2021年10月30日土曜日

細菌戦の系譜!!

            


































映画「スパイの妻」と731部隊(2021 10 16加藤講演第2回)
川崎の徴用工 故・金景錫の闘い お話:梓澤和幸弁護士
2021 9 25加藤講演第1回目
絶望的な核開発!!
トラウマ
●毒ガスの歴史(フリッツ・ハーバー)

●溥儀(「満洲国」皇帝の生涯)

●2021 9 17 浅井基文講演


『BCGと人体実験』 美馬聡昭著

731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
防疫研究室と昭和天皇の関係
1940年と2020年の東京オリンピック
731部隊と国立感染症研究所の問題
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会

対話前に政治犯解放を 民主派「首相」が訴え―ミャンマー

米中の生物兵器開発?

20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」




加害の事実に触れない政府主催の全国戦没者追悼式反対!!
空襲被害者を救済せよ!!

日航機墜落事故の原因を究明せよ!!



2020年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
10月30日(金)
ハンセン病、強制不妊手術、原爆、薬害エイズ等、戦後日本で今迄起きた病気に関して、戦時中の731部隊の研究員や石井四郎や部下が全てに関わっており、この研究成果を米国に提出や刑を軽くしてもらったり、又、日本の製薬会社幹部に多数が着任していたことをどの位の人達が知っているのだろう。
又、この人達やこれを知ってる人たちも高齢や亡くなったりしており、戦後のどさくさにまぎれて今の日本が築かれていると思うと、これでよかったのか、当時の政府に多くの疑問を感じる。
今から見れば、古い記録映画であるが、良く監修されており大事な記録フィルムでもあると思う。
今でも黒塗りの紙が政府から出ており、都合の悪いところは国民に知らせない所は、自由民主主義なのか、これで良いのか。もっと国民も声を上げるべきだ。
国民もおとなしすぎる。昭和30~40年代の学生運動はエネルギーがあったと感じます。





















原告たちのあまりに理不尽な被害

JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

         昭和への挽歌   野崎忠郎

                 






                 







自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。


『日本医学百年史』195711の731部隊の記述

日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」



第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった





731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回

731部隊と人権ー裁判から考える

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
731部隊被害者遺族を訪ねて(お話:大谷猛夫さん)


731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第5回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第6

「登戸研究所と731部隊」(お話:山田朗さん)


731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第7

「731部隊について」(お話:五井信治さん)




パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
      医学と人権を考える―

1948年京都・島根 ジフテリア予防接種禍事件(その1) 
栗原 敦
知 ら れ ざ る 戦 後 薬 害 第 1 号 事 件 
1948年11月に京都市および島根県東部で実施されたジフテリア予防接種において,84名の 乳幼児死亡を含んで1,000人規模の被害を生み,世界の予防接種史上最大の事件となった。製造企業が予防接種液の製造過程で無毒化とロットの取扱いを誤り,品質管理=安全性確保において最後の砦である国家検定の試験品抜取りに重大な誤りがあり,それこそが大惨事の原因だったと考えられる。しかし刑事訴訟ではメーカーである財団法人大阪日赤医薬学研究所の所長以下3名が有罪,試験品抜取り担当者である大阪府職員は無罪となり,国など行政が強圧的に 解決を図ったため民事訴訟は提起されず,国家検定に関する国の責任は問われなかった。その結果70年代に京都府・市の議会や国会で補償問題が再燃したが「和解済み」を理由に実ることなく風化の一途をたどってきた。事件から半世紀余りを経て,生存被害者らによる遺族訪問 調査,国会会議録,厚生労働省・京都府・島根県・京都市などの行政文書と GHQ/SCAP文書,その他の文献に関する総合的な調査が行われ,真相解明なく忘れ去られようとしていた戦後薬害第1号事件の実相が見え始めてきた。


 


隠された毒ガス兵器


小津安二郎も毒ガス部隊だった

『従軍日記』 小津安二郎

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!! 
    

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

「公文書管理を考える」(4) 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授


  新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】

1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された

歴史改ざん(「風を読む」)


     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
















 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。


NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日


 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

1929年12月24日~1930年1月4日、長與又郎、1930年4月22日~?宮川米次、1930年4月23日~?宮川の娘婿の岡西順次郎が中国へ出張しているが

何をやっていたのか?宮川の支那漫談とはどんな内容なのか?


実験医学雑誌第17巻雑報


17巻10号(1933年)


弓道部道場開き

当所に於いては弓道部が新設され講堂となりに

道場が設けられ去る10月7日午後2時より

日置流竹林派宗家本多利時氏を招き道場開きの儀式

が厳かに挙行された。


昭和8年9月中職員移動調

月日  異動事項                                    官職     氏名

8.1   昭和8年8月1日付願研究生継続の件許可す               高須勘次郎

8.31 昭和8年8月30日付願研究生退学の件許可す             谷 茂

9.1   昭和8年7月20日付願研究生入学の件許可す          須賀井忠男

〃  昭和8年9月1日付願研究生入学の件許可す            藤田勇之助

〃  岡山県下へ出張を命ず              技手 川喜田愛郎

9.2   昭和8年9月2日付願研究生入学の件許可す               小林清

9.4   陞敍3等授瑞宝章                教授  高木逸磨

〃    陞敍6等授瑞宝章                 技師 阿部俊男




  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

   

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。


第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

第5 当裁判所の判断

4、日本民法に基づく損害賠償請求について(争点4)

(5) このことは、旧民法の立案に深く関与した井上毅が、前記の通り国家無答責の法理の根拠を行政権の円滑な運用に求めていたことによっても裏付けられるところである。そして、戦争行為が国家の公権力行使の重要な一内容であることは明らかであるから、当時の法制度の下では外国人も日本民法に基づき違法な戦争行為による損害の賠償を請求することができなかったというほかはない。

 尚、原告らはパナイ号事件を援用しているが、弁論の全趣旨によれば、同事件は国家間において解決が図られた事件で会って、被害者個人が民法の規定に基づき被告に損害賠償を求めたものではないと認められるから、これをもって外国人に国家無答責の法理が適用されなかった事例はあるとは言えない。






731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

     731部隊の行なった細菌戦


 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 日本の中国東北侵略から90年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

「1931」斉藤準太郎の日記

三月一日
晴 風少々、零下十度。日曜外出 カフェーモダ帰営時間は一杯也。ずいぶん危ないもの。
朝から床の中 戦友が大勢来ていじめて仕様がない。胸の方は痛くもなし 日曜に来ている僕も初めは行く気でもなかったが、陽気な春日に誘われて武田と共に遊びに行く 本当にのんびりした。日曜だ 一ヵ年と三ヶ月ぶりに床屋に行った 中隊で床の上で顔を剃るよりもはるかに心持ちよい
「一つ軍人は質素を旨とすべし」主旨に反するが 時には良いからね。顔至晴れ晴れとして街も輝いて見える そして行ったところはモダン 午後二時から五時十五分まで遊んだ 気の利いた女給はいないが流れ損なった腕のものだけにもてなしは悪くない 榊原の奴さんには閉口した。青柳に身を置いたり尖端ガールの唄に心を取られたりして―楽しい一日は終わった 後五分で営倉に入らねばならない時間になって帰って来た。

衛兵所では怒られるし榊原は足下も危ない位に酔っぱらって始末に負えない。帰る早々武田は寝るし益郎はあばれるし本当に男なんてつまらんものだ 僕の体は酒に強いのか弱いのかわからない 呑めば呑むほど頭はさえてくる。後期兵の○○が事故を起こし 日曜の楽しい奥さんの膝を離れて西持さんやってくる。前期兵に注意的希望ある 矢張り酒は慎むべきなり



 


軍都広島での物語

大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

エピローグ 広島から・・・・・





爆心地には、上体の雲散霧消した犠牲者の≪足だけ2本、びったりとコンクリートの路の上にはり付いて、突っ立って≫いる。また、不思議なことに≪電車の中で、娘さんが手さげをしっかり握ったまま、傷もなく、黒焦げの兵隊さんと頭をつき合わせて死んでいるのが≫発見される。しかし、爆心地の話を伝えてくれる人は、いません≫

この肺腑を貫く短章に添えられた絵は、暗い空、倒れた裸木、そしてただ荒涼たる焼け野原である。

≪浅野泉亭の池では、死体の間を、生きた鯉が泳いでいました≫

≪羽の焼けたツバメは、空を飛べなくなって、チョンチョンと地面を歩いています ≫



 




原爆初動調査 隠された真実

  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行


Ⅱ 関連部隊・支部

南京でもやっていた人体実験

血管が切ると心臓からものすごい勢いで血が・・・・

松本博

1644部隊

経歴

1926年生まれ

1943年中支那派遣軍防疫給水部栄1644部隊配属

この証言は1995年6月、8月、11月の聞き取りをまとめたもの。



内務班

私の勤務時間は昼間だけです。生活を全て内務班が基本で、昼食も内務班に食べに帰りました。当番の時はご飯と汁を炊事場まで取りに行き、配膳や片付けも時間内にやらなければなりませんでした。食事以外では7号棟で過ごし、5時頃になるとまた内務班に戻るという生活でした。

 夕食後に点呼がありました。この班は何名で、病気は何名というように週番に報告するわけです。トイレ行く時でもとにかく班から離れるときは必ず報告しなければならない。1つの班は20名ほどで、3班ほどあったのではないでしょうか。はっきりしません。お互いどんな仕事をしているかも話すことは禁じられていました。







●証言

生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)

中央档案館

中国第2歴史档案館

吉林省社会科学院編


江田憲司

兒島俊郎

古川万太郎編訳






Ⅰ東北


2 華北

3 山東


小島隆男供述書(1954年11月3日)
問:彼がその場で死亡するのを見たか。
答:服薬の15分後薬性の発作が起こり、ひどく苦しんで苦痛のあまり地面を転げ回っていたが、次第に人事不省となっていった。実験した薬が効力を発揮したのは明らかだった。この時に部隊は出発することになり、我々は村を離れたが、農民は死亡したに違いないと確信している。

 


●毒ガス戦

・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

第6章 アジア太平洋戦争期の毒ガス戦

4 毒ガス戦をめぐる 日米の確執 アメリカ軍の毒ガス戦論計画と日本軍


中国側の研究による毒ガス戦の被害者数と「教訓」


また、紀氏らは、日本は報復を恐れてアメリカ軍には毒ガスを使えなかったと指摘した上で、毒ガス戦の被害を被った中国は、「国家の安全、民族の独立は必ず自己の力量に頼り、必ず自身の強大な国防を樹立する必要があることを認識するに至った。侵略者の発動する化学戦に対処するためにも、自身の力量の基礎の上に強大な化学防御能力を発展させてこそ、相手側の化学戦発動を抑制することができるし、化学戦に於いて損失を減少させることができる。単純に国際条約あるいは国際的支援に頼るということは当てにはならないのである」とも述べている(同前)。







・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)


第7章 残虐な毒ガス戦


動かしようのない事実



陸軍第10予備師団歩兵第39連隊第1大隊

樊家山作戦毒ガス調査表

時間        (1939年)5月3日、第1次/午前3時半、第3次/午前5時

地点        南昌県葉子山、王老虎山

天気        晴、東北から西南への風、風速2m

放出方法      毒ガス擲弾筒の投擲、放射筒及び煙幕剤の使用

種類        噴嚔性

放出後の現象    薄い霧状、刺戟臭気

中毒者の症状    鼻及び喉への刺激、くしゃみ

毒ガス放出回数   3回

死傷者数      なし

救護方法      濡れタオルで口鼻をふさぐ

付記       (原文空白)




加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用









 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題








 

●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行


日本鬼子(リーベンクイズ)

逮捕

妻を拉致して夫を誘い出す

松原俊三郎

監督警尉 捜査主任

〈略歴〉

本籍地:岩手県盛岡市

出身階級:中農

学歴:尋常高等小学校高等科2年卒業

職業:鉄道労働者

所属部隊名:旧満州国斉斉哈爾(チチハル)市警察局刑事科

被捕年月日場所:1945年10月7日 旧満州国斉斉哈爾市

年齢:47歳


私が劉万全刑事に目配せすると、彼は奥の部屋に向かって、「俺たちは警察だというのに、まだわからんのか、早く開けろ」

大声で怒鳴ったが、まだ何の返事もない。

「ぐずぐずするならぶっ放すぞ・・・・日本人も来ているんだ」と言うが早いか、パンパンと拳銃が火を噴いた。2発の銃声とともに戸棚の茶碗が散った。部屋の中からは突然火のついたように赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。抵抗するなら中にぶっ放すぞ・・・手を上げて1人ずつ出てこい、命は助けてやる。中に何人いるのだ、早く言え」

中からは、「誰もいません。私と子どもだけです」という怒りに満ちた甲高い若い婦人の声がし、刑事たちの眼が一斉に私に注がれた。

 



2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 



    


    

●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


日本の毒ガス






在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。

 訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。

 米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。

 CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。

 今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。


CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

- 731 部隊関連資料の情報公開裁判の傍聴支援をお願いします ー 

5 人の証人(防衛省職員)が認められ以下の日程で証人尋問を行います。
 ・12 月 20 日(月)午後 2 時
 ・1 月 14 日(金)午後?時
 ・1 月 24 日(月)午後?時
■ 第 20 回『化学学校記事』情報公開裁判:11 月 10 日(水)11 時~703 号法廷


◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する

情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。

連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp


日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

            藤井治夫著

第3章 秘密保全の機構と体制

2 軍事警察とスパイ機関

警務隊と調査隊  

ただし、MSA秘密保護法違反の犯罪については、自衛隊の使用する船舶、庁舎、営舎その他の施設内における現行犯人だけが警務隊による捜査の対象となり、その他は警察にゆだねられる(自衛隊法施行令第110条)。警務隊員は下士官以上を警務官と称し司法警察員と同格、兵士クラスは警務官補と呼ばれ司法巡査と同じである。旧憲兵の場合も「将校、准士官及下士」は司法警官、憲兵卒は司法警察吏とされていた(旧刑訴法第248条)。              こうして、警務隊は隊外の者にたしても逮捕、押収、捜索を含め捜査に必要な取調べをなしうるのである(事前に防衛庁長官の承認を要する)。自衛隊の秘密を取材したり、隊員に反軍・反戦闘争を呼びかける者にたいして警務隊はつねに監視の眼を光らせている。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊



 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。


「化学学校記事」

『BC兵器』 久保綾三著(1969年)

2、ベトナムにおける生物・化学兵器使用とその背景

ベトナム戦争で毒ガス使用

以下同書を参考してみよう。

南ベトナムに装備されたのは催涙ガスCN(クロルアセトフェノン)、それから新型の超催涙ガスCS(クロルベンジルマロノニトリル)であった。3番目はものは嘔吐ガスDM(アダムサイト)であった。国防総省の新しい教範(教科書)では、DMは暴徒鎮圧用になっているが、従来は戦用ガスとして使用されてきたものであった。

 64年11月2日、サイゴンでの仏教徒のデモで、初めて南ベトナム軍は、CS、CNを使用した。

 その翌月、解放戦線に対して南ベトナム軍がDM、CS、CNを使用した。このあとは、もう際限もなく毒ガスが使用されていくのである。




 


 

 ●昭和天皇の戦争責任を問う!!


天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。


 


 



●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
  

     



4部 内省なきその人生

1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

 

第十七章  静穏な晩年と昭和の遺産

自民党政権による教育の国家統制の強化、一方的な愛国心の高揚政策も不信感を煽った。1950年代なかばに、文部省は革新的な日本教職員組合の影響力を弱めようとし、教育委員の公選制を廃止した。後者に加え、文部省は教科書の検定制度を導入し、そのことで「2重基準」の恒久化が容易になった。教科書検定は1956年から58年にかけて実施され、日本の侵略的なアジア植民地化と戦争とを軽く扱わせることになった。文部省はまた、法的根拠がないにもかかわらず、戦前の帝国に密接に結びつく「日の丸」の掲揚と「君が代」の斉唱を学校に指示するようになった(最終的に1999年、法制化された)。


  

 

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


RENUNCIATION OF WAR Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!


※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

4、自動車社会の排ガス

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?





● 核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

地球を破壊する核爆発・核実験

年月日          名称(実験名)            核出力 (kt)     実施国 重要性
1945年7月16日 ガジェット(トリニティ実験) 19 アメリカ合衆国 人類史上初の原子爆弾実験
1945年8月6日 リトルボーイ 15 アメリカ合衆国 人類史上最初の実戦使用(広島市への原子爆弾投下)
1945年8月9日 ファットマン 21 アメリカ合衆国 直近の実戦使用(長崎市への原子爆弾投下)
1949年8月29日 RDS-1(ジョー1) 22 ソビエト連邦 ソビエト連邦による初の原子爆弾
1952年10月3日 ハリケーン 25 イギリス イギリスによる初の原子爆弾
1952年11月1日 アイビー マイク 10,400 アメリカ合衆国 人類史上初の多段階熱核反応兵器実験(非実用兵器)
1953年8月12日 RDS-6(ジョー4) 400 ソビエト連邦 ソビエト連邦による初の水爆(非多段階、実用兵器)

 「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】




●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future




●核融合もすべきではない!!

核開発に反対する物理研究者の会通信
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について



なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!

       

      

原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。

封印された原爆報告書




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した













           

JCOの臨界事故


福島第1原発事故

核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病


731部隊(unit731)
昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!















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