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731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
731部隊や関東軍の文書公開 ロシアが歴史問題で日本けん制か
国連・中満次長「核不使用死守を」 ウクライナ侵攻、脅威が「現実」 時事トップセミナーで講演
「長崎の被爆者です 質問はありますか?」初の核兵器禁止条約 締約国会議 伝えたい”被爆の実相”
NATO2カ国、核禁会議に参加 ドイツとノルウェー
ロシア 地方議会で議員が反戦訴え
「プーチン大統領は謝罪すべき」 ロシアの大物退役軍人がウクライナ侵攻で異例の批判
アメリカも銃規制をしてもらいたい!!米テキサス州の小学校で乱射 生徒19人と教師2人が死亡
731部隊の真実
東京ブラックホールー戦後0年
Нет войне!!Стоп Война!!
I want Japan, which has Article 9 of the Constitution, to move more positively toward a ceasefire !!
Я хочу, чтобы Япония, у которой есть статья 9 Конституции, более позитивно двигалась к прекращению огня !!
ソニアの日記
コタバル 伝えられなかった戦争(2011)
セピア色の証言ー張作霖爆殺(86)
開戦ー前編ー
推薦問題に「歴史戦」とやらの余地はない
●南京大虐殺の真相
● 南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
●マギーフィルム(字幕付き)
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
浅川地下壕を歩く(2021年2月7日)
2021 8 15 敗戦の日
日航機墜落事故の原因を究明せよ!!
【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート11月19日(金)
・改めて731部隊のことを思い出しゾッとしています。40年程前に読まなければ、知らなければと思い、ページをめくりました。731部隊についての森村誠一の本でした。その後、戦争と侵略との関係を詳しく知るようになり、彼らが裁かれることなく戦後を生きたことに驚きました。侵略戦争についてはもっと知らせていかなければと思います。
(70代、市内)
11月19日(金)
・改めて731部隊のことを思い出しゾッとしています。40年程前に読まなければ、知らなければと思い、ページをめくりました。731部隊についての森村誠一の本でした。その後、戦争と侵略との関係を詳しく知るようになり、彼らが裁かれることなく戦後を生きたことに驚きました。侵略戦争についてはもっと知らせていかなければと思います。
(70代、市内)
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回
731部隊と人権ー裁判から考える
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
隠された毒ガス兵器
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
捜査資料には、捜査の途中(7月頃)から、米軍と約束したから話せない、と言った関係者の言葉が記録されている。
この口止め工作には、米軍と結びついた有末清三(元中将)などの旧軍関係者も深く関与していたことも分かる。有末は、捜査官に、旧軍関係を探るのはGHQとの関係でやめた方が良い、といったことを忠告している。また、捜査当局に、秘密を話させないということだけでなく、証言を変えさせるということまで行われた。
それは、操作初期の4月の段階で、使用された毒物は旧軍が開発した「青酸ニトリール」という特殊なものだと捜査官に断言していた人物が、毒物に関する知識がない平沢が逮捕されたのち(9月)に、「誰でも入手できる青酸カリだ」と証言を変え、毒物の専門家として鑑定書まで捜査本部に提出し、裁判でも同様の証言をしていることからも分かる。
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
実験医学雑報19巻 第7号(1935年)
宮川米次
結語
吾等の声明は医学の研究である。誠意の努力によりまして、独自独創の研究に邁進したいのであります。
必要のある際は他人の業績の追試も、覆試も致しますが、欧米人の糟粕を嘗めて満足する様な気分は戒めないければなりませぬ。
以上が吾等伝研所員が本所の重大使命を遂行する上に持つ気構えであり、見識であります。講習生諸君と御交際を始めましたのは僅かに3か月でありますが、吾々の交友は今日より永遠に続くのであります。本所に止ると、去って社会衛生の向上発展に勤められるとに論なく、あらゆる場合に研究的態度で、一物一事を処理して頂きたのであります。私等の講述したものは、それぞれの方面に於ける、ほんの端緒とも申すべきものであります。加うるに学問の進歩は1日も止まっておりませぬ。この意味におきましても、諸君の会得せられた知識を活用せられて、各専門書並びに雑誌の閲覧を怠らない様にして頂きたい。斯くしてこそよく短日月の講習が活きてくるのであります。終わりに臨み諸君のご発展を望み、併せて人格を益々陶冶し、堅く強く、広く高い大和心の涵養に勤められ、国民の保健衛生の改善、医学の進歩を計るるは勿論、延いては国民精神の向上にもご尽瘁あらんことを希望して止みませぬ。
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
大牟田「爆発赤痢」事件
北宏一郎
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
第1 ヘーグ陸戦条約3条に基づく謝罪及び損害賠償請求
1 ヘーグ陸戦条約及びこれを内容とする国際慣習法の成立(原告らの主張の骨子)
(3)以上の事実から、仮にヘーグ陸戦条約制定当時被害者個人の直接的な損害賠償請求権が国際的慣習法にまで至っておらず、且、同条約3条が個人の請求権を確認し又は創設したものと言えないとしても、遅くとも本件細菌戦の実行時点までには被害者個人の加害国に対する権利は国際慣習法として成立していたと言うべきである。
したがって、同条約2条には「第1条に掲げたる規則及び本条約の規定は、交戦国が悉く本条約の当事者なる時に限り、締約国間にのみ之を適用す」という所謂総加入条項があり、第2次世界大戦交戦国中には同条約を締結していない国も存在していたが、この条項の故にヘーグ陸戦条約が排除されるものではない。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
二月八日
晴 風なし 非常に寒し 零下十二度 分遣下番
今日は下番 朝 彼女が昨夜一時に電話をかけてきたというので、どんな用事か聞いてみた。一週間はずいぶん悪づらした。そして彼女の悲鳴であった。何もかも忘れたよー
中隊に帰って寝たれば、榊原が改心したとか何とか云って頭をクリクリにすった 非常に青々した坊主だ。これがありし日に若きマドロスとして行く港々に遊びまわったかと思うと、面白くてやりきれない。一週間の分遣で疲れてしまった故、中隊に帰る早々寝たが、友がなかなか寝付かせない。島井と共に寝たれども榊原の奴改心したと言うに、裏から寝台を立てられては寝ていられない。夜は夜で河口が来て 眠いのに狂い回った。中隊が良いとは云うものの、分遣も中隊に帰れば懐かしい。あと十ヶ月で満期になるのに呑気なもんだ。
「ずっと父が嫌いだった」
知られていない 8月5日までの 広島 バージョン2
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅲ 細菌戦部隊の周辺
戦時中の東南アジアの様子(731部隊員増田知貞が撮影したフィルム)
日本軍政下香港(1997.7.27)
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
解説
証言「供述者」の背景ーある日本人戦犯を中心に
判決下る
全国旅行から撫順へ帰ってきた直後(1956年6月)、彼らは瀋陽で開かれた最高人民法院特別軍事法廷へ出頭を命じられ、起訴猶予の申し渡しを受けた。国友の記憶によると、検察官は次のような趣旨の文書を読み上げた。
抗日戦争と解放戦争が終わって、中国はある程度発展を遂げ、人民は過去に比べ、よい生活ができるようになった。したがって中国人民は、過去のことは決して忘れることはできないが、忘れることのできる条件が徐々にできてきた。一方では戦争犯罪者の反省、自覚が高まってきて、過去に犯した罪に対する認識が深まってきたので、我々は収容者を釈放する事に決定した。
●毒ガス戦
おわりに
私は元々戦史や日本軍に関心を持っていて、それなりの知識を持ち合わせていたが、武田氏の著作を読んでいくうちに、華々しい戦史関係の著作には記載されることのない〈埋もれた歴史〉が存在することがわかった。そして、日本軍の毒ガス戦を資料で実証したのは、アメリカで陸軍習志野学校「支那事変に於ける化学戦例証集」を発掘した粟屋教授だということも知った。そこで私は、失礼を顧みず粟屋先生に手紙を送り、毒ガス戦についてのいくつかの質問を行ない、ご教示頂けませんかと頼み込んだのである。
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
百年の悲劇は、ここから始まった1
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第10章 残酷な人体実験毒ガス実験
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
核時代39年(1984年)5月初版発行
焼け火箸ー拷問の挙句に斬首
佐藤五郎
分隊員 上等兵
(旧部隊名)第59師団第109大隊
佐藤は炊事場の入口に来ると、「佐藤一等兵、炊事場に用事があってまいりました」薄暗い炊事場の中をキョロキョロ見回し、大きな声で怒鳴ったが、古い兵隊の返事はなかった、かまどの脇に煙草を吸っていた2人の奴役夫(どえきふ)、呂と玉がしきりに笑いながら話していた。佐藤は呂と玉の笑い声が馬鹿にしていると感じたのだ。いきなり2人のそばに走り寄ると、「貴様たちも馬鹿にしやがる、この野郎」と、座っていた呂を蹴り飛ばした。
(2021年2月4日)
在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。
藤井治夫著
第2篇 自衛隊の機密
第3章 防衛力整備
1 中期5ヵ年計画
極秘の2次防計画
ここから、いくつかの問題が明らかになってくる。従来、中期防衛力整備計画は、国防会議および閣議で決定されるものと考えられてきた。だが、事実はそうでない。計画そのものは防衛庁庁議で決定されるのであって、国防会議はやはり「防衛(力整備)計画の大綱」(防衛庁設置法第62条2項2号)として、
経費総枠などを決めるにすぎないのである。国防会議決定事項の表題が「・・・について」とか、「・・・の大綱」となっている陰には、このようなカラクリが秘められているのである。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み
1、 生物・化学兵器の開発の歩み
自衛隊員が語る旧軍技術研究
小官は戦車隊(第19師団、軽装甲車訓練場)から入校し、戦車学校にも入校していた関係上、消(散)毒車、除毒車、除毒車、除毒機の操法は、得意であり、当時山根中尉(片村中尉)、杉山少尉、いずれも化校で総務課長、管理課長をやられた方とは同期であり、演習の余暇を利用しては、操縦訓練を教えてやった。教室(実験室も含む)で教官から教えてもらうのは、資材(実毒の意味)の一部と戦術ぐらいのもので、他の課目の大部分は、雨が降ろうが、風が吹こうが、野外で実施、実物体験主義、理論よりも実物(実毒)に親炙、体で覚えるいわゆる体得するのが、習校の教育方針のようにうかがえた。」
島田は旧軍の時代、毒ガスを、「しろ」とか「みどり」と呼んでいたと言い、その教育は徹底した現地現物主義で、「除毒点を構成し終わって、資材除毒所に行き、完防を脱ぐ」と、「上衣の袖口から汗がドサッと流れる。長靴を脱ぐと、これまたざっと流れる」ようだったと書いているが、その教育状況は今から考えると大変に興味深いものがある。
しろ・・・・・煙
みどり・・・・クルツアセトフェノン
ちゃ・・・・・青酸
あか・・・・・アダムサイト ジフェニル塩化砒素
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第2章 天皇に育てる
Ⅰ
1914年から19年までの中等科時代、博物と物理の教師だったのは服部広太郎である。服部はさらに30年余りにわたて彼の科学研究のために仕え、子どものときの昆虫趣味を伸ばして、海洋生物学と分類学に対する彼の生涯にわたる強い関心を育てたのである。彼は服部の勧めで、ダーウィンの進化論を解説した啓蒙家丘浅次郎の『進化論講話』(1904年)を読み、またダーウインの『種の起原』の日本語訳も読んだようである。1927年ごろ彼はダーウィンの小さな胸像を贈られ、以後エイブラハム・リンカーン、ナポレオン・ボナパルトの像と一緒に書斎に飾っていた
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
地球を破壊する核爆発・核実験
署名国・批准国
2021年5月18日現在の署名国と批准国。
署名国 署名日 批准日 (締約日)
タイ 2017年9月20日 2017年9月20日
東ティモール 2018年9月26日
トーゴ 2017年9月20日
トリニダード・トバゴ 2019年9月26日 2019年9月26日
ツバル 2017年9月20日 2020年10月12日
東ティモール 2018年9月26日
トーゴ 2017年9月20日
トリニダード・トバゴ 2019年9月26日 2019年9月26日
ツバル 2017年9月20日 2020年10月12日
アインシュタイン「科学者たちの罪と勇気」
メアリーが伝えるヒロシマ
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
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