「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の終焉
松井司令官の解任
(昨日の続き)松井はこれに不満で「予は心中きわめて遺憾にしてまた忠霊にたいしても申し訳なきしだい」と日記(1月31日)に記し、さらに「予の離任はじっさい自負にあらざるも時期尚早なることは万人認むるところなるべきも」とまで書いている(「松井石根大将陣中日記」)。
2月14日、大本営は中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍の戦闘序列を解き、あらたに中支那派遣軍(司令官畑俊六大将、参謀副長に武藤章大佐留任)の戦闘序列を下令した。司令官を解任されて上海を去ることになった松井は、16日司令部の決別式において、「南京占領後2ヶ月間における大本営および政府と予の意見に相違ありて、ついに予の欲するところを実行しざりし苦衷を述べ、今頃万事を中途のままに帰還する予の胸中の苦悶と感慨を述べた」のである。(同前)松井石根の野心、功名心にとっても、南京攻略戦の結果は、挫折だった。
日本に帰還した松井が、「駅頭市民の歓呼は軍部の取扱に比し、すこぶる熱狂、感謝的なるを認む」と日記(2月25日)に記しているように、マスメディアは南京を陥落させた凱旋将軍として報道し、天皇も大軍功の殊勲者として勅語を与えた。陸軍中央は、松井石根の不作為による不法虐殺事件の発生を知って、内部措置のかたちで解任しながらも、その責任は不問に付し、国民に対してはその事実を隠蔽し続けたのである。
中支那方面軍の戦闘序列が解かれたことによって、作戦としての南京攻略戦は終結したが、その後も強姦を中心とする日本軍の残虐行為は続いた。それでも3月28日に、中支那派遣軍の工作による中華民国維新政府が南京に成立してからは、治安もほぼ回復し、安全区の難民も帰る条件のある者はほとんど自宅に戻った。ここにおいて、南京事件は一応終焉したと言うことができる。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
朱応泰(男、65歳)の証言
日本兵が南京を占領した時人を見れば殺すので、私は母と一緒に弟を連れて雷公廟の囲いの中に逃げて隠れました。日本軍はしょっちゅう雷公廟一帯にやってきて焼き、殺し、略奪し、婦女を強姦しました。人力車をひいていた労働者が1人日本軍に撃ち殺されるのを、私はこの目で見ました。父親を捜すので、恐る恐る涵洞口へ戻ったら、涵洞口の両側の家が全部焼き払われて跡形も無くなっていて、漢中門の河辺まで行ったら、日本兵に殺害された死体がうずたかくなっているのを見かけました。石城街や鳳凰街一帯は、道端という道端いたるところ死体だらけで数え切れませんでした。回り道をして江東門一帯の方に行ったら、道の両側に死体がうずたかくいくつもの小山なっているのが見えるだけで、江東橋は爆破された後、日本兵が屍を敷き詰め橋にして歩いているのでした。三伏荘でも、日本兵3人が中国人を4人捕まえ、雑多なお墓のそばまで引きずって行って銃で撃ち殺したのを、この目で見ました。(欧文華と張連英と夏龍生が記録)
李世梅(女、70歳)の証言
元の二道挭子醤園廠(今の南糧船廠)が、中国侵略日本軍が人を殺した場所で、殺害された中国同胞の数は数え切れず、屍がいっぱい醤油池にほうり込まれていたのです。張大言の父親や薛世洪の父親など10数人が二道挭子で捕まり、最南端のくぼ地の土手の中(今の市自動車12隊)まで連行されて、銃殺になったのですが、そこが「万人坑」なのです。日本軍は活きている人を射撃の的にして、憂さ晴らしにもしたのですが、孔造順(今は下河街に住んでいる)の父親が、あぜ道も上で日本軍に活きたままぶち殺されたのです。(左国家が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
はじめに
戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
731を問う!!
2009年3月13日金曜日
南京大虐殺
「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の終焉
松井司令官の解任
1月上旬を過ぎると、日本軍の南京虐殺の事実は、南京にいた外国人記者の報道によって世界に知られるようになっていただけでなく、南京のアメリカ大使館が作成した日本軍の残虐・不法行為に関する膨大な記録と報告が本国の国務省や東京のアメリカ大使館に送信されたり、同じくドイツ大使館のローゼン書記官らの詳細な日本軍暴行記録が本国に報告されたりして、外交ルートを通じても、南京事件の事実が世界に知られるようになっていた。石井射太郎の日記(38年1月6日)は「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。ああこれが皇軍か。日本国民民心の廃頽の発露であろう。大きな社会問題だ」と記している。
南京の日本軍の軍機頽廃問題は、陸軍中央でもひそかに問題にするようになった。その頃予備役になっていた元教育総監真崎甚三郎大将は、上海派遣軍を視察してきた衆議院議員の江藤源九郎予備役少将の報告を聞いて、「軍紀風紀頽廃し、これを立て直さざれば真面目の戦闘に耐えずということに帰着せり。強盗、強姦、略奪、聞くに忍びざるものありたり」と日記(1月28日)に記している。(『南京戦史資料集Ⅱ』)。
こうした状況の中で、畑俊六教育総監は松井石根司令官の更迭を杉山元陸相に進言したことを日記(1月29日)に記している。
支那派遣軍も作戦一段落とともに、軍紀風紀ようやく頽廃、略奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代らしめ、また軍司令官、師団長などの召集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。この意見を大臣に進言いたしおきたる・・・・。(「畑俊六日記」)
こうした経緯があって参謀本部は松井中支那方面軍司令官の帰還を命令した。(続く)
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
陳永富(男、69歳)の証言
1937年の末に、日本軍が南京を占領した時に、私の家は江北へ避難しようと準備したのですが、長江が水面封鎖されて、渡る船が無かったので、行かないことになりました。戻ってくる途中で、鳳凰街を通り、ある屋敷の内庭に泊まりました。他にも知らない人たちが2、30人いてここで一緒に難をさけていました。ある日、私たちの内庭の隣の門を日本軍が打ち壊して入り込んで来たようで、門番の1人が打たれ続けているのが聞こえ、銃声も聞こえました。そして日本兵が5,6人私たちの内庭の門から突っ込んできて、私たち若い男子を5人門の外に追い出し、無理やりにひざまずかせたのですが、その5人の中に私の兄弟が3人いました。お隣のあの門番さんが、日本軍に殺され、血からまだ湯気が立っているのに続いて、日本軍が5人を殺そうとしたその時に、将校の1人が、日本軍に集まれと命令したので、私たち5人は一死を免れました。一緒にいた30何歳かの女性が1人強姦されました。
それに一度、日本軍に野菜を担がされ、鳳凰西街から江東門まで4,5里くらい行ったことがあって、その道でいっぱいやられた同胞の屍を見たのですが、その中には国民党の兵隊も少しいました。日本軍に殺された者あり、焼き殺された者あり、あっちの道端にゴロゴロこっちのため池に折り重なったりで、見るも悲惨なありさまでした。日本軍の駐屯している所まで野菜を運んでいったら、紙切れ一枚に何か書いて判を押したのをくれて、帰っていいと言われました。
日本軍が南京を占領してから一ヶ月余りして、鳳凰西街から芦席巷まで行ったら、私の家が3軒とも日本軍に焼かれてしまっていました。しかも芦席巷43号の地下の穴に日本軍に殺された7,8人の屍がありましたが、そのうち3人が近所の人や隣の人でした。20歳余りで革靴をつくっていた周家保に、30歳余りで家で商売していた龍花子に、30歳余りでロバを殺すのが仕事の沈延寿でした。(肖仲煌と左紀文が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。
また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
南京事件の終焉
松井司令官の解任
1月上旬を過ぎると、日本軍の南京虐殺の事実は、南京にいた外国人記者の報道によって世界に知られるようになっていただけでなく、南京のアメリカ大使館が作成した日本軍の残虐・不法行為に関する膨大な記録と報告が本国の国務省や東京のアメリカ大使館に送信されたり、同じくドイツ大使館のローゼン書記官らの詳細な日本軍暴行記録が本国に報告されたりして、外交ルートを通じても、南京事件の事実が世界に知られるようになっていた。石井射太郎の日記(38年1月6日)は「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。ああこれが皇軍か。日本国民民心の廃頽の発露であろう。大きな社会問題だ」と記している。
南京の日本軍の軍機頽廃問題は、陸軍中央でもひそかに問題にするようになった。その頃予備役になっていた元教育総監真崎甚三郎大将は、上海派遣軍を視察してきた衆議院議員の江藤源九郎予備役少将の報告を聞いて、「軍紀風紀頽廃し、これを立て直さざれば真面目の戦闘に耐えずということに帰着せり。強盗、強姦、略奪、聞くに忍びざるものありたり」と日記(1月28日)に記している。(『南京戦史資料集Ⅱ』)。
こうした状況の中で、畑俊六教育総監は松井石根司令官の更迭を杉山元陸相に進言したことを日記(1月29日)に記している。
支那派遣軍も作戦一段落とともに、軍紀風紀ようやく頽廃、略奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代らしめ、また軍司令官、師団長などの召集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。この意見を大臣に進言いたしおきたる・・・・。(「畑俊六日記」)
こうした経緯があって参謀本部は松井中支那方面軍司令官の帰還を命令した。(続く)
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
陳永富(男、69歳)の証言
1937年の末に、日本軍が南京を占領した時に、私の家は江北へ避難しようと準備したのですが、長江が水面封鎖されて、渡る船が無かったので、行かないことになりました。戻ってくる途中で、鳳凰街を通り、ある屋敷の内庭に泊まりました。他にも知らない人たちが2、30人いてここで一緒に難をさけていました。ある日、私たちの内庭の隣の門を日本軍が打ち壊して入り込んで来たようで、門番の1人が打たれ続けているのが聞こえ、銃声も聞こえました。そして日本兵が5,6人私たちの内庭の門から突っ込んできて、私たち若い男子を5人門の外に追い出し、無理やりにひざまずかせたのですが、その5人の中に私の兄弟が3人いました。お隣のあの門番さんが、日本軍に殺され、血からまだ湯気が立っているのに続いて、日本軍が5人を殺そうとしたその時に、将校の1人が、日本軍に集まれと命令したので、私たち5人は一死を免れました。一緒にいた30何歳かの女性が1人強姦されました。
それに一度、日本軍に野菜を担がされ、鳳凰西街から江東門まで4,5里くらい行ったことがあって、その道でいっぱいやられた同胞の屍を見たのですが、その中には国民党の兵隊も少しいました。日本軍に殺された者あり、焼き殺された者あり、あっちの道端にゴロゴロこっちのため池に折り重なったりで、見るも悲惨なありさまでした。日本軍の駐屯している所まで野菜を運んでいったら、紙切れ一枚に何か書いて判を押したのをくれて、帰っていいと言われました。
日本軍が南京を占領してから一ヶ月余りして、鳳凰西街から芦席巷まで行ったら、私の家が3軒とも日本軍に焼かれてしまっていました。しかも芦席巷43号の地下の穴に日本軍に殺された7,8人の屍がありましたが、そのうち3人が近所の人や隣の人でした。20歳余りで革靴をつくっていた周家保に、30歳余りで家で商売していた龍花子に、30歳余りでロバを殺すのが仕事の沈延寿でした。(肖仲煌と左紀文が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。
また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年3月12日木曜日
南京大虐殺
「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の終焉
戦略的に誤りだった南京攻略戦
陸軍中央における拡大派の急先鋒であった武藤章参謀本部作戦課長は、中国一撃論を主張し、「南京をやったら敵は参る」と言いきった。そして武藤ら参謀本部の拡大派が出向して中支那方面軍司令部の中枢を占めた。上海派遣軍司令官に予備役から抜擢された松井石根大将は、南京を落とせば国民政府は屈服すると考え、東京を発つ時から、「南京を攻略せば(蒋介石は)下野すべし」と、南京占領の意図を公言してはばからなかった。
南京攻略戦はもともと参謀本部の作戦計画になかったものを、中支那方面軍司令部と参謀本部の下村定第一部長らの拡大派とが策応して強行し、それを昭和天皇が追認、近衛内閣の追随し、さらにマスメディアが、南京を攻略すれば中国は容易に屈服して戦争は勝利するかのような安易な期待感を流布した。日本国民は、「南京に日章旗が翻る時」が戦争終結であるかのように報道する新聞記事に熱狂し、南京占領を「勝った!勝った!」と国を挙げて祝賀行事を展開した。
しかし、南京陥落後も蒋介石は下野せず、国民政府は屈服しなかった。中国は武漢(漢口と武昌よりなる)に事実上の首都機能を移転させ、中国軍民の抗戦継続の意志に支えられて、国民党と共産党の合作はかつてなく強化され、第三勢力と言われた民主諸党派も結集し、武漢は南京に代わって抗戦中国の強力な「首都」の役割を果たした。
ここに、武藤章や松井石根らの中国一撃論は完全に失敗したのだった。38年1月15日の大本営政府連絡会議(大本営と内閣が連席して重要な戦争政策を決定する会議)において、国民政府との和平交渉(トラウトマン工作)の最終打ち切りを決定し、翌16日に近衛首相が「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」という蒋介石国民政府を否定する政府声明を発表したことは、南京攻略戦の政略的な失敗を日本の政府と軍中央が自ら認めたかたちになった。首都南京を落としても中国は屈服しなかったから、中国が屈服するまで戦争を拡大・継続していくという決定をしたのである。この政府と軍中央の決定は、日本国民を長期日中全面戦争の泥沼に引きずり込んでいく決定的な契機となった。
この決定に際しては、参謀本部とりわけ不拡大派の多田駿参謀本部次長らが強く反対した。蒋介石政府否認後にくる長期泥沼戦争への突入を回避しようとした彼らは、最後は昭和天皇の「御裁断」を仰いで和平交渉打ち切りの阻止を図ったが、天皇はそれに応ぜず、交渉打ち切りに加担したのである。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
劉修栄(男、63歳)の証言
1937年には、私は16歳で、一家4人(父と兄と弟と私)が、江東門の街から一里ほど離れた所に住んでいました。その頃私たちは情勢が緊張しているは知っていましたが、こんなに早く日本軍がやってくるとは思いませんでしたし、家で飼っていた豚何頭かを無くしてしまうのももったいなくて、難民区には行きませんでした。冬月の9日に、雨花台が緊迫してきたので、私たちは長江の岸辺に駆けつけましたが、渡れなかったので、引き返して来て水関橋に隠れ、そこに住まうことにしました。
冬月11日に、まだ夜が明けないうちに、突然日本兵が数人私と兄が住まっている家に跳び込んできて、布団の中を銃剣でやたらに突き刺しました。私の小さなお腹に2度当たりましたが、布団越しだったので、傷は割りに浅くすみましたが、傷痕は今でもまだあります。私がその時突き刺されて泣き出したために、兄が助けに来ようとして、直ちに日本兵に捕まってしまい、門まで引きずられて、銃剣で何度も突き刺され、こめかみにも一発撃ち込まれて、その場で撃ち殺されました。何日かしてから、父が兄の死体を埋めてくれました。
日本兵は江東門でいっぱい殺しました。2日後に、日本兵が国民党軍の捕虜を陸軍監獄(私の家のすぐ近く)から大茶亭までの間2キロぐらいの所に集めて、銃剣で刺すやら、機関銃で掃射するやらして、一日中殺しまくり、死体がうずたかくなったのを、私は見ましたが、ほんのわずかな人しか九死に一生を得られませんでした。それに又、前に日本の飛行機に爆撃されて壊れた江東門の古い橋が、日本軍によって中国人平民の死体を積み重ね、上に木の板を敷き、それを橋にして歩くようにされたのを見ました。
暖かくなって雪が溶けた頃、江東門一帯は真っ赤な血の池となり、ぞうっと背筋が寒くなったのでした。(呉伝銘、劉興林、何煉生らが記録)
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
南京事件の終焉
戦略的に誤りだった南京攻略戦
陸軍中央における拡大派の急先鋒であった武藤章参謀本部作戦課長は、中国一撃論を主張し、「南京をやったら敵は参る」と言いきった。そして武藤ら参謀本部の拡大派が出向して中支那方面軍司令部の中枢を占めた。上海派遣軍司令官に予備役から抜擢された松井石根大将は、南京を落とせば国民政府は屈服すると考え、東京を発つ時から、「南京を攻略せば(蒋介石は)下野すべし」と、南京占領の意図を公言してはばからなかった。
南京攻略戦はもともと参謀本部の作戦計画になかったものを、中支那方面軍司令部と参謀本部の下村定第一部長らの拡大派とが策応して強行し、それを昭和天皇が追認、近衛内閣の追随し、さらにマスメディアが、南京を攻略すれば中国は容易に屈服して戦争は勝利するかのような安易な期待感を流布した。日本国民は、「南京に日章旗が翻る時」が戦争終結であるかのように報道する新聞記事に熱狂し、南京占領を「勝った!勝った!」と国を挙げて祝賀行事を展開した。
しかし、南京陥落後も蒋介石は下野せず、国民政府は屈服しなかった。中国は武漢(漢口と武昌よりなる)に事実上の首都機能を移転させ、中国軍民の抗戦継続の意志に支えられて、国民党と共産党の合作はかつてなく強化され、第三勢力と言われた民主諸党派も結集し、武漢は南京に代わって抗戦中国の強力な「首都」の役割を果たした。
ここに、武藤章や松井石根らの中国一撃論は完全に失敗したのだった。38年1月15日の大本営政府連絡会議(大本営と内閣が連席して重要な戦争政策を決定する会議)において、国民政府との和平交渉(トラウトマン工作)の最終打ち切りを決定し、翌16日に近衛首相が「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」という蒋介石国民政府を否定する政府声明を発表したことは、南京攻略戦の政略的な失敗を日本の政府と軍中央が自ら認めたかたちになった。首都南京を落としても中国は屈服しなかったから、中国が屈服するまで戦争を拡大・継続していくという決定をしたのである。この政府と軍中央の決定は、日本国民を長期日中全面戦争の泥沼に引きずり込んでいく決定的な契機となった。
この決定に際しては、参謀本部とりわけ不拡大派の多田駿参謀本部次長らが強く反対した。蒋介石政府否認後にくる長期泥沼戦争への突入を回避しようとした彼らは、最後は昭和天皇の「御裁断」を仰いで和平交渉打ち切りの阻止を図ったが、天皇はそれに応ぜず、交渉打ち切りに加担したのである。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
劉修栄(男、63歳)の証言
1937年には、私は16歳で、一家4人(父と兄と弟と私)が、江東門の街から一里ほど離れた所に住んでいました。その頃私たちは情勢が緊張しているは知っていましたが、こんなに早く日本軍がやってくるとは思いませんでしたし、家で飼っていた豚何頭かを無くしてしまうのももったいなくて、難民区には行きませんでした。冬月の9日に、雨花台が緊迫してきたので、私たちは長江の岸辺に駆けつけましたが、渡れなかったので、引き返して来て水関橋に隠れ、そこに住まうことにしました。
冬月11日に、まだ夜が明けないうちに、突然日本兵が数人私と兄が住まっている家に跳び込んできて、布団の中を銃剣でやたらに突き刺しました。私の小さなお腹に2度当たりましたが、布団越しだったので、傷は割りに浅くすみましたが、傷痕は今でもまだあります。私がその時突き刺されて泣き出したために、兄が助けに来ようとして、直ちに日本兵に捕まってしまい、門まで引きずられて、銃剣で何度も突き刺され、こめかみにも一発撃ち込まれて、その場で撃ち殺されました。何日かしてから、父が兄の死体を埋めてくれました。
日本兵は江東門でいっぱい殺しました。2日後に、日本兵が国民党軍の捕虜を陸軍監獄(私の家のすぐ近く)から大茶亭までの間2キロぐらいの所に集めて、銃剣で刺すやら、機関銃で掃射するやらして、一日中殺しまくり、死体がうずたかくなったのを、私は見ましたが、ほんのわずかな人しか九死に一生を得られませんでした。それに又、前に日本の飛行機に爆撃されて壊れた江東門の古い橋が、日本軍によって中国人平民の死体を積み重ね、上に木の板を敷き、それを橋にして歩くようにされたのを見ました。
暖かくなって雪が溶けた頃、江東門一帯は真っ赤な血の池となり、ぞうっと背筋が寒くなったのでした。(呉伝銘、劉興林、何煉生らが記録)
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年3月11日水曜日
南京大虐殺
「南京の真実」と「南京事件の日々」という2冊の書物を約3ヶ月間引用させていただいた。ラーベとヴォートリンの日記を通して、難民区の生活がおぼろげながら分かったのではないかと思う。日本軍が上海での戦いで苦戦し、多くの犠牲を出しながらも、何とか勝利すると、今度は軍の独断専行でその当時の中国の首都南京まで攻め込む。
この日中戦争の大義名分があいまいで、支那膺懲(中国を戦力でこらしめる)であった。宣戦布告もなかった。勝手に日本が中国を侵略していて、第二次上海事変が起きると、軍を増派して上海に送った。それも士気の弱い中年が多かった。上海で、犠牲者が続出する中、勝利すると今度は南京へ。犠牲者が出た分、敵愾心も強くなった。南京一番乗りを競って、各軍が競争となり、食糧などは現地調達であった。村々は略奪され、野営に使われた。村民は、男性は荷物を運ばされたあと殺されたり、又は集められて殺されたり、女性は強姦されたりした。敗残兵は捕虜として大事に取り扱われるわけではなく、軍刀の露になることが多かった。南京までの道のりでもいろいろな残虐行為が繰り返された。
南京が12月12日深夜陥落すると、翌日から掃蕩作戦を開始し、敗残兵を河べりや池の近くに集め機銃掃射して殺すことが多かった。日本軍はあらかじめこの作戦を海外に知られないよう、揚子江に停泊していて、外国人記者が無線記事の送信に利用していたアメリカ砲艦パナイ号を撃沈していた。
ラーベはナチの党員であるが、難民区に逃れてきた難民をアメリカ人宣教師などと一緒になって救おうと尽力した。時にはハーケンクロイツを日本兵の前にかざして大声を出して追っ払ったり、寝る間も惜しんで難民のために日本軍の前に立ちはだかった。帰国後、南京での日本軍の残虐な行為を、何とかヒトラー総統に知ってもらおうと上申書を書くが逆にゲシュタポに逮捕されてしまう。
戦中、ラーベは、心酔していたヒトラーがやっていたことを知ったとき、彼の失望はどれほどのものであったのか?想像するもの難しい!
正しいと信じていた人に裏切られた時のショックは相当のものだろう。
南京での輝かしい活躍が一瞬にして消えたのかもしれない。この話も、人生の不可解さを物語る。
一方、ヴォートリンも金陵女子文理学院で難民の世話に奔走した。まねのできるものではない。体を張って特に若い女性を守ろうとした。でも12月の日本軍の残虐行為が余りにも恐怖を彼女に与えたので、そのことがトラウマになったようだ。自分が難民を救うことができなかったといって、自殺するとは。何と責任感の強い人だ!なんとこの世の中は不条理なのだろうか?
もちろん、残虐行為を行った日本兵も、中国での自分のしたことがトラウマになって、戦後帰国しても夜に眠れなかったり、わめいたりしたりした人も多くいたようだ。
だが、裁かれて、死刑になったのはほんのわずかな人たちであり、ほとんどの兵士はやったことを後世に伝えずだんまりを決め込んだ。
もちろん戦友会の圧力や上からの命令もあったのではないかと思う。又、大日本帝国は降伏直後、大量の関係書類を焼却し、証拠隠滅を図った。当たり前のことだが!!
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
張従貴(男、79歳)の証言
1937年の冬月に、日本軍が南京を占領しました。その時私の家は宝塔山でしたが、日本人は殺そうと思う者を殺し、斬ろうと思う者を斬って、、私たちを死地に追い詰めたので、余所の地に逃げるしかありませんでした。江東門を通って江東門橋の上まで来たときに、橋のそばの葦ず張りの小屋から、実弾入りの銃を担いだ日本軍が何人か出てきました。彼らは有無を言わせずに、私たち一緒に歩いただけで誰も知らない9人を捕まえ、手まね足まねで、私たちにわらを運ばせたり、床を敷かせたり、飯を炊かせたりなどの雑事をやらせました。私たちは怒りを押さえじっと我慢して、何でも言われるままにせざるを得ませんでした。日本軍が晩飯を食べ終わったら、もう暗くなっていましたが、私たち9人を鉄条網で囲んだ運動場の中に行かせ、みんなひざまずかせました。両側に1人ずつ日本軍が立って、私たちを逃げないようにしました。別の日本軍9人が、それぞれ剣をつけた小銃を一挺ずつ持って、私たちめがけて突いて来ました。最初の一突きが腰に来ましたが、とても寒くて、長い綿入れを着ていたので、腰の肉までは刺さりませんでした。2突き目が首に刺さり、たちまち真っ赤の血が流れ出ました。あっという間もなく、出血が多すぎて、私は昏倒してしまい、何も分からなくなり、日本軍も私が死んだと思ったようです。真夜中になって、私は意識を取り戻したので、月明かりで見ると、他の8人があっちに3人こっちに2人と倒れていて、周りは血だらけでした。じいっと耳を澄ましても、何の物音も聞こえないので、多分日本軍はみんな眠ったのだろうと見当をつけて、重たい体を引きずって、鉄条網の前まで這って行き、鉄条網から転がり出ましたら、溝の中に落っこちました。それからまた傷の痛みを我慢して、一里余り這って行き、お墓のあるところでしばらく休みましたが、周りにわらの灰があるのを見かけたので、それを少しつまんで地面に敷き、横たわりました。傷が痛くて、全く眠れずに、夜が明けるまで一睡もせず、難民が何人かそこを通ったので、その人たちの後について行きました。私の体に血がついているために、その人たちは巻き添えを食うのを恐れて、私について行かせませんでした。毛公渡まで来て、妻の父が遠くないことから、その家にたどり着きました。岳父が剥いだばかりの鶏の皮を傷口に貼ってくれて、傷がだんだんよくなりました。こうして命拾いをし、生き残ってこれたのです。(肖仲煌と尹長風が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・平和を探ることが人類の進化だと思います。
私たちが本気になって平和を模索しなければ、いろいろな問題は改善されるどころか、悪化してしまいます。
(アメリカ、40代・女性)
・日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私はとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。(ベルギー、40代・男性)
・日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。
(インド、50代・女性)
・私の地域では、たえまない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。(レバノン、20代・女性)
・武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。私の国、コスタリカは武器をもたない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常に素晴らしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
(コスタリカ、60代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この日中戦争の大義名分があいまいで、支那膺懲(中国を戦力でこらしめる)であった。宣戦布告もなかった。勝手に日本が中国を侵略していて、第二次上海事変が起きると、軍を増派して上海に送った。それも士気の弱い中年が多かった。上海で、犠牲者が続出する中、勝利すると今度は南京へ。犠牲者が出た分、敵愾心も強くなった。南京一番乗りを競って、各軍が競争となり、食糧などは現地調達であった。村々は略奪され、野営に使われた。村民は、男性は荷物を運ばされたあと殺されたり、又は集められて殺されたり、女性は強姦されたりした。敗残兵は捕虜として大事に取り扱われるわけではなく、軍刀の露になることが多かった。南京までの道のりでもいろいろな残虐行為が繰り返された。
南京が12月12日深夜陥落すると、翌日から掃蕩作戦を開始し、敗残兵を河べりや池の近くに集め機銃掃射して殺すことが多かった。日本軍はあらかじめこの作戦を海外に知られないよう、揚子江に停泊していて、外国人記者が無線記事の送信に利用していたアメリカ砲艦パナイ号を撃沈していた。
ラーベはナチの党員であるが、難民区に逃れてきた難民をアメリカ人宣教師などと一緒になって救おうと尽力した。時にはハーケンクロイツを日本兵の前にかざして大声を出して追っ払ったり、寝る間も惜しんで難民のために日本軍の前に立ちはだかった。帰国後、南京での日本軍の残虐な行為を、何とかヒトラー総統に知ってもらおうと上申書を書くが逆にゲシュタポに逮捕されてしまう。
戦中、ラーベは、心酔していたヒトラーがやっていたことを知ったとき、彼の失望はどれほどのものであったのか?想像するもの難しい!
正しいと信じていた人に裏切られた時のショックは相当のものだろう。
南京での輝かしい活躍が一瞬にして消えたのかもしれない。この話も、人生の不可解さを物語る。
一方、ヴォートリンも金陵女子文理学院で難民の世話に奔走した。まねのできるものではない。体を張って特に若い女性を守ろうとした。でも12月の日本軍の残虐行為が余りにも恐怖を彼女に与えたので、そのことがトラウマになったようだ。自分が難民を救うことができなかったといって、自殺するとは。何と責任感の強い人だ!なんとこの世の中は不条理なのだろうか?
もちろん、残虐行為を行った日本兵も、中国での自分のしたことがトラウマになって、戦後帰国しても夜に眠れなかったり、わめいたりしたりした人も多くいたようだ。
だが、裁かれて、死刑になったのはほんのわずかな人たちであり、ほとんどの兵士はやったことを後世に伝えずだんまりを決め込んだ。
もちろん戦友会の圧力や上からの命令もあったのではないかと思う。又、大日本帝国は降伏直後、大量の関係書類を焼却し、証拠隠滅を図った。当たり前のことだが!!
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
張従貴(男、79歳)の証言
1937年の冬月に、日本軍が南京を占領しました。その時私の家は宝塔山でしたが、日本人は殺そうと思う者を殺し、斬ろうと思う者を斬って、、私たちを死地に追い詰めたので、余所の地に逃げるしかありませんでした。江東門を通って江東門橋の上まで来たときに、橋のそばの葦ず張りの小屋から、実弾入りの銃を担いだ日本軍が何人か出てきました。彼らは有無を言わせずに、私たち一緒に歩いただけで誰も知らない9人を捕まえ、手まね足まねで、私たちにわらを運ばせたり、床を敷かせたり、飯を炊かせたりなどの雑事をやらせました。私たちは怒りを押さえじっと我慢して、何でも言われるままにせざるを得ませんでした。日本軍が晩飯を食べ終わったら、もう暗くなっていましたが、私たち9人を鉄条網で囲んだ運動場の中に行かせ、みんなひざまずかせました。両側に1人ずつ日本軍が立って、私たちを逃げないようにしました。別の日本軍9人が、それぞれ剣をつけた小銃を一挺ずつ持って、私たちめがけて突いて来ました。最初の一突きが腰に来ましたが、とても寒くて、長い綿入れを着ていたので、腰の肉までは刺さりませんでした。2突き目が首に刺さり、たちまち真っ赤の血が流れ出ました。あっという間もなく、出血が多すぎて、私は昏倒してしまい、何も分からなくなり、日本軍も私が死んだと思ったようです。真夜中になって、私は意識を取り戻したので、月明かりで見ると、他の8人があっちに3人こっちに2人と倒れていて、周りは血だらけでした。じいっと耳を澄ましても、何の物音も聞こえないので、多分日本軍はみんな眠ったのだろうと見当をつけて、重たい体を引きずって、鉄条網の前まで這って行き、鉄条網から転がり出ましたら、溝の中に落っこちました。それからまた傷の痛みを我慢して、一里余り這って行き、お墓のあるところでしばらく休みましたが、周りにわらの灰があるのを見かけたので、それを少しつまんで地面に敷き、横たわりました。傷が痛くて、全く眠れずに、夜が明けるまで一睡もせず、難民が何人かそこを通ったので、その人たちの後について行きました。私の体に血がついているために、その人たちは巻き添えを食うのを恐れて、私について行かせませんでした。毛公渡まで来て、妻の父が遠くないことから、その家にたどり着きました。岳父が剥いだばかりの鶏の皮を傷口に貼ってくれて、傷がだんだんよくなりました。こうして命拾いをし、生き残ってこれたのです。(肖仲煌と尹長風が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・平和を探ることが人類の進化だと思います。
私たちが本気になって平和を模索しなければ、いろいろな問題は改善されるどころか、悪化してしまいます。
(アメリカ、40代・女性)
・日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私はとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。(ベルギー、40代・男性)
・日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。
(インド、50代・女性)
・私の地域では、たえまない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。(レバノン、20代・女性)
・武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。私の国、コスタリカは武器をもたない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常に素晴らしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
(コスタリカ、60代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年3月10日火曜日
その後のヴォートリン
「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
侵略戦争の犠牲になった中国女性の救済と教育への献身に疲れ果てていた彼女が味わった失望感はあまりにも強烈であった。上海から南京に戻ったヴォートリンは、極度の疲労感と無力感に襲われ、3週間も日記を書くことができなかった。1940年3月30日に、日本の占領工作に従った汪兆銘が国民政府(傀儡)の成立を南京で宣言したことが、ヴォートリンの抑鬱状態に追い打ちをかけた。日本軍占領下の金陵女学院と南京で、彼女が必死になって築き上げてきた努力が無に帰していく思いに陥ったのである。
それから半年後、ヴォートリンは4月14日の日記に「私の気力はもう消滅しそうだ。私はもうこれ以上前に進むことはできないし、仕事の計画を立てることもできない。あらゆる方法に必ずなんらかの障害が立ちはだかっているように思える」と書いたのを最後に、日記が書けなくなったのである。
それ以後ヴォートリンの抑鬱状態はさらに深刻になり、「自分の中国伝道は失敗した」「私は精神病にかかっているようだ」「生きているのが辛いからいっそ死んでしまいたい」と周囲にもらすようになった。
ここにいたって関係者はヴォートリンをアメリカに帰国させ、精神病療養施設で治療させることにして、5月14日、金陵女学院の親友の教師キャサリン・サザランドとジョン・マギー牧師が付き添ってアメリカに帰国させた。この時汽船から一度飛び込み自殺を図ろうとしている。アイダホ州の精神病院で検査をした結果、彼女は重いうつ病にかかっていると診断され、精神療養施設で長期の療養を受けることになった。その後症状が回復したのでテキサス州の静かな町で静養生活をおくらせていたところ、1941年2月、睡眠薬自殺を図ったのである。幸い未遂に終わったのでインディアナ州の精神病院に入院させ治療をほどこした。再び症状が回復、社会復帰を目指して金陵女学院理事会の仕事を手伝わせるまでになっていたが、同年5月14日、インディアナポリスのあった連合キリスト教伝道団の秘書のアパートの台所で突然ガス自殺を図り、自らの生命を絶ってしまったのである。享年55歳だった。
「私の中国での伝道は不成功に終わった」「不治の精神病に苦しむよりは死ぬほうがまだ楽です」という走り書きの遺書が残されていた。
・・・・・・・・以上で「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)からの引用は終了です。・・・・・・
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
劉世海(男、73歳)の証言
民国25年(1936年)に、私は国民党の第5軍に入りました。翌年上海へ赴いて日本軍と戦いましたが、やがて退却して南京に来ました。民国26年12月に、日本軍が南京に迫り、私は雨花台で2,3日戦闘しましたが、部隊が瓦解してしまいました。私たちは下関まで駆けて行って、長江を渡って行きたかったのですが、船がなくて渡れませんでした。
私は安徽の者でしたから、安徽(あんき)へ逃げようとする一団に加わりました。私たち一行は50人足らずで、三汊河から江東門まで来て、蕪湖の方向へ行くことにしていました。道には屍がいっぱい敷き詰められているようでしたが、ある電柱には屍が7つか8つかかっていて、それがみんな針金を鎖骨に通して1つにつなげてあり、男もあれば女もあり、子どものまでありました。さらに行け行くほど、死者は多くなってきました。
江東門まで来たら、模範監獄の門の前で、一隊の日本兵に差し止められました。私たちは白旗を掲げて日本兵に見せ、「我々は投降した兵士たちだ」と言いました。日本兵は有無を言わさず、私たちを強引に監獄の東側の野菜畑まで駆り立て、一列に並べと命令しましたが、周りには日本兵5,60人いて、そのうちの十数人が軍刀を引っさげ、その他はみんな銃に剣を着けていました。と、不意に日本兵が周りから一斉に跳びかかって来て、軍刀や銃剣やらで滅多斬りに滅多つきをくりかえし、私は首に一太刀やられました。私が覚えているのはただ、日本兵が軍刀を振りかざして斬りかかってくる恐ろしい姿だけで、あとは何も分かりませんでした。
意識を取り戻した時は、既に暗くなっていて、死んだ人2人に押し付けられていたのですが、力を入れて押しのけ立ち上がりました。幸いに傷が余り深くなく、血はもう止まっていました。まだ、明るくないうちに、急いでその野菜畑を離れ、半里ほど歩いたところで防空壕を見かけたので、その壕に隠れました。夜が明けると、日本兵が又やってきて、日本語でひとしきり大声をあげていましたが、「出て来い」とでも叫んでいたのでしょう。壕の中が暗くて、何も見えなかったので、日本兵はしばらくわめいただけで行ってしまいました。
遭難したのは、冬月の14日か15日でした。同行した50人足らずのうちで、私だけが生き残りました。今も首に刀のあとが10ミリほど残っています。(段月萍が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)
・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)
・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)
・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)
・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
侵略戦争の犠牲になった中国女性の救済と教育への献身に疲れ果てていた彼女が味わった失望感はあまりにも強烈であった。上海から南京に戻ったヴォートリンは、極度の疲労感と無力感に襲われ、3週間も日記を書くことができなかった。1940年3月30日に、日本の占領工作に従った汪兆銘が国民政府(傀儡)の成立を南京で宣言したことが、ヴォートリンの抑鬱状態に追い打ちをかけた。日本軍占領下の金陵女学院と南京で、彼女が必死になって築き上げてきた努力が無に帰していく思いに陥ったのである。
それから半年後、ヴォートリンは4月14日の日記に「私の気力はもう消滅しそうだ。私はもうこれ以上前に進むことはできないし、仕事の計画を立てることもできない。あらゆる方法に必ずなんらかの障害が立ちはだかっているように思える」と書いたのを最後に、日記が書けなくなったのである。
それ以後ヴォートリンの抑鬱状態はさらに深刻になり、「自分の中国伝道は失敗した」「私は精神病にかかっているようだ」「生きているのが辛いからいっそ死んでしまいたい」と周囲にもらすようになった。
ここにいたって関係者はヴォートリンをアメリカに帰国させ、精神病療養施設で治療させることにして、5月14日、金陵女学院の親友の教師キャサリン・サザランドとジョン・マギー牧師が付き添ってアメリカに帰国させた。この時汽船から一度飛び込み自殺を図ろうとしている。アイダホ州の精神病院で検査をした結果、彼女は重いうつ病にかかっていると診断され、精神療養施設で長期の療養を受けることになった。その後症状が回復したのでテキサス州の静かな町で静養生活をおくらせていたところ、1941年2月、睡眠薬自殺を図ったのである。幸い未遂に終わったのでインディアナ州の精神病院に入院させ治療をほどこした。再び症状が回復、社会復帰を目指して金陵女学院理事会の仕事を手伝わせるまでになっていたが、同年5月14日、インディアナポリスのあった連合キリスト教伝道団の秘書のアパートの台所で突然ガス自殺を図り、自らの生命を絶ってしまったのである。享年55歳だった。
「私の中国での伝道は不成功に終わった」「不治の精神病に苦しむよりは死ぬほうがまだ楽です」という走り書きの遺書が残されていた。
・・・・・・・・以上で「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)からの引用は終了です。・・・・・・
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
劉世海(男、73歳)の証言
民国25年(1936年)に、私は国民党の第5軍に入りました。翌年上海へ赴いて日本軍と戦いましたが、やがて退却して南京に来ました。民国26年12月に、日本軍が南京に迫り、私は雨花台で2,3日戦闘しましたが、部隊が瓦解してしまいました。私たちは下関まで駆けて行って、長江を渡って行きたかったのですが、船がなくて渡れませんでした。
私は安徽の者でしたから、安徽(あんき)へ逃げようとする一団に加わりました。私たち一行は50人足らずで、三汊河から江東門まで来て、蕪湖の方向へ行くことにしていました。道には屍がいっぱい敷き詰められているようでしたが、ある電柱には屍が7つか8つかかっていて、それがみんな針金を鎖骨に通して1つにつなげてあり、男もあれば女もあり、子どものまでありました。さらに行け行くほど、死者は多くなってきました。
江東門まで来たら、模範監獄の門の前で、一隊の日本兵に差し止められました。私たちは白旗を掲げて日本兵に見せ、「我々は投降した兵士たちだ」と言いました。日本兵は有無を言わさず、私たちを強引に監獄の東側の野菜畑まで駆り立て、一列に並べと命令しましたが、周りには日本兵5,60人いて、そのうちの十数人が軍刀を引っさげ、その他はみんな銃に剣を着けていました。と、不意に日本兵が周りから一斉に跳びかかって来て、軍刀や銃剣やらで滅多斬りに滅多つきをくりかえし、私は首に一太刀やられました。私が覚えているのはただ、日本兵が軍刀を振りかざして斬りかかってくる恐ろしい姿だけで、あとは何も分かりませんでした。
意識を取り戻した時は、既に暗くなっていて、死んだ人2人に押し付けられていたのですが、力を入れて押しのけ立ち上がりました。幸いに傷が余り深くなく、血はもう止まっていました。まだ、明るくないうちに、急いでその野菜畑を離れ、半里ほど歩いたところで防空壕を見かけたので、その壕に隠れました。夜が明けると、日本兵が又やってきて、日本語でひとしきり大声をあげていましたが、「出て来い」とでも叫んでいたのでしょう。壕の中が暗くて、何も見えなかったので、日本兵はしばらくわめいただけで行ってしまいました。
遭難したのは、冬月の14日か15日でした。同行した50人足らずのうちで、私だけが生き残りました。今も首に刀のあとが10ミリほど残っています。(段月萍が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)
・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)
・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)
・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)
・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年3月9日月曜日
その後のヴォートリン
「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
1939年2月以降からは、日記の記述が極端に少なくなり、タイプミスも目立って多くなってゆく。ヴォートリンの鬱症状が徐々に悪化していく経過が日記の記述からも見て取れるようになる。
1939年3月末、家庭工芸クラスの半年の教育課程が終了した。生徒たちは、金陵女学院内外の関係者を招待して卒業作品展示即売会を開催、ヴォートリンら教職員に対しては自分たちで料理と手作りの菓子を用意して謝恩会を開いた。100名の生徒のうち53人が、家政の知識と技術ならびに職業技術を実際の社会に出て役立てるために、金陵女学院の校門から巣立って行った。ヴォートリンの夢の実現であり、新中国の建設を予知させる希望でもあった。
ヴォートリンはさらなる夢であった農村女子教育クラスの開校を計画し、1940年秋の実現を目指して準備を開始しようとした。1939年夏、ヴォートリンが所属する連合キリスト教伝道団は、彼女の疲労を考慮してアメリカへの帰国と休暇を勧めたが、彼女は固辞した。貧困に苦しむ中国女性を救済し、教育することが夢であり、また天職と信じていたヴォートリンには、現在日本の侵略戦争の悲惨な犠牲になっている南京の婦女子を見捨ててアメリカに帰ることはできなかったのである。しかし、その夢と使命感に執着するがゆえに彼女の疲労と倦怠もしだいに深刻になっていった。
1939年9月、ヨーロッパ大戦が勃発して、ドイツ、イタリアの大攻勢が続き、勢いづいた日本が中国侵略をさらに拡大させ、戦争の惨禍がさらに世界に広がったことは、ヴォートリンをいよいよ絶望的にさせた。
南京事件から2年目の1939年12月中旬が巡ってきたとき、ヴォートリンは12月8日の日記に「2年前の今夜、私たちは南京市内を砲撃する大砲の音をはじめて聞いた」と記し、12月11日の日記に「今晩は死ぬほど疲れた、この1週間どうやっていけるかわからない」と書いたきり、21日まで日記を書いていない。2年前の南京事件の日々のトラウマが彼女を抑鬱状態に陥らせたものと思われる。
1940年になるとヴォートリンの日記の記述はさらに目立って少なくなる。そして、彼女の抑鬱症状の引き金となったのが、同年3月上旬の上海での体験であった。キリスト教宗教教育者の大会に出席したヴォートリンは、上海の街で、豪華で享楽的な生活を楽しんでいる多くの中国女性の姿を見て、気持ちが錯乱するような衝撃を受けたのである。侵略戦争に苦しむ中国の運命に対して全く無関心のごとく、きらびやかな衣装を着て、ショッピングや映画を楽しむ若い中国人女性たちを、ヴォートリンは正視することができなかった。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
梁玉山(男、82歳)の証言
1937年の冬私は鳳凰街8号に住んでいましたが、日本の侵略軍が南京を占領する前に、冬月の3日に六合に避難しました。1月の5日に、南京に戻ってきて、従弟の王金栄のところに身を寄せました。彼は徳士古の石油スタンドで倉庫の番人をしていて、いなくなってなかったのです。1月6日の午後、私は城外の徳士古石油スタンドに行ったのですが、その道で漢中門を通った時、漢中門の石城橋の東側に、日本軍に虐殺された屍がうずたかく三つの山になっていて、ざっと3000体ほどあるのを、この眼で見ました。後に中国紅十字会が屍を片付けるのに、小舟で二道挭子まで運び、そこに穴を掘って埋葬しました。明くる年に二道挭子へ行ってみましたら、やはり土がうずたかくなっていて、周りにぐるっと柳が植わっていました。
1月13日に良民証がもらえてから、おばが私の子ども3人と他の家の8人との11人を面倒みていて、大廠鎮の王金栄の奥さんのお母さんの家に厄介になっていたのですが、私は安心いかなくて、様子を見に出かけました。下関から小舟に乗り長江を渡ったのですが、下関の七里洲で浮桟橋が1つ爆沈せられて、あたりの水が真っ赤に染まっているのを見かけました。屍がみんな水に浸かっていて何とその数の多いこと!日本軍は南京で焼き殺し強姦し、なさざる悪事はなかったのです。山西路から漢中門までの難民区では、しょっちゅう数知れぬ青年が日本軍に捕まり処刑されたり労役につかせられたりしていたのです。(井升安と丁亜慶が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願ってます。(オーストラリア、20代・女性)
・このグローバル9条キャンペーンに非常に感動しました。憲法9条を維持しようというこの草の根運動には、日本がアジアとの関係に誠意を持って向かっている姿勢がうかがえます。このキャンペーンに多くの日本人が賛同し、成功することを望みます。がんばってください!(韓国、30代・男性)
・憲法9条に賛同します。このような憲法があることで、私たちは、戦争のもついかなる攻撃性に対して共に、立ち上がるような地域社会の結びつきを強くしていくことができると思います。私たち一人ひとりのの協力こそが、最高の平和の武器だと思います。(ベルギー、50代・男性)
・日本のような歴史を持つ国が、憲法9条を広めようという行動をとることは、世界のほかの国々にとっての模範です。ほかの国々もそれに続くことを祈って。私たちに必要なことは平和への挑戦です。
(コスタリカ、20代・女性)
・日本国憲法第9条の改定に反対です。(ロシア、20代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
1939年2月以降からは、日記の記述が極端に少なくなり、タイプミスも目立って多くなってゆく。ヴォートリンの鬱症状が徐々に悪化していく経過が日記の記述からも見て取れるようになる。
1939年3月末、家庭工芸クラスの半年の教育課程が終了した。生徒たちは、金陵女学院内外の関係者を招待して卒業作品展示即売会を開催、ヴォートリンら教職員に対しては自分たちで料理と手作りの菓子を用意して謝恩会を開いた。100名の生徒のうち53人が、家政の知識と技術ならびに職業技術を実際の社会に出て役立てるために、金陵女学院の校門から巣立って行った。ヴォートリンの夢の実現であり、新中国の建設を予知させる希望でもあった。
ヴォートリンはさらなる夢であった農村女子教育クラスの開校を計画し、1940年秋の実現を目指して準備を開始しようとした。1939年夏、ヴォートリンが所属する連合キリスト教伝道団は、彼女の疲労を考慮してアメリカへの帰国と休暇を勧めたが、彼女は固辞した。貧困に苦しむ中国女性を救済し、教育することが夢であり、また天職と信じていたヴォートリンには、現在日本の侵略戦争の悲惨な犠牲になっている南京の婦女子を見捨ててアメリカに帰ることはできなかったのである。しかし、その夢と使命感に執着するがゆえに彼女の疲労と倦怠もしだいに深刻になっていった。
1939年9月、ヨーロッパ大戦が勃発して、ドイツ、イタリアの大攻勢が続き、勢いづいた日本が中国侵略をさらに拡大させ、戦争の惨禍がさらに世界に広がったことは、ヴォートリンをいよいよ絶望的にさせた。
南京事件から2年目の1939年12月中旬が巡ってきたとき、ヴォートリンは12月8日の日記に「2年前の今夜、私たちは南京市内を砲撃する大砲の音をはじめて聞いた」と記し、12月11日の日記に「今晩は死ぬほど疲れた、この1週間どうやっていけるかわからない」と書いたきり、21日まで日記を書いていない。2年前の南京事件の日々のトラウマが彼女を抑鬱状態に陥らせたものと思われる。
1940年になるとヴォートリンの日記の記述はさらに目立って少なくなる。そして、彼女の抑鬱症状の引き金となったのが、同年3月上旬の上海での体験であった。キリスト教宗教教育者の大会に出席したヴォートリンは、上海の街で、豪華で享楽的な生活を楽しんでいる多くの中国女性の姿を見て、気持ちが錯乱するような衝撃を受けたのである。侵略戦争に苦しむ中国の運命に対して全く無関心のごとく、きらびやかな衣装を着て、ショッピングや映画を楽しむ若い中国人女性たちを、ヴォートリンは正視することができなかった。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
梁玉山(男、82歳)の証言
1937年の冬私は鳳凰街8号に住んでいましたが、日本の侵略軍が南京を占領する前に、冬月の3日に六合に避難しました。1月の5日に、南京に戻ってきて、従弟の王金栄のところに身を寄せました。彼は徳士古の石油スタンドで倉庫の番人をしていて、いなくなってなかったのです。1月6日の午後、私は城外の徳士古石油スタンドに行ったのですが、その道で漢中門を通った時、漢中門の石城橋の東側に、日本軍に虐殺された屍がうずたかく三つの山になっていて、ざっと3000体ほどあるのを、この眼で見ました。後に中国紅十字会が屍を片付けるのに、小舟で二道挭子まで運び、そこに穴を掘って埋葬しました。明くる年に二道挭子へ行ってみましたら、やはり土がうずたかくなっていて、周りにぐるっと柳が植わっていました。
1月13日に良民証がもらえてから、おばが私の子ども3人と他の家の8人との11人を面倒みていて、大廠鎮の王金栄の奥さんのお母さんの家に厄介になっていたのですが、私は安心いかなくて、様子を見に出かけました。下関から小舟に乗り長江を渡ったのですが、下関の七里洲で浮桟橋が1つ爆沈せられて、あたりの水が真っ赤に染まっているのを見かけました。屍がみんな水に浸かっていて何とその数の多いこと!日本軍は南京で焼き殺し強姦し、なさざる悪事はなかったのです。山西路から漢中門までの難民区では、しょっちゅう数知れぬ青年が日本軍に捕まり処刑されたり労役につかせられたりしていたのです。(井升安と丁亜慶が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願ってます。(オーストラリア、20代・女性)
・このグローバル9条キャンペーンに非常に感動しました。憲法9条を維持しようというこの草の根運動には、日本がアジアとの関係に誠意を持って向かっている姿勢がうかがえます。このキャンペーンに多くの日本人が賛同し、成功することを望みます。がんばってください!(韓国、30代・男性)
・憲法9条に賛同します。このような憲法があることで、私たちは、戦争のもついかなる攻撃性に対して共に、立ち上がるような地域社会の結びつきを強くしていくことができると思います。私たち一人ひとりのの協力こそが、最高の平和の武器だと思います。(ベルギー、50代・男性)
・日本のような歴史を持つ国が、憲法9条を広めようという行動をとることは、世界のほかの国々にとっての模範です。ほかの国々もそれに続くことを祈って。私たちに必要なことは平和への挑戦です。
(コスタリカ、20代・女性)
・日本国憲法第9条の改定に反対です。(ロシア、20代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年3月8日日曜日
その後のヴォートリン
「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
1938年の夏、ヴォートリンは、金陵女学院に安全区撤廃後も保護収容した800人余りの若い婦女子の難民にたいする夏期学校を開いた。南京事件で夫を殺された若い寡婦、父親を殺害され、あるいは一家離散して身寄りのなくなった娘や少女たちが、これから自分たちで生きていくためには、文字が読め、計算ができ、手に職を持つ必要があった。そのために、識字教育から始まって、職業技術教育、結婚生活に備えての家政教育、衛生看護教育等も受けさせる必要があった。これらはすべてヴォートリンのこれまでのセツルメント的な隣保学校の教育で実践されてきたものであった。
1938年の9月には、金陵女学院に正式な家庭工芸クラスと中学実験クラスを開設し、広く南京市内の貧困家庭の婦女子へも開放した。前者では、女性に、裁縫、料理、菜園づくり、家畜飼育、などを教えるだけでなく、紡績、紡織、衣服の仕立てなどの職業技術の訓練指導も行った。後者では、貧困家庭の女子を入学させて、基礎的な中学校教科を教えるとともに、生活教育、労働教育、奉仕活動教育、宗教教育にも力を入れた。
ヴォートリンはこのような教育を天職と考えていたので、ある意味で教育者としての彼女の夢が実現したともいえるが、そのために彼女が直面した現実の障害と困難はもっと大きかった。金陵女学院に難民として収容した婦女子の生活費は南京国際救済委員会から支給されたが、教育費は最初からの約束により一切援助されなかった。家庭工芸クラスの生徒100名、中学実験クラスの生徒170余名からは、授業料、学費の徴収はほとんどできなかったので、学校経費の調達にヴォートリンは頭を悩ました。南京にとどまった金陵女学院の約10名の教職員と、家庭工芸クラスと中学実験クラスの授業を担当してくれる教師たちも、奉仕的活動には限度があり、彼らの生活を維持するに足りる給料を支払ってやる必要があった。こうした教育経費確保のための責任もヴォートリンの肩にかかっていたのである。
一方、南京に中華民国維新政府を樹立させ、南京市政府公署を組織させて、占領地行政を開始した日本当局からの政治圧力も、ヴォートリンを悩ませた。南京に駐在する日本の軍政当局の関係者がくりかえし金陵女学院を視察に訪れ、傀儡政府の学校制度に従うことや同政府の発行する教科書を使用することなどを要求したのである。
教育者としての夢を実現するにあたって、ヴォートリンが突き当たった困難と障害は、彼女を疲労させた。何よりも彼女の心が傷ついたのは、日本軍が次々と中国の大都市を爆撃、破壊し、戦火を拡大していくニュースに接した時だった。ヴォートリンが中国で実現しようとした夢を、日本軍が1つ1つ破壊していくように思えたのである。日本軍侵攻のニュースは、南京事件の日々に目撃し体験した惨状を想起させ、ヴォートリンが受けたトラウマを少しずつ悪化させていくことになった。
1938年12月中旬になると、1年前の南京事件の日々の記憶がヴォートリンに恐怖と悲しみの思いを新たにさせ、いっそう彼女を沈うつにさせた。日記にこう書いている。
「ちょうど1年前の砲火と砲撃を思い出して悲痛な思いに駆られる」(12月10日)、「今晩、私たちの心は悲しみに沈んでいる。ちょうど1年前の、銃と銃剣にさらされた恐怖が今日あらためて蘇ってくる」(12月12日)、「昨年のまさにこの日、何千人、さらに何千人と殺された人たちのために、とくに追悼式をしてやるべきではなかったろうか」(12月13日)、「ちょうど1年前の今晩、金曜日、この時間に私たちは非常な恐怖に駆られながら正門に立っていた。その時は私たちは知らなかったが、私たちの難民収容所の12人の若い女性がキャンパスから拉致されていったのだ。あの夜は一生忘れることができない」(12月16日)、「昨年、私たちが最も恐ろしい体験をした日の一周年である」(12月17日)。
ヴォートリンは1日1日、そして一刻ごとに1年前の残虐と恐怖の体験をありありと想起しては、トラウマを深めていたのである。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
高秀琴(女、64歳)の証言
1937年には、私は17歳で、父について漢中門外で芦のむしろを編んだり、芦のたきぎを売ったりして、暮らしていました。日本兵が入ってくる前から、難民区へ行っている人もいました。私の家はお金が無かったので、外にもたくさんいた貧乏人と同じように、まだ家に留まっていました。
日本軍が南京を占領してからは、しょっちゅう食べるものを捜しに城外の私たちの住んでいるところにやってきて、豚や鶏を見つけてはつかまえて行きました。私たちは自分で掘った地下の洞窟に身を潜め、地上で鶏が跳んだり犬が鳴いたりしているのや雑然とした革靴の物音がはっきり聞こえていました。
ある日、私が城内へ行ったら、日本兵が手にたこのできている人たちを捕まえてトラック8,9台に載せ、漢中門の埠頭まで引っ張っていき機銃掃射で死なせました。午前9時か10時頃から午後の2時くらいまで、漢中門埠頭から聞こえてくる銃声がずっと鳴り続けていました。銃声が止んでから、私たち仲間でその所まで走って行き、死体で埠頭が埋まっているのをこの眼で見たのですが、何とも見るに耐えない惨状でした。だいぶたってから、やっと紅卍字会の淘煉廠の近くに大きな穴を2つ掘って、屍を埋めました。
ある日の午前中に、私は5,60歳のお婆さん3人と、漢中門へ行って家へ帰って食べる味噌を担いでこようとしました。帰ってくるときに、城門まで来たら、歩哨に立っていた日本兵に差し止められて、私たちの担いでいる味噌を食べさせろと言われました。その味噌が良くないものと分かったら、もうほしがりませんでした。私はその時、頭にボロの頭巾をかぶり、顔は汚く塗りたくって、うんと見がたいかっこうをしていました。私たちが行こうとしたら、日本軍が突然私の頭巾を引っぱがして、こいつは若い娘だと言うので、そうじゃないと私は言いました。二の句を継がせずに、彼らは私を引きずって兵舎の方へ走って行きました。その道でちょうど馬に乗った将校2人と出くわし、兵隊は立ち止まって敬礼し、将校が問いかけるのに答えました。その隙に私は逃げ出しました。遠くまで逃げないうちに、兵隊が私に3発撃ったのですが、その一発が私の左腕に当たりました。家に帰ったら、手が血だらけで、紅く腫れてきました。だいぶたってよくなりましたが、今でも幅2ミリくらい、長さ5ミリほどの傷痕があります。(陸家○が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)
・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。(モンゴル、60代・男性)
・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)
・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。(中国、40代・男性)
・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
1938年の夏、ヴォートリンは、金陵女学院に安全区撤廃後も保護収容した800人余りの若い婦女子の難民にたいする夏期学校を開いた。南京事件で夫を殺された若い寡婦、父親を殺害され、あるいは一家離散して身寄りのなくなった娘や少女たちが、これから自分たちで生きていくためには、文字が読め、計算ができ、手に職を持つ必要があった。そのために、識字教育から始まって、職業技術教育、結婚生活に備えての家政教育、衛生看護教育等も受けさせる必要があった。これらはすべてヴォートリンのこれまでのセツルメント的な隣保学校の教育で実践されてきたものであった。
1938年の9月には、金陵女学院に正式な家庭工芸クラスと中学実験クラスを開設し、広く南京市内の貧困家庭の婦女子へも開放した。前者では、女性に、裁縫、料理、菜園づくり、家畜飼育、などを教えるだけでなく、紡績、紡織、衣服の仕立てなどの職業技術の訓練指導も行った。後者では、貧困家庭の女子を入学させて、基礎的な中学校教科を教えるとともに、生活教育、労働教育、奉仕活動教育、宗教教育にも力を入れた。
ヴォートリンはこのような教育を天職と考えていたので、ある意味で教育者としての彼女の夢が実現したともいえるが、そのために彼女が直面した現実の障害と困難はもっと大きかった。金陵女学院に難民として収容した婦女子の生活費は南京国際救済委員会から支給されたが、教育費は最初からの約束により一切援助されなかった。家庭工芸クラスの生徒100名、中学実験クラスの生徒170余名からは、授業料、学費の徴収はほとんどできなかったので、学校経費の調達にヴォートリンは頭を悩ました。南京にとどまった金陵女学院の約10名の教職員と、家庭工芸クラスと中学実験クラスの授業を担当してくれる教師たちも、奉仕的活動には限度があり、彼らの生活を維持するに足りる給料を支払ってやる必要があった。こうした教育経費確保のための責任もヴォートリンの肩にかかっていたのである。
一方、南京に中華民国維新政府を樹立させ、南京市政府公署を組織させて、占領地行政を開始した日本当局からの政治圧力も、ヴォートリンを悩ませた。南京に駐在する日本の軍政当局の関係者がくりかえし金陵女学院を視察に訪れ、傀儡政府の学校制度に従うことや同政府の発行する教科書を使用することなどを要求したのである。
教育者としての夢を実現するにあたって、ヴォートリンが突き当たった困難と障害は、彼女を疲労させた。何よりも彼女の心が傷ついたのは、日本軍が次々と中国の大都市を爆撃、破壊し、戦火を拡大していくニュースに接した時だった。ヴォートリンが中国で実現しようとした夢を、日本軍が1つ1つ破壊していくように思えたのである。日本軍侵攻のニュースは、南京事件の日々に目撃し体験した惨状を想起させ、ヴォートリンが受けたトラウマを少しずつ悪化させていくことになった。
1938年12月中旬になると、1年前の南京事件の日々の記憶がヴォートリンに恐怖と悲しみの思いを新たにさせ、いっそう彼女を沈うつにさせた。日記にこう書いている。
「ちょうど1年前の砲火と砲撃を思い出して悲痛な思いに駆られる」(12月10日)、「今晩、私たちの心は悲しみに沈んでいる。ちょうど1年前の、銃と銃剣にさらされた恐怖が今日あらためて蘇ってくる」(12月12日)、「昨年のまさにこの日、何千人、さらに何千人と殺された人たちのために、とくに追悼式をしてやるべきではなかったろうか」(12月13日)、「ちょうど1年前の今晩、金曜日、この時間に私たちは非常な恐怖に駆られながら正門に立っていた。その時は私たちは知らなかったが、私たちの難民収容所の12人の若い女性がキャンパスから拉致されていったのだ。あの夜は一生忘れることができない」(12月16日)、「昨年、私たちが最も恐ろしい体験をした日の一周年である」(12月17日)。
ヴォートリンは1日1日、そして一刻ごとに1年前の残虐と恐怖の体験をありありと想起しては、トラウマを深めていたのである。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
高秀琴(女、64歳)の証言
1937年には、私は17歳で、父について漢中門外で芦のむしろを編んだり、芦のたきぎを売ったりして、暮らしていました。日本兵が入ってくる前から、難民区へ行っている人もいました。私の家はお金が無かったので、外にもたくさんいた貧乏人と同じように、まだ家に留まっていました。
日本軍が南京を占領してからは、しょっちゅう食べるものを捜しに城外の私たちの住んでいるところにやってきて、豚や鶏を見つけてはつかまえて行きました。私たちは自分で掘った地下の洞窟に身を潜め、地上で鶏が跳んだり犬が鳴いたりしているのや雑然とした革靴の物音がはっきり聞こえていました。
ある日、私が城内へ行ったら、日本兵が手にたこのできている人たちを捕まえてトラック8,9台に載せ、漢中門の埠頭まで引っ張っていき機銃掃射で死なせました。午前9時か10時頃から午後の2時くらいまで、漢中門埠頭から聞こえてくる銃声がずっと鳴り続けていました。銃声が止んでから、私たち仲間でその所まで走って行き、死体で埠頭が埋まっているのをこの眼で見たのですが、何とも見るに耐えない惨状でした。だいぶたってから、やっと紅卍字会の淘煉廠の近くに大きな穴を2つ掘って、屍を埋めました。
ある日の午前中に、私は5,60歳のお婆さん3人と、漢中門へ行って家へ帰って食べる味噌を担いでこようとしました。帰ってくるときに、城門まで来たら、歩哨に立っていた日本兵に差し止められて、私たちの担いでいる味噌を食べさせろと言われました。その味噌が良くないものと分かったら、もうほしがりませんでした。私はその時、頭にボロの頭巾をかぶり、顔は汚く塗りたくって、うんと見がたいかっこうをしていました。私たちが行こうとしたら、日本軍が突然私の頭巾を引っぱがして、こいつは若い娘だと言うので、そうじゃないと私は言いました。二の句を継がせずに、彼らは私を引きずって兵舎の方へ走って行きました。その道でちょうど馬に乗った将校2人と出くわし、兵隊は立ち止まって敬礼し、将校が問いかけるのに答えました。その隙に私は逃げ出しました。遠くまで逃げないうちに、兵隊が私に3発撃ったのですが、その一発が私の左腕に当たりました。家に帰ったら、手が血だらけで、紅く腫れてきました。だいぶたってよくなりましたが、今でも幅2ミリくらい、長さ5ミリほどの傷痕があります。(陸家○が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)
・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。(モンゴル、60代・男性)
・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)
・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。(中国、40代・男性)
・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
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