2008年11月29日土曜日

南京事件の日々

南京が攻略された時、南京に残って安全区を作り、そこに避難してくる避難民を守った外国人たちがいた。
南京難民区で活動した外国人たち【ここであげたうち、ラーベがドイツ人である以外は、すべてアメリカ人】(「南京事件」笠原十九司著 岩波新書)より引用

ジョン・ラーべ
 ジーメンス社南京支社支配人。ナチス党支部長代理。南京安全区(難民区)国際委員会委員長、帰国後南京事件をヒトラーに報告、対中・対日政策の変更を願ったが、逆にゲシュタポに逮捕される。

ジョン・マギー
 アメリカ聖公会伝道団宣教師。南京国際赤十字委員会委員長、南京安全区国際委員会委員、日本軍の蛮行を厳しく批判すると共に、良心的な行動をとった日本人将兵についてもきちんと記録している。

アーネスト・フォースター
 アメリカ聖公会伝道団宣教師。南京国際赤十字委員会書記。カメラが趣味で、多くの記録写真を残している。

ルイス・スマイス
 金陵大学社会学教授。南京安全区国際委員会書記。社会学者として南京攻略戦の被害状況を調査書にまとめた。

ジョージ・フィッチ
 YMCA国際委員会書記。中国蘇州に生まれ、中国語が堪能で南京安全区国際委員会のマネージャー役を務める。

マイナー・ベイツ
 金陵大学歴史学教授。南京安全区国際委員会委員。委員会の中心メンバーとして、財務実務や日本大使館への抗議交渉を担当した。知日派としても知られる。

ロバート・ウィルソン
 金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師。南京国際赤十字委員会委員。南京占領時、唯一の外科医師として医療活動に従事。

ミニー・ヴォートリン
 金陵女子文理学院教授。宣教師。南京国際赤十字委員会委員。強姦・暴行を防ぐために献身的な活動を続けた。1940年アメリカに帰国し、翌年自殺。

明日からは、ラーべとヴォートリンの日記をもとに南京事件をどのように描写したかを見ていきたい


{IMAGINE 9}より【合同出版】より
想像してごらん、
おたがいに戦争しないと
約束した世界を。


Imagine,
A world that promises
not to fight wars with each other


戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にうすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)


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2008年11月28日金曜日

南京大虐殺and IMAGINE 9

日中戦争では、日本刀が広く使われた事が、『「百人斬り競争」と南京事件』(笠原十九司著)を読むとよく分かる。南京攻略戦の途中から百人斬り競争を始めた、二人の少尉は戦後南京の裁判で処刑されたが、その二人はたまたま大新聞の記事になって有名になったから処刑されたのであり、その他にも沢山の日本人兵士が日本刀で、中国人を斬った。それが戦いの最中なら正当性はあるが、残念ながら、敗走する兵を後ろから斬ったり、捕虜にした無抵抗な兵士を据え物斬りしたりもした。前述の百人斬り競争の中身も、このように斬られたものがいたという。
 ともかく、中国戦線に於いては日本刀が威力を振るった。
著書に載っている一例をあげる。地方紙「新愛知新聞 三河版」
【隊長からもらった日本刀で敵の首32!新城町の剣道選手・・・君の痛快な武勲をきく】
(1938年6月17日)
・・・・・・・・・
隊長より特に剣道の腕を見込まれ、隊長所持の伝家の日本刀贈与の栄光に浴し・・・徐州攻撃参加の激戦には真っ先に振りかざして突進、真っ向当竹割と敵兵の首12個を吹っ飛ばした。すでに幾多の戦闘にても18個の首を切り落としており、衛兵勤務の立哨中敗残兵2名が出没したが、このときなどは敵は無茶苦茶で簡単に斬り落とすことができた。現在刀の刃はボロボロに濡れているが零れているが、切れ味は大丈夫だ。
 合計32首を葬ったが、凱旋までには50個を血祭りにあげる覚悟だから安心していてくれ。

このような記事がいろいろな地方紙に武勲として紹介されていた。当然その当時の日本は国民こぞっていけ!いけ!モードであったのだから。
敵国の中国人を沢山斬ることに何の疑問もはさまなかっただろう。たとえ、それが無抵抗なものであっても。勿論捕虜を斬るとか、敗残兵を斬るというのは戦時国際法違反である。


{IMAGINE9}【合同出版】より

想像してごらん、
武器をつくったり
売ったりしない世界を。


Imagine,
A world that doesn't
Make or sell weapons.



紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)

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2008年11月27日木曜日

南京大虐殺andIMAGINE9

南京攻略戦は現地の師団の独断専行によるものであったが、勿論軍中央にも南京攻略を積極的に進めるべきだという勢力もあり、それが力を持つようになった。
 11月20日、天皇が直属する最高戦争指導機関である大本営が設置され、24日には天皇臨席のもとに、参謀本部、陸軍省、軍令部、海軍省の最高首脳部が出席して第一回大本営御前会議が開かれた。開かれたということは、本格的な戦闘に入ったということだろう。
 12月1日、大本営は「中シナ方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第8号)との南京攻略を下令して、中シナ方面軍の独断専行を正式に追認した。
 12月14日、昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」が下賜(かし)された。
 陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉
中シナ方面の陸海軍諸部隊が上海に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京戦史資料集Ⅱ』)
 
大元帥陛下にどのような情報が伝わったか分からないが、中国では以下のような事が起こっていた。
「陣中日記」の続き。
12月27日
午前8時、野菜の徴発に出る。漢中門を出た所には五、六百の死体が真っ黒に焼かれ折り重なって倒れている。焼けただれた皮膚が黄味を帯びて全く見苦しい。戦闘が間遠になっている関係か気持ちが悪くなった。あちこちにこのような無残な死体が散乱していた。
 大きな橋を渡りさらに進む。道端にはさらに遺棄死体が転がっている。・・・・・こじんまりとした部落につく。当部落には避難民が多く集まっているが大多数は老人か子どもである。・・・・・・・・・・・・・(「牧原日記」)
12月31日
逃散兵が河の波打ち際に五,六百名ほど殺されて投げられていた。(「上羽日記」)

{IMAGINE 9}より
想像してごらん、
軍隊のお金をみんなの
暮らしのために使う世界を。
(アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)
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2008年11月26日水曜日

南京大虐殺

笠原教授の「南京事件」の記述による
    南京大虐殺の定義と範囲
「南京大虐殺事件は、日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対しておこなった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。
 事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦(中国にとっては南京防衛戦)の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
 事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中シナ方面軍が南京戦区に突入した、1937年12月4日前後からはじまる。大本営が中シナ方面軍の戦闘序列を解いた38年2月14日が南京攻略作戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後も続いたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村では相変わらず続いていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考える事ができる。だたし、37年8月15日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民に対する無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。」

「陣中日記」の続き
12月22日 
 於南京 馬家山砲台および同火薬庫一帯南側より清沿山砲台、水道塔、文化学院、漢西陵以北の地区内の捜索を実施す。午後四時掃蕩を了し帰還す。(四中隊日誌」)
 特務兵が何処にいたものかシナ兵を引っ張り出して水溜りのところで殺している。你公(にいこう)が大勢たかって見ている。(「北山日記」)
12月23日
 軍司令部南京に移動と共に大隊は軍直轄となり同地の警備に任ず。(「四中隊日誌」)
12月27日
漢中門を出て、菜っ葉、水牛の徴発に行く。出たところものすごい死人の山である。五百を超えるであろう。折り重なって殺されている。敵兵が主らしいが一般の你公の服装のもいる。大方敗残兵をしたものであろう。道路の両側も敵兵の死体でいっぱいである。(「北山日記」)

{IMAGINE 9}より
想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和なせかいを。

でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのかな?
一つひとつ考えてみよう。

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南京大虐殺

昨日書いた食糧の調達についての補足を書きます。笠原教授の「南京事件」に次のような記述があります。
 南京事件の前史
近代戦においては、大部隊は前線部隊と後方の兵站部隊とに別れ、前線の戦闘部隊は後方の兵站部隊からの食糧・軍事物資の補給を受けながら前進していく。したがって、前線部隊の新たな前進は、兵站部が補給可能な位置まで移動してきてからおこなうのが常識であった。ところが中シナ方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦ではこの作戦常識が無視された。上海派遣軍の場合、もともと上海周辺だけを想定して派遣された部隊であったから、各師団の兵站部隊は最初から弱体だった。それにもかかわらず、前線部隊は「南京一番乗り」をあおられ、補給を無視した強行軍を余儀なくされたのである。そのため、中シナ方面軍は糧秣(食糧と軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。これは「糧食を敵中に求む」「糧食を敵のよる」という戦法であり、通過地域の住民から食糧を奪って食べることであった。
 中シナ方面軍の兵士の多くが予備役兵・後備役兵で、妻子を残しての出征であった。上海戦が終われば帰還できると思いきや、そのまま南京攻略戦に駆り立てられた不満や憤りが兵士間にくすぶっていた。それらの不満のはけ口として、軍の上官たちは性的蛮行を「兵の元気をつくるに却って必要」といった理由で黙認する風潮があった。「中国女性を征服し」「力ずくで女をものにする」という戦場の役得としての婦女陵辱行為が兵士を南京攻略に駆り立てるために黙認された(国府台陸軍病院附軍医中尉 早尾乕雄「戦場に於ける特殊現象とその対策」・・・・・・・・・・・・

 このようなわけで、兵士たちは徴発せざるを得なかった。
12月16日(1937年)
 本日各大隊は掃蕩に出る。多くの敵の焼死体があちこちに転がっている。真っ黒にこげた死体、また黄疸のように真黄になり皮の破れた者等々で、戦いが終わってみると可哀想である。何処の部落に行っても若い男は一人もいない・・・豚一頭殺して早速料理して食う。鍋の徴発にはいかにも困った。苦労した。(「牧原日記」)
12月17日
 白水橋着同地付近の警備に任ず。(「四中隊日誌」)
 敗残兵の掃蕩を行う。多数の捕虜広場にいるを見る。(「増田日記」)
 午前八時半、謝塘を出発。部落を通過ごとに火をつけて南京へ向かう。今夜も2,3ヶ所に火の手があがっている。(「牧原日記」)
12月18日
 白水橋西北方地区掃蕩のため大西伍長以下21名午前8時30分出発、午後0時20分帰隊す。(四中隊日誌」)
 ちょう発に出る。面白し。洋服を着るやら、トランクをさげるやら、種種様々の服装でもはや凱旋気分いっぱいだ。(「上羽日記」)
 八時に食事を終わる。皆の者は何時とはなしに徴発に出る・・・あめ、もち米、唯米、それに醤油等、色々と徴発品があったので当番も大助かりだった。(「牧原日記」)
12月21日
 太平門の入口に死体五百名ほどうちころし、無残につんであった。人間ははかないものなり。腹を突き破り、頭、顔など所きらわず切った死体、砲車などなかなか奮戦の跡を思わせる。(「上羽日記」)
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2008年11月25日火曜日

南京大虐殺

日中戦争では、日本軍には捕虜と言う言葉はなかったようである。日本軍人は死ぬまで戦うべきだとして、捕虜になることは最大の恥辱だとされるような風潮があった。1941年には「戦陣訓」が出て、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」という捕虜否定思想の徹底になった。ましてやもっと蔑視、軽視していた中国軍の捕虜に対しては、なおさらその権利を認めなかった。
 中国で戦っていた日本軍(皇軍)は後方支援がなかったから、前進したら、夜営する場所、食糧はすべて、自分たちで見つけなければならなかった。民家に押し入り、食糧や寝床を占拠した。勿論人がいれば殺した。自分たちは正義の戦いをしていると錯覚し、中国人を人とも思わなかったふしがある。人としてどのように扱うか全く考えていなかったようだ。
 中国のその当時の首都南京に入っても、状況は変わらず、当番を決めて、食糧をあさっていた。(徴発していた。)
敗残兵や武器を捨てて民間人に成りすましている(便衣兵)と思われる人などを片っ端から捕まえては、殺してしまった。本来、捕虜を処刑する時、戦時国際法にのっとって、裁判にかけてから刑を執行するのだが、それもしなかった。
 大量の捕虜がでれば、その人たちに食べさせる食糧も必要だ。だが、その時の日本軍には全くの予備の食糧などないのだから、現地指揮官も、どうしていいのか分からなかったのだろう。パニック状態になっていたと思われる。
陣中日誌の続き・・・・
12月15日
話によれば城内北方に敵武装解除したる兵1万5千人いて、これを機関銃で囲んでいるそうな。また、紫金山のトーチカ内に一ヶ師団ほどいて、これも囲んで守っているそうな。ちょう発に行く。面白い、何もかも引っ張り出してさがして行く。(「上羽日記」)
12月16日
南京東側地区掃蕩のため午前7時30分露営地出発、硝石村に向かい前進す。情報によれば南京東地区には敗残兵多数あるもののごとし。連隊主力の掃蕩により敗退する残敵を捕捉殲滅せんとす。
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2008年11月24日月曜日

南京大虐殺

今、私は多くの日本人が出来るだけこの問題には触れたくない・忘れたいと思っている問題を取り上げている。
 でも、加害の事実ははっきりと認識しなければ、日中の真の友好はないだろうし、中国だけでなく、アジアとの共生も難しいと思う。大東亜共栄圏などというまやかしの政策で侵略したのだから。
 笠原教授によると「南京大虐殺の主因は日本軍が南京を防衛する中国軍に対して徹底した「包囲殲滅戦」、つまり中国兵の皆殺し作戦を実行したところにある。その背景には南京攻略戦は「暴戻なる抗日シナのよう懲(日本に歯向かう乱暴な中国を打ち懲らしめる)」のための戦いだという傲慢な考えと、中国軍には戦時国際法を適用しなくても国際的には問題にならないという蔑視と、さらに中国人を「チャンコロ」「シナ人」と蔑称して人間以下とみなす差別意識があった。中島今朝吾第16師団長みずから「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片っ端よりこれを片づくることとなしたる」(「中島今朝吾日記」12月13日)としているように、捕虜は保護せずに虐殺した。
 第13師団山田支隊(若松歩兵第65連隊)も、支隊長山田栴二少将の「陣中日記」に、「12月14日 捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せし所、14777名を得たり。斯く多くて殺すも生かすも困ったものなり」「12月15日 捕虜の始末その他にて本間少尉を南京に派遣し連絡す。みな殺せとのことなり」と書いてあるように、捕虜集団の大殺戮をおこなった。同支隊では16日と17日に長江岸で捕虜を殺戮、18日と19日をかけてその死体を長江に流して片付けたのである。」とある。
 勿論、民間人か、兵士か分からない場合も多々あったので、巻き込まれた多くの一般人も多かったろう。

 昨日の続き・・・
 飛行機残敵掃蕩(「上羽日記」)
 空軍も掃蕩に協力。市の上空を旋回している。午後二時戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。午後12時過ぎ掃蕩から帰る。800名ほど武装解除したらしい。みんな一人残らず殺すらしい。敵兵もよもや殺されるなどと思っていまい。学生が主力らしく大学生なぞ沢山いたという。生かしておけば随分世界文化の発展に貢献する人も有るだろうが惜しいものだ。尊い生命がなんのちゅうちょもなく失われていく。戦争の苛烈な姿をつくづく感じる。(「北山日記」)・・・・

何とも、戦争とはこわいものだ。自分ではしたくないことも強制的にやらされる。
しないと、こっぴどい目に遭うだろう。
皇国日本の軍隊(皇軍)が中国でおこなったことは、何ともむごいことである!!
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