2009年4月14日火曜日

上海「義挙」とユンボンギル

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?


1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 上海「義挙」と尹奉吉(ユンボンギル・・・1908-1932)

 1932年4月29日、尹奉吉は韓人愛国団長である金九(キムグ)と朝食を終えた後、誓いの言葉を読み上げました。
 「私は、誠心誠意、祖国の独立と自由を回復するために、韓人愛国団の一員となり、敵軍の将校を殺害することを誓います」
 その日の午後1時ごろ、上海虹口(ホンキュ)公園で天地を揺るがす爆発音がとどろきました。爆発が起こったのは、上海を占領した日本軍が開催した天皇誕生日の祝賀会場でした。壇上に座っていた軍司令官・白川義則をはじめとする高官らが死傷しました。修羅場となった会場で、声を張り上げ「大韓独立万歳」と叫ぶ青年がいました。その日の朝、「敵の将軍を殺害する」と固く誓った尹奉吉でした。
 その場で逮捕された尹奉吉は軍法会議で死刑宣告を受け、同年12月19日に処刑されました。死を前にした彼は、2人の息子に遺言を残しました。

■お前たちにも血が流れ、骨があるのなら
きっと朝鮮のために勇敢な闘士となれ
太極(たいきょく)の旗(韓国の国旗)を高く掲げ
私のなきがらのない墓を訪ね
一杯の酒を注いでおくれ
お前たちは父がいないことを嘆くなかれ
愛する母がいるのだから

 一身をなげうっての尹奉吉の「義挙」に、中国民衆と国民党政府は感動し、朝鮮の独立運動を積極的に支持するようになりました。世界の人々も朝鮮の人々が日本の侵略にどれほど憤っているかを知るようになりました。

    
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺



 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)私たちは大急ぎで紅卍字会の人を探しに行き、難民証を2枚発行してくれるように頼みました。あんたたちはどこの人か、と聞かれたので、広東人だとそのままに答えました。自分たちは江蘇省の人と南京人にだけ出せるので、広東人には出せない、と会の人は肯ぜず、私たちはその人にずっとぴったり引っ付いて、助けてくれと要求したのですが、応えてくれませんでした。私たちはほかにも多くの人に当たったのですが、難民証のことは解決できず、紅卍字会の人に頼んではじめて出してもらえるのだと誰もが言うので、私たちはうろうろするばかりで、万策尽きてしまい、初めに戻って又あの紅卍字会の人に会いに行きました。その人が又「あんたたちはどこの地方の人か」と聞くので、「江蘇の人間です」と答えると、「あんたたちは初め広東人だと言い、今は又江蘇人だと言い直している、やはりあんたたちに難民証は出せない」と言うのです。難民証がなければいつ何時日本軍に銃殺されるか分からないのが私たちには分かっているので、その人に付いて歩いて、その人が行く所はどこにでもくっついて行きました。歩いているうちにその紅卍字会の人が、地べたから難民証を一枚拾ってくれたのですが、これが人の命に関ることなもので、私たち2人が互いに奪い合うこととなり、結局その男に持っていかれてしまいました。私は焦って心臓をばくばくさせながら、ずっとその人の後ろにくっついて行ったのですが、その人の前方百メートルの所に、又もや実弾入りの銃を担ぎ、銃に剣をつけた日本兵が数人やってきて、真正面からこっちに歩いてきた、その正に差し迫った危機に、不意に又その紅卍字会の人が地べたから南京難民証を一枚拾ってわたしにくれたのです。どんな風だったか私には見えなかったのですが、私にはその人が私の命を救おうとしてくれたのだと思われます。服につける針と糸が無かったので、左手で難民証を左胸の前に押し付けるしかありませんでした。すぐにも日本兵が私たちの目の前にやってきて、私たちが難民証を付けているのを見、紅卍字会の人に「良民か」と聞いて、「良民です」と答えてくれました。それで日本軍が「よし、よし、行け、行け」となり、すぐに私は難民キャンプに入ったのです。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界



「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
 「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人々が、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
 第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
 国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。
同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月13日月曜日

中国東北地方への侵略

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 張寒暉と抗日歌曲「松花江のほとり」

 日本が満州事変を起こすと、憤激した中国の各界の人々は、次々と大規模な抗日救国運動に参加していきました。1936年、陝西省(せんせいしょう)立西安2中(現在の陝西師範大学付属中学校)の教師であった張寒暉(1902-1946:河北省定県の出身)は、大衆の抗日救国運動に励まされて歌曲「松花江のほとり」を作曲しました。国を愛し故郷を想う気持ちのあふれたこの抗日歌曲は、学校から軍隊へ、そして万里(ばんり)の長城の内外、長江の南北へと、たちまち全中国に広まり、抗日戦争期の救国歌曲の代表作となりました。中国人民は、この歌を歌うと心が奮い立ち、抗日戦争に勝利するまで戦おうという気持ちを鼓舞されたのでした。
 張寒暉は、「松花江のほとり」の他にも「軍民大生産」など、70曲余りの抗日歌曲を作曲し、1946年3月11日延安で病死しました。張寒暉は、聶耳(ニエアル)や洗星海(せんせいかい)とともに誰もがその名前を知っている人民芸術家です。

 ■「松花江のほとり」の歌詞(澤地久枝『もうひとつの満州』より)
わが家は東北 松花江のほとり
そこには森林と鉱山 さらに山野に満ちる大豆と高粱(コーリャン)がある
わが家は東北 松花江のほとり
彼(か)の地には我が同胞 そして年老いた父と母がいる
ああ、9・18、9・18
あの悲惨な時から わが故郷を脱出し
無尽の宝庫も捨て去って 流浪、また流浪
関内をさすらいつづけている
いつの年、いつの月、私の愛する故郷へ帰れるのだろうか
いつ、私のあの無尽の宝庫をとり戻せるのだろうか
父よ、母よ、喜んで一堂に会するのはいつだろうか
  
   
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺



 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)支流の1つに来た所で、水にもぐり南へと進みました。私たちが願ったのは、第一になるべく早く日本兵の駐屯している区域から離れること、第二に民衆の船で家のあるのを一隻探して泊まり、身分を欺けるようにすることでした。みんなで20隻余りの船に乗って見たのですが、どの船にもお爺さんが唯1人眠っていました。(衣服など船にある財産を見守るのに留守をしていたのでしょう)。もう真夜中の3時か4時で、爺さん、爺さん、と何度も呼んだのですが、眠っていてびりっとも動かず、誰一人として起き出して私たちに答えてくれる人はいませんでした。その体に触って見たら冷たく、力を込めて抱き起こそうとしたら、体がこわばっていて、血がまだ流れているのもいました。その時やっと分かったのですが、留守をして船を看ていたお爺さんたち、善良な民衆たちもまた、1人又1人と日本軍に殺されたのです。それからは私たち手間取って遅くならないように、船に人が見えても、声をかけに行きませんでした。私たち艱難辛苦を経て、水路を行ったところ、ついに望みが出てきました。前の方の小さな船から赤ん坊の泣き声が聞こえ、きっとその船には人がいると断定した時は、うれしくてたまりませんでした。私たちはある船に乗るのに、2人で手足の泥をきれいに洗ってから乗ったところ、着る物がたくさんあったので、綿入れを2着それぞれ着て、庶民の恰好になり、そのまま船にいて前には行きませんでした。
 12月14日の夜が明けたばかりの頃、船の主が帰ってきて、私たちに出て行かせようとしました。私たちは岸には日本兵がいて、命の危険があるのだ、と言いました。船の主はあんたたちは難民証がないから、船にいても命の保証はし切れない、と言いました。私たちもそう聞いてもっともだと思い法雲時の難民区へ行ったら、そこにはお爺さんお婆さん、中壮年、婦女子や児童がいて、私たちはその人の群に混じって、その人たちの家の人にさせてもらいました。けれども日本兵がしょっちゅう検査にきて、着ている物をひっくり返して見せろ、手を見せろ、軍人だった痕跡があるかないか、難民証(良民証)がない奴は中国兵だ、引きずり出して殺しちまうんだ、というようなわけで、難民区の外側に、あちこちに死体がいっぱい散らばっていましたが、その人たちはこういう状況で死んだのです。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界



みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月12日日曜日

反満抗日闘争

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 4、東北人民の反満抗日闘争

 日本軍の侵略と占領支配を受けた中国東北地方の各民族、各階層の民衆は、どのように抵抗し、闘争を続けたのでしょか。同地方の反満抗日闘争の戦いの歴史を見てみましょう。

各階層民衆の抗日闘争

 満州のさまざまな階層の人たちが抗日闘争に身を投じていきました。1939年前後、日本が直接統治していた大連(だいれん)では、抗日民衆が「放火団」を組織して、日本の軍需工場や事業所を焼失させました。国民党系の地下組織は各地で秘密闘争を行いました。愛国者の伊作衡(いさくこう)は、錦州(きんしゅう)やハルビン、長春などで仲間と連絡をとりながら民衆を指導して、秘密裏に反満抗日闘争を行いました。しかし1943年に逮捕され、処刑されてしまいます。
 1941年1月、「満州国」空軍第3飛行隊の兵士85名が反乱を起こして日本軍の監視官を射殺し、抗日軍を組織しようとして、鎮圧されました。朝鮮族や満族、モンゴル族、オロチョン族などの少数民族の人たちも、東北人民とともに抗日闘争に参加しました。


 中国人民と肩を並べて戦った朝鮮人

 満州事変が勃発してから、満州の朝鮮人も武器を持って抗戦に立ち上がりました。満州北部には韓国独立軍、満州南部には朝鮮革命軍が組織されました。朝鮮革命軍は、中国遼寧(りょうねい)民衆自衛軍ならびに中国共産党が指導する東北抗日連軍と共同して、1938年までずっと活動しました。韓倹秋(ハンコンジュ)は、朝鮮革命軍の指導者の1人で、彼が作詞した下記の歌は、中国人・朝鮮人の連合抗戦の決意を歌っています。
 朝鮮人の中には、中国共産党の指導するゲリラ部隊、さらには東北抗日連軍に参加して、中国人と一緒に戦った人たちもいました。彼らは、日本人を満州から追い出せば、朝鮮独立の機会の到来もそう遠くないと信じたのでした。
 朝鮮人のゲリラ部隊は、武装闘争を続けながら朝鮮人の団結をはかるため、1936年から始めて、多くの地域に朝鮮人の祖国光復会を設立させました。これらの組織は1938年に日本当局に鎮圧され、瓦解しますが、戦いの意志は消えることはなかったです。

 ■中韓行進曲
 中国、韓国の同胞たち/戦いの日がやってきた/抗日決戦の時がやってきた/民衆自衛軍/朝鮮革命軍/共に生き、共に戦い、死を共にする戦友・・・・
(作詞者は、朝鮮革命軍第二方面軍司令官だった韓倹秋(ハンコンジュ)です。1937年初め、韓は、19路軍司令官・王凰閣(おうおうかく)が日本軍に捕らわれたので、部隊を率いて救出に行きましたが、王はすでに日本軍に殺害されていました。韓は一日中、泣き悲しんだすえにこの歌詞を書いたのです。韓倹秋も1937年6月、吉林省通化県の二段溝の戦闘において戦死しました。)

 
 
   
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺



 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)私たち3人は草葺き小屋に隠れていて、幸いにしばらくは殺されず難を免れていましたが、周りはみんな「ああ、のう」と絶え間ない日本兵ばかりでした。暗くなってから、不意に日本兵が1人入ってきて、私たち3人に3発撃って、出て行きましたが、3人には1つも当たりませんでした。その後すぐ、私たち相談して、ここを離れなければいけないとなりました。犬のように地を這いつくばり、頭だけ突き出して様子を伺うと、あちこちに明かりがともり、日本軍の歩哨が影法師になっていたりして、逃げようにも、天にも地にも隙間1つ見出せません。何度も考え直した挙句に、とにかく日本軍が宿営してからのことにし、水路から逃げるか、あるいは老人か子どもかのいる庶民の家まで逃げていって、その一員になるかすれば、何とか逃げおうせるかもしれない、と思いました。
 凡そ夜の11時前後に、私たち3人の内の1人が、先に壁のあなから這い出して行きましたが、その後の生死は不明となりました。とっても寒く、私たち広東から来た者は綿入れは着てなくて、冷え込んでたまらず、草葺き小屋の一角で、たまたま拾った布団わた2枚を体にかけて暖を取りました。けれども、やはり心配でたまらず、眠れる訳がありません。真夜中の2時ごろかに、不意に日本兵が2人入ってきて、軍刀をさげていながら銃は持っていないところから、輜重兵(しちょうへい)と思われましたが、その2人が古い布団わた2枚抱え、私たちのいる部屋のもう一隅で、頭からそれをかぶって眠ってしまいました。これはまずい、いつ殺害されるか分からない、と私たちは見て、直ちに壁のあなから這い出し、日本軍の明かりと歩哨とを避け、三汊河の上の方へ行きました。行ったとは言え、実際は両手両足で這って行ったのですが、三汊河一帯の大きな道も小さな巷も、ただ死体が無数に血の海に倒れているばかりでした。河辺には、死体がうずたかくなり、小山に小山が連なっているようでした。川面に一面漂っている死体はと言えば、水の流れに委ねたかのように、長江へと向かって行くのでした。
 手も足も気を付けて這って行くのですが、それでもしょっちゅう日本兵の警邏しているのに出くわします。すると私たちは面を伏せ、死体のうずたかい上に身を伏せビクともせずに、死人を装い、彼らをくらませてからまた這うのです。もっと惨めだったのは日本軍に半殺しになった人たちが少しいたことで、大声でわめきうめいているのが、涙を誘って止まないのでした。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


大事にする世界



 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。

 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月11日土曜日

反満抗日闘争

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 4、東北人民の反満抗日闘争

 日本軍の侵略と占領支配を受けた中国東北地方の各民族、各階層の民衆は、どのように抵抗し、闘争を続けたのでしょか。同地方の反満抗日闘争の戦いの歴史を見てみましょう。

 馬占山(ばせんざん)と嫩江(のんこう)橋抗戦

 満州事変を起こした関東軍は、遼寧(りょうねい)、吉林(きつりん)の2省をあいついで占領すると、黒龍江省(こくりゅうこうしょう)に侵攻しました。ところが嫩江橋において、黒龍江省の代理主席・馬占山が指揮する中国軍の頑強な抵抗を受けたのです。関東軍は何度か撃退された後、主力部隊と主力兵器を集中して激しい戦闘を繰り広げ、数ヶ月後にようやくチチハル市を占領しました。

 抗日連軍

 1935年前後、中国共産党の指導のもとで、満州の各地域の抗日武装勢力が連合して東北人民革命軍を編成しました。後に「東北抗日連軍」と改称して第1軍から第11軍まで、約3万人の兵力にまで拡大されました。
 これに対して関東軍と「満州国」政府は、「治安粛正(しゅくせい)作戦」(抗日勢力を撃滅して支配を安定させようという作戦)を強力に押し進めました。抗日連軍は何度も「討伐」を受けて食糧と塩、薬品などの補給を完全に断たれ、多くの兵士たちが日本軍の討伐と攻撃のたびに犠牲になりました。犠牲があまりにも大きくなったため、抗日連軍は兵力を温存するために国境を越えてソ連領内に入り、小さくなった部隊の結集をはかりました。
 1942年になると、抗日連軍の小部隊はソ連領内から満州へ戻り、日本軍の後方に深く侵入して、情報収集を行なったりして闘いを続けました。1945年8月8日にソ連が対日宣戦布告をすると、抗日連軍は満州に戻り、抗日闘争の最終的な勝利を迎えたのです。

 ▲楊靖宇(よう・せいう)
 抗日連軍第一路軍の総指揮官、1940年戦死。日本軍がその遺体を解剖してみると、胃の中には未消化の木の皮、草の根、綿などがあっただけだった。

 
   
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺



 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)群の中には熱い涙を流す者あり、大声で泣き叫ぶ者あり、不当な扱いを恨みわめく者ありで、嘆き訴える怒声が天を震わせました。私は心に思いました。17になったばかりの、こんなにも短い命で、今にも日本軍に殺害されようとしている。だけど、父母や家の人たちは私が外で殺害される様子をまだ知らないでいる。国破れて家滅びる恨めしさを私は感じましたが、同時に又人はどの道死ぬのだけれど、殺害されて死んではいまいましいとも想い、いちるの望みでもあるなら、起死回生を狙ってやろう、とも思いました。丁度その時、日本軍の親玉が私たちの殺害に刺し殺しを採用すると宣言しました。それで直ちに人の群の一番前の列から始めて、ゲートルで10人を1列につなぎ、引っ切り無しに河の水辺まで駆り立て、銃剣で刺し殺しては、河に倒れ込ますのでした。
 私は最前列から10数メートルしか離れていなくて、すぐにしばられることになりそうでした。とっさに思いついて私は、人の群の一番端っこから、大急ぎで一番後ろの列まで移りましたが、日本軍が私たち全部を殺しつくそうとする時には、最後は私の番になるのでした。私は後ろの空き地にうずくまり住民のあばら家に近づきましたが、その壁は芦の柴と泥とでできた間垣で、たくさんの人に押し付けられて、家も壁も壊れ、芦の柴が丸出しになっていました。午後の4時頃までに、三汊河で囲み込まれた兵士と民衆のうちの、7割ほどがもう殺されていました。冬という季節は、昼間が短く夜の長いものですが、空には一面に黒雲が立ち込めて、天もどんより地も薄暗く、やがて日が落ちるかのようでした。日本軍はできるだけ早く殺し尽くしてしまおうと、急に残った3割の人たちを、河辺りまで駆り立て機関銃で掃射しました。ちょうどその時、私はある人が芦の柴でできた壁をほじくって穴を開けそこからもぐり抜けて逃げて行くのを見ましたが、かなりの人が草葺き小屋の屋根を腹ばいになって逃げるのもいて、よく見えてしまうので、日本軍に機関銃で射撃され、死骸が屋根から転げ落ちてくるのでした。この機に乗じて、私と他のもう2人も芦の柴の土塀をほじくり草葺き小屋の隣の一部屋にもぐりこみ、しばらく隠れていてから、機を見て又逃げて行きました。
 まもなく暗くなろうという頃、河辺りに頻々と、機関銃の射撃のの音が聞こえていました。12月13日の午前9時から暗くなるまで、残忍野蛮な日本軍は、三汊河の沿岸で、わが軍と民との同胞2万人以上を殺害したのです。これはしかし、日本軍の虐殺のほんの一場面にしか過ぎないのです。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


大事にする世界



これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
 緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。

 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月10日金曜日

満州国

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 3、「満州国」の社会と経済

 日本は、「満州国」の政治と経済から科学技術および文化、教育まであらゆる分野にわたって支配し、実質的に日本の植民地のようにしていきました。そのためどんな方法がとられたのでしょうか。

植民地教育
 
 関東軍は満州を占領すると、反満抗日の教育を行なっている学校の教師と生徒を逮捕し、さらに学校を閉鎖しました。その後、植民地支配がある程度進み、秩序が安定し始めると、学校教育の回復と建設をはかるようになりました。小学校は「国民学校」と改称し、それまで合わせて6年間だった中学校と高等学校を4年間にして「国民高等学校」と名づけました。戦争政策に役立たせるために、基礎知識を学ぶ授業が大幅に削られ、実業教育の必要が強調されるようになりました。
 学校では、教師と生徒は、毎日必ず日本の天皇と「満州国」皇帝に向かって遥拝させられ、「国歌」を歌い、溥儀の『国民調』を暗唱させられました。生徒たちは日本語と修身(後に「建国精神」と改称)を学ぶことを強制され、「日満一体」「忠君愛国」の思想が注入されました。中国では、日本の統治時期に強制された「皇民化教育」のことを「奴隷化教育」と呼んでいます。
 

 ■依蘭(いらん)県国民高等学校学生の回想
 初代の副校長は中原という退役軍人で、軍閥の作風があり、いつも教師を譴責(けんせき)し、学生 を殴り、絶対君主としてふるまった。



 食糧の強制的徴収

 1939年、日本と「満州国」政府は日中戦争の長期化にともない、食糧500万トンを強制的に徴収する政策を決定しました。徴収量は毎年増加されてゆき、1945年には900万トンになりました。毎年秋の収穫期になると、当局は軍隊や警察を農村に派遣して穀物の徴収を監督したので、農民たちはやむを得ず、自分たちが食べる食糧や種まきの分まで供出しました。
 大量の穀物が軍隊の食糧として徴収されたので、都市住民の1人当たりの1ヵ月の食糧は、わずか5キロほどしかなく、ドングリなどの木の実や野草を食べて飢えをしのぐしかありませんでした。当局は一般の中国人が米を食べることを禁止し、従わない者は「経済犯」と見なして処刑することもありました。


 強制労働者の苦難

 関東軍は、満州を対ソ戦争の作戦基地にするため、1939年から「北辺振興計画」を進め、ソ連との国境地帯に大規模な軍事施設を建設するための工事を行いました。そのため生じた満州の労働力不足を解決するため、日本と「満州国」政府は、華北地方において労働者の「募集」を行いました。華北労工協会の記録によれば、1941年と1942年に「募集」された労働者は100万人前後にのぼり、その中には日本軍との戦闘で捕らえられた捕虜も含まれていました。
 「募集」とは名ばかりで実際は強制連行された労働者たちには、労働は過酷をきわめていたのに食糧はわずかしか支給されず、冬の防寒もろくになされませんでした。こうした非人間的な扱いを受けて、数多くの労働者が非業の死をとげました。

 
 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺


 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)私たち3人は日本軍は彼らを殺害しないと思って、少し後ろから三汊河まで付いて行きました。木橋まで来た時、前の方に日本軍が更に多くの兵力が布陣して、一大包囲網を形成しているのが見え、すこぶる殺気がみなぎっていました。日本軍は群の中に列から外に出るのがいるのを見つけると、銃剣で刺し殺したので、何人もが地に倒れ悲惨な叫びをあげて死にました。この突然の状況は私たちの予期に反したことで、様子からして日本軍はここで私たちへの虐殺をやろうとしているようでした。草葺き小屋に留まって、隠れていた方がずっと安全だったのに、三汊河までついてきたのは、死を求めたようなものだった、非常に悔やまれました。その時、とっさにいい知恵が浮かんで、すぐに後ろを向いて歩きました。ところが、後ろについて来ていた日本軍が、銃剣を私に突きつけてきたので、とっさに私が飛ぶように前に向き換えて、人の群に入り込んだところ、私の後ろにいた何人かの同胞が、いずれも日本軍に胸から背に銃剣で突っつかれ大声をあげて地に倒れて死に、私は一死を免れたのでした。
 私たちは三汊河の木橋の西へ数百メートル行った南の河辺まで駆り立てられて、みんな日本軍の手の内に死ぬんだと知りました。何人もが日本軍の蛮刀の辱めを受けたくないと、ある者は頭を壁にぶっつけ、ある者は河に跳びこんだ自ら溺れ死に、泳げる者は、河にもぐって逃げようとし、みんな日本軍に射撃されて水中に没しました。
 三汊河の河辺と空き地について、みんなで2万余りの中国人が包囲されたまま、日本軍は機関銃で射撃する準備を終わりました。けれども日本軍はまだ射撃を始めずに、又私たちを河辺から、岸の上(大通りより南の大同小麦粉工廠の広場)に駆り立てました。日本軍の首領で、うんと小さいのが、みんなに話(通訳つきで)をしました。「お前らはどうして恐れ多くも皇軍に刃向かったのか。お前らは有罪だ」「お前らはけしからん。どいつもこいつもスーラスーラ(死了死了=死んでしまえ、死んじまえ)」と、手を挙げ手まねで、首をはねる意を示しました。「今お前らに聴くが、どんな死に方がいいか。機銃掃射がいいか。小銃で撃つのがいいか。あるいはガソリンか焼夷弾で焼くのがいいか。それとも銃剣で刺し殺すのがいいか」。これを聞いて私は内心すごく憤慨し、日本軍が人を殺すのに、殺害される者にどういう死に方がいいかなどと聴くなんて、そんなことがあっていいんだろうか、と思いました。私たちはどうしても日本軍に全部殺害されることになりそうでした。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界



また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月9日木曜日

満州国

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 3、「満州国」の社会と経済

 日本は、「満州国」の政治と経済から科学技術および文化、教育まであらゆる分野にわたって支配し、実質的に日本の植民地のようにしていきました。そのためどんな方法がとられたのでしょうか。

 日本の資本による満州経済の独占

 満州の重要産業は、日本の国策会社である「南満州鉄道株式会社」(略称は満鉄)や日産コンツェルンの「満州重工業開発株式会社」(略称は満業)によって独占されました。金融・石炭・鉄鋼・交通・鉱山・電力などの分野において、「特殊会社」あるいは「準特殊会社」という名の国策会社をつくり、「一産業を一会社とする原則」をかかげ、中国の民族資本が入ってくることを許しませんでした。とくに1940年代に入ると、多くの中国民族資本は原料や市場の制約を受けて破産の危機に陥りました。


 日本人の満州移民

 日本の満州支配を維持し、日本国内の人口過剰の問題を解決し、さらにソ連との戦争に備えるために、日本は「在郷軍人(ざいごうぐんじん・・・現役を除隊した予備役の軍人)」を中核とする武装移民団を編成して満州北部に入植させました。1936年、日本政府は「満州農業移民20ヵ年百万戸送出計画」を定めました。
 日本は、人口が多くて土地不足に悩む、貧しい地域の農民を集団で満州に移住させ、満州に日本と同じ村の名前をつけて「分村」と呼びました。また「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」を編成して、多くの青少年を満州に送り込みました。
 日本の敗戦までに、日本人の満州移民の総数は約29万人にのぼりました。日本人のほかに、満州に強制的に移住させられた朝鮮人もいました。日本は「満州国」政府に対して、現地の中国人農民から土地や家を安く買い上げ、または強制的に取り上げて、日本移民に与えるように指示しました。

 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺


 駱中洋(男、67歳)の証言

 1937年には、私は陸軍第64軍の156師、466旅、931団の現役兵で、南京防衛戦に参加しましたが、12月13日に南京が陥り、私たちは捕虜にされました。日本軍は南京を占領するや、たちまち大虐殺を始めました。その時の痛ましい様を思い起こしますと、いまだにありありと目に浮かびます。
 12月13日の朝、私は城内の興中門の傍らの城壁の上から、水道用ズック製パイプで城外に滑り出しました。私が逃げ出た後、道路はみんな散り散りになった兵と一般の人とで、ひしめき合っていました。私は長江を渡って行こうと思いましたが、岸辺に泊まっている何隻かの大きな汽船には、人がぎっしり詰まっていて、1人として入っていかれず、重すぎるらしく、船出もできませんでした。我々まとまりのない部隊が、上新河の方向に突っ込んで行って囲みを突破しようとしたりしましたが、どれも成功しませんでした。そこで水西門の方向に転じて前進しましたが、半分行った所で、一万人余りの身に寸鉄も帯びていない同胞が、少数の日本軍に包囲されているのを見出しました。そしてすぐ又、兵士と民衆とがたくさん、続々とやってきて、全部で2万人余りほどになりました。
 午前7時ごろ、私も人の群れの中にいて、日本兵が機関銃をたくさん、ずらりと据え付け、銃口を中国人に向け、みんなには銃口に顔を向けて、1人1人ひざまずくように命じているのを見ました。私は内心、もしも日本兵が突然機関銃で掃射したら、地べたにひざまずいている人たちは、1人も逃げられずに、全部命を落とすに違いない、と思いました。私はそこで周りの人たちに、急いでこの場を離れて逃げよう、と勧めました。けれども彼らは、「国際法で捕虜と無辜の民衆とを殺害してはならないことになっている、恐れるな」と言って私の勧告を聞かず、行こうとしませんでした。私は2人動員しただけで、3人でゆっくり移動し、歩いては止まり歩いては止まりし、何と言うことなしにしゃべっているといった方法で、日本軍が気付かないでいる隙に私たちその場を離れて、一里ほど離れた住民の草葺き小屋まで行って隠れました。
 私たちは草葺き小屋で日本軍が包囲した人の群れをじいっと見ていましたが、ひとしきりしても、日本軍はまだその人たちへの射撃は始めませんでした。けれども日本軍の増援部隊が到着するや、直ちに行動を始めて、外側を包囲している兵力を増強しました。日本軍の銃には全て剣が付けられ、小銃、軽機関銃、重機関銃の銃口を、一律に人の群に狙いを付ける射撃の姿勢がとられました。もう少ししたら、又その群を三汊河の方向へ行かせ、日本軍は両側と後ろとで銃を構えて駆り立てるのでした。・・・(続く)

 

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより



戦争をふせぐ世界



「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月8日水曜日

平頂山事件

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 「満州国」の出現

平頂山(へいちょうざん)事件と大規模な弾圧

 日本は満州を占領した後、東北人民の抵抗闘争を弾圧しようと多くの残虐事件を引き起こしました。平頂山事件は、その一例です。1932年9月16日、抗日ゲリラに撫順(ぶじゅん)炭鉱事務所を襲撃された日本当局は、報復のために、撫順の日本軍守備隊と憲兵隊200人余りを出動させ、撫順近くの平頂山村を包囲しました。全村3000人余りの村民を一ヵ所のくぼ地に集め、機関銃を使ってほとんど全員を殺害したのです。女性や子ども、老人も一緒でした。
 こうした民衆に対する虐殺事件は、老黒溝(ろうこくこう)事件、土龍山(どりゅうさん)事件などをはじめとして、その他の地域でも多く引き起こされました。日本の憲兵は、各地で大規模な逮捕と検挙を行ない、残酷な拷問(ごうもん)を加えて自供を迫り、「反満抗日」のメンバーと見なした多くの人々を殺害しました。数多くの罪の無い人々がこのような弾圧に巻き込まれ、過酷な刑罰を受け、無念の死をとげていったのです。

 ■チチハル憲兵上等兵・土屋芳雄の証言(朝日新聞山形支局『聞き書き ある憲兵の記録』朝日新聞社より)

 伍長の助手として拷問に加わった。連日のように、なぐるけるの暴行だ。そして、木刀(ぼくとう)責めや水責め、つるし上げなどにエスカレートする。どの取調室からも、憲兵の怒号と、容疑者の悲鳴が絶え間なく聞かれた。ある軍曹が調べた王社長の背中は、一面紫色に変色してはれ上がり、たてに横に皮膚が裂け、血がにじみ出していた。それでも軍曹は拷問の手を休めなかった。

 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 李高山(男)の証言

 私は本籍が広東省の茂名市後街錦光書室で、1925年に生まれましたが、11と12の時に父と母があいついで世を去りました。生活のために、私は13の時に国民党の部隊に行って、広東軍154師の三営三連で勤務兵になりました。それは丁度1937年の末で、日本軍が上海を攻めていて、私はその部隊が上海へ行って防衛任務を引き継ごうというのに付いて行きました。部隊はまず蘇州へ行くのに、鉄道線路が既に壊されていたので、歩いて進んだのですが、我々がまだ着かない前に、守備に当たっていた部隊がもう撤退してしまったので、我々も南京まで撤退して来ました。
 1937年12月13日に南京が陥落し、その日私たちは宝塔橋一帯で長江を渡って逃げようと思いましたが、川面には船がなく、渡れませんでした。夜になって、挹江門(ゆうこうもん)から城内に入ろうと思ったのに、城門が既に土嚢(どのう)でふさがれていたので、闇に乗じて、縄でよじ登って城壁を越えましたが、明くる日の朝、挹江門内の大通りで日本軍に武装解除され、捕虜になりました。私たち大群がみんな後ろ手に縛られ、暗くなって日本軍に八字山公館の何軒かの洋館へ引っ立てられ、1人と1人が後ろ向きにくくられて、家の中に立たされたのが、みんなで何百人もでした。およそ8時か9時頃に、日本軍が突然機関銃で窓から家の中の人の群に向かって猛烈に掃射し、大部分がその場で撃ち殺されました。私は身体といい顔といい一面に血しぶきを浴びましたが、傷は受けず、何人かの活きている人たちと階段に沿って2階へ逃げました。その時日本軍が一階の死んだ同胞たちの体にガソリンをまき火をつけて燃やしたので、猛烈な煙と火とが一気に2階へ吹き上げてきて、私たち何人かは2階のテラスから跳び降り急いで逃げたのですが、その内のある者は脚を折って走れず、日本軍に殺害されました。私たち6人は夜陰に乗じて壁を乗り越えある家屋の屋上に駆け上がり、屋上の高殿の後ろに隠れ、丸々5日間飲まず食わずでした。やがて向かいに泊まっていた日本兵に見つかり、私たち6人は縄で後ろ手にされ、近くの沼に連行されて、5人とも日本兵にその場で射殺されましたが、私だけ殺されなかったのは、日本軍が私をまだ余りに小さいと見たからしく(その時私はやっと13でした)、頭をなでたり、からかったりし、やがては日本軍の部隊に連れて行き、クーリーをさせました。この部隊は「金野三騎兵部隊」だったと覚えていますが、数日後に、この部隊が夫子廟の状元鏡から武漢へ転進になり、「金野三部隊使用人」と書いた紙切れを私にくれたので、私は寧海路の難民区に身を寄せました。私は南京大虐殺の生き残りで証人なのです。(劉相雲が記録)



  
 
「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが



平和をつくる世界



ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
 この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
 国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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