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「こんな判決出るとは」無念の原告 疲労と失望
神戸新聞コラムより
福島第1原発事故で野菜の出荷停止が決まった翌日のことだった。18歳から農業一筋に生きてきた64歳の男性が自ら命を絶った。「農業、継がせなかったらよかったな」と息子に言葉を残して◆翌月、酪農家の55歳の男性も命を絶った。「原発さえなければ。こういう形になり、すいませんでした」と小屋の壁にチョークで書き残して◆途方もない理不尽が、生きる力の根っこを奪う。農業者でなくても、すべての人生はその土地と深く結びついている。人間関係、学校、仕事、健康な暮らし。平凡な日常を失った避難者の無念と怒りは、自殺した男性たちと地続きに違いない◆原発事故で全国に散った避難者が国と東京電力に損害賠償を求めた集団訴訟で、最高裁はきのう、国の責任を認めなかった。国の責任を認める高裁判決が相次いでいたから耳を疑った。知見が定まらないとき、最悪の事態に備える責任が国に「ない」のなら、国民は誰を信じればいいのか◆数年前、兵庫訴訟の原告が駅前で「原発事故を覚えていますか」と問いかけるのを聞いた。私たちの無関心を鋭くえぐる言葉だった◆原発事故の避難者は現在も3万人近い。土地を、古里を、放射能の心配などなかった暮らしを返せ。彼らの痛憤を、わが身に重ねたい。2022.6.18
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
731部隊や関東軍の文書公開 ロシアが歴史問題で日本けん制か
国連・中満次長「核不使用死守を」 ウクライナ侵攻、脅威が「現実」 時事トップセミナーで講演
「長崎の被爆者です 質問はありますか?」初の核兵器禁止条約 締約国会議 伝えたい”被爆の実相”
NATO2カ国、核禁会議に参加 ドイツとノルウェー
ロシア 地方議会で議員が反戦訴え
「プーチン大統領は謝罪すべき」 ロシアの大物退役軍人がウクライナ侵攻で異例の批判
アメリカも銃規制をしてもらいたい!!米テキサス州の小学校で乱射 生徒19人と教師2人が死亡
731部隊の真実
東京ブラックホールー戦後0年
Нет войне!!Стоп Война!!
I want Japan, which has Article 9 of the Constitution, to move more positively toward a ceasefire !!
Я хочу, чтобы Япония, у которой есть статья 9 Конституции, более позитивно двигалась к прекращению огня !!
ソニアの日記
コタバル 伝えられなかった戦争(2011)
セピア色の証言ー張作霖爆殺(86)
開戦ー前編ー
推薦問題に「歴史戦」とやらの余地はない
●南京大虐殺の真相
● 南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
●マギーフィルム(字幕付き)
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
浅川地下壕を歩く(2021年2月7日)
2021 8 15 敗戦の日
日航機墜落事故の原因を究明せよ!!
【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート14日(日)
・素晴らしい展示です。特に731部隊の加害者の実名が明らかになっているのがよい。(70代、市外)
14日(日)
・素晴らしい展示です。特に731部隊の加害者の実名が明らかになっているのがよい。(70代、市外)
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回
731部隊と人権ー裁判から考える
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
隠された毒ガス兵器
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
帝銀事件というのは1948(昭和23)年1月26日に起こった銀行強盗殺人事件である。12人が毒殺されるという日本犯罪史上でも特異な事件だ。この事件は、同年8月に容疑者として画家・平沢貞通が逮捕され、裁判の結果、1955年に最高裁で死刑が確定した。
しかし、平沢犯行説には多くの疑問があったため死刑は執行されず、さりとて釈放もされず、平沢は再審請求をしながら1987年に95歳で獄死した。
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
実験医学雑報19巻 第7号(1935年)
小島所員帰朝
満洲国及び中華民国へ出張中の所員小島博士は、去る6月30日午後8時半横浜駅着無事帰朝せられた。
学友会へ寄付
金128円35銭也 澤田榮三郎君
金100円也 宇賀武俊君
人事異動報告
昭和10年7月1日 伝染病研究所
発令月日 辞令 官職 氏名
6.11 依願免本官 技手 石原守
6.12 愛知、岐阜の2県下へ出張を命ず 技師 城井尚義
6.17 静岡県下へ出張を命ず 嘱託 鉄本総吾
6.18 任伝染病研究所技手 後藤敏夫
〃 伝染病研究所業務嘱託を解く 嘱託 後藤敏夫
〃 朝鮮へ出張を命ず 嘱託 池田武夫
6.19 依願免本官 技手 坂野信雄
〃 伝染病研究所業務を嘱託す 坂野信雄
〃 任伝染病研究所技手 鈴木勝治
〃 伝染病研究所業務嘱託を解く 嘱託 鈴木勝治
〃 伝染病研究所業務を嘱託す 渡会次郎
〃 昭和10年6月19日付願研究生退学許可 研究生 渡会次郎
6.22 静岡県下へ出張を命ず 技師 遠山祐三
7.1 昭和10年8月5日付願研究生入学許可(8細菌) 安田忠次郎
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
大牟田「爆発赤痢」事件
北宏一郎
アルシン用ジフェニル砒酸)製造の委嘱
教育注文 155t完納
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
2 細菌戦のヘーグ陸戦規則違反
一方、細菌戦は、1925年6月に署名されたジュネーブ議定書でも禁止されていた。同議定書に反対する意思を表明する国家もなく、各国が細菌兵器を使用しないことは現実に守られ、かつ、細菌兵器の使用が戦争犯罪を構成することは国際的にも承認されていたから、ジュネーブ議定書は、遅くともそれが発効した1928年頃には国際慣習法として確立していた。日本政府も同議定書に制定直後に署名しており(但し、批准したのは昭和45(1970)年である。同議定書と同一内容の国際慣習法が成立していることを十分に認識していた。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
二月九日
しかし今日の入浴は内藤だ。久しく歯磨き粉が買えずに困っていたが、内藤に買ってもらってその上御馳走になった。明日は俸給がもらえるから、その時は面白く遊べるだろう。軍隊なんて実際一厘もなくても平気だ。暮らしていけるから。
然し何となく心細いが 一ヵ年余りも貧乏生活さすればなんでもなくなる。この調子で地方にでてやったならば案外金のない生活が面白い、という程もいかなくても、平気でその日その日送ることができるかもしれない。
本当に小共になり切った。一銭の金も大事になる時もあるし、捨てるような事もあるしー。
「ずっと父が嫌いだった」
知られていない 8月5日までの 広島 バージョン2
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅲ 細菌戦部隊の周辺
戦時中の東南アジアの様子(731部隊員増田知貞が撮影したフィルム)
日本軍政下香港(1997.7.27)
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
解説
証言「供述者」の背景ーある日本人戦犯を中心に
判決下る
そして、第1項目で、次のように規定した。
1、主要でない日本戦争犯罪者、あるいは改悛の状が割と著しい日本戦争犯罪者に対しては、寛大に処理し、起訴を免除することができる。
1、罪状の重い日本戦争犯罪者に対しては、各自の犯罪行為と勾留期間中の態度に応じて、それぞれ寛大な刑を科する。
1、日本降伏後、さらに中国の領土で他の犯罪行為を行なった日本戦争犯罪者に対しては、その犯罪行為を併合して処置する。
●毒ガス戦
おわりに
大学に進学してから、卒業論文は日本軍の毒ガス戦についてまとめようと思っていた。そこで、大学3年になってから中央大学の吉見義明教授に手紙を送ってご相談申し上げたところ、先生は防衛庁防衛研究所図書館が所蔵する中国戦線の戦闘詳報の全冊を閲覧し、毒ガス使用の実態を調べる事を進めて下さった。当時私は、ある新聞社の育英奨学生として毎朝新聞配達の仕事をしながら学生生活を送っており、眠い目をこすりながら、講義の合間を縫って防衛研究所図書館に通い詰めた。こうして、当時公開されていた戦闘詳報のほぼ全冊とその他の関連資料を閲覧・調査し、その成果を卒業論文にまとめたのである。また、明治大学の山田朗助教授(当時)の、昭和天皇の戦争指導についての御著作『大元帥・昭和天皇』などを拝読し、多くの刺激を受けたのもこの頃である。
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
百年の悲劇は、ここから始まった1
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第10章 残酷な人体実験毒ガス実験
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
核時代39年(1984年)5月初版発行
焼け火箸ー拷問の挙句に斬首
佐藤五郎
分隊員 上等兵
(旧部隊名)第59師団第109大隊
佐藤は火箸を見ると、腰に挟んだ手ぬぐいを取り出し、火箸に巻き付けると、鷲づかみにして炊事場を飛び出した。炊事場から拷問の所まで10mぐらいしか離れていない。佐藤は炊事場を飛び出したものの、吊るしあげた男を見ると、思わず足が前に出なくなった。こんな事で星を増やすことができるのかと考えると、夢中で火箸を携え、班長の前まで走った。
「班長殿、佐藤一等兵まいりました」梅田は、火箸を見るとニタリと笑いを浮かべた。
(2021年2月4日)
在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。
藤井治夫著
第2篇 自衛隊の機密
第3章 防衛力整備
1 中期5ヵ年計画
極秘の2次防計画
楢崎委員 どこの文書かわからぬという。ちゃんとここに、あなた見たじゃないですか。偽造というのですか。〔 楢崎委員書類を示す〕
久保政府委員 私が申し上げましたように、防衛庁の2次防の計画、あるいは資料としてはそれは正式文書ではございません。ただし陸上自衛隊の中で2次防関係についての資料を作成したもの、これは考えられます。おそらく陸幕の正式の資料でありましよう。・・・・・
右のようなやりとりを読んでいると、国会で実質審議ができない原因がなにかは、だれにも理解されるであろう。久保防衛局長は、檜崎議員が手渡した「陸上自衛隊第2次防衛力整備計画」について、はじめは2次防の文書ではないと答えていたが、かさねての追及を受けて、陸幕の正式資料であろうが防衛庁としての正式文書ではない、と逃げている。文書自体の前文に「防衛庁庁議において決定されたもの」と明記されているのに、このような三百代言的答弁を繰り返すのである。こうして、割当てを受けた持時間は、たちまちなくなってしまう。野党議員の質問時間をいかにして、より多く空費させるかが特権官僚(政府委員)の職務となっているのである。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み
1、 生物・化学兵器の開発の歩み
自衛隊員が語る旧軍技術研究
「陸軍習志野学校教官を命課されたのは、昭和18年3月初めで、ガス係将校の主任教官を命ぜられた。主任教官と言えば、教育計画を自ら作り、それを受持ち教官との調整をなし、高級教官の決裁を受けて、自ら教育を担当するのが主任教官であった。課目の教育を依頼するのは、先にちょっと述べたように、資材教官(技師)の資材教育、気象教官の局地気象(ガス気象)ぐらいなもので、じ余の課目は一切自ら担当した。従って、学生の入港後10日~2週間ぐらいは、他の教官が担当し、じ後は一切、主任教官が朝から晩まで、夜間演習を含んで、野営訓練まで、連日教育の連続である。
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第2章 天皇に育てる
Ⅰ
天皇自身は、生物学への関心を強く表に出すことはなかった。『後鰓類図譜』の刊行後、服部は『サンデー毎日』の1949年10月2日号で、かつての生徒の科学愛好を評した。
天皇の研究はアマチュアの仕事ではなく、真の科学研究と見てよいのかという質問に答えて、彼は次のように述べている。
この間、佐藤忠雄氏(博士、名大教授) が名古屋の新聞に素人の研究の方に入れて書いているが、それは見方によって、そうであると思います。それは御自身の名でもって出された論文というものは、1つもないのですから、結局各専門家に材料を提供したもので、1つのわれわれの考えでみたら、やはりただの採集家というだけに過ぎないのかもしれません。しかし、そうじゃない。ただ採集したものを、ただ学者に渡したんじゃない。1ぺん御自分ですっかりお調べになっておるのですから、その点はやはり素人離れがしております。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
地球を破壊する核爆発・核実験
署名国・批准国
2021年5月18日現在の署名国と批准国。
署名国 署名日 批准日 (締約日)
ザンビア 2019年9月26日 ジンバブエ 2020年12月4日 モンゴル (加入) 2021年12月10日
Total 86 62
アインシュタイン「科学者たちの罪と勇気」
メアリーが伝えるヒロシマ
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
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