2021年11月29日月曜日

細菌戦の系譜!!

               






























































映画「スパイの妻」と731部隊(2021 10 16加藤講演第2回)
川崎の徴用工 故・金景錫の闘い お話:梓澤和幸弁護士
2021 9 25加藤講演第1回目
絶望的な核開発!!
トラウマ
●毒ガスの歴史(フリッツ・ハーバー)

●溥儀(「満洲国」皇帝の生涯)

●2021 9 17 浅井基文講演


『BCGと人体実験』 美馬聡昭著

731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
防疫研究室と昭和天皇の関係
1940年と2020年の東京オリンピック
731部隊と国立感染症研究所の問題
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会

対話前に政治犯解放を 民主派「首相」が訴え―ミャンマー

米中の生物兵器開発?

20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」




加害の事実に触れない政府主催の全国戦没者追悼式反対!!
空襲被害者を救済せよ!!

日航機墜落事故の原因を究明せよ!!

《今も胸に 日航機事故36年》最期の様子、知りたい 生データ開示求め訴訟 夫を亡くした吉備素子さん





今年のパネル展
11月14日(日)~19日(金)

●加藤哲郎講演会(一橋大学名誉教授)

11月16日(火)18:20~(開始予定)

「新型コロナ・パンデミックと731部隊・100部隊の影」

会場:クリエイトホール11階の視聴覚室(定員72名)

資料代500円

●森川聖詩講演会(神奈川県原爆被災者の会二世・三世支部)

「核なき未来へ 被爆二世からのメッセージ」

11月17日(水)18:20~(開始予定)

会場:クリエイトホール11階の視聴覚室(定員72名)

資料代500円



2020年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート

14日(日)

・中学の時の学校図書で“海と毒薬”(遠藤周作著)を読みました。授業でも関わる箇所に話が出たりしたので今回のチラシを目にし、見学に伺いました。開発理由は当初は良いものだったかもしれませんが、利益等と結びつくと変な方向に行ってしまうのではないかと思いました。

(40代、市内)























原告たちのあまりに理不尽な被害

JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

         昭和への挽歌   野崎忠郎

                 









                 







自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。


『日本医学百年史』195711の731部隊の記述

日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」



第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった





731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回

731部隊と人権ー裁判から考える

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
731部隊被害者遺族を訪ねて(お話:大谷猛夫さん)


731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第5回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第6

「登戸研究所と731部隊」(お話:山田朗さん)


731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第7

「731部隊について」(お話:五井信治さん)




パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
      医学と人権を考える―

1948年京都・島根 ジフテリア予防接種禍事件(その2) 
                              栗原 敦
 京都市の被害実態調査 
京都市には、この事件に関する昭和40年代の記録(公文書)は残っていないが、46年2月府 議会での知事答弁を受けるかたちで、被害者の実態調査が行われました。松尾孝府議は質問の中で7月と11月に実施されたとしています。その調査用紙、昭和46年7月付市衛生局長名の被害者あて依頼文書(図3)だけが残っていました。調査内容は16項目、保健所の健康診断の項で「事故発生当時、5年間にわたり毎年1回京都市が行った、保健所における健康診断」とありますから、事故当時被害者(死亡児の「遺族会」とは別組織である、生存被害者の「同盟」)が要求した健康診断が実施されていたことが確認できます。残念ながら京都市にはこの調査の集計結果やそれにより何が行われたのかを確認できる文書は残っていません。しかし,1972(昭和47)年3月22日の衆議院予算委員会樋上新一議員の質問において調査結果が引用されています。また、吉原賢二氏の『私憤から公憤へ 社会問題としてのワクチン禍』(岩波新書)にも引用されています。ところで、局長名の文書が出てから1年8ヶ月後、1973(昭和48)年2月の「市民しんぶん」には「昭和23年のジフテリア予防接種禍でお苦しみの方に」という記事(図4)があり、転居等で把握できない未回答者に呼びかけを行っていることは調査の困難さと被害者の要求や市の対応ぶりを示しています。 



 


隠された毒ガス兵器


小津安二郎も毒ガス部隊だった

『従軍日記』 小津安二郎

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!! 
    

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

「公文書管理を考える」(4) 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授


  新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】

1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された

歴史改ざん(「風を読む」)


     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置











 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。


NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日


 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

1929年12月24日~1930年1月4日、長與又郎、1930年4月22日~?宮川米次、1930年4月23日~?宮川の娘婿の岡西順次郎が中国へ出張しているが

何をやっていたのか?宮川の支那漫談とはどんな内容なのか?


実験医学雑誌第18巻雑報



18巻2号(1934年)

所長就任のご挨拶と職員に対する希望

宮川米次

5、我らの作つた規律を守リたい

比の点は先般長與先生も, 我々主任のものに懇々と御話になりました。私は過去を色々と此所で申す必要はありません。後來に対する希望を述べ、 併せてそれを実行したいのでありますから、 此の點をよく御了解願いたい。         

 さて、規律、官吏、官庁としての規則は色々ありま:すが、ここでは其の1,2だけを申して見たい。第1は出勤のの時間であります。一部の諸君には今日迄、大体申し分なく規律通りに行なわれて居る様に思いますが、 さて技手、技師、所員諸君に御願い致したい。大体朝は9時か9時半には御出勤を願ひ、そして退庁も、4時を正規の時間とし御都合によって遅れてもそれより1、2時間後には御退庁を願いたい。研究の都合により止むを得ないこともありますが、それは例外でありまして、常規でない様に致したい。 朝遅く11時時頃に御出勤になり、それだけ夜分遅く居られるということはやめたいと思います。なぜかこの理由は申す必要もありませぬ位でありますが、先ず第1官紀の上からもよくない。又其本所の経済の上からもよくない。どうか規則正しくして行きたいと思います。 例えば今後冬季の暖房等の関係から申しても1室2室の為に全体を夜中暖めることは不可能でありますし、其他電燈瓦斯等に就いても相当の経費を要するのであります。

 私は研究を為す人に向って出勤、退庁の時間を一律に事務的に八ヶ間敷くして行けということは好みませぬが其所に大体標準をおきたい。極端なことは排除したいのであります。又上の為す所下自ら之れに習うの類でありまして後には真に研究に携つて居ない人迄も、弛緩した気分になり勝ちだと思って居りますから、此の点は特に所員諸君に深く御考慮を願いたいと思います。 



 


  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

   

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。


第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

第5 当裁判所の判断

6 被告の立法不作為による損害賠償請求について(争点6)

(3)そこで、上記(2)の前段の判断基準に基づき本件における国会の立法不作為の違法の有無を検討することとするが、その前提として、必要な範囲で、原告らの主張する本件細菌戦の事実の有無について見ておくこととする。

(イ)1940(昭和15)年から1942(昭和17)年にかけて731部隊や1644部隊等によって、次の a.f.g.h の通り中国各地に対し細菌兵器の実戦使用(細菌戦)が行われた。

d 崇山村

(a)江湾郷の崇山村は、北の上崇山村と南の下崇山村の2つに分かれ、ており、住宅は密集して建てられていた。しかし、上・下の区域を越えた人の交流はほとんどなかった。同村のペストは、1942(昭和17)年10月から上崇山村で爆発的に流行し、死者が続出する事態となった。その後、12月上旬には上崇山村のペストはほぼ終結するように見えたが、12月に入ると今度は下崇山村で死者が出るようになった。

 このペストは、義烏に流行していたペストが伝播したものと考えられる。

(b)崇山村のペストによる死者は、流行が終息する翌1943(昭和18)年1月までに総計396人に上ったとされている。これは当時の崇山村の人口の約3分の1に当たる。

(甲58,89、105の1、142の1・2、286の1・2、証人上田信)




731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

     731部隊の行なった細菌戦


 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 日本の中国東北侵略から90年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

「1931」斉藤準太郎の日記

三月十二日


武田と共にある問題について意見を異にする経験を盾に中々譲らない。巡察あり 第六三列車 第二八〇列車 晴風なく巡察日和 厭世と情死と同じ死を形作れども彼は死を云ふてこれを認めると云ふ。今日は必ず勤務ありと思っていた所 案の定巡察だ。首山より遼陽間正午六三列車にて首山より遼陽に行く。初めての逆経路、春の陽を背中に受けながら非常に心持よい。之からの巡察は本当に心持よい。第二八〇列車にて事無く帰隊す。分遣に連絡がてら遊びに行きご飯を食べてくる。


午前中の事である。武田と共に一つの問題について議論した。死に対しての問題だが、武田と僕は意見を異にした。厭世自殺についてである。情死とか死については同じ心持であった。要するに僕は簡単ながら 厭世自殺についてはその死に至る動機が如何にあるにせよ認められないといふのが根本の趣旨であるのに、武田は自己の経験から(嘘か本当か知らない 単に家出をしてその道を踏むべく為に人々に心配をかけたという)絶対とまではいかないが ある程度まで之を認めるという所で僕と立場を異にしている。

 然し情死については 死というものについては同じなれども心持については全然違う。お互いに信じて死を以って全てを解決するというだけでなく 死を以って未来の楽しみを求める為に手をとる事は私にも肯ける。本当に死を喜ぶ。この時限り。





 


軍都広島での物語

大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

エピローグ 広島から・・・・・



しかし僕が広島で見た(遂に旅行者の眼で垣間見たに過ぎなかったにしても)、人間的悲惨は、その最も絶望的なものまで、すべてプラスの価値に逆転することができるという勇気はないが、少なくとも、実にたびたび僕に日本人の人間的威厳の明らかな所在を確かめさせるものであった。 

 

 



 




原爆初動調査 隠された真実

  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行


Ⅱ 関連部隊・支部

細菌詩集

731部隊を詠む


とべ しゅん(仮名=ペンネーム)

1644部隊

〈経歴〉

1919年生まれ

1940年 中支那防疫給水部栄1644部隊に配属

1944年 帰国。召集解除

■この証言は『詩人会議』(1995年7月号)所収の文章に、これまで発表された詩と文章を加えてまとめたもの。


伝染病菌の検索と研究

昭和17(1942)年の3月頃だったと思います。正門の西側に衛兵所があって、私は衛兵勤務についていました。衛兵は午後3時からの24時間勤務で、深夜に交替で仮眠が取れることになっていました。東門には分哨があり、衛兵所から分哨長を入れて3名が派遣されていて、東門から北門にかけて巡回、警戒することになっていました。その夜は月が出ていなかったので、あるいは曇り空だったのかもしれません。







●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編


江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳






Ⅰ東北


2 華北

4 山西


 吉沢行雄の罪悪事実についての調査分析(1954年12月28日)


1、張存福は同日、炊事場で昼食をとっていた時、朱保成から吉沢が今日また手術をすると聞いた。
2、同日の昼食後、張存福は庭で5,6人の日本人が中に何が入っているかわからないが、外側は鮮血で染まって真っ赤になった草袋を2つ担いで裏門から出ていくのを見た。
3、張存福は同夜、水汲みを終えて班村に帰ろうとして病院裏門外の鉄道沿いの溝を通り過ぎた時、彼の見た2つの鮮血の染みた草袋を発見した。好奇心に駆られてそれを開けてみると、中身は解剖された2つの死体であった。こうしたことを総合すると、吉沢行雄がこの時捕虜の戦士2名を手ずから解剖したことは確かに事実である。なぜなら、
1、前述の事実はすべて張存福が自分で目撃している。
2、張存福、李五龍、高福生、朱保成らは長期にわたって病院で苦力をしており、吉沢行雄及び内部の情況についてよく知っている。
3、吉沢は当時、確かに西村部隊病院で軍医少尉をしていた。
こうしたことから、吉沢行雄は捕虜の戦士2名を自身の手で解剖した罪責を負うべきである。
 調査員は山西省人民検察院と忻県分院検察員党毅如である。
(1)119-2、732、3、第44号

 


 


●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか


2  毒ガス戦に対する参謀本部の意識

「大陸指」からどのような背景が読み取れるか

 このことから参謀本部は、国際法を軽視してはいたが、その存在を意識しながらも使用を認めていったことがわかる。当時の国際法に限界があって日本軍の毒ガス戦を防止できなかったのは事実だが、それが完全に無力であったとは必ずしも言い切れないのも事実である(もし国際法を完全に無視していたのならば制限を設ける必要はなかったはずである。)しかし他方でこれらの指示は、参謀本部が欧米諸国などに察知されなければ中国で毒ガス兵器を使用しても良いという判断をしていたことを示すものでもある。つまり、参謀本部は国際法をめぐって対中国と対欧米という二重の基準をもっていたことになる。



 




・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)


第7章 残虐な毒ガス戦


動かしようのない事実



瀕死の抵抗―山西汾陽(フェンヤン)における日本軍毒ガス使用の罪状

1945年8月15日、中国人民は長期にわたる艱難辛苦の闘争を経て抗日戦争の勝利を迎え、日本帝国主義はこの日、無条件降伏を宣言する。だが華北に不法占拠する日本軍の残留部隊は敗北を認めようとせず、侵略行為を継続、山西省汾陽県においてさらに毒ガス事件を引き起こし、残虐な罪を重ねた。

 以下は、日本軍戦犯、日下俊孝2等兵の1954年12月5日における証言記録である。

「1945年8月23日から26日、日本軍の北支派遣軍、114師団201大隊第3中隊は汾陽の北関において、解放軍の汾陽解放を阻止するため、毒ガスにより解放軍兵士約30名を虐殺、砲撃により3人を爆殺、住民2人を殺害した。私は当戦闘に参加した。8月23日夜、解放軍が城壁の横穴より城北に進入してきたため、城内の大隊本部はこの穴を塞ぎ、その中に毒ガスを放射、解放軍兵士が逃げられないようにした。この時、私は北関南門の歩哨をしており、城外からの解放軍の救援を妨害阻止した」




加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用









 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題








 

●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行


日本鬼子(リーベンクイズ)

懐柔

捕虜を密偵に仕立てようと画策

大井憲太郎

特捜班長 警佐兼地方保安局属官

〈略歴〉

本籍地 長崎県西彼杵郡

出身階級 雑貨小売商

学歴 私立長崎貿易商業学校4年中途退学

職業 市役所事務員

所属部隊名 旧満州興安総省警務庁特務科

被捕年月日場所 1945年11月25日

長春市祝町朝日ビル3階

年齢46歳


「なにッ、それなら奴らはどうして逃げたんだ」

「知らない。飯も腹いっぱい食わせんので、約束が違うと言って、勤奉隊の者が下山したことを後で聞いた」「しらばくれるな。ちゃんと証拠は上がっているんだぞ。お前は、『俺たちが伐る材木は軍用に使われるんだ。戦争が進むに連れて、配給だと言って、高粱や包米を腹いっぱい食わせず夜遅くまで働かせ、具合が悪いと言っても休ませない。こんな馬鹿馬鹿しいことはない。戦争に勝つ為だと、無理に割り当てで狩り出されて来たのだ。一体誰のための戦争だ』とそんな風に抗日宣伝をやり、逃げろと、そそのかしたのではないか」と責めた。






2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 



    


    

●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


日本の毒ガス






在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。

 訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。

 米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。

 CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。

 今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。


CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

- 731 部隊関連資料の情報公開裁判の傍聴支援をお願いします ー 

5 人の証人(防衛省職員)が認められ以下の日程で証人尋問を行います。
 ・12 月 20 日(月)午後 2 時
 ・1 月 14 日(金)午後?時
 ・1 月 24 日(月)午後?時



◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する

情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。

連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp


日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

            藤井治夫著

第3章 秘密保全の機構と体制

3  産軍複合の秘密

政治資金の黒い霧

 池田内閣のもとでバッジ・システムにヒューズ社製を採用させることに成功した伊藤忠商事は河野派とむすび、河野は池田内閣の主流であった。F104JにつづくFX商戦では、伊藤忠がノースロップF5を、日商がF4Eファントムの売込みをはかった。この競争過程で、佐藤派長官によって海原が追われ、つづいて伊藤忠とヒューズに秘密資料を流した川崎1佐が逮捕されたのである。その数日前には青木日出雄元3等空佐の『航空情報』事件に捜査の手が伸びている。伊藤忠に天下りしていた元航空自衛隊幹部3人が書いた原稿をリライトして雑誌に掲載したためである。さらに「3次防技術研究開発計画」(第3篇311ページ参照)の漏洩事件に火がついた。これは有吉防衛研修所長が朝日新聞政治部の防衛庁担当S記者に見せ、そのコピーが伊藤忠商事に流れたものという。こうして伊藤忠につながる内局、制服のメンバーがつぎつぎに追い落とされたのである。69年1月、日商のF4Eファントムの採用が決定された。日商は佐藤派と深く結びついているといわれている。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊



 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)

ダクウェイ事件とその背景


米国防総省の発表によれば、フォード・デトリックでは、54年から62年にかけて3300回の事故が発生している。マッカーシー議員は、「59年フォート・デトリックに勤める救護員が発病したが、これは付近の住民に知らされなかったばかりでなく、国際条約の規約にもかかわらずWHO(世界保健機構)にも通告されなかった」と述べている。

 研究所のリストに掲げられているこれまでの事故による死亡者は、3人で、51年、58年、64年に発生している。これについてグラスマン副研究所長が、「58年の死亡者は何が原因で感染したのかよくわからない。彼は電気屋であり、炭疽熱の研究が行われていた地域で電球を取り換えただけである」と述べている。



 




 


 

 ●昭和天皇の戦争責任を問う!!


天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。


 


 



●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
  

     



4部 内省なきその人生

1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

 

第十七章  静穏な晩年と昭和の遺産

1963年、池田は8月15日の敗戦の日を、純粋に世俗的な、神道によらない形式の戦没者追悼の記念日にすることに成功した。彼は、戦争そのものについての歴史的評価を避け、師の吉田と同様に戦没者を「我が国の経済と文化のめざましい発展の礎」と位置づけた。それ以来、全国戦没者追悼式は、戦没者の犠牲こそ、後に戦後の繁栄をもたらしたという、吉田・池田流の題目を歴代の首相が呼び起こす場となった。戦争の正当化と広範な国民共同体の再構築は、このように一歩を進めたのである。同じ63年、池田内閣は「教育の正常化」を目指して、教科書に関する新法〔教科書無償措置法〕を成立させた。この法律によって、日本の侵略責任問題と戦争における天皇の役割にまったく触れない歴史教科書と教師用指導書の刊行が促進された。



  

 

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


RENUNCIATION OF WAR Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!


※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

4、自動車社会の排ガス

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?





● 核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

核実験の禁止
大気圏内で行う核実験は、大気中に放射性物質が飛散することになるため、これを禁止する国際条約が締結されることになった。1963年に、核実験を地下に限定する大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約(通称部分的核実験禁止条約:PTBT) が締結され、同年中に発効した。この条約には100ヶ国以上が調印しており、アメリカ合衆国及びソ連も批准している。フランスや中華人民共和国は署名していないが、後には大気圏内核実験を取りやめた。PTBT自体は、実験の規模や回数を制限していない。アメリカ合衆国とソ連は1974年に地下核実験制限条約(TTBT)を締結、1976年には平和目的地下核爆発制限条約を締結し、地下核実験における核出力を150ktに制限し、相互に検証することに合意したが、これらの条約の発効は冷戦終結後の1990年までずれ込んだ。
地下核実験も禁止対象とする包括的核実験禁止条約 (CTBT) が提案され、1996年より署名が開始された。この条約は、発効の条件とされた特定の44カ国全てにおける批准が実現されておらず、2011年時点では有効な条約にはなっていない。また、臨界前核実験も CTBT では禁止されていない。


 「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】




●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future




●核融合もすべきではない!!

核開発に反対する物理研究者の会通信
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について



なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!

       

      

原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。

封印された原爆報告書




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した



















           

JCOの臨界事故


福島第1原発事故

核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病


731部隊(unit731)
昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!



















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