7日・・・蒋介石、南京脱出。中シナ方面軍、「南京城の攻略および入城に関する注意事項」などを下達。中国軍、「清野作戦」を展開(~9日)【「南京事件」(笠原著:岩波新書)より】
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月7日
昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい5時ごろ、飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。それが蒋介石委員長の別れの挨拶だった。昨日の午後会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で!
後に残されたのは、貧しい人たちだけ。それから、その人と共に安全区に残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。
そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具を抱えて逃げ込んでくる。と言ってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。
これから文字通りの無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みな共同宿舎で寝泊りし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。受け取るはずの食糧のうち、ここに運び入れる事ができたのはたった4分の1だ。なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に徴発されてしまった。
今日の午前中に、軍にトラックを2台取り上げられた。これまでに一台しか取り返していない。もう一台、塩が2トン積んであったほうはいまだ返ってこない。いまゆくえを探しているところだ。最高司令部から、たった今、さらに2万ドル、私のところに払い込まれた。約束の10万ドルの代わりに、全部で4万ドル受け取ったことになる。これで満足しなければならないのだろう。寄金が分割払いされていることなど、おそらく蒋介石は知らないだろうから文句も言えまい。
明日、城門が閉められ、今まで残っていたアメリカ人も船に乗る。・・・・・・・
・・・・・・
18時記者会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。残りはもう発ったのだろう。
門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂がひろまり、中華門の近くに住む人たちはパニックに陥っている。何百と言う家族が安全区に押しよせているが、こんなに暗くてはもう泊まるところが見つからない。凍え(こごえ)、泣きながら、女の人や子どもたちがシーツの包みに腰かけて、寝場所を探しに行った夫や父親の帰りを待っている。今日、2117袋、米を買ってきた。明日もまた門を通れるかどうかは分からない。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月7日
今朝7時、下関の方角から砲声が聞こえてきた。真っ先に頭に浮かんだのは、日本の艦船が到着し、いよいよ砲撃が開始されたのでは、ということだった。さいわい、その推測ははずれたが、本当のところは何なのか、さっぱりわからなかった。
キャンパスでは引き続き備品を特別室(3階)に移している。今朝も男性たちが、中央棟と理科棟、それに実験学校の作業をしている。それ以外の男性は寄宿舎の掃除をしている。事務助手はポスターや案内標識を書き、一方、事務室では戴師傳〔師傳は技能者への敬称〕が案内係用の腕章を作製している。避難民用に割り当てられた八つの建物に収容できる推計人数をまとめるところだ。2750人(一人当たり16平方フィートを基準とした計算)になるが、それは、私たちが対処しなければならない、ほぼ精一杯の人数だ。(後日、実際には六つの建物に一万人以上を収容した。)・・・・
・・・・・
城内にはいろいろな噂が飛び交っている。何千人という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのであった。
記者会見には中国人3人だけが出席した。彼ら以外の者は多忙を極めているか、そうでなければ南京を離れてしまったのだ。〔蒋介石〕総統は、今日午前4時に南京をあとにしたそうだ。2,3日のうちに南京が陥落すると予想する者もいれば、長期にわたって包囲攻撃が加えられると考える者いる。孝陵衛が燃えているそうだ。軍の作戦により放火されたのである。国営公園でたくさんの樹木が伐採されたー同じ作戦によりーとの報告もいくつかあった。淳化鎮に300発の爆弾が落とされたそうだ。
おそい夕食のあと隣保館に出向いた。今夜は近隣の何世帯かの人たちがきていた。その中には家が取り壊されることになっている胡大媽(大媽は年長の女性への尊称)や、彼女の息子たちとその連れ合いもいた。綴れ織商の呉さん一家やその他の世帯の人たちもいた。ある高齢の教師(78歳)が校門の前で立ち止まった。彼が言うには、家から追い出されたとのこと。年老いた妻は、家から離れたくないと言うので、彼だけがやってきたのだ。今夜は南京でたくさんの悲惨な事件が起こり、大勢の人々が空腹を抱え、寒さに震えている。
(Imagine 9解説)【合同出版】より
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
中米の国・コスタリカも平和憲法をもっています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。
軍隊の廃止によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
ところが、2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクへの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ!」
裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法はただ単に守ればよいものではありません。平和憲法は人々のもの。人々が使うためにあるのです」
ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。
スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたっています。
こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくる事ができます。「イマジン 9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、皆さんと考えたいと思います。
731を問う!!
2008年12月7日日曜日
2008年12月6日土曜日
1937年 12月6日 南京
6日:日本軍、南京外囲防御陣地をほぼ占領。
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月6日
ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗り込んだ。残りの人々はいつでも乗り込めるよう準備している。我々の仲間だけが拒否した。これは、絶対に内緒だが、と言ってローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和が来るといい。・・・・・・・
黄上校との話し合いは忘れる事ができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れると言うのだ。
「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか、あなた方が安全区を設けさえしなかったら、今底に逃げ込もうとしている連中は、わが兵士たちの役に立てたのですぞ!」
これほどまでに言語道断なせりふがあるだろうか。二の句がつげない!しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている!ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄をつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?
それから軍人や軍の施設を安全区から引き上げる時期について聞いた。最後のぎりぎりの瞬間、それよりも一分たりとも前ではない、というのがやつの返事だ。要するに、土壇場まで、市街戦が繰り広げられるその瞬間までいすわろうという肚(はら)なんだ!
きちんと準備するには、米や小麦粉、塩、燃料、医薬品、炊事道具、あと、なんだかしらないがとにかくいるもの全部、日本軍が攻めてくる前に用意しておかねばならない。医者、救護員、汚物処理、埋葬、警察、そうだ、場合によっては警察の代わりまでやる覚悟がいる。軍隊が退却すれば十中八九警察もいなくなるだろう。そうなったら、治安が乱れる恐れがある。こういうこともみなその時になってからやれと言うのか?
なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつにとっちゃ、数十万という同胞の命なんかどうでもいいんだ。そうか。貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないと言うわけか?・・・・・・・・・・
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)
12月6日(月)
今日は寒さが厳しいけれど、幸いなことに、日なたは暖かい。十分な夜具を持っていない避難民は、さぞつらい思いをしているに違いない。雪や雨が降りでもしたら、その苦難はどんなに増すことだろう。神様、この冬の苦難はどんなに厳しいものになるでしょう.UP(ママ)特派員のマグダニエルが今日話してくれたところでは、昨日句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、その後を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦(1)」だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。明孝陵に通じる道路沿いにあった竹林などの美しい樹木はすでに切り倒されていたそうだ。春に見たプラムや桃の花の美しい眺めは忘れる事ができない。
む湖でのイギリス船爆撃(2)のニュースを聞き、呉博士が漢口に着いたかどうか知りたくなった。
キャンパスでは終日みんながさかんに活動していた。陳さんと李さんは、職員に指示して文科棟のすべての備品を屋根裏に移動させている。文科棟には、今のところ200人(のちに判明したところでは1000人)の避難民を収容する余地がある。屋根裏が広くてありがたい。今夜中に文科棟と、それに二つの寄宿舎の整理が完了する。明日は理科棟と中央棟を片付けて避難民の収容に備えよう。明日は収容計画を完成し、割り当ての手順をまとめるようにしよう。ここにいて、こうした仕事を手伝えるのは何とありがたいことだろう。程先生一人だけでは指揮しきれないだろうし、彼女以外の人はあまりにも不慣れだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)・・・中国語で「清野作戦」といい、侵攻して来る日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物をすべて焼却してしまう焼野原作戦で、中国軍は南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。
(2)・・・1937年12月5日、日本の海軍航空隊がむ湖を空襲した際、む湖沖の長江に停泊していたイギリスのジャーディン・マセソン社の汽船二隻に爆弾が命中して火災が発生し、船長夫妻が負傷、イギリス政府は日本政府に強く抗議した。
「Imagine 9」(合同出版)解説より
9条をつかって、戦争のない世界をつくる。
「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月6日
ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗り込んだ。残りの人々はいつでも乗り込めるよう準備している。我々の仲間だけが拒否した。これは、絶対に内緒だが、と言ってローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和が来るといい。・・・・・・・
黄上校との話し合いは忘れる事ができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れると言うのだ。
「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか、あなた方が安全区を設けさえしなかったら、今底に逃げ込もうとしている連中は、わが兵士たちの役に立てたのですぞ!」
これほどまでに言語道断なせりふがあるだろうか。二の句がつげない!しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている!ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄をつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?
それから軍人や軍の施設を安全区から引き上げる時期について聞いた。最後のぎりぎりの瞬間、それよりも一分たりとも前ではない、というのがやつの返事だ。要するに、土壇場まで、市街戦が繰り広げられるその瞬間までいすわろうという肚(はら)なんだ!
きちんと準備するには、米や小麦粉、塩、燃料、医薬品、炊事道具、あと、なんだかしらないがとにかくいるもの全部、日本軍が攻めてくる前に用意しておかねばならない。医者、救護員、汚物処理、埋葬、警察、そうだ、場合によっては警察の代わりまでやる覚悟がいる。軍隊が退却すれば十中八九警察もいなくなるだろう。そうなったら、治安が乱れる恐れがある。こういうこともみなその時になってからやれと言うのか?
なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつにとっちゃ、数十万という同胞の命なんかどうでもいいんだ。そうか。貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないと言うわけか?・・・・・・・・・・
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)
12月6日(月)
今日は寒さが厳しいけれど、幸いなことに、日なたは暖かい。十分な夜具を持っていない避難民は、さぞつらい思いをしているに違いない。雪や雨が降りでもしたら、その苦難はどんなに増すことだろう。神様、この冬の苦難はどんなに厳しいものになるでしょう.UP(ママ)特派員のマグダニエルが今日話してくれたところでは、昨日句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、その後を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦(1)」だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。明孝陵に通じる道路沿いにあった竹林などの美しい樹木はすでに切り倒されていたそうだ。春に見たプラムや桃の花の美しい眺めは忘れる事ができない。
む湖でのイギリス船爆撃(2)のニュースを聞き、呉博士が漢口に着いたかどうか知りたくなった。
キャンパスでは終日みんながさかんに活動していた。陳さんと李さんは、職員に指示して文科棟のすべての備品を屋根裏に移動させている。文科棟には、今のところ200人(のちに判明したところでは1000人)の避難民を収容する余地がある。屋根裏が広くてありがたい。今夜中に文科棟と、それに二つの寄宿舎の整理が完了する。明日は理科棟と中央棟を片付けて避難民の収容に備えよう。明日は収容計画を完成し、割り当ての手順をまとめるようにしよう。ここにいて、こうした仕事を手伝えるのは何とありがたいことだろう。程先生一人だけでは指揮しきれないだろうし、彼女以外の人はあまりにも不慣れだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)・・・中国語で「清野作戦」といい、侵攻して来る日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物をすべて焼却してしまう焼野原作戦で、中国軍は南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。
(2)・・・1937年12月5日、日本の海軍航空隊がむ湖を空襲した際、む湖沖の長江に停泊していたイギリスのジャーディン・マセソン社の汽船二隻に爆弾が命中して火災が発生し、船長夫妻が負傷、イギリス政府は日本政府に強く抗議した。
「Imagine 9」(合同出版)解説より
9条をつかって、戦争のない世界をつくる。
「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。
2008年12月5日金曜日
1937年 12月5日 南京
1937年12月4日・・・第16師団(中島今朝吾中将)、南京戦区に突入。
「南京の真実」(ジョン・ラーベ著:講談社)より
12月5日
・・・・・・・・
アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。
やや、詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。
つまり、日本政府はまた拒否してはきたものの、出来るだけ配慮しようと約束してくれたのだ。
ベイツ、シュペアリングと一緒に、唐指令長官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束を取り付けなければならない。それにしてもやつの返事を聞いた時の我々の驚きを一体どう言えばいいのだろう!「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」だと?そんな馬鹿な事があるか!それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることは考えられない。せいぜい、「難民区」だ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
我々は必死で米や小麦粉を運び込んだ。安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる貼り紙もできている。だが、肝心の安全性については最低の保証すら、与えられないのだ!
ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいる方が安全だと思っているからだという。・・・・
・・・・・・
「南京事件の日々・・・・ミニー・ヴォートリンの日記」(大月書店)より
12月5日(日)
鼓楼教会へ礼拝に行く時刻のころ「空襲警報」のサイレン(日本軍の前線がすぐ近くまで迫っているので、今では警戒警報は出されない)が鳴り、するとまもなく爆撃音が聞こえてきた。明朝故宮の「西華門」がやられたのだ、とウィルソン医師が教えてくれた。気の毒なことに、爆撃されたのはほとんどが貧しい民間人であった。ウィルソン医師が、ある一家のことを話してくれた。そこの母親と娘は即死、呆然自失のの父親をウィルソン医師が発見したとき、彼は赤ん坊を抱いていたが、その子の頭部は吹き飛ばされてしまっていた。中国軍兵士のことを思うと胸が痛む。負傷兵50人が、20マイル離れたところからやっとのことできょう城内にたどり着いたそうだ。彼らの話によれば、負傷した多くの仲間が路上で倒れていったという。
大学病院(金陵大学付属鼓楼病院)は、医師や看護婦が絶対的に不足している。看護婦は全員が、そして医師も、中国人医師一人を除いては全員が長江上流へ脱出してしまった。・・・・・・
昼食直後にキャンパスの緊急理事会が召集され、長時間にわたって避難民の扱い方が検討された。手伝ってくれる人がもっと大勢いればよいのだが。程先生は疲れており、何千人という避難民の世話をすることを考えただけで、もう具合が悪くなってしまう。持参する品を知らせる大きなポスターを校門に掲示する計画を進めている。また、できれば日刊紙(今では紙面が一枚に減ってしまった)に子のポスターを掲載するつもりだ。・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
定例記者会見は長時間にわたった。馬市長と有意義な話ができた。市長の予想では、日本軍がここに到達するまで激しい戦闘が一ヶ月は続くことになるだろう。安全区の旗を立てる事ができるように、軍関係の団体や防御施設を安全区の外に移すため、あらゆる努力がなされている。・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
{imagine 9}【合同出版】より
想像してごらん、
9条がゆきわたった世界を。
Imagine,
A world filled with Article 9.
憲法9条は、日本という「国」のものではありません。
日本に住んでいる「人々」、つまりみなさん自身のものです。
そしてそれは、日本国民にとってだけではなく、すべての人類にとって重要なのです。
(アメリカ/男性)
「南京の真実」(ジョン・ラーベ著:講談社)より
12月5日
・・・・・・・・
アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。
やや、詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。
つまり、日本政府はまた拒否してはきたものの、出来るだけ配慮しようと約束してくれたのだ。
ベイツ、シュペアリングと一緒に、唐指令長官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束を取り付けなければならない。それにしてもやつの返事を聞いた時の我々の驚きを一体どう言えばいいのだろう!「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」だと?そんな馬鹿な事があるか!それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることは考えられない。せいぜい、「難民区」だ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
我々は必死で米や小麦粉を運び込んだ。安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる貼り紙もできている。だが、肝心の安全性については最低の保証すら、与えられないのだ!
ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいる方が安全だと思っているからだという。・・・・
・・・・・・
「南京事件の日々・・・・ミニー・ヴォートリンの日記」(大月書店)より
12月5日(日)
鼓楼教会へ礼拝に行く時刻のころ「空襲警報」のサイレン(日本軍の前線がすぐ近くまで迫っているので、今では警戒警報は出されない)が鳴り、するとまもなく爆撃音が聞こえてきた。明朝故宮の「西華門」がやられたのだ、とウィルソン医師が教えてくれた。気の毒なことに、爆撃されたのはほとんどが貧しい民間人であった。ウィルソン医師が、ある一家のことを話してくれた。そこの母親と娘は即死、呆然自失のの父親をウィルソン医師が発見したとき、彼は赤ん坊を抱いていたが、その子の頭部は吹き飛ばされてしまっていた。中国軍兵士のことを思うと胸が痛む。負傷兵50人が、20マイル離れたところからやっとのことできょう城内にたどり着いたそうだ。彼らの話によれば、負傷した多くの仲間が路上で倒れていったという。
大学病院(金陵大学付属鼓楼病院)は、医師や看護婦が絶対的に不足している。看護婦は全員が、そして医師も、中国人医師一人を除いては全員が長江上流へ脱出してしまった。・・・・・・
昼食直後にキャンパスの緊急理事会が召集され、長時間にわたって避難民の扱い方が検討された。手伝ってくれる人がもっと大勢いればよいのだが。程先生は疲れており、何千人という避難民の世話をすることを考えただけで、もう具合が悪くなってしまう。持参する品を知らせる大きなポスターを校門に掲示する計画を進めている。また、できれば日刊紙(今では紙面が一枚に減ってしまった)に子のポスターを掲載するつもりだ。・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
定例記者会見は長時間にわたった。馬市長と有意義な話ができた。市長の予想では、日本軍がここに到達するまで激しい戦闘が一ヶ月は続くことになるだろう。安全区の旗を立てる事ができるように、軍関係の団体や防御施設を安全区の外に移すため、あらゆる努力がなされている。・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
{imagine 9}【合同出版】より
想像してごらん、
9条がゆきわたった世界を。
Imagine,
A world filled with Article 9.
憲法9条は、日本という「国」のものではありません。
日本に住んでいる「人々」、つまりみなさん自身のものです。
そしてそれは、日本国民にとってだけではなく、すべての人類にとって重要なのです。
(アメリカ/男性)
2008年12月4日木曜日
1937年 12月上旬 南京
「南京の真実」(ラーべ著 講談社)より
11月30日
韓に家族をつれて越してくるようにいった。一家は今学校で暮らしている。台所や風呂場は韓が作らせた。韓の友人で・・・レンガ工場の経営者、車を贈ってくれた孫さんも越してきた。新しい防空壕はまだ出来上がらない。全力をあげているのだが。ゆるく積み上げたレンガ壁(セメントがないので両側を厚板で補強してある)が一つあるほかは鉄板を使った。だれが調達してきたのかはわからない。とにかくそこにあったのだ。ほかにもいろいろそういう物がある。おかげでわが家の庭はすさまじいことになっている。水道が止まりはしないかと心配だ。トラックで大型の貯水タンクを運んでこなくては。灯油も買った。ロウソクも。石炭は約一か月分ある。・・・・・・
スマイスから電話。南京市には6万袋、下関には3万4千袋の米があるとのこと。おそらくこれで足りるだろう。今不足しているのは仮の宿泊所、つまりわら小屋に使うむしろだ。この寒空に、何とかして泊まれる場所を確保しなければならない。
以下は国際委員会が抱えている課題である。
1、資金の調達
2、警察
安全区入口の検問
境界の警備
警察官の総数の確認とその宿泊施設の整備
3、兵士と軍人たち
撤退の指令と視察
既に始まっている脱走兵の対策
負傷兵の看護
4、食糧の配給
食糧の管理
食糧の貯蔵と分配
5、輸送と輸送手段
6、避難民の収容施設
見張り
建物の使用と管理
( a)公共の建物(政府の)
(b)学校や伝道団の建物
(c)空き家、わら小屋
7、公共設備
水道・電気・電話
8、衛生設備と健康管理
仮設便所・ゴミと糞尿の運搬・病院と医療設備
12月1日
9時半に、クレーガー、シュペアリング両人と平倉巷で開かれる委員会へいく。いろいろな役目を割り振って、名簿を作る。馬市長が部下を連れて現れ、米3万袋と小麦粉一万袋を提供すると約束。
残念ながらそれを難民地域まで運ぶトラックがない。米と小麦粉を売ればいい。出来るだけ高値で。難民用の給食所をつくる予定だ。
3つ目の防空壕が完成した。屋根を鉄板でおおい、入口は土で囲ってある。午後、駐屯軍司令部から2万ドル受け取った。これは、蒋介石からの約束の10万ドルの第一回目だ。残りはいつもらえるかと聞いたが、相手は肩をすくめるだけだった。
・・・・・・・・・・・
18時、会議。南京に残っている住民たちに安全区に移るようにすすめたあとで日本から拒絶されるようなことになったら、我々の責任は重大だ。それについては大多数の委員が、こちらから先に行動を起こそうという意見だった。安全区に移るよう勧める文書は、非常に慎重でなければならない。いちど、残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう。つまり、中国人がどんな様子か聞いてみるのだ。
・・・・・・・・・・・・
ローゼンがアメリカ人を通じて知らせを受け取った。ラーマン地方支部長が、ヒトラーとクリーベルにあてた私の電報を打ってくれたそうだ。ありがたい!これでどうにかなる。間違いない。総統が私を見殺しになさるはずがない!
・・・・・・・・・・・・
ローゼンが、ドイツ人に集まってもらいたいといってきた。いつ船に乗るか決めようというのだ。クレーガー、シュペアリング、ヒルシュベルグ先生の子息、オーストリア人技術者ハッツ。この人たちはここに残って私を助けてくれると言う。・・・・・・・・
12月2日
フランス人神父ジャキノを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。
電報 1937年12月1日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
11月30日の貴殿の電報の件
以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。 ジャキノ
「日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責を負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しない限りにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です」
ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。
・・・・・結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する所存・・・・云々」は、非常に満足のいくものだ。
アメリカ大使館を介して、我々は次のような返信を打った。
南京の安全区国際委員会の報告をジャキノ神父に転送してくださるようお願いします。
「ご尽力、心より感謝いたします。軍事上必要な措置に反しない限り安全区を尊重する旨日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝を持って受け止めております。中国から全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。我々は安全区を組織的に管理しており、既に難民の流入が始まったことをご報告いたします。しかるべき折、相応の調査を終えた暁には、安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。
日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。また、当局が安全を保証する旨を直接当委員会に通知してくだされば、難民の不安を和らげるであろうこと、さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、日本側にお知らせいただくようお願いいたします。
ジョン・ラーベ 代表」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
米と小麦粉を運ぼうとするにも車が手に入らない。せっかくもらったのに、一部、安全区からうんと離れたところで野ざらしになっている。どうやら軍部にかなり米を持って行かれたらしい。3万袋のうち、わずかその半分しか残っていないという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【2日・・・蒋介石、駐華ドイツ大使トラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を表明(日本政府、斡旋断る)】
12月3日
ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。昨晩大使は税関のはしけでこちらに来たのだが、そのまま漢口へとんぼ返りしたという。思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所に行ったのだ。私がそういうと、何度かためらった後、ローゼンも認めた。・・・・・・・・・
ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使宛なのだが、次のような内容だった。
ドイツ大使館南京分室 漢口発 37年12月2日 南京着 12月3日
日本政府は、都市はじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民を出来るだけ寛大に扱う考えを持っております。また、国民政府がその権力を行使することによって、首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、認めるわけにはいきません。日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。 ザウケン
ローゼンは、他の国の大使館はこれに似た内容の電報を受け取っていないことをつきとめた。差出人の名を明かさないまま、この扱いは委員会に一任された。ローゼンは、蒋介石婦人に接触してはどうか、と勧めてくれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12月4日
どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだがうまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き上げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話をひいている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた8台のトラックのうち、半分しかつかなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。100メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。
難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙は「外国人」による難民区などへ行かないようにと、繰り返し書き立てている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「南京事件の日々・・・ミニーヴォートリンの日記」(大月書店)より
12月1日(水)
今日は警報が一回あったものの、空襲はなかった。通産103回目の警報だ。もう気にかけない。
呉博士とエルシー牧師は午前9時ごろ、ついに(金陵女子文理)学院をあとにした。昨夜二人が波止場に到着した時には、船が出たばかりだったので、やむなく引き返してきて学院で一夜を明かした。
呉博士が無事に乗船できてとてもうれしい。というのは、何よりもまず、彼女は4ヶ月もの長期間、気を張り詰め通しですっかり疲労困憊していた、さらには今後彼女は来学期の、そして多分、来年の計画のことに頭を切り換えなければならないと思うからだ。南京にいたのでは到底できない相談だ。それに、日本の軍艦がいつ(長江を)遡上してくるか誰にも予測がつかないし、城内が激しく爆撃された時にはもはや脱出できなくなる。
午前10時、アメリカ大使館に呼ばれ、他の伝道団の指導者たちと一緒に会合を持った。(大使館書記官の)バクストン氏が私たちを三つのグループに分けた。今日にも商船で南京を脱出できる即刻脱出グループ、しばらくは残留しなければならないが、土壇場になったらアメリカ砲艦パナイ号で脱出するー必要とあれば、ロープを使って城壁を乗り越えてでもーグループ、ずっと残留したいと思っているグループである。大使館を出てから、どのグループにするのか、サール・ベイツに尋ねたところ、2番目と3番目の中間あたりだと答えたので、それでは城内の途中で宙ぶらりんになっているようなものだと、二人で笑ってみたものの、それは危険な状態だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
陳さんとそれに私も一緒にキャンパス中を歩き回り、アメリカ大使館の公告文を掲示する場所を決めた。明日になれば、中庭に掲揚されている30フィート四方の国旗に加えて・・・のアメリカ国旗が翻ることになるだろう。・・・・・・・
11時30分、緊急委員会が招集され、その会議で李さんに、6人の男子職員を組織して自警団をつくり、彼らを訓練し、あわせて彼らの腕章を用意することをお願いした。また、隣保学校の教師をしている・・先生に、キャンパスにいる彼女の生徒や比較的に高年齢の子どもたちを組織して避難民のための奉仕団をつくり、彼らを訓練し、彼らのための徽章を作製することも依頼した。
・・さんの報告によると最悪の危険に遭遇した時には、近隣の婦女子およそ200人がキャンパスに避難したいと思っているようだ。
今晩の記者会見で安全区の存在が公表され、食料、住宅、財政および公衆衛生を扱う4つの委員会が設置された。市(南京市政府)から米と2万ドルが供与された。
3日ほど後に来ることになっている日本船を待っている人もいる。書籍を詰めた箱を地下室に移し、予想される避難民に備えて各部屋を空ける作業をしていたとき、陳さんが葬式の準備でもしているような気分だ、と言った。まったく、この世の終焉がすぐそこまで来ているような感じだ。
12月2日(木)
今日は3回空襲があったが、いずれも城外だった。中国軍機が発進し、日本軍機が撃墜されたが、その数についての報告はまちまちだ。・・・・・・・すっかり空襲になれてしまったので、今では空襲の最中でもずっと仕事をしている。
これまでは漢口や香港を経由してニューヨークや上海あての航空郵便が送られていたが、今夜耳にしたところでは、今後は郵便用飛行機は飛ばないそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
午後、大変な失敗をした。昼寝をしたところ、ひどく疲れていたため、夕方近くまで目が覚めなかったのだ。
午後6時、再び記者会見に出かけた。安全区計画が進捗している。米が搬入されることになっているが、問題はトラックの入手だ。日本側から知らせが届いているが、それは好意的に解釈すれば、準備完了までに残された時間はあまりない、と言う趣旨である。その情報は、日本軍は三方向から接近中、というものだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12月3日(金)
いまや情報入手は非常に難しい。昨日も今日も上海や香港の放送の時間帯に空襲があり、そのため停電し、したがって、ニュースが聞けない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨日中央棟から備品をあらかた撤去した。今日は避難民の受け入れに備えて男性たちが二つの寄宿舎の片づけをしている。避難民がやってくるまでほんの2,3日だと考えている者もいれば、まだ10日ほど間があると考える者もいて、本当のところはだれにもわからない。
今夜の記者会見はとても興味深かった。南京市長と防衛司令長官代理が二人とも出席した。安全区の計画が進捗している。事務所は、寧海路五号にある外交部長張群宅に設置された。
目下、城内に、そして安全区に十分な量の米をどのようにして搬入するか検討しているとこだ。・・・・・
・・・トラックを何台かを確保するため、明日は市長が全力を尽くしてくれる。米は金陵大学の礼拝堂に貯蔵されることになっている。ひきもきらず人々がやってきて、安全区の場所はどこか、いつからそこに入れるのか、などと尋ねる。
今日大使館から最終の問い合わせがあった。三つの選択肢の中から一つを選んで署名しなければならなかった。私は(3)に署名した。【(3)・・・どんな事態になっても脱出しない。】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12月4日(土)
今夜、門衛から報告があった。昼間、何百人もの中国人が校門にやってきて、金陵女子文化学院が難民収容所になっているのは本当か、と尋ねたそうだ。門衛は、一人残らず寧海路五号の国際委員会本部へ行かせた。トラックが足りないため、城内への米の搬入は困難である。現在は塩も食用油も買えない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは避難民への収容スペースをつくるため、引き続き寄宿舎の備品を屋根裏に運んでいる。また、後日問題になりそうなパンフレット類はすべて破棄している。・・・・・・・・・・・・・・・・
今夜に記者会見での重要な点は、安全区では塹壕堀のような軍事的予備行動を一切停止すること、軍関係の事務所はすべて安全区外に移すことを(中国)軍が約束したという情報であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今朝南門付近が激しい空襲に見舞われた。イタリアが日本を支援し、ロシアが中国を支援しているそうだ。スペイン同様にここが第二の思想戦場となるのだろうか。うわさにすぎなければよいが。
AP特派員のマグダニエル氏によれば、市の東方では数多くの美しい樹木が、砲撃の邪魔になると言う理由で切り倒されてしまったそうだ。東門から湯山に至る間はどこも無人村になっている。村人全員が立ち退きを強制されいたるところで軍が防備を固めているのだ。 一年前のあの活気溢れる、明るくて希望に満ちた前向きの南京を思うと、気持ちが沈んでくる。分別ある人間がどうして戦争を阻止できないのだろうか。その気になれば阻止できるだろうに。
(IMAGINE 9)【合同出版】より
想像してごらん、
ひとりひとりの安全を
大事にする世界を。
Imagine,
A world that values the safety of
each and every human.
政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が
大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。
政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。
私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に
平和をつくりたい。それが私の理想です。
(イラク/男性)
11月30日
韓に家族をつれて越してくるようにいった。一家は今学校で暮らしている。台所や風呂場は韓が作らせた。韓の友人で・・・レンガ工場の経営者、車を贈ってくれた孫さんも越してきた。新しい防空壕はまだ出来上がらない。全力をあげているのだが。ゆるく積み上げたレンガ壁(セメントがないので両側を厚板で補強してある)が一つあるほかは鉄板を使った。だれが調達してきたのかはわからない。とにかくそこにあったのだ。ほかにもいろいろそういう物がある。おかげでわが家の庭はすさまじいことになっている。水道が止まりはしないかと心配だ。トラックで大型の貯水タンクを運んでこなくては。灯油も買った。ロウソクも。石炭は約一か月分ある。・・・・・・
スマイスから電話。南京市には6万袋、下関には3万4千袋の米があるとのこと。おそらくこれで足りるだろう。今不足しているのは仮の宿泊所、つまりわら小屋に使うむしろだ。この寒空に、何とかして泊まれる場所を確保しなければならない。
以下は国際委員会が抱えている課題である。
1、資金の調達
2、警察
安全区入口の検問
境界の警備
警察官の総数の確認とその宿泊施設の整備
3、兵士と軍人たち
撤退の指令と視察
既に始まっている脱走兵の対策
負傷兵の看護
4、食糧の配給
食糧の管理
食糧の貯蔵と分配
5、輸送と輸送手段
6、避難民の収容施設
見張り
建物の使用と管理
( a)公共の建物(政府の)
(b)学校や伝道団の建物
(c)空き家、わら小屋
7、公共設備
水道・電気・電話
8、衛生設備と健康管理
仮設便所・ゴミと糞尿の運搬・病院と医療設備
12月1日
9時半に、クレーガー、シュペアリング両人と平倉巷で開かれる委員会へいく。いろいろな役目を割り振って、名簿を作る。馬市長が部下を連れて現れ、米3万袋と小麦粉一万袋を提供すると約束。
残念ながらそれを難民地域まで運ぶトラックがない。米と小麦粉を売ればいい。出来るだけ高値で。難民用の給食所をつくる予定だ。
3つ目の防空壕が完成した。屋根を鉄板でおおい、入口は土で囲ってある。午後、駐屯軍司令部から2万ドル受け取った。これは、蒋介石からの約束の10万ドルの第一回目だ。残りはいつもらえるかと聞いたが、相手は肩をすくめるだけだった。
・・・・・・・・・・・
18時、会議。南京に残っている住民たちに安全区に移るようにすすめたあとで日本から拒絶されるようなことになったら、我々の責任は重大だ。それについては大多数の委員が、こちらから先に行動を起こそうという意見だった。安全区に移るよう勧める文書は、非常に慎重でなければならない。いちど、残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう。つまり、中国人がどんな様子か聞いてみるのだ。
・・・・・・・・・・・・
ローゼンがアメリカ人を通じて知らせを受け取った。ラーマン地方支部長が、ヒトラーとクリーベルにあてた私の電報を打ってくれたそうだ。ありがたい!これでどうにかなる。間違いない。総統が私を見殺しになさるはずがない!
・・・・・・・・・・・・
ローゼンが、ドイツ人に集まってもらいたいといってきた。いつ船に乗るか決めようというのだ。クレーガー、シュペアリング、ヒルシュベルグ先生の子息、オーストリア人技術者ハッツ。この人たちはここに残って私を助けてくれると言う。・・・・・・・・
12月2日
フランス人神父ジャキノを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。
電報 1937年12月1日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
11月30日の貴殿の電報の件
以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。 ジャキノ
「日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責を負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しない限りにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です」
ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。
・・・・・結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する所存・・・・云々」は、非常に満足のいくものだ。
アメリカ大使館を介して、我々は次のような返信を打った。
南京の安全区国際委員会の報告をジャキノ神父に転送してくださるようお願いします。
「ご尽力、心より感謝いたします。軍事上必要な措置に反しない限り安全区を尊重する旨日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝を持って受け止めております。中国から全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。我々は安全区を組織的に管理しており、既に難民の流入が始まったことをご報告いたします。しかるべき折、相応の調査を終えた暁には、安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。
日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。また、当局が安全を保証する旨を直接当委員会に通知してくだされば、難民の不安を和らげるであろうこと、さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、日本側にお知らせいただくようお願いいたします。
ジョン・ラーベ 代表」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
米と小麦粉を運ぼうとするにも車が手に入らない。せっかくもらったのに、一部、安全区からうんと離れたところで野ざらしになっている。どうやら軍部にかなり米を持って行かれたらしい。3万袋のうち、わずかその半分しか残っていないという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【2日・・・蒋介石、駐華ドイツ大使トラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を表明(日本政府、斡旋断る)】
12月3日
ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。昨晩大使は税関のはしけでこちらに来たのだが、そのまま漢口へとんぼ返りしたという。思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所に行ったのだ。私がそういうと、何度かためらった後、ローゼンも認めた。・・・・・・・・・
ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使宛なのだが、次のような内容だった。
ドイツ大使館南京分室 漢口発 37年12月2日 南京着 12月3日
日本政府は、都市はじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民を出来るだけ寛大に扱う考えを持っております。また、国民政府がその権力を行使することによって、首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、認めるわけにはいきません。日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。 ザウケン
ローゼンは、他の国の大使館はこれに似た内容の電報を受け取っていないことをつきとめた。差出人の名を明かさないまま、この扱いは委員会に一任された。ローゼンは、蒋介石婦人に接触してはどうか、と勧めてくれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12月4日
どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだがうまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き上げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話をひいている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた8台のトラックのうち、半分しかつかなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。100メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。
難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙は「外国人」による難民区などへ行かないようにと、繰り返し書き立てている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「南京事件の日々・・・ミニーヴォートリンの日記」(大月書店)より
12月1日(水)
今日は警報が一回あったものの、空襲はなかった。通産103回目の警報だ。もう気にかけない。
呉博士とエルシー牧師は午前9時ごろ、ついに(金陵女子文理)学院をあとにした。昨夜二人が波止場に到着した時には、船が出たばかりだったので、やむなく引き返してきて学院で一夜を明かした。
呉博士が無事に乗船できてとてもうれしい。というのは、何よりもまず、彼女は4ヶ月もの長期間、気を張り詰め通しですっかり疲労困憊していた、さらには今後彼女は来学期の、そして多分、来年の計画のことに頭を切り換えなければならないと思うからだ。南京にいたのでは到底できない相談だ。それに、日本の軍艦がいつ(長江を)遡上してくるか誰にも予測がつかないし、城内が激しく爆撃された時にはもはや脱出できなくなる。
午前10時、アメリカ大使館に呼ばれ、他の伝道団の指導者たちと一緒に会合を持った。(大使館書記官の)バクストン氏が私たちを三つのグループに分けた。今日にも商船で南京を脱出できる即刻脱出グループ、しばらくは残留しなければならないが、土壇場になったらアメリカ砲艦パナイ号で脱出するー必要とあれば、ロープを使って城壁を乗り越えてでもーグループ、ずっと残留したいと思っているグループである。大使館を出てから、どのグループにするのか、サール・ベイツに尋ねたところ、2番目と3番目の中間あたりだと答えたので、それでは城内の途中で宙ぶらりんになっているようなものだと、二人で笑ってみたものの、それは危険な状態だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
陳さんとそれに私も一緒にキャンパス中を歩き回り、アメリカ大使館の公告文を掲示する場所を決めた。明日になれば、中庭に掲揚されている30フィート四方の国旗に加えて・・・のアメリカ国旗が翻ることになるだろう。・・・・・・・
11時30分、緊急委員会が招集され、その会議で李さんに、6人の男子職員を組織して自警団をつくり、彼らを訓練し、あわせて彼らの腕章を用意することをお願いした。また、隣保学校の教師をしている・・先生に、キャンパスにいる彼女の生徒や比較的に高年齢の子どもたちを組織して避難民のための奉仕団をつくり、彼らを訓練し、彼らのための徽章を作製することも依頼した。
・・さんの報告によると最悪の危険に遭遇した時には、近隣の婦女子およそ200人がキャンパスに避難したいと思っているようだ。
今晩の記者会見で安全区の存在が公表され、食料、住宅、財政および公衆衛生を扱う4つの委員会が設置された。市(南京市政府)から米と2万ドルが供与された。
3日ほど後に来ることになっている日本船を待っている人もいる。書籍を詰めた箱を地下室に移し、予想される避難民に備えて各部屋を空ける作業をしていたとき、陳さんが葬式の準備でもしているような気分だ、と言った。まったく、この世の終焉がすぐそこまで来ているような感じだ。
12月2日(木)
今日は3回空襲があったが、いずれも城外だった。中国軍機が発進し、日本軍機が撃墜されたが、その数についての報告はまちまちだ。・・・・・・・すっかり空襲になれてしまったので、今では空襲の最中でもずっと仕事をしている。
これまでは漢口や香港を経由してニューヨークや上海あての航空郵便が送られていたが、今夜耳にしたところでは、今後は郵便用飛行機は飛ばないそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
午後、大変な失敗をした。昼寝をしたところ、ひどく疲れていたため、夕方近くまで目が覚めなかったのだ。
午後6時、再び記者会見に出かけた。安全区計画が進捗している。米が搬入されることになっているが、問題はトラックの入手だ。日本側から知らせが届いているが、それは好意的に解釈すれば、準備完了までに残された時間はあまりない、と言う趣旨である。その情報は、日本軍は三方向から接近中、というものだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12月3日(金)
いまや情報入手は非常に難しい。昨日も今日も上海や香港の放送の時間帯に空襲があり、そのため停電し、したがって、ニュースが聞けない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨日中央棟から備品をあらかた撤去した。今日は避難民の受け入れに備えて男性たちが二つの寄宿舎の片づけをしている。避難民がやってくるまでほんの2,3日だと考えている者もいれば、まだ10日ほど間があると考える者もいて、本当のところはだれにもわからない。
今夜の記者会見はとても興味深かった。南京市長と防衛司令長官代理が二人とも出席した。安全区の計画が進捗している。事務所は、寧海路五号にある外交部長張群宅に設置された。
目下、城内に、そして安全区に十分な量の米をどのようにして搬入するか検討しているとこだ。・・・・・
・・・トラックを何台かを確保するため、明日は市長が全力を尽くしてくれる。米は金陵大学の礼拝堂に貯蔵されることになっている。ひきもきらず人々がやってきて、安全区の場所はどこか、いつからそこに入れるのか、などと尋ねる。
今日大使館から最終の問い合わせがあった。三つの選択肢の中から一つを選んで署名しなければならなかった。私は(3)に署名した。【(3)・・・どんな事態になっても脱出しない。】
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12月4日(土)
今夜、門衛から報告があった。昼間、何百人もの中国人が校門にやってきて、金陵女子文化学院が難民収容所になっているのは本当か、と尋ねたそうだ。門衛は、一人残らず寧海路五号の国際委員会本部へ行かせた。トラックが足りないため、城内への米の搬入は困難である。現在は塩も食用油も買えない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは避難民への収容スペースをつくるため、引き続き寄宿舎の備品を屋根裏に運んでいる。また、後日問題になりそうなパンフレット類はすべて破棄している。・・・・・・・・・・・・・・・・
今夜に記者会見での重要な点は、安全区では塹壕堀のような軍事的予備行動を一切停止すること、軍関係の事務所はすべて安全区外に移すことを(中国)軍が約束したという情報であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今朝南門付近が激しい空襲に見舞われた。イタリアが日本を支援し、ロシアが中国を支援しているそうだ。スペイン同様にここが第二の思想戦場となるのだろうか。うわさにすぎなければよいが。
AP特派員のマグダニエル氏によれば、市の東方では数多くの美しい樹木が、砲撃の邪魔になると言う理由で切り倒されてしまったそうだ。東門から湯山に至る間はどこも無人村になっている。村人全員が立ち退きを強制されいたるところで軍が防備を固めているのだ。 一年前のあの活気溢れる、明るくて希望に満ちた前向きの南京を思うと、気持ちが沈んでくる。分別ある人間がどうして戦争を阻止できないのだろうか。その気になれば阻止できるだろうに。
(IMAGINE 9)【合同出版】より
想像してごらん、
ひとりひとりの安全を
大事にする世界を。
Imagine,
A world that values the safety of
each and every human.
政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が
大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。
政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。
私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に
平和をつくりたい。それが私の理想です。
(イラク/男性)
2008年12月3日水曜日
1937年南京大虐殺前夜
「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」【大月書店】より
(ミニー・ヴォートリン・・・南京にあった金陵女学院の教育と運営の実質的な指導者であった。)
1937年11月
5日、日本軍の第10軍が杭州湾に上陸、背後をつかれた上海防衛の中国軍に動揺がはしり、13日に第16師団が上海北西の長江岸の白茆口に上陸すると、中国軍の撤退と潰走がはじまり、やがて総崩れとなり、15日、上海は日本軍の手に落ちた。
10日は雨天にもかかわらず日本軍機の南京空襲があった。・・・・・・・
上海発行の英字新聞や上海、香港からの英語ラジオ・ニュースで戦況についてある程度把握していたヴォートリンは、日本軍が南京に侵攻してくるのは時間の問題であり、そうなれば、南京城の攻防をめぐって長い戦闘がおこなわれ、その結果南京には瓦礫と廃墟が残るだけになるだろうと予測して、それが現実になるのを恐れていた。
20日、ヴォートリンは、宣教師のジョン・マギーらとともに、下関駅に送られてきている負傷兵たちの様子を見に出かけた。そこで彼女が見たものは、医者と看護婦にも見放されて、死体同様にホームに放置されていた数百人の負傷兵の集団であった。蘇州、無錫の攻防戦で負傷した中国兵たちで、南京陸軍病院の医師や看護婦たちがすでに南京から避難してしまった後に、送還されてきたのだった。
眼も鼻もつぶれてうめき通しの兵士、尻のところまで脚をもぎ取られた兵士、ほとんどが瀕死の重傷を負った兵士たちがベッドもなく横たわっている。あたり一帯に死臭のような悪臭が充満していた。
昨夜は下関駅の負傷兵の二割が絶命し、今日は三割の負傷兵が息を引き取るであろうと、関係者は言っていた。・・・・・・・・
ヴォートリンにとって、さながら生き地獄絵のような負傷兵の集団を見たことは、戦場の悲惨さ、忌むべき戦争の実態をあらためて思い知らされ、忘れることのできない強烈な体験となった。
こうした戦争の悲劇をさらに増大させることになる日本軍の南京攻撃を、なんとか停止させたいと願い、神に祈り続けていたヴォートリンが、最後に望みを託したのが、3日からベルギーのブリュッセルで開催されていた九ヶ国条約会議(ブリュッセル会議と称する)であった。・・・・・・・・
ブリュッセル会議は、「各国代表は条約の規定(中国の主権・独立とその領土的・行政的保全の尊重を規定していた)を無視する日本に対し共同態度を採ることを考慮する」という日本の国際法違反を非難する宣言を採択して、24日に閉会した(日本とドイツは招請を受けたがボイコットした)。会議は日本の中国侵略にたいして警告宣言を発するという平和的手段に訴えることで終わり、中国代表が希望した具体的な対日制裁措置は決定しなかったのである。
同会議の宣言を香港からのラジオ放送で聞いたヴォートリンは、23日の日記にこう記す。
「多くの国が協同して、日本の中国侵略を阻止するためにやるべきことを、今こそ実行するように、衷心から祈るばかりである。日本の硬直した保守的な思想と侵略的な態度が変わるように、そして世界の人道主義的圧力が日本国民に重くのしかかるように、強く願っている。日本国民は世界から非難されて大きな苦痛を経験しなければ、目覚めることをしないであろう」。
20日、蒋介石国民政府は、首都を南京から重慶に移すことを正式に宣布、同日、唐生智(とうせいち)が南京防衛軍司令長官に任命された。これに前後して政府の中央諸機関は、つぎの暫定首都である長江上流の武漢(同市は漢口・武昌・漢陽の三地区よりなる)に向けて続々と移転を開始した。国民政府当局は、南京の防衛軍は最後の一兵まで戦うつもりであるから、一般市民は市区域から早急に避難していくよう呼びかけた。政府機関の移転とともに、政府官庁の職員とその家族が南京から離れて行き、ついで中産階級の市民が南京から避難していった。脱出していく市民と入れ替わりに、中国軍5万が16日に南京到着、その後も兵士、武器、軍需品を満載したトラックが大通りを頻繁に行き交い、南京城内は戦闘前夜の興奮と緊張と喧騒とに包まれていった。
ここにいたって19日、金陵女学院の呉学長は、成都に赴くことを決定せざるを得なくなり、涙ながらにヴォートリンに金陵女学院の後事を託した。同日、アメリカ大使館のホール・バクストンが、南京城内が無秩序になり、外国人の生命が危険な状況に陥ったときには、長江に停泊しているアメリカ砲艦パナイ号に避難するように通告に来たとき、ヴォートリンはこう答えた。
「わたしはどんなことがあっても金陵女子学院の仲間と隣保館の仲間を見放すことはできないのです。彼女(彼)らは私を頼りにしている。状況によっては彼女(彼)らが私を助けてくれるだろうし、状況によっては私が彼女(彼)らを助ける事ができるのです」。
最終的に、南京にずっと留まることを決意した外国人女性は、ヴォートリンと鼓楼病院(南京大学付属病院)に勤めるイーヴァ・ハインズとグレース・バウアーの3人だけとなった。
南京に日本軍が侵攻してくることが確実になると、戦火の南京に留まることを決めていたアメリカ人の宣教師、大学教師のあいだに難民区を設定する話が急速に進展し、17日には主要メンバーが集まって、南京安全区(難民区)国際委員会の結成を決定。中国当局の承認と協力を得、アメリカ大使館を通して日本側の了解と認知を獲得するために積極的に活動を開始した。(昨日書いたように委員長にはドイツ企業ジーメンス社南京支社の支配人として南京に残留していたドイツ人のジョン・H・D・ラーべが就いた。)
国際委員会の申し入れにたいして、中国当局から、委員会の提起した非武装の安全区設置の条件を全面的に遵守するとの回答が寄せられ、日本の関係当局からはしばらくして、難民区が中国軍の軍事目的に使用されない保証があれば、日本軍が攻撃する意図はない、と間接的に認める回答があった。
日本当局からも一応尊重する旨の回答を得た国際委員会のメンバーは、金陵大学や金陵女学院の中国人スタッフの残留者を総動員して大急ぎで難民区の設定に取りかかった。
南京安全区は、南京城内を東西南北に四等分したその西北部に位置し、東京の台東区や中央区よりやや狭い面積に相当する。この区域に難民区が設定されたのは、金陵女学院や金陵大学もあり、さらに公共の建物が多く、難民を収容するのに便利であったこと、同地にある高級住宅街の洋館の外国人はほとんど避難した後であり、いざという時には難民を収容できたこと、そして何よりも、安全区を運営したアメリカ人やドイツ人たちのホームグランドであった事などの理由による。
金陵女学院を難民収容所として解放する事が決まったので、ヴォートリンらは、構内の校具、図書、文書の整理・移動にとりかかり、貴金属や装飾品などは長江に浮かぶアメリカ砲艦パナイ号に保管してもらうなど、難民区設営の準備におおわらわとなった。
国民政府が重慶遷都を宣布した20日、日本では天皇に直属する最高戦争指導機関である大本営が設置され、中国全面侵略戦争を本格的、長期的に指導する体制を確立した。
そして、12月1日、大本営は中シナ方面軍にたいして正式に南京攻略を下令、総勢20万に達する日本の大軍が中国軍の包囲殲滅を目指して南京に進撃して行った。
{Imagine 9}【合同出版】より
想像してごらん、
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界を。
Imagine,
A world that instead of
preparing for war,prevents war.
コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)
(ミニー・ヴォートリン・・・南京にあった金陵女学院の教育と運営の実質的な指導者であった。)
1937年11月
5日、日本軍の第10軍が杭州湾に上陸、背後をつかれた上海防衛の中国軍に動揺がはしり、13日に第16師団が上海北西の長江岸の白茆口に上陸すると、中国軍の撤退と潰走がはじまり、やがて総崩れとなり、15日、上海は日本軍の手に落ちた。
10日は雨天にもかかわらず日本軍機の南京空襲があった。・・・・・・・
上海発行の英字新聞や上海、香港からの英語ラジオ・ニュースで戦況についてある程度把握していたヴォートリンは、日本軍が南京に侵攻してくるのは時間の問題であり、そうなれば、南京城の攻防をめぐって長い戦闘がおこなわれ、その結果南京には瓦礫と廃墟が残るだけになるだろうと予測して、それが現実になるのを恐れていた。
20日、ヴォートリンは、宣教師のジョン・マギーらとともに、下関駅に送られてきている負傷兵たちの様子を見に出かけた。そこで彼女が見たものは、医者と看護婦にも見放されて、死体同様にホームに放置されていた数百人の負傷兵の集団であった。蘇州、無錫の攻防戦で負傷した中国兵たちで、南京陸軍病院の医師や看護婦たちがすでに南京から避難してしまった後に、送還されてきたのだった。
眼も鼻もつぶれてうめき通しの兵士、尻のところまで脚をもぎ取られた兵士、ほとんどが瀕死の重傷を負った兵士たちがベッドもなく横たわっている。あたり一帯に死臭のような悪臭が充満していた。
昨夜は下関駅の負傷兵の二割が絶命し、今日は三割の負傷兵が息を引き取るであろうと、関係者は言っていた。・・・・・・・・
ヴォートリンにとって、さながら生き地獄絵のような負傷兵の集団を見たことは、戦場の悲惨さ、忌むべき戦争の実態をあらためて思い知らされ、忘れることのできない強烈な体験となった。
こうした戦争の悲劇をさらに増大させることになる日本軍の南京攻撃を、なんとか停止させたいと願い、神に祈り続けていたヴォートリンが、最後に望みを託したのが、3日からベルギーのブリュッセルで開催されていた九ヶ国条約会議(ブリュッセル会議と称する)であった。・・・・・・・・
ブリュッセル会議は、「各国代表は条約の規定(中国の主権・独立とその領土的・行政的保全の尊重を規定していた)を無視する日本に対し共同態度を採ることを考慮する」という日本の国際法違反を非難する宣言を採択して、24日に閉会した(日本とドイツは招請を受けたがボイコットした)。会議は日本の中国侵略にたいして警告宣言を発するという平和的手段に訴えることで終わり、中国代表が希望した具体的な対日制裁措置は決定しなかったのである。
同会議の宣言を香港からのラジオ放送で聞いたヴォートリンは、23日の日記にこう記す。
「多くの国が協同して、日本の中国侵略を阻止するためにやるべきことを、今こそ実行するように、衷心から祈るばかりである。日本の硬直した保守的な思想と侵略的な態度が変わるように、そして世界の人道主義的圧力が日本国民に重くのしかかるように、強く願っている。日本国民は世界から非難されて大きな苦痛を経験しなければ、目覚めることをしないであろう」。
20日、蒋介石国民政府は、首都を南京から重慶に移すことを正式に宣布、同日、唐生智(とうせいち)が南京防衛軍司令長官に任命された。これに前後して政府の中央諸機関は、つぎの暫定首都である長江上流の武漢(同市は漢口・武昌・漢陽の三地区よりなる)に向けて続々と移転を開始した。国民政府当局は、南京の防衛軍は最後の一兵まで戦うつもりであるから、一般市民は市区域から早急に避難していくよう呼びかけた。政府機関の移転とともに、政府官庁の職員とその家族が南京から離れて行き、ついで中産階級の市民が南京から避難していった。脱出していく市民と入れ替わりに、中国軍5万が16日に南京到着、その後も兵士、武器、軍需品を満載したトラックが大通りを頻繁に行き交い、南京城内は戦闘前夜の興奮と緊張と喧騒とに包まれていった。
ここにいたって19日、金陵女学院の呉学長は、成都に赴くことを決定せざるを得なくなり、涙ながらにヴォートリンに金陵女学院の後事を託した。同日、アメリカ大使館のホール・バクストンが、南京城内が無秩序になり、外国人の生命が危険な状況に陥ったときには、長江に停泊しているアメリカ砲艦パナイ号に避難するように通告に来たとき、ヴォートリンはこう答えた。
「わたしはどんなことがあっても金陵女子学院の仲間と隣保館の仲間を見放すことはできないのです。彼女(彼)らは私を頼りにしている。状況によっては彼女(彼)らが私を助けてくれるだろうし、状況によっては私が彼女(彼)らを助ける事ができるのです」。
最終的に、南京にずっと留まることを決意した外国人女性は、ヴォートリンと鼓楼病院(南京大学付属病院)に勤めるイーヴァ・ハインズとグレース・バウアーの3人だけとなった。
南京に日本軍が侵攻してくることが確実になると、戦火の南京に留まることを決めていたアメリカ人の宣教師、大学教師のあいだに難民区を設定する話が急速に進展し、17日には主要メンバーが集まって、南京安全区(難民区)国際委員会の結成を決定。中国当局の承認と協力を得、アメリカ大使館を通して日本側の了解と認知を獲得するために積極的に活動を開始した。(昨日書いたように委員長にはドイツ企業ジーメンス社南京支社の支配人として南京に残留していたドイツ人のジョン・H・D・ラーべが就いた。)
国際委員会の申し入れにたいして、中国当局から、委員会の提起した非武装の安全区設置の条件を全面的に遵守するとの回答が寄せられ、日本の関係当局からはしばらくして、難民区が中国軍の軍事目的に使用されない保証があれば、日本軍が攻撃する意図はない、と間接的に認める回答があった。
日本当局からも一応尊重する旨の回答を得た国際委員会のメンバーは、金陵大学や金陵女学院の中国人スタッフの残留者を総動員して大急ぎで難民区の設定に取りかかった。
南京安全区は、南京城内を東西南北に四等分したその西北部に位置し、東京の台東区や中央区よりやや狭い面積に相当する。この区域に難民区が設定されたのは、金陵女学院や金陵大学もあり、さらに公共の建物が多く、難民を収容するのに便利であったこと、同地にある高級住宅街の洋館の外国人はほとんど避難した後であり、いざという時には難民を収容できたこと、そして何よりも、安全区を運営したアメリカ人やドイツ人たちのホームグランドであった事などの理由による。
金陵女学院を難民収容所として解放する事が決まったので、ヴォートリンらは、構内の校具、図書、文書の整理・移動にとりかかり、貴金属や装飾品などは長江に浮かぶアメリカ砲艦パナイ号に保管してもらうなど、難民区設営の準備におおわらわとなった。
国民政府が重慶遷都を宣布した20日、日本では天皇に直属する最高戦争指導機関である大本営が設置され、中国全面侵略戦争を本格的、長期的に指導する体制を確立した。
そして、12月1日、大本営は中シナ方面軍にたいして正式に南京攻略を下令、総勢20万に達する日本の大軍が中国軍の包囲殲滅を目指して南京に進撃して行った。
{Imagine 9}【合同出版】より
想像してごらん、
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界を。
Imagine,
A world that instead of
preparing for war,prevents war.
コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)
2008年12月2日火曜日
南京事件前夜:国際委員会立ち上げ!
「ラーベの日記」の続き。(「南京の真実」講談社より)
11月20日
18時に号外が出た。中国の新聞で、国民政府が重慶に移るといっている。南京のラジオも同じことを伝えた。それから、南京は死守されるそうだとも。
11月22日
・・・・
17時に国際委員会の会議。南京の非戦闘員のための中立地域設置の件。私は「代表」に選ばれてしまった。辞退したが押し切られた。良いことをするのだ、受けることにしよう。どうか、無事つとまるように。責任重大だ。・・・・・・・
デンマーク、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国の各国民によって構成される当委員会は、国民政府と日本政府に対し、南京市内ないしはその近郊で戦いが勃発した場合にそなえて、難民のために安全区の設置を提案する。
国際委員会は、次の点を国民政府に保証してもらうことを約束する。軍事交通局を含むあらゆる軍事施設を「安全区」から撤退させ、非武装地帯とし、ピストルを装備した民団警官のみを置く。また、その場合、すべての兵士およびあらゆる階級、身分の士官の立入りは禁止される。国際委員会は、これらが遵守され、滞りなく遂行されるよう配慮する。
国際委員会は、日本政府が人道的理由から安全区を尊重するべく配慮してくれるよう願っている。そのような慈悲深い措置こそ、責任ある日中両国政府の名誉となると信ずる。国民政府との交渉を出来るだけ早く成立させ、難民保護のために必要な準備を整えられるよう、日本当局のすみやかな回答を切望する。
会議から帰ると、ボーイの張が待っていて、医者を呼んでほしいという。かみさんの具合が悪いらしい。ヒルシュベルグ先生の診断の結果、数日前流産した事がわかった。すぐに鼓楼病院に連れて行かなければ。
11月24日
ロイター通信社が早くも国際委員会の計画について報じた。すでに昨日の昼、ローゼンも、ラジオで聞いたという。それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、ということらしい。それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館あてにこんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。
当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーべを代表に、イギリス人、アメリカ人、デンマーク人、ドイツ人の各委員は、中国および日本に、南京に直接戦闘行為が及んだ場合の一般市民安全区の設置を求めております。アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。
ドイツ人の代表に免じ、この人道的な提言に対する、非公式の、とはいえ公式の場合に劣らない温かいご支援を乞う次第です。
・・・・・・・・よってこれを転送し、米海軍を介してドイツ総領事館および日本当局の返信を頂きたいと思います。 ローゼン
中央病院院長のJ・ヘンリー・劉先生が去り、「後を託された」医師たちも二人ともいなくなってしまった。伝道団のアメリカ人医師たちがいてくれなかったら、この大ぜいの負傷者はどうなってしまったか分からない。先日、贈られたトラックを一台動員した。車が徴発されないよう、運転手の劉漢臣はドイツ国旗を掲げて走っている。中国兵はトラックとみれば残らず取り上げてしまう。カルロヴィッツ社のクリスティアン・クレーガーの話では「命令」が出たという。
つまり、南京の住民はすべて町を離れるようにという指令である。
11月25日
医者が足りない。香港、上海、漢口の赤十字に、医師と医薬品を求むと電報を打った。外国人の医者は頼めない。この電報はアメリカ大使館の仲介だが、大使館は(ほかのどこの大使館も同じだ)自国民に対して南京を去るように勧めているからだ。
・・・・・・・・・
ラジオによると、非戦闘員の安全区に対して、日本はこれまでのところ最終的な回答をよこしていない。上海ドイツ総領事館を通じて、同じく上海にいるラーマン党地方支部長に頼んでヒトラー総統とクリーベル総領事に電報を打とうと決心した。今日、次のような電報を打つつもりだ。
在上海ドイツ総領事館
党支部長ラーマン殿。次の電報をどうか転送してくださるようお願いします。
総統閣下
末尾に署名いたしております私ことナチ党南京支部委員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万人以上の生命が危機にさらされることになります。
ナチ式敬礼をもって。 ジーメンス・南京 ラーべ
・・・・・・・・・・
上海の中国本社からドイツ大使館に私宛の電報が届いていた。
「ジーメンス・南京へ。ジーメンス・上海より告ぐ。南京を発ってよし。身の危険を避けるため、漢口へ移るよう勧める。そちらの予定を電報で告げよ」
私は大使館を通じて返事した。
「ジーメンス・上海へ。ラーべより。11月25日の電報、ありがたく拝受。しかしながら、当方南京残留を決意。20万人をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました」
韓が、・・・レンガ工場からガソリン100缶、小麦粉20袋を運んできた。庭では、新しい防空壕の建設中だ。ガソリンはどこか他に置き場を探さなくては。100缶も庭に置くのは危険だ。
スマイスから電話。東京の新聞が、中立区域があると南京の占領は非常に困難になる、あるいは遅れてしまうと論評したという。もしもこれがうまくいかなかったら、いったいどうすればいいんだ。にっちもさっちもいかなくなってしまう。わが頼みの綱はヒトラー総統だ!
(IMAGINE 9)【合同出版】より
想像してごらん、
女性たちが
平和をつくる世界を。
Imagine,
A world where
women create peace.
戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を
果たす事ができます。
(アメリカ/先住民女性)
11月20日
18時に号外が出た。中国の新聞で、国民政府が重慶に移るといっている。南京のラジオも同じことを伝えた。それから、南京は死守されるそうだとも。
11月22日
・・・・
17時に国際委員会の会議。南京の非戦闘員のための中立地域設置の件。私は「代表」に選ばれてしまった。辞退したが押し切られた。良いことをするのだ、受けることにしよう。どうか、無事つとまるように。責任重大だ。・・・・・・・
デンマーク、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国の各国民によって構成される当委員会は、国民政府と日本政府に対し、南京市内ないしはその近郊で戦いが勃発した場合にそなえて、難民のために安全区の設置を提案する。
国際委員会は、次の点を国民政府に保証してもらうことを約束する。軍事交通局を含むあらゆる軍事施設を「安全区」から撤退させ、非武装地帯とし、ピストルを装備した民団警官のみを置く。また、その場合、すべての兵士およびあらゆる階級、身分の士官の立入りは禁止される。国際委員会は、これらが遵守され、滞りなく遂行されるよう配慮する。
国際委員会は、日本政府が人道的理由から安全区を尊重するべく配慮してくれるよう願っている。そのような慈悲深い措置こそ、責任ある日中両国政府の名誉となると信ずる。国民政府との交渉を出来るだけ早く成立させ、難民保護のために必要な準備を整えられるよう、日本当局のすみやかな回答を切望する。
会議から帰ると、ボーイの張が待っていて、医者を呼んでほしいという。かみさんの具合が悪いらしい。ヒルシュベルグ先生の診断の結果、数日前流産した事がわかった。すぐに鼓楼病院に連れて行かなければ。
11月24日
ロイター通信社が早くも国際委員会の計画について報じた。すでに昨日の昼、ローゼンも、ラジオで聞いたという。それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、ということらしい。それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館あてにこんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。
当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーべを代表に、イギリス人、アメリカ人、デンマーク人、ドイツ人の各委員は、中国および日本に、南京に直接戦闘行為が及んだ場合の一般市民安全区の設置を求めております。アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。
ドイツ人の代表に免じ、この人道的な提言に対する、非公式の、とはいえ公式の場合に劣らない温かいご支援を乞う次第です。
・・・・・・・・よってこれを転送し、米海軍を介してドイツ総領事館および日本当局の返信を頂きたいと思います。 ローゼン
中央病院院長のJ・ヘンリー・劉先生が去り、「後を託された」医師たちも二人ともいなくなってしまった。伝道団のアメリカ人医師たちがいてくれなかったら、この大ぜいの負傷者はどうなってしまったか分からない。先日、贈られたトラックを一台動員した。車が徴発されないよう、運転手の劉漢臣はドイツ国旗を掲げて走っている。中国兵はトラックとみれば残らず取り上げてしまう。カルロヴィッツ社のクリスティアン・クレーガーの話では「命令」が出たという。
つまり、南京の住民はすべて町を離れるようにという指令である。
11月25日
医者が足りない。香港、上海、漢口の赤十字に、医師と医薬品を求むと電報を打った。外国人の医者は頼めない。この電報はアメリカ大使館の仲介だが、大使館は(ほかのどこの大使館も同じだ)自国民に対して南京を去るように勧めているからだ。
・・・・・・・・・
ラジオによると、非戦闘員の安全区に対して、日本はこれまでのところ最終的な回答をよこしていない。上海ドイツ総領事館を通じて、同じく上海にいるラーマン党地方支部長に頼んでヒトラー総統とクリーベル総領事に電報を打とうと決心した。今日、次のような電報を打つつもりだ。
在上海ドイツ総領事館
党支部長ラーマン殿。次の電報をどうか転送してくださるようお願いします。
総統閣下
末尾に署名いたしております私ことナチ党南京支部委員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万人以上の生命が危機にさらされることになります。
ナチ式敬礼をもって。 ジーメンス・南京 ラーべ
・・・・・・・・・・
上海の中国本社からドイツ大使館に私宛の電報が届いていた。
「ジーメンス・南京へ。ジーメンス・上海より告ぐ。南京を発ってよし。身の危険を避けるため、漢口へ移るよう勧める。そちらの予定を電報で告げよ」
私は大使館を通じて返事した。
「ジーメンス・上海へ。ラーべより。11月25日の電報、ありがたく拝受。しかしながら、当方南京残留を決意。20万人をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました」
韓が、・・・レンガ工場からガソリン100缶、小麦粉20袋を運んできた。庭では、新しい防空壕の建設中だ。ガソリンはどこか他に置き場を探さなくては。100缶も庭に置くのは危険だ。
スマイスから電話。東京の新聞が、中立区域があると南京の占領は非常に困難になる、あるいは遅れてしまうと論評したという。もしもこれがうまくいかなかったら、いったいどうすればいいんだ。にっちもさっちもいかなくなってしまう。わが頼みの綱はヒトラー総統だ!
(IMAGINE 9)【合同出版】より
想像してごらん、
女性たちが
平和をつくる世界を。
Imagine,
A world where
women create peace.
戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を
果たす事ができます。
(アメリカ/先住民女性)
2008年12月1日月曜日
南京事件前夜:日本軍の空襲とイマジン9
多母神さんがまた、外国人記者クラブで持論を性懲りもなく述べたという。
退職したのだから、いろいろな史実に目を向けてくれればいいが!!
「ラーべの日記」を今日も見ていこう。(「南京の真実」講談社より)
10月14日
朝7時。輝くばかりの晴天。ということは、素晴らしい爆撃日和でもある!・・・・・・
日本人が毒ガスを使っているとの噂しきり。地元の新聞が伝えるところによると、すでにここ病院にガス中毒の中国人兵士たちが運ばれてきているという。
みな毒ガスをひどくこわがっている。南京の一般市民はガスマスクを持っていないからだ。マスクに酢などの液体をしみこませるよう支持されたが、これはしょせん一時しのぎにすぎず、いざというときにはまったく役に立たない。
(日本軍が日中戦争で毒ガスを使ったということを、NHKの番組で見た事がある。毒ガスは戦時中「地図から消された島」大久野島でつくられた。日本軍が戦争で負けたとき大量の毒ガス弾がいろいろなところに遺棄されて、今でも深刻な問題である。最近では、毒ガス弾を掘り出して、被害にあった「周君・劉君を応援する会」もあります。)
10月17日
映画館はすべて営業を停止した。ホテルや店、薬局も大半は閉まっている。市内はびっくりするほど落ち着いている。軍人、警官、民団(民兵)もきちんとつとめを果たしている。外国人は誰も(もう、あまりたくさんは残っていない。ドイツ人について言えば、女性が12人、男性が60人)不愉快な目にあってはいない。逆だ!異国でがんばっているというので、中国人は驚きながらも好意を持って我々を見ているのだ!
誰もかれも先を争って我が家の防空壕に入りたがる!なぜだか分からない!うちのはおそろしく頑丈だとうわさが立っているらしい。これを作ったとき、せいぜい12人とふんでいた。ところがいざ入る段になってみると、ひどい計算違いをしていたことがわかった。総勢30人。すし詰めだ。
いったいどこからこんなに大勢の人間が来たのかって?なに、簡単さ!うちのボーイにはそれぞれ、妻や子、父、母、祖父、祖母がいるのだ。だれもいなければ、どこからかつれてくるだけのことだ!いやはや、たくましいかぎりだ。・・・・・
10月19日
今日はまた、ずいぶんと丁寧なご挨拶じゃないか!夜中の2時に空襲警報ときた。ようやくブーツをはき終えた時、爆弾が落ちて、家中がゆれた。
防空壕の仲間へ
この家の防空壕の利用者は、次の規則を守れたし。
婦人と子どもには、安全な場所、すなわち真ん中の席をゆずる。
男性は、はしで立つか座るかしてがまんすること。
この指示に従わないものは、今後一切使用を禁止する。
南京、1937年10月19日 ジョン・ラーべ
10月27日
中国側は日本軍が上海郊外の大場を突破したことを認めた。
11月11日
爆弾が雨あられのように降ってくる。だしぬけに、おもてで歓声があがった。高射砲弾が一つ命中したのだ。あっというまに防空壕はもぬけのから。こんな見ものを逃す手はないというわけだ。真っ二つになった爆撃機が、炎に包まれ、もうもうたる煙をあげて落ちてくる。5人から7人乗っているはずだが。
なかから2人、炎と煙のなかを飛び降りた。パラシュートもつけずに。20秒には、堂々たる機体は残骸と死体だけになっていた。
11月15日
政府は南京から撤退するつもりだ。私は交通部(運輸省)でそう確信した。執務室も廊下も旅行かばんと荷箱で足の踏み場もない。揚子江上流の長沙に移ることになっているのだ。・・・・・・・
11月18日
今日は、「中華新聞」の南京版も出なかった。印刷工が逃げ出したのだろう。力車や荷馬車、乗用車、トラックが夜昼となく町から出ていく。どれもこれもうずたかく荷物を積んでいる。大半は揚子江へ向かう。船で漢口やその先へ避難するからだ。時を同じくして、北部から新米兵の隊列があとからあとからやってきた。どうやら、あくまでも防衛する覚悟らしい。兵士はぎょっとするほどみすぼらしい身なりだ。みな素足で、黙々と行進してくる。果てしなく続く疲れ切った人々の無言の行列。
(IMAGINE 9)【合同出版より】
想像してごらん、
基地をなくして緑と海を
取りもどしていく世界を。
Imagine,
A world that gets rid of
military bases and reclaims
the forests and the oceans・
森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。
おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)
退職したのだから、いろいろな史実に目を向けてくれればいいが!!
「ラーべの日記」を今日も見ていこう。(「南京の真実」講談社より)
10月14日
朝7時。輝くばかりの晴天。ということは、素晴らしい爆撃日和でもある!・・・・・・
日本人が毒ガスを使っているとの噂しきり。地元の新聞が伝えるところによると、すでにここ病院にガス中毒の中国人兵士たちが運ばれてきているという。
みな毒ガスをひどくこわがっている。南京の一般市民はガスマスクを持っていないからだ。マスクに酢などの液体をしみこませるよう支持されたが、これはしょせん一時しのぎにすぎず、いざというときにはまったく役に立たない。
(日本軍が日中戦争で毒ガスを使ったということを、NHKの番組で見た事がある。毒ガスは戦時中「地図から消された島」大久野島でつくられた。日本軍が戦争で負けたとき大量の毒ガス弾がいろいろなところに遺棄されて、今でも深刻な問題である。最近では、毒ガス弾を掘り出して、被害にあった「周君・劉君を応援する会」もあります。)
10月17日
映画館はすべて営業を停止した。ホテルや店、薬局も大半は閉まっている。市内はびっくりするほど落ち着いている。軍人、警官、民団(民兵)もきちんとつとめを果たしている。外国人は誰も(もう、あまりたくさんは残っていない。ドイツ人について言えば、女性が12人、男性が60人)不愉快な目にあってはいない。逆だ!異国でがんばっているというので、中国人は驚きながらも好意を持って我々を見ているのだ!
誰もかれも先を争って我が家の防空壕に入りたがる!なぜだか分からない!うちのはおそろしく頑丈だとうわさが立っているらしい。これを作ったとき、せいぜい12人とふんでいた。ところがいざ入る段になってみると、ひどい計算違いをしていたことがわかった。総勢30人。すし詰めだ。
いったいどこからこんなに大勢の人間が来たのかって?なに、簡単さ!うちのボーイにはそれぞれ、妻や子、父、母、祖父、祖母がいるのだ。だれもいなければ、どこからかつれてくるだけのことだ!いやはや、たくましいかぎりだ。・・・・・
10月19日
今日はまた、ずいぶんと丁寧なご挨拶じゃないか!夜中の2時に空襲警報ときた。ようやくブーツをはき終えた時、爆弾が落ちて、家中がゆれた。
防空壕の仲間へ
この家の防空壕の利用者は、次の規則を守れたし。
婦人と子どもには、安全な場所、すなわち真ん中の席をゆずる。
男性は、はしで立つか座るかしてがまんすること。
この指示に従わないものは、今後一切使用を禁止する。
南京、1937年10月19日 ジョン・ラーべ
10月27日
中国側は日本軍が上海郊外の大場を突破したことを認めた。
11月11日
爆弾が雨あられのように降ってくる。だしぬけに、おもてで歓声があがった。高射砲弾が一つ命中したのだ。あっというまに防空壕はもぬけのから。こんな見ものを逃す手はないというわけだ。真っ二つになった爆撃機が、炎に包まれ、もうもうたる煙をあげて落ちてくる。5人から7人乗っているはずだが。
なかから2人、炎と煙のなかを飛び降りた。パラシュートもつけずに。20秒には、堂々たる機体は残骸と死体だけになっていた。
11月15日
政府は南京から撤退するつもりだ。私は交通部(運輸省)でそう確信した。執務室も廊下も旅行かばんと荷箱で足の踏み場もない。揚子江上流の長沙に移ることになっているのだ。・・・・・・・
11月18日
今日は、「中華新聞」の南京版も出なかった。印刷工が逃げ出したのだろう。力車や荷馬車、乗用車、トラックが夜昼となく町から出ていく。どれもこれもうずたかく荷物を積んでいる。大半は揚子江へ向かう。船で漢口やその先へ避難するからだ。時を同じくして、北部から新米兵の隊列があとからあとからやってきた。どうやら、あくまでも防衛する覚悟らしい。兵士はぎょっとするほどみすぼらしい身なりだ。みな素足で、黙々と行進してくる。果てしなく続く疲れ切った人々の無言の行列。
(IMAGINE 9)【合同出版より】
想像してごらん、
基地をなくして緑と海を
取りもどしていく世界を。
Imagine,
A world that gets rid of
military bases and reclaims
the forests and the oceans・
森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。
おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)
登録:
投稿 (Atom)
フォロワー
ブログ アーカイブ
-
▼
2024
(374)
-
▼
11月
(25)
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 平頂山事件92年 歴史を学び合い、不再戦を誓う集会!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 【柏崎刈羽原発再稼働を問う県民投票の実現に全国からご支援を】
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 12.8 ビデオ学習会(ABC企画委員会)
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
- 核・戦争のない世界!!
-
▼
11月
(25)
自己紹介
- ノブ
- 新しい自分を発見中