●2021 9 25加藤講演第1回目
●絶望的な核開発!!
●トラウマ
●毒ガスの歴史(フリッツ・ハーバー)
●溥儀(「満洲国」皇帝の生涯)
●2021 9 17 浅井基文講演
●731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
●防疫研究室と昭和天皇の関係
●1940年と2020年の東京オリンピック
●731部隊と国立感染症研究所の問題
●731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
●ABC企画委員会
●731部隊・100部隊展
●記憶の継承を進める神奈川の会
対話前に政治犯解放を 民主派「首相」が訴え―ミャンマー
米中の生物兵器開発?
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
日航機墜落事故の原因を究明せよ!!
第6回 戦争の加害パネル展
(感想)
5月9日(日)
69、毎回見させて貰っていますが、一寸尋ねたいことがあります。1960年代は、まだ関内、桜木町の駅頭で3人ぐらいの傷痍軍人がアコーディオンで軍歌など奏でながら物乞いをしていました。見聞ですが、その方々の中には多勢の半島出身者がいたという事です。日本人なら軍人に限り政府から恩給がでましたが、それ以外の方々は何の補償も受けられず、放っておかれましたが、その後どうされましたか?また政府は何か手を差し伸べたのか知りたく思っています。昨今の風潮でこのような展示は自虐的だなどという輩が多いですが、正しく歴史を知ることが武力よりも日本を守ることになると思います。ずっと続けてほしいと思います。
(不明、60代、市内、不明)
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回
731部隊と人権ー裁判から考える
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
731部隊被害者遺族を訪ねて(お話:大谷猛夫さん)
隠された毒ガス兵器
『従軍日記』 小津安二郎
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
「公文書管理を考える」(4) 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授
新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】
1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された
歴史改ざん(「風を読む」)
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日 731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日 731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日 731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日 731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した
8月 731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月 100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1929年12月24日~1930年1月4日、長與又郎、1930年4月22日~?宮川米次、1930年4月23日~?宮川の娘婿の岡西順次郎が中国へ出張しているが
何をやっていたのか?宮川の支那漫談とはどんな内容なのか?
実験医学雑誌第17巻雑報
17巻4号(1933年)
観梅園遊会開催
3月11日観梅園遊会開催の予定で梅園内に一切の準備を進めてあったがあいにく前夜来の降雪のためやむなく予定を変更。午後3時から講堂において長與所長から開会の挨拶の後、二木教授から停年退職について訣別の辞があり。次いで模擬店を所長室及び食堂にて開催。午後5時盛会裡に散会した。尚、当日は二木教授から所内全員に玄米食の折詰の配布があった。
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
第5 当裁判所の判断
(9)結論
以上のとおりであるから、ヘーグ陸戦条約3条を内容とする国際慣習法または被害者個人の損害賠償請求権を認める国際慣習法に基づく原告らの請求は理由がない。
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難
「1931」斉藤準太郎の日記
二月十五日
主人の死・・・そうだ主人の死であった。主人は不治の病で2ヶ年の末、私が入営する2週間前に死なれた。運命のたわむれであろう。やせこけ苦しみぬいて死んだ主人は 私には美しく見えた。
斎藤・・おまえにもいろいろお世話になった。お前も入営に先立ってこんなことになろうとは気の毒なれど、仕方がない。家のことは宜しく頼む。私はこの時ほど、本当に泣いた。お主婦様の姿を見たり、小さい物心つくや付かずの小供たちを見て、私は本当に軍隊が嫌になった。
軍人にも大きな勤めはあるが、私にはまた大きな責任がある。然し嫌になったら軍隊でも 男の務めなら反対に心づけられて 涙と不安との中に神戸の港をたった。
私は不幸というものを知らなかった。父親がないのは不幸に違いなかったが、母の限りない愛で知らずにのびのび育った男だ。母の事を思うとたまらなく母のことが頭に浮かぶ。
私の母は母としては非常に弱かった。しかし一家の主人としてはまた云うに云われぬ強さを持ち大勢の小供を育てつつ平然と暮らしてきた人だ。私は母の大きな心持を知っている。
然し時々母そのもののみに支配されることがある。父としての役を忘れたかの様に。
●大江健三郎著
「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)
挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年8月6日ポツダム書店発行)より
Ⅶ 広島へのさまざまな旅
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
ネズミを集め、ノミの飼育
フンドシ一丁の体にノミが・・・・
伊藤影明(いとうかげあき)
1855部隊
(略歴)
1924年生まれ
1943年 北支那派遣軍甲第1855部隊部隊配属
1944年 発疹チフスで入院
1946年 帰国
■この証言は1992年3月の戦争体験を語り継ぐ会(横浜)、731研究会の学習会での発言(94年11月)をもとに本人がまとめたもの。
解説ー甲1855部隊 西野瑠美子
伊藤氏が第3課建物内部に監禁されていた中国人“捕虜”を目撃したのは1945年2月のことであったが、第3課にいた他の元隊員は、1944年の夏過ぎに3日に渡って計17名の中国人捕虜第3課に連行したことを証言している。彼らは北京市豊台の捕虜収容所から連れてきて、第3課で細菌実験を行ったという。それ以外にも、1942年に2人の中国人捕虜に対して人体実験が行われたという証言もある(『細菌作戦』同文館)。これらについては『季刊・戦争責任研究第9号』(「北京甲1855部隊の検証」西野瑠美子、日本の戦争責任資料センター刊)に詳しい。
さらに人体実験が行われていたのは本部だけではない。特に済南支部では、かなりの回数に渡って人体実験が行なわれたと思われる(前掲『細菌作戦』参照。
一方、大快良明氏の証言によれば、シンガポールの9420部隊では、東京の軍医学校からペストノミの生産に必要なネズミを大量に宰領(管理)していたが、1855部隊もこれと同様に年2回軍医学校にネズミの受領に出かけていた。
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ東北
2 華北
1、河北
林吾夫自筆供述書(1954年4月20日)
1944年5月、解剖実験を行うため、私は旅団長の許可なしに、勝手に旅団司令部が拘留していた2名の捕虜を保定の陸軍病院に引き渡した。私の記憶では、旅団司令部の空き地で防空壕を作っている時に、旅団司令部情報係の黒江中尉が「保定陸軍病院のある軍医(当時野田軍医であったかどうか、今では記憶にない)が解剖をするために捕虜2名を欲しがっているが、どうだろうか」と聞いてきた。このとき私は旅団長の許可を得ることなく、その場で引き渡すことに同意した。私が許可したので、その後のことは旅団司令部の黒江中尉が全て処理した。
(1)119‐2、855、1、第4号
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第6章 アジア太平洋戦争期の毒ガス戦
4 毒ガス戦をめぐる 日米の確執 アメリカ軍の毒ガス戦論計画と日本軍
毒ガス戦の中止へ
このような連合軍側の動きに日本軍は敏感に反応した。参謀本部作戦部長・真田穣一郎少将の業務日誌には、7月12日から15日の間に「大局上直ちに禁止すること(あか筒)」と記されているので(参謀本部第一部長真田穣一郎少将「真田穣一郎日記」)、参謀本部がくしゃみ性・嘔吐性ガスの使用禁止を決定したことが分かる。
この決定は直ちに戦線に伝達された。第11軍の高級参謀・島貫武治大佐の日誌には、7月13日に特種煙及び特種弾の使用を禁止せらる。米軍に使用の口実を与えざるが為なり」とある(島貫武治「1号作戦、第11軍の統帥」)。また、畑俊六支那派遣軍総司令官の7月15日の日記には「衡陽の攻撃は弾薬不足に起因し、15日より再興することとなり、且迫撃砲を以てする赤筒の使用は相成らずとの事にて、第11軍は折角相当赤筒を準備したるに大本営は重慶(中国国民政府)の宣伝に驚き、瓦斯弾使用は米をして瓦斯使用の口実を得せしめるものとし、折角の処にて使用を中止せられた」とはあるので(伊藤隆/照沼康孝編『続・現代史資料第4巻 畑俊六日誌』)、大本営は、日本軍の毒ガス用に対する中国国民政府の非難をきっかけとしてアメリカ軍が先制的な毒ガス戦を発動するではないかと恐れ、慌てて毒ガスの使用を中止させていたことが分かる。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第7章 残虐な毒ガス戦
動かしようのない事実
武漢戦役(1938.6.7~11.12)
同時に、日本軍は日本国内及び中国華北などから多数の化学部隊を移転させ、各参戦師団に配置した。その概要は次の通りである。
第11軍の長江両岸に沿った進攻
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
●『三光』 中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
核時代39年(1984年)5月初版発行
日本鬼子(リーベンクイズ)
虐殺
若夫婦殺し
島津酉二郎
分隊長 憲兵伍長
《略歴〉
本籍 和歌山県東牟婁郡
出身階級 手工業労働者
学歴 尋常高等小学校8年卒業
職業 鍛冶工
所属部隊名 前関東軍長春第2特別警備隊第2大隊
被捕時 1945年10月初旬
被捕地点 長春市南嶺
年齢 36歳
●―筆者からの一言(昭和57年8月)
①昭和31年7月、中華人民共和国軍事法廷において無罪釈放され、帰国。
②昭和31年8月1日、白浜町役場に就職。昭和35年、白浜町役場職員労働組合を組織、書記長、委員長を10年)
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。
連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp
『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)
藤井治夫著
第3章 秘密保全の機構と体制
秘密保全のシステム
局限された「知る必要」
かくも厳重かつ広範に保全措置がとられている文書等が、いったいどのように利用されるのであろうか。貸出しは管理者の承認を要し、「極秘」以上については閲覧場所が指定される。「秘」についても当日限りである(陸・空達)。「極秘」以上を勤務時間外にわたり使用するときは、特別の立会人がつく。基地外への持出しは原則として禁じられている。
だれに、なにを閲覧させるかの基準はあるのか、庁秘訓令が「関係職員」に限定している以外、具体的な規定は見当たらない。各省庁のものでは、法務省の「秘密文書等取扱規程」が「秘密事項は職務の上下にかかわらず、公務上必要な場合に限り知ることができる」(第7第2頑)と定めているのが目につく。科学技術庁「文書取扱規程」は、秘密区分とに許可権者がちがう。「機密」は主管局課の長および総務課長、「極秘」は主管局課の長、「秘」は主管課長の許可を要する。だが、許可を与えるさいの基準はない。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。
「化学学校記事」
『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
1、生物・化学兵器を告発する
核兵器から生物・化学兵器へ
絶対主義王制において皇帝を毒殺するという事は、資本主義経済が高度に発達したアメリカでケネディ大統領が暗殺されるというようなこととは全く異なる意味を持つことは言うまでもないが、かつて王位の転覆をはかるために、真菌類、担子菌類が利用されて来たということは、生物・化学兵器(BC兵器Biological Chemical Weapons)を考えるに当たって興味あることである。シェークスピアの『ハムレット』が、ドラマとして成立するためには、毒薬というものが、重要な構成要素となっているのもそれ例であるが、絶対主義王制のもとにおける毒物ー生物・化学剤は戦略的な要素を持ち得たと言える。
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第十七章 静穏な晩年と昭和の遺産
天皇が古い自己認識に固執するなかで、このころには退位の憶測は消滅し、日本のメディアの関心は彼の18歳の息子、皇太子明仁(あきひと)に移っていった。彼には戦争犯罪の影がなく、新聞はこぞって彼を「未来の日本のホープ」と見なした。彼は西洋式の教育を受け、他人との会話に慣れ、普通の声と普通の抑揚で日本語を話した(彼の父は両方とも苦手だった)。さらに明仁は明治天皇よりもイギリスのジョージ5世の君徳を学び、フィラデルフィア出身のクエーカー教徒であるエリザベス・ヴァイニングに英語を教わった。彼はいまや52年11月に予定された「国家儀式」立太子礼に向けて準備中であり、その後まもなく、エリザベス女王の戴冠式に参列するため外国に派遣されるだろうと新聞は報じていた。占領後の時代が始まるに当たって、天皇と宮内庁と吉田内閣は、非政治化された立憲君主制のモデルと讃えられる島国のイギリスに、皇太子を通じて緊密な友好のメッセージを伝えようとした。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
※私が考える、今の異常気象の要因は
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
4、自動車社会の排ガス
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
● 核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
核兵器禁止条約(かくへいききんしじょうやく、英語: Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons、TPNW)は核兵器を禁止する国際条約である。略称・通称は核禁止条約、核禁条約、核廃絶条約(英語: Nuclear Weapons Ban Treaty、Nuclear Ban Treaty)など。
2017年7月7日に国際連合総会で採択され、2021年1月22日に発効。
メキシコ 2017年9月20日 2018年1月16日
ミャンマー 2018年9月26日
ナミビア 2017年12月8日 2020年3月20日
ナウル 2019年11月22日 2020年10月23日
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future
●核融合もすべきではない!!
核開発に反対する物理研究者の会通信
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より
封印された原爆報告書
水爆実験
JCOの臨界事故
福島第1原発事故
●核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
●日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病
●731部隊(unit731)
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!
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