2008年12月24日水曜日

1937年 南京 12月24日

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
12月24日から日本軍による「査問工作」(敗残兵狩り)がはじまる。(~38年1月5日)
日本の憲兵隊が市民と難民の登録をおこない、身体検査をして民間人と判定した場合は「居住証明書」(中国語で安居証といった)を交付した。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月24日
 昨夜灯をともした赤いアドヴェントシュテルン(クリスマスに使う星型のロウソク立て)を今朝もう一度念入りに箱に詰め、ジーメンスのカレンダーと一緒に鼓楼病院へもっていった。女性たちへのクリスマスプレゼントだ。
 この機会にと、ウィルソン先生が患者を見せてくれた。顔中銃剣の傷だらけの婦人は、流産はしたものの、まあまあ元気だった。下あごに一発銃撃を受け、全身にやけどを負った男性もいた。ガソリンをかけられて、火をつけられたのだ。この人はサンパンをいくつか持っている。まだ二言三言口がきけるが、明日までもつまい。体の三分の二が焼けただれている。
 地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。
 銃剣の傷が四つ。一つは胃のあたりで、指の長さくらいだった。痛みを訴える力すらなく、病院に運ばれてから二日後に死んだという。

 この一週間、おびただしい数の死体を見なくてはならなかった。だから、こういうむごたらしい姿をみても、もはや目をそむけはしない。クリスマス気分どころではないが、この残虐さを是非この目で確かめておきたいのだ。いつの日か目撃者として語ることができるように。これほどの残忍な行為をこのままや闇にほうむってなるものか!

 私が病院に出かけているあいだ、フィッチがわが家の見張りをしてくれた。まだ当分は兵隊たちにおそわれる心配があるので、難民だけにしておくわけにはいかない。うちの難民は350人から400人くらいだとばかり思っていた。だが、韓によると今では全部で602人。なんとこれだけの人間が庭(たった500平方メートル)と事務所に寝泊りしているのだ。男302人、女300人とのこと。そのうち10歳以下の子どもが126人。ひとりは、やっと二歳になったばかりだ。14人いるジーメンスの従業員や使用人、またその一族はこれには入っていないので、全部入れると650人くらいになるのではないだろうか。・・・
・・・・
・・・・・この二週間、ただ苦しみしか味わわなかったのだから。私もおまえたちのために心で祈っている。世にも恐ろしい光景を目にして、私たちはふたたび子どものころの無垢な信仰へと立ち返った。神、ただ神だけが、この恥ずべき輩、人を辱め、殺し、火を放っている無法集団から私をお守りくださるのだ。

 神よ守りたまえ。私たちが今味わっている苦しみを、いつの日かおまえたちが味わうことのないように!この祈りを胸に、今日の日記を終えよう。ここに残った事を悔いてはいない。そのために、多くの人命が救われたのだから。だが、それでも、この苦しみはとうてい言葉につくせはしない。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月24日 金曜日
 明日はクリスマス。10時ごろ私の執務室に呼び出されて、-師団の高級軍事顧問と会見することになった。さいわい、大使館付の年配の中国人通訳を同伴してきた。ここの避難民一万人のなかから売春婦100人を選別させてもらいたいというのが日本軍側の要求であった。彼らの考えでは、兵士が利用するための正規の許可慰安所を開設することができれば、何の罪もない慎みある女性にみだらな行為を働くことはなくなるだろう、というのだ。以後は女性を連行しないことを彼らが約束したので、物色を始めることを承知した。その間、軍事顧問は私の執務室で腰をかけて待っていた。かなりの時間が経過してから、彼らはようやく21人を確保した。こうした物色が行われたことを聞きつけて逃げ出した女性や、いまなお身を隠している女性もいると彼らは考えている。大勢の少女が次々に私のところにやってきて、残りの79人は品行正しい少女の中から選ぶのか、とただしたが、私としては、私が言って阻止できるのであれば、そういうことにはならないはずだ、と答えるのが精一杯だ。・・・・・
・・・・・・・・
 何人かの女性が涙ながらに話してくれた報告を確認するため、4時30分、金陵大学に出向いた。
避難民の中から何人かの男性が選別されたが、彼らは、すぐに身分が確認されない場合は殺される運命にある、というのだ。
 多くの女性が恐ろしい窮地に直面している。夫と一緒に家にとどまれば、夫は銃剣を突きつけられて家から追い出され、妻は兵士に強姦される。夫を家に残して金陵女子文理学院にくればきたで、夫は連行されて殺害される危険にさらされる。
 校門に警備隊や警邏隊を配置してからは、うろうろ入ってくる兵士のグループはほとんどなくなった。おかげで精神的負担が大いに減った。
 大きな火災がいまだに南と東の空を照らし出している。どうやら、どの商店も徹底的に略奪され、焼き払われたようだ。南京を見たいとは思わない。荒れ果てた街になっているに違いないからだ。
 城内の状況はいくらかよくなっているそうだ。今日アメリカ大使館を訪れてわかったが、外界との接触は依然として断たれている。

「Imagine9」【合同出版】より


世界は、

9条をえらび始めた。



・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)

・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。 (モンゴル、60代・男性)

・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)

・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。 (中国、40代・男性)

・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2008年12月23日火曜日

1937年 南京 12月23日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月23日
 昨夜、総領事館警察の高玉清地親氏来宅。外国人が受けた物的損害の一覧表を作ってもらいたいとのこと。外国人が住んでいる、あるいは住んでいた家のリストを、なんと今日の昼までに作らなければならない。・・・・・・地区ごとに分担を決め、時間までにちゃんと仕上げた。それによると、ドイツ人の家で略奪にあったのは38軒。うち、一軒(福昌飯店)は燃やされてしまった。だがアメリカ人の被害はるかに甚大だ。全部で158軒にものぼる。
 
 リストの完成を待っていた時、ボーイの張が息せき切ってやってきた。日本兵が押し入り、私の書斎をひっくり返して、2万3千ドルほど入っている金庫を開けようとしているという。クレーガーと一緒にかけつけたが、一足違いで逃げられた。金庫は無事だった。
 昼食の時、日本兵が3人、またぞろ塀をよじ登って入ってきたので、どやしつけると、もう一度塀をよじ登って退散した。・・・・・・私が本部に戻る直前、またまた日本兵が、塀を乗り越えようとしていた。今度は6人。・・・・・・・思えば、こういう目にあうのもそろそろ20回ちかくなる。

 午後、高玉氏に断固言い渡した。私はこういううじ虫を2度とわが家に踏み込ませない。命がけでドイツの国旗を守ってみせる。それを聞いても高玉は動じる様子もない。肩をすくめ、それで一件落着だ。「申し訳ないが、警官の数が足りないので、兵隊の乱暴を抑える事ができないんですよ」

 6時。家へ向かって車を走らせていると、中山路の橋の手前が炎に包まれていた。ありがたいことに、風向きはわが家と逆方向だった。・・・・・・・これが組織的な放火だということぐらい、とっくにわかっている。・・・・・・・・
 わが家の難民たちは、雨の中、庭でひしめきあい、おそろしくも美しく燃えさかる炎を息を呑んで見つめていた。もしここに火の手がまわったら、この人たちはどこにも行き場がないのだ。彼らにとっての最後の希望、それが私だけなのだ。

・・・・・・・・
 クリスマスだからといって、友人の靴屋が古いブーツの底を張り替えてくれた。そのうえ、皮の双眼鏡カバーまで作ってくれたのだ。お礼に10ドル渡した。ところが靴屋は黙って押し戻した。張が言った。「そりゃ、受け取れませんよ」私に深い恩があるから、というのだ!

 今日、シンバークが棲霞山から持ってきてくれた手紙には(彼は、江南セメント工場~南京間を1時間半で往復できる)、棲霞山の1万7千人の難民が日本当局にあてた請願書が添えてあった。あちらでもやはり日本兵が乱暴のかぎりを尽くしているのだ。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月23日 木曜日
 クリスマスまであと2日。例年のこの時期のキャンパスとは大違いだ。・・・・・・
 午後2時、高級軍事視察員が将校3名を伴って来訪し、難民が生活している建物の視察を要望した。城内が平穏になりしだい、避難民に帰宅を促すつもりであることをくり返し伝えた。城内の事態はよくなってきているので、避難民たちはすぐに帰宅できると思う、と彼らは言っている。
 私たちの隣人で、虎踞関路からやってきた孫さんは、現在はキャンパスの東の中庭で生活している。彼女の話では、昨夜、60人ないし100人ほどの男性(ほとんど若者)が金陵寺南方の小さな谷間へトラックで連れて行かれ、機関銃で射殺されたあと、一軒の家に運び込まれ、火をつけられたそうだ。私は夜間に見られる多くの火災は、略奪や殺戮を隠蔽するために起こされたものではないかと、ずっと以前から疑っていた。学院の使い走りの少年も生物学科の使用人の息子も殺されてしまったのではないかと、ますます心配がつのる。
 食料はますます乏しくなってきている。ここ何日間も肉は食べていない。いまや街ではどんな品物も買えない。鶏卵や鶏肉さえも、もはや手に入らない。
 今夜は8時30分に消灯する。人目につくといけないので、実験学校ではろうそくしか使っていない。
 道路が開通したらすぐにも、フランシス陳、李さん、陳さんを南京から脱出させたいと思っている。というのも、若い人たちはあまり安全ではないと思うからだ。
 メリー・トゥワイネンの家が徹底的に略奪された。外国人が家の中にいればともかく、そうでない場合にはほとんどの住宅が略奪をこうむった。みな忙しいので、家にいることなど不可能だ。
 今日は雨が降っている。ベランダで寝ている人たちを、ともかく建物の中に押し込まなければならない。これまで数週間も続いた晴天は大いなる恵みだった。


「Imagine9」解説【合同出版】より


9条がゆきわたった世界


 「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
 「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人々が、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
 第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
 国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。
同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。



日本国憲法

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2008年12月22日月曜日

1937年 南京 12月22日

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
12月22日、松井石根中シナ方面軍司令官は海軍の水雷艇に便乗して南京を去り、長江を下って上海に向かった。・・・・・・

 松井大将が南京を離れてのち、南京占領中の中シナ方面軍の主力部隊も次々と新たな作戦地域へと移動していった。中国の首都を落としたから国民政府も屈伏して戦争が終結し、晴れて自分たちは日本に凱旋できると思い込んでいた兵士たちの期待は裏切られ、祝賀気分もすでに失せていた。
 上海派遣軍司令部が南京城区と湯山鎮、句容、秣陵関などの近郊区の占領維持のために残留させたのは、中島今朝吾中将を師団長とする第16師団(京都)だった。さらに、第13師団が長江北の六合県一帯を警備することとなった。
 第16師団こそ、華北戦線から上海戦に投入されて転戦の負担と犠牲を強いられたうえに、南京攻略戦に駆りたてられ、「南京一番乗り」をめざした部隊であった。南京城の攻防でも最強の教導総隊を相手に多数の犠牲を出したため、それだけ中国軍民にたいする倒錯した敵愾心が強く、中島師団長の傍若無人の性格ともあいまって、軍紀弛緩のいちじるしい部隊だった。そのため、南京における日本軍の残虐事件の数量だけは減少したが、あいかわらず、虐殺・強姦・略奪・放火などの蛮行が続いた。・・・・・・・・

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月22日
 軍事警察本部からだといって日本人が2人訪ねてきた。日本側でも難民委員会をつくることになった由。従って難民はすべて登録しなければならない。「悪人ども」(つまり中国人元兵士)は特別収容所に入れることになったといっている。登録を手伝ってくれないかといわれ、引き受けた。
 そのあいだも、軍の放火はやまない。火事が上海商業儲蓄銀行のそばの家、つまりメインストリートの西側にまで拡がったら、とはらはらしどおしだ。あのあたりはもう安全区に入っている。そうなったらわが家も危ない。仲間と安全区の中を片付けていたら、市民の死体がたくさん沼に浮かんでいるのを見つけた。(たった一つの沼だけで30体あった)。ほとんどは手をしばられている。中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。


 わが家の難民はいまだに増える一方だ。私の小さな書斎だけでも6人が寝ている。オフィスと庭も見渡すかぎり難民で埋まっており、燃えさかる炎に照らされて誰もが血のように染まっている。今数えただけでも、7ヶ所で火災がおこっている。

 私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には発電所の労働者が54人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこに行くように。
 ところが、なんとそのうちの43人が処刑されていたのだ!それは3,4日前のことで、しばられて、河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。政府の企業で働いていたからというのが処刑理由だ。これを知らせにきたのは、同じく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの2人が撃たれ、その下じきになったまま河に落ちて、助かったということだった。

 今日の午後、酔っ払った日本兵に中国人が銃剣で首を突かれた。それを知って助けにいったクレーガーとハッツの2人も襲われた。ハッツは椅子を使って身を守った。だが、クレーガーの方は日本兵にしばられそうになった。やけどした左手を包帯でつっていなければ、そうならなかっただろうが。・・・・


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月22日 水曜日
 今朝は機関銃や小銃の音が頻繁に聞こえる。単なる訓練だろうか、それとも、さらに多くの無辜の民衆が射殺されているのだろうか。
 急に気力が尽きてしまい、ここ何日も続いた緊張感と悲しみで疲れ果ててしまった。・・・・・
 今日は避難民に粥を出していない。理由は処理能力が追いつかないということだけだ。目下、配給方法を改めようとしているところだ。貧しくて米を買えない人たちには、目印の赤い札を服に縫い付けてもらう。そうすれば、今後はその人たちが先に配給を受けることになる。・・・・・・
 理科棟では、2つの部屋とホールと屋根裏だけを開放して、およそ1000人が収容されている。そうしてみると、文科棟には2000人を収容しているに違いない。文科棟の屋根裏だけで1000人近くいるそうだ。夜間には渡り廊下に1000人ほどがいるに違いない。今夜フィッチ氏がやってきて、収容しきれない人たちのために文史資料棟を開放してもらいたいかどうか、私たちに尋ねてくれたので、もちろん、そうしてもらいたい、と答えた。・・・・・・・・・・・・


 毎晩、25人の警備兵がキャンパスに派遣されている。彼らが配置された最初の晩、いくつかの不幸な事件が発生した。昨夜は何事もなく平穏だった。今夜も昨夜と同じ方式、つまり、日本兵には外を警備してもらい、中は私たちが警備するという方式を取ることを上手に提案した。・・・・・
 依然として外界と接触することはできない。

「Imagine9」解説【合同出版】より


9条がゆきわたった世界


 みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。


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2008年12月21日日曜日

1937年 南京 12月21日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月21日
 日本軍が街を焼き払っているのはもはや疑う余地はない。たぶん略奪や強奪の跡を消すためだろう。昨夜は、市内の6ヵ所で火が出た。
 夜中の2時半、塀の倒れる音、屋根が崩れ落ちる音で目が覚めた。わが家と中山路の間にはもう1ブロックしか家が残っていない。そこに燃え拡がるおそれがあったが、運良く難をのがれた。・・・・
・・・・・・・
 アメリカ人の絶望的な気分は次の電報を見るとよくわかる。
 ほかに方法がないので、日本大使館に頼んでこの電報を送ろうというのだろう。だがこれでは何もかも筒抜けだ。日本は承知するだろうか?

 南京、1937年12月20日、在上海アメリカ総領事館 御中。
 重要な相談あり。アメリカの外交官、南京にすぐ来られたし。状況は日々深刻に。大使および国務省に報告乞う。マギー、ミルズ、マッカラム、スマイス、ソーン、トリマー、ヴォートリン、ウィルソン。
 1937年12月20日南京日本大使館 御中。海軍基地無線を通じて転送を要請します。
                               M.S.ベイツ

 それにしても、アメリカ人は非常に苦労している。私の場合は、ハーケンクロイツの腕章やナチ党バッジ、家と車のドイツ国旗をこれ見よがしに突きつければ、一応の効き目はあったが、アメリカ国旗となると日本兵は歯牙にもかけない。今朝早く、日本兵に車を止められたので怒鳴りつけて国旗を示したところ、相手はすぐに道を空けた。それにひきかえ、トリマーやマッカラムはなんと鼓楼病院で狙撃されたのだ。運良く弾はそれた。だが、我々外国人に銃口が向けられたという事が、そもそも言語道断だ。・・・・・・・
 我々の収容所にいる中国人の誰かが、妻か娘を強姦されたといって日本兵を殴り殺しでもしたら、一巻の終わりだ。安全区は血の海になるだろう。つい今しがた、アメリカ総領事館あての電報が日本大使館から打電を拒否されたという知らせが入った。そんなことだろうと思っていた。

 午前中にガソリンを残らず本部へ移させた。中山路でこれからまだ相当数の家が焼け落ちるのではないかと心配だからだ。そういう火事の前兆はもうわかっている。突然トラックが何台もやってくる。それから略奪、放火の順だ。

 午後2時、ドイツ人やアメリカ人など全員ーつまり外国人が全員鼓楼病院前に集結して、日本大使館へデモ行進を行った。アメリカ人14人、ドイツ人5人、白系ロシア人2人、オーストリア人1人。日本大使館あての手紙1通を手渡し、その中で人道的立場から以下の3点を要求した。

1、街をこれ以上焼かないこと。
2、統制を失った日本軍の行動を直ちに中止させること。
3、食糧や石炭補給のため、再び平穏と秩序が戻るよう、必要な措置をとること。
 デモに参加した者は全員が署名した。

我々は日本軍の松井石根司令官と会談し、全員が彼と握手した。大使館では私が代表して意見を言い、田中正一副領事に、日本軍は町を焼き払うつもりではないかと思っていると伝えた。領事は微笑みながら否定したが、書簡のはじめの2点については軍当局と話し合うと約束してくれた。だが、第3点に関しては、耳を貸さなかった。日本人も食糧不足に苦しんでいるので、我々のことなど知ったことではないというのだろう。

 そのあと、まだ日本大使館にいるときに、海軍将校からローゼンの手紙を受け取った。彼は南京に非常に近いところに停泊しているイギリス砲艦ビー号に乗っているのだが、まだ上陸を許されていない。これ以上多くの人間に事情を知られたくないのだろう。・・・・・・・・・


 ローゼン書記官よりジョン・ラーベあての手紙
南京を目前にして、1937年12月19日
イギリス砲艦ビー号船上より

ラーベさん、
昨日から南京市を目の前にしながら上陸する事ができません。

皆さんのご様子、それからドイツ人の家が無事かどうかお知らせください。
なお、ここからは大使宛の無線で連絡が取れます。
当方にもいろいろな事がありました。このことはいずれお目にかかった折にお話します。
この手紙が日本軍を介して貴君に届くかどうかわかりませんが、とにかくやってみます。(無事返事をいただけるといいのですが)。
よろしく。   ハイル・ヒトラー!             敬具
                        ローゼン

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月21日 火曜日
 毎日がうんざりするほど長く感じられる。毎朝、どのようにすれば日中の12時間を過ごせるだろうかと思案する。
 朝食のあと、例の25人の警備兵が昨夜及ぼした(女性2人が強姦された)件について事情を聴取した。しかし、こうしたことには慎重に、しかも臨機応変に対処する必要がある。・・・・・・


 1時30分、アチソン氏の料理人と一緒に車でキャンパスの西の方角に向かった。料理人は、75歳の父親が殺されたと聞いていたので、是非確認したかったのだ。私たちは、道路の中央に老人が倒れているのを見つけた。老人の死骸を竹やぶに引き入れ、上にむしろをかけた。老人は、危害をこうむることは絶対にないと言い張って、大使館で保護をしてもらうことを拒んでいた。
 2時に大使館に着いたが、・・・・・・・・私たちは領事に、大変申し訳ないが、あんなに大勢の兵士に石炭や茶やお菓子を出すこともできないし、それに、夜間に派遣してもらう憲兵は2名だけで、昼間は1名のはずではなかったか、と言った。領事はとても察しのよい人で、昨夜は25人もの警備兵がキャンパスにいたにもかかわらず、万事うまくいったわけではないことを理解した。
 午後、城内にいる外国人全員で、日本軍のためだけでなく南京の中国人20万人のためにも、南京に平和を回復するよう求める請願書を提出した。私は、ついさっき日本大使館から帰ってきたばかりだったので、みなに同行しなかった。
 日本大使館を出てから、今度はアメリカ大使館の使用人と一緒に三牌樓にあるジェンキン氏宅へ行った。彼の家は、アメリカ国旗を掲揚し、日本文の布告や東京宛の特電の文を掲示することによって護られていたにもかかわらず、徹底的な略奪をこうむった。ジェンキン氏が信頼していた使用人は車庫で射殺されていた。彼は雇い主の家を出て大使館に避難することを拒んでいた。
 かつて南京に住んだことのある人なら、今の街路がどんなありさまになっているのか想像もつかないだろう。これまでに見たこともないほどひどい惨状だ。路上にはバスや乗用車が引っくり返り、すでに顔の黒ずんだ死体があちこちに転がり、捨てられた軍服がいたるところに散乱し、住宅や商店はすべて焼け落ちているか、そうでなければ、略奪されたり打ち壊されたりしている。安全区内の街路は混雑しているが、安全区外では日本兵以外はほとんどだれも見かけない。・・・・・・・
 ・・・・歩いてキャンパスに戻る途中、悲嘆に暮れた男性が近づいてきて、助けてもらえないか、と言った。27歳の妻が女子学院から帰宅したばかりのところに、3人の日本兵に押し入られた。彼は家から追い出され、妻は日本兵に捕らえられてしまった、という。
 今夜はきっと6000人ないし7000人(いや9000人ないし1万人?)の避難民がキャンパスにいるに違いない。私たちはわずかな人数で対処しており、疲れ果ててしまった。こんな激務の後どのくらい耐えられるかわからない。
 現在、大きな火災が北東から東へ、さらに南東の空を照らし出している。毎日、夜はこうした火災が空を照らし、昼間はもうもうとあがる煙によって、いまなお略奪と破壊の行為が続いている事がわかる。戦争の生み出すものは死と荒廃である。
 私たちは外界との接触を完全に断たれている。何が起こっているのか全くわからないし、こちらから外界にメッセージを送ることもできない。校門から外を眺めていると、門衛が、1日1日が1年のように思え、人生から一切の意味が失われてしまった、と言ったが、全くその通りだ。先が見えないのが悲しい。かつては活力にあふれ、希望に満ちていた首都も、いまや空っぽの貝殻のようだ。哀れを誘う悲痛な貝殻だ。
 何日も前に作成した無線電報がいまだに送られないでいる。

「Imagine9」解説【合同出版】より


ひとりひとりの安全を

大事にする世界


 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。

 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。


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2008年12月20日土曜日

1937年 12月20日 南京

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月20日
 委員会本部に日本人将校が来ていた。南京一のホテル、首都飯店を片付けたいので作業員20人集めてくれないかという。このホテルには日本軍の参謀将校が泊まることになっている。私は16人世話した。昼にはこの将校が自分でトラックにのせて連れ帰るうえ、5中華ドル支払われるという約束だった。これが日本軍が示したはじめてのまともな対応だった。中国人たちもあきらかにいい感じを受けていた。・・・・・
・・・・・・・・
 午後6時、ミルズの紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員が訪ねてきた。守山記者はドイツ語も英語も上手で、あれこれ質問を浴びせてきた。さすがに手慣れている。私は思っているままをぶちまけ、どうかあなたのペンの力で、一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。守山氏は言った。「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから」
 いまこれを書いている間にも、そう遠くないところで家がつぎつぎ燃えている。その中にはYMCA会館も入っている。これは故意の、もしくは軍部の命令による放火ではないだろうか。
・・・・・・・
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月20日 月曜日
 悲惨と苦難のうちに明け暮れる近頃では、快晴の天気だけが唯一の天恵であるように思われる。
 8時から9時まで私は正門に立ち、比較的に年齢の高い女性に対し、彼女たちの娘を保護するために金陵女子学院が使えるように、自宅へ引き返してほしいと説得に努めた。みな、建て前としては承諾してくれるものの、帰宅するのを嫌がっている。彼女たちが言うには、白昼に日本兵が再三再四やってきては、ありとあらゆる物を略奪して行くのだそうだ。
 10時から12時まで執務室で、日本大使館に提出するため、キャンパスにおける日本兵の所業について公式報告書を書こうとしたが、無駄な努力だった。というのは、日本兵を追い出しにきてくれと、キャンパスのあちらからもこちらからも呼び出しがかかるからだ。・・・・・・
 3時に日本軍の高級将校が部下数人を伴ってやってきた。建物内と避難民救援業務を視察したかったのだ。将校がキャンパスにまだいる間に日本兵が来てくれる事を大まじめに願っていた。中央棟にひしめく避難民の視察を私たちが終わったとき、果たせるかな、北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵2人が寄宿舎から女性5人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。大急ぎで行ってみると、彼らは私たちの姿を見て逃げ出した。一人の女性が私のところに走り寄り、ひざまずいて助けを求めた。将校は兵士を叱責したうえで放免した。その程度の処置で、こうした卑劣な行為を止めさせることはできない。
 午後4時、・・・・・日本大使館に連れて行ってもらった。再び実状を伝え、使用人2人の送還と、日中の憲兵派遣を要請した。・・・・・
 驚いたことに、夕食のすぐ後、今夜の警備要員として憲兵25人がキャンパスに派遣されてきた。どうやら、午後発生した事件の効き目があったようだ。・・・・・・・
 今夜は渡り廊下にも避難民がいっぱいで、おそらく6000人以上がいるだろう。今夜は東の空が明るい。城内では略奪が続いている。

「Imagine9」解説【合同出版】より


ひとりひとりの安全を

大事にする世界


これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
 緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。

 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。


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2008年12月19日金曜日

1937年 12月19日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
歩兵第65連隊第7中隊の大寺隆上等兵の陣中日記はこう書きとめている。
12月19日
午前7時半整列にて清掃作業に行く。揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に驚く。石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後2時までかかり作業終わる。昼食は3時だ。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月19日
・・・・・・寧海路にある本部の隣の建物には防空壕があって、20人ほどの女性がいたが、ここへ日本兵が数人暴行しに侵入してきた。ハッツは塀を乗り越え、やつらを追い払った。広州路83~85号の難民収容所から助けを求める請願書が来た。

 南京安全区国際委員会 御中
 ここに署名しました540人の難民は、広州路83~85号の建物の中にぎゅうぎゅうに押し込まれて収容されています。
 今月の13日から18日にかけて、この建物は3人から5人の日本兵のグループに何度も押し入られ、略奪されました。今日もまたひっきりなしに日本兵がやってきました。装飾品はもとより、現金、時計、服という服、何もかもあらいざらいもっていかれました。
比較的若い女性たちは毎夜連れ去られます。トラックにのせられ、翌朝になってようやく帰されるのです。これまでに30人以上が暴行されました。女性や子供たちの悲鳴が夜昼となく響き渡っています。この悲惨なありさまはなんともいいようがありません!
 どうか、我々をお助けください!

   南京にて、1937年12月18日
                                  難民一同

いったいどうやってこの人たちを守ったらいいのだろう。日本兵は野放し状態だ。・・・・・
・・・・・・・・


18時
 日本兵が6人、塀を乗り越えて庭に入ってきた。門扉を内側から開けようとしている。なかの一人を懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。だが、大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、すぐにひっこめた。全員また塀を乗り越えて戻っていくことになった。・・・・・
 わが家の南も北も大火事になった。水道は止まっているし、消防隊は連れて行かれてしまったのだから、手の内ようがない。・・・・・・庭の難民は、300人だか400人だか正確には分からないのだが、むしろや古いドア、ブリキ板で掘っ立て小屋を作って、少しでも雪と寒さを防ごうとしていた。だが困ったことに、なかで料理をはじめてしまったのだ。火事が心配だ。禁止しなければ・・・・・・・



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月19日 日曜日
今朝もおびえた目付きをした女性や少女が校門から続々と入ってきた。昨夜も恐怖の一夜だったのだ。たくさんの人がひざまずいて、キャンパスに入れてほしいと懇願した。入れはしたものの、今夜はどこで寝てもらうことになるのだろう。・・・・・・歩いて学院へ戻ってくると、娘をもつ母親や父親、それに兄弟たちが、彼女たちを金陵女子学院にかくまってもらいたいと何度も懇願した。中華学校の生徒を娘にもつ母親は、昨日自宅が何度となく略奪をこうむり、これ以上は娘を護りきれない、と訴えた。
 それから、日本兵の一団を追い出してもまた別の一団がいるといった具合で、キャンパスの端から端まで行ったりきたりして午前中が過ぎてしまった。南山にはたしか3回行ったと思う。その後、キャンパスの裏手まで来た時、教職員宿舎へ行くようにと、取り乱したような声で言われた。その2階に日本兵が上がって行った、という。教職員宿舎2階の538号室に行ってみると、その入口に一人の兵士が立ち、そして、室内ではもう一人の兵士が不運な少女をすでに強姦している最中だった。日本大使館に書いてもらった一筆を見せたことと、私が駆けつけたことで、二人はあわてて逃げ出した。卑劣な所業に及んでいるその二人を打ちのめす力が私にあればよいのだがと、激怒のあまりそう思った。日本の女性がこのようなぞっとする話を知ったなら、どんなに恥ずかしい思いをすることだろう。・・・・・


「Imagine9」解説【合同出版】より



戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界へ


 また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。

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2008年12月18日木曜日

1937年 12月18日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
歩兵第65連隊第7中隊の大寺隆上等兵の陣中日記はこう書きとめている。
12月18日・・・昨夜まで殺した捕虜は約2万、揚子江に二ヶ所に山のように重なっているそうだ。7時だが未だ片付け隊は帰ってこない。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
最高司令長官がくれば治安がよくなるのかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながら外れたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様だ。なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやをおさめた。
 私が家にいる間は問題はない。やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。だが、中国人に対してはそうではなかった。兵士が押し入ってきた、といっては、絶えず本部に呼び出しがある。そのたびに近所の家に駆けつけた。日本兵を二人、奥の部屋から引きずり出したこともあった。その家はすでに根こそぎ略奪されていた。・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・
 中国人が一人、本部に飛び込んできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたと言う。言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで!・・・・・

 家に着くと、ちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。すぐに彼は将校に追い払われた。その時近所の中国人が駆け込んできた。妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で4人だということだった。我々は直ちに駆けつけ、危ないところで取り押さえる事ができた。将校はその兵に平手打ちを食らわせ、それから放免した。
 再び車で家に戻ろうとすると、韓がやってきた。私の留守に押し入られ、物をとられたと言う。私は体中の力が抜けた。・・・・・次から次へと起こる不愉快な出来事に、実際に気分が悪くなってしまったのだ。・・・・・・・

18時
危機一髪。日本兵が数人、塀を乗り越えて入り込んでいた。中の一人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣を放り出し、難民の少女におそいかかっていた。私はこいつを直ちにつまみ出した。逃げようとして塀をまたいでいたやつは、軽く突くだけで用は足りた。・・・・
・・・・・・・
 寧海路五号にある委員会本部の門を開けて、大勢の女の人や子供を庭に入れた。この人たちの泣き叫ぶ声がその後何時間も耳について離れない。我が家のたった500平方メートルほどの庭や裏庭にも難民は増えるいっぽうだ。300人くらいいるだろうか。私の家が一番安全だということになっているらしい。私が家にいる限り、確かにそういえるだろう。そのたびに日本兵を追い払うからだ。だが留守のときは決して安全ではなかった。・・・・・・
・・・・・・・
悲しいことに、鼓楼病院でも看護婦が何人か暴行にあっていた。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月18日 土曜日
 今は毎日が同じ調子で過ぎていくような気がする。これまで聞いた事もないような悲惨な話ばかりだ。恐怖をあらわにした顔つきの女性、少女、子供たちが早朝から続々とやってくる。彼女たちをキャンパス内に入れてやることだけはできるが、しかし、みなの落ち着く場所はない。夜は芝生の上で眠るしかない、と言い渡してある。具合の悪いことに、寒さがかなり厳しくなっているので、これまで以上の苦痛に堪えなければならないだろう。比較的に年齢の高い女性はもちろんのこと、小さい子供のいる女性に対しても、未婚の少女たちに場所を譲るため、自宅へ帰るよう説得を強めているところだ。・・
・・・・・・
たいていの場合、立ち退くように説得すればそれですむのだが、中にはふてぶてしい兵士がいて、ものすごい目付きで、ときとしては銃剣を突き付けて私をにらみつける。今日南山公寓へ行き、略奪を阻止しようとしたところ、そうした一人が私に銃を向け、次には、一緒にいた夜警員にも銃を向けた。
 昨夜恐ろしい体験をしたことから、現在、私のいわば個人秘書をしているビック王を同伴して日本大使館へ出向くことにした。・・・・・・・・・・
・・・・・・・
そこで、私たちの困難な体験のこと、また金曜日の夜の事件のことも報告し、そのあと、兵士たちを追い払うために持ち帰る書面と、校門に貼る公告文を書いてほしいと要請した。両方とも受け取る事ができて、言葉では言い表せないほど感謝しながら戻ってきた。田中氏は物分りのよい人で、心を痛めていただけに、自らも出向いて、憲兵二人に夜間の警備をさせるつもりだ、と言ってくれた。降車する際大使館の運転手にチップを渡そうとすると、運転手は、「中国人が壊滅的な打撃をまぬかれたのは
、ごく少数ではあるけれど外国人が南京にいてくれたからです」と言った。
もしこの恐るべき破壊と残虐が抑止されないとしたら、一体どういうことになるだろうか。昨夜はミルズと二名の憲兵が校門に詰めてくれたので、久しぶりに何の憂いもなく安らかに就寝できた。
 私がこの執務室でこれを書いている今、室外から聞こえてくるわめき声や騒音をあなたたちに聞いてもらえたらよいのだが。この建物だけで600人の避難民がいると思うが、今夜はきっと5000人がキャンパスにいるのではないだろうか。今夜はすべてのホールに、そしてベランダにも人があふれていて、ほかには場所がないため、彼女たちは渡り廊下で寝ている。・・・・・・・

「Imagine9」解説【合同出版】より


戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界


「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。

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