2009年3月11日水曜日

南京大虐殺

「南京の真実」と「南京事件の日々」という2冊の書物を約3ヶ月間引用させていただいた。ラーベとヴォートリンの日記を通して、難民区の生活がおぼろげながら分かったのではないかと思う。日本軍が上海での戦いで苦戦し、多くの犠牲を出しながらも、何とか勝利すると、今度は軍の独断専行でその当時の中国の首都南京まで攻め込む。
 この日中戦争の大義名分があいまいで、支那膺懲(中国を戦力でこらしめる)であった。宣戦布告もなかった。勝手に日本が中国を侵略していて、第二次上海事変が起きると、軍を増派して上海に送った。それも士気の弱い中年が多かった。上海で、犠牲者が続出する中、勝利すると今度は南京へ。犠牲者が出た分、敵愾心も強くなった。南京一番乗りを競って、各軍が競争となり、食糧などは現地調達であった。村々は略奪され、野営に使われた。村民は、男性は荷物を運ばされたあと殺されたり、又は集められて殺されたり、女性は強姦されたりした。敗残兵は捕虜として大事に取り扱われるわけではなく、軍刀の露になることが多かった。南京までの道のりでもいろいろな残虐行為が繰り返された。
 南京が12月12日深夜陥落すると、翌日から掃蕩作戦を開始し、敗残兵を河べりや池の近くに集め機銃掃射して殺すことが多かった。日本軍はあらかじめこの作戦を海外に知られないよう、揚子江に停泊していて、外国人記者が無線記事の送信に利用していたアメリカ砲艦パナイ号を撃沈していた。
 ラーベはナチの党員であるが、難民区に逃れてきた難民をアメリカ人宣教師などと一緒になって救おうと尽力した。時にはハーケンクロイツを日本兵の前にかざして大声を出して追っ払ったり、寝る間も惜しんで難民のために日本軍の前に立ちはだかった。帰国後、南京での日本軍の残虐な行為を、何とかヒトラー総統に知ってもらおうと上申書を書くが逆にゲシュタポに逮捕されてしまう。
 戦中、ラーベは、心酔していたヒトラーがやっていたことを知ったとき、彼の失望はどれほどのものであったのか?想像するもの難しい!
 正しいと信じていた人に裏切られた時のショックは相当のものだろう。
 南京での輝かしい活躍が一瞬にして消えたのかもしれない。この話も、人生の不可解さを物語る。

 一方、ヴォートリンも金陵女子文理学院で難民の世話に奔走した。まねのできるものではない。体を張って特に若い女性を守ろうとした。でも12月の日本軍の残虐行為が余りにも恐怖を彼女に与えたので、そのことがトラウマになったようだ。自分が難民を救うことができなかったといって、自殺するとは。何と責任感の強い人だ!なんとこの世の中は不条理なのだろうか?

 もちろん、残虐行為を行った日本兵も、中国での自分のしたことがトラウマになって、戦後帰国しても夜に眠れなかったり、わめいたりしたりした人も多くいたようだ。
 
 だが、裁かれて、死刑になったのはほんのわずかな人たちであり、ほとんどの兵士はやったことを後世に伝えずだんまりを決め込んだ。
 もちろん戦友会の圧力や上からの命令もあったのではないかと思う。又、大日本帝国は降伏直後、大量の関係書類を焼却し、証拠隠滅を図った。当たり前のことだが!!

「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

張従貴(男、79歳)の証言
 1937年の冬月に、日本軍が南京を占領しました。その時私の家は宝塔山でしたが、日本人は殺そうと思う者を殺し、斬ろうと思う者を斬って、、私たちを死地に追い詰めたので、余所の地に逃げるしかありませんでした。江東門を通って江東門橋の上まで来たときに、橋のそばの葦ず張りの小屋から、実弾入りの銃を担いだ日本軍が何人か出てきました。彼らは有無を言わせずに、私たち一緒に歩いただけで誰も知らない9人を捕まえ、手まね足まねで、私たちにわらを運ばせたり、床を敷かせたり、飯を炊かせたりなどの雑事をやらせました。私たちは怒りを押さえじっと我慢して、何でも言われるままにせざるを得ませんでした。日本軍が晩飯を食べ終わったら、もう暗くなっていましたが、私たち9人を鉄条網で囲んだ運動場の中に行かせ、みんなひざまずかせました。両側に1人ずつ日本軍が立って、私たちを逃げないようにしました。別の日本軍9人が、それぞれ剣をつけた小銃を一挺ずつ持って、私たちめがけて突いて来ました。最初の一突きが腰に来ましたが、とても寒くて、長い綿入れを着ていたので、腰の肉までは刺さりませんでした。2突き目が首に刺さり、たちまち真っ赤の血が流れ出ました。あっという間もなく、出血が多すぎて、私は昏倒してしまい、何も分からなくなり、日本軍も私が死んだと思ったようです。真夜中になって、私は意識を取り戻したので、月明かりで見ると、他の8人があっちに3人こっちに2人と倒れていて、周りは血だらけでした。じいっと耳を澄ましても、何の物音も聞こえないので、多分日本軍はみんな眠ったのだろうと見当をつけて、重たい体を引きずって、鉄条網の前まで這って行き、鉄条網から転がり出ましたら、溝の中に落っこちました。それからまた傷の痛みを我慢して、一里余り這って行き、お墓のあるところでしばらく休みましたが、周りにわらの灰があるのを見かけたので、それを少しつまんで地面に敷き、横たわりました。傷が痛くて、全く眠れずに、夜が明けるまで一睡もせず、難民が何人かそこを通ったので、その人たちの後について行きました。私の体に血がついているために、その人たちは巻き添えを食うのを恐れて、私について行かせませんでした。毛公渡まで来て、妻の父が遠くないことから、その家にたどり着きました。岳父が剥いだばかりの鶏の皮を傷口に貼ってくれて、傷がだんだんよくなりました。こうして命拾いをし、生き残ってこれたのです。(肖仲煌と尹長風が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・平和を探ることが人類の進化だと思います。
私たちが本気になって平和を模索しなければ、いろいろな問題は改善されるどころか、悪化してしまいます。
(アメリカ、40代・女性)

・日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私はとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。(ベルギー、40代・男性)

・日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。
(インド、50代・女性)

・私の地域では、たえまない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。(レバノン、20代・女性)

・武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。私の国、コスタリカは武器をもたない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常に素晴らしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
(コスタリカ、60代・男性)





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

2009年3月10日火曜日

その後のヴォートリン

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー

 侵略戦争の犠牲になった中国女性の救済と教育への献身に疲れ果てていた彼女が味わった失望感はあまりにも強烈であった。上海から南京に戻ったヴォートリンは、極度の疲労感と無力感に襲われ、3週間も日記を書くことができなかった。1940年3月30日に、日本の占領工作に従った汪兆銘が国民政府(傀儡)の成立を南京で宣言したことが、ヴォートリンの抑鬱状態に追い打ちをかけた。日本軍占領下の金陵女学院と南京で、彼女が必死になって築き上げてきた努力が無に帰していく思いに陥ったのである。
 それから半年後、ヴォートリンは4月14日の日記に「私の気力はもう消滅しそうだ。私はもうこれ以上前に進むことはできないし、仕事の計画を立てることもできない。あらゆる方法に必ずなんらかの障害が立ちはだかっているように思える」と書いたのを最後に、日記が書けなくなったのである。
 それ以後ヴォートリンの抑鬱状態はさらに深刻になり、「自分の中国伝道は失敗した」「私は精神病にかかっているようだ」「生きているのが辛いからいっそ死んでしまいたい」と周囲にもらすようになった。
 ここにいたって関係者はヴォートリンをアメリカに帰国させ、精神病療養施設で治療させることにして、5月14日、金陵女学院の親友の教師キャサリン・サザランドとジョン・マギー牧師が付き添ってアメリカに帰国させた。この時汽船から一度飛び込み自殺を図ろうとしている。アイダホ州の精神病院で検査をした結果、彼女は重いうつ病にかかっていると診断され、精神療養施設で長期の療養を受けることになった。その後症状が回復したのでテキサス州の静かな町で静養生活をおくらせていたところ、1941年2月、睡眠薬自殺を図ったのである。幸い未遂に終わったのでインディアナ州の精神病院に入院させ治療をほどこした。再び症状が回復、社会復帰を目指して金陵女学院理事会の仕事を手伝わせるまでになっていたが、同年5月14日、インディアナポリスのあった連合キリスト教伝道団の秘書のアパートの台所で突然ガス自殺を図り、自らの生命を絶ってしまったのである。享年55歳だった。
 「私の中国での伝道は不成功に終わった」「不治の精神病に苦しむよりは死ぬほうがまだ楽です」という走り書きの遺書が残されていた。

・・・・・・・・以上で「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)からの引用は終了です。・・・・・・
      
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

劉世海(男、73歳)の証言
 民国25年(1936年)に、私は国民党の第5軍に入りました。翌年上海へ赴いて日本軍と戦いましたが、やがて退却して南京に来ました。民国26年12月に、日本軍が南京に迫り、私は雨花台で2,3日戦闘しましたが、部隊が瓦解してしまいました。私たちは下関まで駆けて行って、長江を渡って行きたかったのですが、船がなくて渡れませんでした。
 私は安徽の者でしたから、安徽(あんき)へ逃げようとする一団に加わりました。私たち一行は50人足らずで、三汊河から江東門まで来て、蕪湖の方向へ行くことにしていました。道には屍がいっぱい敷き詰められているようでしたが、ある電柱には屍が7つか8つかかっていて、それがみんな針金を鎖骨に通して1つにつなげてあり、男もあれば女もあり、子どものまでありました。さらに行け行くほど、死者は多くなってきました。
 江東門まで来たら、模範監獄の門の前で、一隊の日本兵に差し止められました。私たちは白旗を掲げて日本兵に見せ、「我々は投降した兵士たちだ」と言いました。日本兵は有無を言わさず、私たちを強引に監獄の東側の野菜畑まで駆り立て、一列に並べと命令しましたが、周りには日本兵5,60人いて、そのうちの十数人が軍刀を引っさげ、その他はみんな銃に剣を着けていました。と、不意に日本兵が周りから一斉に跳びかかって来て、軍刀や銃剣やらで滅多斬りに滅多つきをくりかえし、私は首に一太刀やられました。私が覚えているのはただ、日本兵が軍刀を振りかざして斬りかかってくる恐ろしい姿だけで、あとは何も分かりませんでした。
 意識を取り戻した時は、既に暗くなっていて、死んだ人2人に押し付けられていたのですが、力を入れて押しのけ立ち上がりました。幸いに傷が余り深くなく、血はもう止まっていました。まだ、明るくないうちに、急いでその野菜畑を離れ、半里ほど歩いたところで防空壕を見かけたので、その壕に隠れました。夜が明けると、日本兵が又やってきて、日本語でひとしきり大声をあげていましたが、「出て来い」とでも叫んでいたのでしょう。壕の中が暗くて、何も見えなかったので、日本兵はしばらくわめいただけで行ってしまいました。
 遭難したのは、冬月の14日か15日でした。同行した50人足らずのうちで、私だけが生き残りました。今も首に刀のあとが10ミリほど残っています。(段月萍が記録)



 
 「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)

・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)

・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)

・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)

・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

2009年3月9日月曜日

その後のヴォートリン

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
1939年2月以降からは、日記の記述が極端に少なくなり、タイプミスも目立って多くなってゆく。ヴォートリンの鬱症状が徐々に悪化していく経過が日記の記述からも見て取れるようになる。
 1939年3月末、家庭工芸クラスの半年の教育課程が終了した。生徒たちは、金陵女学院内外の関係者を招待して卒業作品展示即売会を開催、ヴォートリンら教職員に対しては自分たちで料理と手作りの菓子を用意して謝恩会を開いた。100名の生徒のうち53人が、家政の知識と技術ならびに職業技術を実際の社会に出て役立てるために、金陵女学院の校門から巣立って行った。ヴォートリンの夢の実現であり、新中国の建設を予知させる希望でもあった。
 ヴォートリンはさらなる夢であった農村女子教育クラスの開校を計画し、1940年秋の実現を目指して準備を開始しようとした。1939年夏、ヴォートリンが所属する連合キリスト教伝道団は、彼女の疲労を考慮してアメリカへの帰国と休暇を勧めたが、彼女は固辞した。貧困に苦しむ中国女性を救済し、教育することが夢であり、また天職と信じていたヴォートリンには、現在日本の侵略戦争の悲惨な犠牲になっている南京の婦女子を見捨ててアメリカに帰ることはできなかったのである。しかし、その夢と使命感に執着するがゆえに彼女の疲労と倦怠もしだいに深刻になっていった。
 1939年9月、ヨーロッパ大戦が勃発して、ドイツ、イタリアの大攻勢が続き、勢いづいた日本が中国侵略をさらに拡大させ、戦争の惨禍がさらに世界に広がったことは、ヴォートリンをいよいよ絶望的にさせた。
 南京事件から2年目の1939年12月中旬が巡ってきたとき、ヴォートリンは12月8日の日記に「2年前の今夜、私たちは南京市内を砲撃する大砲の音をはじめて聞いた」と記し、12月11日の日記に「今晩は死ぬほど疲れた、この1週間どうやっていけるかわからない」と書いたきり、21日まで日記を書いていない。2年前の南京事件の日々のトラウマが彼女を抑鬱状態に陥らせたものと思われる。
 1940年になるとヴォートリンの日記の記述はさらに目立って少なくなる。そして、彼女の抑鬱症状の引き金となったのが、同年3月上旬の上海での体験であった。キリスト教宗教教育者の大会に出席したヴォートリンは、上海の街で、豪華で享楽的な生活を楽しんでいる多くの中国女性の姿を見て、気持ちが錯乱するような衝撃を受けたのである。侵略戦争に苦しむ中国の運命に対して全く無関心のごとく、きらびやかな衣装を着て、ショッピングや映画を楽しむ若い中国人女性たちを、ヴォートリンは正視することができなかった。
      
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

梁玉山(男、82歳)の証言
 1937年の冬私は鳳凰街8号に住んでいましたが、日本の侵略軍が南京を占領する前に、冬月の3日に六合に避難しました。1月の5日に、南京に戻ってきて、従弟の王金栄のところに身を寄せました。彼は徳士古の石油スタンドで倉庫の番人をしていて、いなくなってなかったのです。1月6日の午後、私は城外の徳士古石油スタンドに行ったのですが、その道で漢中門を通った時、漢中門の石城橋の東側に、日本軍に虐殺された屍がうずたかく三つの山になっていて、ざっと3000体ほどあるのを、この眼で見ました。後に中国紅十字会が屍を片付けるのに、小舟で二道挭子まで運び、そこに穴を掘って埋葬しました。明くる年に二道挭子へ行ってみましたら、やはり土がうずたかくなっていて、周りにぐるっと柳が植わっていました。
 1月13日に良民証がもらえてから、おばが私の子ども3人と他の家の8人との11人を面倒みていて、大廠鎮の王金栄の奥さんのお母さんの家に厄介になっていたのですが、私は安心いかなくて、様子を見に出かけました。下関から小舟に乗り長江を渡ったのですが、下関の七里洲で浮桟橋が1つ爆沈せられて、あたりの水が真っ赤に染まっているのを見かけました。屍がみんな水に浸かっていて何とその数の多いこと!日本軍は南京で焼き殺し強姦し、なさざる悪事はなかったのです。山西路から漢中門までの難民区では、しょっちゅう数知れぬ青年が日本軍に捕まり処刑されたり労役につかせられたりしていたのです。(井升安と丁亜慶が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願ってます。(オーストラリア、20代・女性)

・このグローバル9条キャンペーンに非常に感動しました。憲法9条を維持しようというこの草の根運動には、日本がアジアとの関係に誠意を持って向かっている姿勢がうかがえます。このキャンペーンに多くの日本人が賛同し、成功することを望みます。がんばってください!(韓国、30代・男性)

・憲法9条に賛同します。このような憲法があることで、私たちは、戦争のもついかなる攻撃性に対して共に、立ち上がるような地域社会の結びつきを強くしていくことができると思います。私たち一人ひとりのの協力こそが、最高の平和の武器だと思います。(ベルギー、50代・男性)

・日本のような歴史を持つ国が、憲法9条を広めようという行動をとることは、世界のほかの国々にとっての模範です。ほかの国々もそれに続くことを祈って。私たちに必要なことは平和への挑戦です。
(コスタリカ、20代・女性)

・日本国憲法第9条の改定に反対です。(ロシア、20代・男性)





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

2009年3月8日日曜日

その後のヴォートリン

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
 1938年の夏、ヴォートリンは、金陵女学院に安全区撤廃後も保護収容した800人余りの若い婦女子の難民にたいする夏期学校を開いた。南京事件で夫を殺された若い寡婦、父親を殺害され、あるいは一家離散して身寄りのなくなった娘や少女たちが、これから自分たちで生きていくためには、文字が読め、計算ができ、手に職を持つ必要があった。そのために、識字教育から始まって、職業技術教育、結婚生活に備えての家政教育、衛生看護教育等も受けさせる必要があった。これらはすべてヴォートリンのこれまでのセツルメント的な隣保学校の教育で実践されてきたものであった。
 1938年の9月には、金陵女学院に正式な家庭工芸クラスと中学実験クラスを開設し、広く南京市内の貧困家庭の婦女子へも開放した。前者では、女性に、裁縫、料理、菜園づくり、家畜飼育、などを教えるだけでなく、紡績、紡織、衣服の仕立てなどの職業技術の訓練指導も行った。後者では、貧困家庭の女子を入学させて、基礎的な中学校教科を教えるとともに、生活教育、労働教育、奉仕活動教育、宗教教育にも力を入れた。
 ヴォートリンはこのような教育を天職と考えていたので、ある意味で教育者としての彼女の夢が実現したともいえるが、そのために彼女が直面した現実の障害と困難はもっと大きかった。金陵女学院に難民として収容した婦女子の生活費は南京国際救済委員会から支給されたが、教育費は最初からの約束により一切援助されなかった。家庭工芸クラスの生徒100名、中学実験クラスの生徒170余名からは、授業料、学費の徴収はほとんどできなかったので、学校経費の調達にヴォートリンは頭を悩ました。南京にとどまった金陵女学院の約10名の教職員と、家庭工芸クラスと中学実験クラスの授業を担当してくれる教師たちも、奉仕的活動には限度があり、彼らの生活を維持するに足りる給料を支払ってやる必要があった。こうした教育経費確保のための責任もヴォートリンの肩にかかっていたのである。
 一方、南京に中華民国維新政府を樹立させ、南京市政府公署を組織させて、占領地行政を開始した日本当局からの政治圧力も、ヴォートリンを悩ませた。南京に駐在する日本の軍政当局の関係者がくりかえし金陵女学院を視察に訪れ、傀儡政府の学校制度に従うことや同政府の発行する教科書を使用することなどを要求したのである。
 教育者としての夢を実現するにあたって、ヴォートリンが突き当たった困難と障害は、彼女を疲労させた。何よりも彼女の心が傷ついたのは、日本軍が次々と中国の大都市を爆撃、破壊し、戦火を拡大していくニュースに接した時だった。ヴォートリンが中国で実現しようとした夢を、日本軍が1つ1つ破壊していくように思えたのである。日本軍侵攻のニュースは、南京事件の日々に目撃し体験した惨状を想起させ、ヴォートリンが受けたトラウマを少しずつ悪化させていくことになった。
 1938年12月中旬になると、1年前の南京事件の日々の記憶がヴォートリンに恐怖と悲しみの思いを新たにさせ、いっそう彼女を沈うつにさせた。日記にこう書いている。
「ちょうど1年前の砲火と砲撃を思い出して悲痛な思いに駆られる」(12月10日)、「今晩、私たちの心は悲しみに沈んでいる。ちょうど1年前の、銃と銃剣にさらされた恐怖が今日あらためて蘇ってくる」(12月12日)、「昨年のまさにこの日、何千人、さらに何千人と殺された人たちのために、とくに追悼式をしてやるべきではなかったろうか」(12月13日)、「ちょうど1年前の今晩、金曜日、この時間に私たちは非常な恐怖に駆られながら正門に立っていた。その時は私たちは知らなかったが、私たちの難民収容所の12人の若い女性がキャンパスから拉致されていったのだ。あの夜は一生忘れることができない」(12月16日)、「昨年、私たちが最も恐ろしい体験をした日の一周年である」(12月17日)。
 ヴォートリンは1日1日、そして一刻ごとに1年前の残虐と恐怖の体験をありありと想起しては、トラウマを深めていたのである。
     
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

高秀琴(女、64歳)の証言
 1937年には、私は17歳で、父について漢中門外で芦のむしろを編んだり、芦のたきぎを売ったりして、暮らしていました。日本兵が入ってくる前から、難民区へ行っている人もいました。私の家はお金が無かったので、外にもたくさんいた貧乏人と同じように、まだ家に留まっていました。
 日本軍が南京を占領してからは、しょっちゅう食べるものを捜しに城外の私たちの住んでいるところにやってきて、豚や鶏を見つけてはつかまえて行きました。私たちは自分で掘った地下の洞窟に身を潜め、地上で鶏が跳んだり犬が鳴いたりしているのや雑然とした革靴の物音がはっきり聞こえていました。
 ある日、私が城内へ行ったら、日本兵が手にたこのできている人たちを捕まえてトラック8,9台に載せ、漢中門の埠頭まで引っ張っていき機銃掃射で死なせました。午前9時か10時頃から午後の2時くらいまで、漢中門埠頭から聞こえてくる銃声がずっと鳴り続けていました。銃声が止んでから、私たち仲間でその所まで走って行き、死体で埠頭が埋まっているのをこの眼で見たのですが、何とも見るに耐えない惨状でした。だいぶたってから、やっと紅卍字会の淘煉廠の近くに大きな穴を2つ掘って、屍を埋めました。
 ある日の午前中に、私は5,60歳のお婆さん3人と、漢中門へ行って家へ帰って食べる味噌を担いでこようとしました。帰ってくるときに、城門まで来たら、歩哨に立っていた日本兵に差し止められて、私たちの担いでいる味噌を食べさせろと言われました。その味噌が良くないものと分かったら、もうほしがりませんでした。私はその時、頭にボロの頭巾をかぶり、顔は汚く塗りたくって、うんと見がたいかっこうをしていました。私たちが行こうとしたら、日本軍が突然私の頭巾を引っぱがして、こいつは若い娘だと言うので、そうじゃないと私は言いました。二の句を継がせずに、彼らは私を引きずって兵舎の方へ走って行きました。その道でちょうど馬に乗った将校2人と出くわし、兵隊は立ち止まって敬礼し、将校が問いかけるのに答えました。その隙に私は逃げ出しました。遠くまで逃げないうちに、兵隊が私に3発撃ったのですが、その一発が私の左腕に当たりました。家に帰ったら、手が血だらけで、紅く腫れてきました。だいぶたってよくなりましたが、今でも幅2ミリくらい、長さ5ミリほどの傷痕があります。(陸家○が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)



・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。(モンゴル、60代・男性)



・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)



・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。(中国、40代・男性)



・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・男性)





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

2009年3月7日土曜日

1938年 南京 5月以降のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月~6月初旬
 5月30日、31日の両日に、約300人の難民が金陵女学院のキャンパスを出た。難民たちは、6ヶ月にわたる保護と安全を与えてくれたことを感謝し、お礼を述べ、そして手荷物をいっぱいに抱えて正門を出て行き、人力車に乗って去って行った。見送るヴォートリンは、金陵女学院の卒業式をしているような錯覚におちいった。
 30日の午後、金陵女学院の難民収容施設で働いたスタッフを南山公寓に集めて「感謝パーティ」を開き、一同この間の労を互いにねぎらい合い、終わりに全員で記念撮影をした。
 31日には残っていた難民収容所6ヶ所が閉鎖され、この日限りで粥場も閉鎖され、6ヶ月にわたる南京国際安全区の役割に終止符が打たれた。翌6月1日には金陵女学院の礼拝堂で国際救済委員会主催の式典が開かれた。安全区国際委員会、国際救済委員会ならびに26ヶ所の難民キャンプの活動に奉仕した人々450名が招待され、それぞれの責任者、代表者にたいして感謝状が贈られた。
 こうして南京事件の舞台の1つとなった南京難民区の歴史は幕を閉じたが、金陵女学院には、親や夫を日本軍に殺害されたり、拉致されたりして、生活するあてのない若い女性たち約800名が、難民として継続して収容されることになった。ヴォートリンにとって、南京事件が残した悲劇との新しい格闘が始まったのである。しかし、その闘いのなかで彼女自身の心もしだいに疲れ、傷ついていくことになる。
 出口のない、終結の見通しのない戦争犠牲者の悲劇に毎日直面し続けているヴォートリンの日記に疲れと悲観に沈む抑うつ心理が記述されるようになるのはこの五月ごろからである。
 5月 4日ー私は疲れていて、私の精神的機能が低下しているのを自覚する。
 5月28日ー日本軍の爆撃機が編隊を組んで上空を飛んでいくのを見るたびに、私の気持ちは沈んでいきます。それは自分への恐怖と言うのではなく、爆撃で苦しめられる民衆が哀れに思えるからです。
 5月31日ー(金陵女学院のスタッフの慰労パーティとゲームが終わったあとで)若い人たちのために私たちは普段と変わらぬ態度で生活しなければならない。しかし、今日爆撃された戦場や都市のことを思い続けている私には、笑うことも陽気になることも難しい。


    
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

孫伝遠(男、81歳)の証言
 1937年には家は中正街の駅のところで、小さな商売をして生活していました。1937年12月20日ごろに、わが家は難民区に避難し、金陵大学の中に住まいました。ある日、日本兵が難民区にやってきて、みんなに登録させました。私が登録する番になった時、日本軍は頭に帽子のあとがついているのを見て、私が兵隊だと言い張って聴かず、手元の鉄棒で頭を2度打ちました。私はどうも思わしくないと見て取り、脚を引きずって歩く振りをしましたら、日本兵は私を障害者と見て、もう構わなくなりました。あくる日、私と孔さんという人と一緒に米を探しに出かけ、その頃の司法院の門まで来たら、その人が私を門の脇で待たせて、先に見に入って行きましたが、入ってすぐ、日本兵に捕まってしまいました。私が門の脇で出てくるのを待っていた時、孔さんを入れて全部で39人が、みんな針金でつながれていました。何人かの日本兵がその人たちを漢中門外の芦席街に連れて行き、銃で撃ち殺しました。これは私がこの目で見たことです。私はずっと遠くからみんなの後について漢中門外まで行ったのですから。(高学奎が記録)

夏洪芝(男、80歳)の証言
 日本軍が南京を占領して大虐殺をやった時、私たちは上海路の難民区にいました。日本兵がよくそこに人を捕まえにやってきました。ある日、日本軍が私の家に闖入してきて、いとこの夏洪才を捕まえ、その頭から帽子をつまんで、自動車に結わえつけました。この時捕まったのはトラック2台分でしたが、日本軍はこのトラック2台の人たちを漢西門外に引っ張っていきました。漢西門外には、長さが2丈余りで、深さが人間1人の背丈よりもっとある、溝があって、引っ張られて行った人たちはみんな日本軍にそこに押し入れられて機関銃で掃射され、死んだ人たちで溝がいっぱいに埋まったのですが、夏洪才はその中で死んだのです。小さい時から私と一緒に南京へやってきて、小さな車をひいて生活を維持していたのに、それが日本軍の銃剣で死んでしまったのです。これを思い出すと、今なお堪えられない思いになります。(江佩華、○毓英、戚秀英、胡成鋳が記録)

 
 「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界

「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
 「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人々が、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
 第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
 国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。
同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

2009年3月6日金曜日

1938年 南京 5月以降のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月~6月初旬
 夕暮が延びた下旬の午後、メリー・トゥワイネンと連れ立って金陵女学院から西へ城壁まで歩いてみたヴォートリンは、途中の田園地帯の畑が、9割がた放置され、耕作されていないのを観察する。畑で仕事をしている農夫を見たのは全部で6人だけだった。例年ならば麦畑や野菜畑が美しく広がる田園地帯は、雑草に覆われて荒れたままになっていた。農夫の1人は、畑で働くのは困難である、もしも日本兵が通れば、必ず何かを要求したし、作物を掘らせるだけでなく、それを彼らのところまで運ばせる、と言った。同地域で3人の女性を見たが、そのうちの2人は落穂拾いにきていた。彼女たちは自分の家に数時間帰ってくるだけで、すぐに安全区へ戻るのだと言った。女性は危険でこの地域では生活できないと農夫全員が言った。南京城内はもちろん、周囲の農村で、農民たちが農作物を生産できないでいることは、南京市民の食料不足の危機が当分続くことを意味した。
 話を5月に戻すと、国際救済委員会が決定した5月31日の安全区撤廃の日が近づくと、ヴォートリンらはその対応に迫られた。最高時は26ヶ所の難民収容所に約7万人も収容されていた難民も、その頃には6ヶ所の難民収容所に約7千人へと減少していた。金陵女学院に残っている千名余の難民について、ヴォートリンらは以下のように区分して、彼女たちのその後の生活を選択させ、自活が困難な若い女性はそのまま残留を認めることにした。
 (1)家も両親もいない若い女性ー32名、(2)家も両親も親戚もいない若い女性ー672名、(3)家がなく大変貧しい若い女性ー237名、(4)家がなく、かつ危険な地域に住んでいる若い女性ー127名、(5)家のない寡婦ー16名、(6)身障者ー7名。
 いっぽう、国際救済委員会では30歳以上の貧困な寡婦を大方巷の施設で保護し、30歳以下で、貧困な者、危険な地域に住んでいて、他に生活手段のない若い女性は金陵女学院で継続して保護収容し、同委員会から生活費を支給することを決定した。
  
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

孫文慶(男、77歳)の証言
 1937年には私の家は漢中門外の西路菜場40号あたりで、12月末から1938年の1月にかけて、私は日本軍が漢中門一帯で中国人をほしいままに虐殺したのをこの目で見ました。一度私が張文美という人と漢中門を歩いていたら、日本兵3人に見つかって、私たち2人は競争で走らされました。電信柱3,4本ほど走った時に、私は脚が悪くて、張さんの方が私より早かったのですが、その時日本兵が一発で張さんを撃ち殺し、張さんが両手でお腹をかかえて地に倒れ死んで行くのを私は見たのです。それから5,6日ほど過ぎたある日の午前、漢中門の城門の外で、私がこの目で見たのですが、日本兵が城内からトラックに乗せて来た2000人余りほどの難民を、降ろしてから、機関銃で掃射し、少しばかりのまだ死んでいない難民には、もう一発撃っていましたが、何人か死なずに逃げ出したのも見かけました。
 1938年1月初めのある日の午前中、私が清涼山に近い河辺の小舟で仕事をしていると、突然城壁の銃眼から弾が一発飛んで来て、船のすぐ前の水に落ち、もうちょっとで撃ち殺されるところでした。
 その又あくる日の朝、私がちょうど家を出たときに、突然どこからか又弾が一発飛んで来て、私の頭の上を飛び越し、お隣の華お婆さんの頭に当たり、華お婆さんはその場で死んでしまいました。それにもう一度、1938年の1月11日ごろに、やはり漢中門で、私は5,6人の日本兵に捕まってしまい、外にも私の知らない人々が何人もいて、日本軍がどこから捕まえてきたのか分からなかったのですが、その人たちと私とは日本兵の運び屋をやらされ、彼らがかっぱらって来た鶏や豚や野菜などを、担がせられて彼らについて行かされたのです。と同時に、その道で日本人が何人もの婦女を強姦するのを目にしたのです。
 1938年1月の終わりごろ、私は隣の謝金如が漢中門で日本兵に捕まり、その近く一帯で若いきれいな女を捜すのに道案内させられたのですが、そういう女の子が見つからなかったので、その場で銃殺されたのを見かけました。それとある日の午後、石頭城の近くで、私が便所に入っていた時に、日本軍が1人城壁の上から私を狙って撃った弾が、すぐ脇1メートルのところに落ち、もうちょっとで射殺されるところでした。この時期に、岳父が日本軍に射殺され、妻の母が死人のうずたかく積まれた中から屍を探し出して、むしろで巻いて埋めたのです。岳父が日本軍に撃ち殺された詳しい様子ははっきりは覚えていません。(呉大興と章歩錦が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界

みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

2009年3月5日木曜日

1938年 南京 5月以降のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月~6月初旬
 6月上旬、1人の年老いた農婦が、農村地帯からはるばるとヴォートリンに会いにやってきた。昨年末の城内の男性登録のさいに2人の息子が連行されたままなので、探し出すのを援助してほしいと言うのだった。その老農婦婦が、あの時連行された男性の中で戻ってきた者がいるかどうかを尋ねたので、ヴォートリンはそれは聞いていないし、おそらく彼らは戻ってこないだろうと答えた。この言葉を聞いた老農婦は絶望してその場に泣き崩れてしまい、「あなたが、息子たちが連行されるのを止めてくれればよかったのに」とヴォートリンを責めるのだった。
 5月になっても日本兵の蛮行は相変わらず続いていた。2日の夕方、金陵女学院の門からそれほど遠くない場所で、1人の若い女性が日本兵に拉致された。その場所はヴォートリンがちょうど15分前に通ったばかりだったので、彼女は残念でならなかった。
 9日の夜10時ごろ、三牌楼に住んでいた劉おばさん(50歳)の家に2人の兵士がやってきて、家の中に2人の嫁がいるのを見つけて、中に入れろと激しくドアをたたいた。劉おばさんが拒絶し、憲兵を呼びに行こうと外に出たところを、兵士たちは彼女の顔を銃剣で斬りつけ、さらに胸部を刺して逃亡した。重傷を負った劉おばさんはまもなくして死亡した。この話を聞いたヴォートリンは、「ほとんど毎日、私はこのような話を胸を痛めながら聞いている。人々がなんとも悲しそうにーいつまでこうした恐ろしい状態が続くのでしょうか?いつまで自分たちは耐えられるのだろうか?-と問うてくるのも当然である」と13日の日記に書いている。
 そんなヴォートリンにとっての朗報は、模範刑務所に捕らえられていた民間人の中で、元兵士でないことが証明された者の釈放がようやく可能となり、6月2日、嘆願署名を作成した婦人のうち、刑務所に夫がいることが確認された者は面会に来るようにとの連絡が入ったことである。そして翌日、30名の男性市民が模範刑務所から釈放され、妻子、家族のもとへ帰って行った。ヴォートリンは、1月から始めた釈放嘆願署名運動の成功を喜ぶと共に、結局は夫や夫婦が戻らなかった圧倒的多数の嘆願署名者の女性の失望を考えると、気持ちは複雑だった。金陵大学のスマイス教授の「南京地区における戦争被害ー1937年12月~1938年3月ー都市及び農村調査」では、拉致されたまま戻らず、殺害された可能性の大きい南京城内の市民は、約4200人と算出している。

 
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

趙玉英の証言
 日本軍が南京を占領した時、家は鳳凰東街でした。日本軍が南京人民にやったとてつもない犯罪行為を、私はこの目で見ました。日本軍が冬月の11日に入って来てから、家が日本兵に焼かれてしまったので、私たちは地下の洞窟に住むしかありませんでした。日本軍が南京を占領してから、何日かして難民区で捕まえてきた人たちを、漢中門の城門の所に連行して来て、機関銃で4時間以上も掃射した時、叫び声が天地を揺るがし、屍が地を覆いました。夏という人が土手を歩いていて、日本兵に一発で撃ち殺されたのを、この目で見たのです。その頃、私には1人いつも抱いている子どもがいて、病気をして治らず、泣き声が絶え間ないので、みんなが日本軍に聞きつけられるのを恐れて、息子を捨てさせようとしたのですが、私はあくまで頑張ってやっとこさで子どもに死を免れさせたのでした。
 ある日、私の家でご飯をお鍋で炊いて食べないでいたのですが、日本軍がその鍋に小便をした上、なおもわが家から何十円かを探し出し持って行ってしまいました。しょっちゅう婦女が日本軍に引きずられて行き、恐ろしくて私たちあっちこっちに隠れました。そのほか、私は日本軍が漢中門外で、40何人かを活きたままガソリンで焼き殺すのもこの目で見ました。それに学生が何人か殺されてから、醤油のかめに投げ込まれたのです。(陳詩国が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


 大事にする世界


 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。

 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

フォロワー

ブログ アーカイブ

自己紹介

新しい自分を発見中