2021年2月25日木曜日

細菌戦の系譜!!

 


中国侵略戦争

細菌(生物)戦争
『BCGと人体実験』 美馬聡昭著

731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
防疫研究室と昭和天皇の関係
1940年と2020年の東京オリンピック
731部隊と国立感染症研究所の問題
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会

細菌(生物)戦争

米中の生物兵器開発?

20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」





『化学学校記事』 情報公開裁判(第17回)
3月3日(水)11時~
「703号法廷」東京地裁民事3部
これまで防衛省は 『化学学校記事』 1号~12号 (1967年) までの発行は認めたが、 私たちが入手し提出した「16号」(1970年)について頑なに発行を認めませんでした。しかし19年末「16号」関係者の証言が得られたとしてやっと「16号」の発行を認めました。また、発行元が「大宮化学学校修親会」 と記されている事から「他団体の発行で関係ない」「1冊も保管していない」 と主張しています。 現在 「16号」 関係者の詳細証言と何年、 何号まで発行していたのかを追及しています。
 周知のとおり戦前の日本軍は、毒ガス・生物兵器を実戦使用し多数の軍民に残虐な被害を与えました。 旧軍を引き継いで発足した自衛隊も発足直後から秘密裏に化学兵器を所持、 研究していますが、現在ではCBRN(化学兵器・生物兵器・放射線・核)攻撃への防護のためと称して、研究・演習を行っています。
政府・防衛省の隠蔽体質は民主主義の否定、更に戦争への道にも通じる危険なものです。
全資料公開に向けて皆さまの支援、 傍聴をお願いします。

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会・第4回

「731部隊被害者遺族を訪ねて」

日 時:2021年3月22日(月)18:30~

お話:大谷 猛夫さん

オンライン中継(zoomによる)

主催:731ネットワーク

 731部隊で人体実験された被害者は一人も生き残っていません。人体実験で殺され、敗戦間際に731部隊に収容されていた人たちは皆、殺されてしまったからです。それでも人体実験に供するために捕まえた憲兵隊の記録は残っています。そこから戦後になって被害者遺族が自分の親や親族が731部隊に連行され、無残に殺害された事実を知ります。これまで731部隊被害者遺族のうち、敬蘭芝さん、王亦兵さんが原告になり、日本政府を訴えた訴訟については、学習してきました(連続講座の1~3回)。この裁判の過程で、日本の市民運動のなかで、裁判支援の動きがおこり、被害者遺族が来日の際、市民集会を開くなど日本人に731部隊の事実を弘知ってもらう機会をつくってきました。そして、原告になった方以外にも731部隊の被害者遺族と出会う機会がありました。

 2012年秋に牡丹江・鶏西をたずね、被害者遺族と会いました。また裁判終了後も731記念館の協力で被害者遺族をお呼びし、市民集会を開いてきました。そんな遺族の紹介をしたいと思います。


曽漢卿さん。お父さんが憲兵隊に捕まり、731部隊に連行されました。

 

大谷猛夫さん

中国人戦争被害者の要求を支える会の事務局長を長く続けてきました。裁判終了後もその被害者とその遺族の要求を実現するために運動を続けています。

 

※zoomによるオンライン講演なので、申し込みは100名で締め切らせて頂きます。

18:30~19:30 講演(講演中はミュートでお願いします)

19:30~20:00 質疑応答(場合によっては質問はチャットでお願いするかもしれません)

 連絡先・申し込み E-mail : nobu51@jcom.zaq.ne.jp(五井)









原告たちのあまりに理不尽な被害

JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

       昭和への挽歌   野崎忠郎

軍人恩給はあるのに、慰安婦には恩給がない!!

MYさん(城田すず子)は、1957年秋、ベテスダ奉仕女母の家に転がり込んだ。実家のパン屋が破産して16歳で売られ、国内外を転々とした末に更生の道を見つけたが、再転落しそうだとのこと。いずみ寮開設までの5か月間、軽井沢の古い家に奉仕女と住まわせていた。いずみ寮入所後の1958年11月、脊椎骨折で倒れ、絶対安静の病床で、小コロニーの第一歩としてのパン工場建設を夢見ながら自らの半生を口述した。扉に「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」という聖句が書かれている。

この本のあとがきには次のような彼女の言葉が載っている。

「兵隊さんや民間人のことは各地で祀られるけれど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄ばれて、足手まといになると、放り出され、荒野をさまよい、凍り付く原野で飢え、野犬や狼の餌になり、土にかえったのです。

軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦はちがっても、特殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。兵隊用は一回五〇銭か一円の切符で行列をつくり、女は女は洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ、なんど兵隊の首を絞めようと思ったことか。半狂乱でした。死ねばジャングルの穴に放り込まれ、親元に知らせるすべもない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を・・・」




      「噫(ああ) 従軍慰安婦」石碑

1965(昭和40)年、深津文雄牧師は、社会から見捨てられた女性たちが一生安心して暮らせる婦人保護施設「かにた婦人の村」(かにた村)を設立した。

1984(昭和59)年、一人の寮生が自ら従軍慰安婦体験を牧師に告白する。この告白「石のさけび」を受けて、施設内にある小高い丘に1本のヒノキの柱を建てたのは「戦後40年」のことだった。翌年そこには、「噫従軍慰安婦」と刻まれた石碑が痕隆された。

「韓国挺身隊問題対策協議会」の代表ユン・ジョンオクさんは、1980(昭和55)年より、北海道・沖縄・タイ・ラバウルの朝鮮人慰安婦の足跡を訪ね、1988(昭和63)年8月の来日の際にこの石碑を訪れた。

これが、韓国KBSテレビによるドキュメンタリー番組『太平洋戦争の魂~従軍慰安婦』の制作を生み、韓国内はもちろん諸外国にも大きな世論を巻き起こしていった。

戦争責任があいまいなまま半世紀以上が過ぎ、現在もなお、従軍慰安婦問題はアジア各国を巻き込む論争となっている。この石碑を通じて、地域から世界を見ることができる。
(安房文化遺産フォーラムの記事より)













自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。


731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回

731部隊と人権ー裁判から考える

お話:南典男さん(弁護士)

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回







パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
      医学と人権を考える―

『従軍日記』 小津安二郎

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!           





※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!


  新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】

1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された

    歴史改ざん(「風を読む」)


     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルス。これは、細菌戦(生物戦)ではないのか?
過去に、日本が中国で行なった細菌戦のように。(以下は現在分かっている細菌戦)

 日本政府・日本医学界が、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に立ち向かわない限り、オリンピック開催はないであろう。

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置



10分で学びなおす 「731部隊」より(『週刊現代』より)











 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。


NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日


 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

 







 1929(昭和4)年 実験医学雑誌第13巻雑報


雑報

◎黒屋博士近況

佐藤教授に宛てた私信であるが同教援の承諾を得て、ここに掲載することにする。

 

佐藤秀三先生

          黒屋政彦

10月17日夜       

兎に角今の内は練習ばかりで雑誌を一寸も読まないので少し馬鹿になったような気がします。

研究所の連中は皆若いですが、やはり割合に本を読まない様です。(もっとも家で読んでいるかもしれませんが判りません。)

教授1人が本を読んで1日に3度か4度くらい来て仕事をしている連中と議論したりその後の経過を聞いたりして行きます。皆全部教授のテーマでやっているので自分の考えでやっているものはない様に見えます。


 

  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

   

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。


3部

 

第1審判決に対する中国の各界の支援の声


3章 浙江省支援者から

 

731細菌戦裁判報道記録

 

陳江苹(金華テレビ局記者)

 細菌兵器は国際法に違反する非人道的な戦争行為で、今まで世界の平和と安全を脅かしてきました。日本は今の所、細菌戦の実戦を行った事実が立証された唯一の国ですが、日本政府は細菌戦に対する責任追及から何度も逃れてきました。日本人の内聡明な人たちは、自国が再び戦争の道を歩まない様協力し、日本政府の反省を社会に対して呼びかけています。

  731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われて

いるのではないか?

     731部隊の行なった細菌戦

 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

四月二一日

 前の土手にいつの間にか芽を出したスミレが 春の陽の中で処女の様に大きな息づかいを見せつつ つつましやかに下向きにこぼれる様な紫色に咲き出している。

 夏になれば憎らしいような雑草も 今では非常に懐かしく見られる。隣のニワトリが餌をあさりつつ

子供がトンボを追いかけて どこまでも知らずにゆくように迷っていた。

杏の花が心をそそる様なふくらみをおしげもなく雨に光りつつ小さく揺れている本当に春は心地がよい






大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 

 







挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

Ⅲ モラリストの広島

 狷介な孤独癖の持主で同室の患者たちとも口をききたがらなかったという、この老人の、その後の消息、彼が今尚≪生き恥をさらした≫屈辱感と、核実験への不燃焼な怒りの蓄積とともに生き続けているのかどうかについてもまた、この夏、僕が広島で会った人達の誰一人知らなかった。はっきりしていたことは、ただ、老人が割腹に際して準備した9通の抗議書は全て。米、ソ大使館はじめ、あらゆる抗議先で無視されたという事実のみであった。

 

 


唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!

  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行


Ⅰ 731部隊


731部隊破壊と証拠隠滅作業

ロ号棟に書かれた血文字が一生忘れられない

 

篠原鶴男(しのはらつるお)

731部隊・教育部

〈略歴〉

1926年生まれ
1945年5月 731部隊入隊(教育部に所属)第8分隊
1945年8月 帰国
■この証言は鹿児島731部隊展(1994年1月)の『報告集』をもとに本人がまとめたも

 

部隊での生活

 そこへ、ハルピンから週に何回か幌の付いた車が“マルタ”を連れてきたわけです。そしてペスト、コレラ、チフス、梅毒などの生菌を注射するのだと、私は教官から聞きました。

 私達はまだ監獄の中には入れない身分だったので、中の様子は人から聞くのみでした。そこで上官に話をせがみますと、次のようなことを話してくれたのを覚えています。

「解剖室に入る時は、まず薄いゴムの上下、自動車整備工のようなつなぎ服を着る。解剖室のドアを開けると、上から消毒液が霧のように降りかかってくる。それから中に入って解剖を行う」


 

 『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』


中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳


六 第731部隊の各支隊


1 関東軍第100部隊

 

問:馬政局第3科長だったとき、100部隊に対してどのような援助を行ったか。

答:関東軍の命令により、家畜に伝染病が発生した時、速やかに関東軍獣医部、各地の日本軍、「満洲国」軍及びその他の畜産獣医技術機関に通知しなければならなかった。1932年8月から362月、甘南県、嫩江県、孫呉、洮南県、ハルピン郊外、延吉県などの各地で馬の炭疽伝染病が発生したが、私はこれらの事を直ちに関東軍獣医部に知らせた。関東軍獣医部もまた高島、並河部隊に連絡し、部隊は技術員を現地に派遣し、調査のうえ病原菌を採集並びに保存し、細菌戦の研究に用いたのである。



●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

4章

毒ガス使用禁止をめぐる国際的な動向と日本軍の対応

 

2, 日本陸軍初の毒ガス戦  台湾霧社事件

 

日本軍初の実戦使用

 その後、台湾軍は、先住民の抵抗を徹底的に弾圧し、蜂起を鎮圧した。霧社事件で毒ガスが使われたのではないかとの噂は次第に台湾の人々の間に広まり、新聞でも報道された。この問題は日本の国会でも論争になり、1931年1月24日の衆議院本会議で浅原健三議員(全国大衆党)は宇垣一成陸軍大臣に対して、霧社事件では機関銃・飛行機・毒ガスなどの「惨酷なる討伐方法」をなぜ採用したのか、陸軍は「演習で為されない経験を今回の討伐に御使いになった」と質したが、宇垣陸相は「有毒の致命的の害を与える毒瓦斯は使って居ませぬ」と答弁し、議場から「毒瓦斯はどうか」「新聞に書いてあるではないか」とのヤジが飛ぶと、「毒瓦斯は使って居りませぬ」「新聞に書いてあることは知りませぬ」と反論している(春山明哲「昭和政治史における霧社蜂起事件」載國煇編『台湾霧社蜂起事件ー研究と資料―』)。

 



 


 ・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)




 

2章 地図から消えた神秘の大久野島

 最初の毒ガス被害者


「被害者」はまた「加害者」でもある

付記・「毒ガス島」を訪れる


記録2 村上初一館長と「毒ガス資料館」

私達は自国で作った毒ガスによる被害者ですが、事実ははっきりと日本が第2次世界大戦で、具体的にいえばあの15戦争の時代に中国の戦場で化学戦を行なったことが証明され、毒ガスを製造した私達も戦争の加害者なのですから私達はここで深刻に反省をしないわけにはいかないのです・・・・」











 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題







 

●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

 

汚された泉

井戸へ放り込み惨殺

杉本千代吉(すぎもとちよきち)

大尉

〈略歴〉

学歴 中学高卒業

旧部隊名 第59師団第54旅団第45大隊

出身県 静岡県

年齢 38歳(1919年生まれ)

 

「・・・」訳の分からないことを口にした農民は、よろめきながら節くれだった大きな手を広げて2,3歩私の方へにじりよった。夕日を浴びるその手のひらは、部厚い皮膚で覆われ、長年土と親しみ辛苦の深いしわが刻み込まれていた。

≪何だこの野郎、俺が新参だと思ってなめたか≫内心無性に腹が立った。しかし山東に来てわずか半年余り、どうしていいのか私はあわてて中隊長を見た。

そんなことは百も承知だ・・・・。無表情で煙草をふかす山野の窪んだ眼が、農民の体を蛇のように嘗め回しているのに気が付いて、土臭いこの農民の前でうろたえる自分がたまらなく恥ずかしかった。

 


2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 



●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


日本の毒ガス


在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。

 訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。

 米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。

 CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。

 今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。


CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?


『化学学校記事』 情報公開裁判(第17回)

3月3日(水)11時

「703法廷」東京地裁民事3部

これまで防衛省は 『化学学校記事』 1号~12号 (1967年) までの発行は認めたが、 私たちが入手し提出した「16号」(1970年)について頑なに発行を認めませんでした。しかし19年末「16号」関係者の証言が得られたとしてやっと「16号」の発行を認めました。また、発行元が「大宮化学学校修親会」 と記されている事から「他団体の発行で関係ない」「1冊も保管していない」 と主張しています。 現在 「16号」 関係者の詳細証言と何年、 何号まで発行していたのかを追及しています。

 周知のとおり戦前の日本軍は、毒ガス・生物兵器を実戦使用し多数の軍民に残虐な被害を与えました。 旧軍を引き継いで発足した自衛隊も発足直後から秘密裏に化学兵器を所持、 研究していますが、現在ではCBRN(化学兵器・生物兵器・放射線・核)攻撃への防護のためと称して、研究・演習を行っています。

政府・防衛省の隠蔽体質は民主主義の否定、更に戦争への道にも通じる危険なものです。

全資料公開に向けて皆さまの支援、 傍聴をお願いします。


●「衛生学校記事」情報公開裁判 423日(金)14:00~103号法廷

◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する

情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。

連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp


自衛隊におけるCBRN対応
         長岡大学教授  兒島 俊郎

3 陸上自衛隊内部におけるCBRN研究

2)化学兵器関係資料

そこでまず本資料の内容から見ていこう。本資料もレジメ的性格なものではあるが、その部分も2つに分かれている。その最初のレジメ部分の項目である。

 

3節 部隊安全

1、要旨 2、持久的被害 3、風下の被害 4、防護手段 5、安全時間 6、安全距離データ

 

 第1節の「化学目標分析」の「1、概説」では、まず化学部隊が支援する部隊が持つ基本的な作戦計画と化学部隊の火力の把握・確認があり、その上で化学攻撃の目的を明確にし、対象の特性を把握した後、攻撃の可能性を分析し、最後にそこから評価と結論を導くという、化学攻撃部隊幕僚の基本的任務が記述されている。

 

 





1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊



 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。

4、日本本土も汚されている

Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦

1、自衛隊の装備・訓練を探る

不戦屈敵戦略

 

まず第1は、後に指摘する様に「公害調査」という見せかけの“支援協力”が実は最も非人道的な細菌・毒ガス作戦の総合演習にほかならないということであろう。

 そして第2には、自衛隊の生物・化学作戦の実態が想像以上に進歩しているということが明らかにされたことであろう。

 さらに重要なことは、自衛隊の生物・化学兵器による作戦訓練は機動隊の催涙ガス弾訓練のそれとは全然別の意味をもってくることである。自衛隊の基本戦略が「不戦屈敵戦略」(抑止戦略)を建前としていることから、核兵器の製造と保有を認められない自衛隊は、生物・化学兵器の開発と装備に、異状な熱意を持ち続けていることを裏付けることになるからである。

 



 


 

 ●昭和天皇の戦争責任を問う!!


天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。


 


 



●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

 


※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
  

     



4部 内省なきその人生

1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

 

第十四章  創り直された君主制

 1946129日、マッカーサーは、新たに設置された極東委員会の何人かの委員と東京の彼の執務室で会見し、天皇の地位に関する質問に答えた。その後、2月1日に『毎日新聞』は、国務大臣の松本烝治と彼の委員会〔憲法問題調査委員会〕が作成した日本政府の憲法草案を公表した。同じ日、松本草案の英訳文がマッカーサーの手元に届いた。天皇の地位については、何ら変更が加えられていなかったのを見て、マッカーサーは幣原内閣には民主的な憲法を作成する能力がないと正確に判断した。もし彼自身が、極東委員会の第1回目公式会議(226日に開催が予定されていた)を前にして迅速な行動に出ていなかったならば、憲法改正の主導権は彼の手を離れていたであろうし、君主制の維持についても、日本の君主に敵意を抱く諸外国によって危険にさらされていたかもしれない。



 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!


※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

4、自動車社会の排ガス

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

 

 

 

●核実験(ウキペディアより)

若くして白血病で亡くなった夏目雅子、本田美奈子、また五輪候補選手だったスイマーが白血病になったのは、放射能の影響ではないのか?

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子

核実験(かくじっけん,英語:Nuclear weapons testing)とは、核爆弾の新たな開発や性能維持を確認したり、維持技術を確立したりするために、実験的に核爆弾を爆発させることを指す。1945年から約半世紀の間に2379回(その内大気圏内は502回)の核実験が各国で行われた。そのエネルギーはTNT換算で530メガトン(大気圏内は440メガトン)でこれは広島へ投下されたリトルボーイ3万5千発以上に相当する。

歴史上重要な核実験

核爆発を起こすために大規模な機器に取り囲まれているような初期の実験用核爆弾は、実用的な兵器とは言えない。「多段階/非多段階」は、それがいわゆるTeller-Ulam構成の“本当の”水素爆弾か単に増幅核分裂兵器の形態であったかどうかを意味する。

なお、ツァーリ・ボンバ1998年のインドとパキスタンによる実験の核出力のように、いくつかの核実験の正確な核出力の推定は、専門家との間で論争となっている。

核実験は、軍事的・科学的な実験に留まるものではなく、政治的なプロパガンダの役割を果たす場合も少なくない。


 

 

 

 

 




●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future




●核融合もすべきではない!!
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について






なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!

       

      

原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。

封印された原爆報告書




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が
被爆した!!
















 

           

JCOの臨界事故


福島第1原発事故

核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病


731部隊(unit731)
昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!


生物・化学兵器の効果についての報告書(大要) 1969年7月2日(国連:ウ・タント事務総長)

生物・化学兵器の効果についての報告書(大要)
 1969年7月2日(国連:ウ・タント事務総長) 



1、この数十年間の科学と技術の進歩は生物・化学兵器の使用の可能性を高め、これを使用すれば、従来の戦争がもたらす以上の大規模な損害を与えることが出来ると考えられるまでになったことは、今日における脅威である。化学兵器の使用についての我々の知識は、ほとんど第1次世界大戦での経験によるものである。毒ガス兵器は1914年に初めて使用され、1915年の大規模なガス兵器による攻撃で5000人の人命が失われた。以来、1918年の終戦までの間に、少なくとも12万5000トンにのぼる有機化学薬品が使用されたとみられ、公式報告によれば、その被害は1300万人を越え、うち10万人が生命を失った。当時使用された薬品は今日使用できるものに比べ、はるかに毒性が弱く、神経性のものについては特に弱かった。更に毒ガスは比較的単純な戦場の概念に従って、今日に比べると原始的ともいえる道具によって散布されたのだった。 

 1、敵を殺すのではなく、その戦闘能力を減ずることを目的とした化学薬品を開発するため、かなりの努力がなされていることも事実である。こうした薬品は騒乱を沈め、暴動を鎮圧するために多数の国の政府が使用している。しかし、これが戦争に使用された場合は、他の攻撃手段の補助として使用されることは必至であろうし、両者は相まって致命的な効果を持つことになるだろう。 新発見により脅威増大 

1、新しく、より毒性の強い化合物の発見と製造によって、化学兵器の脅威は今日では、より大きなものとなっている。一方、細菌は天然に存在し、戦争に用いるために選び出すことができる。こうした細菌のうちの一部、とりわけバクテリアは数十年前から知られている。しかし、その他にも、最近発見されたばかりのウィルスなど数知れない材料があり、そのうちのいくつかは、やはり戦争で使用され得る特徴を持っている。このような数多くのタイプの細菌の潜在的な力の増加は、微生物遺伝子、実験病理学、空中生物学における科学的、技術的進歩によってもたらされたものである。 

1、生物・化学戦争の問題についての関心が再び高まったことは簡単に認めることが出来る。化学及び生物学の進歩は人類の幸福に貢献する半面、生物・化学兵器開発の可能性への道を開いた。これらの兵器は人類の将来を危うくすることが可能であり、数多くの国々がその開発、完成、製造、貯蔵を推進する限り、危険な状況は続くだろう。

 1、特に生物兵器の特筆すべき性質は、ある環境の下では、その効果が予測できないほどのものになるという可能性にある。環境及び気象条件、あるいは使用された細菌の種類によって、その効果は壊滅的なものにもなるし、取るに足らないものともなる。それは局地的なものとも、広範囲なものともなるだろう。生物兵器による攻撃を受けた軍隊が同種類の兵器で仕返しをしようとしまいと、攻撃をかけられた側ばかりでなく、先に使用した側にも影響を及ぼすことになろう。一般市民は軍隊以上の被害すら受けることになるだろう。生物・化学兵器の開発、入手、配置は防護問題は別としても、国によって差はあるが、経済的な負担となる。生物・化学兵器を手にしても、他の兵器の必要性をなくすことはできそうもないのである。 防御や治療の方法なし 1、自然の伝染病が最新の医学的対策によってその流行を抑えようとしても、予測できないほど蔓延し、発生源からはるかに離れた地域にまで広まることを思い起こすだけで、細菌戦争がもたらす危険は十分理解できよう。もし軍事上の理由から病原体を蔓延させるような努力がなされるならば、事態は一層困難になるだろう。この兵器による攻撃、特に一般市民に対する攻撃があればそ、病気の大量発生が考えられる。危険に対するタイムリーな警告がない為ばかりではなく、効果的な防御手段や治療法が存在しないか、あるいは適当な規模で実施することが出来ないためである。 1、この種の戦争への道がひとたび開かれると、必ずやエスカレーションが起こり、とどまるところを知らないであろう。従って、生物・化学兵器の存在は国際間の緊張を生むばかりでなく、いかなる国の安全にも寄与することなく軍備競争に拍車をかけることになるものと本報告書は結論する。 自然のバランス崩す 1、すべての兵器は人の生命を破壊するが、生物・化学兵器は、その効果を生き物だけに対して発揮する兵器の部類に属する。生物兵器が故意に病気をまき散らすために使用できるという考えは、人々に恐怖の念を生じさせる。ある種の化学薬品や細菌は場所と時を問わず、その潜在的な力が無限であるという事実、また、それらを大規模に使用すると、自然のバランスに有害かつ取り返しのつかない影響をもたらし得るという事実はこの種の兵器の存在によって生じる不安の念と緊張感を増大させる。これらの点を考慮すると、現在続いている軍備競争に関しては、これらの兵器は独自のカテゴリーに属する。 

1、今回の調査によれば、化学薬品や細菌などの数だけでなく、それらの毒性、効果の多様性の点で、生物・化学兵器の武器開発の可能性は近年かなり強まっている。一方、化学兵器が市民の騒乱規制に用いるために開発されている。また農産物の増産のためにも開発されている。これらの物質が他の化学薬品より毒性が少ないとしても、民間で間違った考えのもとに使われたり、あるいは軍事目的のもとに使用されれば、非常に危険なものとなるだろう。 他方、兵器として使用され得る一部の化学薬品は、今まで知られた中で最も致命的な毒薬なのである。一定の環境の下では、ある化学薬品が効果を発揮する地域を地理的に厳密に限ることも可能だろう。だが、条件が違えば、ある種の生物・化学兵器は、目的地域をはるかに越えてその力を発揮してしまうかもしれない。これらの物質、特に生物兵器の方がどのくらい持続し、広がり、更にどのような変化をもたらすかについて予測することはできない。 はかり知れぬ国の費用 1、さらに、生物・化学兵器は他の兵器の安価な代用品ではない。これらの兵器の開発、生産、貯蔵によって国の費用は増えることになる。その費用は、もちろん正確に見積もることはできない。それはその国の工業力によるだろう。一部の国はその費用に耐えられるかもしれないが、実験や運搬手段の開発に振り向けなければならない財源を考慮すれば、どうしても耐えることのできない国もあろう。しかも、世界で最も富んだ国でも、費用をどれほどかけようとも、防御態勢を完全に確保することはできないだろう。 

1、生物・化学兵器は、その力の規模、持続期間の何れについても、その多様さを予測できないものであり、更に、これらに対する確実な防御措置をとることはできないのであるから、こうした兵器を世界中からなくすことは、どの国の安全をも損なうことにはならないであろう。如何なる生物・化学兵器も、ひとたび戦争で使用されると、同種の、より危険な兵器や、他の大量殺りく兵器の使用という深刻なエスカレーションの危険が出てくるだろう。端的に言えば、生物・化学兵器と、それに対する防御手段の開発は、必ずしもそれに見合う安全保障の利点を伴うことなく、経済的な負担となる。 環境への影響予測不能 1、この報告の総括的な結論は数行に要約することができる。即ち、もしこのような兵器が戦争で大規模に使用されるならば、その力がいつまで持続するか、また、それらが我々の生活している社会構造や環境にどんな影響を与えるかは誰も予測することが出来ないということである。この圧倒的な危険は、これらの兵器を先に使用した国にも、攻撃された国にも同じように伴うであろう。その危険は、その国が攻撃能力の開発と並行していかなる防御手段を講じたかどうかに関係がないだろう。費用がかさむことがはっきりしているにも関わらず、どの国でもこの種の戦争の能力を何とかして開発し、獲得できるということからも、特殊な危険性が生じている。この種の兵器が急増する危険性は先進国同様、低開発国にもあるのである。 1、これらの兵器の生産が効果的かつ無条件に禁止されたならば軍備競争の勢いは明らかに弱まるであろう。多数の人命を奪うこうした兵器の使用は、1925年のジュネーブ議定書、最近では国連総会の決議など国際的な合意によって既に非難され、禁じられている。もし、戦争を目的とした化学薬品、細菌の開発、製造、貯蔵がなくなり、すべての兵器庫からそうしたものが消えうせれば効果的な国際管理のもとでの一般完全軍縮、ひいては世界平和への展望は大いに明るいものとなろう。 1、以上のことが実現すれば、国際的な不安や緊張は全般的に弱まるだろう。この報告によって、これらの兵器が使用された場合のきけんな結果が一般に知られ、目覚めた民衆が各国政府に対し早急に生物・化学兵器をなくすよう活動することを求め、その保証を得ることが、この報告書を書いた人たちの願いである。 (1969年7月5日 朝日新聞)

昭和への挽歌   野崎忠郎

 昭和への挽歌



                                            野崎忠郎

(一) 父の原像

見渡す限り短い草が生えた平原で、地平線まで樹木は一本も見えなかった。やや離れたところに粗末な家が十数軒かたまって建っていた。マンジン(満州人)部落である。母をはさんで姉と私とが三人横並びに立ち、母はまだ赤ん坊の弟を抱いていた。私達が立っていたのは、私達の家の庭だった。家はレンガ造りで屋根にはオンドルの煙突が立ち、遠くに見える集落の粗末な家とは全く違っていた。庭には花畑があった。そこは、731部隊に勤める軍医の官舎だった。

私達の前には父が立っていた。父は軍服を着て戦闘帽をかぶり、革の長靴を履いて腰には軍刀を下げていた。父の前に黒い豚の死体がひとつ転がっていた。豚の死体の横に、小柄な男が一人土の上に正座していた。マンジンだった。父は右手に拳銃を持ち、銃口を男の頭に向け、指を引き金にあてていた。男は両手を上にあげて何事かを喚き、それから土に額をつけてひれ伏し、父に向って詫びていた。男は大声で泣いていた。父がマンジンに言っていることの意味が、私には理解できた。

「いいか。お前たちが放し飼いにしている豚が、何度となく俺の庭にはいってきて花畑を荒らした。俺はお前たちに何度も警告したが、お前たちは豚の放し飼いを止めなかった。だから俺はお前たちの豚を殺した。いいか!今度お前たちの豚が俺の花畑を荒らしたら、俺はお前を撃ち殺すぞ!」

男は再び両手を上げて何事かを喚き、それから泣きながら父の前にひれ伏して体を震わせていた。

私は弟を抱いた母と姉との三人で、父の後ろに立ってその光景を眺めていた。おそらく私が四歳の時の記憶だ。けれど私には人が人に銃を向けていることの意味が分からなかった。

その時私が見た光景が、私にとっての父の原像である。

その後父は戦場に去り、私達は内地に引き上げたから、父と共に暮らすようになったのは敗戦の年の秋に父が復員してからだった、私はその時小学校にはいっていた。幼少年期の私の心に父の原像が浮かんでくることはなかった。けれど思春期を過ぎて青年期にはいるころから、あの、父の原像が次第に強く私の脳裏に浮かびあがるようになった。そしてその頃には、人が人に、それも全く無防備な人間に銃を向けるということの意味が、私にはわかっていた。私はその原像、というよりは私の眼前で起こっていた現実、そこに絶対者として立っていた父親をどう受け止めるべきなのか、わからなかった。父の前に出ると、あの原像の父が必ず浮かび上がり、私は父とどう向かい合ったらいいのかが分からなくなっていった。父が生活を崩したこととも重なって父と私との間の心理的距離は次第に離れ、しかもよじれて解くことが出来なくなっていった。

大学にはいるために父の元を離れた私は父との間にあった緊張の糸が切れたように転々と居場所を変え、当然のように仕送りがなくなったために大学はやめ、父にとって私は行方不明の存在になった。そんな暮らしの中で、私の中で父とあいだの心の関係が逆転した。私が高校の頃酒と薬物の地獄に沈んでいた父がそこから生還した時、今度は私が精神医療の患者になっていた。あるメンタルクリニックで丁寧な面接治療を受けていた時、私のとりとめのない話を聞いていた医師が「あなたはお父さんの前で土下座をしたいのではないんですか」と問いかけてきた。ハッとした。心の一番奥に隠していた急所にスッと触れられたように思った。私は何も答えられず、医師もそれ以上の事は言わなかった。その治療がどんな風に終わったかの記憶はないが、あの時の医師の言葉はずっと私の心に残った。

無防備の人間を銃殺する、そのことが絶対に許されないことであるのに私はそれをただ眺めるだけで阻止しようとしなかった。けれどそれは私が四歳の時のことだったから当然のことだ。けれど病的に混乱していた私の心の中では、時間や状況の断片がジクソーパズルのピースのようにバラバラになっていた。私は父の前に立ちはだかって「撃つな!どうしても撃つならマンジンの前に僕を撃て」と言って父の行動を阻止しなければならなかったはずだ。けれど現実の私は父の後ろに立ってマンジンが撃たれようとしているのをただ眺めていただけだった。あの時の父は絶対者としてマンジンと私たち家族の前に立っていたから、私がその父の前に立ちはだかることは出来なかった。その私に出来ること、それは私もまたマンジンと共に父の前で土下座をして赦しを乞うことだけだ・・・あなたはそう思い込んでいるんでしょう、その思考の混乱と心理的葛藤を乗り越えない限りあなたは今の苦しみから解放されませんよ・・・それがあの時医師が私に言っていたことだったのだ、私がそう気づいたのは医師の言葉を聞いてから十年以上過ぎ、父が自裁した後のことだった。

私は、戦争後遺症として心を病んだ父がおちいった酒と薬物の依存症から生還して私を大学に進ませてくれたにもかかわらず、それを放棄して父との縁を切ったことに強い罪悪感と劣等感を抱いていた。私は父に合わせる顔がないと思い続けていた。その罪悪感・劣等感と戦うことが、私の青春の十年間のすべてだった。けれどその十年の中でチリジリになっていたジクソーパズルのピースを拾い集めて絵を作り直していたら、その最先端に、マンジンに銃を突き付けている父の姿が浮かんできた。その時、「原罪」という言葉がふいに浮かんだ。あれが私の原罪であり、父の原罪であると思った。その原罪の光景から医師の指摘まで三十年、そしてその意味が分かるまで更に十年以上・・・「父の原像」は私の人生の最も大切な時期のすべてを、最も奥深いところで支配していた。

だがそれは、私一人だけのこと、私の父ひとりだけのことだったのだろうか。

 

 

(二)傷痍軍人

一九六五年のある日、私は東京・山の手地区にある大きな社会福祉法人を訪ねた。広い敷地には様々な施設があった。知的障害(その頃は精神薄弱と言っていた)児・者施設、児童養護施設、老人ホーム、母子寮、保育園などが軒を並べていた。近くに大学もあるその一帯は文教地区と言ってもいい住宅街だった。その中になぜ多くの福祉施設があったかというと、その広い敷地が敗戦まで兵舎のあった国有地だったからだ。赤紙をもらった召集兵はそこに集合し、各部隊に編成されて戦場へ赴いていったのだった。戦後国はその敷地に様々な福祉施設を建て、戦後処理にあてたのだろう。

そのうちのひとつ、私が訪ねたのは重度身障者施設だったのか、生活保護法による宿所提供施設だったのか、もう記憶は定かではないが、その施設は戦前に兵舎だった木造の建物をそのまま使っていた。大きな建物の真ん中に奥までまっすぐ廊下があり、両側に部屋が並んでいた。廊下に照明装置はなく、薄暗かった。「廊下の真ん中を歩くと穴が開いていて足を突っ込むので端っこを歩いて下さい」と注意された。何しろ戦前から使っている建物なのだ。その施設に収容されていたのは傷痍軍人だった。両足を失った人、両手を失った人、両眼を失明した人、中には両手、両足を失った人たちが、薄汚れたベッドの上に転がされていた。

敗戦直後、松葉杖や義足に白衣姿で街に立ち、アコーデオンやハモニカを奏しながら喜捨を乞う傷痍軍人がいたということは田舎の子供だった私も知っていた。けれど私が上京した戦後十年以上たった時には、傷痍軍人のそんな姿はもう街では見られなかった。だから傷痍軍人という言葉は私の脳裏からは消えていた。その人達に、私は不意に出会ったのだ。その驚きに、私は視線を逸らすことも声を出すことも出来なかった。ベッドの上に転がされている人達も何もしゃべらず、視線を動かすこともなかった。その人達が壊されているのは体だけでなく、心もまた壊されていることは明らかだった。その姿と心で、その人達は既に戦後二十年「生きていた」。

それよりも障害の軽い人達(といっても片手、あるいは片足をなくした人達)は、知的障害者を小間使いにして軍人恩給でタバコや酒を買いに行かせ、昼間から酒を飲みながら花札賭博にふけっているという。職員が注意すると「てめえら、誰のお陰でそうやってのうのうと飯を食って生きていられると思ってるんだ。俺達がどんな地獄をくぐってこんな体になって帰ってきたか知ってるのか。偉そうなことを抜かす前に俺の腕を返せ」とすごむので、怖くて注意も出来ないんですよ、と若い職員は言っていた。理は傷痍軍人の方にあった。

前の年には東京オリンピックがあり、日本は戦争の惨禍を乗り越え、経済大国としての道を歩み始めたことを世界に向かって高々と宣言した。そして数年後には大阪万博の開催が決まっていた。その〚繁栄〛の裏側で、傷痍軍人達はそのあとまだ数十年は続くだろう闇の人生を送ることを強いられていた。それが私達の戦後の一面だった。

          

一九七〇年頃だったと思う。私は都立松沢病院という大きな精神病院に勤務する医師から、こんな話を聞いた。「松沢に戦争で頭に大怪我をして脳に傷がついた人達がまとまって入院している病棟があってね。その病棟では気圧が変化する時期になるとざわざわ荒れだすんだ」「なぜ気圧の変化が精神症状に関係するんですか?」「ほら、例えばむかし捻挫した関節や骨折した後が天気の悪い日にはしくしく痛むことがあるでしょう。あれと同じことで、脳という一番デリケートな生理器官が気圧の変化に敏感に反応するんだな。昔から木の芽時(コノメドキ)になるとキ印の人はおかしくなるっていうけれど、木の芽時というのは春先、気圧配置が冬から春に変わる時期でしょう。その時期になると脳損傷のある人は、気圧に精神が反応するんだな」「どうするんです、そういう時には」「決め手はない。けれどその病棟が荒れた時には医者が行って軍歌を唄うと収まるんだ」

医者と精神病者が肩を組んで《貴様と俺とは同期の桜》って唄うのか、おかしいな、と若かった私はその時思っただけだった。けれどその後、私の中であの時の医師の言葉の持つ意味が変わっていった。医師や看護者は、荒れる病者を鎮めるために様々な試みをしただろう。無論鎮静剤も使っただろうがその効果も一過性のものに過ぎない現実に直面した医師が苦し紛れに病者と共に軍歌を唄った時、思いがけなく荒んだ病者の心が鎮まった、そんなことがきっかけだったのかもしれない。医師にとってそれもまたその場しのぎの一策だったとしても、病者にとってはその時医師が治療者としての上からの目線を捨て、病者と同じ目線に立って自分達の苦しみや悲しみ、湧き上がってくる戦場での恐怖や絶望を共有してくれたと感じたのではなかったか。その時、病棟は戦友会の場になった。元兵士達にとって、戦友会だけが戦場で体験した恐怖、絶望、死との直面、苦悩を語り合い、共有し、一時のカタルシスを得るたった一つの場だ。医師は病者と一緒に軍歌を唄うことで戦友会の一員になった。いっさいの医療行為が無効だと知った時、医師はその先に、人間として悲しみや絶望を共有するという境地を見出した。たとえそれもまた一時的な効果しか持たないことだとしても、それこそが、そしてそれだけが、心と体を病んだ病者にとっての唯一の治療法だということを、医師は私に教えてくれたのかもしれない。あの時松沢に入院していた人達は、おそらく生涯閉鎖病棟に閉ざされた末、ほとんどもう死んでいるだろう。あの医師も既に亡くなった。

この先私に許されている時間がどんなに短くても、私はあの医師と病者たちに教わったことを決して忘れず、可能ならばそのことを次の世代の人達に伝えることが、私にとっての最後の役割として残っていると思う。

 

(三) 従軍慰安婦

一九六〇年代初頭の数年間、私は東京・練馬にある婦人保護施設「いずみ寮」という福祉施設の職員をしていた。昭和33年3月に成立した売春防止法に基づいて建てられた施設だったが、売防法の根底にあったのは(国家が売春を公認していたのでは国際的にメンツが立たない)という恥の意識だったろう。それはともかく、私は居住棟の外に建てられた作業棟であるクリーニング工場で働いていた。入所者は女性だけの施設だったから、居住部分には施設長などの管理職以外の男性は出入りしないということが暗黙の規則になっていた。だから私はMさんとは話をしたことはもちろん、会ったこともなかった。Mさんは脊椎損傷で寝たきりで、それは梅毒菌によることだと聞いていた。Mさんは日本人だが慰安婦だった、ということも聞いていた。そのMさんが、「私がたどらされた道、経験しなければならなかったことを大勢の人に知ってもらいたい」という動機で毎日ベッドの上で自叙伝を書いていると聞いた時、私ははじめ不思議に思った。普通人間は、無残でみじめで恥ずかしい過去は隠す。慰安婦体験はそのきわみにあるといっていい。その、人間としての極北の体験のすべてを敢えてさらけ出そうとしているMさんの心が、その時の私にはわからなかった。それにたとえMさんがその手記を書ききったとしても、そんな文章を出版してくれる書房があるとも思えなかった。

昼食は寮の食堂で入所者と一緒にとった。時に同じテーブルについた人から、「私は座間のキャンプの近くで商売してたんだ」というあっけらかんとした話を聞くこともあったが、その頃の私は社会的に未熟だったからそんな話を正面から受け止めることが出来なかった。けれどその人が戦後、日本兵の為ではなく駐留米軍のためにMさんと同じ境遇に陥っていたのだということは推測できた。五十人の入所者の中には、もっと数多く日本兵、あるいは米兵の慰安婦だった人がいたかも知れなかったが、それを聞き出すことは出来なかったし、してはならないことだった。

その後「いずみ寮」を運営する法人は千葉県・館山市にもっと大きな婦人保護施設を建

てることになり、その動きからはじき出されるようにして私は「いずみ寮」を辞め、婦人保護施設とは縁が切れた。「いずみ寮」との縁が復活したのはつい最近である。そして私は、Mさんが練馬の「いずみ寮」から館山に出来た「かにた婦人の村」に移りそこで亡くなったこと、そしてかつてMさんが書いていた手記=自叙伝を法人が出版してくれて本になっていることを知った。本のタイトルは「マリヤの賛歌」といい、著者名は「城田すず子」というペンネームになっている。誕生から脊椎損傷で寝たきりになるまでを時系列に従って書かれている本の内容についてはここでは触れない。

この本の「あとがき」は、「いずみ寮」「かにた・・・」両施設の初代施設長だった深津文雄氏(故人)が書いている。その中に、城田さんが深津氏に手紙で送った言葉が書かれている。

「兵隊さんや民間人のことは各地で祀られるけれど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄ばれて、足手まといになると放り出され、荒野をさまよい、凍りつく原野で飢え、野犬か狼の餌になり、土にかえったのです。軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦はちがっても、特

殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。兵隊用は一回五〇銭か一円の切符で行列をつくり、女は洗うひまもなく相手をさせられ、なんど兵隊の首をしめようとおもったことか。半狂乱でした。死ねばジャングルの穴にほうり込まれ、親元に知らせる術もない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を・・・」

この血の叫びが創作であるはずがない。にもかかわらず城田さんの言葉が私達の戦争史、昭和史に大きく取り上げられていないのは、例えば細菌戦、毒ガス戦などの史実を隠蔽しているような厚い壁が、日本人慰安婦の史実の前にも立ちふさがっているからだろうか。

城田さんが深津氏に送った言葉には続きがある。「四〇年たっても健康回復は出来ずにいる私ですが、まだ幸いです。一年ほど前から、祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊塔を建てて下さい。それが言えるのは私だけです。」深津氏はその願いを受け入れ、資金を集め、館山の山上に元慰安婦の霊を祀る慰霊塔を建て、毎年その慰霊塔の前で慰霊祭が催されている。1986年にその慰霊塔が建って数年後、日本軍「慰安婦」にされていた韓国の女性達が次々と名乗り出るようになって、「慰安婦問題」が国際問題となり、今現在も、韓国の裁判所には日本政府に賠償を命じて日本政府の対応が問題になっているが、一方で館山の山上にある日本人元慰安婦のための慰霊塔を知っている人はどれだけいるだろうか。

広島、長崎での原爆被災の慰霊祭は全世界からの参列者を集め、終戦記念日には国家が慰霊祭を開き、靖国神社があり、千鳥ヶ淵には全戦没者のための墓苑もあり、国中から慰霊の心が参集する日本であるのに。

大阪大学大学院准教授の北村毅先生は、次のように言われている。

「沖縄末期の戦場では、沖縄の遊郭の女性、慰安婦、看護婦、軍属・軍人の女性を引き連れて、沖縄末期の戦場を逃げ回っていた将校、下士官クラスの敗残兵が多く目撃されています。これは戦後へと続くこの国の女性全体に対する扱いの問題ではないかと思います。」

沖縄には『ひめゆりの塔』がある。沖縄戦末期に看護要員として学徒動員され、戦闘の中で死亡した女性のための慰霊塔である。それはそれでいい。だが前記、北村先生の文にあるような、実質的に慰安婦とされた女性たちもまた、そのほとんどが負け戦の中で命を落としているはずだ。にもかかわらずここでもまた、彼女たちのことは歴史に記されず、慰霊・鎮魂の碑も建てられていない。彼女達もまた城田さんが言う「ジャングルの穴のほうり込まれ・・・」と同じ運命をたどり、そして歴史や記憶からさえ無視されてきた。

(四)結語

私はこの小文を「父の原像」から書き始めたが、書き終わるためにはもう一度「父の原像」に戻らなければならない。けれどここに書く父の原像は、敗戦後私たち家族のもとに帰還して以後の父の生き様が主題となる。

私の父は敗戦の年(1945)の秋に妻(私の実母)の実家のある、長野県の山村に復員した。けれどその時妻は既に肺結核で死の床に就いていた。翌年の5月、私が小学校に入った翌月、妻は死んだ。医師だった父はその農村で看護婦を雇って開業医をしていたが、その翌年、海軍病院で看護婦をしていた人と再婚、再婚相手とそれまで父の看護婦をしていた人とは同じ村の隣部落出身の幼馴染だった。父と再婚した後妻(私の継母)は、結婚してすぐ服毒自殺を図ったが、失敗して命を取り留めた。父が雇っていた看護婦の腹に父の子がはいっていたのだ。その数年後、父は別の農村に移り住んでそこの診療所長をしていたが、そこでも看護婦に手を付け、村から追放されている。父の心の中では戦後になっても、城田さんや北村准教授がいっているように、身近にいる看護婦は慰安婦だったのだ。そのために後妻を含めた三人の女性の心にぬぐうことのできない傷と屈辱を与え、そして私がまだ子供だった私達の家庭は氷のような冷え冷えとした空気の中に沈んだままだった。それが私にとって、戦後における「父の原像」であり、これもまた戦争の残した後遺症だったと言っていい。

私達が昭和の中へ置き捨ててきた負の遺産は、限りなく大きく、重い。

                                   (2021.1)

   ※「マリヤの賛歌」

       著者 城田すず子

       発行所  かにた出版部

       〒294-0031  千葉県館山市大賀594

               社会福祉法人 ベテスダ奉仕女母の家

                  かにた婦人の家

       電話   0470-22-2280

        「マリヤの賛歌」取り扱い

               かにた後援会  嶌田

           直通電話  080-4770-6985

                       Mail :  kanitakouenkai@gmail.com   

   ※「かにた婦人の村」の五十嵐逸美施設長のご了解を頂いています。

   ※文中の北村毅氏(大阪大大学院准教授)の文章の引用については、御了解をいただいています。 

   ※室田元美様著「ルポ 悼みの列島」の『「従軍慰安婦の碑」は語る』を参照させていただきました。

   ※この文章を書くにあたり、五井信治様のご指導をいただきました。 

軍人恩給はあるのに、慰安婦には恩給がない!!

MYさん(城田すず子)は、1957年秋、ベテスダ奉仕女母の家に転がり込んだ。実家のパン屋が破産して16歳で売られ、国内外を転々とした末に更生の道を見つけたが、再転落しそうだとのこと。いずみ寮開設までの5か月間、軽井沢の古い家に奉仕女と住まわせていた。いずみ寮入所後の1958年11月、脊椎骨折で倒れ、絶対安静の病床で、小コロニーの第一歩としてのパン工場建設を夢見ながら自らの半生を口述した。扉に「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」という聖句が書かれている。

この本のあとがきには次のような彼女の言葉が載っている。

「兵隊さんや民間人のことは各地で祀られるけれど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄ばれて、足手まといになると、放り出され、荒野をさまよい、凍り付く原野で飢え、野犬や狼の餌になり、土にかえったのです。

軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦はちがっても、特殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。兵隊用は一回五〇銭か一円の切符で行列をつくり、女は女は洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ、なんど兵隊の首を絞めようと思ったことか。半狂乱でした。死ねばジャングルの穴に放り込まれ、親元に知らせるすべもない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を・・・」




      「噫(ああ) 従軍慰安婦」石碑

1965(昭和40)年、深津文雄牧師は、社会から見捨てられた女性たちが一生安心して暮らせる婦人保護施設「かにた婦人の村」(かにた村)を設立した。

1984(昭和59)年、一人の寮生が自ら従軍慰安婦体験を牧師に告白する。この告白「石のさけび」を受けて、施設内にある小高い丘に1本のヒノキの柱を建てたのは「戦後40年」のことだった。翌年そこには、「噫従軍慰安婦」と刻まれた石碑が痕隆された。

「韓国挺身隊問題対策協議会」の代表ユン・ジョンオクさんは、1980(昭和55)年より、北海道・沖縄・タイ・ラバウルの朝鮮人慰安婦の足跡を訪ね、1988(昭和63)年8月の来日の際にこの石碑を訪れた。

これが、韓国KBSテレビによるドキュメンタリー番組『太平洋戦争の魂~従軍慰安婦』の制作を生み、韓国内はもちろん諸外国にも大きな世論を巻き起こしていった。

戦争責任があいまいなまま半世紀以上が過ぎ、現在もなお、従軍慰安婦問題はアジア各国を巻き込む論争となっている。この石碑を通じて、地域から世界を見ることができる。
(安房文化遺産フォーラムの記事より)

想像してごらん。戦争のない世界を。


ビキニ核被害者救済支援と731部隊

 


水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)






知らなかった「ビキニ事件」

本部のTです。
「ビキニ事件」とは1954年、アメリカが太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で実施した水爆実験に端を発する漁船やマグロの被爆事件です。あの「ゴジラ」も水爆実験の影響で生まれたことになっています。
「ビキニ事件」と言えば「第五福竜丸」、「第五福竜丸」といえば乗組員の「久保山愛吉さんが死亡」という【「ビキニ事件」「水爆実験」「第五福竜丸」「久保山愛吉さん」】というセットを残して、頭の中で風化してしまっている方も少なくないのではないでしょうか。あるいは「原爆マグロ」「原子マグロ」をそのセットに加える程度の方もおられるかもしれません。




   「原爆マグロ」は京都市の中央市場にも入荷しました。

   京都市の衛生研究所の技師がガイガーカウンターを当てて測定する。ガガガァーッと鳴って、野次馬のように見てた全員が跳んで逃げた。
水爆実験は五月まで続いたからね。五月になると、海の魚どころやない、雨が降ると日本の各地で放射能雨が測定されるようになった。「雨にあたると放射能で髪が抜ける」とか「雨にあたるとアタマがはげる」なんていわれていたのを覚えてる世代は、まだまだ多いと思うよ。(池本周三『魚仲卸を天職にした男』2017年、ふたば書房)





『民医連医療』誌 2019年3月号に、元民医連の診療所事務長の岡村啓佐さん(太平洋核被災支援センター副代表)が寄稿された「《ビキニ事件》は、終わっていない!!」を読んで、驚くこと・知らなかったことがたくさんありました。いくつか挙げておきますので、ぜひこの記事を読んでください。

  •   1954年3月1日に始まったビキニ環礁での実験は5月まで続けられたこと
  •   ビキニ事件が報道されるや、政府は「原爆症調査研究協議会」にアメリカとの協議に当たらせたが、日本側の担当者は「731部隊」関係者ばかりで、アメリカの保護・管理の下で戦犯免責された人物たちばかりであったこと。(小林六造、小島三郎、宮川正ら)
  •   小林六造は原爆傷害調査委員会(ABCC)の意向に沿って原爆被爆者の解剖や調査に協力した日本側の責任者であった
  •   「アメリカとの接触は小林六造(原爆症調査研究協議会委員長)を通じて行うものとし、個々の接触は避ける」としたこと
  •   100カウント以上の汚染マグロは廃棄するとしていた日本側の基準に対してアメリカ原子力委員会は500カウントまでは安全と主張し、日本政府はこの主張を受け入れてしまい、1954年末には廃棄処分を中止してしまったこと。(以後、内部被ばくが拡大した可能性)
  •   1955年にはアメリカの法的責任は問われず、賠償金ではなく「慰謝料」200万ドルを受け取ることで政治決着が図られたこと。
  •   ビキニ被災事件を「第五福竜丸事件」だけに矮小化し、他のマグロ漁船と1万数千人の漁船員の被災事実を隠蔽したこと(船体とマグロの被ばくだけを問題にした)
  •   「資料は残っていないし新たな調査は困難、200万ドルで解決済」と答弁してきた「ビキニ事件」について、NHKがアメリカ公文書館で資料を発見するや、政府は隠蔽してきた556隻の資料を公開(2014年)、しかし放射能魚を廃棄した船は1000隻近くになるので、公開された資料は一部にすぎない可能性があること
  •   その後日米政府はビキニ事件を反省するどころか、「原子力の平和利用」として原発を大量に日本に建設するキャンペーンを行い、建設したこと
  •   その推進役を担ったのがCIAのエージェントトリオのひとり正力松太郎であったこと(あとの二人は岸信介と児玉誉士夫)。





「ビキニ事件」はアメリカの水爆実験が端緒でしたが、実は日米両政府が、731部隊の生き残りとCIAのスパイを使って事件の真相を矮小化し・隠蔽し、日本を原発列島にしてしまい、フクシマで誰の目にも明らかな国土の喪失・原子力政策の破綻にいたるまで続いている「終わっていない!」事件であったと言わねばなりません。そしてそれに向き合わない・反省しない政府と原子力ムラ。
第五福竜丸以外に多くのマグロ漁船員が米国水爆実験で被ばくさせられた国家的犯罪を問うビキニ国賠訴訟控訴審(原告29人)は9月12日、高松高裁で結審しました。判決は12月12日の予定です。

高松高裁判決

太平洋各被災支援センター記事より

12月12日、高松高裁にて判決が言い渡されました。
裁判長は判決理由を述べることなくわずか1分足らずで「控訴棄却」という不当判決でした。
代理人弁護士の梶原氏は「揺れ動く 司法の独立 嘆きつつ 人権の砦 どこへ行く」と感想を述べました。そして「政府の資料隠しの証拠をすべて出しても認めない、見舞金の支払いで政治決着した日米合意が全ての価値に優越した判決だ。司法が政治に屈したもので、日本の三権分立の危機だ」と訴えました。
一方、一審二審においても、漁船員らの被爆の事実は認定し、「広島、長崎の原爆被爆者と同様の救済を求める心情を理解できる。救済の必要性は改めて検討されるべきだ」そして「立法府及び行政府による一層の検討に期待するほかない」と強く促した内容になっています。このことは、一審二審の裁判長もビキニ事件は救済されていない「未解決事件」だということを認めたものです。
原告が高齢化する中で国家賠償訴訟は厳しいたたかいですが、ビキニ被災者の救済のために引き続き頑張っていきたいと思います。

2019年12月12日、ビキニ核被災での国家賠償請求訴訟に対する高松控訴審判決は、「国が意図的に隠し続けた証拠がない」などとして、控訴を却下しました。しかし地裁に続き第5福竜丸以外の元マグロ船員の被ばくを認め、「長年にわたり顧みられなかった漁船員の救済の必要性については、立法府及び行政府に一層の検討を期待するほかない」と示唆しました。1審に比べて、論点整理されていますが、政府寄りの判決内容が見られます。最高裁に上告すれば、さらに厳しく救済の道を断たれる判決が出る可能性があります。

 高齢で病身の原告6名(被災船員5名、遺族1名)が提訴中に死亡し、残る被災船員のほとんどが癌などの手術後、療養中であり、出廷も困難です。一日も早い救済を実現していく上で、上告せず判決内容をいかし、船員保険法の適用による労災申請の提訴を3月に予定しました。厚生労働委員会の公開審理では船員保険部を追い詰めています。追加申請の3名に貨物船「弥彦丸」山本船医の遺族がおられ、ビキニ事件直後の船員の入院記録と「放射性物質による急性白血球減退症の疑い」の診断がされています。

 現在、弁護団づくりを準備中であり、支援組織を野党共闘なみの国会議員・県議・民主団体・漁業関係者などに参加要請中です。3月中・下旬に高知で結成、提訴、記者会見を準備します。改めて全国の支援と参加をよろしくお願いいたします。




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