2009年4月4日土曜日

満州事変

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

満州事変とリットン調査団

 1931年9月18日の夜、関東軍高級参謀の板垣征四郎や石原莞爾(かんじ)らは、瀋陽の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で南満州鉄道の線路を爆破し、それを中国東北軍(張学良軍)の仕業であるとして、近くにあった中国軍の兵営を襲撃しました。続いて戦闘を拡大し、鉄道沿線の都市を次々と攻略していきました。現地の中国軍は抵抗しましたが、国民政府は「安内情攘外(あんないじょうがい・・・国内統一、強固にしてから日本と戦う)」の方針を掲げ、さらに当時、東北軍の主力部隊は満州を離れて華北に駐留していたので、日本軍の侵略を止めることはできませんでした。5ヵ月のたたずに日本軍は満州の主要な都市と鉄道沿線を占領しました。
 満州事変発生後、中国政府は国際連盟の理事会に提訴しました。国際連盟は、イギリス人のリットンを団長とする調査団を日本と満州に派遣して調査を行ない、その報告書が1932年9月に提出されました。国際連盟の総会は、リットン報告書に基づいて、満州の主権は中国にあるので、南満州鉄道附属地外の日本軍は撤収することを求める報告を採択しました。
 日本はこの報告を受け入れず、1933年3月、国際連盟を脱退しました。

 ※リットン調査書(一部)
満州の主権は中国に属する。日本軍の軍事行動は正当なる自衛行動とは認められない。(満州国)政府の指導者は、名目上は満州人であるが、実権は日本の官僚と顧問が掌握している。現地の中国人の目には、日本人の道具になっていると映っている。

 

「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 陳光興(男、66歳)の証言

 1937年12月末には、私は山西路の莫千路五号の難民区に住まっていました。日本軍が南京に入ってきて難民区でみんなを捕まえたときに、ある兄弟2人の内の、お兄さんを日本軍が捕まえていき、弟が安心できずにお兄さんについて行こうとするのを、日本兵が突き飛ばしましたが、後で、やはりこの兄弟を捕まえていくのを、私はこの目で見ました。2,3日してお兄さんが帰ってきて言うには、日本軍が彼らを下関の江辺に連れて行ったとき、そこにはもう無数の一般庶民が捕まえられていました。やがて日本軍が機関銃を彼らの向けて猛烈に掃射し、たくさんの人が殺害されて血の海の中に倒れました。弟はその場で撃ち殺されました。お兄さんは銃をやたらと掃射されて傷つき、びっくりして昏倒してしまいました。日本軍が行ってしまって、気が付いたとき、身の周りは死体ばっかりでした。お兄さんは傷の痛みを堪えて這い上がり、難民区へ駆け戻って来たのです。
 難民区には、青年男女や老人や子どもがたくさん住まい、私たちは一番下の一階に住まっていて、ある日本兵が、若い娘を捜しに来たのを見ましたが、麻少徳という人がいて、その奥さんが日本軍に二階へ引っ張って行かれ侮辱にさらされ、その小さい子が泣き叫んでいて、本当に痛ましい限りでした。やがて、この婦女子は国際紅卍字会の華お姉さんに引き取られて行きました。(沈崇峰と王佩如が記録)(訳注:内容からして「国際安全委員会のヴォートリンさんが引き取られ」の意と思われる)。


 


 

    
「Imagine9」【合同出版】より



武器を使わせない世界


核兵器を全面禁止することこそ必要です。世界のNGOは、「核兵器禁止条約」をつくることを提案しており、国連で交渉を始めることを呼びかけています。
 生物・化学兵器は、国際条約ですでに全面禁止されています。もちろん禁止しても、隠れて開発する国や人々が出てくる可能性はあります。その時には国際機関が査察を行い、科学技術を用いて調査し、法に従って解決すべきです。

 ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もちこませない」という「非核三原則」をもっています。
 原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみを誰にも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月3日金曜日

満州事変以前の満州

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

1931年、日本が満州事変を起こして満州(中国東北地方)を占領したのは、中国侵略戦争の前奏となりました。満州事変は、どのような状況下で、どのように起こったのでしょうか。

 満州事変以前の満州

日露戦争後、日本は資源の豊富な満州を自分たちの「生命線(国が成り立つために絶対に確保しなければならない地域)」と見なすようになり、1927年6月に開かれた東方会議で「対支政策綱領」を定め、満州を中国本土から分離する強硬方針を決定しました。
 この頃、国民革命軍による北伐(国民革命軍が広東(カントン)から北上して、国民政府による中国統一を目指した革命運動)が大きく発展し、その影響が華北地方まで達すると、日本はそれが満州に及ぶことを恐れ、急いで分離計画を実行しようとしました。
 1928年6月4日、日本の関東軍高級参謀・河本大作(こうもとたいさく)は、瀋陽付近の皇姑屯(こうことん)において、当時、満州を支配していた奉天系軍閥の首領・張作霖(ちょうさくりん)を爆殺し、混乱に乗じて日本軍を動かして満州を占領しようと企てました。しかし日本の満州分離計画は失敗に終わりました。父の後を継いだ張学良が、蒋介石の率いる中国国民政府による統一を受け入れ、その支配下に入ると宣言したためです。
 張学良は鉄道の敷設、港湾の建設と拡張、貨幣の統一など中国東北地方の建設をすすめ、日本の満州支配政策に対抗しました。日本は、国民政府の支持を受けた張学良が強大化することを恐れて、彼に対して圧力を加えると同時に、秘密裏に満州占領計画を進めました。
 関東軍は、ひそかに偵察を行なって情報を集め、満州を武力で占領、併呑(へいどん)する計画を策定します。そして再び軍事行動の口実をつくろうとしました。

 ※東方会議「対支政策綱領」・・・万一、動乱が満州・蒙古に波及し、治安が乱れて同地方における日本の地位と権益が侵害される恐れがあれば、それらがどの方面から来ようとも、防ぎ守らなくてはならない・・・・機会を逃さないで適当な措置をとる覚悟が必要である。(要約)
 

「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 樊嘉瑚(男、56歳)の証言

 1937年12月には、私たち一家は上海路の難民区にいて、私は11歳でした。ある日の午後3時頃、日本兵が突然難民区を包囲して、大捜索をやり、青年の男子は1人も見過ごしにしませんでした。20歳だった上の兄の樊嘉琳も、18歳だった次の兄の嘉珊も、日本軍に捕まって行きましたが、後で家族が引き取りに行かされました。祖母と上の兄の岳母などが、年取ったのが上のを、若いのが下のをと、それぞれ取りに行き、暗くなってやっと、日本軍は私の兄2人を手放しました。その時に捕まった人がたくさんいて、何日かして難民区に逃げ帰ってきた人がいましたが、顔一面に火傷の火ぶくれがあり、その人の言うのでは、その日捕まって行った人たちは日本軍に下関の江辺まで連行され、機銃掃射されたのですが、自分は弾に当たらず、死人の累積の中に隠れ、夜間に駆け出て江辺のわらぶきの家に隠れたのを、後で、日本兵に見つかり、ガソリンをそのわらぶき小屋にまいて火をつけられたので、それで顔が焼けただれ火ぶくれがいっぱいなのでした。
 私たちの住んでいた上海路の難民区で、ある小道の高殿で、日本兵が中国人を2人捕まえ、その1人が逃げてしまい、もう1人も逃げようとしたのを、銃で撃ち殺され、後に屍が道の脇の溝に埋められました。ほかに、ある日の夜、日本兵数人が難民区に闖入してきて、お隣の中年の婦人を捕まえていきましたが、ご主人がその時南京にいなくて、その婦人は捕まった後ずっと帰って来ず、階段の上に血の痕がたくさん残っていました。この婦人は日本軍に強姦されてから、引きずって行かれ殺害されたのです。(王瑞屏と魏福仲が記録)



 

    
「Imagine9」【合同出版】より



武器を使わせない世界


世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。
 たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。
 また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。

 広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。
 このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。
 いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月2日木曜日

侵略戦争!!

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
 日本は満州事変を引き起こして満州(中国東北地方)を占領し、1937年には中国への全面侵略戦争を開始、1941年にはアジア太平洋戦争へと拡大させました。日本は足かけ15年にわたり、東アジア近代史において最も大規模な侵略戦争を行なったのです。
 日本が起こした侵略戦争の重要な特徴は、日本の軍事力や経済力および人力のすべてを動員して行なわれた、いわゆる「総力戦」であったことです。
 日本は、朝鮮や台湾などの植民地や中国および東南アジアなどの占領地から資源やエネルギー、労働力から軍事力までを根こそぎ動員して戦争に利用し、これらの地域を侵略戦争を支える基地にしました。そのため、日本は世界反ファシズム勢力の主要な敵国の1つとなりました。
 日本は又、総力戦を実施するため、日本国民に対する統制を強めて侵略戦争に動員し、国民に苦難を与えました。 
 さらに、拡大する侵略戦争の基地にするために植民地の統治を強化し、朝鮮と台湾の人々にいっそうの苦難を与えました。日本は、満州などの占領地で傀儡(かいらい)政権を育成すると、全力で抗日民衆を鎮圧しようとしました。
 日本軍は、抗日戦争を続ける中国政府と民衆に対して、無差別爆撃や三光作戦の実施、戦時国際法で禁止された細菌兵器や化学兵器の使用、労働者の強制連行や日本軍「慰安婦」の強制など、一連の戦争犯罪を行ないました。
 しかし、東アジアの人々は、屈服することなく、組織的な抵抗を行ない、民族の解放と独立を目指して反侵略戦争に立ち上がりました。中国は、厳しい条件下にありながらも抗日戦争を継続し、世界反ファシズム戦争の重要な一部になったのです。



「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 何守江(男、66歳)の証言
 1937年には、私の家は下関の宝塔橋の東でした。日本兵が南京を占領した時、宝塔橋一帯には逃げるのに間に合わなかった難民が、およそ4,5千人いて、卍字会が難民を両岸に男女に分けて集まらせていましたが、日本兵が来るなり、有無を言わせず、女の難民の中から、若い女性を十数人連れて行って強姦しました。それからは、女の子は恐くてみんな髪を剃り、男の子に扮しました。
 日本兵が下関に来た翌日に、中国人7百人余りを、次から次に宝塔橋の上に追い立て、橋から無理やり跳び降りさせたので、、橋はあまりにも高く、先に跳び降りた人はみんな墜落死してしまいました。後から跳び降りた人で、墜落死しなかったのは、日本兵が機関銃で掃射し、1人も生き残りませんでした。
 同じ日に、日本兵が2千人余りを煤炭港の大きな倉庫まで駆り立てるのも見えました。その建物にガソリンを撒き、火を放ち、2千人余りを活きたまま焼き殺したのです。青年で1人だけ、倉庫の隅の壁下に下水が通っているのを知っていて、十本の指から血をしたたらせて、やっと下水道から這い出し、焼き殺されませんでしたが、それが唯1人の生き残りになりました。
 1938年の陰暦1月の4日に、私が長江北岸の卸甲甸から長江を渡って草鞋峡(今の金陵船廠)に来たら、そこは死体でいっぱいで、どれもみんな日本兵が機銃掃射で死なせたものでした。岸から上がるなり、すぐに和記洋行に隠れ、恐くてもう出られませんでした。(李文奎と劉雯等が記録)



    
「Imagine9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと


約束した世界



地球規模では、世界各国では軍隊を減らす一方、国連に「緊急平和部隊」をつくり、紛争や人権侵害を防止しようという提案がなされています。また、イタリア憲法11条は、日本国憲法9条と同様に「戦争の放棄」をうたっていますが、そこには「国どうしの平和的関係のためには、国の主権が制限される場合もある」と定められています。つまり、国際的なルールや制度によって平和を保つ事が重要であり、「自国を守るため」といって勝手な行動をとることは許されないということです。
 グローバル化の時代、人々は国境を越えて行き来し、経済や社会はつながりあっています。安全を自国の軍事力で守ろうとすることよりも、国どうしで約束をつくり、国際的に平和のシステムをつくることの方が、現実的に必要とされてきているのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月1日水曜日

福沢諭吉

南京大虐殺を惹き起こした日本兵は、中国人をチャンコロと呼び、馬鹿にしていた。その背景には戦前から日本の新聞や言論界で活躍していた人の影響が大きいであろう。明治時代には、福沢諭吉がさかんに新聞や本などで持論を展開していた。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版)より
福沢諭吉(1834年~1901)-侵略を合理化した「文明論」
 近代の最初、日本人に世界の様子を伝えたのは、使節団の一員や留学生として欧米を体験してきた知識人たちでした。その代表が福沢諭吉です。彼は1875年に刊行した『文明論之概略』で、西洋は文明、アジアは半開、アフリカは野蛮だと書き、文明は野蛮から半開、半開から文明へと進むのだから、日本は西洋を手本に文明化をはかるべきだと強調しました。1881年には、日本はアジアの文明の中心、東洋のリーダーだから、アジアを保護しなければならない、朝鮮が文明化を受け入れなければ、強制的に文明化して、西洋の進出を食い止めなければならないと主張しています。
 しかし、朝鮮の甲申政変で開化派のクーデターが失敗に終わると、1885年、「脱亜論」という有名な論説を書きます。
 今後はアジアの文明化をすすめるのではなく、アジアと縁を切って、西洋諸国と同じような仕方でアジアの支配をすすめていこうというのです。そしてその10年後、日清戦争が起こると、これは文明(日本)と野蛮(中国)の戦いだと書きます。「文明」に対する見方が、福沢のアジアに対する視線を大きく左右していたのです。それは、近代日本のアジアに対する見方でもありました。


「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

曹永興(男、75歳)の証言
 私の家は旧から傳佐路20号でした。1937年12月に、日本兵がやってきた明くる日に、日本軍は私を捕まえ、大方巷の難民キャンプに送りましたが、その時捕まったのは千人か2千人でした。晩の5時ごろに、みんな下関の江辺まで連行し、機関銃6挺で掃射しました。私は人の群れにまぎれて長江に跳び込み、漂っている死人の堆に隠れていました。12時ごろに、日本兵が行ってしまったので、岸に這い上がって、警官1人と肉売りの若いの1人とを救って、一緒に劉家湾の方へ逃げました。やがて日本兵に見つかり、2人は前を歩いていて、撃ち殺されました。私は日本の将校に捕まってその世話をさせられ、それで幸いにも死を免れました(徐偉が記録)

    
「Imagine9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと


約束した世界



「相手が攻めてくるから、準備しなければならない」
 軍隊は、いつもそう言って大きくなってきました。でも、こちらが準備することで、相手はもっと不安に感じ、さらに軍備を増やしていきます。その結果、安全になるどころか、互いに危険がどんどん増えていきます。
 このような競争や衝突を避けるため、国々は「お互いに攻めない」という約束を結ぶ事ができます。
とくに、地域の中でこのような取り決めを行っているところは多く、ヨーロッパには「欧州安全保障・協力機構(OSCE)」が、東南アジアには「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が、アフリカには「アフリカ聯合(AU)」が地域の平和のための枠組みとして存在します。

 日本を取り囲む東北アジア地域には、このような枠組みはありません。朝鮮半島は南と北に分断されており、中国と台湾は軍事的ににらみ合っています。日本では多くの人が「北朝鮮が怖い」と感じていますが、逆に朝鮮半島や中国の人たちの間では「日本の軍事化が怖い」という感情が高まっています。
 NGOは、「東北アジア地域に平和メカニズムをつくろう」と提案しています。
 その一つのアイデアは、東北アジアに「非核地帯」をつくることです。
日本や韓国、北朝鮮は核を持たないことを誓い、一方でアメリカ、中国、ロシアなどの核保有国はこれらの国に「核による攻撃や脅しをしない」という法的義務を負うような条約をつくるのです。すでにこのような非核地帯条約は南半球のほとんどにできており、最近では中央アジアにもできました。
 また、日本とロシアの間で争いになっている「北方領土」周辺に平和地帯をつくるとか、中国と台湾それぞれが軍備を減らし平和交流を増やすといった提案がなされています。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月31日火曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

A級戦犯たちは、拘置所にいる間に自分のやったことを反省するでもなく、反対に正当化する方向に傾いたようだ!広田を除いては。

『落日燃ゆ』(城山三郎:新潮文庫)より
 処刑はまず、東條・松井・土肥原・武藤の組から行われた。
Pマークのついたカーキー色の服を着た4人は、仏間で花山の読経を受けたが、そのあと、誰からともなく、万歳を唱えようと言う声が出た。そして、年長の松井が音頭をとり、「天皇陛下万歳!」と「大日本帝国万歳!」をそれぞれ三唱し、明るい照明に照らされた刑場へ入った。
 広田・板垣・木村の組は、仏間に連行されてくる途中、この万歳の声を聞いた。
 広田は花山に言った。
「今、マンザイをやってたんでしょう」
「マンザイ?いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣の棟からでも、聞こえたのではありませんか」
 仏間に入って読経のあと、広田がまた言った。
「このお経のあとで、まんざいをやったんじゃないか」
 花山はそれが万歳のことだと思い、
「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」と言い、「それでは、ここでどうぞ」と促した。
 だが、広田は首を横に振り、板垣に、
「あなた、おやりなさい」
 板垣と木村が万歳を三唱したが、広田は加わらなかった。
 広田は、意識して「マンザイ」と言った。広田の最後の痛烈な冗談であった。
 万歳万歳を叫び、日の丸の旗を押し立てて行った果てに、何があったのか、思い知ったはずなのに、ここに至っても、なお万歳を叫ぶのは、漫才ではないのか。
 万歳!万歳!の声。それは、背広の男広田の協和外交を次々と突き崩してやまなかった悪夢の声でもある。広田には、寒気を感じさせる声である。生涯自分を苦しめてきた軍部そのものである人たちと、心ならずも一緒に殺されていく。このこともまた、悲しい漫才でしかないー。
 刑場に入る。
 検視に立ち会う連合国代表や将校たちが立ち並んでいる。その前を、つぶやいたり、経文を唱えたり、ほとんど歩けなくなったりする中で、広田1人が、並んでいる異国の男たちの顔を1人ずつ眺めて通り過ぎた。それは、柔道場で相手チームの選手を見改めるようでもあり、また、パーティのの席で客の1人1人に目をこらす外交官当時の姿のようでもあった。
 広田の処刑は、12月23日午前零時20分。
 朝のラジオは、処刑のニュースを全国に流した。
 重光は獄中で詠んだ。
  「黙々と殺され行くや霜(しも)の夜」
 そして、
  「父は尚生きてあるなり寒椿(かんつばき)」
 この同じ日、広田と同期の吉田茂は、国会を解散した。
 野党である社会・民主・国協の各党は、昭和電工事件で傷ついたままの状態であり、総選挙では、吉田の党の大勝が約束されていた。
 その総選挙はまた、新憲法公布下の最初の総選挙である。
 「日本を滅ぼした長州の憲法」の終焉を告げる総選挙でもあった。


「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 劉永興(男、71歳)の証言
 日本の軍隊は冬月11日にやってきました。そのころ私の家は張家衙19号で、裁縫を業としていました。家には62歳の父と61歳の母、21になる弟と私の19歳の家内とがいて、みんなで5人でした。私はその頃24歳で、その年の8月に結婚したのです。冬月10日の午前中に、一家そろって大方巷14号の後ろの難民区に移りました。
 冬月14日はよく晴れた日でしたが、5人みんな家の中に隠れていて、出られませんでした。午後3時ころ、日本兵が1人闖入してきて、私と弟に手を降りまわして、自分に付いて行くように命じるので、付いて出るしかなかったのは、前に銭という名の私塾の先生が日本兵の命令を聴かずに、銃殺されてしまったことがあるからです。外に出たら、売国奴の通訳官が私たちに、下関の中山埠頭へ行って東京から来た荷物を運ばせるのだと言いました。同時に出されてきた中に、私の家の近くの30何人かもいました。私たちはまず広場へ連れて行かれたのですが、もう暗くなろうとする頃で、いっぱい人が座っていました。日本軍は私たちを6人から8人の列にして、中山埠頭へと歩かせました。
 私と弟とは一般市民の隊列の先頭を歩きましたが、銃を手にした日本軍の一個小隊が一番前で、続いて捕虜になった国民党の軍人と警官が30数人、その後ろに捕まった一般庶民でした。隊列の両側を日本軍が護送し、馬の背に30何挺かの機関銃を担わせ、一番後ろが馬に乗った将校でした。道を行く間ずっと、両側にたくさん男女の死体が転がっていて、ほとんどが一般庶民でしたが、中央軍のも一部ありました。
 下関の中山埠頭の岸辺に着いたら、日本軍が私たちを長江の岸辺に座らせ、周りに機関銃を据えつけました。様子がどうもおかしい、屠殺してしまおうとしているみたいだと私は感じ出し、日本軍に撃ち殺されるよりも、長江に跳び込んで死んだ方がマシだ、と心に思い、傍らの人と一緒に跳び込もうと相談しました。日本軍が後ろで人々を縛り上げてから、機関銃で掃射し始めました。もう暗くなって、月も出てきましたが、たくさんの人が次々に河に跳び込み、私と弟も跳び込みました。日本軍は急いで、機銃掃射を続けたほかに、手榴弾を長江に投げ込みました。跳び込んだ人たちは、弾に当たって死んだ者もあれば、体じゅう傷だらけになった者もあり、悲惨なうなり声と、叫び声とが、辺り一面に響き渡りました。ひとしきり混乱して、私と弟と離れ離れになってしまい、それからもう見つかりませんでした。私は流されるままに軍艦の辺りまで近づいたかと思うと、又浪に打たれて岸辺まで押し返されました。死体の上に伏せたまま、恐くて身動きできませんでした。突然、弾が一発背中すれすれに飛んできて、長い綿入れがちぎれました。猛烈な機関銃の音が、耳をつんざき聞こえなくなり、今もまだ好くなっていません。。機銃掃射の後、日本軍は死体にガソリンをかけ、火を放って燃やし、死体を跡形も無くしてしまおうとしました。夜も、日本軍は岸辺で寝ずの番をし、岸辺に漂ってきた死体を見つけては、銃剣でやたらに突き刺しました。私は岸からかなり離れていて、銃剣が届かず、死を免れたのでした。
 夜が明ける頃に、長江から岸に這い上がり、幸運にも生き残れた者が10人にも達していないと分かったのですが、岸辺の人たちは1人1人みんな焼けただれて、見るに忍びない惨状でした。私はほとんど1晩長江に浸かっていたので、身体中がしびれ切ってしまい、恐がるのすら気付かずに、死んだ人の着物にすっかり着替えて、農民が掘った防空壕まで這っていき、その壕の中に1日中隠れていましたが、1日何も食べず、水も飲まず、飢え渇いてしまいました。(冬月15日)日が暮れようとする頃に、防空壕から這い出し、道を知らないので、ただやたらと走るしかありませんでした。三所村まで駆けてくると、尼さんの庵が1つあって、その庵の近くに少なからず農民が住んでいたので、その人たちによく説明して、やっと泊まらせてもらいました。それから又日本軍に捕まってクーリーをさせられたり、お茶を沸かしたりご飯を炊いたりさせられて、陰暦の12月28日になって、日本軍が小丹陽へ行くことになり、やっと家に帰ったのです。
 弟が捕まってから、父親がずっと杖を突きつつ涙ながらに方々尋ね歩きましたが、弟はもう帰って来ませんでした。あの時に殺害されたのだと思われます。後で知ったのですが、この時中山埠頭での大虐殺をやらかしたのは中島部隊でした。(陳小敏と湯雲龍が記録)

   
「Imagine9」【合同出版】より



武器をつくったり



売ったりしない世界



世界では今、武器貿易を取り締まるための「武器貿易条約(ATT)」をつくることが提案されています。世界的な市民運動の結果、このような条約をつくろうということが2006年に国連総会で決議され、そのための準備が始まっています。
 しかし、世界的には武器をつくること自体、また、武器を売ること自体が禁止されているわけではありません。提案されている条約も、武器貿易を登録制にしようというものであり、武器貿易の全面禁止にはほど遠い内容です。
 
 日本は、憲法9条の下で「武器輸出を原則的に行わない」という立場をとっています(武器輸出三原則)。このような日本の立場は、世界でも珍しい先進的なものです。
 しかし、一方で、日本はアメリカと共同でミサイル防衛の兵器開発を進めており、この分野は武器輸出禁止の「例外」として認めています。
ミサイル開発に携わる企業からは、武器輸出を認めるよう求める声が高まっています。「日本は将来、憲法9条をなくして、ハイテク技術を駆使して武器をつくり世界に売り始めるのではないか」と心配する人も増えてきています。
 私たちは、武器を輸出する国になるのか、それとも「武器の禁止」を世界に輸出する国になるのか、分かれ道にいます。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月30日月曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

『落日燃ゆ』(城山三郎著:新潮文庫)にA級戦犯のことが書いてある。本当にこの7人だけが戦犯なのか大いに疑問である。


 この結果、マッカーサーが諮問する形で、11カ国の在日極東委員会代表の会議が開かれたが、これは形だけのことで、すでに答えは決まっており、再審請求は却下。このあと、7人へのもとへの新聞の配布も止められた。
 7人は、他に誰もいない第一号棟で、死のときを待った。 
 死出の旅を共にする仲間として、広田にとって、残りの6人は、あまりにも異質であった。呉越同舟とはいうが、にがい思いを味わわされてきた軍人たちに、最後まで巻き添えにされ、無理心中させられるかっこうであった。
 土肥原、板垣の両大将は、満州・華北・内蒙古で謀略による事件を惹き起こし、外相広田の対中国和平交渉を挫折させた。
 武藤中将は、組閣本部にのりこみ、外相候補吉田の追放などを要求、広田内閣の組閣を妨害した男である。
 東條大将は、広田ら重臣の参内を阻止し、対米開戦諌止(かんし)論に耳をかそうともしなかった。
木村兵太郎大将は、その東條の陸相時代、次官として補佐した男であり、松井大将は、南京における麾下(きか)部隊を統制できず、結局、広田にまで「防止怠慢の罪」をかぶせる結果となった将軍である・・・・・。
 そうした軍部そのものである男たちと同罪に問われ、同じ屋根の下で、同じ死刑の日を待たねばならない。
 もちろん、ここでは、すでに6人とも憎めない男に帰っていた。ある者は、気のやさしい男であり、ある者は、腕白坊主のように無邪気なところのある男である。軍服を着こみ権勢を極めていた日々のことが、嘘のようにさえ思えてくる。
 だが、統帥権独立を認めた「長州のつくった憲法」のおかげで、彼らはたしかに猛威をふるい、その結果として、いま、たしかに死の獄につながれていた。背広の男広田という付録までつけて。
 同じ死刑囚とはいえ、広田と他の6人に心の底から通い合うものはなかった。

 そのころ、巣鴨では、仏教学者花山信勝が、戦犯とくに死刑囚のための教誨師をつとめていたが、花山は、死刑宣告後のA級7人に対しても、順次、個人的な面接を持ち、死の心用意をさせはじめた。
 広田に対しては、11月17日、第1回の面接、1時間。花山は、B・C級戦犯の処刑前の心境の変化などについて話したが、広田はただ黙ってきくばかりで、これという発言をしなかった。早くから覚悟のできている広田にとって、いまさら教誨師に心用意させられることは、何もなかった。むしろ、わずらわしいばかりであった。
 仏間に集められ、死刑囚一同そろって、花山に合わせて念仏を唱えるときも、広田ひとり黙って経本を読んでいた。
 第2回の面接は、1週間後の24日でやはり1時間。
 署名運動や広田の家族の話などを花山が伝えると、広田はときどき微笑したが、このときも、広田からとくに話をすることはなかった。他の6人がしきりに仏教の話を聞きたがったり、あるいは心境や覚悟を語り、遺詠を伝えたりするのにくらべ、ひどく対照的であった。
 ただ、広田はこのとき、トイレット・ペーパーにくるんだ髪と爪を家族に渡してくれるように花山にたのんだ。
 第3回の面接は、11月26日午後3時から25分間。
 相変わらず無口な広田に、花山はたまりかねて、たずねた。
「歌か、あるいは詩か、感想か、何かありませんか」
「公(おおやけ)の人として仕事をして以来、自分のやったことが残っているから、今さら別に申し加えることはないと思う」
 広田のそっけない答えに、花山は重ねて訊いた。
「でも、何か御感想がありやしませんか」
「何もありません、ただ自然に死んで・・・・・」
と、そこで言葉を消す。花山はさらに、
「他に何かありませんか」
「・・・・・すべては無に帰して、いうべきことはいって、つとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何もいうことは事実ない、自然に生きて、自然に死ぬ」
 花山は真宗の僧侶でもある。広田のその境地が禅によるものかときくと、広田は、禅に近い、と答えるだけであった。
 広田が感情の動きを見せたのは、前日、広田の家族5人が面会にきたが、感謝祭の祝日のため帰されたという話を、花山がしたときであった。
 広田は、すぐ、立会いの将校に英語で、いつ面会できるかをきき、月曜日の9時という返事を得た。・・・・・・・


「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺
 孫漢皋(男、71歳)の証言
 私は19歳の年に、南京に来て大工(臨時雇い)をしていましたが、国民党に徴発されて国民党参謀本部の造炮台へ行き、老虎山に何年か住んでいました。民国26年の冬月だったと思いますが、私が24歳の時でした。ある日の晩、国民党の上の人が私たちに入ってこさせはしても、出て行かせないでいて、私たちにこう言いました。「お前たち恐がらないでいい。日本兵が本当にやってきても、我々には岸辺に軍艦が3隻あるから、お前たちを重慶まで乗せて行ってやれる」。その日の夜12時に、飯炊きの男が岸辺に水を汲みに行ったところ、軍艦3隻がいなくなっていたので、帰ってきて私たちにそのニュースを知らせました。私は内心、やたらなことは言えんぞ、むやみなことを言うと銃殺もんだ、と思いました。3日目に、日本軍が中山橋と老虎山一帯を包囲し、教導隊が日本兵と銃剣で渡り合うのを老虎山の上からこの目で見て、私も山から石を日本兵にぶつけましたが、衆寡敵せずで、日本軍が老虎山を占領しました。日本軍は年取った人たちを集めて、ガソリンをかけて活きたまま焼き殺し、何とも見るに忍びないものでした。日本軍は私たち年若い者たちを一箇所に集めると、5人1組にしてしばりつけ、上元門まで連れて行って、一群又一群と機銃掃射で死なせていきました。午後の5時から9時までずっと掃射していたのです。私のいた一群の番になったのは、既に6時過ぎで、もうだいぶ暗くなっていました。機関銃が私に狙いを付けた時、私はもう腰をかがめていたので、私は機銃掃射に当たらず、私の前や後ろに立っていた人たちがみんな撃ち殺され、その血飛沫が私の身体中にかかりました。その時は私は死体に押し付けられて、死んでいないと分かりましたが、でもどうやったら逃げられたでしょう。私を縛っている縄が少しゆるんだので、親指の爪で手の上の綱を擦りに擦ったら、縄がいくつかに切れました。切れないところを、私の金歯3つで噛んで噛んで噛んだら、とうとう縄が噛み切れて、やっとのことで死人の累積から這い出したのです。そうしたら私の目の前は至る所死人ばかりで、国民党が宝塔橋から燕子磯まで掘った深さ3メートルに幅3メートルの塹壕の中に、全部死人が詰め込まれていました。。私は死人の下からそうっと這って行き、和記洋行まで駆けていきましたが、その頃そこが世界紅卍字会の場所だったので、そこで中国人がたくさん働いていて、門番の詰め所にいる者、清掃係、雑役など、みんな腕に紅卍字の標識をつけていました。私が門を叩いたら、門番さんが中国人で、門を開けるなり、私が全身血まみれなのを見て、体をきれいに洗うように、雑巾を一枚渡してくれ、外側の汚れた服を脱がせてくれました。その時私はチョッキ一枚と猿股を一つ身につけていただけで、冬だったのに、ちっとも寒く感じませんでした。そこの人たちがマントウ(饅頭=蒸しパン)を2つくれたのを、すぐに食べ終わり、水道の水を少し飲みました。丁度その時、日本兵がきて門を叩いたので、みんなは私に急いでテーブルの下に隠れさせましたが、テーブルの周りに布がぐるっとかかっていたものの、椅子がそばにあったので、みんなは日本兵が椅子に腰掛けて、足がテーブルの下に届くといけないので、急いで椅子をテーブルから遠く離れたところへ運びました。日本兵が入ってきても誰も見つからず、紅卍字会のドイツ人に追い返されていきました。紅卍字会で働いている中国の人たちが私の状態をドイツの人にはっきり話してくれて、私を留めて紅卍字会で働けるようにしてくれました。私たちはしょっちゅう屍を片付けに出かけていきましたが、宝塔橋一帯はあまねく機銃掃射で撃ち殺された中国人ばかりで、世界紅卍字会では屍を1つ片付けるごとに、数字を1つ書き入れました。これらの数字は日本軍が南京でやった大虐殺という犯罪の証拠です。翌年(1938年1月か2月)に、私は又日本兵に捕まりましたが、私が大工で、「中央軍」でないことが分かり、殺されませんでした。(甄秀が記録)

   
「Imagine9」【合同出版】より



武器をつくったり



売ったりしない世界



「武器はどこから来るのでしょうか?
ヨーロッパやアメリカから来るのです。彼らは、武器貿易の達人です。アフリカの私たちは戦う必要も、殺しあう必要もないのです。だから、憲法9条は、アフリカにこそ導入されるべきだと思います。9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ってこさせないようにする事ができます。」

 これは、2007年1月にナイロビで開催された「世界社会フォーラム」で、ケニアの青年が語った言葉です。アフリカには、スーダンやソマリアなど、数多くの内戦に苦しんでいます。子どもたちまでもが兵士とさせられ、武器をもたされ、傷つき、多くの民間人が命を落としています。
 世界でもっとも多く武器を輸出している国々は、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、中国といった大国です。これらの国々から、中東、アジア、アフリカ、中南米へと、武器が売られています。紛争で使われる小型武器は、世界中に6億個以上あり、さらに毎年800万個がつくられていると言われています。これらの武器によって、世界で年間50万人の死者が出ていると推定されており、これは「一分で一人」をいう計算になります(「コントロール・アームズ・キャンペーン」による)。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月29日日曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

戦後の東京裁判で南京大虐殺を裁いたがそのときの様子が城山三郎著『落日燃ゆ』(新潮文庫)に描かれている。

 七月も終わりになって、法廷の冷房装置が完成し、涼風に洗われるようになった。
 だが、冷房になれないためか、被告たちは腹をこわし、平沼、白鳥が入院した。80歳になる平沼は、肺炎が治って病院生活から戻ったところで、また、再入院となった。
 涼しくなった法廷では、しかし、南京などにおける日本軍の虐殺事件についての陰惨な証言が、8月半ばまで続いた。
 広田が外相時代、その一部について報告を受け、再三、杉山陸相に抗議した事件であるが、いまは広田が「殺害の共同謀議」に関係ありとし、また、その「防止の怠慢」の罪を問われている事件でもある。
 慈善団体役員という中年の中国人が証言台に立った。
「私は死体が至るところに横たわっているのを見ましたが、その中のある者はひどく斬り刻んであったのであります。私はその死体が殺された時の状態のままに横たわっておるのを見たのであります。ある死体は身体を曲げており、又ある者は両足を拡げておりました。そうしてこういう行為は皆、日本兵によって行われたのでありまして、私は日本兵が現にそういう行為を行っておるところを目撃したのであります。。ある主な大通りのところで私はその死体を数え始めたのでありますが、その両側において約500の死体を数えました時に、もうこれ以上を数えても仕方がないと思って止めたほどであります・・・・・・・」
 アメリカ人宣教師が証言する。
「強姦は至るところにおいて行われ、多数の婦人および子どもが殺されたのであります。もし婦人が拒絶するとかあるいは反抗する場合には、それは突殺されたのであります。私はそういう写真および活動写真を撮ったのであります。すなわちそれによりますと、婦人が首のところを切られ、もしくは全身にわたって突刺されておったのであります・・・・・」
 南京大学教授が出廷する。
「約5万人の日本軍兵士は避難民から寝具・台所用具ならびに食料品をたくさん取ったのであります。占領してから6週間という間は、市内のほとんどあらゆる建物がそういう遊歩する兵士の団体によって侵入されたのであります。場合によってはこの略奪は非常に組織的に行われたものでありまして、軍用(トラック)の多数が使用され、将校の指揮に依ったものであります・・・・・」
 法廷は静まり返り、嘆息だけが漏れた。重光は日記に書く。
「醜態耳を蔽(おお)わしむ。日本魂腐れるか」
 また次の日の日記にも、
「その叙述惨酷を極む。嗚呼聖戦」と。
 証言は次々と続き、多くの宣誓口供書や証拠書類が出され、検察側のこの事件にかける並々ならぬ熱意が読み取れた。
 俘虜虐待という罪だけで、同じ巣鴨にいるB級C級戦犯たちが、折から次々に処刑されていた。旧日本軍占領地の各地でも、競い合うように処刑が行われている。それを思えば、この大量虐殺事件の責任追及は極刑でしかないことは、明らかであった。
 幸か不幸か、この問題の最高責任者である松井石根(いわね)元中支那派遣軍最高司令官は、ちょうどこのとき、胃病のため入院中で、松井の運命をゆさぶる陰惨な証言の数々を聞かないですんだ。
 このため、法廷で自分に関係あるものとしてきいたのは、広田だけであった。広田はもちろん、こうした「殺害」にも、「殺害の共同謀議」にも関係はなかった。「防止の怠慢の罪」を問われるわけだが、しかし統帥権独立の仕組みの下で、1文官閣僚として何ができたというのであろう。
 だが、検事団が広田にまで照準を当てていることは、明瞭であった。そして、広田が自己弁護に立たぬ気持ちも、はっきりしていた。その結果がどういうことになるか、広田に予感がないわけではなかった。
 法廷が開かれる日には、広田の娘2人が必ず傍聴にきた。これに気付いた法廷の警備隊長が親切な男で、記者席の最前部に2人の席を用意してくれるようになった。
 といっても、言葉一つ届くわけではない。入廷してくるとき、広田は娘たちと視線を合わせる。そして、閉廷して立ち上がるとき、娘たちは再び広田に目礼を送る。ただそれだけである。
 娘たちは、周りの新聞記者のように、そこで暴露される「歴史の真実」や法廷闘争に興味があるわけではない。ただひとときでも、同じ屋根の下に広田とともに居て、広田を見つめていることで、安堵を感じた。自殺した母静子の霊も、そのとき父娘とともに居る感じであった。・・・・・・


 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 萬澄泉(男)の証言
 1937年の冬に中国侵略日本軍が中国に攻め込んできた時、私は蕪湖の黄朴人医学校から南京第八陸軍病院に移ってきて抗日運動に加わり、医科中尉になりました。日本軍が上海を占領した後、外交部が南京から後方へ移転したので、我が陸軍病院が外交部のあった建物に移りました。日本軍が鎮江と句容と蕪湖との三方面から攻めてきて、南京の危機が旦夕に迫りました。唐生智が撤退した後、軍は大混乱し、12月のある晩に全軍が退却しました。日本軍が三方から攻め込んできたため、江北だけが活路で、何十万もの軍人と民間人とが長江を渡ろうと争っていて、私と病院の同僚何人かも、下関の挹江門から城外へ逃げ出しましたが、岸辺はただ波がゆらゆらするだけで、船は大きいのも小さいのも一隻も姿を見せず、どうしようもない状態で、みんな争って戸板をはずしたり、筏を組んだりして長江を渡ろうとしていました。とても寒い頃で、たくさんの人が長江の底へと沈んでいくのを目にしました。私は泳げないので、筏に乗ることもできず、ただ岸で死を待つばかりでした。明くる日、日本軍がやってきて、残酷にも機関銃で水面を猛烈に掃射したので、凡そ水面に漂っていた人たちはみんな射殺されました。私と同僚何人かは散りじりになり、1人だけになった私は同郷の蕪湖の人一人とぴったり離れずに、幕府山のふもとにある村まで逃げてきたところ、午後4時ごろに、既に3,40人にもなっていた人たちがある防空壕の前まできて、壕に隠れようと主張する人たちもいましたが、私は壕は安全でないと思い、別に見つけたあばら家に一晩泊まろうと言いましたら、5、6人が私に賛成しました。あばら家は防空壕から遠くなかったのです。2日目の朝、日本兵が村にやってきて、一般の人が村では見つからず、防空壕の前まで来て、通訳に壕の中へ「中にいる者はすぐに出てこい。さもないとブっ放すぞ」と叫ばせましたが、壕の中では何の声もせず、日本兵が中に向かって手榴弾を十数発投げ込んで初めて、痛ましい叫び声が壕の中いっぱいに響いただけでした。しばらくして、日本兵は私たちの泊まったあばら家も探して、私たちに手を挙げさせ、平服に着替えさせましたが、その時は私たちを殺害せずに、私たち6人を3組に分け、日本軍の小隊3つが村々に中国兵を捜しに行くのにいずれも私たちを連れて行けるようにし、その道々、中国人と見るやすぐに発砲して射撃して、少なからぬ人々を撃ち殺したのを私は見ました。下関の汽車の駅から遠くないところまで行くと、工事用のバラックが一つあり、日本兵が東側から火をつけてバラックを焼いていると、バラックに隠れていた中国人が逃げ出してきて、その人たちを日本兵が銃で撃ち射殺しました。それから岸辺まで行くと、岸から船まで渡る踏み板が1つ、長江へまっすぐに伸びていて、その踏み板の下に何百人もが殺されていました。岸辺にはここかしこに被害者の屍がうずたかくなっていて、見るに忍びない有り様でした。
午後3時頃に、日本軍は私たち2人を放してくれたので、2人で又ある村に戻って泊まりました。明くる日、一個小隊の日本兵が又やってきて、私たち2人についてくるよう命じました。途中で又中国人3人と出会い、日本兵は検査して、この3人は中国兵だとみなし、この3人を前に、私たち2人を後ろにして進んで行くと、屋根は焼け落ち土塀は四面とも倒れていない家屋の前まで来て停まりました。日本兵が1人目に家の中に入れと命じ始め、入っていかないので、日本軍は銃で無理に入って行かせようとし、まず銃剣で3度突っつき、それから発砲して撃ち殺しました。2人目も同じように押し入れようとして銃で撃ち殺しました。3人目は活きられないと知り、入口の外でひざまずきどうしても入っていかないのを、日本兵が入口の外で撃ち殺しました。4人目は私の番になり、私は活きれる見込みはないと見て、連中と命がけでとことんやってやりたかったのですが、身に寸鉄も帯びていなくて、闘っても死ぬんだし、逃げ出しても日本軍の銃口からは逃げ切れないと思いました。そんな風でボーッとしていました。すると、日本兵は銃剣が血だらけだったので、私の長い綿入れに銃剣をすり付けて血をふき取りました。どういうわけか分かりませんが。私には悪辣な手段をもてあそばしませんでした。私の後ろの1人も命を取り留めました。それから私たち2人下関の宝塔橋難民区に入って、ずっと安全でした。私は南京大虐殺からの生き残りで、その証人でもあります。(1991年1月14日に劉相雲が当人からの手紙を基に整理)

 
  
「Imagine9」【合同出版】より



軍隊のお金を



みんなの暮らしのために使う



世界



世界中の政府は、2000年に、貧困をなくすための一連の目標に合意しました。国連の「ミレニアム開発目標」と呼ばれるもので、2015年までに次のような目標を達成するとしています。

●極端な貧困や飢餓をなくす(1日1ドル以下で暮らす人を半減する)。
●すべての子どもたちが、女の子でも男の子でも差別なく、学校に行けるようにする。
●赤ちゃんが栄養失調で命を落としたり、お母さんが出産時に亡くなってしまうことを防ぐ。
●HIV(エイズ)、マラリアなどの感染症の広がりを止める。


 こうした目標を達成するためには、世界的に軍事費を減らし、人々の暮らしや発展のためにお金を回すことが不可欠です。
 国連憲章には、「世界各国は軍事費に回すお金や資源を最小限にしなければならない」(第26条)と書かれています。世界のNGO(非政府組織)は、この国連憲章26条を今こそ実行し「軍事を減らして人々の発展に回そう」という運動を始めています。そうした世界の人々の中からは「国連憲章26条と日本国憲法9条は、同じ目標のための双子のようなものだ。ともに発展させよう」という声が上がっているのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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