2017年11月14日火曜日

ドイツ精神医学精神療法神経学会の2010年総会における謝罪声明


70年間の沈黙を破って
―ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)の2010年総会における謝罪声明
(付)追悼式典におけるDGPPNフランク・シュナイダー会長の談話
「ナチ時代の精神医学―回想と責任」(邦訳)
          岩井一正

 近年急速な充実ぶりを示しているドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)は、2010年11月のベルリンにおける年次総会の中で、ナチス時代にドイツ精神医学の名のもとに強制移住、強制断種、強制研究の被害を強いられ、また患者として殺害された犠牲者をしのぶ追悼式典を開催した。そして自らの先行組織やドイツの精神科医が与えた不正と苦しみに対して犠牲者およびその家族に謝罪した。
またその後今日まで、あまりに長くつづいた学会の沈黙、些少化、抑圧に対しても謝罪した。約70年を経ての学会としてはじめての罪の確認であり、謝罪であった。この追悼式には3000人の精神科医が参加した。
 追悼式典は、DGPPNではじまった目下の調査と討論の過程の具現化である。今進行している研究プロジェクトは、DGPPNの先行組織とその代表者が、精神疾患患者のいわゆる安楽死プログラムや断種、あるいはユダヤ人、ポーランド人の反抗的な精神科医の追放、そしてナチ政権のそれ以外の犯罪にどの程度関与したかを明らかにする予定である。
〈索引用語:ナチズム、強制断種、安楽死、T4活動、医の倫理〉



 ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)の年次総会は、例年11月下旬にベルリンの国際会議センターICCで開かれる。日本の精神神経学会にあたるこのDGPPNが今のような規模に発展したのは最近のことである。東西ドイツ統一から10年を過ぎた2000年のアーヘンの会議はまだこじんまりして、参加者も1200人にすぎなかった。しかし、このアーヘン学会で、今後は毎年ベルリンで開くことが決定され、それ以降この10年の学会の成長はめざましかった。一昨年の2009年には近隣各国を含め8612人が参加して、学会自ら、ヨーロッパで最大の精神医学会と称するまでに発展した。2010年には総勢10000人を越えたと報告されている。
 

ホームページ上の「DGPPNの歴史」に沿って、ドイツ精神医学会の歴史を辿ってみる。ドイツで精神科の専門学会設立に向けての努力が実を結び始めたのは19世紀中頃で、1842年が今日のDGPPNに発展した専門学会の創立の年とみなされている。1844年には“Allgemeine Zuitschrift fur Psychiatrie und paychisch-gerichtliche Medizin"が発刊された。1860年には、精神科医の独立した会議がはじめて開催されている。1864年には学会規約もでき、それ以来ドイツ精神科医協会“Verein der Deutschen Irrnarzte"と自称した。1903年に学会はドイツ精神医学協会“Deutscher Verein fur Psychiatrie(DVP)"の名称を得た。ちなみに第1次世界大戦までのDVPの会員は550人であったという。1906年から1920年まではクレッペリンが、そしてその後は中断を含んで1934年までボネファーが会長を引き受けた。ナチの政権獲得ののち、DVPは、ドイツ神経医学会と一括されて、ドイツ神経科医精神科医協会(DGPN)となり、リューディンが終戦まで会長の地位にあった。ナチ時代の精神医学の詳細については、ここに訳出したシュナイダー会長の講演にゆずるが、25万人の精神障害者がドイツ帝国とその占領地域で「生きるに値しない生命」に分類され、殺戮システムの犠牲になった。戦後の混乱期をへて、1954年に、DVPの後継組織としてドイツ精神科神経科学会(DGPN)が設立された。そして1992年に現在のDGPPNの名称に置き換えられて現在に至っている。


 ナチ時代の負の遺産は、戦後のドイツ精神医学に無言の暗い影をおとした。さらに1980年のDSM-Ⅲの出版以降、新興のアメリカ精神医学がドイツ精神病理学から世界の主導権を奪取したとみえた。しかし操作化の波が押し寄せるなかで、ドイツ精神医学は自らの足下を固めなおす努力を水面下で続けた様子である。今日の復興の形について、とりわけザス、ムント、メラー、クロスターケッターらをはじめとする戦後世代の教授たちの功績は大きい。このDGPPNの会議においては彼らが強力なイニシアティブを発揮して、精力的にあちこちのセクションの座長を兼務する姿がみられる。そのような熱心な関与の積み重ねが、年次総会の着実な成長につながったとみることができる。学会発表の多くはまだドイツ語で行われているが、自らの学会の国際化が強く意識されており、ドイツ語がわからない聴衆が散見されれば、セッションの構成を英語に切り替える対応もあちこちのセッションでみかけるようになった。このような弾力性は、ここ2,3年のDGPPNがヨーロッパの精神医学のリーダーシップをとろうとする役割意識の表れにもみえる。
 復興の流れに乗って、2010年の会議は、“Psychiatie interdizipliar”「学際的な精神医学」をテーマにして、前年を越える参加者を集め、4日間にわたって催された。ここ数年この学会総会の動向を見守ってきた筆者は今回参加できなかったが、手元の資料や参加した友人たちからの伝聞をもとに紹介を試みる。



 今回の総会では、会期後半の11月26日にナチ時代の精神障害者の犠牲者に対する追悼式典が開催された。この期間は平行する他のプログラムは停止して、学会全体がこの催しに専念し、学会発表では3000人の精神科医がこれに参加した。追悼式典の趣旨は、本学会の前身組織やそこに属した精神科医が、ナチ時代に当時の患者および家族に対して不正を働いたことを公式に認め、謝罪するとともに、ナチ体制が終焉した戦後も、沈黙や否認によって彼らをさらに苦しめ続けたという自らの学会の70年の歴史を、はじめて正式に謝罪表明したことにあった。ふりかえってみると、2007年の総会ではこの種のテーマの発表は皆無であったが、2008年には「ナチ時代の精神科医の犯罪と精神医学における回想文化」というシンポジウムが開かれたほか、関連した個別発表もみられた。2009年の総会には、精神医学における倫理のシンポジウムで、ナチの精神医学が取り上げられた。また、会期中に以下の文を決議して、DGPPNの規約の第1章に採択した。そこには「DGPPNは心的患者の尊厳と権利に関する自らの特別な責任を自覚している。この責任は、自分たちの先代組織が国家社会主義の犯罪、集団的患者殺戮、強制断種に関与したことから、自らの中に生じたものである」と謳われている。今年度の総会はこれを踏まえて、追悼式典を催し、これまで真正面から向き合うことのなかったナチ時代の自分たち学会の負の役割を自己批判し、今後さらに分析して詳細を公表しようとの意図が明らかにされたのである。今回のDGPPNの総会は、これによって学問や臨床を越えた倫理的地平において、あらたなエポックを画したと言える。



 追悼式典の中心におかれたのは、DGPPN会長のフランク・シュナイダー(アーヘン工科大学医学部精神科教授)の追悼講演であった。これについては、以下に全文を訳出した。この講演の前後には、報道談話や、あらたな事実解明のために選抜された国際的委員会の委員による第3者的な立場からの講演も配置された。また学会会期中、ロビーでは1999年のハンブルクのWPAではじめて催された「回想」の展示が発展形で再現された。主催者は長年この問題に取り組んできたクラナッハ教授である。
 ナチ時代の精神障害者の安楽死活動については、会長講演にもあるように、1980年初頭から本格的に研究されはじめた。我が国では1987年に伊東が先駆的にこの事実を指摘したあと、コールティンクが当時の状況や背景を含めた調査を紹介し、また現代の安楽死の扱いにも関連づけて、アクチュアルな警告を発した。そして1995年には、小俣による精密で網羅的な研究が提示された。これによってナチ時代の精神医学の犯罪性は今日では我が国でも十分知られるところとなっている。その水準から見れば、今回の学会表明に目新しい事実は含まれておらず、意義はあくまで、学会が70年の沈黙を破ってはじめて事実の責任を自らに引き受け、患者・家族に謝罪したことにおかれよう。



70年の空白を遅きに失したと非難することはたやすい。2世代以上にわたる歳月の流れのなかで当事者はとっくに死に絶え、糾弾されるべき個人の輪郭も鮮明さを失っている。もっともDGPPNの批判の矢は、個々人よりも、自らに向けられたものである。伝統ある一組織の今日的な機能として、歴史的あやまちを認め、引き受けようとのDGPPNの今回の態度表明によって、当時の学会や個々の精神科医をナチのイデオロギーの一方的な被害者として位置づけてきたこれまでの姿勢は完全に棄却された。そして、より広い時代背景を視野におさめた客観的立場からさらに詳細な事実解明をする方向性が示された。我々にとっても参考にできる態度ではなかろうか。


 ナチ時代の精神医学の諸問題は、今後の展開においては、ナチズムに特化された精神医学史の逸話的汚点としての位置づけを脱し、医学倫理と医師の職業への疑問を熟慮するための今日的なテーマに発展するはずである。国際的委員会の座長でもあるRoeickeの最近の論文はそのことを明らかにしている。このような方向性は、すでにこれまでの本邦の研究においても予示されていたものであるが、現実の状況とからみあわせて論議がなされるのは、今回のDGPPNの態度表明がその第1歩を記したこれからの道のりであろう。
 あらたな展開の端緒となるべき今回の態度表明は、すでにインターネット上の本学会のサイト(www.dgppn.de)に掲載されており、またその後、DGPPNの機関誌である“Der Nervenarzt"にも掲載された。おそらく英語版もまもなく上梓されると想像される。そのことを承知した上でも、この画期的な態度表明を邦訳し、本学会誌上で広く話題を提供することについては、日本の精神医学の今後に一定の意義があるのではなかろうかと考えた。そのような筆者の趣旨をくみ、翻訳を快諾されたDGPPNシュナイダー会長に感謝する。



 皆さん
 われわれ精神科医は、ナチ時代に侮蔑し、自分たちに信頼を寄せてきた患者の信頼を裏切り、だまし、家族を誘導し、患者を強制断種し、死に至らせ、自らも殺しました。患者を用いて不当な研究を行いました。患者を傷つけ、それどころか死亡させるような研究でした。

 この事実に直面するのに、そしてわれわれの歴史のこの部分と率直に向き合うまでに、どうしてこんなに長い時間がかかったのでしょうか?われわれはこのDGPPNが世界の中でももっとも古い科学的医学的な専門学会であることを誇りにしています。しかしその一方では、この学会の歴史の重要な部分がこんなにも長く闇に葬られ、抑圧されてきたのです。
このことをわれわれは恥ずかしいと思います。




われわれが恥じ入ることが他にもあります。われわれドイツの精神医学の学会は、1945年の大戦後も1度として犠牲者の側にたったことがなかったのです。
さらに悪いことには、彼らが受けた新たな差別や不正にも関与しました。今日のような催しがこれまでどうしてできなかったのか、われわれはまだ明言できていません。
 約70年たってようやく、この無言に終止符を打ち、科学による解明の伝統に立ち戻ることを、この学会は決意しました。その学会の会長として私は皆さんの前に立っています。独立した依存性のない科学的な委員会が立ち上げられ、現在1つの研究プロジェクトを支援しています。さしあたり1933年から1945年までの期間の学会ならびにその前身である組織の歴史を徹底的に見直そうとするプロジェクトです。




 しかしこれで十分というのではありません。今後何年かで期待できる研究成果とは別に、私は、あまりに遅きに失してはいますが、すべての犠牲者とその家族に、ドイツの連盟とそこに属する精神科医が負わせた不正と苦痛に対してお詫び申し上げます。
 
 ドイツ精神医学精神療法神経学会は、犠牲者の存在を認め、彼らの側にたち、自らの過去を認識し、過去から学ぶという意志をもって、そこに明確な標識をおくために、この記念式典を決意しました。


 皆さん、この追悼行事によく来てくださいました。かくも大勢お集まりいただいたことに感謝します。
 われわれがたったいま(訳注:本講演に先立つプログラムで)聞いた手紙や記録は、精神疾患をわずらった人々がどんな被害を受け、彼らに何がなされたかについてのはっきりした証拠になります。
 ナチの精神医学は、われわれの専門領域の歴史の中でもっとも暗い部分です。精神科医とその連盟の代表者は、この時代、彼らの医師としての任務、つまり自分たちを頼る人々を治し、世話するという課題を何重にも軽視し、勝手な解釈に替えたのでした。




 精神医学はだまされやすかったし、また自らだましもしました。患者を治療して、殺戮もしました。精神医学は個々の人間に義務を負っていると感じなくなり、社会全体を世話の負担から解放すること、一民族の遺伝素地の改善、最終的には「人々を悲惨さから解放する」ことを進歩とみなしました。そして言うところのその進歩の名のもとに、大勢の人間を虐待し、殺戮したのでした。それに同意しない厄介な同僚は、職場から排除しました。




思い起こせば、1933年から1945年の間に大学や研究施設で働いていた精神科医の約30%が、当時のドイツ帝国から亡命しました。亡命はみずから望んでのものではありません。ユダヤ系の同僚、あるいは政治的な信条ゆえに扱いにくくなった医師たちは、その地位や役割から排除されました。彼らとその家族は職を失い、生活基盤を、収入と財産をなくしました。故郷を失うこともありふれた事態たったのです。このような亡命した同僚たちは、その家族もろとも、異邦人として見知らぬ国で出直さねばならなかったのでした。
 ドイツないしオーストリアを離れることができなかった者はたいてい、戦争中は強制収容所ないし絶滅収容所に連れて行かれました。ほとんど生き残れない運命でした。このことはもはや取り返しがつきません。



 これらすべてが起こったのは、ドイツ帝国における精神医学研究が優生学と民族衛生学のテーマにだんだん集中した時でした。ナチの世界観の保健、社会、経済政策は、国民の健康と作業能力に貢献できる人間を振興することを目的にしていました。弱い者は排除して、強い者がますます強くなるよう目論まれました。この考え方には宿命的な伝統があります。

 19世紀末から、優生学の概念が口にされ、精神障害者の断種が喧伝されました。ドイツ帝国ばかりでなく、スカンジナビアや、英米圏の国々でもみられました。1914年の夏には早くも「不妊と堕胎の法制化計画」がドイツ帝国議会に持ち込まれましたが、第1次大戦がはじまって審議と議案通過は阻害されたのでした。



1933年6月14日、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)自身がそう呼ぶところの、ヒットラーの「政権掌握」からいくらも経たぬうちに、「遺伝病子孫予防法」が議会を通過しました。この法律の公式の注釈に、精神科医であり、1935年から1945年の間、精神医学学会の会長であったエルンスト・リューディンが、関与したのでした。彼は当時、ドイツ精神医学研究所の所長でした。この法律の中で、断種、および強制断種は、「次の世代のための事前配慮」と謳われています。倒錯した表現です。というのも、この表現は、ある人間を苦しめ、傷つけることで、別の人間の幸福をあがなわせているからです。

 この法律の中で、躁うつ病と統合失調症は、その種の遺伝性の精神疾患と名付けられました。しかし同じく、てんかんの遺伝型や盲、聾、小人症など多数の疾患もそうなりました。病気の人間は子どもを持つべきではないとされました。劣悪と認定された彼らの遺伝物質は、健常な「国体」をこれ以上汚すべきではないと考えられたのです。



医者はだれしも、言うところの「遺伝病者」を役所にとどけることを義務付けられていました。360000以上の人間がこの法律に基づいて医師から選別されて、断種されました。手術の侵襲で死んだ人は6000人以上でした。

 優生学と民族衛生学的思考を背景においてみれば、断種法は、多くの精神科医には模範的と見なされました。エルンスト・リューディンは、われわれの前身組織の会長として、GDPNの年次大会の開催に際して、何度もこれを支持しました。そして世界中の別の国々でも、断種は優生学的な根拠で賛同されていました。もっともドイツでは、該当者の意志に反する断種すらも許されていました。犠牲者にとっては、これは自らのアイデンティティの中核への強烈でひどい侵襲であり、これに対して抵抗のすべもありませんでした。これによって彼らは回復不能な形で身体的無傷という権利を奪われたばかりでなく、親になる権利も剥奪されました。



戦争が終わった後も、犠牲者とその家族は、自分たちの身になされたことについて、恥と沈黙しか残りませんでした。さらに今日までドイツ連邦共和国から国家社会主義の迫害の犠牲者として、はっきり認定されたことはありませんでした。断種法は、以下の述べる当時の法律の解釈からわかるように、国家社会主義的な、ドイツの人種イデオロギーのはっきりした表現であったにも拘わらず、認定されなかったのです。
 すなわち、その注釈には「ドイツ国民の様態に応じた遺伝種族保護の目的は、遺伝的に健常な、ドイツ国民にとって人種的に価値のある、子どもの多い家族を、どの時代にも十分な数だけ作ることである」と書かれていました。


私はここで、彫刻家であり、著述家、そして自らが被害者であり、精神医学体験者の連邦同盟の創始者の1人であるドロテア・ブルック女史の後年の活動を、賞賛をこめて称揚したいと思います。彼女はくり返し説明し、警告し、回想しています。数年前に死んだクララ・ノバックもそうです。ノッバック女史の主導によって、1987年に強制断種被害者と「安楽死」被害者が集まり、「安楽死」被害者と強制断種被害者連盟が創設され、以来この連盟は犠牲者の社会的名誉の回復のために戦っています。


 
しかし強制断種だけではありません。殺人もあったのです。すでに1920年代に、第1次対戦と世界恐慌の影響下に、患者はお荷物になりました。精神科医アルフレート・エーリッヒ・ホッヘは、1920年に出版された「価値なき生命」の抹殺の容認にむけての本の中で、法律家カール・ビルディングと協同して、「厄介もの」の概念をうちだし、「精神的死の状態」と彼は呼んでいますが、言うところの治癒不能の精神疾患のカタログを作りました。1930年にはそれを踏まえて国家社会主義の月刊誌に「生きるに値せぬ生命の死」を要求しました。
 ドイツのポーランド侵攻、すなわち1939年9月1日の大戦開始日にさかのぼって、ヒットラーはいわゆる「安楽死」行動を命じました。後に「T4行動」とよばれるこの活動の医学的リーダーには、精神科医、神経医であり、ヴェルツブルグ大学の正教授、ヴェルナー・ハイデが選定されました。この活動と公式の終了に続いたさらなる患者殺人の時期に、終戦まで―正確にはその数週あとまでに―少なくとも25万から30万の心理的、精神的、肉体的な病者が犠牲になったといいます。




1939年10月以降、最初はポツダム広場のコロンブスハウスから、そして続いて1940年4月にはティアーガルテン通り4番地、すなわち今はベルリンフィルハーモニーのある場所から、ドイツ帝国および併合地域の治療、介護施設に、すべての患者を系統的に把握し、選別するためのアンケート用紙が送られました。選別は、本当のところは有用性、つまりは労働能力を基準としてなされたのです。

 当時のサービスセンターの場所には、今日ではいわゆる「安楽死」の犠牲者のための紀念板が地面にひっそりと埋められてあり、あとから付け加えられた犠牲者にささげる塑像があるだけです。いわゆる「安楽死」の犠牲者のための、中心的な、国家的な追悼の場所は、いまもまだ存在しません。この事実は、排除やおとしめが存命できた人々やその家族にとってはまだ続いていることのひょうげんばかりでなく、我が国やドイツ精神医学のなかの盲点でもあります。国家的な「T4 」の追悼施設・情報施設の設立への目下の運動を、われわれ専門学会は支援するつもりです。




 選ばれた50人の選定者が、各病院の精神科医から返送されたアンケートを評価し、選別し、生か死かを決定しました。この中には当時の著名な精神科医も含まれていました。ヴェルナー・ヴィリンガー、フリートリッヒ・マウツ、フリートリッヒ・パンセもいました。彼ら3人は、戦後われわれのこの学会の会長になったのでした。フリートリッヒ・マウツとフリートリッヒ・パンセはそれどころかわれわれの学会の名誉会員になっています。DGPPNの名誉会員の資格はすべて、その人の死とともに終了するのですが、それでもわれわれは今の時点でこの名誉会員の資格を不当とみなし、これを公式に破棄するつもりです。



灰色のバスは、殺戮の画像的なシンボルですが、このバスに患者たちは治療介護施設から乗せて行かれ、6つの精神科施設に送り込まれました。そこにはガス室がもうけられていたのです。治療施設が殺戮施設になりました。治療から殺戮へ、精神科医はこの運搬を見守り、彼らを信頼する患者の殺人を見守ったのでした。6つの施設というのは、設立の順番でいうと、グラ―フェネック、ブランデンブルグ、ハルトハイム、ビルナーゾンネンシュタイン、ベルンブルグ、ハダマーでした。

 1940年1月から1941年8月まで、「T4」活動が公式に持続した2年足らずの間に、7万人以上の患者が殺されました。そして公に抗議して「T4」活動の終結に貢献したのは精神科医ではなかったのです。抗議はおもに教会からでした。決定的だったのは、ミュンスター司教のガレン伯爵クレメンス・アウグスト枢機卿が1941年8月24日に垂れた抗議訓戒でした。この直後に「T4」活動は公式には停止しました。



「T4」活動の推移の中で殺人について得られた知識と経験は、のちに強制収容所で利用されましたが、その際はさらに多くの人々が、何百万人も犠牲となりました。
「T4」活動と平行して、いわゆる「小児安楽死」の流れのなかで、30以上の精神科小児科病院で、身体、精神を病んだ子どもたちが殺されました。これまでは約5000の児童と言われてきましたが、戦後の法廷で殺人者自身が述べたのを、さしあたり無批判に受け入れてきた数にすぎません。数の見積もりが少なすぎたことが、ようやくわかってきました。



しかし、これだけではありません。というのも、中枢で企画された「T4」活動が公式に終了したあとも、殺人は続いたのでした。そのような「安楽死」の辺縁期には精神化施設の中で、患者は―おそらく数万人にも昇る―医薬品の過量投与によって殺され、計画的に餓死させられました。ベッドをあけるため、金を節約するためでした。患者は食事を与えられたとはいえ、死に至るわずかの量でした。ヴァルトハイム治療介護院の院長ゲルハルト・ヴィッシャーは、1943年に新入院に関連してきわめて簡潔に以下のように報告しています。
「もしもベッドを空けるために必要な手段を、いつものようにスムーズに行使しなければ、私はこのような入院を決して引き受けることはできないだろう。とはいえ、それに必要な薬が手元にないのだ」
 これらすべてのことは今日では想像もできませんが、精神科医が自分の患者、すなわち治療や介護を頼って自分の所に来た人間を殺害に委ね、また選別して、自ら殺害を医学的、科学的に―えせ科学的に―監督したのでした。小児、成人、老人の殺人です。




 ある統合失調性精神病を病んだ患者についての1939年の病歴がベルリンの連邦資料室に残されています。そこには次のような記載があります。

「かわりなし。精神的に死んでいる。病歴はここで終わりとする。今後も何ら変化はないからである。唯一記載に値するのは、死亡の日付である。」

 殺人の前に多くの患者で「研究」が行われました。倫理的に許されない実験であり、科学と研究の価値と何ら関係のないものです。一例をあげるならば、ミュンヘンのドイツ精神医学研究所の研究者ユリウス・ドイセンと協同したハイデルブルグ大学精神科の正教授カール・シュナイダーの「安楽死」の文脈での精神的に病んだ子どもや少年についての仕事です。患者で費用のかかる実験が行われ、次いで死亡させ、剖検をしました。患者の研究は治療介護院でも実行されました。たとえば、カウフボイレンの結核菌の植え付け、ヴェルネックでの多発性硬化症のウィルス起源説の研究、あるいは安楽死犠牲者での神経病理学的研究です。最後の研究の患者は、この研究のために取り分けて安楽死へと選別された患者でなされたものでした。これらは、カイザー・ヴィルヘルム脳研究所のユリウス・ハラーフォーデンによって、ハンス・ハインツの指導するブランデンブルグ―ゲルデン病院と協同してなされたのでした。




殺された多くの患者の遺体とそれぞれのプレパラートは、研究目的で強く所望され、このプレパラートに基づいて得られた研究結果は、戦後もまだなお発表されました。ベルリンのブーフにあるカイザー・ヴィルヘルム脳研究所では、少なくとも295の「安楽死」犠牲者の脳が研究に利用されました。そして今に至るまで、殺された患者のプレパラートに対して安易な扱いがなされてきました。
 
 精神科施設以外では、たとえばチュービンゲンの精神科医ロベルト・リッターのシンチとロマでの研究が行われました。この研究は大がかりな系譜的疫学的な研究であり、いわゆる「ジプシー」の同定と選別基準を見いだすことに貢献しましたが、彼らはそう認定されたら、アウシュビッツの強制収容所の「ジプシー棟」に連れて行かれたのでした。




 国家社会主義の時代に精神医学でなされたこれらすべての不正に対しては、確かに抵抗が存在したし、サポタージュもありました。医者の50%以上は国家社会主義的組織、NSDAP、SA、ないしはSSの会員でした。しかし逆に見れば、医者の半数は会員ではなかったことになります。すなわち制裁をこうむることなく利用できる行動の余地はあったのです。抵抗は必ずしも否定的な個人的結束を迎えたわけではなかったのです。

 抵抗を行使した者もいました。しかし総じてそれは少数、あまりに少数でした。とりわけ開業医の中にそのような者が存在しました。彼らは1934年から1939年の間、該当する公務医と保健局に、遺伝疾患の可能性の存在を一例も報告しなかったのです。その理由は、大病院でないところでは、患者との接触がよりダイレクトであり、より直接だったことにあったのかもしれません。このことは、今日われわれに対する警告でもあります。われわれの日常において、われわれが世話し付き添う患者たちを見失ってはいけないのです。われわれの医師としての仕事の基本方針は、彼らだけであって、社会のイデオロギーではありません。ただただ1人1人の人間なのです。




 人間の尊厳は常に1人1人の人間の尊厳です。このことの軽視を、法が主導するするようなことがあってはなりません。グスタフ・ラートブルグは1946年に法と正義の間の矛盾例を次のように記載しています。定められた法は、原則的には正義に優先する。しかし実定法の正義に対する矛盾が耐え難い程度までに達し、法律が「正しくない法」として正義に譲歩せねばならない場合は別である。(・・・)正義が一度として求められず、まず正義の中核をなす公平性が実定法の制定の際に意識して否認される所では、その法律は、「正しくない法」であるだけでなく、そもそも法の本質を欠いている。

 戦後は、ドイツの多くの他領域でも起こった現象が見られました。抑圧です。精神科専門学会も精神科医たちも―ゲルハルト・シュミットやヴェルナー・ライプブラントのようなわずかな例外を除いて―起こったことを自らに認めようとしませんでした。このことをわれわれは恥入り、暗澹たる気分になります。



今日までよくわからないのは、前に名前を挙げたヴェルナー・ハイデ教授の歴史です。彼は「T4」活動の医学的指導者でした。戦後彼は抑留命令によって捜索されました。にも拘らず、彼はフリッツ・サヴァーデ医学博士の名で1950年から1959年までシュレースヴィッヒ=ホルシュタイン州で司法鑑定人として第2の経歴を築いてきました。彼はその正体の情報を得た医者や法律家にかくまわれました。しかしその二重アイデンティティを同じように知ることになったその他の大勢の人々は、何も行動しなかったのです。このことは、われわれの科の内部でも外部でも知られたことでした。
 このことと同時に、早期に解明の試みは阻害され、困難になりました。アレキサンダー・ミッチャーリッヒとフレド・ミイルケが1947年に「人間侮蔑の独裁」という記録をニュルンベルグの医師法廷に公開した時、多くの医師は、職業身分の体面を気にかけて、異議を唱えました。1949年の2番目の記録「人間らしさを失った医学」については、死の沈黙で迎えられました。



 リューベック大学神経科病院の前の主任であったゲルハルト・シュミット教授は、1945年の11月20日にすでにラジオで、精神科患者と精神遅滞者に対する犯罪の講演を行っています―しかしこれに関する彼の本の原稿は、幾度も試みたにもかかわらず、20年の長きにわたって、出版社を見つけることはできませんでした。私は何年も前にこの本を読んで、非常に衝撃を受けました。しかし戦後ドイツの精神科医たちは、犯罪の詳細が公表されることで、ドイツ精神科医全体の再興と―当時まだ保たれていた―名声に傷つくことを恐れたのでした。誤った見解、致命的な見方です。自らの責任を認識するはずの学問的な共同体性の破綻です。シュミット教授はそのライフワークに対して、1986年にその年にはじめて授与されることになったドイツ精神医学神経学会(DGPN)のヴィルヘルム・グリージンガー賞を贈られました。ほとんど忘れられており、かつ遅きに失していましたが、われわれの学会の稀な輝ける歴史的瞬間でした。


そして政治はどうだったでしょうか?1956年に連邦法は国家社会主義の迫害の犠牲者に対する損害賠償を遡及的に決議しました。1965年、これは最終的なBEG(連邦賠償法)にまで拡大されました。したがって、人種的、宗教的、ないし政治的な理由で迫害された犠牲者はすべて、1969年まで損害賠償要求を申請することができたのです。しかし強制断種者と安楽死犠牲者の家族はそれができませんでした。人種的な理由で迫害されたのではなかったからです。このことも、犠牲者の後々までの侮辱にあたりましたが、われわれは沈黙していました。
 1960年代の補償のための連邦委員会の聴聞会の鑑定人の一部は、国家社会主義で強制断種を正当とみなし、殺害計画に関与した、当の精神科医でした。1961年4月13日、ヴェルナー・ヴィリインガーは、議事録によれば、賠償金の支払いを以下のような皮肉な理由付けで退けました。「強制断種の賠償を実行すると、神経症的な訴えや悩みがでてこないか、という疑問がある。それによって、その人間のこれまでの健康と幸福能力だけでなく、その作業能力も損なわれるおそれがある」。


 1974年になって、遺伝健康法がようやく失効しました。しかし形式的には継続しました。1988年には、ドイツ連邦議会は、遺伝健康法をもとに企てられた強制断種は国家社会主義的な不正であったと確認しました。10年後に連邦議会は、遺伝建康法廷の決定を法律によって廃止することを決めました。しかし、2007年になってはじめて、遺伝病の子孫を避ける法律がドイツの連邦議会から追放されたのです。基本法(訳注:ドイツ連邦共和国、すなわち西ドイツの憲法に相当する。1949年制定)との矛盾があり、それゆえに事実上は基本法の発効の時点ですでに効力は失われていたはずでした。DGPPNはこの法律の追放のための動議を当時支持したのでした。

 しかし、1965年の連邦損害賠償法はその後も存続しました。それゆえ強制断種され、また殺された精神障害者は、今日まで、ナチ政権の犠牲者として、人種的な理由からの日迫害者としてはっきりと認定されていません。この点に関しては、遅きに失せぬうちに政治が動かねばなりません。この不正も廃棄されてはじめて、犠牲者のこれまで続いた苦しみとその運命が、ドイツ国家の側からも適切にあがなわれたことになるでしょう。


 精神医学に関しては、1960年代後半と1970年代にこれまでの事の推移をあらわした最初の発表が個々になされました。ハンズ・ヨルク・ヴァイトブレヒト、ヴァルター・リッター・フォン・バイヤー、そしてヘルムート・エールハルトです。しかし3人とも精神医学を犠牲者として描写しています。1972年のドイツ精神医学神経学会DGPNの130年の歴史の本では、次のようになっています。
「当時の精神医学の代表者は、みかけは広範な権能がありながら、『安楽死』のような行為を援護したり、賛同したり、促進したりしたことはなかった。この時代の個々の精神科医の誤った行動や犯罪を『ドイツ精神医学』に責を負わせようとする試みが幾度も繰り返されたが、これはそれゆえ客観的に根拠なきものとして、はねつけることができる。」
 筆者は1970年から1972年までのDGPNの会長、ヘルムート・エールハルトです。彼は自身がNSDAPの会員であり、強制断種に賛成する鑑定書を作成していたのでした。彼は1961年の連邦議会の損害賠償法の公聴会においてもなお、遺伝健康法の「素材的中身」はナチの発明品でもなんでもなく、「その中核的内容においては、実際に当時の、そして今日の科学的確信すら一致する」と強調しました。犠牲者に対するあらたな嘲笑であり、おとしめです。

たしかに、患者殺戮に対する精神医学の専門学会の公式な賛同表明がなかったのは本当です。しかし正しくはまた、反対表明もなかったのです。発言もなく、弁解もなく、警告もありませんでした。
 そしてわずかの個人を除いて、ドイツの精神科医とわれわれの専門学会の会員の大多数は、その指導者層に至るまでが、研究、学問、実践において、選別、断種、殺戮の計画、実行、科学的な根拠づけに当時あきらかに関与しました。

 ナチ時代のドイツの精神医学の歴史の研究は1980年代の初頭からは本格的にはじまりました。精神科医としては、クラウス・ドェルナー―最初は1969年で、1980年代に入っていくつかの著作を書いた―、アムスム・フィンツェン、そしてヨアヒム・エルンスト・マイアーが主にあげられます。歴史家としては、ゲルンハルト・バアダー、ディルク・ブラジウス、ハンズ・ヴァイルター・シュムールをあげておきます。1983年にはエルンスト・クレーのナチ国家における「安楽死」という目覚まし的な本が出版されました。当時わたしは信じられぬ思いでこれを読み、暗澹としました。これも私に衝撃を与えた本でした。

1992年のケルンで―この時学会はDGPPNと名を変えました―ウヴェ・ヘンリック・ペータース会長のもとに行われたいわゆる150周年記念大会の枠組みで、会員総会において決議文が採択されました。その中で学会は、精神病患者、ユダヤ人やその他の迫害された人々へのホロコーストを振り返って、嫌悪感と哀しみを表明しました。当時はまだ施設的および個人的な罪や精神科医および専門学会の巻き込まれについては論及されませんでした。とはいえ、それは明確で必要な発言でした。

 今年度のこの学会の期間中、われわれは「回想のなかで」の展示を加工し、アップデートして再現しています。この展示は1999年ハンブルグにおける世界精神医学会WPAの世界学会で、はじめて大きな国際的な公開の場にだされたものでした。そして展示に随伴してシンポジウムも催されました。当時ドイツを世界学会の主催国とし、DGPPNを主催学会とする決定が国際的に下されたことは、精神科の世界的集まりの宥和的なサインでした。だから犠牲者を追悼し、われわれの科の特異な過去と対峙することに本気で取り組むのは、大事な義務だったのです。

 この2年足らずの間に、DGPPNの内部で、自分たちの歴史とどう取り組むべきかについての徹底的な討論過程が巻き起こりました。これらの討論はちぐはぐにはならず、一致した結論に至りました。ちょうど1年前についにDGPPNの会則が補完されました。最初のパラグラフにうたわれています。
「DGPPNは心的患者の尊厳と権利に関する自らの特別な責任を自覚している。この責任は、自分たちの先代組織が国家社会主義の犯罪、集団的患者殺戮、強制断種に関与したことから、自身の中に生じたものである。」

 この討論過程のさらなる帰結として、本年初頭にDGPPNの理事会によって、国家社会主義の時代の先代学会の歴史の解明のための国際的委員会が設立されました。委員には4人の著名な医学および科学歴史家がつきました。座長はギーゼンのロェルケ教授、そしてウィーンのザクセ女性教授、ハンブルクのシュミーデバッハ教授、オクスフォードのベインドリング教授です。この委員会はその決定において、DGPPNから独立を保っています。というのも、われわれはこの仕事においても完全な透明性を望んでいるからです。われわれは、われわれ自らの過去の解明について、委員会の各位に対して、その支援と助力に非常に感謝します。

 この委員会は、この専門学会が主導し財政をまかなっている研究プロジェクトにも同行します。シュムール教授とツァラシク女性教授が関与するプロジェクトで、そこで明らかにされるべきは、DGPPNの先代組織とその代表者が、1933年から1945年の間、いわゆる安楽死プログラム、心的患者の強制断種、ユダヤ人精神科医と政治的に好ましくないとされた精神科医の追放、その他の犯罪にどの程度関与したかです。

 最終報告は2年足らずのうちにできあがる予定です。その後、第2の研究期には、第2次大戦後の時代について同様に研究がなされるはずです。これもまた重要です。どのような結果が出て、どのような人物が関与していたのか、いわゆる「第3帝国」のひどい犯罪行為から、いつ、どのような教訓が引き出されたのか。
 これについては、われわれは確実に言えること以上に予感をしています。

「精神的死」、「お荷物的存在」、「生きるに値しない人生」―これらすべての言葉は、口にすることだけでもつらい言葉です。これらは深く衝撃を与え、動揺させる言葉です。そして精神科医が言論統制、強制断種、殺人に積極的に関与していたことを知ると、われわれは恥と怒りと大きな哀しみで一杯になります。
 恥と哀しみは、私が今その会長としてここに立っているこの組織が、犯罪行為から70年もたってはじめて、自らの過去と国家社会主義の時代の先代組織の歴史を系統的に把握分析し始め、そして―歴史的な細部の解明はまだ別に残されたまま―強制移住、強制断種、強制研究、そして殺人の犠牲者に許しを請うことです。

 私はドイツ精神医学精神療法神経学会の名において、国家社会主義の時代にドイツ精神医学の名においてなされ、ドイツの精神科医によって実行され与えられた苦しみと不正に対して、またそれに続く時代のドイツ精神医学の長い沈黙、些少化、抑圧に対して、犠牲者とその家族にお詫びを申し上げます。 

 多くの犠牲者も、そして殺されなかったものも、そしてその親族たちも、いまではもう生きていません。その限りで、この謝罪は遅きに失したものです。しかし生きているものにとって、その子孫にとってはあるいはまだ間に合うかも知れません。なかには今日われわれと一緒に列席している方もおられます。そして今日のすべての心的に病んだ人々にとって、そしてDGPPN自身にとっても、あるいはまだ間に合うかも知れません。

 苦悩と不正、まして死は、取り返しがつきません。しかしわれわれは学ぶことができます。そして多くを学びました。精神医学、そして医学全体、政治、社会を、そしてわれわれは皆で、人道的な、人間的な、個々の人間を指向した精神医学を打ち出し、作業し、犠牲者を常に念頭におきつつ、心的患者の烙印や排除に対して戦うことができます。

 われわれ精神科医は、人間に対する価値評価に陥ってはなりません。われわれは教え、研究し、治療し、寄り添い、治癒に導きます。侵すことのできない人間の尊厳は、常に個々の人間の尊厳であり、われわれはいかなる法律やいかなる研究目的によっても、これを軽視する方向に導かれてはなりません。

 われわれは学んだのです。まさに機能停止の状態から学びとったのです。このことは、たとえば、移植前の診断学や安楽死のように、あまりにも早急に人間の「価値」や「無価値」を、論じようとする目下の医学倫理学的な討議にも幸いにも軌を一にしています。これらの討論は、難問として残されています。しかし、目的は私にとって、DGPPNにとって、きわめて明瞭です。人道的な医学のために、人間の尊厳を守る未来のために、そしてあらゆる人間の尊厳を尊重するために、われわれは働こうではありませんか。

 ご清聴ありがとうございました。
 Prof.Dr.Frank.Schneider(アーヘン)
 ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)会長

※この談話は、2010年11月23日のDGPPN理事会で、本学会の公文書として満場一致で採択された。カールステン・フルファイント文学修士(ベルリン)、フォルカ―・ロェルケ教授(ギーセン)に貴重な示唆とコメント提供に対して感謝する。




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