2008年12月12日金曜日

1937年 12月12日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波書店)より

 12日、戦勝報道にわいた日本国内では、官庁と教育界、マスコミ、ジャーナリズムの肝いりで、南京陥落祝賀行事が繰り広げられた。同日の新聞は「きょう帝都は歓喜のどよめき/そらッ!南京陥落だ!/宮城前に奉祝の群れ/讃えよ世界最大の誇り」(『東京日日新聞』)と報じた。宮城前には、朝から東京外国語学校の生徒700名が校長に引率されて日の丸を手に祝賀に訪れたのをはじめ、東京都下の学生の奉祝パレードがおこなわれ、さらに一般の群衆にまじって、校長・教師の先導で東京府内の各学校の生徒たちが終日宮城を訪れ、戦勝祝賀の行進をしていった。
 東京府の府庁舎の空には「祝南京陥落」のアドバルーンが上げられ、銀座などの大通り商店街に日の丸、旭日旗、そして「南京陥落」と書いた幟(のぼり)が飾られた。・・・・・・・

 12日、南京では夜明けとともにかつてなく激烈な日本軍の攻撃が開始された。完全に南京の制空権を掌握していた日本軍機は、中国軍陣地に容赦ない爆撃をくわえ、南京城壁を包囲するかたちで陣地を据えた日本軍の砲列は、城壁と城内に向けて猛烈な砲火を浴びせた。
 南京城の南の中華門外の重要拠点である雨花台陣地には、第六師団(熊本)と第114師団(宇都宮)が猛攻をくわえ、正午までに同陣地を占領した。第六師団は雨花台の南京城内が一望できる地点に砲列を敷き、中華門に集中砲火をくわえ、さらに城内にも砲撃を撃ちこむ。このため、南京の中心街に砲弾が落ち、硝煙が街をおおい、各所に火の手があがった。雨花台の北端に進出した第11師団(善通寺)は、中華門から東の雨花門にかけての城壁に集中攻撃を開始した。・・・・・・・

 12日、日本海軍機、アメリカ砲艦パナイ号を撃沈。南京防衛軍司令長官 唐 生智、撤退命令を出す。深夜、南京陥落。



「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月12日
 日本軍はすんなりと占領したのではないかという私の予想は見事に外れた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうてい無理だ。朝の8時に、再び砲撃が始まった。

 11時に唐将軍の委任により龍上校と周上校がやってきた。3日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。
 休戦協定の内容はーこの3日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。我々は、まずアメリカ大使宛の電報、次に調停を依頼する唐将軍の手紙を作成し、最後に軍使に関する取り決めをまとめあげた。軍使は、白旗に守られて、前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。・・・・・夕方6時頃、ようやく龍が姿を見せる。龍は言った。「残念ながら、せっかくの努力が水の泡でした。すでに日本軍は城内の前まで攻めてきているため、時すでに遅し、とのことです」・・・・・

 18時半・・・紫金山の大砲はひっきりなしにとどろいている。あたり一面、閃光と轟音。突然、山がすっぽり炎につつまれた。どこだか分からないが、家や火薬庫が火事になったのだ。紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。南部から逃げてくる人たちが、安全区を通って家へ急ぐのが見える。その後から中国軍部隊がぞろぞろ続いている。日本軍に追われていると言っているが、そんなはずはない。一番後ろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのを見れば分かる。
 この部隊は中華門、あるいは光華門で手ひどくやられ、パニック状態で逃げてきた事がわかった。次第に落ち着き、最初は気が狂ったように逃げていたのだが、いつしかのんびりとした行進にかわっていたというわけだ。それはともかくとして、日本軍がもう城門の前まで攻めてきていること、したがって最終戦が目前に迫っていることは、もはや疑いようがない。・・・・・
・・・・

 20時・・・南の空が真っ赤だ。庭の防空壕は、避難してきた人たちでふたつともあふれそうになっている。ふたつある門の両方でノックの音がする。中に入れてもらおうと、女の人や子どもたちが必死で訴えている。ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げ込んできた男たちもいる。
 これ以上聞いていられなくなって、私は門を二つとも開けた。防空壕はすでにいっぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。ほとんどの人はふとんを持ってきている。庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で寝ようというちゃっかりした連中もいる。ここが一番安全だと思っているのだ。

 榴弾がうなる。爆弾はますます密に間近に降ってくる。南の方角は一面火の海だ。轟音がやまない。私は鉄のヘルメットをかぶった。忠実な韓のちぢれ毛の頭にものせてやった。我々は防空壕に入らないからだ。入ろうとしてもどっちみち場所はないが。番犬のように庭を見回り、こちらで叱りつけ、あちらでなだめる。しまいにはみな言うことを聞くようになった。・・・・・
・・・・・

 真夜中になってようやく静かになった。私はベッドに横たわった。北部では、交通部の立派な建物が燃えている。

 ふしぶしが痛い。48時間というもの、寝る間もなかったのだ。うちの難民たちも床につく。事務所には30人、石炭庫に3人、使用人用の便所に女の人と子どもが8人、残りの100人以上が防空壕か外、つまり庭や敷石の上や中庭で寝ている!!・・・・

 夜の9時に龍が内密に教えてくれたところによると、唐将軍の命により、中国軍は今夜9時から10時の間に撤退することになっているという。後から聞いたのだが、唐将軍は8時には自分の部隊を置いて船で浦口に逃げたという。
 それから、龍は言った。「私と周の二人が負傷者の面倒をみるために残されました。是非力を貸していただきたいんです」本部の金庫に預けた3万ドルは、このための資金だという。私はこれをありがたく受け取り、協力を約束した。いまだ何の手当ても受けていない人たちの悲惨な状況といったら、とうてい言葉でいいあらわせるものではない。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月12日 日曜日
夜8時30分、このメモを書いているが、市の南西地域で激しい砲声がとどろいている。絶えず窓ガラスが震動するので、用心のため窓際から離れている。一日中激しい爆撃が続いた。・・・・
・・・・・・・
今や日本軍機は意のままに飛来して爆弾をごっそり投下しているが、高射砲や中国軍機による反撃は何もない。犠牲がほとんど効果をあげていないとすれば、城壁外側のすべての家屋、それに内側の多くの家屋をも焼き払ったことは、とんでもない誤算であったと確信する。・・・・
・・・・・・・・・

 あいかわらず避難民がやってくる。現在、三つの建物はすでにふさがっており、文科棟への収容を開始している。あいにく、中国赤十字会が運営することになっている粥場いまだに開業していないので、食料を持ってこなかった避難民にとっては最悪の状態が続いている。・・・・・
・・・・・・・・・
 午後5時、英語による礼拝に出かけた時、紫金山の上の部分三分の一のところを取り巻くように帯状に火の手があがっているのが見えた。どのようにして火災が発生したのかは聞いていないが、松の木がたくさん焼失したことは確かだ。

 夜9時から10時にかけて陳さんと二人でキャンパスを巡回した。洗濯夫の胡さんと、彼の近所に住んでいる農民の朱さんは二人とも、まだ寝ていなかった。今夜彼らは、撤退して行く中国兵を怖がっている。というのも、家族の中に若い娘がいるからだ。今夜、城内では眠れる人はほとんどいないだろう。市の南部と、それに下関が依然として燃えているのが南山公寓から見えた。・・・・・・


「Imagine 9」解説【合同出版】より


 武器を使わせない世界

 世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。
 たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。
 また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。

 広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。
 このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。
 いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう。


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2008年12月11日木曜日

1937年 12月11日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
 誤報におどる国民
 12月11日午後、南京城の水西門・漢中門の西側の湿地帯で、一中隊から小隊長二人の戦死を出すほど苦戦をしいられていた第六師団(熊本・師団長 谷 寿夫中将)の歩兵第45連隊の前田吉彦少尉は、歩兵大36旅団無線から伝えられたラジオ・ニュースを知って驚いた。日本の内地のいたるところで、南京陥落の捷報に祝賀の万歳がわきおこり、提灯行列がくり出されたというのである。
 「このニュースを聞いたこの現時点で南京の守備軍は以前頑強に抵抗を続けあり、上空には高射砲弾幕が絶え間なく、城壁付近また砲煙におおわれ銃砲声の間断なきを聞くというのはいったいどうしたわけなのか?いったい陥落なんて誰が言い出したデマなんだろう」と陣中日記(12月11日)に書いている。(「前田吉彦少尉日記」『南京戦史資料集』)。
 日本国内ではこの日、「皇軍勇躍南京へ入城/敵首都城頭に歴史的日章旗・・・・・・」と各新聞がいっせいに大々的な南京陥落報道を行った。この日の夜、東京では祝賀提灯行列がくりだし、国会議事堂にイルミネーションが点じられた。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月11日
8時・・・水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。次の攻撃に備えているのだ。・・・・・
 爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より「安全区」を信頼しているのだ。ここはとっくに「セーフ」でもなんでもないのだが。いまだに武装した兵士たちが居座っているのだから。いくら追い出そうとしてもむだだった。これでは、安全区からはすでに軍隊を撤退していると日本軍にいえないじゃないか。

9時・・・ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後ろだ。12人の死者とおよそ12人の負傷者。・・・・・ホテルにとまっていた車が二台炎上。さらにもう一発、榴弾(今度は中学校)。死者13人。軍隊が出て行かないという苦情があとをたたない。・・・・・
・・・・・・
 けが人が大ぜい中山路に運ばれていく。砂袋・引き倒した木、有刺鉄線の柵ででバリケードを作っているが、こんなもの、戦車がくればひとたまりもないだろう。鼓楼病院の前で例の将校に砦を築くように頼んだが、相手は穏やかな物腰ながら断固拒否した。病院から龍に電話で報告すると、早速唐将軍に問い合わせるとの返事。

18時・・・記者会見。出席者は、報道陣のほかは委員会のメンバーのみ。ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦パナイで発ったのだ。・・・・・・
・・・・・・・・
 午後8時、韓を呼び、家族を連れて寧海路五号の委員会本部に引っ越すようにすすめた。
あそこの防空壕のほうが安全だ。しかもわが家は、今日本軍から猛攻撃されている五台山のすぐそばなのだ。私もいずれ引っ越そうかと考えている。夜は猛攻撃をうけるだろう。それなのに韓はまだ家を出て行こうとはしない。
   

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月11日
 何日間も終日終夜、城外ーとくに南西方向ーだけでなく城内にも激しい砲撃が加えられた。この小さなくぼ地では、砲声はそれほど大きくなかったし、恐怖を覚えるほどではなかったが、市街は悲惨だった。ジョン・マギーの情報では、福昌ホテルや首都劇場の前、さらにまた、新街口広場にはたくさんの死骸が横たわっているとのこと。市の南東部でしていた激しい砲撃も、夜になるとやんだようだった。マギーは、破壊をまぬがれた、下関の一部地域もきっと今夜焼き払われるだろう、とも言った。こうした破壊や加害に対し、我慢できないほどの激しい憤りがこみ上げてくる。・・・・
 相変わらず避難民がキャンパスに入ってくる。正午には850人ほどになった。その上、三家族が東の中庭に、そして、隣保館には約120人の避難民が生活している。北側の二つの寄宿舎の間にむしろの小屋を造り、知り合いの人にそこで食料品を売ってもらうつもりだ。強く要求しているのにもかかわらず、正門の外に設置された粥(かゆ)場はいまだに開業していない。避難民たちは、安全区について無邪気な考えを持っており、空襲の最中に道路の真ん中に突っ立っていても何の不都合もないのだと考えているようだ。今夜の記者会見で私たちは、そういう場合は家の中に入っているか、そうでなければ塀の陰に隠れているよう避難民に促すことを求められた。・・・・・
・・・・・・・・
 今夜の記者会見には20人ーすべて外国人ーが出席した。4人の新聞記者のほかは、ドイツ人二人とロシア人青年一人を除けば、あとはすべて宣教師だった。サール・ベイツから、中国軍の指揮系統が崩壊し始めているといういささか憂鬱な報告があった。下級将校が防衛司令長官の命令に従わず、いまだに兵士や大砲が安全区内に残されている。実際、今朝私は、キャンパスの敷地内で塹壕が掘られているのを発見した。
 これを書いている間にも、市の南東と南西の方角で激しい爆撃音と機関銃の音が聞こえる。人々の予想では、敵は三日のうちには城内に入るだろうが、その間にはすさまじい破棄をおこなうだろう、というのだ。
 たしか、明日は日曜日だ。今では毎日が同じ調子で明け暮れる。・・・・・・・
・・・・・・・・・・

「Imagine 9」【合同出版】の解説より
 

おたがいに戦争しないと

約束した世界


 地球規模では、世界各国では軍隊を減らす一方、国連に「緊急平和部隊」をつくり、紛争や人権侵害を防止しようという提案がなされています。また、イタリア憲法11条は、日本国憲法9条と同様に「戦争の放棄」をうたっていますが、そこには「国どうしの平和的関係のためには、国の主権が制限される場合もある」と定められています。つまり、国際的なルールや制度によって平和を保つ事が重要であり、「自国を守るため」といって勝手な行動をとることは許されないということです。
 グローバル化の時代、人々は国境を越えて行き来し、経済や社会はつながりあっています。安全を自国の軍事力で守ろうとすることよりも、国どうしで約束をつくり、国際的に平和のシステムをつくることの方が、現実的に必要とされてきているのです。

2008年12月10日水曜日

1937年 12月10日 南京

12月10日、中シナ方面軍参謀副長武藤章大佐と同参謀中山寧人(やすと)少佐は、通訳官をともなって中山門ー句容街道において午後一時まで投降勧告の「回答」を待っていたが、中国側の軍使は来なかった。・・・・こうして10日の午後から12日にかけて、昼夜を分かたず壮絶な南京城攻防戦が展開されることになった。「南京事件」(笠原著:岩波新書)より


「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月10日
 不穏な夜だった。昨日の夜8時から明け方の4時ごろまで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。昨日の朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやいうところで交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退する事ができたという。今朝早く分かったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜、南京は日本軍の手に落ちるだろう、誰もがそう思っている。・・・・・・
・・・・・・・
 
 東部では、決戦の準備が始まったらしい。大型の大砲の音がする。同時に空襲も。
 このままでは、安全区も爆撃されてしまう。ということは、血の海になるということだ。道路は人であふれかえっているのだから。ああ、日本からの返事さえ、日本軍の承諾さえあれば!・・・
・・・・・・・
 今夜のうちに南京が陥落しても少しも不思議ではない、というのが大方の意見だ。とはいっても、今のところはまだその気配はないが、おもてはひっそり静まり返っている。婦人や子どもをふくめ、たくさんの難民がまたもや通りで眠っている。

 深夜2時半
 服を着たまま横になる。夜中の二時半、機関銃の射撃とともにすさまじい砲撃が始まった。榴弾が屋根の上をヒューヒューうなり始めたので、韓一家と使用人たちを防空壕へ行かせた。私はヘルメットをかぶった。南東の方角で大火事が起こった。火は何時間も燃え続け、あたりを赤々と照らし出している。家中の窓ガラスがふるえ、数秒ごとに規則正しく打ち込んでくる砲弾の轟音で家がふるえる。五台山の高射砲砲兵隊は狙撃され、応戦している。わが家はこの射線上にあるのだ。南部と西部も砲撃されている。ものすごい騒音にもいくらか慣れて、再び床に就いた、というより、うとうとした。
こんなありさまでは眠ろうにも眠れるものではない。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
 午前7時30分の時点では、爆弾はたぶん夜通し続くと思っていたが、ときおり街路を行き交う人の足音が聞こえる以外は、奇妙なくらい静かだった。朝7時に警戒警報が鳴ったが、いまだに飛行機の飛来はない。今は機関銃の銃声がはるか南の方角に聞こえる。依然として暖かく、晴天が続いている。
・・・・(前述のことを取り消さなければならない。朝食に行くと、ほかの人たちはみな、朝4時ごろまで夜通し銃声が聞こえたことを話題にしていた。どうやら、私のほうがすっかり疲れてしまって、物音は何も聞いていなかったようだ。)
 引き続き今朝も難民がやってくる。かつての教職員宿舎はほぼ満員になっているし、中央棟も満員になりかけている。・・・・
・・・・・・・・・
 安全区の旗を掲揚するのを手伝うため、午後、F・陳と一緒に西の境界まで行った。希望としては、明日までにすべての中国軍に出て行ってもらい、その旨の電報を日中双方に送る事ができれば、と思う。外出中に激しい空襲があり、何発かの爆弾が神学校の西に投下された。私は、落下する爆弾のヒューッという音や対空射撃の閃光を初めて体験した。私たちは飛行機が頭上から去るまで塚の間に身を隠していた。
 激しい撃ち合いがほとんど終日続いていた。日本軍が光華門のすぐ近くまで迫っているそうだ。市外周辺のあちこちでほとんど一日中火災が目撃されている。今夜は西の空が真っ赤に染まっている。
・・・・・・・・
 今夜の記者会見では、南京が引き渡されたあとの難民の問題が提起された。この先数ヶ月間、誰が彼らの面倒を見るのだろうか。
 城外に取り残された12歳の少女の母親は、ほとんど一日中校門の外に立ちつくし、群衆の中に娘がいないかと食い入るように見ていた。


「Imagine 9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと

約束した世界


 「相手が攻めてくるから、準備しなければならない」
 軍隊は、いつもそう言って大きくなってきました。でも、こちらが準備することで、相手はもっと不安に感じ、さらに軍備を増やしていきます。その結果、安全になるどころか、互いに危険がどんどん増えていきます。
 このような競争や衝突を避けるため、国々は「お互いに攻めない」という約束を結ぶ事ができます。
とくに、地域の中でこのような取り決めを行っているところは多く、ヨーロッパには「欧州安全保障・協力機構(OSCE)」が、東南アジアには「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が、アフリカには「アフリカ聯合(AU)」が地域の平和のための枠組みとして存在します。

 日本を取り囲む東北アジア地域には、このような枠組みはありません。朝鮮半島は南と北に分断されており、中国と台湾は軍事的ににらみ合っています。日本では多くの人が「北朝鮮が怖い」と感じていますが、逆に朝鮮半島や中国の人たちの間では「日本の軍事化が怖い」という感情が高まっています。
 NGOは、「東北アジア地域に平和メカニズムをつくろう」と提案しています。
 その一つのアイデアは、東北アジアに「非核地帯」をつくることです。
日本や韓国、北朝鮮は核を持たないことを誓い、一方でアメリカ、中国、ロシアなどの核保有国はこれらの国に「核による攻撃や脅しをしない」という法的義務を負うような条約をつくるのです。すでにこのような非核地帯条約は南半球のほとんどにできており、最近では中央アジアにもできました。
 また、日本とロシアの間で争いになっている「北方領土」周辺に平和地帯をつくるとか、中国と台湾それぞれが軍備を減らし平和交流を増やすといった提案がなされています。

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2008年12月9日火曜日

1937年 12月9日 南京

9日の夕方、「日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜(むこ)の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってし、これを犯さず」という大日本陸軍総司令官松井石根名の南京防衛軍に対する「投降勧告文」(日本語と中国語)を日本軍機から城内8ヶ所に投下した。(「南京事件」:笠原著)より


「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月9日
 いまだに米を運び込む作業が終わらない。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。苦力(クーリー)がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。委員会が面倒を見るだろう。・・・・
・・・・
 さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながら言うところによると、はじめ歩哨はだめだといったが、結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ40人いた歩哨のうち、誰ひとり生きてはいなかったという。

 燃え盛る下関を通り抜けての帰り道は何ともすさまじく、この世のものとも思われない。安全区に関する記者会見が終わる直前、夜の7時にたどり着き、どうにか顔だけは出せた。そうこうしているうちに、日本軍は城門の前まできているとのことだ。あるいはその手前に。中華門と光華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区中に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える。看護する人はいない。医者も看護士も衛生隊も、もうここにはいないのだ。鼓楼病院だけが、使命感に燃えるアメリカ人医師たちのよってどうにか持ちこたえている。
安全区の通りは大きな包みを背負った難民であふれかえっている。旧交通部(兵器局)は難民のために開放され、たちまちいっぱいになった。われわれは部屋を2つ立ち入り禁止にした。武器と弾薬をみつけたからだ。難民の中には脱走兵がいて、軍服と武器を差し出した。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)
12月9日(木曜日)
 今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らし出している。午後はほとんど、北西以外のすべての方角からもうもうと煙が立ち昇っていた。中国軍のねらいは、すべての障害物、たとえば銃撃の邪魔になる物や、日本兵が待ち伏せしたり身を守るのに役立つ物を取り除くことなのだ。AP特派員のマグダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけているところを目撃したと言っている。この2日間に大挙して城内に避難してきたのは、これら焼け出された人たちである。こうした作戦が仮に日本軍の入城を半日か一日遅らせるとしても、人々にこれほどの苦難を与えてまでもする価値があるのか疑問だ。・・・・・
・・・・・・
 今夜、記者会見の最中に大きな砲弾が新街口に落下し、みなびっくりして椅子から飛び上がった。
青ざめた人もいたのではないかと思う。これは、私たちが初めて体験した砲撃だった。今日は飛行機の爆音がただの一時間も絶えることはなかった。・・・・・今後、記者会見はなくなるかもしれない。

 避難民たちの話は心痛むものだ。今日、ある女性がさめざめと泣きながら私のところへやってきた。
話を聞くと、用事があって南京にきたのだが、彼女の12歳の娘は城門を通してもらえず、彼女の方も、城門の外にいる娘のところへ行かせてもらえない、というのだ。娘は、戦闘が最も激しく行われている光華門のあたりにいる。
 三汊河からやってきた女性は、気が狂ったように母親を捜し回っていた。キャンパスには母親がいないことがわかったので、私たちは彼女を聖経師資培訓学校(聖書講師養成学校)へ行かせた。
 明日は日本軍が全力を挙げて城内突入を図るだろうが、その場合には、おそらく、激しい戦闘の一日になるだろう。(のちに福田から聞いた話では、実際、前衛部隊は12月10日に光華門に達したが、撃退されたそうだ。)


「Imagine 9」【合同出版】より



武器をつくったり


売ったりしない世界



 世界では今、武器貿易を取り締まるための「武器貿易条約(ATT)」をつくることが提案されています。世界的な市民運動の結果、このような条約をつくろうということが2006年に国連総会で決議され、そのための準備が始まっています。
 しかし、世界的には武器をつくること自体、また、武器を売ること自体が禁止されているわけではありません。提案されている条約も、武器貿易を登録制にしようというものであり、武器貿易の全面禁止にはほど遠い内容です。
 
 日本は、憲法9条の下で「武器輸出を原則的に行わない」という立場をとっています(武器輸出三原則)。このような日本の立場は、世界でも珍しい先進的なものです。
 しかし、一方で、日本はアメリカと共同でミサイル防衛の兵器開発を進めており、この分野は武器輸出禁止の「例外」として認めています。
ミサイル開発に携わる企業からは、武器輸出を認めるよう求める声が高まっています。「日本は将来、憲法9条をなくして、ハイテク技術を駆使して武器をつくり世界に売り始めるのではないか」と心配する人も増えてきています。
 私たちは、武器を輸出する国になるのか、それとも「武器の禁止」を世界に輸出する国になるのか、分かれ道にいます。

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2008年12月8日月曜日

1937年 12月8日 南京

いつもの日記に入る前に、1941年の今日12月8日はどんな日であったのでしょうか?
「日中戦争が泥沼化する中で日本が行った仏印進駐(1939年、北部/41年、南部)などによって、アメリカは1941年、石油・鉄くずなどの輸出を禁止し、日米間の外交は行き詰まりました。そこで日本軍は南進つまり東南アジアを侵略し、油田地帯を占領することで石油を確保しようと考えましたが、それは対米英開戦を意味し、マレー半島侵攻とハワイ真珠湾攻撃の同時作戦を決定したのでした。・・・
12月8日未明、英領マラヤのコタバルに日本軍先遣隊が上陸を開始、イギリス軍との戦闘が始まりました。」【アジア・フォーラム横浜ニュースレター】より) そして、真珠湾を奇襲するとともに、アメリカ・イギリス・オランダに宣戦を布告し、アジア・太平洋戦争に突入しました。その突入した日が今日、12月8日。テレビ・新聞などのメディアはほとんどこのことを報道しないでしょう。故意に無視していると思う。
 
8日・・・日本軍、南京城包囲を完成。
「南京の真実」(ラーベ著:講談社より)
 今日の午後、ボーイの張がかみさんを鼓楼病院から連れ帰った。まだすっかりよくなったわけではないが、時が時だけにどうしても子どものそばにいたいというのだ。残りの家族が40マイルも離れたところにいるといって、張は嘆いた。病気の曹の仕事を一部、引き受けていたので迎えに行く時間がなかったのだという。だれもそれを私に言ってくれなかった。だから、張の身内はとっくに全員ここに来ているとばかり思っていたのだ。かわいそうだがもう手遅れだ。
・・・・・・・・・・
 何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日が暮れていく中、この寒空に、家の蔭や路上で横になっている。我々は全力をあげて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにも見えないのだ。城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼き出された人たちが次々と送られてくる。我々はさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実があがらないからだ。・・・・
・・・・

我々はみなお互い絶望しかけている。中国軍の司令部にはほとほと手を焼く。せっかく揚げた安全区の旗をまたもや全部持っていかれてしまった。安全区は縮小されることになったというのだ。大砲や堡
塁(ほうるい)のために予備の場所がいるからだという。どうするんだ?そうなったら、何もかも水の泡になってしまうかもしれないじゃないか。日本軍にかぎつけられたらおしまいだ。おかまいなしに爆撃するだろう。そうなったら、安全区どころか場合によっては大変な危険区になってしまう。明日の朝早く、境界をもう一度調べてみなければ。・・・・・・・・



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月8日(水)
今朝9時、避難民受け入れの訓練を行い、その要領を把握した。・・・地域住民は寄宿舎に入ってもらい、無錫(むしゃく)などの都市からの避難民は中央棟に収容することにしている。地域住民の世帯には隣保館で生活することを許可しており、そこは、すでにかなりいっぱいになっている。・・・・
 今夜は、初めての避難民を受け入れている。彼女たちが聞かせてくれる話は、何と心の痛む話だろう。中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。
 赤色の丸に十字の「安全区」の旗がきょう掲揚された。
 今夜の私は、容貌は60歳、気持ちは80歳だ。避難民の受け入れを手伝いたかったので、記者会見には参加しなかった。・・・・
・・・・

 アメリカ大使館の通達には次のように書かれている。「諸外国の外交官の撤去にともない、残留アメリカ大使館員は今晩アメリカ砲艦パナイ号に乗船し、同艦内に臨時の大使館事務所を開設する。大使館員は、明日の日中は陸上の大使館に戻るものとする。下関門閉門の情報が入った場合には、パナイ号は三汊河の現在の碇泊(ていはく)地点から運行を開始する。南京城壁の乗り越えに用いるロープは、M・Sベイツ博士に保管してもらうことになっている・・・・。」
 

「Imagine 9」【合同出版】より


武器をつくったり

売ったりしない世界


「武器はどこから来るのでしょうか?
ヨーロッパやアメリカから来るのです。彼らは、武器貿易の達人です。アフリカの私たちは戦う必要も、殺しあう必要もないのです。だから、憲法9条は、アフリカにこそ導入されるべきだと思います。9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ってこさせないようにする事ができます。」

 これは、2007年1月にナイロビで開催された「世界社会フォーラム」で、ケニアの青年が語った言葉です。アフリカには、スーダンやソマリアなど、数多くの内戦に苦しんでいます。子どもたちまでもが兵士とさせられ、武器をもたされ、傷つき、多くの民間人が命を落としています。
 世界でもっとも多く武器を輸出している国々は、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、中国といった大国です。これらの国々から、中東、アジア、アフリカ、中南米へと、武器が売られています。紛争で使われる小型武器は、世界中に6億個以上あり、さらに毎年800万個がつくられていると言われています。これらの武器によって、世界で年間50万人の死者が出ていると推定されており、これは「一分で一人」をいう計算になります(「コントロール・アームズ・キャンペーン」による)。

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2008年12月7日日曜日

1937年 12月7日 南京

7日・・・蒋介石、南京脱出。中シナ方面軍、「南京城の攻略および入城に関する注意事項」などを下達。中国軍、「清野作戦」を展開(~9日)【「南京事件」(笠原著:岩波新書)より】

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月7日
 昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい5時ごろ、飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。それが蒋介石委員長の別れの挨拶だった。昨日の午後会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で!
 後に残されたのは、貧しい人たちだけ。それから、その人と共に安全区に残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。
 そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具を抱えて逃げ込んでくる。と言ってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。
 これから文字通りの無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みな共同宿舎で寝泊りし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。受け取るはずの食糧のうち、ここに運び入れる事ができたのはたった4分の1だ。なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に徴発されてしまった。
 今日の午前中に、軍にトラックを2台取り上げられた。これまでに一台しか取り返していない。もう一台、塩が2トン積んであったほうはいまだ返ってこない。いまゆくえを探しているところだ。最高司令部から、たった今、さらに2万ドル、私のところに払い込まれた。約束の10万ドルの代わりに、全部で4万ドル受け取ったことになる。これで満足しなければならないのだろう。寄金が分割払いされていることなど、おそらく蒋介石は知らないだろうから文句も言えまい。
 明日、城門が閉められ、今まで残っていたアメリカ人も船に乗る。・・・・・・・
・・・・・・
 18時記者会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。残りはもう発ったのだろう。
 門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂がひろまり、中華門の近くに住む人たちはパニックに陥っている。何百と言う家族が安全区に押しよせているが、こんなに暗くてはもう泊まるところが見つからない。凍え(こごえ)、泣きながら、女の人や子どもたちがシーツの包みに腰かけて、寝場所を探しに行った夫や父親の帰りを待っている。今日、2117袋、米を買ってきた。明日もまた門を通れるかどうかは分からない。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月7日
 今朝7時、下関の方角から砲声が聞こえてきた。真っ先に頭に浮かんだのは、日本の艦船が到着し、いよいよ砲撃が開始されたのでは、ということだった。さいわい、その推測ははずれたが、本当のところは何なのか、さっぱりわからなかった。
 キャンパスでは引き続き備品を特別室(3階)に移している。今朝も男性たちが、中央棟と理科棟、それに実験学校の作業をしている。それ以外の男性は寄宿舎の掃除をしている。事務助手はポスターや案内標識を書き、一方、事務室では戴師傳〔師傳は技能者への敬称〕が案内係用の腕章を作製している。避難民用に割り当てられた八つの建物に収容できる推計人数をまとめるところだ。2750人(一人当たり16平方フィートを基準とした計算)になるが、それは、私たちが対処しなければならない、ほぼ精一杯の人数だ。(後日、実際には六つの建物に一万人以上を収容した。)・・・・
・・・・・
 城内にはいろいろな噂が飛び交っている。何千人という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのであった。
 記者会見には中国人3人だけが出席した。彼ら以外の者は多忙を極めているか、そうでなければ南京を離れてしまったのだ。〔蒋介石〕総統は、今日午前4時に南京をあとにしたそうだ。2,3日のうちに南京が陥落すると予想する者もいれば、長期にわたって包囲攻撃が加えられると考える者いる。孝陵衛が燃えているそうだ。軍の作戦により放火されたのである。国営公園でたくさんの樹木が伐採されたー同じ作戦によりーとの報告もいくつかあった。淳化鎮に300発の爆弾が落とされたそうだ。
 おそい夕食のあと隣保館に出向いた。今夜は近隣の何世帯かの人たちがきていた。その中には家が取り壊されることになっている胡大媽(大媽は年長の女性への尊称)や、彼女の息子たちとその連れ合いもいた。綴れ織商の呉さん一家やその他の世帯の人たちもいた。ある高齢の教師(78歳)が校門の前で立ち止まった。彼が言うには、家から追い出されたとのこと。年老いた妻は、家から離れたくないと言うので、彼だけがやってきたのだ。今夜は南京でたくさんの悲惨な事件が起こり、大勢の人々が空腹を抱え、寒さに震えている。


(Imagine 9解説)【合同出版】より 

 9条をつかって、

 戦争のない世界をつくる。


 中米の国・コスタリカも平和憲法をもっています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。
軍隊の廃止によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
 ところが、2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクへの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ!」
 裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法はただ単に守ればよいものではありません。平和憲法は人々のもの。人々が使うためにあるのです」

 ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。
 スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたっています。
 こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくる事ができます。「イマジン 9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、皆さんと考えたいと思います。



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2008年12月6日土曜日

1937年 12月6日 南京

6日:日本軍、南京外囲防御陣地をほぼ占領。
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月6日
 ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗り込んだ。残りの人々はいつでも乗り込めるよう準備している。我々の仲間だけが拒否した。これは、絶対に内緒だが、と言ってローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和が来るといい。・・・・・・・
 黄上校との話し合いは忘れる事ができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れると言うのだ。
 「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか、あなた方が安全区を設けさえしなかったら、今底に逃げ込もうとしている連中は、わが兵士たちの役に立てたのですぞ!」
 これほどまでに言語道断なせりふがあるだろうか。二の句がつげない!しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている!ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄をつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?


 それから軍人や軍の施設を安全区から引き上げる時期について聞いた。最後のぎりぎりの瞬間、それよりも一分たりとも前ではない、というのがやつの返事だ。要するに、土壇場まで、市街戦が繰り広げられるその瞬間までいすわろうという肚(はら)なんだ!
 きちんと準備するには、米や小麦粉、塩、燃料、医薬品、炊事道具、あと、なんだかしらないがとにかくいるもの全部、日本軍が攻めてくる前に用意しておかねばならない。医者、救護員、汚物処理、埋葬、警察、そうだ、場合によっては警察の代わりまでやる覚悟がいる。軍隊が退却すれば十中八九警察もいなくなるだろう。そうなったら、治安が乱れる恐れがある。こういうこともみなその時になってからやれと言うのか?
 なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつにとっちゃ、数十万という同胞の命なんかどうでもいいんだ。そうか。貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないと言うわけか?・・・・・・・・・・


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)
12月6日(月)
 今日は寒さが厳しいけれど、幸いなことに、日なたは暖かい。十分な夜具を持っていない避難民は、さぞつらい思いをしているに違いない。雪や雨が降りでもしたら、その苦難はどんなに増すことだろう。神様、この冬の苦難はどんなに厳しいものになるでしょう.UP(ママ)特派員のマグダニエルが今日話してくれたところでは、昨日句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、その後を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦(1)」だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。明孝陵に通じる道路沿いにあった竹林などの美しい樹木はすでに切り倒されていたそうだ。春に見たプラムや桃の花の美しい眺めは忘れる事ができない。
 む湖でのイギリス船爆撃(2)のニュースを聞き、呉博士が漢口に着いたかどうか知りたくなった。
 キャンパスでは終日みんながさかんに活動していた。陳さんと李さんは、職員に指示して文科棟のすべての備品を屋根裏に移動させている。文科棟には、今のところ200人(のちに判明したところでは1000人)の避難民を収容する余地がある。屋根裏が広くてありがたい。今夜中に文科棟と、それに二つの寄宿舎の整理が完了する。明日は理科棟と中央棟を片付けて避難民の収容に備えよう。明日は収容計画を完成し、割り当ての手順をまとめるようにしよう。ここにいて、こうした仕事を手伝えるのは何とありがたいことだろう。程先生一人だけでは指揮しきれないだろうし、彼女以外の人はあまりにも不慣れだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)・・・中国語で「清野作戦」といい、侵攻して来る日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物をすべて焼却してしまう焼野原作戦で、中国軍は南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。
(2)・・・1937年12月5日、日本の海軍航空隊がむ湖を空襲した際、む湖沖の長江に停泊していたイギリスのジャーディン・マセソン社の汽船二隻に爆弾が命中して火災が発生し、船長夫妻が負傷、イギリス政府は日本政府に強く抗議した。

「Imagine 9」(合同出版)解説より


9条をつかって、戦争のない世界をつくる。 

「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
 日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
 第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
 同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。


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