2009年1月4日日曜日

1938年 南京 1月4日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月4日
 あいにく、わが家は安全区のはじにある。そのうち、火の手がのびてくるのではないかと不安でたまらない。昨日、またしても近所で3軒放火された。今こうしているうちにも、南の方で新に煙が立ち昇っている。それはそうと、市内はあい変らず闇に包まれている。下関の発電機は無事なはずなのに。幾度も日本側に抗議しているが、さっぱりだ。取締りのため軍事警察がおかれてからは、治安は全体的に確かに良くなったといえるだろう。けれども警察官の中にもいかがわしい連中がいる。そいつらを見て見ぬ振りをするだけだはない。一緒になって悪事を働くことさえあるのだ。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月4日 火曜日
 晴天の暖かい日が続いているところをみると、天にまします神は、きっと弱者に手心を加えてくださっているのだろう。キャンパスでは引き続き登録が行われている。男子に関してはほとんど完了した模様だ。今日は、多分5000人ないし一万人の女性が登録しただろう。少なくとも訓示を聞き、予備登録票を受け取るという第一段階は終了しただろう。手続きは8時少し過ぎに始まり、昼休みを除いて4時まで続いた。17歳から30歳までの女性だけが登録するように、との指示があったが、多くの者はそれよりも若いか年長であった。概して、女性は男性よりもましな扱いを受けたが、それでもやはり、警備についている兵士たちは、牛を扱うように女性を引き立て、しきりに面白がったり、時としては頬に判子を押すなどして、当然ながら、彼女たちに恥ずかしい思いをさせている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

 南京が陥落してから今日でちょうど3週間になるが、今までのところまだ外国人の出入りは認められていない。

・・・・・・・今夜、南山公寓から火災を2件ー1件は南門付近、もう1件は東門付近ーを目撃したが、これは、いつもに比べてずっと少ない件数だ。登録が終わり次第、避難民は、安全であるという保証のもとに、自宅に帰るよう強く促されるだろう。かわいそうに、帰る家のない人が大勢いるし、たとえ幸運なことに家があっても、これまで何度となく略奪をこうむっているというのに。

「Imagine9」【合同出版】より

想像してごらん、

基地をなくして緑と海を

取りもどしていく世界を。

Imagine,

A world that gets rid of

military bases and reclaims

the forests and the oceans.


森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



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2009年1月3日土曜日

1938年 南京 1月3日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月3日
昨日夜7時に、スマイスがフィッチ宛の報告書を手に医者の許伝音氏のところからやってきた。

    フィッチ様!
 本日午後4時半頃、劉培坤は暴行されそうになった妻を守ろうとして日本兵に射殺されました。
 近所の家が日本兵に占領されているため、我が家は今、逃げてきた婦人達でいっぱいです。私はシュペアリング氏に手紙を書き、すぐにこちらへ来て我々を守ってくださるようお願いしました。シュペアリング氏の体があかない場合、ここ寧海路五号に、誰か他の外国人を差し向けていただけないでしょうか?                         敬具
                           許伝音


 本部に泊り込んでいるはずのシュペアリングをスマイスが探しに行っている間、私はマギーと一緒に日本大使館へ行った。マギーはすでにこの件について詳しい報告を受けていた。田中氏に軍部に出向いてもらい、この事件を調査するよう要求してもらうのだ。これは実に計画的で残虐な犯行だ。
 劉の妻がおそわれたのは昨日の朝だった。5人の子どもがいる。夫が駆けつけ、日本兵の横っ面をはって追い払った。午後、朝は丸腰だったその兵士は、今度はピストルを持ってやってきて、台所に隠れていた劉を引きずり出した。近所の人が必死で命乞いをし、ある者は足元にひれ伏してすがった。だが日本兵は聞き入れなかった。
 田中氏は、直ちに軍部に報告すると約束した。私も氏が約束を果たさなかったとは思っていない。だが結局、沙汰やみだ。兵士の処罰といえば、いつだってたかだか平手打ちどまり。それ以上こらしめたという話は聞いたことがない。
 せめてもの慰めのつもりだろう、田中氏は、その後とてもうれしいことを教えてくれた。目下蕪湖にいるローゼン、それから多分ヒュルターとシャルフェンベルグの3人が、1月5日に南京に到着するそうだ。ということは、アメリカ大使館の人たちと同じ日だ。そちらからはすでに連絡が来ている。
・・・・・・・・・・・


 今日は2階の風呂場でも水が出た。正午には、安全区のあちこちで電気もついたのだが、一時ごろになってまた止まってしまった。多分、我々にラジオのニュースを聞かせないためだろう。
 給食所と収容所の決算報告で、委員会の財政が必ずしも楽ではないことがわかったが、これには改めてうなってしまった。要するに、働いている中国人がめいめいしっかり手数料を取っていたのだ。なんせここは中国だ。手数料なしには何一つ運ばない。・・・・・・・・・


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)
1月3日 月曜日
 引き続き登録が行われている。おそらく8ヶ所で行われているのだが、間違いなく、金陵女子文理学院には大勢の人がきている。午前8時には日本側の警備兵が到着し、8時30分には訓示が始まり、最初は女性に対し、そのあと男性に対して行われた。昨日中国側が策定した新「自治」機構方式は、少なくとも金陵女子文理学院では、日本側の担当官によって完全に、そして唐突に放棄されてしまった。午前中に金陵大学に行ったところ、そこでも農学部棟で登録が行われていることを知ったが、群衆の人数は女子学院に比べると少ない。そのために、女子学院では粥の配給が一日一回に減らされており、子どもたちにはとてもつらい思いをさせている。しかし、兵士であるとして連行されそうになった場合、ここでは、自分の連れ合いに兵士ではないことを証言してもらえるせいか、男性たちは、女子学院で登録する方が良いと思っているようだ。キャンパスで登録が行われているかぎり、うろつき回る兵士による事件は起きていない。5人の女性の夫を捜し出すのに力を貸したいと思い、今日は彼女たちのために手紙というか、嘆願書を書いた。
 今夜、使い走りの魏少年が彼の体験をつぶさに話してくれた。12月14日、少年は最初に国際委員会に、次に大学病院に手紙をもって行く途中のことだった。鼓楼の近くで2人の兵士に制止された。
一人が腹部に銃剣を突き付け、もう一人が背後で銃を構えていた。彼らは、少年が腕に巻いていたアメリカ大使館の腕章を引きちぎり、私の書いた手紙を奪い取って破り捨て、少年が携帯していた身分証明書を投げ捨ててしまった。そして、もちろん、自転車は取り上げられた。少年は無理やりに下関(シャーカン)へ行かされ、そこでは10日間、彼らのためにもっぱら略奪を働いたり、盗品をトラックに積み込んだりして過ごした。少年は、何百人という中国人が殺害されるのを目撃したそうだ。兵士もいれば民間人もいるし、老人もいれば若者もいた。いたるところに死体が転がっていた。倒壊をまぬがれた建物はほとんど残っていないようだ。残っているものとしては揚子江賓館と聖公会の建物を少年は記憶していた。運び出されなかった家具は薪に使われたそうだ。ストーブで燃やすのではなく、焚き火に使ったようだ。その後2日間、少年は中央大学のすぐ西隣りの家に連れて行かれ、またもや略奪品の運搬をすることになった。最後は略奪品を句容に運ばされた。夜明け前に出発し、丸一日飲まず食わずで、日がとっぷり暮れてから句容に到着した。そこに到着してから、男性18人に放免が通告されて、南京に戻ってもよいと言われた。暗闇の中を移動するのは危険だったが、彼らは思い切って出発することにした。何度となく銃剣を突き付けられて制止されながらも、ついに南京に到着した。結局のところ、彼らのうち2人以外はみな、またもや運搬の仕事をさせられるために連行された。道すがら、沼はどこにも、人間や動物の死体でいっぱいだったが、それでも、のどの渇きを癒すためにはその水を飲まなければならなかった、と少年は語った。12月28日、彼は、やせ細り憔悴して帰宅した。いまなお疲れが取れず、動くこともできないでいる。
 午後、若い女性2人が私の執務室に来て、夫を捜し出すのに力を貸してほしい、と訴えた。3人兄弟のうち2人が12月14日に連行されたという。その一家は、南門の近くで鴨肉屋を経営していた。・・・
・・・・・・・・・・・

「Imagine 9」【合同出版】より

想像してごらん、

武器を使わせない世界を。

Imagine,
A world that doesn’t
let weapons be used.


憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。
なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、
世界はまだ暴力と戦争だらけです。
(アメリカ/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009年1月2日金曜日

1938年 南京 1月2日

1937年の蘆溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに中国に侵略していった日本軍はその当時の中国の首都南京(なんきん)を12月に陥落させた。その南京でどのようなことが起こったかを、南京で避難民を保護する区域をつくり(安全区)その活動の中心的な人々(ここではラーベ【ジーメンス社南京支社支配人、ナチス党支部長代理、南京安全区国際委員会委員長、ドイツ人・男性】とヴォートリン【金陵女子文理学院教授、宣教師、強姦(ごうかん)・暴行を防ぐために献身的な活動を続けた、アメリカ人・女性】)の日記を引用しながら日ごとに見ています。南京大虐殺と呼ばれている事件です。関心ある人は読んでみて下さい!


「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
1938年(昭和13年)
1月1日・・・南京市自治委員会成立(日本軍の傀儡〔かいらい〕自治委員会・・・ノブ)

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月2日
 本部の隣の家に日本兵が何人も押し入り、女の人たちが塀(へい)を越えて我々のところへ逃げてきた。クレーガーは、防空壕の上からひらりと塀を飛び越えた。塀は非常に高いのだが、警官が一人手伝ってくれたので、私も後を追おうとした。ところが2人ともバランスを崩して落ちてしまった。さいわいかなり太い竹の上だったので、竹が折れただけで、けがをせずにすんだ。その間にクレーガーは兵たちをとっつかまえた。やつらはあわてふためいて逃げていった。ただ、ちょっと様子を見に来ただけだ、というのだ!

 銃剣でのどを突かれた近所の奥さんを私が鼓楼病院に送り込んだのだが、今日ようやく退院が許された。入院費は1日当たりたった80セント。その10日分だ。お金がないというので、私がかわりに払った。

 日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で開かれた。演説者が協力という言葉を口にしているそばから、病院の左右両側で家が数件焼けた。軍の放火だ。・・・・・・・・・


 安全区の通りは、あいかわらず見渡すかぎりの人の海だ。何千というおびただしい人々が道ばたにたたずんでいる。値段の交渉をしている人もある。道路の両側には行商人が鈴なりになって、食料品、タバコ、古い衣服を売っている。
 誰もが日本の腕章や国旗をつけて飛び回っている。横町や道路の間の空き地には、わら小屋が所狭しと建ち並び、難民村ができている。我が家と同じ光景だ。うちの庭には、もはや草一本生えていない。美しかった生垣もあっという間にふみつぶされ、見る影もなくなった。なにしろ大人数だ、しかたあるまい。なによりまず生きることが先決なのだ!
 昨夜、またしても日本兵の乱暴が相次いだ。スマイスが書きとめ、いつものように抗議書として日本大使館に提出した。

 我々がひそかに恐れていたことがついに起こった。中国の爆撃機がやってきたのだ。といったからといって、決して友人としてではない。敵としてだ!かつての日本軍のように、時間通りに爆弾を落としていく。だが、今までのところ、幸いなことにたいていは同じ場所、つまり南の飛行場かその近くに限られている。日本の防空部隊が姿を現したが、人数も少なく、いとも手薄だった。
 空襲がこのまま安全区の外にとどまるかどうかは、あとになってみないとわからない。だが、そうであってほしい。さもないと、今までよりもっと悲惨なことになるかもしれないのだ。今の安全区の込み具合ときたら、日中は上海よりすごい。そんなところに一発爆弾が落ちたが最後、ものすごい数の人命が失われるのだ。そう思っただけでもぞっとする。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月2日 日曜日
 小春日和。家を消失したり、夜具を盗まれた人たちにとっては何よりの恵だ。
 午前、粥の配給中に、年配の日本人女性3人が車で乗りつけた。国防婦人会の代表者たちだった。彼女たちは何も言わなかったが、興味深そうに眺めていた。日本語を話せたら、ここの避難民たちがこうむっている苦難の一端を説明できるのに、と残念でならない。
 10時、李さんと一緒に鼓楼教会へ行った。それは、実に素晴らしい礼拝だった。・・・・


 午後2時、中国軍機5機が南京市上空に飛来し、爆弾数発を投下した。すると、かつて私たちの側に属していた高射砲の砲声がとどろいた。
 サールはリリア(1)からの手紙を受け取った。日本の新聞記者が持ってきてくれたものだ。彼女がサールから受け取った最新の手紙は11月14日付けだった。彼女はサールにあてて手紙12通、電報6通を送ったが、彼からの返事は受け取らなかった。今日までのところ、南京城内に入ってくることを許された者は一人もいない。

(1)サール・ベイツの夫人リリアは、戦火の南京から避難して日本の東京の世田谷区上北沢に息子と一緒に住んでいた。

※南京からの情報は日本軍が検閲していて配達されなかったのだろう。特に12月の南京の様子は外部に漏らさないようにした。〔ノブ〕

「Imagine 9」より【合同出版】より

想像してごらん、

おたがいに戦争しないと

約束した世界を。

Imagine,

A world that promises

not to fight wars with each other.


戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年1月1日木曜日

1938年 南京 1月1日

新年明けましておめでとうございます!!
今年もよろしくお願いいたします!!

1937年の蘆溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに中国に侵略していった日本軍はその当時の中国の首都南京(なんきん)を12月に陥落させた。その南京でどのようなことが起こったかを、南京で避難民を保護する区域をつくり(安全区)その活動の中心的な人々(ここではラーベ【ジーメンス社南京支社支配人、ナチス党支部長代理、南京安全区国際委員会委員長、ドイツ人・男性】とヴォートリン【金陵女子文理学院教授、宣教師、強姦(ごうかん)・暴行を防ぐために献身的な活動を続けた、アメリカ人・女性】)の日記を引用しながら日ごとに見ています。南京大虐殺と呼ばれている事件です。関心ある人は読んでみて下さい!

 1945年、大日本帝国【その当時の日本の呼び名】は戦争に敗れ、戦争は終わりました。その侵略戦争の反省のもとに、アジア・世界の人々に対して「二度と戦争はしません」という誓いとして憲法9条は誕生しました。その9条についてもいろいろと考えてみたいと思います。世界に9条が拡がればと思います!!
 


「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1938年1月1日
 昨日の夜9時半、7人の同志が年始に来た。アメリカ人のフィッチ、スマイス、ウィルソン、ミルズ、ベイツ、マッカラム、リッグズの面々だ。手元に残った最後の赤ワインをあけ、一時間ほどおしゃべりした。日頃は意気軒昂のベイツが、疲れ果てて眠り込んでしまったので、早めにお開きになった。私にも中国人の客にとっても休養をとることに依存はなかったから、そろって11時に寝た。・・・・・・

 家に戻ると、盛大な歓迎が待っていた。うちの難民たち「老百姓」(ラオパイシン・・・中国語で名もなき民の意)はずらりと両側に並び、私に敬意を表して、日本軍からもらった何千もの爆竹をいっせいに鳴らした。こうして新しい自治政府を祝うのだ。それから600人全員で私を取り囲み、白い包装紙に朱液で書かれた年賀状を手渡し、いっせいに3度お辞儀した。ありがとう、とうなずいて私が年賀状を折りたたみ、ポケットにつっこむと、まわりから歓声があがった。残念ながら、大きすぎてとてもこの日記帳にはおさめられない。中国人の友人が訳してくれたところによると、

  ラーベさんへ
    どうかよい年でありますよう
       一億があなたのそばにいます!
                  収容所の難民たち
                  1938年


 この「一億」がどういう意味なのか、いまだに私にはよくわからない。たぶんこれは「一億人の善男善女」の意味だろう。張に聞くと、こともなげに言った。
「ドイツ語で新年おめでとうっていうことですよ!」

 火花の雨の後は、使用人とジーメンスの従業員が総出で行列を作り、おごそかに慣例の新年の叩頭(こうとう)の礼をした。
・・・・・・・

 夜の9時に日本兵がトラックに乗ってやってきて女を出せとわめいた。戸を開けないでいたらいなくなった。見ていると中学校へ向かった。あそこは絶えず日本兵におそわれている。私は庭の見張りをいっそう厳重にして、2人組みの歩哨(ほしょう)に警笛を持たせた。こうしておけば、いつお越し下さってもすぐにはせ参じられる。だが、ありがたいことに、今晩は無事に過ぎた。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1938年1月1日 土曜日
元旦!1938年の最初の日だ。「新年おめでとう」という言葉は、のど元から出かかっても消えてしまう。「平和が訪れますように」とだけ挨拶する。7時30分からのスタッフの礼拝集会には9人が参加した。今ではつとめて毎日、この礼拝集会を行うようにしている。今なお外界から完全に遮断されていて、友人たちがどのような状況にあるか分からないので、想像をめぐらしながら祈っている。・・・
・・・・・・・・
 正午、程先生とメリーは、新年の昼食に招かれてバックの家に行った。程先生を出かけさせるには骨が折れた。先生は悲嘆に暮れ意気消沈していて、とても浮かれた気分にはなれないからだ。午後、私が交替して執務室に詰めていると、4時までに2つの事件があった。3時ごろ使用人の一人があわただしく入ってきて、キャンパスに避難している少女一人を兵士が連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。急いで出て行き、図書館のすぐ北の竹林に少女と一緒に兵士がいるところを見つけた。
 兵士は私の声を聞きつけると、あわてて逃げ出した。このあと、ときを同じくしてキャンパスにやってきた兵士2人を追い返した。
 キャンパスの少女たちの中には、全く分別のない子がいる。私たちが精一杯努力しているというのに、建物の中に入っていないで正門の方へぶらぶら出て行くのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 今夜は北里門橋の方角で大きな火災が発生している。略奪が続いているのだ。2、3日前に聖経師資培訓学校(聖書講師養成学校)内で女性27人が強姦されたが、それでも、強姦事件は減少してきていると思う。今日、憲兵ー確かに優秀なようだーが、、重大な不行跡のかどにより一般兵士若干名(7名)を逮捕したそうだ。彼らは銃殺されたと、人々は憶測している。
 午後、鼓楼広場で大きな集会があり、そこで市の新しい役員が任命された。(1) 
 私たちの地区は、1000人の代表を送るよう求められた。五色旗と日本国旗が盛大に並んでいた。細かな事情は聞いていないが、心痛のあまり食事ものどを通らなかった代表を知っている。あなた方は、この新体制を自発的に、そして熱烈に歓迎している〔かのごとき〕写真をきっと目にすることでしょう。
 元日もすでに夜だが、大使館の警官がまだ来ていないので心配だ。

(1)南京特務機関(機関長佐方繁木少佐)の工作のもとに組織された南京自治委員会の成立式。


「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、

武器をつくったり

売ったりしない世界を。

Imagine,

A world that doesn't

make or sell weapons
.


紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。




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2008年12月31日水曜日

1937年 南京 12月31日

今年このブログを読んでくださっている方に感謝いたします。
このブログに付き合ってくれて有難うございました!!
 良いお年をお迎えください!!
来年もよろしくお願いいたします!



「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
12月31日、アメリカ大使館員アリソンが米砲艦オアフ号に乗って南京の下関(シャーカン)埠頭に到着、大使館業務再開を要請したが、日本軍司令部に拒否された。理由は、中国兵の掃蕩がまだ続いているので、危険であるということだった。
「今日午後2時30分に到着する。岸辺はまるで殺戮場であり、市内のあちこちで小規模な火災が発生しているのが見え、銃声も聞こえる」とアリソンは国務省への電報で報告している。(「アメリカ関係資料編」)。アリソンが目撃した殺戮場の光景こそ、24日以後厳しく行われてきた「兵民分離」の名による中国人成年男子の集団殺戮の現場だった。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)
12月31日
 今日、うちの難民(男2人)が、外をぶらついていたところを日本兵に連れて行かれて、略奪品を運ばせられた。昼、家に戻ると、かみさんの一人がひざまずいて訴えた。「お願いです!うちの人を連れ戻してください。でないと、殺されてしまいます!」みるも哀れな姿だった。しかたなく私はそのかみさんを車に乗せて、中山路でようやく連中を見つけた。
 武装した兵隊20人と向き合う。案の定2人を引き渡そうとはしない。私の立場はちょっと具合の悪いものだった。何とか連れ戻すことができたときには心底ほっとした。
 家に戻ってから難民を集めて、この2人の愚か者をみなの前で叱り飛ばした。馬鹿なことをして捕まっても知らんからな。630人もいる人間のあとをそのたびに追っかけちゃいられない。いったい何のためにここに逃げてきたんだ?また、私が助けに行くと思ったら大間違いだ。こんなことが続いたら、いずれ取り返しのつかないことになる・・・・。
 日本兵は、新年に3日、休みをもらう。兵たちがうろつかないように安全区を封鎖するといっていたが、あてになるものか。
 明日は、1938年1月1日。いよいよ「自治委員会」がおごそかに樹立される。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)
12月31日 金曜日
 今朝登録が行われた。学院にいる女性260人ではなく、17歳から30歳までの避難民女性およそ1000人の登録だ。彼女たちは9時には中央棟の前に整列させられ、まず日本軍将校の、次には詹栄光氏の訓示(いずれも中国語)を聞かされた。いろいろな事項が申し渡されたが、私には聞こえなかった。ただ、こんなことが耳に入った。「結婚に際しては旧来の慣習に従い、両親に段取りを決めてもらわなければならない。劇場へ行ったり、英語を学んではならない・・・・。中国と日本が一体になることによって強くなるのだ・・・・。」訓示が終わると、彼女たちは一列縦隊で一部は南に、一部は米飯売り場として私たちが囲いをした場所を通過して北へ進んで行った。ほとんどの婦女子が第一段階の切符をもらったが、髪の毛がカールしていたり、身なりが良すぎるなど、目だって見えるという理由で20人ほどが選び出された。母親か、さもなければ他の誰かが保証人になるということで、後に、全員が解放された。・・・・・・・・
 女性の登録が一通り終わると、男性の登録が再開されることになった。門衛の社によれば、夜中の2時には男性が並び始めたそうだ。列は5時には寧海路からはるか実験学校にまで達したようだ。登録は1月3日まで停止になった。・・・・・


 新年には中国に、南京に、そして金陵女子文理学院にどんなことが起こるのだろうか。信念を失ってはいけない。


「Imagine9」【合同出版】より

想像してごらん、

軍隊のお金をみんなの

暮らしのために使う世界を。

Imagine,

A world that spends money

not on armies,

but on people's lives
.



アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2008年12月30日火曜日

1937年 南京 12月30日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
新しく設立された自治委員会は、五色旗(北京政府時代の中国国旗)をたくさん作った。
1月1日に大がかりな公示がある。その時、この旗が振られることになっている。この「自治委員会」は我々に取って代わろうとしている。仕事を引き継いでくれると言うのなら文句はない。だが、どうも金目当てのような気がしてしかたがないのだ。
 こちらから何一つ引き渡さない。あくまでも、ごり押しされた場合にかぎる。ただし、その時も粘れるだけ粘るつもりだ。思うに、日本の外交官たちは日本軍のやり方を恥ずかしく思っているいるらしい。だからドイツの旗がついた家が40軒も略奪にあい、しかもそのうち何軒も焼き払われたなどということはうやむやにしておきたいのだ。

 ぬかるみとゴミにまみれた通称ジーメンス・キャンプの我が庭のわら小屋の中で二晩続けて子どもが生まれた。男の子と女の子。こんな宿しか産婦に与えられない世の中なのだ。
 医者も、助産婦も、看護婦もいない。おむつもない。親たちの手には汚れたぼろきれ数枚だけ。私はそれぞれの親に10ドル贈った。「お礼に」と、女の子は「ドーラ」、男の子は「ジョニー」と名づけられた。いやあ、うれしいね!(ラーベの奥さんの名は「ドーラ」です。)


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月30日 木曜日
 男性の登録は今も続いている。5時前、寧海路に整列する人たちの声が聞こえた。私は6時30分に起床して、そして、すでに6時にはキャンパスの外で並んでいた男性教職員や使用人たちの列に加わった。・・・・・・・登録するための第一段階である行列は、四列縦隊の形ではるか漢口路まで続いていた。最前列の男性は、午前5時からずっと並んでいると言った。
 午後、ニューヨークと呉博士に電報を送ることができるかどうかを確かめるため、再び大使館に出向いた。依然として電報は打てなかったが、大使館員たちは、数日中にはアチソンが南京に戻ってくると期待している。・・・・・・・・
 校門を入ると、一人の母親がやってきて私の前にひざまずき、今日キャンパスで服務していた兵士が24歳の娘を連れ去った、と訴えた。私は、すぐに母親を連れて詹(せん)氏の家を訪ね、そのことを報告した。詹氏も日本大使館も、今夜のうちに娘を見つけるのは無理だが、明日の朝その兵士が特定されたら、厳しく処分されるだろう、と言った。大使館員によれば、6人の兵士がすでに厳しく懲罰されたそうだ。「処刑された」という意味で彼はそう言ったと思うが、定かではない。
 明日は17歳から30歳までの女性の登録が行われる。その目的が何なのか正確なところはわからないが、聞くところによると、一番活発に反日宣伝を行っている年齢層を把握するためだそうだ。女性たちはみな、このことでおびえているが、私にはどうもよくわからない。
 午後、王さんと刁(ちょう)さんは、日本大使館で開かれた会合に出席した。元日に大がかりな宴会、つまり歓迎会が行われるらしく、熱狂的な歓迎ぶりが中国人民に期待されているようだ。各地区からかなりの数の代表を出してもらいたいそうだ。目下、「自治政府」樹立に向けて準備が進んでいる。旧来の五色旗(中華民国旗)が使用されるらしい。明日古い旗を探してみよう。



「Imagine9」【合同出版】より

想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和な世界を。

Imagine,
A peaceful world without war.

でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのかな
一つひとつ考えてみよう。

But,how can such a world be made?
let's think about it
.



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2008年12月29日月曜日

1937年 南京 12月29日

南京事件」(笠原著:岩波新書)より
【溧水県】12月、柘搪(しゃとう)鎮に日本軍は拠点を設置して駐屯、以後付近の農民が殺害され、婦女が強姦される(被害は日中戦争期間で村民29名が殺害、婦女28名が強姦された)。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月29日
(本には29日の記述がありません。ここには28日の日記の後半部分を掲載します。)

フィッチにあてたフォスターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発でわかる。この50体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだの一点張りだ。いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。

 スマイスと私は、日本大使館に行き、福井氏や岡という少佐と2時間話し合った。岡少佐は、トラウトマン大使から私たちのことを頼まれているそうで、次のように言った。今南京にいるドイツ人は全部で5人だが、一緒に暮らしてもらえないか。そうすればこちらとしても保護しやすい。もしそれに賛成できない場合は、日本軍による保護をあきらめる旨一筆書いてもらいたい、と。私はきっぱり言った。「身の安全ということなら、中国人と同じでけっこうですよ。日本軍は中国人を保護すると約束しているんですからね。もしも中国人を見殺しにするつもりだったら、トラウトマン大使や他のドイツ人と一緒にさっさとクトゥー号で逃げていましたよ」
 岡少佐はいった。「私はあなた方の命を守るように頼まれているんです。それはともかく、日本兵に持ち物を奪われたり壊されたりしたことが証明できれば、政府が弁償するか、かわりのものを支給するかします。」それについては、ただ次のように答えるしかなかった。「南京陥落後の12月14日に委員会のメンバー全員で街を見まわりましたが、ドイツ人の家も持ち物も無事でした。略奪や放火、強姦、殺人、撲殺、こういうことが始まったのは日本軍が進駐してきてからです。誓ってもいいですがね。同じことはアメリカ人の財産にもいえるんですよ。舞い戻ってきた中国軍によって略奪された家はわずかで、みんな太平路にありました。その中には外国人の家は一軒もありませんでした。」・・・
・・・・・・・・・


 南京のことはどうか上海には黙っていてください、と福井氏から頼み込まれた。つまり、日本大使館にとって具合の悪いことは知らせないでくれということなのだ。私は請け合った。そうするほかないじゃないか?日本大使館を通さなければ手紙が出せないのだから。だが、いつの日かきっと、真実が白日のもとにさらされる日が来る。
 この時とばかり私は福井氏に、12月13日に銃殺された我が家の近くの中国兵の死体をいいかげんに埋葬するよう、軍部にかけあってくれないかと頼んでみた。福井氏は約束してくれた。

 それから、今後安全区に衛兵を派遣することになったと聞かされた。日本兵が入り込まないようするためだというのだ。あるとき私は、その衛兵とやらをじっくり観察してみた。日本兵は誰一人呼び止められるのでもなく尋問されるでもない。それどころか、奪ったものを抱えて日本兵が出てくるのを見てみぬふりしていることもある。これで「保護します」とは聞いて呆れる!



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月29日  水曜日
この地区及び、城内全域の多数の男性の登録が続いている。9時になるずっと前から校門のはるか向こうまで長蛇の列がつながっている。日本兵の態度は、今日は昨日にもまして厳しかった。昨日は、兵士であったことを自ら申告するよう求め、その場合には労働をさせて賃金を支払うことを約束した。今日は男性の手を調べて、疑わしいと思う者を選び出していた。もちろん、選び出された多くの者は兵士ではなかった。よろしくとりなしてほしいと頼みに来た母親や妻は数え切れない。
彼女たちの息子は仕立て職人であったり、製パン職人であったり、商人であった。残念ながら、私には何もしてやることができなかった。・・・・・・

・・・・・・・登録票は一般の日本兵士にたいしてはさほど効果がなく、彼らに破り捨てられた事例が何件かあるそうだ。
 午後、アメリカ大使館へ出かけた。今のところ外国人はまだ誰も南京に戻っていなかったし、彼らがいつ帰任できるのか、大使館は正確な情報を得ていない。今日に至るまで、私たちは依然として外界から遮断されているし、大使館員であれ商社員であれ、外部からいかなる外国人も入ってくることができない。南京が陥落してから2週間以上が経っている。軍用物資の輸送のため、上海への列車運行が開始されるそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・・一人の女性が話しかけてきた。彼女は、郊外の国立競技場に近い孝陵衛からやってきた、と言った。彼女の話では、町は中国軍によって最初は一部が焼失し、そのあと日本兵によって完全に焼き払われたそうだ。10人家族のうち、あとに残されたのは彼女と彼女の夫、それに孫1人の3人だけである。息子2人、娘3人、嫁1人と孫1人は散りぢりになってしまい、どこにいるのか見当もつかないという。これは、毎日私たちが耳にする数多くの悲惨な話の一つに過ぎない。
 城内にいる兵士は少なくなっているので、略奪も減ってきている。もっとも、多少の略奪と焼き払いはあいかわらず続いている。ここの避難民もわずかながら減少している。登録のため、今日は粥の提供は一回しかできなかった。キャンパスは泥の海になっている。
 今夜も大使館の警官1名と女子学院の警備兵3名が任務についている。



「Imagine9」【合同出版】より

考えてみよう、

日本の憲法9条のこれから。


 日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
 2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。

 また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
 そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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