線電報1通を届けてくれた。アメリカ本国の人たちは、南京に入ることがほとんど不可能であることを理解していない。
 ブランチは今も入院しているし、婁さんは病気でここにいる。いつも健康かかつ正常な状態を保つのは難しいことだ。
 上海から届いた包みには2月5日付け「ノース・チャイナ・デイリーニューズ」が入っていた。私の分がこなくなった11月14日以来久しぶりに目にしたものだ。・・・・・・・・・

     
「Imagine9」【合同出版】より



9条をつかって、


戦争のない世界をつくる。



「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
 日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
 第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
 同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月15日日曜日

1938年 南京 2月15日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月15日
昨晩、龍と周の2人がわが家を去った。今日発つという。どうやって家に帰るのかは知らない。計画は打ち明けられなかったし、ことらも聞かなかった。残念ながら我々の友情にはひびが入った。それはともかく、2人が無事に香港に戻れるよう祈る。けれどもまた会いたいとは思わない。
 今せっせと荷造りしているところだ。骨が折れる。体の調子があまりよくないのだ。2時間しか眠っていない。多分糖尿病と何か関係があるのだろうが、ま、しかたない!どうにかなる。きっと万事うまくいくさ!


「緑豆問題」はいまだに解決していない。日本軍は無条件で豆を自治委員会に渡せといってきている。さもなければ持ち込んではいけないそうだ。緑豆は鼓楼病院に送られることになっている。ということは、日本は食料品を民間の機関に引き渡すのを阻止しようとしているということだ。アリソン氏がいま説得しようとしている。
 たった今聞いたのだが、収容所の責任者たちが連名で上海のジーメンスに電報を打つという。私をここに残すよう頼もうというのだ。全く痛しかゆしだ。
 実際の話、かなり神経が参っていて、休暇を取りたくてたまらない。それに、収容所の責任者たちの電報が私の差し金だと思われはしないかと気にかかる。むろん、そんなことはしていないのだが。
 家具以外こまごましたものは残らず梱包した。家はがらんとして、殺風景もいいところだ。さしあたって大きな家具は韓に見張ってもらうことにしよう。荷造りしたものも。

 委員会の報告には公開できないものがいくるかあるのだが、一番ショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと3万もあるということだ。いままで毎日200人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は、下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。
 食べ物が乏しい中で、アメリカ人の友人が次々と送別会を開いてくれるのに感激している。今ミニ・ヴォートリンさんが来て、別れの茶会に招待してくれた。南京が最悪の状態だった昨年12月、女性の難民を400人引き連れて、金陵女子文理学院に避難させた女性だ。あれを見て以来、私はこの人に深い敬意を抱いている。
 イギリス大使館のジェフリー氏が今日、2月22日出航の太古公司の蒸気船万通号か、又は2日後のイギリスの砲艦エイフィスで上海に行けるよう、イギリス海軍に頼んでくれると言った。しかも、日本大使館が認めた使用人なら一緒に乗せてくれるというのだ。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月15日 火曜日
 春の小鳥たちがやってきた。私の部屋では「迎春花」が開花しかけている。
 今朝は避難民たちに新聞や雑誌を図書館の屋根裏へ戻してもらっている。屋根裏をきれいに片付けると言うあの仕事はすべて無駄だったのだ。屋根裏を戻すのは、新聞や雑誌で前を塞がれている本箱を利用できるようにする必要があるからだ。後刻、李さんと私は、より有効な屎尿処理方法を考え出そうと、中央棟の裏手で一時間ほど過ごした。壕が屎尿で次々にいっぱいになっている。どこもかしこも屎尿だらけだ。それは、私たちを悩ます果てしのない問題となっているが、みなの話では、ここの収容所はほかの収容所よりもこの問題をうまく解決している、と言うのだ。すぐに石灰を手に入れなければ、私たちはみな、夏が終わるまでに病気であの世に行っているだろう。・・・・・・


 南京防衛のためにどのくらいの数の中国軍将兵が犠牲になったか知りたいところだ。下関の周辺でおよそ3万人が殺されたと紅卍字会が見積もっているとの情報があり、また、今日の午後、燕子磯で「何万人もの兵士」が退路を塞がれてしまったー渡河しようにも船がなかったーと言う別の情報を聞いた。何とかわいそうに。
 2,3週間前に書いたことだが、たくさんの露店や喫茶コーナーや飲食コーナーが、雨後のたけのこのようにほとんど一夜のうちに上海路の両側に出現した。今日それらは同じように姿を消そうとしている。というのも、それらは、夜までにたたまなければ取り壊されるとの命令が出たからだ。お人好しの連中は、店をたたんで持ち去ろうとしているところだ。幸福人茶館が消えていくのを目にした。これらの店で売られている品物はほとんどが盗品であり、私たちの中には、安全区内での盗品販売は許可すべきではなかったと考える人もいた。道路をきれいにするために1,2ヶ月の間市の衛生局長になり、十分な数の苦力を指揮下に置きたいものだ。
 元南京郵便局長のリッチー氏が南京に戻っていて、郵便業務を復活しようとしているそうだ。私たちが外の世界とつながっているのは、砲艦を介してだけである。
 メリーと私は、木曜日にラーベ氏の送別ティーパーティを催すつもりだ。私の居間には8人しか入らないので、客は5人しか呼べないし、また、出したいと思っている茶菓については、何にもまして必要な材料がないのだが。
    
「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


9条がゆきわたった世界を。



Imagine,


A world filled with Article 9.


憲法9条は、日本という「国」のものではありません。
日本に住んでいる「人々」、つまりみなさん自身のものです。
そしてそれは、日本国民にとってだけではなく、すべての人類にとって重要なのです。
(アメリカ/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月14日土曜日

1938年 南京 2月14日

「南京事件」(笠原著:岩波新書)
2月14日・・・大本営、中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍の戦闘序列を解く
       (松井石根、司令官解任)
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月14日
脚気の患者が出たので、緑豆を100トン送ってくれるよう、上海に頼んでいた。豆は今日蒸気船の万通号で南京に着くはずだった。上海の日本海軍からは、船に積み込んで下関(シャーカン)で荷揚げする許可がおりていたのだが、南京の陸軍に申請したところ、案の定却下されてしまった。
 昼に上海のラジオニュースがこんなふうにいっていた。国際委員会がすんなり搬入できないのは、自治委員会と協力しないからだ。元々こういうことは自治委員会だけに許されているはずなのだから、と。
 南京で脚気が発生していることなど知らないと日本側は主張しているが、これは格別驚くことではない。ここの人たちの健康状態について全く無関心なのだから。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月14日 月曜日
 今朝は曇っていた。飛行機の爆音は聞こえなかった。農民の朱が来て、昨日午前一時に兵士がやってきたことを教えてくれた。7,8人がやってきて、ドアをどんどんとたたいたが、中に入れてやらなかった、という。あとで兵士たちは蘇の家の隣の楊の家へ行き、銃剣で無理やりにドアを開けて、「花姑娘」を出すよう強要した。「花姑娘」はいない、と言われると、彼らは腹を立てて銃剣を振り回した。その家の男たちの一人が、「咱們要報告」つまり「兵士が来ている事を通報する」と言うと、彼らは立ち去った。
 12時30分、いや、多分1時に洗濯屋の奥さんが私たちを呼びに駆けつけ、兵士が彼らの家に来ている、と言った。私たちが行ったときには、彼らはその前に立ち去ってしまった。
 30歳から40歳までで、洗濯婦として喜んで軍司令部に行くと言う女性は、午前中に1人しか見つからなかった。出入りの洗濯屋と店員が応じるところだったが、幸い、将校たちは彼らを迎えに来なかった。
 3時頃ビック王と一緒に「模範刑務所」へ出かけた。私たちの主な目的は、可能であれば、刑務所に一般市民がいるかどうかを確かめることだったが、たまたまたくさんの興味深い経験をした。雑踏する繁華街としてあなたたちが記憶しておられる北里門橋の一番奥の唱径楼は実に見るも無残だ。ここかしこで私たちは、自分の店や食堂に戻った勇敢な人たちー時計修理人、2人の食堂経営者、「焼餅」作りの職人ーに出会った。彼らの主な目的は、自分たちの焼け残った店や仕事場を守ることだった。街路にはほとんど人通りがなかった。すべての店が徹底的な略奪をこうむり、最高級の店は焼かれてしまった。事実上、商売は行われていなかった。少し東へ行ったところで1人の婦人(65歳)に出会った。彼女の話によれば、ほとんど2ヶ月間、昼間は自宅に帰っていたそうだ。初めのうちは、高価な物を手に入れようとして日本兵が略奪を働いていた。しかし、彼女が家にいたので、一般の人が、彼女の残っていた財産を盗むことはできなかったとのこと。そのあとすぐにある夫妻と息子が私たちを追いかけてきて、3人の息子が中国軍(日本軍の誤り?)に連れ去られたことを語り、妻は嘆き悲しんでいた。夫は、息子が帰ってくる可能性のあることを話して彼女を慰めようとした。だが、日本軍に拉致された人々は大部分が帰ってこないのが常であった。私たちが通り過ぎた2軒の家には日本人女性ー多分芸者ーがいた。
 「模範刑務所」に入っている一般市民についての報告を再確認してもらった後、ラーベ氏に会いに行き、刑務所にいる人たちの手紙や嘆願書を彼に渡した。彼らのために何をするのも容易ではない。というのも、方法を誤ると、彼ら全員の死を招くことになりかねないからだ。
 12月12日以来今日久しぶりに人力車を目にした。あれ以来これで2台めだ。人力車はみんなどこへ消えてしまったのだろうか。・・・・・・・・・・・

   
「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



ひとりひとりの安全を



大事にする世界を。



Imagine,


A world that values


the safety of each and every human.



政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が
大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。
政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。
私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に
平和をつくりたい。それが私の理想です。
(イラク/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月13日金曜日

1938年 南京 2月13日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月13日
今日、アメリカ大使館を通じて、さらに次のような電報受領通知書を受け取った。

   ジーメンス・香港       1937年12月1日
 上海の本社から、貴君へ届けるようにと、以下の電報を受け取った。「了承できず。即刻漢口へ向かい、社のためを第一に行動されたし」    香港支社

午後、平倉巷で礼拝。リンカーンについてのベイツの素晴らしい説教。リンカーンの言葉はいろいろな点でそのまま現代に当てはまる。1863年のリンカーンの宣言が読み上げられた。
 きょうもらった1937年12月1日の電報受領通知書のことだが、私は絶対にこの時の電報を受け取っていない。あのとき、これ以上の危険を避けるように、場合によってはドイツ大使館が南京から移動する時に合流するようにと、電報で助言してくれたのだ。その上私に、これからどうするつもりか知らせるようにいってきた。
 当時私は次のように返信した。
「私は、国際委員会の代表としてここにとどまり、20万人以上の非戦闘員の難民区の設立にかかわるつもりです。」
 この電報でわかるように、中国本社はそれを了承していない。だが繰り返すが、12月1日付けの電報は私の手には届かなかったのだ。・・・・・・・

 あのとき、私は会社の言う通りにしたつもりだった。だが、それが実は先方の意向に反していたことが今になってわかったというわけだ!

 とはいえ、あの時会社が私にどうするつもりかと聞いてきたのは、あくまでも身の危険を避けることを前提にしたうえだったのかもしれない。だが、一方では電報を受け取らなかったのは良かったとも言えるのだ。義理堅い私のことだ、土壇場で決心を翻して、ジャーディン海運社の船に乗り込んだことだろう。そうなったら、ここに残ったジーメンスの中国人社員やうちの使用人たちがはたしてまだ生きているかどうか大いに疑わしいと思っている。
 思いがけず木箱が手に入った。私の「老百姓」、つまり庭の難民の中に指物師がいて、そのつてで20個ばかりまわしてもらえたのだ。箱だけではない、わらもだ、土砂降りの雨の中、難民が数人がかりで、3000リットルほどのわらを遠く漢西門の前から運んできてくれた。荷造りは指物師が無償で手伝ってくれた。わらは全部でたったの2ドル。そうなのだ、貧しい人との友情もやはりなにかしら役に立つものなのだ。いや、それどころか、今度のように非常に役に立つこともある。板など、今じゃ市場ではまず見当たらないからだ。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月13日 日曜日
 今朝は激しく雨が降った。ついに重爆撃機の爆音が聞こえなくなった。咳が出て喉が痛いので、今日は家にいた。
 昨夜、真夜中ごろ4人ないし6人の兵士が私たちの洗濯場に近い農民朱の家に行き、激しくドアをたたいて「花姑娘」を要求したことが報告された。ドアを開けなかったので、最後に彼らは立ち去った。今夜その女の子たちが女子学院に戻ってくるのではないかと思う。
 午後三時ごろ将校2名、兵士1名、それに「傀儡協会」の中国人4名がキャンパスにやってきて、洗濯婦を4人見つけてもらえるか、と聞いた。30歳から40歳までの女性だ。報酬は米で支払うとのこと。彼らは、洗濯婦を迎えに明日の朝また来るという。それまでに何人かを見つけるために、できるだけのことはしよう。出入りの洗濯屋にも話したところ、彼は、夜に帰宅できるのであれば喜んで応じるとのことだ。妙な話だが、私が実験学校に戻る前に1人の女性がやってきて、その仕事をしたいと申し出た。私は、彼女が3人の兵士に強姦されたことをたまたま知っていた。間違いなく、彼女は勇気がある。
 ジョージ・フィッチが戻ってきているが、彼は、20万ドルの難民救援金の約束を取り付けている。問題は、どのようにすればそれだけの金額を賢く配分できるかだと思う。
 以前よりもたくさんの手紙と、同じくたくさんの包みが上海から届いた。友人たちは、私たちにとても親切にしてくれる。品物を買ってくれと頼むと、そうではなく贈り物をしてくれる。郵便局同然の仕組みがうまくまわり始めた。昨日私は、避難民のためにたしか20通の手紙ー大部分は上海の親族に送金を要請する手紙ーを送ったと思う。
・・・・・・
  
「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界を。



Imagine,


A world that instead of


preparing for war,prevents

war.




コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

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2009年2月12日木曜日

1938年 南京 2月12日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月12日
いよいよここからずらかるときが来た。ぐずぐずしちゃおられん。今朝7時に、張が天津出身の友達を連れてきた。馮(フォン)といってアメリカ人の家の留守番をしている男だ。かみさんが産気づいて三日になるというのに、まだ生まれないという。こんな嘆かわしい世の中だ、出てきたがらない気持ちもよくわかる。だがかみさんが危ないらしい。すぐ産まないと命にかかわる。そこで、こともあろうに私のところにやってきたのだ!
「だけど私は医者じゃないんだよ、張。産婆でもない。『市長』かもしれんがね。だからと言って知りもしない人間の子をやたらと産ませる義理はない。すぐ鼓楼病院に連れて行きなさい」
 すると張は言った。「ええ、おっしゃるとおりです。でもいっしょに来ていただかないと、困るんです。でないと病院に入れてもらえずに死んじゃいます。子どももです。いっしょに来てさえいただければ、それでいいんです。親子ともども助かります!」
そんなことってあるものか!
「まったく、どいつもこいつも・・・・・」
 かくして、私はつきあうことになった。すると、信じがたいことが起こった。私がその家に入ったとたん、男の子が生まれたのだ。母親は笑い、赤ん坊は泣き、みなは喜んだ。張のやつめ。またしてもこいつの言うとおりになった。しかも私はこの茶番劇に10ドル払うことになってしまった。お祝いをやらなくてはならないからだ。これが知れ渡ってみろ、破産してしまうじゃないか。なにしろ、町には難民が25万人もいるんだからな!
   
17時
 中国軍の空襲。空は一面爆撃機で埋め尽くされ、日本軍の防空部隊が必死で狙撃している。まったく当たらない。それでいいのだ。何しろ誰一人防空壕に入ろうとしないのだから。中国人は、祖国の空襲にはやられないと信じ込んでいる。


 今日の午後、フィッチが「親しくなった海軍軍人」と一緒に上海から戻ってきた。ソーセージやチーズ、インシュリン、それから郵便物をどっさり持ってきてくれた。なかにドーラの写真が一枚あり、ベルリンの新聞の切抜きが添えてあった。「南京市長ラーベ」を称えている記事だ。ああ、市長の年金でももらってのんびり隠居できたらどんなに良いだろう!
 南京陥落の直前、しばらく泊めてくれと頼みに来た人たちの中に国民政府の幹部が2名いた。私は承知した。2人はトランクいっぱい金を持っていて、うちの使用人に何かにつけてチップをはずんだが、その額ときたら、いくらなんでも程度を越えていた。
 国際委員会は、蒋介石から総額10万ドルの寄付を約束されていたが、実際には8万ドル徴収するのがやっとだった。だからこの2人に、国際委員会のための金はもう持っていない旨一筆書いてもらった。
 私がこんなことをした直接のきっかけは、ある日、書斎の机に5000ドルの札束を見つけたからだ。それにはメモが添えてあり、「哀れな人々を救う貴殿の誉れある行為に」とあった。
 私はすぐにそれを委員会に払い込み、2人に公式の領収書を渡した。2人ともちょっと驚いていた。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月12日 土曜日
 リンカンの誕生日だ。しかし、お祝いは何もしない。よい天気が続いている。
 ジョージ・フィッチが戻ってきている。今日アメリカ砲艦オアフ号で帰ってきたのだ。彼から是非情報を聞きたい。彼は、上海にいる私たちの友人からの荷物をたくさん持ってきたそうだ。
 4時から6時まで実験学校でパーティがあった。上海から届いたオレンジとポップコーンを食べた。F・陳さんの新しい息子の誕生日をお祝いした。赤ちゃんの誕生を知らせる手紙が汕頭から届いたのだ。
 6時30分、ジョン・マギーがいくつもの包みージョージ・フィッチが私たちに持ってきてくれた包みーを腕いっぱい抱えてやってきた。メリーは、初めての手紙をもらって大喜びだった。
 飛行機の活動状況から、爆撃が弱まることなく続いているのがわかるが、それ以外は、外の世界についてはほとんど何もわからない。午後、対空砲撃が行われた。多分演習だろう。ありとあらゆる噂が伝わってくるので、私たちには、蕪湖や杭州が日中両軍のいずれの手中にあるのかわからない。
 今日は日本人の訪問者はまったくなかった。
 2ヶ月ほど前から一般生物学研究室の実験台の上で暮らしている、2人の子持ちのとても魅力的な若い女性が相談にやってきた。彼女の話では、夫は上海に骨董店を持っているが、彼女自身はお金を持っていない。彼女は、このところずっとキャンパスで無料配給米に頼って生活している。彼女は、長い歴史のあるクエーカー系女学校の卒業生だ。彼女によれば、自分の家に帰りたい、そうすれば、彼女の家の近所には男が大勢いるので、兵士たちに悩まされることはあるまいと考えている、というのだ。彼女の帰宅については、何が起こるのではないかと、いささか心配だ。
 
 
「Imagine9」【合同出版】より




想像してごらん、



女性たちが



平和をつくる世界を。



Imagine,



A world where



women create peace.



戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を
果たす事ができます。
(アメリカ/先住民女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月11日水曜日

1938年 南京 2月11日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月11日
今日、委員会の苦力、銭は歩いて故郷の村に帰っていった。ここから3時間の道のりだ。銭の家族はまだ生きているだろうか。無事に会えただろうか。心配でたまらない。郊外ではまだかなりの人が殺されていると言う話だ。
 たった今、またもやこんな知らせが舞い込んできた。1人の兵士がある家に押し入った。天谷少将によれば、その素晴らしい軍紀によってつとに名高い日本軍の兵士が、だ。その家には母親と2人の娘が住んでいた。娘を強姦しようとしたが抵抗され、そいつは3人を家に閉じ込めて火をつけた。娘の1人は焼き殺され、母親は顔にひどいやけどを負った。この件を調査しなければ。
 シンバーグから聞いた話はもっとすさまじい。だが今度は中国人の話だ。同郷の1人が隠し金を持っていると睨んだ4人の中国人が、その男を縛り上げて火あぶりにして、金のありかをはかせたという。
 とにかくここはアジアなのだ!そう言い聞かせてはみても、こういう胸の悪くなるような残虐な話を次から次へと聞かされると、祖国が恋しくなる。
 上海から良い知らせだ。緑豆を100袋送ったとのこと。鼓楼病院が脚気の治療にと頼んでいたものだ。
 張は板を探しに行った。まだこまごました品物がたくさん残っている。できるだけ多く送りたいので、木箱を作らせるつもりだ。南京を再びこの目で見ることができるかどうかなど、誰にもわかりはしない!カルロヴィッツ社にもう1箱空き箱があるというので、シュペアリングがこっそり取ってきてくれるという。


 13時
 ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。まだ荷造りが終わっていないのが残念だ。そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。
 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。ローゼンは、上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも1本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚えがある。そのうちの幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人たちも写っていた。


 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月11日 金曜日
 郵便物は午後4時までに大使館に持って行けば、上海に届けてもらえる。
 陽光溢れるうららかな一日だった。春はもう遠くはない。今朝は頻繁に重爆撃機の爆音が聞こえてくるが、手や足を失った何百人もの兵士が、看護をしてくれる医師も看護婦もいない状態で、徐州府の近くの塹壕や戦場に取り残されている情景しか目に浮かんでこない。障害をこうむった痛々しい肉体が死によって苦痛から開放されるまで、彼らは塹壕や戦場で苦しみ続けることであろう。気の毒な人たち!現在、大学で安全に勉学している男子学生がこれらの負傷者の叫びを聞き、彼らを援助することを自発的に申し出てくれることを念じてやまない。学生たちなら、大きな働きをすることができるだろうからだ。私たちは、ヘレン・ボートンの安否をとても気遣っている。彼女の拉致についての新たな情報は入っていない。外国人が2,3人しかおらず、安全区が設けられていない蚌埠や懐遠の状況はいったいどうなっているのだろうか。合肥は戦場のただ中にあるに違いない。私は、そこにいる友人たちに絶えず思いを馳せている。彼らの備わっている以上の力と勇気を神が彼らにお与えになりますように、そしてまた、多くの人々を庇護し励ますために、彼らが活かされますように。・・・・・・


 アメリカ大使館でのことだが、大量の石炭が運び込まれているのを知った。漢西門の近くの石炭業者の1人は、いまだに在庫石炭を略奪されていないらしく、今後の略奪を防ぐため、アメリカ大使館に、それを引き取ってくれと頼み込んだ。悲しいかな、南京では1つの競争ー誰が先に米と石炭を手に入れることができるかを予見する競争ーが行われているのだ。
 ブランチと会うため、午後5時に病院へ行った。彼女は三等病棟にいたが、ひどく痛がっていた。病院は満員だったが、医師や看護婦の数は、気の毒なほど少なかった。外国人医師はいまなお2人だけ、それに、中国人医師が2人いるだけだ。
 私たちが兵士に悩まされているかどうかを確かめに、午後2時30分ごろ、アメリカ大使館の警官と憲兵2人が訪ねてきた。彼らは、避難民の数についても質問した。そういうわけで、私は、上述のことが彼らの来訪の真の目的なのだろうか、と疑問に思わざるをえなかった。一時は一万人もいたが、今は3000人ぐらいしかいない、と答えると、彼らは納得したようだった。
 
「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、

基地をなくして緑と海を

取りもどしていく世界を。


Imagine,

A world that gets rid of

military bases and reclaims

the forests and the oceans.


森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月10日火曜日

夏さんからのメッセージ!!

「ラーベの日記」1月29日に出てるのが夏さんの記事だ。
・・・マギーが8歳と4歳の少女を見つけた。親族は11人だったというが、残らず残忍な殺され方をしていた。近所の人々に救け出されるまでの14日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。・・・・

東中野氏が「『南京虐殺』の徹底検証」と言う本の中で史料に被害者として登場する「『八歳の少女』と夏淑琴とは別人と判断される」、「『八歳の少女(夏淑琴)』は事実を語るべきであり、事実をありのままに語っているのであれば、証言に、食い違いの起きるはずもなかった」、「さらに驚いたことには、夏淑琴は日本に来日して証言もしているのである」等と記載された。
 それに対して夏さんが名誉毀損と人格権の侵害で東中野氏と出版社展転社を訴えた裁判です。


■夏淑琴さんよりメッセージ ■


私の裁判が最高裁で勝訴したと聞き、とても嬉しいです。70歳過ぎに裁判が始まり、 私はもう80歳です。私はいつも心配していました。夢にまでみるほどでした。自分 が生きているうちに最終的な結果が出るのだろうかと考えていました。本日、ついに 勝利しました。
 私はここで、南京大屠殺紀念館の朱館長、談臻弁護士、呉明秀弁護士、日本の弁護団 に感謝を申し上げます。彼らは私の裁判のために多くの仕事をして下さりました。 私の、言われなき罪を洗い流すために、とても苦労したと思います。彼らはすごいです。 無実の人を陥れる日本の日本の右翼を見事に撃墜し、私の潔白を証明しました。勝訴を迎え た今も、私はやはりこう言いたいと思います。
私は偽の証人ではありません。私は南京大虐殺の生存者であり、真の歴史証人です。

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■ 朱成山館長(侵華日軍南京屠殺遇難同胞紀念館)よりメッセージ ■

 本日、皆さんよりお送り頂いた日本最高裁判所の夏淑琴名誉毀損裁判についての判決を読みました。裁判が最終的な勝訴を得たことを知りました。私は侵華日軍南京屠殺遇難同胞紀念館と南京屠殺史会を代表して、皆様に心から祝福を申し上げ、また皆様が苦労を惜しまず裁判にご尽力されてきましたことに心からの敬意を表します。
 夏淑琴名誉毀損裁判は、李秀英名誉毀損裁判に続く、南京大虐殺事件の被害者の名誉を守る裁判でした。更に言えば、南京大虐殺の史実を守る裁判闘争でした。
 日本の東京地方裁判所、東京高等裁判所、最高裁判所が均しく公正な判決を下し、喜び、安堵しました。この判決が、再度、南京大虐殺の歴史を否定することは許されないということを証明しました。
 夏淑琴さんの裁判の件では、皆様方は苦労を惜しまず南京へ来られ、聴き取りをされたり、夏淑琴さんの訪日、出廷のために心血を注がれました。皆様の崇高な理念、正義、被害者の権利を守るために尽力され、実際的な行動によって中日友好に貢献されたその行動に、心より感謝申し上げます。歴史を直視し尊重してこそ、中日両国国民の相互信頼、民族和解は堅固な基礎を築くことができ、共に平和な未来を構築できるのだと信じています。

館長 朱成山
2009年2月6日


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■ 談臻弁護士(夏淑琴名誉毀損事件弁護団補佐人)よりメッセージ ■

 2月5日、日本の最高裁判所が夏淑琴名誉毀損裁判について最終決定を出し夏淑琴は勝訴を獲得しました。この裁判の勝訴のために努力をされてきた日本の夏淑琴名誉毀損事件弁護団、支援団体の皆様に、江蘇法徳永衡律師事務所一同、熱烈な祝福を申し上げます。
 夏淑琴名誉毀損東京裁判は夏淑琴名誉毀損南京裁判と同様、重要な現実的意義、歴史的意義があります。このたびの勝訴は、法的側面から言えば、より一層、史実が守られることになりました。淑琴さんの名誉を守ったばかりでなく、亡くなった南京の30万の同胞の魂にとっても慰めとなりました。政治的側面から言えば、このたびの勝訴は東中野修道及び日本の右翼が南京大虐殺を否定し、歴史を改竄するといった行為に対する有力な反駁、暴露です。
 このたびの勝訴は、中日双方の弁護団の協力が実を結んだ良き成功例です。
 私たちは共同努力によって、さまざまな障害を克服し、歴史に学び未来に向かい、正義を貫いて平和を愛し、中日友好の発展に貢献できるものと信じています。

夏淑琴名誉毀損事件弁護団補佐人 
弁護士 談 臻




1938年 南京 2月10日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月10日
昨日の夕方、福井氏が訪ねてきた。昨日、日本大使館に会いに行ったのだが、会えなかったのだ。なんと、氏は脅しをかけてきた。
「よろしいですか、もし上海で新聞記者に不適切な発言をなさると、日本軍を敵にまわすことになりますよ」
 クレーガーは上海で思った通りを言った。つまり、日本軍に具合の悪い証言をしたのだ。ロンドンからの長い電報、と言っても実は香港からで、クレーガーが書いたことになっているのだが、福井氏はそれを例に出して、クレーガーは日本に悪意を抱いているといった。
「それならどう言えばいいんですか?」私が聞くと福井氏は言った。「ラーベさんの良識に任せます」
「つまり、報道陣にこう言えばいいんですね。南京の状況は日に日に良くなっています。ですから、日本軍兵士の恥ずべき残酷な行為についてこれ以上報道しないで下さい。そんなことをすると、日本人と我々の不協和音をますます大きくしてしまうだけですから、と」
 すると非常に満足そうな答えが返ってきた。「それでけっこうです!」
「わかりました。それでは私に、あなたの上官である天谷少将、それからドイツ語を達者に話すという本郷忠夫少佐にもきてもらって、こういう問題を個人的に話し合う機会をいただきたい。我々はあなた方と、つまり日本軍とももうこの辺でよりよい関係を結んで友好的に協力し合いたいと思っているんです。それなのになぜ、鼓楼病院によこしてくれと私たちが懇願している外国人の医者や看護人を南京に入れようとしないのですか?どうして上海から食料品を取り寄せることができないんですか?赤十字病院を訪問できないのはなぜなんです?あそこへ食料を支給しているのは我々なんですよ」
 福井氏は肩をすくめ、同じことを繰り返すだけだった。
「もしあちらで不適切な発言をなさると、日本軍を怒らせてしまいます。南京には戻れなくなりますよ!」
 中国人の使用人を連れて行ってもいいかと聞くとこういった。
「どうぞ。でもその男は決して南京には戻れませんからね!」

 

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月10日 木曜日
 男子教職員宿舎と隣保館はみじめな光景を呈している。どちらもいまなお避難民で溢れている。午前中、陳さんといっしょに調査に出向いた。比較的に年齢の高い人たちにたいし、安全区外の自宅へ帰るよう再度説得に努めた。若い女性たちのためにそうしてほしいと頼んだのだ。だが、彼女たちは「わかりました」と何度も言うだけで、帰っては行かない。教職員宿舎も 隣保館も避難民の家族で溢れていた。一部屋当たり数家族というありさまだ。床も壁もひどい状態だ。さらに悪いことには、阿片常習者とその妻が部屋の1つにいて、途方もない部屋代を徴収しているのだ。私たちが彼に、女子学院のためになることをしてほしいと言った、というのがその男の言い分だ。私たちは誰も、阿片常習者に対処できるほど器用ではない。
 今日の午後は訪問者が4人あった。放送ニュースを伝えるためにやってきたジョン・マギー、スマイス博士を探しにやってきたバスさん、乳児に粉ミルクを与える問題についての相談にやってきたルイス、午後の礼拝のあとやってきた唐博士だ。ちなみに、粉ミルクはたくさんあるものの、乳児のためにそれを使う方法を母親たちに教えることのできる人が足りないのだ。
 5時から6時の間に魏師傳と一緒に広東路西へ向かった。私たちが安全区の旗を掲揚した12月11日以来、そこには行っていなかった。戦争による破壊を、まさに語らずして鮮烈に示す証拠であろう。そまつな小屋でさえも大部分が廃屋になっており、なかには焼け落ちたものもあった。人が住んでいるのはごく少数の家だけで、それもお年寄りだった。彼らはどんな生活状況かという質問にたいして、兵士は頻繁にはこない、彼らの中には慎みのある者もいれば、お金がないかと家探しする者もいるし、「花姑娘」(若い娘)を執拗に捜す者もいる、と答えた。夜を過ごすために安全区に戻って行くかなりの人たちと途中で行き合った。
 ある家のことだが、そこには男性が4人いた。私たちの見るところでは、彼らは、今でもほとんど人の住んでいない西門地区に出かけて行っては家々から扉や床板を取り外し、それを薪の束にして避難民に売ることによって生計を立てているのだ。もっとも、彼らはそんなことを認めはしなかったであろうが。私は、巻いた布地を黄麻布の袋に何本も入れて持ち歩いている若者と行き合った。彼は、買ったのだ、と言った。おそらく買ったものであろうが、しかし、それは盗品であった。私たちは、たとえ盗品の誘惑がどんなに大きくても、みんながあらゆる種類の盗品の不買運動をしたら、南京の状況は変わるのだ、ということを彼に理解させようとした。


「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


武器を使わせない世界を。



Imagine,

A world that doesn’t

let weapons be used.




憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性)




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月9日月曜日

1938年 南京 2月9日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月9日
昨日の午後、日本大使館から軍事演奏会に招待された。ローゼンはすげなく断ったが、我が委員会のメンバーは、いついかなる時もいやな顔は見せない!我々はプログラムを受け取った。
 朝(あした)には日本軍に惨殺された中国人のもとに駆けつけ、夕べにはその同じ軍隊による音楽を楽しめというのは、思えば殺生な話だ。だが、東洋では、偽善が大手を振ってまかり通るこの世界では、いちいち目くじらを立てていても始まらない。面子(メンツ)なんかとっくの昔に棄てている。かくして、かの有名な東アジア式礼儀作法にのっとって、委員会のメンバーはほぼ全員がお目見えとなった!シャルフェンベルグにヒュルター、アリソン、ジェフェリーの駆けつけた。しかもジェフェリーとかわいらしいゲイシャを真ん中に、「ドウメイ」のために記念写真までとるサービスぶりだ。
 

 福井氏から今朝日本大使館に来るよう言われた。上海まで往復する件だと言う。多分、上海に行っても日本の悪口を言わないでくれ、ともう一度念を押すつもりだろう。もし、私が反発すると思っているとしたら、とんだ見当違いだ。けれどもその心配はあるまい。彼は私という人間を知っている。日本人のようにこの私も、心にもないことを言って相手を喜ばせるだろうということも。あとで私がそれに責任を感じるかどうかはまた別の話だ。その辺も承知の上だろう。会社の命令を考えれば、もはや南京に戻ることはありえない。とはいえ、とりあえず戻る許可も取っておきたい。
 いよいよ本格的に安全区が解体される!張は、私が休暇でドイツへ帰るので木箱がいると言うと、困ったように首を振った。
「木ですか?棺を作る木さえ満足にないんですよ」
 それでもさがしてみるといってくれた。・・・・・・・


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月9日 水曜日
 午前中、昨日キャンパスで発生した事件についてのアメリカ大使館宛報告書を作成した。午後、それを持って行ったが、それはともかく、その直前に老邵がやってきて、兵士たちが彼の家にやってきて、いつにもまして粗暴な振る舞いをしたことを報告した。彼は、また引っ越してきてもよいかどうかを知りたかったのだ。午前中、李(音訳)さんとフォースター氏がやってきて長時間いた。フォースター氏は、上海からの2月4日付けの郵便物と、それに加えて、私たちが何よりもありがたがる果物も持ってきてくれた。李さんは、収容所の所長として経験した苦労を私たちに語った。それらは、妙に身近なことのように思われた。
 私たちはヘレン・ボートンのことで大変心を痛めているのだが、彼女についての新たな情報を大使館で得ることはできなかった。濾州についての情報は何も得られなかった。私は、あの内陸大平原の略奪ー家屋の略奪や焼き払い、広範囲に行われた男性の殺害、老若を問わない女性の強姦ーを想像することができる。何と、これが友情と協力を得るための戦争であるとは。
 アメリカ砲艦パナイ号から回収した貴重品に初めて目を通した。品物はいささかみじめな外見を呈していたと言わざるを得ないが、何週間も長江の水に浸かっていたことを考えれば、おそらく予想よりもよい状態だった。紙幣、その他の書類はすっかり乾いていて、いまでも紙幣は使用が可能だ。アリソンは落胆している様子だった。というのも、南京では事態の改善が遅々として進まないように見えるからだ。
 同盟通信社支局長の松本(重治)が数分間(の面会)を求めてきた。彼は飛行機で上海に行くつもりでいるので、長居はできなかったのだ。私としては、彼と知り合いになりたかったのだが。
 午後5時ごろ大使館から帰宅する途中で2つの女性グループに出会った。最初のグループは、2人の娘を連れて戻ってきた母親だ。母親が言うには、彼女たちは2日前に帰宅したものの、耐えられなかったそうだ。兵士たちが頻繁にやってきては若い女性を物色したので、いつも隠れていなければならなかったそうだ。どのくらいの期間になるかはわからないが、当然のことながら、私たちとしては彼女たちを受け入れることになる。別の1人は私をひどく悲しませ、落胆させた。彼女は、南京のある大きな学校でかつて教師をしていた人の妻で、学者一家の出身だった。彼女たちは災難に見舞われないように農村に避難したものの、全財産を使い果たしてしまい、状況がどうであれ南京に戻るしかないと決断したのだ。帰りの旅は何と悲しい物語だったことか。14歳の娘と、同じく14歳の姪は、兵士を避けるために靴も靴下も脱いで原野を歩いた。だが、それにもかかわらず、城門を入ろうとした時に姪は3度、娘は1度強姦された。14歳の少女だというのに。時間の点に関しては母親の頭は混乱していた。それほど絶え間なく苦難が続いたのだ。母親は、キャンパスに入れてほしいとは言わなかった。自分は入ることができなくても構わないが、女の子2人が入ることを許可してほしいと懇願した。金陵女子学院の校門は再び開けられた。彼女たちのためにもっと役に立てればよいのだが。
 

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


おたがいに戦争しないと


約束した世界を。


Imagine,

A world that promises

not to fight wars with each

other.


戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月8日日曜日

1938年 南京 2月8日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月8日
朝8時。難民の女性たちがぴったりと体を寄せ合い、押し合いながら庭の真ん中の通路に立っていた。空いているのはここだけだ。そして、私が朝食をすませて本部へ出かける時間になるのを、辛抱強く待っていた。私の姿を見ると一斉にひざまずき、話を終えるまで、じとじとした冷たいセメントの床から立ち上がろうとしなかった。運転手の劉が通訳した。劉は難民に信頼がある。
「日本軍と自治委員会は、君たちが今日ここから出て行かなければならないと公式に発表した。私個人としては、このまま残っていてもちっともかまわないんだ!追い出すつもりはないんだよ!けれども、日本軍がきてここから出ろと命じた場合、1人の外国人にすぎない私にはどうしようもないのだ。いいかい、私には君たちをずっと守ってやるだけの力はないんだよ。どうかわかってくれ!むろん、そういっても日本軍を入らせないよう、出来るだけのことはするつもりだ。お願いだ、私をドイツ大使館に行かせてくれ。そして大使館の責任者と相談させてくれ」
「それじゃあ仕方ないよ」劉が叫んだ。そうとでも言うよりほかなかったのだろう。すると全員が立ち上がり、黙って私を見送った。

 今朝、ベイツと一緒に日本大使館へ行き、大使館員を誰か1人、百子亭の殺人現場へ連れて行こうと思っていた。ところが家を出てまもなく、200人ほどの日本兵が行進しているのに出くわした。いよいよ軍部が力ずくで安全区を取っ払うのだ・・・・私は不安になり、取るものもとりあえずアメリカ人たちのところへ駆けつけた。見張りに動員しようと思ったのだ。それから、1人でドイツ大使館にローゼンを訪ねた。彼は2つ返事できてくれた。私の土地と建物へ日本軍が侵入する現場に立ち会おうというのだ。だが、ありがたいことに、何も起こらなかった!部隊の行進は、誰か日本の将官が通るためだったのだ。
 おたがいにほっとして一時間ほどわが家で雑談したあと、一緒にアメリカ大使館へ行った。アリソン氏に会い、3人で今日のことを喜び合った。それからローゼン、スマイス、シュペアリング、私、自治委員会のジミーの5人で百子亭へ行った。4つの死体は近くの小さな丘に葬られることになっており、すでに筵(むしろ)にくるまれていた。ジミーは、近所の中国人を探し出して事情を聞いた。それによると老人は自分の力車を取りにきたといっていたが、実際は、椅子を2つ、わら小屋から自分の家へ運ぼうとしたのだという。椅子はどこからか盗んできたのか、安く買ったかしたのだろう。そしてそれを日本兵に見咎められ、発砲されたのだという。老人は重傷を負って倒れ、妻(あるいは姉妹か?)が親戚の男を2人呼んで駆けつけ、運ぼうとしたところ、そろって殺されてしまったのだ。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月8日 火曜日
こんなうららかな日がなぜ人を悲しい気持ちにするのだろうか。説明に窮する。窓外の松の木や薔薇のつるは、きらきらと輝く陽光におおわれていた。身が引き締まるように寒いとはいえ、なぜか小鳥のさえずりに、春到来、春遠からじの感を覚えた。だが、誰が春のすばらしい美しさを楽しめるだろうか。「迎春花」や野生の沈丁花の小枝、水仙、そして薔薇を見れば、1年前には私たちと一緒にいたのに、今は散り散りばらばらになった友人たちのことを思い出すだけであろう。それは、私の生涯には多分再来することのない過去の幸せな時代に私たちがしていた仕事や遊びのことを思い出させてくれるだけであろう。
 10時に使用人の1人がやってきて、南山に兵士がいる、と言った。大急ぎでゴム靴を履き、上着を着て駆け出した。イーヴァのバンガローの裏手に兵士が若い女性と一緒にいるところを見つけた。彼の正体を知ろうとしたが失敗した。そこで、退去するよう命じると、彼は腹立たしそうに私を睨みつけたが、そのまま立ち去った。のちにその女性が話してくれたところによれば、彼女は4人の女性と一緒に南の境界に近い池で衣服を洗濯していたそうだ。4人は逃げ出したのだが、彼女は捕まってしまった。兵士が彼女に銃剣を突き付け、服を引き裂こうとしたので、彼女はしぶしぶ服のボタンをはずした。というわけで、私が姿をあらわしたとき、彼女はボタンをはずしている最中だったのだ。はじめはカッとして、彼の銃剣をひったくりーその好機はあったー、そのとき集まっていた使用人たちに、兵士を捕まえるのを手伝ってくれと頼みたいほどだった。しかし、それは分別あることではないと思い、やむなく彼が塀をよじ登って退散するのにまかせた。
 午前11時、代理大使(正しくは参事官)の日高氏に渡す報告書を携えて日本大使館へ出向いた。上海へ出発する直前だったが、さいわい、5分ほど彼に面会し、まだ戻ってきていない738人ーキャンパスにいる避難民の夫や父親や息子たちーのために彼の援助を要請することができた。
 1時20分、3人の兵士が視察に訪れたが、子どもたちの写真を撮っただけで、困るようなことは何もなかった。2時30分、別のグループー将校と憲兵各1名ーがやってきた。彼らは、かなり上手な中国語を話す人物を同伴していた。彼らにとって、10時に起こった事件は信じがたかったようで、実際信じてはくれなかった。
 2時45分、ラーベ氏とルイス氏が、日本大使館のコンサートに私を案内するためにやってきた。私たちは誰も行く気にはならなかったが、しかし、行かなければなるまいと思った。20人編成の楽団の指揮者は、実にすばらしい演奏プログラムを用意していた。にもかかわらず、私は音楽に没入することができなかった。「軽騎兵」序曲が演奏された時、私の心は、12月14日に校門を出て行ったあの行列からどうしても離れなかった。両手を縛られ、日本軍の歩兵と騎兵のうしろから歩いて行った100人ないしそれ以上のあの一般市民の集団、いまだに戻ってこない集団のことだ。そして、「我らの軍隊」が誇らかに演奏された時、破壊された都市や荒廃した農村や強姦された婦女子の姿が絶えず私の目の前に浮かんでいた。私は、音楽を聞いたような気がしない。ドイツ人、イギリス人、アメリカ人を代表して多分20人の欧米人が出席していた。日本大使館の職員たちは私たちに(日本の蛮行を)忘れさせようと試みたのである。
 午後、イギリス砲艦ビー号がオランダの高官を乗せてやってきた。郵便物を持ってきていると嬉しいのだが。

 
「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、


武器をつくったり


売ったりしない世界を。


Imagine,


A world that doesn't


make or sell weapons.


紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月7日土曜日

1938年 南京 2月7日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月7日
 軍服など、道路にばらまかれていた兵士の持ち物をうずたかく積み上げて燃やしたあと、日本軍はやはり道路に置きっぱなしになっている壊れた車に火を放った。むろん、使える部品をあらかじめそっくり取り出しておいてからの話だ。


 許さんが知らせてきたのだが、なんでも蓮沼の近くで、明け方に中国人が4人、日本兵に射殺されたとか。1人の老人が、家の近くに自分の力車を隠しておき、取りに行ったときの出来事だという。老人は射殺された。奥さんと親戚の男の人が2人、助けようと駆け寄ったところ、同様に撃たれてしまった。
 紅卍字会の使用人2人に案内されて、午前中、ソーンと一緒に西康路の近くの寂しい野原に行った。ここは2つの沼から中国人の死体が124体引き上げられた場所だ。その約半数は民間人だった。
犠牲者は一様に針金で手をしばられていて、機関銃で撃たれていた。それから、ガソリンをかけられ火をつけられた。けれどもなかなか焼けなかったので、そのまま沼の中に投げ込まれたのだ。近くのもう1つの沼には23体の死体があるそうだ。南京の沼はみないったいにこうやって汚染されているという。
 殺された女の人の娘と妹をつれて、ミルズと私は午後、現場へ車で向かった。許さんから聞いた話をこの目で確かめるためだ。ホーブズ少佐が以前住んでいた家のすぐ近くだった。
 行ってみると野原に男女3名の死体が転がっていた。三つともぴったりくっついている。およそ10メートルほど離れたところに老人の死体があった。竹竿に板をつけた間に合わせの担架がその間に放り出されていた。女の人によばれ、結局殺されてしまった2人は、これで老人を運ぶつもりだったのだ。またしても貧民が犠牲になった。彼らの百姓で小さな畑を持っており、すでに畑を耕していた。すぐそばに粘土でつくったみすぼらしい小屋がいくつかあり、中はからっぽだった。殺された女の人は10ドルほど身につけていたはずだという。娘は言った。「それが母の全財産でした」。けれども見当たらなかった。ミルズも私も深くショックを受けた。あまりのことに涙も見せず、ただ繰り返しお辞儀ばかりしている娘に、私は10ドル握らせた。これで、少なくとも金だけは戻る。帰る前に、妹のほうはそれぞれの遺骸に一握りの土をかけていた。
                                 


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月7日 月曜日
 今朝、私たちの計画を再検討するための女性伝道奉仕者の会議が行われた。私たちは、それぞれの避難民収容棟に係員各1名を配置した。係員の今週の目的は、より詳しく状況を把握すること、元気づけること、直接的な援助をする最善の方法を案出すること、家政及び手芸のクラスー「学校」ではなく「クラス」-の開設について非公式に話し合うことだ。
 今朝王さんがやってきて、すでに帰宅した比較的に年齢の高い避難民たちに対する凌辱の事例について報告した。閉鎖されたある収容所の所長が今日2人の娘を連れてきた。彼と彼の妻は、戸部街に住もうとしている。彼が言うには、昨日兵士たちがトラックで乗りつけ、彼の隣人たちの家から上等な寝具をすべて奪い取ったそうだ。さいわい、彼の寝具は新品でもないし、あまりきれいでもなかったため難を免れた。西華門近くの何軒かの家では、兵士たちは若い女性を見つけることができないので、10代の少年を代用しているようだ。
 これまでのところ、避難民の報告で行方不明とされている男性の大まかな分類は以下のとおりだ。
商人390人、庭師・農民・日雇い労働者123人、工芸職人・仕立て職人・大工・石工・料理人・機織職人など193人、警察官7人、消防士1人、少年(14-20歳)9人、合計723人だった。これらの人々の大多数は12月16日に拉致され、いまだに帰宅していない。
 今日の午後、タイプ書きのラジオニュースをジョン・マギーが私たちに届けてくれた。合肥がいまにも危地に陥りつつあるようだ。農村地域はいったいどんな状況になっているのだろうか。
  

「Imagine9」【合同出版】より




想像してごらん、



軍隊のお金をみんなの


暮らしのために使う世界を。



Imagine,


A world that spends money


not on armies,


but on people's lives.



アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月6日金曜日

夏淑琴さん!最高裁 勝訴!!

夏淑琴裁判で夏さんの最高裁での勝訴が確定しました!!

弁護団の声明
最高裁判所第1小法廷は、本日、南京大虐殺事件の被害者である夏淑琴氏に対する名誉毀損に関し、慰謝料の支払い等を求めた事件について、一審被告東中野修道等による上告及び上告受理申立を、いずれも棄却する決定を行った。これによって、夏淑琴氏の勝訴が確定した。

 本件訴訟は、夏淑琴氏が1937年12月に南京で発生した旧日本軍による虐殺事件(南京大虐殺事件)において、両親など家族7人を虐殺され、自らも銃剣で刺されて重傷を負うなどの筆舌に尽くがたい深甚な被害を被ったのにもかかわらず、被告東中野修道が、その名誉を毀損する書籍「『南京虐殺』の徹底検証」を被告株式会社展転社等から出版したことに対し、夏淑琴氏が名誉毀損及び人格権の侵害を理由として、損害賠償と謝罪広告の掲載を求めたものである。
 すなわち本件書籍は、史料に被害者として登場する「『八歳の少女』と夏淑琴とは別人と判断される」、「『八歳の少女(夏淑琴)』は事実を語るべきであり、事実をありのままに語っているのであれば、証言に、食い違いの起きるはずもなかった」、「さらに驚いたことには、夏淑琴は日本に来日して証言もしているのである」等と記載され、これらの記述は、原告が「ニセの被害者」であると決めつけ、ウソの証言までしているものと非難するものであり、原告の名誉を毀損するとともに、その人格権を著しく侵害するものである。

 一審被告らは、上告審においても、南京事件は国民政府の謀略である等、荒唐無稽の主張と史実の歪曲を重ねたが、最高裁判所もこれらの主張を受け付けなかった。南京大虐殺事件は歴史的事実であり、当時の日本の侵略性を示す事件として世界に広く報道され、国際的な批判を浴びた蛮行であった。大都市における顕著な侵略的事実は、当然のことながら多くの目撃者と記録が残され、現地においては公知の事実であり、大規模な虐殺行為が行われたという歴史的事実は疑いのないところであって、現在の歴史学界における定説といってよい。

 過去と向き合い、事実をありのままに受け入れることからしか、侵略の歴史への反省はあり得ないし、真のアジアの平和の構築も実現しない。
 夏淑琴氏が、高齢にもかかわらず本件訴訟を提起したのは、自分の悲惨な体験を語り続け、戦の悲惨さと平和の尊さを社会に訴えることが、日中両国民の信頼関係の確立と、アジアの平和にとって必要なことであるという信念に基づく。

 最高裁判所が今般、あらためて夏淑琴氏の主張を認め、一審被告らの上告を棄却したことは、本件訴訟のこのような趣旨に照らし極めて大きな意義を有する。誤った歴史観を許さず、歴史の改竄を許さないことによって平和な国際社会を実現することは、日中両国の心ある市民と我々弁護団の共通の願いである。今般の最高裁決定によって、この願いが改めて実現したことを、私たちは高く評価するものである。

     2009年2月5日

南京大虐殺・夏淑琴氏名誉毀損事件弁護団

「産経新聞」より

南京事件研究書で賠償確定
2009.2.5 22:05
 南京事件の研究書で事件の被害者とは別人と指摘され、名誉を傷つけられたとして、中国人の夏淑琴さんが、著者の東中野修道・亜細亜大学教授と出版元の展転社に損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第1小法廷(涌井紀夫裁判長)は5日、教授と同社の上告を退ける決定をした。東中野教授と同社に計400万円の支払いを命じた1、2審判決が確定した。

1938年 南京 2月6日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月6日
南京との訣別
 通りすがりに、あちこちの防空壕をのぞいてきた。この前の中国の空襲があったとき、みな中に入ろうとしなかったのが印象に残っていたからだ。防空壕にはどれも例外なく地下水で水びたしになっていた。日本兵にあれほどひどい目にあわされたので、空襲など怖くなくなってしまったのだろう。難民たちが大勢、黙って庭で空を眺めていた。なかには飛行機など気にも留めず、わら小屋で普段どおりに過ごしている者もいた。
 今日、日本大使館に上海まで往復する許可を申請してきた。「原則的には、この手のものはすべて却下されますが、なんとか努力してみましょう」と福井氏は言ってくれた。ローゼンが推薦状を書いてくれたが、あまり役には立つまい。前にも書いたが、ローゼンは日本人から見て決して好ましい外交官ではないからだ。しかも、かくいう私も国際委員会の代表であり、やはり日本人から好かれているとは言いがたい。とはいえ、いまだに中国本社から滞在継続を認めるといってこない以上、こうするよりほかないのだ。もしそれでも許可が下りたら、外国の砲艦に乗せてもらって行きたいと思っている。


 ドイツ大使館南京分館からのローゼンの報告

 今日の5日に、日本大使館におきまして、ティーパティーが催されました。新しく任命された日本の駐屯部隊司令官天谷直次郎少将が、当地の在外公館のメンバーを招待したのです。
 かなり長いこと待たされた後、我々は席に着くようすすめられました。少将は長ったらしいスピーチを読み上げ、それを福田書記官がつっかえながら英語に訳しました。


 まず第一に、少将は日本軍の規律正しさについて述べました。
 我が軍はその規律の正しさで世界に知られている。日露戦争においても満州出兵においても、これが破られることはなかった。このたび中国においてこのような事態が起こってしまったのは、ひとえに中国側の責任である。とはいっても、他国の軍隊であったらもっとひどいことが起きたに違いないと確信している。蒋介石は軍のみならず人民全体に抵抗を呼びかけ、それが日本兵の感情を甚だしく害したのである。なぜなら進撃途上で、食糧その他の必需品を一切手に入れることができず、その結果、兵士は人民に怒りをぶつけずにはいられなくなったのだ。南京への進撃はあまりに迅速だったため、食糧の補充は決して容易ではなかった。(こういっておきながら、あとから、食糧補給隊は時間を持て余し、そのためあのような行為に及んだ、という矛盾する発言がありました!)


 天谷少将は徹底的に中国側を批判しました。
 中国軍はまず第一に日本の将校を狙った。そのため、将校たちは兵卒の軍服を着なければならなかった!中国人スパイもまた、発火信号などを用いて、参謀本部の所在地を目に付くようにして、砲兵隊や航空兵に参謀本部を攻撃させたのである!
 南京に関していえば、外国人、とりわけ「ある国家」の人間がでしゃばって裁判官の役割を果たしている。外国人の介入がなければ、南京における日本と中国の関係は間違いなくもっとうまくいったに違いない!日本軍に抵抗するよう中国軍にけしかけたのはこれらの外国人に他ならない。外国人に損害を与えた点に関しては、いかなる批判にも甘んじよう。だが、こと中国との関係については、干渉されたくはない。
 

 最後に、天谷少将は、何か意見があるかと我々に訊ねました。私はすでにこの「スピーチ」のおかしな論理に反感を抱いており、在外公館の最古参者ではありますが、何も言う気になれませんでした。一方アメリカ大使館の南京責任者アリソン氏は、原稿の写しを要求しました。すると、あろうことか、突如として今のは全くの即興だったというのではありませんか。たった、今、少しでも明るい方へと時々原稿を動かしながら、少将が眼鏡をかけて一語一語読み上げ、福田書記官がもう一枚の原稿からとつとつと訳していたというのに!

 天谷少将の挨拶に話を戻しますと、さしあたって次のような結論が引き出されましょう。つまり、中国軍の抵抗により日本軍はかなり動揺したということです。ある民族が、積年の苦しみと絶え間ない屈辱の果てに、ついに侵入者に反旗を翻すということぐらい、愛国心の強い日本人には自明の理だと思うのですが。ところが、際限なくのぼせ上がった日本人は決してこの事実に目を向けようとしませんでした。およそ2年前、満州国の外交部次長であり、日中戦争の最高責任者の1人である大橋忠一氏は豪語したものです。中国の主力軍など、日本の2師団もあればわけなくおさえられるだろう、と。
 将校、いやそれどころか参謀本部についても天谷少将が不安を感じたという事実は、中国進軍について、日本が全く別のイメージを抱いていたことを如実に物語っています。
 南京住民が日本人を受け入れなかった理由を外国人のせいにしようとする天谷少将の試みは的外れとしか申せません。なにより、南京に残っている外国人が、リーダーとして同盟国であるドイツの人間、しかもナチ党員であるジョン・ラーベ氏を据えたことを考えれば、それは明らかです。
 また、少将が「ある国家」にアメリカをも含めととしても事情は変わりません。アメリカ人はドイツ人と共に密接に提携して共に行動してきました。ドイツ人がしたことはすべてアメリカ人が加わり、無条件に承認したのです。ドイツ人とアメリカ人が敢然と間に立つことがなかったら、日本軍の殺戮は著しく増加していたと思われます。ですから、日本は外国人に心から感謝して当然なのです。


 我々外国人の予想に反して、日々繰り返される空襲や市街戦に苦しめられながらも、中国人民は非の打ち所のない規律を示し、比較的重要でない事柄を除けば外国の国旗を尊重したのです、一方日本軍のほうは、南京がとっくに平穏な兵站基地になったあとも、人を殺し、強姦し、街を焼き払い、あらゆるものを、ドイツ人はじめほかの外国人の所有物をも襲ったのです。

 ラジオのニュースによりますと、ドイツの外交政策の転換により、日本は自国の中国政策が追認されるのではないかと大きな望みをかけている模様です。けれどもその際、日本はあることを見逃しております。ほかならぬ防共協定の創案者(ヒトラーのこと)が、日本によるこの高尚な理念の濫用に対して若干もの申すかもしれないということを。

 漢口との郵便連絡がうまくいきません。よって、この報告書を外務省に直接提出します。

                        ローゼン


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月6日 日曜日
 立春は2月4日だった。いくらか暖かくなった。日が照っている。新しい春を告げる鳥たちがあたりでさえずっている。再び春を迎えるにはあまりにも悲しいように思われる。
 目の具合が悪いので、今日は家にいた。具合の悪いのが左手であったら、そのほうがよいのだが。その場合には、少なくとも読み書きだけはできるだろうに。
 今日は兵士1名が訪れただけだった。王さんが彼を案内した。避難民は2月8日までに収容所を出なければならないそうだ。私たちの収容所については事情が違うー現在、大部分が若い女性だーという理由で、何か思い切ったことをしてくれるのだろうか。
 午後の集会は素晴らしかった。・・・・・・・・
 昨日ブランチとマッカラム氏が、年齢の高い避難民男性2人を自然科学研究所に連れて行き、そこに住まわせるようにした。残存している生物学標本を損壊されないようにするためだ。2人は大喜びで行った。彼らの年齢では、いくらなんでも過激な青年だと非難されることなどありえない。あの立派な植物標本の損壊とともに無に帰した努力のことを思い出す。
 今朝ルイスがやってきて、栄養不良者に与えるミルクと肝油の割合について指示を出した。その少しあとでプラマーがやってきて、避難民用として300ドルを提供してくれた。贈与分の100ドルと、最終的には500ドルになる貸付資金のうちの200ドルだ。(安全区国際)委員会は、直接的な救援がどうしても必要なので、学校の開設という考えに賛成ではあるものの、その資金を別に用意することは不可能だと思っている。
 今日はたくさんの重爆撃機が市街上空を飛んでいる。
 

「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん

世界から戦争のなくなった

平和な世界を。



Imagine,

A peaceful world without war.




でも、どうやったら

そんな世界がやってくるのかな

一つひとつ考えてみよう。



But,how can such a world be

made?

let's think about it.





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月5日木曜日

1938年 南京 2月5日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月5日
 強姦などの暴行は、2月1日から2月3日までのたった三日間でまたもや98件もあった。さいわいわが家の収容所では、今日も問題は起きなかった。けれども、事態のひどさはこの中国人の手紙が雄弁に物語っている。収容所の責任者であるこの人が言うには、そこの中学では5000人だった難民が8000人に増えたそうだ。

 金陵大学付属中学からの手紙   1938年2月5日  於南京
  拝啓 ラーベ様
 書面をもって報告させていただきます。保護を求めて戻ってくる難民の数は増える一方です。そして、家には長くはいられないと口々に訴えております。といいますのも、日本兵に絶え間なくひどい目にあわされるからです。娘を出せと言われ、言うことを聞かなければ殺すと脅迫されるのです。
 ラーベ様、あなたやあなたのご友人たちの他、私どもには誰一人頼れる人はありません。なにとぞ、ドイツ、アメリカ、日本の大使館と話し合ってくださるようお願いいたします。難民たちは、私のところに助けを求めてやってくるのですが、助けてやりたくとも私にはどうすることもできないのです。
 自治委員会には日本に対する影響力は全くありません。委員会から、難民を助けることのできるのは国際委員会だけだと言われました。自治委員会の妻たちでさえ、一般民と同じように強姦されているありさまなのです。それなのに、なぜ自治委員会が難民たちに自分の家に戻れと言えるのか、私には理解できません。安全区の外に出たら最後、身を守るすべがないことは、自治委員会にもよくわかっているのですから。
 難民たちがいかに悲惨な状況にあるか、それを言い表す言葉はとうてい見つかりません。

 なにとぞ中国をお見捨てにならぬよう、我々をお救い下さるよう、神に祈るばかりです。あなた様やそのご友人たちが手をさしのべてくださらなかったら、いったい誰が助けてくれると言うのでしょう。お願いです、どうか、ご友人たちと一緒に考えてください。
 敬愛するラーベ様、あなたは私たちの師です。これを書きながら、私は涙をおさえることができません。あなたに神のご加護がありますように。そして私たちのためにもお祈りくださいますよう。
                           敬具

                      D・G・ライムズ


 14時15分
 またもや中国機が上空を飛んでいる。とにかく飛行機に中国の印がついていることだけは確かだ。パイロットがどこの国の人間かはわからない。ロシア人でないといいが。ロシア人だとすると、ハーケンクロイツの旗を掲げてもあまり効き目はないだろうから。
 収容所を2月8日に閉鎖するという新たな指令が出た。大混乱になり、いっこうにおさまらない。これまでに、約三分の一が出て行った。残ったのは大半が女の人だ。ここから出て行きたくないのだ。今日、鼓楼病院の医師たちから連絡があった。脚気の患者が2人運ばれてきたという。米飯だけのかたよった食事では不思議はない。上海に「薬を送れ」と電報を打つことにした。
 我々ドイツ人は、ラジオのニュースで一様に大きなショックを受けている。国ではプロンベルグ、フリッチュ、そのほか数人の将官が辞任、ないし解任されたというではないか。外交政策を考慮して、という話だが、1日も早く詳しいことを知りたい。そうでなくてさえ、目の前に悲惨な出来事がごまんとあるというのに、この上、祖国の平和を憂えなければならないとは・・・・・・。勘弁してくれ!




「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月5日 土曜日
 中国の暦によれば、昨日が立春。今日は日差しがとても暖かい。雪はすっかり融けてしまった。
 目が充血し、扁桃腺炎の気味があったので、終日ずっと部屋にいた。王さんが終日私の執務室にいた。客を迎えたり、行方不明の人たちを職業別に分類するためだ。可能であれば、その件で日高さんに会いたい。ほかの職員は、彼らがこの1週間のうち3日を費やして入手した資料の分類作業をしている。安全区国際委員会から救援が得られるかどうかは、私たちの勧告いかんで決まる。この大問題に対処するには、南京にいる練達の職員も何と無力なことだろう。午前中、私たち5人は3時間を費やして、国際委員会に提出する勧告を作成した。
 昨日自宅に帰った女性のうち4人が今朝戻ってきた。この4人の中の1人である40歳の女性は、城門から出る際に衛兵に3ドルを強奪された上、そこから少し先に行ったところで別の兵士によって退避壕へ連れて行かれた。彼女を拉致した兵士は、畑の向こうからやってくる女性(20歳)の姿を見ると彼女を解放した。危険を冒して自分の家ーというよりは家の残骸ーに帰るくらいなら、このキャンパスで餓死するほうがましだと、年齢の高い女性たちまでもが考えるのも不思議ではない。1週間以内に全員が安全区に戻ってくるだろう、と予言する人もいる。全く気の毒な女性たちだ。何たる窮地であろう。
 門衛でさえも気づかないうちに、かなりの数の若い女性たちがこっそり入ってきている。彼女たちは閉鎖された難民収容所からきたのだ。昨日私たちは、避難民がよその収容所からこの収容所へ殺到するのを食い止めようとした。
 今日キャンパスにはいまなお約4000人ー大多数は若い女性ーがいると思う。現在までに37件の出産と27件の死亡があったが、死亡者のうち5件は成人である。今日は文科棟の階下のホールから階上の教室に若い女性たちを移すつもりだ。そうすれば玄関ホールをきれいに片付けることができるし、ぜひそうする必要がある。階段下のガラスで囲まれた場所にはいまなお女性たちがいる。ガラスの家に住んでいる人たち、というわけだ。
 午後、警戒警報がとてもはっきり聞こえた。それは、どんなに多くのことを私に思い出させたことか。多分、中国軍の飛行機が句容へ向かっていたのだろう。



「Imagine9」【合同出版】より


MESSAGE(メッセージ)

環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。

人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。

あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。


ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月4日水曜日

1938年 南京 2月4日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月4日
今日は見張りに出なければ。うちの収容所と、裏のドイツ人学校、表の中学校の三ヶ所に目を光らせるのだ。それぞれ、ドイツ人学校には600人、中学校には5000人の難民がいる。日本軍に力ずくで入ってこられれば歯が立たない。だが、せめてこの目でしかと見届けることはできる。そうすれば、世界中の人に伝えることができるのだ。
 恐れていた2月4日が過ぎた。何も起こらなかった。日本軍に不愉快な目にあわせられることもなかった。今日は、正月の最終日だ。雨や雪もなんのその、人々は庭で爆竹を鳴らしてにこにこしている。貧しい人というものは、こんなにも欲のないものなのだ。殴り殺されさえしなければ、もうそれで満足なのだ。
 フィッチが、昨晩再び上海ラジオにでた。今回も日本に対して好意的なことを言っていたが、それは、1月28日から31日の間に強姦などの事件がさらに増えたことを知らないからだ。もし知っていたらああいう言い方はしなかったろう。なにしろ今までで一番ひどかった12月の数日間より多かったのだから。
 それはそうと、日記帳は無事届いただろうか?ドーラはなんとも言ってこないが。本社からも音沙汰がない。3月の初めまでここにいてもいいのだろうか?

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月4日  金曜日  
 気の毒な女性たちにとって今日は恐怖の日だ。彼女たちがそれぞれの家に帰ることになっている日なのだ。この日がどんな結果を産むのか、私たちにはわからない。私たちとしては、無理やりに人々を帰宅させるつもりはない。彼女たちが責任を負わされることになる。
 午前中、5人の若い女性が聖経師資培訓学校(聖書講師養成学校)からやってきて、きのうそこの収容所が閉鎖されたこと、彼女たちがそれぞれの家に帰ったこと、夜間、兵士たちが侵入してきたこと、彼女たちが家の塀をよじ登って聖経師資培訓学校に逃げ戻ったことを話した。彼女たちはここに来たがっている。私たちとしては、彼女たちを受け入れたら避難民が殺到することになろうし、その場合には、いまなおここにいる4000人ないしそれ以上の避難民にいっそうの危険がもたらされるのではないかと心配だ。このあと私たちは、彼らを受け入れることを決めた。よその収容所を出て帰宅した若い女性たちが、このあと数日たって、自宅にずっといることはできないと思ったら、私たちは彼女を受け入れ、その結果について責任を負わなければならないだろう。
 10時と12時30分に憲兵2人がやってきて、いくつかの棟を査察した。彼らは、別状がないかを確かめにきた、と言った。もっとも彼らには、多分それ以外の目的があったようだが。私たちは、避難民は1万人いたが、今残っているのは4000人だけで、多くの避難民はすでに帰宅した、と説明した。避難民の中には、上海、無錫、その他の出身で、交通機関が開通しなければ帰宅できないものがいるし、一家の稼ぎ手である息子や夫が連れ去られ、生活手段のない者もいること、さらには、家を焼かれてしまい、帰るべきところのない者もいることも説明しようとした。
 3時に大使館の警官二名と中国人一名がやってきて、避難民の帰宅計画について彼らに説明したいので全員を集めてもらいたい、と言った。私たちは、理科棟にいる避難民を大講義室に集めた上で、そのグループを手はじめに一棟ずつ説明していくことを提案した。彼らはこの案に賛成したが、しかし、最初の棟だけで説明をやめてしまった。避難民女性たちの理解を得るのは容易なことではない。要点は次の3点だ。
1、全員が帰宅しなければならない。憲兵、普通警察および特別地区維持会(南京には4つの特別地区がある)の関係団体(自治委員会の組織)が彼女たちを保護してくれる。
2、夫が連行されたり、家屋が焼かれたりした場合、もしくは極貧である場合には当該特別地区の関係団体に申し出ること。
3、今後は安全区に対する保護措置はとらない。4つの特別地区のみが保護される。家財を安全区に持ち帰ってはならない。
 その中国人はわざわざ居残るようにして、若い女性は安全ではないから、引き続きキャンパスに留まらせるほうがよい、と小声で助言してくれた。
 午後5時30分、救援計画について相談するためプラマーがやってきて、どこの収容所でも強制退去は行われていない旨を述べた。午後5時、若い女性200人ほどがやってきて頭を地面にすりつけ、ここにいさせてくれと懇願した。私たちは、彼女たちを強制的に帰宅させることは考えていなかった。このあとプラマーが立ち去る時、彼女たちは彼の車の前で涙を流し、頭を地面にすりつけて要請行動を行った。気の毒な人たちだ。


「Imagine9」【合同出版】より



はじめに

 戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
 世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
 日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
 それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
 世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月3日火曜日

1938年 南京 2月3日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月3日
 収容所ではどこもかしこも似たような光景が繰り広げられている。うちの庭でも、70人もの女の人がひざまずいて、頭を地面にこすりつけながら泣き叫んでいる。なんという哀れな姿だろう・・・・胸がふさがる。みな、ここから出て行きたくないのだ。日本兵が怖いのだ。強姦されはしないかとおびえている。しごく最もな話だ。私はくり返し訴えられた。
「あなたは、私たちの父であり、母です。これまで私たちを守ってくださいました。お願いです、どうか見捨てないで!最後まで守ってください。辱められ、死ななくてはならないというのなら、ここで死なせてください!」
 胸がつぶれるようだ。その気持ちはいたいほどわかる。だから私はここに残ってもいいと言った。結局年寄りが何人か出て行っただけだった。
 日高氏の言葉は本当だろうか。日本軍は暴力を用いることはないといっていたが。だが今までさんざん煮え湯を飲まされてきたので、少々のことでは驚かないだけの覚悟はある。明日、委員会のメンバーはそれぞれ警戒を怠らないだろう。我々はいい加減腹に据えかねている。日本当局はやつらを「ならずもの」とか呼んでいるそうだが、聞いて呆れる。こっちじゃ「人殺し部隊」といってるんだ。そういう輩が今度は正々堂々と収容所へ入ってくるとなれば、ただじゃすまないだろう。
 今しがた張から聞いたのだが、私たちがかつて住んでいた家の近く、通りを入ったすぐのところの小さな家で人が殺されたそうだ。17人の家族のうち、6人が殺されたという。娘たちをかばって家の前で日本兵にすがりついたからだ。年寄りが撃ち殺されたあと、娘たちが連れ去られて強姦された。結局女の子が一人だけ残され、みかねた近所の人が引き取った。
 局部に竹をつっこまれた女の人の死体をそこらじゅうで見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を超えた人さえ、何度も暴行されているのだ。
 日高氏に手紙を書いて、難民を力ずくで追い出すことはないという先日の約束を文書にしてくれるよう、また、その件について軍当局と是非もう一度話し合ってくれるよう頼んだ。

 江南セメント工場のシンバーグさんが、ギュンターさんの報告を届けてくれた。これを見ると、南京だけが日本兵に苦しめられているいるのではないことがわかる。強姦、殺人、撲殺。同じような報告が、四方八方から入ってくる。日本中の犯罪者が軍服を着て南京に勢揃いしたのかといいたくなる。
 ローゼンの内密の情報に間違いがなければ、私の勲章のコレクションは、近々もう一つ増えることになりそうだ。ドイツの赤十字勲章の候補になっているらしい。クレーガーやシュペアリングもそうだと言うし、私もじたばたせずに、成り行きに任せることにしよう。
 注・トラウトマン大使は、この3人を赤十字勲功十字章受章者に推薦した。



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月3日 木曜日
 ひっきりなしに雪が降っている。とても寒い。一棟当たりでおそらく900人以上いる二つの研究棟を除くすべての棟の避難民登録を終了した。乳幼児や病気の子どもたちに肝油と粉ミルクを配給する方法についての相談で、ルイス・スマイスが午前、そして午後にも電話をかけてきた。彼は、安全区委員会としては、収容所を管理している私たち全員に対し、避難民が帰宅する期日である明日はそれぞれの部署についているよう要望していることも伝えた。
 自分たちの家に帰らされるとは、住民にしてみれば何と恐ろしい決定だろう。帰宅すれば物品を強奪されたり、銃剣で刺されたりするだけでなく、強姦されるというきわめて重大な危険に依然としてさらされているのだ。きょうは、私たちの力の一部は、比較的年齢の高い女性にたいし、たとえ危険を冒しても帰宅するよう促すことに費やされた。若い女性たちがここに安全に留まっていられるようにするためである。
 かつて神学院の女子寄宿舎の舎監をしていた李さんが、神学院収容所の若い女性たちの要請をを受けてやってきた。彼女たちは、そこの収容所が閉鎖された場合、ここに来たがっている。若い女性は全員を私たちが船で上海に連れて行ってくれるという根も葉もない話を聞いたからだ。・・・・・


 今夜は目が充血して痛いが、程先生が手当てをし、眼帯をしてくれた。私は、4人の盲目の避難民女子に対し、これまでにもまして同情を覚えている。彼女たちは、どのようにしてあれほど快活になれるのだろうか。


「Imagine9」【合同出版】より



考えてみよう、

日本の憲法9条のこれから。



 日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
 2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。

 また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
 そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月2日月曜日

1938年 南京 2月2日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月2日
 韓の調べによると、うちの難民は600人を超え、世帯数は135だと言う。そのうち、24家族は家を焼かれ、帰る所がない。昨日、泣きながら出て行った人もいた。誰も日本軍を信頼していない。当たり前だ。2つの収容所の報告から、まだ安全でないことがよくわかった。
 昨日、本間少将到着。南京の混乱を鎮めるため、日本政府から全権を与えられているそうだ。ここには2日しかいないというが、それで足りるのだろうか。ローゼンは、1月30日付けの私の手紙をもとに、難民がどんなに困っているかを詳しく説明した結果、あまり本間には期待できないだろうという意見だ。
 今日、上海日本大使館の日高信六郎参事官と、ローゼン宅で昼食。我々が記録した日本兵の暴行はこの3日間だけでなんと88件もある。これはこの種のものとしては、今までで一番ひどかった12月を上回っている。報告書を渡すと、日高氏は全く困ったものだとつぶやいて、部隊が交代するときには往々にしてこういう事件が起きがちだと言い訳した。
「前の部隊は評判が悪く、1月28日に離任させられたんですが、撤退前にもう一度けしからぬ振る舞いに及んだという話です」
 この手の逃げ口上は先刻承知だ。けれども我々は、いま報告されている強姦などの事件が実は新しい部隊のしわざだという証拠をつかんでいる。難民が2月4日に力ずくで追い立てられるというのは本当かと聞くと、自分が知る限りでは、絶対にそんなことはないと日高氏は言った。「それに、2月4日以前に収容所を出れば、元の家に戻るにあたって多少補償があるはずです。つまり、家が焼けている場合は別の家を与えられることになっています。今までにもう、8万人以上が戻るといってきましたよ」
 私は念を押した。「近いうちに我々も収容所を解散したいと考えています。ですからなおのこと、いくども難民に家に帰るようすすめました。けれどもそのために、一にも二にも安全であることが条件になります」
 日高氏は、強制執行しないということは中国人には黙っていてくれといった。すんなりいかないと困るというのだ。私は約束した。・・・・・・・


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月2日 水曜日
 今朝は薄暗くて寒い朝だったが、たくさんの飛行機が西北部に死と損壊をもたらした。
 アーネスト・フォスター、ジェームズ・マッカラムと一緒に10時、最初に城南にあるキリスト教伝道館へ、そのあとアメリカ教会伝道本部へ行った。インディアナビルディングは、外側はそれほどひどく損壊していなかったが、とくに最上階の部屋は徹底的な略奪をこうむっていた。西地区の校舎は焼け落ちていた。中華路では、最高級の建物の80パーセントが焼けてしまったようだった。キリスト教青年会は、真っ先に焼かれた建物の一つだった。日本軍入城直後の数日間、火災はそれほど多くなかったが、1週間と経たないうちに、計画的に略奪した上で放火するという方針がとられ、何日間もそれが続けられた。結果は、今朝私が見たとおりだ。撤退するさいに中国軍は、金銭を奪う以外はほとんど略奪を働かなかった。全く奇妙な話だが、私たちとしては、こんなことになるとは思ってもみなかった。私たちの多くは、(日本軍の)長期にわたる包囲攻撃と、中国軍兵士による略奪を恐れていた。いやむしろ、日本軍はきわめてよく訓練されているから略奪や放火はしないと確信していた。アメリカ教会伝道本部も、ほぼ同じような状態だった。伝道施設はアメリカ側と日本側の声明によって十分に保護されていたはずであるにもかかわらず、徹底的な略奪をこうむっていた。学校はほとんどの部分が爆弾で破壊されていたが、教会はそれほどひどい損害を受けていなかった。
 太平路では商店がほとんど軒並み焼かれてしまった。徹底的な略奪の証拠を隠蔽するためだ。軍のトラックが略奪品を運び出した。後日、かりに日本人実業家が南京市に居住しようとしても、必要な建物を建てるには巨額な資金がいるだろう。商店は、日本人が開設した少数の店以外は一軒も残っていなかった。
 上海からついさっき帰ってきた福田氏に会うため、11時15分、日本大使館へ行った。彼は、私が提供した、658人の行方不明者ー私たちの収容所にいる避難民女性の夫や息子ーの資料を受け取った。大多数の者は12月16日に連行された。福田氏は、できることはするつもりだ、と言ってくれたが、私は、それは誠実な言葉だったと思う。というのも、夫のいなくなったそうした女性たちが社会に頼っていることを彼は認識していたからだ。だが、そのような社会など存在しないのだ。すべての避難民に帰宅を強制する命令が出されていることについて彼に手短に話し、また、最近三日間に発生した何件かの強姦のことを伝えた。彼は、もっと多くの事実を知りたい、と言った。この訪問のあと私は紅卍字会本部へ行き、キャンパスの西隣に放置された死体ーとりわけ、二つの池の岸に放置された焼け焦げ死体のことを伝えた。(南京)占拠以来、紅卍字会は1000体を超える死体を棺に納めてきたのだ。
 3時から5時30分まで執務室にいた。といっても、仕事をするためではない。数人の女性がやってきて、彼女たちのこうむった悲劇的事件ー信じがたいほど残酷残忍に思われる事件ーについて語った。いつかそのうち、日本の女性たちにこうした何とも悲しい話を知ってもらいたいものだ。・・・・・・
・・・・・・・・
 明日午後の集会の参加券を郭江(音訳)と私が配っていたら、若い女性たちが、2月4日に強制的に帰宅させられることのないよう、精一杯努力してほしい、と哀願した。彼女たちは、退去を強制されるくらいならキャンパスで餓死したい、と言った。


Imagine9」【合同出版】より



考えてみよう、

日本の憲法9条のこれから。



「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



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2009年2月1日日曜日

1938年 南京 2月1日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月1日
 ラウテンシュラーガー氏あてに祝電を打つ件だが、ローゼンが反対したので電報は見合わせた。波風をたてたくない。ヒトラー全権掌握五周年記念祝賀会へ電報を打とうとしたのだが、ユダヤ人の血を引くローゼンは招かれていなかったからだ。だから、南京のドイツ人がみな祝ったとは言えない。
 右を向いても左を向いても、聞こえてくるのは中国人の嘆きばかり。家に帰ったはいいが、妻や娘が強姦されたというのだ。結局あとからあとから安全区へ舞い戻ってきた。また受け入れてやるよりほかない。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月1日 火曜日
かなりよく晴れた暖かな一日だった。またまた飛行機が飛んでいる。大型機が北西方向に飛んでいる。今日は飛行船も飛んでいる。浦口付近上空だ。どういうわけでこんなに近いところを飛ぶのか合点がいかない。
 今朝9時から避難民のいる6つの建物で女子学院独自の避難民登録を始めた。というのも、避難民が家へ帰る前に彼らそれぞれの家庭についてもっと詳しいことを知りたいからだ。この作業を手伝ってくれる人がどの建物にもそれぞれ2人いる。作業を終了するには2日かかるだろう。王さんとフランシス陳が難民収容所所長会議に出かけた。私の代わりに王さんが出席するのが一番よさそうに思われた。その会議では、避難民をそれぞれの家に帰らせるという重要な問題について話し合うことになっているからだ。会議の大部分を通じ、家に帰ろうとした人々に対する暴行の報告が相次いだ。若い女性たちはどうすれば家へ帰れるのか、見当がつかない。それに、なぜ軍の責任者たちが彼女たちを帰宅させたがるのかも、私には理解できない。なぜなら、そんなことをすれば、たぶん、虐待や陵辱の話がいちじるしく増えるだろうからだ。会議の出席者たちは、軍の高官が参加するのだから、帰宅の期日を延期してもらうことはたぶん可能だと考えていた。
 ちょうど正午前、ある女性(39歳)が6時30分(ママ)に、彼女の悩みについて相談しにやってきた。今朝のことだが、彼女は、彼女と同じ家で働いている男性に、多分、家の品物が残っているだろうから、それを取りに(いっしょに)行ってくれ説得した。彼女は5人の兵士に捕まって強姦され、男は平手打ちされた上に9ドルを奪い取られた。彼女の夫は12月27日に拉致され、まだ戻ってきていない。この女性が私の執務室から立ち去ったすぐあと、57歳の別の女性が入ってきた。彼女と彼女の夫は日曜日に帰宅したのだが、夫が家から無理やり追い出されたあと、2人の兵士が彼女を陵辱した。女性たちは、自分から進んでこういった話はしない。そうしたことの恥辱をあまりにも深刻に感じているからだ。若い女性に家へ帰るようにと、どうして言えようか。キャンパスの端から端へと歩いて行くたびに、いつものように今日もまた一団の女性が集まってきて、キャンパスにずっといられるように取り計らってほしいと懇願した。彼女たちのことを思うと、何と心が痛むことか。
 今朝、ジョン・マギーに車を貸してもらい、メリーと程先生がクリスチアナ蔡の家に2人の老人を連れて行った。彼らが、その古びた立派な邸宅の残存部分を被害から守ることができるかどうか確かめるためだ。その家はすでに、ひどい略奪をこうむったあとだったが、比較的にずっしりしたマホガニーの家具が何点か邸内に残されていた。1時30分、ブランチ呉と一緒に、市の東部にある国立中央研究院へ出かけた。そこは、何と気を滅入らせる光景だったろう。いたるところで住宅や店舗はすっかり焼き払われ、略奪をこうむっていた。あたりには兵士以外はほとんど誰一人見かけなかった。研究院では主要な建物のうち3棟焼かれてしまい、目にしたのは、長年の努力の結実である立派な植物標本の焼け焦げた残骸だった。生物学研究棟は略奪を受けていたが、しかし、焼けてはいなかった。私たちは平(音訳)博士の研究室に行き、残されていた研究資料らしいものを集めようとした。私たちは、年輩の信頼できる人を何人かそこへ出向かせ、管理人として、残された資料を保全してもらうつもりだ。私たちが帰ってくると、そのあと程先生とメリーが再び出かけて行った。今度はメリー陳の家だ。何たる光景であろう。あらゆる物が略奪され、損壊されていたのだ。長い歴史をもつ南京で何が春まで残るのだろうか。・・・・・・・・・


「Imagine9」【合同出版】より



世界は、

9条をえらび始めた。


・平和を探ることが人類の進化だと思います。
私たちが本気になって平和を模索しなければ、いろいろな問題は改善されるどころか、悪化してしまいます。
(アメリカ、40代・女性)

・日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私はとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。(ベルギー、40代・男性)

・日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。
(インド、50代・女性)

・私の地域では、たえまない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。(レバノン、20代・女性)

・武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。私の国、コスタリカは武器をもたない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常に素晴らしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
(コスタリカ、60代・男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



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