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ウクライナ破壊は「途方もない間違い」 ロシア富豪が非難
日本は、なぜ、核兵器禁止条約締約国会議に参加しない??
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
731部隊や関東軍の文書公開 ロシアが歴史問題で日本けん制か
731部隊の真実
東京ブラックホールー戦後0年
Нет войне!!Стоп Война!!
I want Japan, which has Article 9 of the Constitution, to move more positively toward a ceasefire !!
Я хочу, чтобы Япония, у которой есть статья 9 Конституции, более позитивно двигалась к прекращению огня !!
ソニアの日記
コタバル 伝えられなかった戦争(2011)
セピア色の証言ー張作霖爆殺(86)
開戦ー前編ー
推薦問題に「歴史戦」とやらの余地はない
●南京大虐殺の真相
● 南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
●マギーフィルム(字幕付き)
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
浅川地下壕を歩く(2021年2月7日)
2021 8 15 敗戦の日
日航機墜落事故の原因を究明せよ!!
【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回
731部隊と人権ー裁判から考える
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
生物兵器、脅威に懸念 防御後手 (The Economist)2020.5.5
(写真は、ドイツが実施したバイオ攻撃に対応するための訓練)=AP
■米ロの研究所、今も根絶した天然痘ウイルスを保有
とはいえ、今回のパンデミックへの各国政府の対応の遅れや場当たり的な対応は、各国政府のウイルス感染拡大への体制がいかに脆弱かを露呈した。米ジョージメイソン大学のグレゴリー・コブレンツ准教授は「今回の感染拡大で生物兵器による攻撃への対応に必要な要素はほぼ全てはっきりした。だが我々が目にしているのは、公衆衛生インフラのあらゆる部分が崩壊しているか、限界に直面しているという事実だ」と語る。同氏は、米国の生物攻撃監視体制の中核を担う迅速な検査のための研究所ネットワークが機能していない上、マスクの国家備蓄もこの10年ほとんど補充されていなかったと指摘する。攻撃をもくろむ者にとっては有用な情報だろう。
隠された毒ガス兵器
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
実験医学雑報19巻 第10号(1935年)
学友会へ寄付
金83円76銭也 宮脇直一君
金 3円46銭也 遠山祐三君
金12円39銭也 安藤啓三郎君
人事異動報告
昭和10年10月1日伝染病研究所
発令月日 辞令 官職 氏名
9.1 昭和10年8月31日付願研究生継続許可 須賀井忠男
〃 昭和10年9月1日付願研究生継続許可 藤田勇之助
9.2 昭和10年9月2日付願研究生継続許可 小林清
〃 敍従4位 教授 竹内松次郎
9.5 京城帝国大学医学部講師を嘱託す
但月手当300円を給す 助教授 小島三郎
9.7 任東京帝国大学教授兼防疫官如故 助教授 小島三郎
〃 敍高等官3等 本俸10級俸下賜 教授 小島三郎
補伝染病研究所所員 〃
伝染病研究所所員職務俸金600円下賜 〃
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
大牟田「爆発赤痢」事件
北宏一郎
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
3 ヘーグ陸戦条約3条が認める賠償請求権の帰属主体
(4)交戦法規の直接的個人的性格
ヘーグ陸戦規則は、占領軍に対し様々な権利を付与し(23条1項ト号、48条、49条、52条から54条)、義務を課している(43条から47条)。このうち、52条の徴発と53条の押収については、占領軍のこれらの義務は住民等に対し直接履行されるべきであり、住民等には現金決済や領収書交付などを直接請求する法的権利が与えられている。もしも占領軍がこれらの義務に違反した場合には、被害者個人に損害賠償請求権を発生させることになる。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
二月十五日
主人の死・・・そうだ主人の死であった。主人は不治の病で2ヶ年の末、私が入営する2週間前に死なれた。運命のたわむれであろう。やせこけ苦しみぬいて死んだ主人は 私には美しく見えた。
斎藤・・おまえにもいろいろお世話になった。お前も入営に先立ってこんなことになろうとは気の毒なれど、仕方がない。家のことは宜しく頼む。私はこの時ほど、本当に泣いた。お主婦様の姿を見たり、小さい物心つくや付かずの小供たちを見て、私は本当に軍隊が嫌になった。
軍人にも大きな勤めはあるが、私にはまた大きな責任がある。然し嫌になったら軍隊でも 男の務めなら反対に心づけられて 涙と不安との中に神戸の港をたった。
「ずっと父が嫌いだった」
知られていない 8月5日までの 広島 バージョン2
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅲ 細菌戦部隊の周辺
戦時中の東南アジアの様子(731部隊員増田知貞が撮影したフィルム)
日本軍政下香港(1997.7.27)
かつてこの731部隊に強制的に連れてこられて人体実験の対象とされた犠牲者は、少なくとも3000人を数えた。日本の植民地支配に抵抗し捕えられた中国人などが、日本の憲兵と警察によって組織的にここ平房まで連行されてきたのである。この特殊輸送のことを「特移扱(とくいあつかい)」と呼んだ。彼らは「マルタ」と呼ばれ、1本2本と数えられ、細菌・化学戦のための研究の犠牲となった。3桁ないし4桁の番号をつけられて、実験台に消えた彼らは、いかなる思いで、死んでいったのであろうか。ロ号棟と呼ばれた100m四方ほどの巨大な建物で細菌実験と製造が行なわれていたが、その中庭に第7・8棟という特殊監獄があった。「マルタ」はそこに収容されていた。そのロ号棟も特殊監獄も今は残っていない(本書巻頭に掲げた3枚の図を参照されたい)。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
はじめに
このような認識が大きく変わり始めたのは1984(昭和59)年であった。この年に日本軍の毒ガス戦の実態を明らかにする重要な基本資料が相次いで公表されたからである。この新しい研究を最初に開始したのは立教大学の粟屋賢太郎教授であった。彼は、1983年に東京の池袋で開かれた東京裁判を問う国際シンポジウムで、日本の生物化学兵器という戦争犯罪が敗戦直後に免責されたことを明らかにし、次いでアメリカ国立公文書館NARAで、陸軍習志野学校案「支那事変に於ける化学戦例証集」という、証拠書類として採用されなかった毒ガス戦に関する決定的な記録を発見した。これは、1984年6月14日の『朝日新聞』にトップニュースとして報道され、大きな反響を呼んだ。次いで、慶応大学の松村高夫教授を中心とするグループが、8月15日の『毎日新聞』に、加茂部隊(731部隊)編「きい弾射撃に因る皮膚傷害並びに一般臨床的症状観察」と題する、糜爛性(びらんせい)ガス(イペリット・ルイサイト)を用いた人体実験の極秘報告書を公表した。
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
百年の悲劇は、ここから始まった1
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第12章 癒しがたい傷
毒ガス島最期の日々
軍隊や工場の労働者は、皆張り詰めて最後の努力をしていたため、現地の役所では竹原女学校、忠海女学校や中学校の女学生たちの動員を始めた。あの時代には、戦争の為に力を出すことは日本人の義務だと考えられており、誰も拒否する権利はなかった。政府や軍隊はこうしたことを十分承知していながら配慮もせず、まだ13,4歳の女の子を危険な毒ガスを扱う仕事に従事させた。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
核時代39年(1984年)5月初版発行
焼け火箸ー拷問の挙句に斬首
佐藤五郎
分隊員 上等兵
(旧部隊名)第59師団第109大隊
佐藤は落とした火箸を拾い上げると、「この野郎、起きろ、歩け」急き立てるようにわめきたてた。死んだようになったその男は、脱がされたズボンをおもむろに履き直し、焼けただれた体に衣服をまとった。右手で着直した衣服をつかみ、左手で顔面を押さえ、その場から静かに立ち上がった。ここから留置所まで20 m くらい離れている。よろめき歩行できないこの男に2人の野良犬はわめき声を張り上げ、無理やり強引に引き起こし、蹴飛ばし殴りつけながら留置場に連行する。先ほどからこの様子を見ていた炊事の奴役夫呂は吊るした木の下に走り寄ると、縄を拾い上げ、何事かつぶやき見送っていた 。
厚木基地の騒音被害、米機移駐の今も 住民訴訟、続く「違法」判断
米海軍と海上自衛隊が共同使用する厚木基地(神奈川県綾瀬市、大和市)から北に約1・5キロの大和市の住宅密集地。真上を飛行機やヘリコプターが飛び交い、騒音をまきちらしていく。
「何もなくても自然と上を見上げてしまう」「飛行機に手が届きそうで」。2人の女性はそう言った。
熊倉シヅエさん(75)と渋川ミサ子さん(76)。家が隣同士で長年、米軍機と自衛隊機の騒音被害に悩まされてきた。2人とも厚木基地の騒音被害をめぐる裁判の原告でもある。
熊倉さんは現在の場所に住んで約45年。引っ越したころは一人息子の子育ての真っ最中だった。「うるさいし、落ちないかといつも心配だった。子どもは耳を塞いで怖がっていた」。住んで約40年の渋川さんも2人の子どもを育てながら同じ思いをしてきた。「空気を入れ替えたくても窓を開けられない。子どもは怖がって我慢していた」
住民たちが騒音訴訟に踏み切ったのが1976年。静かな空を求めた長い闘いは現在、5次訴訟になる。「参加することが少しでも解決につながるなら」。熊倉さんは2次、渋川さんは3次訴訟からの原告だ。
2018年に米空母艦載機の岩国基地(山口県)への移駐が完了。FA18戦闘攻撃機を含む約60機が厚木基地から去った。
2人とも最初は静かになったと思った。だが、そんな安心も長くは続かなかった。相変わらず米軍の戦闘機がやってくる。自衛隊機は頻繁に飛び、米軍輸送機オスプレイの飛来も目立つようになった。移駐しても「うるさいのは変わらない」というのが実感だ。
会話中、騒音で妨害されて腹がたつ。テレビを見ていれば、クライマックスのときに聞き取れない。自動車の音がかき消されて交通事故にもつながりかねない。子育て中は肉体的、精神的に子どもに影響しないかと考え、今は一緒に暮らす孫たちのことが心配だ。
「国はアメリカに弱いから」と熊倉さん。「国を動かすのは議員」と渋川さん。変わらない現状に「子どもたちの将来のためにも静かになってほしい」。2人は強くそう願っている。(上嶋紀雄)
◇
厚木基地を巡る騒音被害は、法廷の場で国と住民が争っているが、互いの主張は平行線をたどり、抜本的な解決は見えていない。
1次訴訟は1976年に始まり、4次訴訟まで判決が確定している。いずれも「騒音は違法状態」との判断が示されたが、4次の一、二審が認めた自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めは最高裁で棄却された。
5次訴訟は2017年8月、周辺8市の住民が米軍機と自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めと損害賠償を国に求めて横浜地裁に提訴。原告は9千人近くに上る。
国側は、住宅防音工事などの対策に巨額の費用を投じてきたほか、激しい騒音を伴う空母艦載機の模擬着艦訓練(FCLP)の硫黄島での実施や、空母艦載機の岩国基地への移駐などを実現したとして騒音低減の効果などを主張。特に訴訟のポイントとなる岩国移駐については「効果が著しい」とし、基地の「公共性」の高さをあげている。
原告側は同じ騒音レベルでも民航機に比べて軍用機の方がうるさいと感じる度合いが高いなど生活への影響が大きいと指摘。軍用機の騒音の評価を見直すべ
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
藤井治夫著
第2篇 自衛隊の機密
第3章 防衛力整備
2、年度業務計画と予算
業務計画の構成
いずれも米陸軍の業務計画規定の翻訳的なものであった。その後1959年、現行の「業務画関する訓令」が定められた。これによって初めて業務計画は長期の基本的計画(現状では防衛力整備計画)にもとづいて当該年度における防衛力の増強維持を計画するという位置づけが明確にされた。こうして2次防以降、中期と年度の計画制度が確立したのである。また、このとき、業務計画の構成が改められて、①方針、②主要基本計画、③業務別計画の3部に区分されることになり、①②は長官の承認事項とされたが、③は報告するだけでよいことになった。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み
1、 生物・化学兵器の開発の歩み
陸軍航空技術研究所は地上兵器とは別に第1研で機体、2研エンジン、3研武器、4研通信電波兵器、5研光学、6研燃料、7研被服糧食、8研衛生、等の技術研究が行なわれ、造兵廠では1造、2造の研究所のほか2造隷下に化学兵器の曽根及び忠海製造所があった。大正12年陸軍科学研究の前身が大久保戸山が原に設立されて以来支那事変、大東亜戦争と技術研究組織も数次にわたり拡大され、昭和18年以後はむしろ複雑、多岐で重複競合の傾向も出て来た。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第2章 天皇に育てる
Ⅱ
杉浦は講義を通じて日本のナショナリズムと膨張主義を賛美し、それによって皇太子が身につけ始めていた科学的知識を弱めようとした。彼は皇室の紋章である菊の花について語り「欧州列国を以て先進国と呼ぶ 。・・・・・(しかし)我国は・・・・結局菊花第一といへるが如く、其の国力、其の文明共に世界に冠絶すべし」と結論づけた。彼はまた人種間の対抗意識を説き、「欧米諸国は『アーリア種』に属する同一民族なり・・・我日本帝国は将来独力を以てアーリア諸民族と相対抗するの覚悟」が必要としている。皇太子は杉浦には、服部に対するような個人的な親しみは感じなかった。しかし彼は、杉浦のネオ・ダーウィニズム的国際秩序観を払いのけることはなかった。また、優越した道徳的・精神的特質が最後には抗争の帰趨を決めるという、杉浦の植えつけた信念を捨てることもなかった。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地球を破壊する核爆発・核実験
年月日 名称(実験名) 核出力 (kt) 実施国 重要性
1954年3月1日 キャッスル ブラボー 15,000 アメリカ合衆国 水爆(人類史上初の多段階、実用兵器)、放射性降下物事故(第五福竜丸やその他延べ1000隻が被曝)
1955年11月22日 RDS-37 1,600 ソビエト連邦 水爆(ソビエト連邦による初の多段階、実用兵器)
1957年11月8日 グラップル X 1,800 イギリス 水爆(イギリスによる初めて成功した多段階)
1960年2月13日 ジェルボアーズ・ブルー 70 フランス フランスによる初の原子爆弾
メアリーが伝えるヒロシマ
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】