2008年12月5日金曜日

1937年 12月5日 南京

1937年12月4日・・・第16師団(中島今朝吾中将)、南京戦区に突入。
「南京の真実」(ジョン・ラーベ著:講談社)より
12月5日
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 アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。
やや、詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。
つまり、日本政府はまた拒否してはきたものの、出来るだけ配慮しようと約束してくれたのだ。
 ベイツ、シュペアリングと一緒に、唐指令長官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束を取り付けなければならない。それにしてもやつの返事を聞いた時の我々の驚きを一体どう言えばいいのだろう!「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」だと?そんな馬鹿な事があるか!それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることは考えられない。せいぜい、「難民区」だ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
我々は必死で米や小麦粉を運び込んだ。安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる貼り紙もできている。だが、肝心の安全性については最低の保証すら、与えられないのだ!
 ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいる方が安全だと思っているからだという。・・・・
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「南京事件の日々・・・・ミニー・ヴォートリンの日記」(大月書店)より
12月5日(日)
鼓楼教会へ礼拝に行く時刻のころ「空襲警報」のサイレン(日本軍の前線がすぐ近くまで迫っているので、今では警戒警報は出されない)が鳴り、するとまもなく爆撃音が聞こえてきた。明朝故宮の「西華門」がやられたのだ、とウィルソン医師が教えてくれた。気の毒なことに、爆撃されたのはほとんどが貧しい民間人であった。ウィルソン医師が、ある一家のことを話してくれた。そこの母親と娘は即死、呆然自失のの父親をウィルソン医師が発見したとき、彼は赤ん坊を抱いていたが、その子の頭部は吹き飛ばされてしまっていた。中国軍兵士のことを思うと胸が痛む。負傷兵50人が、20マイル離れたところからやっとのことできょう城内にたどり着いたそうだ。彼らの話によれば、負傷した多くの仲間が路上で倒れていったという。
 大学病院(金陵大学付属鼓楼病院)は、医師や看護婦が絶対的に不足している。看護婦は全員が、そして医師も、中国人医師一人を除いては全員が長江上流へ脱出してしまった。・・・・・・


 昼食直後にキャンパスの緊急理事会が召集され、長時間にわたって避難民の扱い方が検討された。手伝ってくれる人がもっと大勢いればよいのだが。程先生は疲れており、何千人という避難民の世話をすることを考えただけで、もう具合が悪くなってしまう。持参する品を知らせる大きなポスターを校門に掲示する計画を進めている。また、できれば日刊紙(今では紙面が一枚に減ってしまった)に子のポスターを掲載するつもりだ。・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
定例記者会見は長時間にわたった。馬市長と有意義な話ができた。市長の予想では、日本軍がここに到達するまで激しい戦闘が一ヶ月は続くことになるだろう。安全区の旗を立てる事ができるように、軍関係の団体や防御施設を安全区の外に移すため、あらゆる努力がなされている。・・・・・・
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{imagine 9}【合同出版】より


想像してごらん、

9条がゆきわたった世界を。

Imagine,

A world filled with Article 9.


憲法9条は、日本という「国」のものではありません。
日本に住んでいる「人々」、つまりみなさん自身のものです。
そしてそれは、日本国民にとってだけではなく、すべての人類にとって重要なのです。
(アメリカ/男性)


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2008年12月4日木曜日

1937年 12月上旬 南京

「南京の真実」(ラーべ著 講談社)より
11月30日
韓に家族をつれて越してくるようにいった。一家は今学校で暮らしている。台所や風呂場は韓が作らせた。韓の友人で・・・レンガ工場の経営者、車を贈ってくれた孫さんも越してきた。新しい防空壕はまだ出来上がらない。全力をあげているのだが。ゆるく積み上げたレンガ壁(セメントがないので両側を厚板で補強してある)が一つあるほかは鉄板を使った。だれが調達してきたのかはわからない。とにかくそこにあったのだ。ほかにもいろいろそういう物がある。おかげでわが家の庭はすさまじいことになっている。水道が止まりはしないかと心配だ。トラックで大型の貯水タンクを運んでこなくては。灯油も買った。ロウソクも。石炭は約一か月分ある。・・・・・・

 スマイスから電話。南京市には6万袋、下関には3万4千袋の米があるとのこと。おそらくこれで足りるだろう。今不足しているのは仮の宿泊所、つまりわら小屋に使うむしろだ。この寒空に、何とかして泊まれる場所を確保しなければならない。
 
 以下は国際委員会が抱えている課題である。
1、資金の調達
2、警察
   安全区入口の検問
   境界の警備
   警察官の総数の確認とその宿泊施設の整備
3、兵士と軍人たち
   撤退の指令と視察
   既に始まっている脱走兵の対策
   負傷兵の看護
4、食糧の配給
   食糧の管理
   食糧の貯蔵と分配
5、輸送と輸送手段
6、避難民の収容施設
   見張り
   建物の使用と管理
   ( a)公共の建物(政府の)
   (b)学校や伝道団の建物
   (c)空き家、わら小屋
7、公共設備
   水道・電気・電話
8、衛生設備と健康管理
   仮設便所・ゴミと糞尿の運搬・病院と医療設備
 

12月1日
9時半に、クレーガー、シュペアリング両人と平倉巷で開かれる委員会へいく。いろいろな役目を割り振って、名簿を作る。馬市長が部下を連れて現れ、米3万袋と小麦粉一万袋を提供すると約束。
残念ながらそれを難民地域まで運ぶトラックがない。米と小麦粉を売ればいい。出来るだけ高値で。難民用の給食所をつくる予定だ。
 3つ目の防空壕が完成した。屋根を鉄板でおおい、入口は土で囲ってある。午後、駐屯軍司令部から2万ドル受け取った。これは、蒋介石からの約束の10万ドルの第一回目だ。残りはいつもらえるかと聞いたが、相手は肩をすくめるだけだった。
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18時、会議。南京に残っている住民たちに安全区に移るようにすすめたあとで日本から拒絶されるようなことになったら、我々の責任は重大だ。それについては大多数の委員が、こちらから先に行動を起こそうという意見だった。安全区に移るよう勧める文書は、非常に慎重でなければならない。いちど、残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう。つまり、中国人がどんな様子か聞いてみるのだ。
・・・・・・・・・・・・
 ローゼンがアメリカ人を通じて知らせを受け取った。ラーマン地方支部長が、ヒトラーとクリーベルにあてた私の電報を打ってくれたそうだ。ありがたい!これでどうにかなる。間違いない。総統が私を見殺しになさるはずがない!
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 ローゼンが、ドイツ人に集まってもらいたいといってきた。いつ船に乗るか決めようというのだ。クレーガー、シュペアリング、ヒルシュベルグ先生の子息、オーストリア人技術者ハッツ。この人たちはここに残って私を助けてくれると言う。・・・・・・・・

12月2日
フランス人神父ジャキノを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。
 
 電報  1937年12月1日  南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
 11月30日の貴殿の電報の件
 以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。 ジャキノ

「日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責を負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しない限りにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です」

 ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。
・・・・・結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する所存・・・・云々」は、非常に満足のいくものだ。
 

アメリカ大使館を介して、我々は次のような返信を打った。
南京の安全区国際委員会の報告をジャキノ神父に転送してくださるようお願いします。
「ご尽力、心より感謝いたします。軍事上必要な措置に反しない限り安全区を尊重する旨日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝を持って受け止めております。中国から全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。我々は安全区を組織的に管理しており、既に難民の流入が始まったことをご報告いたします。しかるべき折、相応の調査を終えた暁には、安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。
 日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。また、当局が安全を保証する旨を直接当委員会に通知してくだされば、難民の不安を和らげるであろうこと、さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、日本側にお知らせいただくようお願いいたします。
                    ジョン・ラーベ     代表」
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 米と小麦粉を運ぼうとするにも車が手に入らない。せっかくもらったのに、一部、安全区からうんと離れたところで野ざらしになっている。どうやら軍部にかなり米を持って行かれたらしい。3万袋のうち、わずかその半分しか残っていないという。
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【2日・・・蒋介石、駐華ドイツ大使トラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を表明(日本政府、斡旋断る)】

12月3日
ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。昨晩大使は税関のはしけでこちらに来たのだが、そのまま漢口へとんぼ返りしたという。思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所に行ったのだ。私がそういうと、何度かためらった後、ローゼンも認めた。・・・・・・・・・

ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使宛なのだが、次のような内容だった。

ドイツ大使館南京分室 漢口発  37年12月2日       南京着 12月3日
日本政府は、都市はじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民を出来るだけ寛大に扱う考えを持っております。また、国民政府がその権力を行使することによって、首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、認めるわけにはいきません。日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。     ザウケン

ローゼンは、他の国の大使館はこれに似た内容の電報を受け取っていないことをつきとめた。差出人の名を明かさないまま、この扱いは委員会に一任された。ローゼンは、蒋介石婦人に接触してはどうか、と勧めてくれた。
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12月4日
どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだがうまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き上げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話をひいている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた8台のトラックのうち、半分しかつかなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。100メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。
 難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙は「外国人」による難民区などへ行かないようにと、繰り返し書き立てている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「南京事件の日々・・・ミニーヴォートリンの日記」(大月書店)より
12月1日(水)
今日は警報が一回あったものの、空襲はなかった。通産103回目の警報だ。もう気にかけない。
呉博士とエルシー牧師は午前9時ごろ、ついに(金陵女子文理)学院をあとにした。昨夜二人が波止場に到着した時には、船が出たばかりだったので、やむなく引き返してきて学院で一夜を明かした。
呉博士が無事に乗船できてとてもうれしい。というのは、何よりもまず、彼女は4ヶ月もの長期間、気を張り詰め通しですっかり疲労困憊していた、さらには今後彼女は来学期の、そして多分、来年の計画のことに頭を切り換えなければならないと思うからだ。南京にいたのでは到底できない相談だ。それに、日本の軍艦がいつ(長江を)遡上してくるか誰にも予測がつかないし、城内が激しく爆撃された時にはもはや脱出できなくなる。
 午前10時、アメリカ大使館に呼ばれ、他の伝道団の指導者たちと一緒に会合を持った。(大使館書記官の)バクストン氏が私たちを三つのグループに分けた。今日にも商船で南京を脱出できる即刻脱出グループ、しばらくは残留しなければならないが、土壇場になったらアメリカ砲艦パナイ号で脱出するー必要とあれば、ロープを使って城壁を乗り越えてでもーグループ、ずっと残留したいと思っているグループである。大使館を出てから、どのグループにするのか、サール・ベイツに尋ねたところ、2番目と3番目の中間あたりだと答えたので、それでは城内の途中で宙ぶらりんになっているようなものだと、二人で笑ってみたものの、それは危険な状態だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

陳さんとそれに私も一緒にキャンパス中を歩き回り、アメリカ大使館の公告文を掲示する場所を決めた。明日になれば、中庭に掲揚されている30フィート四方の国旗に加えて・・・のアメリカ国旗が翻ることになるだろう。・・・・・・・

 11時30分、緊急委員会が招集され、その会議で李さんに、6人の男子職員を組織して自警団をつくり、彼らを訓練し、あわせて彼らの腕章を用意することをお願いした。また、隣保学校の教師をしている・・先生に、キャンパスにいる彼女の生徒や比較的に高年齢の子どもたちを組織して避難民のための奉仕団をつくり、彼らを訓練し、彼らのための徽章を作製することも依頼した。
・・さんの報告によると最悪の危険に遭遇した時には、近隣の婦女子およそ200人がキャンパスに避難したいと思っているようだ。

 今晩の記者会見で安全区の存在が公表され、食料、住宅、財政および公衆衛生を扱う4つの委員会が設置された。市(南京市政府)から米と2万ドルが供与された。
 3日ほど後に来ることになっている日本船を待っている人もいる。書籍を詰めた箱を地下室に移し、予想される避難民に備えて各部屋を空ける作業をしていたとき、陳さんが葬式の準備でもしているような気分だ、と言った。まったく、この世の終焉がすぐそこまで来ているような感じだ。


12月2日(木)
今日は3回空襲があったが、いずれも城外だった。中国軍機が発進し、日本軍機が撃墜されたが、その数についての報告はまちまちだ。・・・・・・・すっかり空襲になれてしまったので、今では空襲の最中でもずっと仕事をしている。
 これまでは漢口や香港を経由してニューヨークや上海あての航空郵便が送られていたが、今夜耳にしたところでは、今後は郵便用飛行機は飛ばないそうだ。
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 午後、大変な失敗をした。昼寝をしたところ、ひどく疲れていたため、夕方近くまで目が覚めなかったのだ。
 午後6時、再び記者会見に出かけた。安全区計画が進捗している。米が搬入されることになっているが、問題はトラックの入手だ。日本側から知らせが届いているが、それは好意的に解釈すれば、準備完了までに残された時間はあまりない、と言う趣旨である。その情報は、日本軍は三方向から接近中、というものだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


12月3日(金)
いまや情報入手は非常に難しい。昨日も今日も上海や香港の放送の時間帯に空襲があり、そのため停電し、したがって、ニュースが聞けない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 昨日中央棟から備品をあらかた撤去した。今日は避難民の受け入れに備えて男性たちが二つの寄宿舎の片づけをしている。避難民がやってくるまでほんの2,3日だと考えている者もいれば、まだ10日ほど間があると考える者もいて、本当のところはだれにもわからない。
 今夜の記者会見はとても興味深かった。南京市長と防衛司令長官代理が二人とも出席した。安全区の計画が進捗している。事務所は、寧海路五号にある外交部長張群宅に設置された。
目下、城内に、そして安全区に十分な量の米をどのようにして搬入するか検討しているとこだ。・・・・・
・・・トラックを何台かを確保するため、明日は市長が全力を尽くしてくれる。米は金陵大学の礼拝堂に貯蔵されることになっている。ひきもきらず人々がやってきて、安全区の場所はどこか、いつからそこに入れるのか、などと尋ねる。
 今日大使館から最終の問い合わせがあった。三つの選択肢の中から一つを選んで署名しなければならなかった。私は(3)に署名した。【(3)・・・どんな事態になっても脱出しない。】
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12月4日(土)
今夜、門衛から報告があった。昼間、何百人もの中国人が校門にやってきて、金陵女子文化学院が難民収容所になっているのは本当か、と尋ねたそうだ。門衛は、一人残らず寧海路五号の国際委員会本部へ行かせた。トラックが足りないため、城内への米の搬入は困難である。現在は塩も食用油も買えない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私たちは避難民への収容スペースをつくるため、引き続き寄宿舎の備品を屋根裏に運んでいる。また、後日問題になりそうなパンフレット類はすべて破棄している。・・・・・・・・・・・・・・・・


 今夜に記者会見での重要な点は、安全区では塹壕堀のような軍事的予備行動を一切停止すること、軍関係の事務所はすべて安全区外に移すことを(中国)軍が約束したという情報であった。
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 今朝南門付近が激しい空襲に見舞われた。イタリアが日本を支援し、ロシアが中国を支援しているそうだ。スペイン同様にここが第二の思想戦場となるのだろうか。うわさにすぎなければよいが。
 AP特派員のマグダニエル氏によれば、市の東方では数多くの美しい樹木が、砲撃の邪魔になると言う理由で切り倒されてしまったそうだ。東門から湯山に至る間はどこも無人村になっている。村人全員が立ち退きを強制されいたるところで軍が防備を固めているのだ。
 一年前のあの活気溢れる、明るくて希望に満ちた前向きの南京を思うと、気持ちが沈んでくる。分別ある人間がどうして戦争を阻止できないのだろうか。その気になれば阻止できるだろうに。

(IMAGINE 9)【合同出版】より

想像してごらん、

ひとりひとりの安全を

大事にする世界を。


Imagine,

A world that values the safety of

each and every human.



政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が
大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。
政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。
私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に
平和をつくりたい。それが私の理想です。
(イラク/男性)

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2008年12月3日水曜日

1937年南京大虐殺前夜

「南京事件の日々  ミニー・ヴォートリンの日記」【大月書店】より
(ミニー・ヴォートリン・・・南京にあった金陵女学院の教育と運営の実質的な指導者であった。)
1937年11月
5日、日本軍の第10軍が杭州湾に上陸、背後をつかれた上海防衛の中国軍に動揺がはしり、13日に第16師団が上海北西の長江岸の白茆口に上陸すると、中国軍の撤退と潰走がはじまり、やがて総崩れとなり、15日、上海は日本軍の手に落ちた。
 10日は雨天にもかかわらず日本軍機の南京空襲があった。・・・・・・・
 上海発行の英字新聞や上海、香港からの英語ラジオ・ニュースで戦況についてある程度把握していたヴォートリンは、日本軍が南京に侵攻してくるのは時間の問題であり、そうなれば、南京城の攻防をめぐって長い戦闘がおこなわれ、その結果南京には瓦礫と廃墟が残るだけになるだろうと予測して、それが現実になるのを恐れていた。
 20日、ヴォートリンは、宣教師のジョン・マギーらとともに、下関駅に送られてきている負傷兵たちの様子を見に出かけた。そこで彼女が見たものは、医者と看護婦にも見放されて、死体同様にホームに放置されていた数百人の負傷兵の集団であった。蘇州、無錫の攻防戦で負傷した中国兵たちで、南京陸軍病院の医師や看護婦たちがすでに南京から避難してしまった後に、送還されてきたのだった。
 眼も鼻もつぶれてうめき通しの兵士、尻のところまで脚をもぎ取られた兵士、ほとんどが瀕死の重傷を負った兵士たちがベッドもなく横たわっている。あたり一帯に死臭のような悪臭が充満していた。
 昨夜は下関駅の負傷兵の二割が絶命し、今日は三割の負傷兵が息を引き取るであろうと、関係者は言っていた。・・・・・・・・
 ヴォートリンにとって、さながら生き地獄絵のような負傷兵の集団を見たことは、戦場の悲惨さ、忌むべき戦争の実態をあらためて思い知らされ、忘れることのできない強烈な体験となった。
 こうした戦争の悲劇をさらに増大させることになる日本軍の南京攻撃を、なんとか停止させたいと願い、神に祈り続けていたヴォートリンが、最後に望みを託したのが、3日からベルギーのブリュッセルで開催されていた九ヶ国条約会議(ブリュッセル会議と称する)であった。・・・・・・・・
 ブリュッセル会議は、「各国代表は条約の規定(中国の主権・独立とその領土的・行政的保全の尊重を規定していた)を無視する日本に対し共同態度を採ることを考慮する」という日本の国際法違反を非難する宣言を採択して、24日に閉会した(日本とドイツは招請を受けたがボイコットした)。会議は日本の中国侵略にたいして警告宣言を発するという平和的手段に訴えることで終わり、中国代表が希望した具体的な対日制裁措置は決定しなかったのである。
 同会議の宣言を香港からのラジオ放送で聞いたヴォートリンは、23日の日記にこう記す。
 「多くの国が協同して、日本の中国侵略を阻止するためにやるべきことを、今こそ実行するように、衷心から祈るばかりである。日本の硬直した保守的な思想と侵略的な態度が変わるように、そして世界の人道主義的圧力が日本国民に重くのしかかるように、強く願っている。日本国民は世界から非難されて大きな苦痛を経験しなければ、目覚めることをしないであろう」。

 20日、蒋介石国民政府は、首都を南京から重慶に移すことを正式に宣布、同日、唐生智(とうせいち)が南京防衛軍司令長官に任命された。これに前後して政府の中央諸機関は、つぎの暫定首都である長江上流の武漢(同市は漢口・武昌・漢陽の三地区よりなる)に向けて続々と移転を開始した。国民政府当局は、南京の防衛軍は最後の一兵まで戦うつもりであるから、一般市民は市区域から早急に避難していくよう呼びかけた。政府機関の移転とともに、政府官庁の職員とその家族が南京から離れて行き、ついで中産階級の市民が南京から避難していった。脱出していく市民と入れ替わりに、中国軍5万が16日に南京到着、その後も兵士、武器、軍需品を満載したトラックが大通りを頻繁に行き交い、南京城内は戦闘前夜の興奮と緊張と喧騒とに包まれていった。
 ここにいたって19日、金陵女学院の呉学長は、成都に赴くことを決定せざるを得なくなり、涙ながらにヴォートリンに金陵女学院の後事を託した。同日、アメリカ大使館のホール・バクストンが、南京城内が無秩序になり、外国人の生命が危険な状況に陥ったときには、長江に停泊しているアメリカ砲艦パナイ号に避難するように通告に来たとき、ヴォートリンはこう答えた。
  「わたしはどんなことがあっても金陵女子学院の仲間と隣保館の仲間を見放すことはできないのです。彼女(彼)らは私を頼りにしている。状況によっては彼女(彼)らが私を助けてくれるだろうし、状況によっては私が彼女(彼)らを助ける事ができるのです」。
 最終的に、南京にずっと留まることを決意した外国人女性は、ヴォートリンと鼓楼病院(南京大学付属病院)に勤めるイーヴァ・ハインズとグレース・バウアーの3人だけとなった。
 南京に日本軍が侵攻してくることが確実になると、戦火の南京に留まることを決めていたアメリカ人の宣教師、大学教師のあいだに難民区を設定する話が急速に進展し、17日には主要メンバーが集まって、南京安全区(難民区)国際委員会の結成を決定。中国当局の承認と協力を得、アメリカ大使館を通して日本側の了解と認知を獲得するために積極的に活動を開始した。(昨日書いたように委員長にはドイツ企業ジーメンス社南京支社の支配人として南京に残留していたドイツ人のジョン・H・D・ラーべが就いた。)
 国際委員会の申し入れにたいして、中国当局から、委員会の提起した非武装の安全区設置の条件を全面的に遵守するとの回答が寄せられ、日本の関係当局からはしばらくして、難民区が中国軍の軍事目的に使用されない保証があれば、日本軍が攻撃する意図はない、と間接的に認める回答があった。
 日本当局からも一応尊重する旨の回答を得た国際委員会のメンバーは、金陵大学や金陵女学院の中国人スタッフの残留者を総動員して大急ぎで難民区の設定に取りかかった。


南京安全区は、南京城内を東西南北に四等分したその西北部に位置し、東京の台東区や中央区よりやや狭い面積に相当する。この区域に難民区が設定されたのは、金陵女学院や金陵大学もあり、さらに公共の建物が多く、難民を収容するのに便利であったこと、同地にある高級住宅街の洋館の外国人はほとんど避難した後であり、いざという時には難民を収容できたこと、そして何よりも、安全区を運営したアメリカ人やドイツ人たちのホームグランドであった事などの理由による。
 金陵女学院を難民収容所として解放する事が決まったので、ヴォートリンらは、構内の校具、図書、文書の整理・移動にとりかかり、貴金属や装飾品などは長江に浮かぶアメリカ砲艦パナイ号に保管してもらうなど、難民区設営の準備におおわらわとなった。
 国民政府が重慶遷都を宣布した20日、日本では天皇に直属する最高戦争指導機関である大本営が設置され、中国全面侵略戦争を本格的、長期的に指導する体制を確立した。
そして、12月1日、大本営は中シナ方面軍にたいして正式に南京攻略を下令、総勢20万に達する日本の大軍が中国軍の包囲殲滅を目指して南京に進撃して行った。

{Imagine 9}【合同出版】より


想像してごらん、
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界を。

Imagine,
A world that instead of
preparing for war,prevents war.



コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)


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2008年12月2日火曜日

南京事件前夜:国際委員会立ち上げ!

「ラーベの日記」の続き。(「南京の真実」講談社より)
11月20日
18時に号外が出た。中国の新聞で、国民政府が重慶に移るといっている。南京のラジオも同じことを伝えた。それから、南京は死守されるそうだとも。

11月22日
・・・・
17時に国際委員会の会議。南京の非戦闘員のための中立地域設置の件。私は「代表」に選ばれてしまった。辞退したが押し切られた。良いことをするのだ、受けることにしよう。どうか、無事つとまるように。責任重大だ。・・・・・・・

 デンマーク、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国の各国民によって構成される当委員会は、国民政府と日本政府に対し、南京市内ないしはその近郊で戦いが勃発した場合にそなえて、難民のために安全区の設置を提案する。
 国際委員会は、次の点を国民政府に保証してもらうことを約束する。軍事交通局を含むあらゆる軍事施設を「安全区」から撤退させ、非武装地帯とし、ピストルを装備した民団警官のみを置く。また、その場合、すべての兵士およびあらゆる階級、身分の士官の立入りは禁止される。国際委員会は、これらが遵守され、滞りなく遂行されるよう配慮する。
 国際委員会は、日本政府が人道的理由から安全区を尊重するべく配慮してくれるよう願っている。そのような慈悲深い措置こそ、責任ある日中両国政府の名誉となると信ずる。国民政府との交渉を出来るだけ早く成立させ、難民保護のために必要な準備を整えられるよう、日本当局のすみやかな回答を切望する。

 会議から帰ると、ボーイの張が待っていて、医者を呼んでほしいという。かみさんの具合が悪いらしい。ヒルシュベルグ先生の診断の結果、数日前流産した事がわかった。すぐに鼓楼病院に連れて行かなければ。

11月24日
ロイター通信社が早くも国際委員会の計画について報じた。すでに昨日の昼、ローゼンも、ラジオで聞いたという。それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、ということらしい。それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館あてにこんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。

 当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーべを代表に、イギリス人、アメリカ人、デンマーク人、ドイツ人の各委員は、中国および日本に、南京に直接戦闘行為が及んだ場合の一般市民安全区の設置を求めております。アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。
 ドイツ人の代表に免じ、この人道的な提言に対する、非公式の、とはいえ公式の場合に劣らない温かいご支援を乞う次第です。
・・・・・・・・よってこれを転送し、米海軍を介してドイツ総領事館および日本当局の返信を頂きたいと思います。                 ローゼン

 中央病院院長のJ・ヘンリー・劉先生が去り、「後を託された」医師たちも二人ともいなくなってしまった。伝道団のアメリカ人医師たちがいてくれなかったら、この大ぜいの負傷者はどうなってしまったか分からない。先日、贈られたトラックを一台動員した。車が徴発されないよう、運転手の劉漢臣はドイツ国旗を掲げて走っている。中国兵はトラックとみれば残らず取り上げてしまう。カルロヴィッツ社のクリスティアン・クレーガーの話では「命令」が出たという。
 つまり、南京の住民はすべて町を離れるようにという指令である。

11月25日
 医者が足りない。香港、上海、漢口の赤十字に、医師と医薬品を求むと電報を打った。外国人の医者は頼めない。この電報はアメリカ大使館の仲介だが、大使館は(ほかのどこの大使館も同じだ)自国民に対して南京を去るように勧めているからだ。

・・・・・・・・・
 ラジオによると、非戦闘員の安全区に対して、日本はこれまでのところ最終的な回答をよこしていない。上海ドイツ総領事館を通じて、同じく上海にいるラーマン党地方支部長に頼んでヒトラー総統とクリーベル総領事に電報を打とうと決心した。今日、次のような電報を打つつもりだ。

 在上海ドイツ総領事館
 党支部長ラーマン殿。次の電報をどうか転送してくださるようお願いします。

 総統閣下
 末尾に署名いたしております私ことナチ党南京支部委員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万人以上の生命が危機にさらされることになります。
    ナチ式敬礼をもって。           ジーメンス・南京   ラーべ
・・・・・・・・・・

 上海の中国本社からドイツ大使館に私宛の電報が届いていた。
「ジーメンス・南京へ。ジーメンス・上海より告ぐ。南京を発ってよし。身の危険を避けるため、漢口へ移るよう勧める。そちらの予定を電報で告げよ」

 私は大使館を通じて返事した。
「ジーメンス・上海へ。ラーべより。11月25日の電報、ありがたく拝受。しかしながら、当方南京残留を決意。20万人をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました」

 韓が、・・・レンガ工場からガソリン100缶、小麦粉20袋を運んできた。庭では、新しい防空壕の建設中だ。ガソリンはどこか他に置き場を探さなくては。100缶も庭に置くのは危険だ。
 スマイスから電話。東京の新聞が、中立区域があると南京の占領は非常に困難になる、あるいは遅れてしまうと論評したという。もしもこれがうまくいかなかったら、いったいどうすればいいんだ。にっちもさっちもいかなくなってしまう。わが頼みの綱はヒトラー総統だ!

(IMAGINE 9)【合同出版】より


想像してごらん、
女性たちが
平和をつくる世界を。


Imagine,
A world where
women create peace.


戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を
果たす事ができます。
(アメリカ/先住民女性)

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2008年12月1日月曜日

南京事件前夜:日本軍の空襲とイマジン9

多母神さんがまた、外国人記者クラブで持論を性懲りもなく述べたという。
退職したのだから、いろいろな史実に目を向けてくれればいいが!!

「ラーべの日記」を今日も見ていこう。(「南京の真実」講談社より)
10月14日
朝7時。輝くばかりの晴天。ということは、素晴らしい爆撃日和でもある!・・・・・・
日本人が毒ガスを使っているとの噂しきり。地元の新聞が伝えるところによると、すでにここ病院にガス中毒の中国人兵士たちが運ばれてきているという。
 みな毒ガスをひどくこわがっている。南京の一般市民はガスマスクを持っていないからだ。マスクに酢などの液体をしみこませるよう支持されたが、これはしょせん一時しのぎにすぎず、いざというときにはまったく役に立たない。

(日本軍が日中戦争で毒ガスを使ったということを、NHKの番組で見た事がある。毒ガスは戦時中「地図から消された島」大久野島でつくられた。日本軍が戦争で負けたとき大量の毒ガス弾がいろいろなところに遺棄されて、今でも深刻な問題である。最近では、毒ガス弾を掘り出して、被害にあった「周君・劉君を応援する会」もあります。)

10月17日
映画館はすべて営業を停止した。ホテルや店、薬局も大半は閉まっている。市内はびっくりするほど落ち着いている。軍人、警官、民団(民兵)もきちんとつとめを果たしている。外国人は誰も(もう、あまりたくさんは残っていない。ドイツ人について言えば、女性が12人、男性が60人)不愉快な目にあってはいない。逆だ!異国でがんばっているというので、中国人は驚きながらも好意を持って我々を見ているのだ!

 誰もかれも先を争って我が家の防空壕に入りたがる!なぜだか分からない!うちのはおそろしく頑丈だとうわさが立っているらしい。これを作ったとき、せいぜい12人とふんでいた。ところがいざ入る段になってみると、ひどい計算違いをしていたことがわかった。総勢30人。すし詰めだ。
 いったいどこからこんなに大勢の人間が来たのかって?なに、簡単さ!うちのボーイにはそれぞれ、妻や子、父、母、祖父、祖母がいるのだ。だれもいなければ、どこからかつれてくるだけのことだ!いやはや、たくましいかぎりだ。・・・・・


10月19日
今日はまた、ずいぶんと丁寧なご挨拶じゃないか!夜中の2時に空襲警報ときた。ようやくブーツをはき終えた時、爆弾が落ちて、家中がゆれた。

防空壕の仲間へ
この家の防空壕の利用者は、次の規則を守れたし。
婦人と子どもには、安全な場所、すなわち真ん中の席をゆずる。
男性は、はしで立つか座るかしてがまんすること。
この指示に従わないものは、今後一切使用を禁止する。
      南京、1937年10月19日    ジョン・ラーべ

10月27日
中国側は日本軍が上海郊外の大場を突破したことを認めた。

11月11日
爆弾が雨あられのように降ってくる。だしぬけに、おもてで歓声があがった。高射砲弾が一つ命中したのだ。あっというまに防空壕はもぬけのから。こんな見ものを逃す手はないというわけだ。真っ二つになった爆撃機が、炎に包まれ、もうもうたる煙をあげて落ちてくる。5人から7人乗っているはずだが。
なかから2人、炎と煙のなかを飛び降りた。パラシュートもつけずに。20秒には、堂々たる機体は残骸と死体だけになっていた。

11月15日
政府は南京から撤退するつもりだ。私は交通部(運輸省)でそう確信した。執務室も廊下も旅行かばんと荷箱で足の踏み場もない。揚子江上流の長沙に移ることになっているのだ。・・・・・・・

11月18日
今日は、「中華新聞」の南京版も出なかった。印刷工が逃げ出したのだろう。力車や荷馬車、乗用車、トラックが夜昼となく町から出ていく。どれもこれもうずたかく荷物を積んでいる。大半は揚子江へ向かう。船で漢口やその先へ避難するからだ。時を同じくして、北部から新米兵の隊列があとからあとからやってきた。どうやら、あくまでも防衛する覚悟らしい。兵士はぎょっとするほどみすぼらしい身なりだ。みな素足で、黙々と行進してくる。果てしなく続く疲れ切った人々の無言の行列。

(IMAGINE 9)【合同出版より】


想像してごらん、
基地をなくして緑と海を
取りもどしていく世界を。


Imagine,
A world that gets rid of
military bases and reclaims
the forests and the oceans・


森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)


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2008年11月30日日曜日

アンダンテ:フルート発表会

先日の10月11日(土)に以前に私が習っていたフルート教室の発表会がありました。
その時の様子です。関心のある方はのぞいて見て下さい!


アンダンテ:フルート発表会

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南京事件前夜:日本軍の空襲とイマジン9

ラーベの日記を読んでいると、日本軍の南京攻略戦における空襲の様子がよく分かる。

ジョン・H・D・ラーべ(1882年ハンブルク生まれ。1911年にドイツの世界的コンツェルン、ジーメンス社に入社。ナチ党員。日中戦争が深刻化し、首都南京が陥落したときは当地支社長だった。日本軍占領下の南京で、国際安全委員会の代表となって中国人を救おうと奔走する。1950年、ベルリンにて死去する。)が、南京攻略戦前夜から陥落後の様子を日記に書いていた。
[「南京の真実」(ジョン・ラーベ著):講談社]より引用

1937年9月21日
裕福な中国人はとうに船で漢口へ避難し始めていた。農場という農場、庭という庭、さらに公共の広場や通りには大車輪で防空壕が作られた。とはいっても、19,20日と、続けて4度の空襲にみまわれるまでは、ごく平凡な毎日が続いた。
 アメリカ人やドイツ人の多くがすでに南京を去っていった。これからいったいどうなるのか。昨晩、じっくり考えてみた。・・・・・・

10月3日
政府高官筋の人々、とりわけ蒋介石夫人の宋美麗はドイツにあまり好感を持っていないという噂だ。
ドイツが日本と防共協定を結んでおり、ソビエトと同席したくないという理由から、ブリュッセル会議への出席を拒否したからだ。
「私たちの味方でない者はすなわち敵」と夫人は言ったという。それなら、ドイツ人顧問はどうなんだ?いまや中国人があんなに誇りにしている高射砲部隊、つまり防空隊を導入したのはいったいどこの誰だ?ドイツ人の軍事顧問じゃないか!北部ではろくに訓練されていない兵士が逃げ出しているというのに、上海付近の軍隊は勇敢に戦っている。だれが訓練したと思ってるんだ?ドイツ人の軍事顧問だろうが!南京から逃げずにがんばっているのは?ドイツ人の軍事顧問と我々会社員じゃないか!こっちに言わせれば、南京に残るのはまさに犠牲的行為以外の何ものでもないんだ。それなのにやつらにはそれがどうしてもわからない!なんせ自分の国にいるんだからな。・・・・・

 薬がなくなりそうだ。天生薬房(薬局)は、このあいだの爆撃で派手にやられて店を閉めてしまった。
・・・・・・・・
 
けが人を大ぜい乗せたトラックが毎日到着する。大したけがではないが、どの人も痛々しい。汚れた包帯をまいて、泥がこびりついている。まるでたったいま塹壕(ざんごう)から出てきたみたいだ。医師のヒルシュベルクさんがいてくれるのがせめてもの救いだ。彼の家族もまだ残っている。・・・・・

10月6日
18時から19時まで、トラウトマン大使(駐華ドイツ大使)がお茶を飲みに来ていた。一時間ほど一般的な情勢について話し合った。お互い少々悲観的になっている。北部は陥落してしまった。これはどうにもならない。だが、南京は上海に守られているために、中国人は戦争の中心は上海だと思っているようだ。だが、いつまでこれが続くだろうか?

10月13日
薄曇り。不穏な日だ。だが、このあたりは無事だった。8時に空襲警報。だが、15分後に解除された。警報のたびに男も女も子どももみな、貧しい人たちが大ぜいわが家のそばを通り抜け、五台山へと、逃げていく。かなり大きな防空壕があるのだ。これだけでも悲惨きわまりないというのに、小さい子どもを抱いた母親たちのおびえようといったら!見ていられない。今日はそういう人たちが4回もここを通り過ぎていった。
 
 防空壕を広げよう。ドイツ語の話せる沈(セン)さんと馮(フォン)さんが、わが家の近くの支局に転勤してきた。空襲警報が鳴ると二人ともここに避難してくる。いつも郵便物を配達してくれる二人も常連だ。そのうちに泊めてくれといってくるだろうが、場所があるだろうか。私自身はここのところまったく防空壕に出入りしていない。・・・・・


(IMAGINE 9)【合同出版】より

想像してごらん、
武器を使わせない世界を。


Imagine,
A world that doesn’t
let weapons be used.


憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。
なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、
世界はまだ暴力と戦争だらけです。
(アメリカ/男性)


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2008年11月29日土曜日

南京事件の日々

南京が攻略された時、南京に残って安全区を作り、そこに避難してくる避難民を守った外国人たちがいた。
南京難民区で活動した外国人たち【ここであげたうち、ラーベがドイツ人である以外は、すべてアメリカ人】(「南京事件」笠原十九司著 岩波新書)より引用

ジョン・ラーべ
 ジーメンス社南京支社支配人。ナチス党支部長代理。南京安全区(難民区)国際委員会委員長、帰国後南京事件をヒトラーに報告、対中・対日政策の変更を願ったが、逆にゲシュタポに逮捕される。

ジョン・マギー
 アメリカ聖公会伝道団宣教師。南京国際赤十字委員会委員長、南京安全区国際委員会委員、日本軍の蛮行を厳しく批判すると共に、良心的な行動をとった日本人将兵についてもきちんと記録している。

アーネスト・フォースター
 アメリカ聖公会伝道団宣教師。南京国際赤十字委員会書記。カメラが趣味で、多くの記録写真を残している。

ルイス・スマイス
 金陵大学社会学教授。南京安全区国際委員会書記。社会学者として南京攻略戦の被害状況を調査書にまとめた。

ジョージ・フィッチ
 YMCA国際委員会書記。中国蘇州に生まれ、中国語が堪能で南京安全区国際委員会のマネージャー役を務める。

マイナー・ベイツ
 金陵大学歴史学教授。南京安全区国際委員会委員。委員会の中心メンバーとして、財務実務や日本大使館への抗議交渉を担当した。知日派としても知られる。

ロバート・ウィルソン
 金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師。南京国際赤十字委員会委員。南京占領時、唯一の外科医師として医療活動に従事。

ミニー・ヴォートリン
 金陵女子文理学院教授。宣教師。南京国際赤十字委員会委員。強姦・暴行を防ぐために献身的な活動を続けた。1940年アメリカに帰国し、翌年自殺。

明日からは、ラーべとヴォートリンの日記をもとに南京事件をどのように描写したかを見ていきたい


{IMAGINE 9}より【合同出版】より
想像してごらん、
おたがいに戦争しないと
約束した世界を。


Imagine,
A world that promises
not to fight wars with each other


戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にうすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)


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2008年11月28日金曜日

南京大虐殺and IMAGINE 9

日中戦争では、日本刀が広く使われた事が、『「百人斬り競争」と南京事件』(笠原十九司著)を読むとよく分かる。南京攻略戦の途中から百人斬り競争を始めた、二人の少尉は戦後南京の裁判で処刑されたが、その二人はたまたま大新聞の記事になって有名になったから処刑されたのであり、その他にも沢山の日本人兵士が日本刀で、中国人を斬った。それが戦いの最中なら正当性はあるが、残念ながら、敗走する兵を後ろから斬ったり、捕虜にした無抵抗な兵士を据え物斬りしたりもした。前述の百人斬り競争の中身も、このように斬られたものがいたという。
 ともかく、中国戦線に於いては日本刀が威力を振るった。
著書に載っている一例をあげる。地方紙「新愛知新聞 三河版」
【隊長からもらった日本刀で敵の首32!新城町の剣道選手・・・君の痛快な武勲をきく】
(1938年6月17日)
・・・・・・・・・
隊長より特に剣道の腕を見込まれ、隊長所持の伝家の日本刀贈与の栄光に浴し・・・徐州攻撃参加の激戦には真っ先に振りかざして突進、真っ向当竹割と敵兵の首12個を吹っ飛ばした。すでに幾多の戦闘にても18個の首を切り落としており、衛兵勤務の立哨中敗残兵2名が出没したが、このときなどは敵は無茶苦茶で簡単に斬り落とすことができた。現在刀の刃はボロボロに濡れているが零れているが、切れ味は大丈夫だ。
 合計32首を葬ったが、凱旋までには50個を血祭りにあげる覚悟だから安心していてくれ。

このような記事がいろいろな地方紙に武勲として紹介されていた。当然その当時の日本は国民こぞっていけ!いけ!モードであったのだから。
敵国の中国人を沢山斬ることに何の疑問もはさまなかっただろう。たとえ、それが無抵抗なものであっても。勿論捕虜を斬るとか、敗残兵を斬るというのは戦時国際法違反である。


{IMAGINE9}【合同出版】より

想像してごらん、
武器をつくったり
売ったりしない世界を。


Imagine,
A world that doesn't
Make or sell weapons.



紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)

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2008年11月27日木曜日

南京大虐殺andIMAGINE9

南京攻略戦は現地の師団の独断専行によるものであったが、勿論軍中央にも南京攻略を積極的に進めるべきだという勢力もあり、それが力を持つようになった。
 11月20日、天皇が直属する最高戦争指導機関である大本営が設置され、24日には天皇臨席のもとに、参謀本部、陸軍省、軍令部、海軍省の最高首脳部が出席して第一回大本営御前会議が開かれた。開かれたということは、本格的な戦闘に入ったということだろう。
 12月1日、大本営は「中シナ方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第8号)との南京攻略を下令して、中シナ方面軍の独断専行を正式に追認した。
 12月14日、昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」が下賜(かし)された。
 陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉
中シナ方面の陸海軍諸部隊が上海に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京戦史資料集Ⅱ』)
 
大元帥陛下にどのような情報が伝わったか分からないが、中国では以下のような事が起こっていた。
「陣中日記」の続き。
12月27日
午前8時、野菜の徴発に出る。漢中門を出た所には五、六百の死体が真っ黒に焼かれ折り重なって倒れている。焼けただれた皮膚が黄味を帯びて全く見苦しい。戦闘が間遠になっている関係か気持ちが悪くなった。あちこちにこのような無残な死体が散乱していた。
 大きな橋を渡りさらに進む。道端にはさらに遺棄死体が転がっている。・・・・・こじんまりとした部落につく。当部落には避難民が多く集まっているが大多数は老人か子どもである。・・・・・・・・・・・・・(「牧原日記」)
12月31日
逃散兵が河の波打ち際に五,六百名ほど殺されて投げられていた。(「上羽日記」)

{IMAGINE 9}より
想像してごらん、
軍隊のお金をみんなの
暮らしのために使う世界を。
(アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)
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2008年11月26日水曜日

南京大虐殺

笠原教授の「南京事件」の記述による
    南京大虐殺の定義と範囲
「南京大虐殺事件は、日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対しておこなった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。
 事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦(中国にとっては南京防衛戦)の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
 事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中シナ方面軍が南京戦区に突入した、1937年12月4日前後からはじまる。大本営が中シナ方面軍の戦闘序列を解いた38年2月14日が南京攻略作戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後も続いたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村では相変わらず続いていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考える事ができる。だたし、37年8月15日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民に対する無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。」

「陣中日記」の続き
12月22日 
 於南京 馬家山砲台および同火薬庫一帯南側より清沿山砲台、水道塔、文化学院、漢西陵以北の地区内の捜索を実施す。午後四時掃蕩を了し帰還す。(四中隊日誌」)
 特務兵が何処にいたものかシナ兵を引っ張り出して水溜りのところで殺している。你公(にいこう)が大勢たかって見ている。(「北山日記」)
12月23日
 軍司令部南京に移動と共に大隊は軍直轄となり同地の警備に任ず。(「四中隊日誌」)
12月27日
漢中門を出て、菜っ葉、水牛の徴発に行く。出たところものすごい死人の山である。五百を超えるであろう。折り重なって殺されている。敵兵が主らしいが一般の你公の服装のもいる。大方敗残兵をしたものであろう。道路の両側も敵兵の死体でいっぱいである。(「北山日記」)

{IMAGINE 9}より
想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和なせかいを。

でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのかな?
一つひとつ考えてみよう。

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南京大虐殺

昨日書いた食糧の調達についての補足を書きます。笠原教授の「南京事件」に次のような記述があります。
 南京事件の前史
近代戦においては、大部隊は前線部隊と後方の兵站部隊とに別れ、前線の戦闘部隊は後方の兵站部隊からの食糧・軍事物資の補給を受けながら前進していく。したがって、前線部隊の新たな前進は、兵站部が補給可能な位置まで移動してきてからおこなうのが常識であった。ところが中シナ方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦ではこの作戦常識が無視された。上海派遣軍の場合、もともと上海周辺だけを想定して派遣された部隊であったから、各師団の兵站部隊は最初から弱体だった。それにもかかわらず、前線部隊は「南京一番乗り」をあおられ、補給を無視した強行軍を余儀なくされたのである。そのため、中シナ方面軍は糧秣(食糧と軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。これは「糧食を敵中に求む」「糧食を敵のよる」という戦法であり、通過地域の住民から食糧を奪って食べることであった。
 中シナ方面軍の兵士の多くが予備役兵・後備役兵で、妻子を残しての出征であった。上海戦が終われば帰還できると思いきや、そのまま南京攻略戦に駆り立てられた不満や憤りが兵士間にくすぶっていた。それらの不満のはけ口として、軍の上官たちは性的蛮行を「兵の元気をつくるに却って必要」といった理由で黙認する風潮があった。「中国女性を征服し」「力ずくで女をものにする」という戦場の役得としての婦女陵辱行為が兵士を南京攻略に駆り立てるために黙認された(国府台陸軍病院附軍医中尉 早尾乕雄「戦場に於ける特殊現象とその対策」・・・・・・・・・・・・

 このようなわけで、兵士たちは徴発せざるを得なかった。
12月16日(1937年)
 本日各大隊は掃蕩に出る。多くの敵の焼死体があちこちに転がっている。真っ黒にこげた死体、また黄疸のように真黄になり皮の破れた者等々で、戦いが終わってみると可哀想である。何処の部落に行っても若い男は一人もいない・・・豚一頭殺して早速料理して食う。鍋の徴発にはいかにも困った。苦労した。(「牧原日記」)
12月17日
 白水橋着同地付近の警備に任ず。(「四中隊日誌」)
 敗残兵の掃蕩を行う。多数の捕虜広場にいるを見る。(「増田日記」)
 午前八時半、謝塘を出発。部落を通過ごとに火をつけて南京へ向かう。今夜も2,3ヶ所に火の手があがっている。(「牧原日記」)
12月18日
 白水橋西北方地区掃蕩のため大西伍長以下21名午前8時30分出発、午後0時20分帰隊す。(四中隊日誌」)
 ちょう発に出る。面白し。洋服を着るやら、トランクをさげるやら、種種様々の服装でもはや凱旋気分いっぱいだ。(「上羽日記」)
 八時に食事を終わる。皆の者は何時とはなしに徴発に出る・・・あめ、もち米、唯米、それに醤油等、色々と徴発品があったので当番も大助かりだった。(「牧原日記」)
12月21日
 太平門の入口に死体五百名ほどうちころし、無残につんであった。人間ははかないものなり。腹を突き破り、頭、顔など所きらわず切った死体、砲車などなかなか奮戦の跡を思わせる。(「上羽日記」)
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2008年11月25日火曜日

南京大虐殺

日中戦争では、日本軍には捕虜と言う言葉はなかったようである。日本軍人は死ぬまで戦うべきだとして、捕虜になることは最大の恥辱だとされるような風潮があった。1941年には「戦陣訓」が出て、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」という捕虜否定思想の徹底になった。ましてやもっと蔑視、軽視していた中国軍の捕虜に対しては、なおさらその権利を認めなかった。
 中国で戦っていた日本軍(皇軍)は後方支援がなかったから、前進したら、夜営する場所、食糧はすべて、自分たちで見つけなければならなかった。民家に押し入り、食糧や寝床を占拠した。勿論人がいれば殺した。自分たちは正義の戦いをしていると錯覚し、中国人を人とも思わなかったふしがある。人としてどのように扱うか全く考えていなかったようだ。
 中国のその当時の首都南京に入っても、状況は変わらず、当番を決めて、食糧をあさっていた。(徴発していた。)
敗残兵や武器を捨てて民間人に成りすましている(便衣兵)と思われる人などを片っ端から捕まえては、殺してしまった。本来、捕虜を処刑する時、戦時国際法にのっとって、裁判にかけてから刑を執行するのだが、それもしなかった。
 大量の捕虜がでれば、その人たちに食べさせる食糧も必要だ。だが、その時の日本軍には全くの予備の食糧などないのだから、現地指揮官も、どうしていいのか分からなかったのだろう。パニック状態になっていたと思われる。
陣中日誌の続き・・・・
12月15日
話によれば城内北方に敵武装解除したる兵1万5千人いて、これを機関銃で囲んでいるそうな。また、紫金山のトーチカ内に一ヶ師団ほどいて、これも囲んで守っているそうな。ちょう発に行く。面白い、何もかも引っ張り出してさがして行く。(「上羽日記」)
12月16日
南京東側地区掃蕩のため午前7時30分露営地出発、硝石村に向かい前進す。情報によれば南京東地区には敗残兵多数あるもののごとし。連隊主力の掃蕩により敗退する残敵を捕捉殲滅せんとす。
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2008年11月24日月曜日

南京大虐殺

今、私は多くの日本人が出来るだけこの問題には触れたくない・忘れたいと思っている問題を取り上げている。
 でも、加害の事実ははっきりと認識しなければ、日中の真の友好はないだろうし、中国だけでなく、アジアとの共生も難しいと思う。大東亜共栄圏などというまやかしの政策で侵略したのだから。
 笠原教授によると「南京大虐殺の主因は日本軍が南京を防衛する中国軍に対して徹底した「包囲殲滅戦」、つまり中国兵の皆殺し作戦を実行したところにある。その背景には南京攻略戦は「暴戻なる抗日シナのよう懲(日本に歯向かう乱暴な中国を打ち懲らしめる)」のための戦いだという傲慢な考えと、中国軍には戦時国際法を適用しなくても国際的には問題にならないという蔑視と、さらに中国人を「チャンコロ」「シナ人」と蔑称して人間以下とみなす差別意識があった。中島今朝吾第16師団長みずから「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片っ端よりこれを片づくることとなしたる」(「中島今朝吾日記」12月13日)としているように、捕虜は保護せずに虐殺した。
 第13師団山田支隊(若松歩兵第65連隊)も、支隊長山田栴二少将の「陣中日記」に、「12月14日 捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せし所、14777名を得たり。斯く多くて殺すも生かすも困ったものなり」「12月15日 捕虜の始末その他にて本間少尉を南京に派遣し連絡す。みな殺せとのことなり」と書いてあるように、捕虜集団の大殺戮をおこなった。同支隊では16日と17日に長江岸で捕虜を殺戮、18日と19日をかけてその死体を長江に流して片付けたのである。」とある。
 勿論、民間人か、兵士か分からない場合も多々あったので、巻き込まれた多くの一般人も多かったろう。

 昨日の続き・・・
 飛行機残敵掃蕩(「上羽日記」)
 空軍も掃蕩に協力。市の上空を旋回している。午後二時戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。午後12時過ぎ掃蕩から帰る。800名ほど武装解除したらしい。みんな一人残らず殺すらしい。敵兵もよもや殺されるなどと思っていまい。学生が主力らしく大学生なぞ沢山いたという。生かしておけば随分世界文化の発展に貢献する人も有るだろうが惜しいものだ。尊い生命がなんのちゅうちょもなく失われていく。戦争の苛烈な姿をつくづく感じる。(「北山日記」)・・・・

何とも、戦争とはこわいものだ。自分ではしたくないことも強制的にやらされる。
しないと、こっぴどい目に遭うだろう。
皇国日本の軍隊(皇軍)が中国でおこなったことは、何ともむごいことである!!
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2008年11月23日日曜日

南京大虐殺

日中戦争は、満州事変とは比較にならない本格的な戦争であった。日本は1937年(昭和12年)12月の南京占領までの第一段作戦において、陸軍は戦時編成の16箇師団を中国戦線に送り、海軍は第2、第3艦隊と航空隊の主力を使用し、1万8千の戦死者と5万2千の負傷者を出した。(遠山茂樹他著「昭和史」岩波書店)
 近衛内閣は「八紘一宇」などをスローガンに掲げ、侵略を正当化した。【「八紘一宇」とは「世界を一つの家とすること。第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。」(大辞林)】
 天皇が家父長で、周りの国々の人々は下僕として仕えることか?
 国民には勤労奉仕や節約を強制した。パーマネントをやめさせ、国民服やモンペ姿を男女の制服・日の丸弁当をおしつけたりした。
 そのような生活全体が戦争一色の時代である。
南京陥落後、南京で何が起こったか?昨日の続きを書こう。

「今日は国際委員会の設置している難民区へ掃蕩に行くのである。
昨日まで必死で抵抗していた数万の敗残兵は八方より包囲されて唯の一人も逃げていない。結局この難民区へ逃げ込んでいるのだ。今日こそ虱潰しに草の根を分けても捜し出し、なき戦友の恨みを晴らしてやろうと意気込んで配置についた。各小隊に分かれて、それぞれ複雑なシナ家屋を一々さがして、男は全部調べた。大きな建物の中に数百名の敗残兵が軍服を脱いで便服(普段着)と着替えつつあるところを第二小隊の連絡係前原伍長らが見つけた。それというので飛び込んで見ると、なんのそのそうそうたる敗残兵だ。傍らには小銃、拳銃、青龍刀など兵器が山ほど積んであるではないか。軍服のままの者もあれば、早くもシナ服に着替えている者もあり、また、下に軍服を着て、上にシナ服をまとっている者もあるが、いずれも時候はずれのものや不釣合いの物を着ているので、にわかごしらえである事が一目で解った。
 片っ端から引っ張り出して裸にして持ち物の検査をし、道路へ垂れ下がっている電線で引くくり、数珠つなぎにした。大西伍長、井本伍長をはじめとして気の立っている者どもは、木の枝や電線で力任せにしばき付けながら
「きさま達のために俺たちはこんなに苦労しているのだ、エイ」ピシャン
「貴様らのためにどんなに多くの戦友が犠牲となっているのか知れんのじゃ、エイ」ピシリ。
「貴様らのためにどんなに多くの国民が泣いているのか知れんのだぞ」エイ、ピシリピシリ、エイ、この餓鬼奴、ポン「こらこの餓鬼もだ」ポン、素裸の頭と言わず背中と言わず蹴る、しばく、たたく、思い思いの気晴らしをやった。少なくとも三百人くらいはいる、ちょっと多すぎて始末に困った。
 しばらくして委員会の腕章をつけたシナ人に「你支那兵有没有」と聞くと、向こうの大きな建物を指して「多々的有」と答える。その家に入ってみるといっぱいの避難民だ。その中から怪しそうな者一千名ばかり選び出して一室にいれ、またその中より兵隊に違いない者ばかりを選び出して最後に三百人くらいの奴を縛った。金を出して命乞いをする者もあったが、金に欲のない我々は十円札、三枚五枚と重ねたままピリッピリッと引き裂きポイッと投げる。また時計など出すのがあれば、平気で大地に投げつけ靴のかかとで踏みつけて知らん顔している。
 夕闇の迫るころ、六百人近くの敗残兵の大群を引き立て、玄武門にいたり、その近くで一度に銃殺したのであった。(増田六助「南京城内掃蕩の巻」『増田手記』)」
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