虐殺は、その前後で行われた!!
●絶望的な核開発!!
●トラウマ
●毒ガスの歴史(フリッツ・ハーバー)
●2021 9 17 浅井基文講演
●細菌(生物)戦争
●防疫研究室と昭和天皇の関係
●1940年と2020年の東京オリンピック
●731部隊と国立感染症研究所の問題
●ABC企画委員会
●731部隊・100部隊展
●記憶の継承を進める神奈川の会
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
11月18日(木)
・731部隊の事初めて知ることが出来た。教科書に載っていない事、たくさん勉強できました。満洲での生物実験の証言や映像を見ることが出来たのは貴重でした。(40代、市内)
11月18日(木)
・731部隊の事初めて知ることが出来た。教科書に載っていない事、たくさん勉強できました。満洲での生物実験の証言や映像を見ることが出来たのは貴重でした。(40代、市内)
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回
731部隊と人権ー裁判から考える
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
731部隊被害者遺族を訪ねて(お話:大谷猛夫さん)
隠された毒ガス兵器
『従軍日記』 小津安二郎
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
「公文書管理を考える」(4) 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授
新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】
1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された
歴史改ざん(「風を読む」)
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日 731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日 731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日 731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日 731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した
8月 731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月 100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
黒い太陽731(1)
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
実験医学雑誌第18巻雑報
18巻10号(1934年)
昭和9年9月中職員異動調
昭和9年10月4日 伝染病研究所
発令月日 異動事項 官職 氏名
9.20 昭和9年9月17日付願研究生継続の件許可す 渡会次郎
〃 研究事項修了に付退学 海軍技術研究所委託研究生 手嶋安太郎
〃 同 日本赤十字社病院委託研究生 石島直輔
9.25 昭和9年9月23日付願研究生退学の件許可す 橋本了
〃 大阪兵庫和歌山の1府2県へ出張を命ず 嘱託 菊池常雄
9.26 朝鮮へ出張を命ず 技手 佐藤久蔵
9.27 依願伝染病研究所に於ける細菌学研究業務嘱託を解く 嘱託 中島壽
9.28 東京府下へ出張を命ず 同 福島伴次
9.29 依願免本官 技師 阿部俊男
〃 昭和9年9月29日付願研究生退学の件許可す 田畑良造
〃 昭和9年9月30日付願研究生退学の件許可す 臼杵仁
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
当事者目録(別紙1)
原告ら訴訟代理人
弁護士 林敏彦
同 兵頭進
同 蛭田孝雪
同 福地直樹
同 藤田正人
同 宮里邦雄
同 森田太三
同 山本博
同 吉田健
同 大木和弘
同 渡辺彰悟
同 青木秀樹
同 李宇海
同 五百蔵洋一
同 上野登子
同 遠藤誠
同 大口昭彦
同 小原健
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難
「1931」斉藤準太郎の日記
四月二三日
わたしの日記ではない 生活は此の上の開間ばかりになったのだという様な感じになったのだ致し方がない 面白い春らしい話しが生まれるんだもの 衛生勤務 午前七時起床 晴暖かし 土手の若い芝の芽が大きくなるところが見える位だ。
「小ようちゃん 芳っちゃんも今日は皆来たのね」「兵隊さん今日はねキノコ採りにきたのよ」「小ようちゃんが云ふれいちゃんやとしちゃんも一緒ね」「兵隊さん 兵隊さんのお家は何処?」「ここではないでしょうね。ね。・・・・おしえてよ」「兵隊さんここが家よ ここで毎日暮らしているんですよ」「うそうそ、兵隊さんの嘘つき だって少し仲良くなると兵隊さんみんな行って仕舞うでないの、本当のことと言ってよ」
「今までのうち川角さんが一番好きだったでしょう」「ええ、でも貴男も好きよ」「あんなこと云ふ お世辞が上手ね」「あらお世辞ってなーに?」仕舞った 小さい人達だ 一人の子が云ふ「兵隊さん 私の家ね もうすぐ大きいタンス持って内地に帰るのよ お母さん言ったの ほうとうよ」「いいのね 兵隊さんと一緒に帰りましょうか お父さんとお母さんに話して頂戴ね」「ええ 話して 一緒に内地の花見に行きましょう」「れいちゃんはこの間炭坑にきたばかりでしょう それま何處にお父さんといましたか」
「ずっと父が嫌いだった」
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
香港難民の大量虐殺
ゲルトネル菌を飲用湯に投入して・・・・
丸山茂
8604部隊
(経歴)
1917年生まれ
1938年 朝鮮・龍山の歩兵79連隊に教育召集
1939年 南支那派遣軍防疫給水部(波第8604部隊)に転属。細菌検索班に所属
1943年3月 除隊。帰国
1945年 再召集
1945年8月 朝鮮で除隊
1945年10月 帰国
■この証言は731研究会の学習会での発言(1993年11月)、『短歌草原』(1992年8・9・10月号)所収「いかなる美名でも戦争への道は悪だ」よりまとめられたもの。
Mは部隊長に指導されて、ゲルトネル菌を飲用湯に投入したそうです。一般に腸管系の細菌は熱に弱く、摂氏45℃ぐらいで死んでしまうそうです。炊事場で湯桶に汲まれた湯の温度は60℃を越す。菌が死なない43℃以下に下げるには時間がかかるわけです。だからあらかじめ桶に汲んだ湯が、炊事場の涼しい場所で温度が下がる時間のグラフを作り、このグラフにより釜から桶に湯を移したときの温度を計って菌を湯に投入する時刻を決め、時を見計らって菌を入れたと彼は話していました。そんなことを中国人に見られるとまずいので、ずいぶん神経を使ったということでした。
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ東北
2 華北
4 山西
遠山哲夫自筆供述書(1955年)
両手で持ち上げ、7本の注射針の刺さった頭部をごろごろと動かすたびに、ベークライトの暗箱にあたり「カタカタ」という低い音を発し、それが広々とした放射線室に響き渡った。死臭が鼻を突いたが、私はそれでも、この切られたばかりの頭部を動かしながら20枚の写真を撮り終えた。この時すでに夜中の2時であった。いつの間にか夜間の衛兵司令の松本軍曹が入ってきて、戸口に立っていた。彼の頭は青ざめて全身がかすかに震えており、手には銃を持っていた。
この後まもなく、これ等の写真は、神納がその博士論文とともに資料として大阪帝国大学医学部に送った。
これ等の人々は博士の学位を得るために、惜しげもなく中国人民を殺害したのである。彼らの医学的基礎は中国人民の鮮血の上に打ち立てられ、博士の学位は中国人民の鮮血を代価に獲得された。私の医療技術に関する知識も同様に、この血生臭いにおいの中から得たものなのである。
(1)119―1、174、第81-83頁
原注:本文は、遠山哲夫が戦犯管理所で自ら進んで書いたものである。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか
3 毒ガス兵器から見た日本軍の諸相
毒ガス戦を遂行した中国戦線の日本軍には、以上のような深刻な問題が伏在していたのである。これまで見てきたことをまとめてみると、対ソ戦の準備を進めつつ、中国側の旺盛な抗戦力に直面しながらも長期化した日中戦争を継続するために、①貧弱な装備・補給能力(特に火力・弾薬)を補い、歩兵中心主義・白兵主義の弱点をカバーする必要性、②装備や兵員・指揮官の資質が低い部隊に攻撃力と防御力を与える必要性、③兵力の消耗を抑える必要性が生まれ、これらを解決する有力な兵器として中国戦線の日本軍はくしゃみ性・嘔吐性ガスを中心とした毒ガス兵器に依存し、日中戦争の拡大とともに毒ガス戦は熾烈さを増していったと考えることができる。
このことは、参謀本部がどのようなタイミングで毒ガス使用の許可の指示を出しているのかを分析するとより明確になる。最後にこの問題を検討してみよう。
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
百年の悲劇は、ここから始まった1
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第8章 無辜の被害者
山西沁水県西山の毒ガス殺人
辛酸を極めた8年にわたる抗日戦争において、日本の侵略者は中国を滅ぼし、中華民族を根絶することを目的に、人間性のかけらもない「殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす」という三光政策を実行し、山西の同胞に対して前代未聞の多大な災難をもたらした。以下は日本軍が山西省において一般民衆に毒ガスを使用した2つの例である。中国共産党山西省委員会・党史研究室の同志らが『中国侵略日本軍の山西における蛮行』を編纂するなかで明らかになったものである。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
●『三光』 中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
核時代39年(1984年)5月初版発行
日本鬼子(リーベンクイズ)
「意気地なしめ、慌てることはねえ」平静を装った声に、三神は体がどんどん固くなっていくようなきがするのだった。そんなことにお構いなしに、農民は相変わらずスパスパ吸い込んでは吐き出し。黒くヤニのたまったがん首をタコだらけの掌(てのひら)で叩き、煙草のホクを落とし、太い節くれだった親指で器用に転がし、次のがん首に押し付け、その手を見つめ、肩で大きく呼吸をついた。彼のタコだらけの太い手、ゴツゴツした手・・・・農民はじっと掌を見つめ、開いては握り、開いては握りした。ふとその手が動かなくなったと思うと、農民の瞳からポタリと涙が落ちた。いくつもいくつも続けてポタポタと落ち、乾ききった黒土にしみ込んでいった。
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
藤井治夫著
第2篇 自衛隊の機密
第1章 作戦用兵
1 軍令事項
軍政と軍令
同教範「はしがき」によれば〔〕内の字句は、「その直前の字句といずれか適当なものを選択して用いる」とされている。つまり、軍隊というか自衛隊というか、あるいは作戦とよぶか行動とよぶかは、選択の問題であるにすぎない。公式には右のような内容をもつ行動、作戦(オペレーション)の用語が使用されているのであるが、制服組は旧帝国軍隊以来の慣用にしたがい、作戦用兵、軍政、軍令などの語を多く使用している。旧軍の場合、軍令事項は天皇の統帥権に属し、陸軍は参謀総長、教育総監、海軍は軍令部総長が掌握していた。したがって内閣は、全く関与できなかったのである。 ただ軍政事項だけが、内閣に属する陸・海軍大臣の所管とされ、一定範囲で閣議事項となったにすぎない。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
Ⅰ 生物・化学兵器を告発する
4、日本本土も汚されている
何のためのヒツジ飼育
相模原補給廠とは目と鼻の先にある米軍座間基地にある通称「第406部隊」は、生物兵器の研究を行っているのではないかといった推測がなされている謎の基地である。この第406部隊の基地の金網の中に多数のヒツジが飼育されていることに疑問を持つようになったのは、アメリカで毒ガスによる大量のヒツジが死んだ事故以来の事である。
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
監修者あとがき 2002年10月 吉田裕
こうした状況に変化が見え始めるのは、やはり、「昭和」から「平成」への改元前後の時期からだろう。「昭和の終焉」は、昭和天皇の歴史的評価をめぐる論争を、この国の内と外で再燃させることになったからである。注目する必要があるのは、この論争の過程で、天皇の戦争責任に関するマスコミのタブーが、次第に崩れていった事実である。例えば、『読売新聞』は、連載記事「20世紀 どんな時代だったのか アジアの戦争」の中で、4回にわたって、昭和天皇を取り上げている(同紙1998年11月17日付~11月20日付)。そして、「人々の意識の中で。天皇の戦争責任は今も、探究することのはばかられる深いよどみとなっているようだ」とした上で、昭和天皇にも責任があるとする立場の研究者の見解と、ないとする立場の研究者の見解を「両論併記」する形で。、戦争責任問題に言及している。慎重な形ではあれ、ここでは、タブーへの挑戦が意識されている。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
※私が考える、今の異常気象の要因は
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
4、自動車社会の排ガス
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ソ連
セミパラチンスクでの核実験
1949年8月29日 初の原爆実験(長崎型)。22kt。コード名"RDS-1"。アメリカ側のコード名"ジョー(=スターリン)-1"。
1953年8月12日 『初の』水爆実験。400kt。コード名"RDS-6"。アメリカ側のコード名"ジョー4号"。
放射性降下物の分析より核融合ではなかったと言われている。
1955年11月22日 水爆実験。1.6Mt。コード名"RDS-37"。アメリカ側のコード名"ジョー19号"。
ソ連初の水爆実験成功。
ノヴァヤゼムリャでの核実験
1961年10月30日 ノヴァヤゼムリャで、史上最大の水爆実験が行われた。爆弾(ツァーリ・ボンバ)の核出力は50 Mtでファットマンの3000倍近い出力。
核実験の人体実験
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=yVlnVNSgHJA">水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)</a>
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=f_2ps6RIR9U">「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】</a>
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future
●核融合もすべきではない!!
核開発に反対する物理研究者の会通信
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より
封印された原爆報告書
水爆実験
JCOの臨界事故
福島第1原発事故
●核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
●日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病
●731部隊(unit731)
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!