2009年5月19日火曜日

元日本兵の証言

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

  元日本兵の証言

2003年11月17日、東京高等裁判所の法廷に、近藤一(はじめ)さんという83歳になった元日本兵が立って、日中戦争の時に自分が日本軍の兵士として中国の民衆にくわえた残虐行為の事実を証言しました。その裁判は、日本軍が山西省(さんせいしょう)の北部の抗日根拠地に対して三光作戦を実施した時に日本軍のために性暴力の被害を受けた中国人女性たちが、日本政府が事実を認めて誠実に謝罪を行ない、必要な補償をすることを求めて起こしたものでした。次に紹介するのは、その時の近藤さんの証言の一部です。


 私たちは教育によって、中国人は人間以下の人種だと教え込まれ、中国人を殺そうが豚や鶏を殺すのと同じで別に罪にもならないし、殺すことは天皇のため、日本の国のためになると思っていました。1941年9月ごろ、山西省北部の抗日根拠地に掃討作戦に行きました。八路(はちろ)軍がいるという情報が入ると、その部落に進撃します。すると八路軍は逃げますから、逃げた後の部落に入って、金や物資、衣料などを略奪し、隠れている女性を探して、何人かの兵隊で輪かんしてしまうのです。強かんや輪かんのあとは殺すのが通例でした。
 1943年の春、山西省と河北省の間の山地に掃討作戦に行き、各部落の家を壊して農民が住めないようにして、広い区域を「無人区」にしました。壊した家のレンガをつかい、中国人の男子を使役(しえき)に使って、10数個のトーチカを建てましたが、工事が終わると中国人は必ず殺しました。
 私は、私を含めた日本軍兵士が中国で殺した罪の無いたくさんの人々のこと、強かんや輪かんをして殺したり、辱めたりした女性たちのことを思うと、夜も眠れない気持ちになります。私たちの犯した罪の重さや被害者の苦しみは消えることはありませんが、日本の国としての誠心誠意の償い(つぐない)があれば、少しは私たちの心の重みも楽になります。

 近藤さんは「命のかぎり戦争の事実を語っていきたい」と全国で証言活動をつづけています。



  近藤一さんの戦場体験

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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  徐恵如(女、65歳)の証言
 1937年の冬は、わが家は西街でした。日本人が入ってきた2日目の朝、私たち戸の隙間からのぞいていたのですが、日本人が中国人をたくさん縄で一緒に縛ったのが、次から次へとわが家の門を通り過ぎて行き、一時間ほどかかって、みんな行ってしまってから、機関銃の音が響くのが聞こえました。その後、私たちは寧海路の陰陽営で池の水がみんな紅くなっているのを見かけました。この中国人たちは日本人に陰陽営に追い立てられて集団虐殺されたのだ、と一般市民がみんな言っていました。
 西街に近い珍巷里で、私たちと一緒に住んでいた一般市民20人余りも、みんな避難したのですが、やはり日本人が入ってきた日の午後、日本人2人が来て、私たちを全部部屋から追い出し、割りに顔つきのいい婦人を1人残して、その婦女を輪かんしたのです。
 私の夫の王徳富は皮細工人でした。ある日、夫が毘○寺で、ある日本人に出会い、その日本人が鞄(かばん)を縫わせたので、縫い終わってお金をもらおうとしたところ、日本人は銃剣を抜いて殺そうとしました。夫は吃驚して皮加工師の天秤すら放り出し、いち早く逃げ出しました。
 日本人が銃剣を投げつけて来ましたが、幸いに走る方が早くて刺されなかったのです。
 (景宝龍と高洪等が記録)  ○・・・日本語に無い漢字。

     「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


大事にする世界



これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
 緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。

 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月18日月曜日

憲法9条

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

鳳儀萍(ほうぎひょう)-強制労働者の証言

 1944年8月、14歳の中学生になったばかりの鳳儀萍さんは、上海の四川路(しせんろ)を歩いていたところ、日本軍の見張りの兵隊に敬礼しなかったとしてつかまりました。そして、日本へ強制連行され、北海道栗山町角田炭鉱で強制労働に従事させられました。
 毎朝5時、日本人の現場監督に木刀(ぼくとう)や鞭(むち)でたたき起こされて、石炭掘りに行かされ、夜の10時まで働かされました。食べるものはごくわずかな米、たくあん、ジャガイモだけでした。
 1年もたたないうちに、彼と一緒に強制労働をさせられた290余名の中国人労働者のうち、90人が既に死亡していました。彼は幸い、九死に一生を得て日本の敗戦まで生き続けることができました。
 1945年11月、明優丸に乗って上海に帰りました。帰ってみると、母親が自分の行方不明を嘆き、心配するあまりに亡くなっていたことを知りました。
 1949年8月、鳳儀萍さんは国立江蘇(こうそ)医学院医学部に入学しました。その後、広州医学院泌尿器科の教授を務めました。(既に退職)。彼は、今でも角田炭鉱で死亡した強制労働者の名簿を保管しています。

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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  王錦龍(男、65歳)の証言

 1937年に日本軍が南京に入ってくる前は、私の家は大紗帽巷25号でした。南京が陥落した時私たちは難民区に逃れ、陰陽営入りました。1937年12月下旬のある日の午前中、私が1人で上海路に行ったら、そこで日本軍が縄で40人余りを縛っているのが見えました。これを見て、私はびっくりし駆け戻って隠れたのですが、10分くらいしたら、機関銃の音がひとしきり聞こえました。40人余りが機関銃で撃ち殺されたのです。
 ある日の午後、やはり陰陽営の近くで、ある日本兵が銃剣で12歳の子どもを1人刺し殺すのを見かけました。
 わが家としばらく一緒に住まって避難したもう1軒の家に、17歳のお嬢さんがいました。ある日の午後、日本兵が2人闖入して来て、このお嬢さんを輪姦してしまいました。(姚彦花が記録)

  
    「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界



また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月17日日曜日

「慰安婦」制度

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 5、日本軍の性暴力

  日中戦争中、日本軍は中国の女性に対して、どのような性暴力を加えたのでしょうか。被害女性たちは、身体を傷つけられただでなく、精神をも深く傷つけられました。そのことを念頭に置いて、事実を見ていきましょう。

 日本軍「慰安婦」制度

 1931年末、日本海軍は、将兵(将校と兵士)の性の要求を解決するため、上海(しゃんはい)の日本風俗店を特別慰安所に指定しました。1932年3月、上海派遣軍副参謀長・岡村寧次(やすじ)らは、性病が将兵に広がることと、日本兵の強かん事件が多発し世論の非難を招くことを防ぐため、海軍のやり方をまねて慰安所の設置を決定しました。最初は日本国内から「慰安婦団」を招いて、将兵に性を提供するための場所を設置しました。これが日本軍「慰安婦」制度の始まりです。
 日本軍「慰安婦」制度は、「満州国」に広まり、日本の中国侵略戦争の拡大にともなって、中国各地に広げられていきました。1937年12月、南京で中国人女性に対する大規模な暴行事件が起こると、日本軍は華中(かちゅう)一帯に慰安所を設置するようになりました。
 「慰安婦」制度は、中国人女性への強かんや日本軍将兵が性病にかかるのを防ぐという名目で設置されましたが、実際には両方とも防ぐことはできませんでした。「慰安婦」にされたのは、主に朝鮮人女性や中国人女性でした。戦場とされた中国の場合は、女性が日本軍の作戦のなかで拉致されたり、仕事があるとだまされたり、抗戦中に捕虜となった女性が強制されたりして「慰安婦」にさせられました。日本の植民地だった朝鮮の女性の場合は、朝鮮国内で仕事があるとだまされて、遠い戦場へ連れて行かれた場合が多かったといいます。
 アジア太平洋戦争がはじまると、陸軍中央が慰安所の設置に乗り出し、フィリピン、インドネシアなどの東南アジア・太平洋地域で現地の女性を「慰安婦」にするなどして、慰安所を広げていきました。
 日本軍は慰安所の設置、管理、統制、「慰安婦」の募集、輸送に関与し、日本の外務省、内務省、朝鮮総督府、台湾総督府など日本の国家機関も「慰安婦」募集や移送に関りました。その意味で、「慰安婦」制度は、日本の軍・国家ぐるみの「女性に対する戦争犯罪」ということができます。
 慰安所の女性たちは外出の自由、身体の自由がなく、「慰安」をことわれば、殺されるかもしれない状況におかれました。人格をもった女性の性を戦争をつづけるための道具にしたのです。英語では「慰安婦」のことを「sexual slave」(性奴隷)という表現をします。「慰安婦」にされた女性たちは心身に深い傷を負(お)い、生涯にわたりトラウマに苦しんだのです。
 
 ■上海崇明島で生活していた朱巧妹は、戦争中に日本軍によって「慰安婦」にされ、耐え難い苦難を受けた。日本軍の暴行に憤慨した彼女の夫は、抗日ゲリラ隊に参加して、犠牲になった。彼女は、2005年2月、95歳で亡くなった。


 
   女たちの戦争と平和資料館(WAM)

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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  余揚金華(女、67歳)の証言

 1937年に日本軍が南京を占領した後、冬月25日に、金陵女子大学で日本軍が身分証を発行した時、青壮年を一方に追い立て、間もなくトラックが3台来たのに一緒に乗っけて100人余りを、陰陽営まで連れて行きました。この人たちが引っ張られて少ししたら、機関銃の音がひとしきり聞こえましたから、全部銃殺されたのです。
 日本軍が入って来て4週間くらいしてからでしたか、一度、鼓楼医院の両側の横丁で、アメリカ人が中国人で動員された人たちを指図して、日本軍に殺害された中国人の屍を100余り防空壕まで引きずって埋めさせているのを、この眼で見ました。(秦景沢と陳玉蓮が記録)

 
    「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界



「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月16日土曜日

強かん行為

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 5、日本軍の性暴力

  日中戦争中、日本軍は中国の女性に対して、どのような性暴力を加えたのでしょうか。被害女性たちは、身体を傷つけられただでなく、精神をも深く傷つけられました。そのことを念頭に置いて、事実を見ていきましょう。

 強かん行為

 日本軍の兵士の多くが、中国の農村において、女性を発見すると強かんに走りました。日本軍は、部隊の戦闘力を高め、士気の低下を防ぐ事ができるとして、兵士たちが中国の女性に暴行を加えることを容認していました。しかし陸軍刑法では、強かんに対しては厳罰が規定されていました。そのため日本兵は、被害女性が憲兵に訴えることを恐れて、強かんした女性を殺害してしまうことが少なくありませんでした。
 1937年12月、日本軍の第18師団(牛島部隊)は、安徽省(あんきしょう)の蕪湖(ぶこ)に侵攻すると、現地の逃げ遅れた女性たちの多くを強かんしました。そして暴行を加えた女性を全員刺殺してしまいました。
 日本軍は60歳を超えた老女から10余歳の少女まで、区別することなく暴行を加えました。被害を受けた女性の身体は傷つき、子どもを産めない身体にされた人もいました。そして誰もが精神のトラウマ(後遺症)に苦しんだのです。

■第59師団第54旅団第110大隊伍長・富島健司の手記

 私は、1943年の暮れ、1ヶ月近く、渤海(ぼっかい)湾の沿岸地帯を荒らしまわったときのことを思い出しました。私は、男の人を見かければ、手当たりしだいに殴り、むごたらしい殺しかたをした。女の人を見つけたら「命だけは助けてやるから、俺の言うことを聞け」とわめきたて、辱めた(はずかしめた)。それでも哀願したり、拒もうものなら「この野郎、こんなに武士の情けをかけているのに、分からん奴だ」と、生きていけなくなるほど殴りつけ、銃剣で殺していったのだった。(中国帰還者連絡会編『新編 三光 第一集』光文社、より)


    

   女たちの戦争と平和資料館(WAM)

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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  葛秀華(女、65歳)の証言
 
 中国侵略日本軍が1937年の冬月11日に南京を占領した時、わが家は陰陽営難民区西橋5号に引き移って住まいました。そこは家がかなり多く、難民がたくさん住まっていました。冬月の14日だったと私ははっきり覚えているのですが、その日午前8時か9時に、日本兵が西橋5号まで捜査に来て、家屋内に銃が5挺あったと分かった途端に、日本兵は家に住まっていた若い人たちほとんどを捕まえました。私の2番目の兄で25歳だった葛長華は、先に叫び声を聞きつけて、床下に隠れたのと、兄嫁が子どもを産んで床に寝ていたのとで、捕まらずに済みました。日本兵はみんなで300人余り捕まえて行き、その人たちを一緒に二条巷や西橋や陰陽営の近くの沼の水辺に追い立てました。18歳だった私は、もう結婚していて、沼の近くの寧海路58号にあった姑の家に住んでいたので、そのところで私を中2階に隠してくれました。中2階では外が見えるのですが、外からは中が見えないのです。午後3時か4時頃かに、とても曇った日でしたが、日本軍が機関銃を据え付け、捕まえてきた300人余りを機関銃で掃射し、その人たちが全部撃ち殺されたのを目撃しました。日本軍が死体を沼の中に押し入れたので、沼の水が真っ赤に染まりました。この時の虐殺で、前から石鼓路に住んでいた汪さんの家の伯父さんや叔父さんたち兄弟7人が同時にやられ、それに私の実家のお隣趙大泉さんの家の息子3人も殺されたのです。
 今また前のことを思い出すと、ほんとに憤慨に堪えません。日本の侵略軍は中国人民にとてつもない大罪を犯したのです!(秦景沢と陳玉蓮が記録)

  

   「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが


平和をつくる世界



ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
 この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
 国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。


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2009年5月15日金曜日

遺棄化学兵器の危害

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大日本帝国が行なった国家的犯罪!!それは大規模であり、あまりにも計画的で冷酷・残虐な施設・部隊である!!
 その部隊の主要なメンバーたちの大半は、驚くことに、裁判にかけられることも無く、戦後の医学会・製薬会社等で活躍できたのだ!!


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日本軍による中国民衆への残虐行為

 4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 遺棄(いき)化学兵器の危害

 1925年に調印されたジュネーブ議定書は、化学兵器や生物兵器(細菌兵器)の使用を禁止していました。そのため、731部隊は、敗戦直前に撤退する時に、捕虜を殺害、建物を破壊して証拠の隠滅をはかり、重要な資料と物資は日本に持ち帰りました。その時、病原菌を植えつけられたネズミや家畜が周辺に逃げ出したため、ハルビン近郊ではペストが流行し、1950年代初めになってようやく終息(しゅうそく)しました。
 日本軍が大量の化学兵器(毒ガス弾・毒ガス筒)を中国に遺棄して撤退したため、戦後になって、遺棄毒ガスによる死傷事件、絶えることなく発生しています。最近の数年間においても、日本軍が秘密裏に埋めた毒ガスが発見され、死傷者が出ています。化学兵器禁止条約に基づいて、日本と中国は1999年、「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」を結び、日本政府の責任で、遺棄毒ガスの解体、処理の作業を始めました。

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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  劉世尭(男、82歳)の証言

 1937年の冬月6日は、中国侵略日本軍が間もなく南京を占領しようとしていて、城内の住民は雑然とあちこち駆け回って難を逃れようとしていました。五台山の難民区の収容所に区分されて、本部が五台山の永慶寺に置かれた、という話でした。わが家はこの時五台山に1軒借りて先に住み着いていました。「中央軍」は南京を死守し、南京城と存亡を共にする、と言われていたのに、11月9日(農暦)になって彼らは闘わずに逃げてしまい、南京城内を混乱に陥れました。私の両親と初めの妻と子どもとは冬月6日の午後、雲南路の金陵大学農業専修科の2階へ駆け込んで住まいました。私の初めの妻は日本軍の南京占領で驚き脅えたことで、病気になり2年足らずで亡くなりました。この事が私には終生忘れられません。
 冬月8日に、難民収容所の本部から人が来て、沈という人と連携し、国際救済委員会の第35難民収容所が出来ました。沈というのが私と太平路の「美最時」革靴店の責任者とに共同で班長をやらせ、2人に現状を維持するよう責任を負わせました。冬月9日には、難民区の中は難民がとても多く、子女を抱え年寄りを支え泣くに泣けない有り様でした。2日目の晩になって、「中央軍」の兵士は銃器や弾薬を投げ棄て思い思いに逃げ出しました。35難民収容所には2000人余り難民がいて、押し合いへし合い、身の置き所も無いようでした。冬月11日の朝、日本大使館に日本の国旗が揚がったのを見て、難民たちはいっそう恐れ不安がりました。私は2階に住まっていたので、ずっとはっきり見えたのです。午前9時頃かに、突然日本兵が数人来て、収容所に闖入してくるや、いきなり発砲して1人を傷つけ、たちまち数十人捕まえて行って、それっきり帰って来ませんでしたから、きっと殺害されたのです。しかも、日本軍は毎日夜になると婦女をひったくりに来て、引っ張って行き強姦したのです。太平路や中華路一帯が日本軍に放火されて燃え、夜間に赤々とした焔(ほのお)が天を焦がしました。
 日本軍は殺し焼き犯し掠め(かすめ)、悪事の限りを尽くしたのです。
 冬月14日に、私は2階で見たのですが、日本軍は雲南路の角で道を通る中国人を捜査して捕まえ、午前10時過ぎまでに、数千人連れて行きました。お昼時分に機関銃の音が絶えず聞こえただけでした。この難民収容所の後ろに、沼が1つあって、2階で見たのですが、日本軍は湖南路から中国人をたくさん捕まえてきて、沼に向かって5人1列でひざまずかせ、それに発砲する度に、1列ずつ中国人が倒れていき、水際に倒れる者もあれば、沼の中に倒れる者もあるのでした。何日か後に、沼をさらって発見された屍がみんなで83ありました。
 一番初めは、日本軍は中国の同胞を数百名清涼山へ追い立て、そこの大きな防空壕に押し入れ、燃焼弾と機関銃とでその人たちをみんな殺してしまうという、全く残忍なひどいものでした。
 凶悪な大虐殺の後しばらくして、日本軍は南京に住んでいる者に良民証を持たせようとし、それが無ければ命に保証はないことにしました。冬月の末に、父と寧海路に行きましたら、良民証をもらう人がたくさんいました。その時、人の群の中に売国奴がいました。張栄光といって、江西の人だと言われていましたが、それが自動車の上に立って言うには、およそ壮丁や人夫に徴発された者と中国兵になった者で、そうだったと言う者は、皇軍は殺さずに、食べる者を与え、旅費を支給して家に帰らせるが、およそそうだと言わずに、調べられて判明した者は1人残らず銃殺される。売国奴のこの話を聞いて本当と信じ、立って出てきたのが数千人といました。間もなく、日本軍が車でこの人たちを運んで行ってから、いくらもしない内に、機関銃の音が聞こえました。この人たちも日本軍に集団虐殺されたのです。(何月英が記録)

 

   「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが


平和をつくる世界



戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月14日木曜日

毒ガス戦と細菌戦

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大日本帝国が行なった国家的犯罪!!それは大規模であり、あまりにも計画的で冷酷・残虐な施設・部隊である!!
 その部隊の主要なメンバーたちの大半は、驚くことに、裁判にかけられることも無く、戦後の医学会・製薬会社等で活躍できたのだ!!


『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 化学戦と細菌戦の実施

 廬溝橋(ろきょうこう)事件のすぐ後、日本は化学戦(毒ガス戦)部隊を編成して中国へ派遣しました。1937年7月28日、日本の参謀総長は、毒ガス使用許可の指示を出しました。以後、日本の各部隊では化学戦に従事する兵員を養成、訓練して、中国戦場で化学兵器を使用するようになります。
 中国の統計によれば、日本軍の化学兵器使用作戦数は2000回以上、死傷者は国民党軍兵士4万7000人、うち死者6000人、八路(はちろ)軍兵士が3万7000人、うち死者は1500人、民間人と捕虜の死傷者は1万余人に上ります。
 1939年、731部隊は、中国とモンゴル国境のノモンハンで起こしたソ連軍との戦闘(ノモンハン事件)において、初めて細菌兵器を使用しました。その後、日本は侵略戦争を拡大すると、関東軍、北支那・中支那・南支那の各方面および東南アジアの軍隊においても「防疫(ぼうえき)給水部」の名称で細菌戦部隊を創設しました。中国の浙江(せっこう)、湖南、山東、広東(かんとん)などにおいて細菌兵器を使用したため、多数の住民が被害を受けました。湖南省の常徳では、実名が判明した死者が7463人に達しました。


   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ



       「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  張秀琴(女、57歳)の証言

 1937年の冬、日本軍が南京を占領した時、私は金陵女子大学の難民区に避難していましたが、それは寧海路でした。日本軍が難民区から中国の男の青年をたくさん捕まえていくのを、私は窓から見たのですが、どこから捕まえて来たのかわからないのもいて、日本軍はその人たちを縄で縛り、数十人を数珠繋ぎにしたのを、前と後ろから日本兵が銃で押さえるようにして、女子大学の後ろの山の上まで引っ張って行った後、機関銃がひとしきり響き渡るのが聞こえただけでしたが、みんな撃ち殺されたのです。私たちは恐くて家の中に隠れているだけで外には出られませんでした。この人たちほんとに痛ましい死に方をしたんだなあ、と思います!(章厚之と申全英が記録)

 
  
 「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月13日水曜日

731部隊

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大日本帝国が行なった国家的犯罪!!それは大規模であり、あまりにも計画的で冷酷・残虐な施設・部隊である!!
 その部隊の主要なメンバーたちの大半は、驚くことに、裁判にかけられることも無く、戦後の医学会・製薬会社等で活躍できたのだ!!


『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 「特別移送」と人体実験

関東軍の憲兵隊は、逮捕した抗日運動の活動家やソ連のスパイ工作員をひそかに731部隊まで移送して、細菌実験の「材料」(マルタ〈丸太〉と呼んだ)にしました。これを当時「特別移送」と呼びました。1999年と2001年、黒竜江省(こくりゅうこうしょう)と吉林省(きつりんしょう)の公文書館で、関東軍憲兵隊が残していった「特別移送」の資料が発見されました。
 731部隊は、「特別移送」されてきた人たちを秘密の監獄に入れて、ペスト、チフス、パラチフス、コレラ、馬鼻疽(ばびそ)など数十種もの細菌実験に使いました。さらに凍傷(とうしょう)実験、人間の血と馬の血を交換する実験、人体を逆さづりにする実験などを行ない、生体解剖まで行ないました。化学戦部隊と共同で毒ガス実験も行ないました。元731部隊員の証言によれば、少なくとも3000人がここで犠牲になりました。


  516部隊

  516部隊

  731部隊

  731部隊

  731部隊

  731部隊

  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  安翠雲(女、62歳)の証言

 日本軍が1937年の12月に南京を占領した時、私たちは家族全部で五台山の近くの金陵女子大学の中に避難していました。
 1937年の12月17日の午後、4時か5時頃に、日本兵がたくさん来て、難民収容所にいた中年と青年の男子を、1人1人検査し、およそ頭に帽子のたががある者と、手にたこのある者とは、みんな中国兵と見なされました。その日全部で20人余り引きずられ、斜め向かいの空き地まで連行され、機関銃で掃射され、いっぺんにみんな撃ち殺された後、日本兵は大手を振って立ち去りました。日本軍は縦に南京の同胞を虐殺し、中国人民に対してゆるすことの出来ない罪を犯したのです。※(蒋宝霞と劉維玉が記録)
 
 ※詳しくは「南京事件の日々(ミニー・ヴォートリンの日記)」【大月書店】の12月17日を見てください。

  
 「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。

 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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