●映画「スパイの妻」と731部隊(2021 10 16加藤講演第2回)
●2021 9 25加藤講演第1回目
●絶望的な核開発!!
●トラウマ
●毒ガスの歴史(フリッツ・ハーバー)
●溥儀(「満洲国」皇帝の生涯)
●2021 9 17 浅井基文講演
●731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
●防疫研究室と昭和天皇の関係
●1940年と2020年の東京オリンピック
●731部隊と国立感染症研究所の問題
●731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
●ABC企画委員会
●731部隊・100部隊展
●記憶の継承を進める神奈川の会
対話前に政治犯解放を 民主派「首相」が訴え―ミャンマー
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
日航機墜落事故の原因を究明せよ!!
《今も胸に 日航機事故36年》最期の様子、知りたい 生データ開示求め訴訟 夫を亡くした吉備素子さん
●加藤哲郎講演会(一橋大学名誉教授)
11月16日(火)18:20~(開始予定)
「新型コロナ・パンデミックと731部隊・100部隊の影」
会場:クリエイトホール11階の視聴覚室(定員72名)
資料代500円
●森川聖詩講演会(神奈川県原爆被災者の会二世・三世支部)
「核なき未来へ 被爆二世からのメッセージ」
11月17日(水)18:20~(開始予定)
会場:クリエイトホール11階の視聴覚室(定員72名)
資料代500円
2020年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート11月16日(火)
・バイオハザード、現代の視点にてッて、コロナを研究しているのが新鮮です。オウム真理教、コロナ対策、保健所、地域の病院のベッド数を減らす。
(70代、市内)
11月16日(火)
・バイオハザード、現代の視点にてッて、コロナを研究しているのが新鮮です。オウム真理教、コロナ対策、保健所、地域の病院のベッド数を減らす。
(70代、市内)
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回
731部隊と人権ー裁判から考える
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
731部隊被害者遺族を訪ねて(お話:大谷猛夫さん)
隠された毒ガス兵器
『従軍日記』 小津安二郎
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
「公文書管理を考える」(4) 磯田道史・国際日本文化研究センター准教授
新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】
1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された
歴史改ざん(「風を読む」)
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日 731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日 731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日 731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日 731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した
8月 731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月 100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1929年12月24日~1930年1月4日、長與又郎、1930年4月22日~?宮川米次、1930年4月23日~?宮川の娘婿の岡西順次郎が中国へ出張しているが
何をやっていたのか?宮川の支那漫談とはどんな内容なのか?
実験医学雑誌第18巻雑報
18巻2号(1934年)
新旧所長送迎会の於ける3教授の挨拶
長與前所長の挨拶
この研究所はこのような事情の下に出來たものでありますから. 我研究所の使命はどこまでも学問の研究が主であることを忘れてはならぬと思うのであります。
伝染病研究所も今度出來上る建築は研究部、作業部、病院全部が彪大なる一堂に集まるのでありましてこのようにまとまった研究所は世界に類がないと思ひます。この建物の内で, 働く所員も亦和衷協同一大家族として全部が協力して進むように願いたい。
繰返して申しますが伝染病研究所の使命は研究が主でありますから、どこまでも研究本位に進んで行っていただきたいと思います。国内に重きをなし海外に名をなすことも全くこの研究所から良い研究がどんどん続出することによる外ないのであります。
病院に患者が多くなり、研究所の製品が多く世間にでるようになることも結構でありますが、これはどちらかと云えば国内的の問題であって伝染病研究所として世界に重きを成す為には我研究所は1にも学問、2にも学問、3にも学問という風にありたいと思います。
重ねて河本博士の御鄭重な御挨拶とあつい御もてなしを感謝します。(拍手)
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
第5 当裁判所の判断
6 被告の立法不作為による損害賠償請求について(争点6)
(3)そこで、上記(2)の前段の判断基準に基づき本件における国会の立法不作為の違法の有無を検討することとするが、その前提として、必要な範囲で、原告らの主張する本件細菌戦の事実の有無について見ておくこととする。
(イ)1940(昭和15)年から1942(昭和17)年にかけて731部隊や1644部隊等によって、次の a.f.g.h の通り中国各地に対し細菌兵器の実戦使用(細菌戦)が行われた。
(エ)( 本件細菌戦によるペスト・コレラ被害の内容・程度)
イ 次に、原告らの主張する被害についてみる。
原告らは、旧日本軍の本件細菌戦により別紙3の「原告らの主張」の別紙「原告及び死亡親族一覧表」記載の通り被害(ペスト又はコレラへの罹患やこれを原因とする死亡)を受けたと主張し、立証としてこれに符号する陳述書を甲号証として提出し(甲142から145までの各1・2、161から163までの各1・2、283から293までの各1・2、295から474までの各1・2)、一部の原告ら(原告呉世根、同何祺綏、同陳知法、同周洪根、同丁徳望、同易考信、同周道信)が本人尋問においてその旨を供述している。大半の原告らについては、それ以上に原告らの上記主張事項を確認する事ができるより客観的な証拠は提出されず、これらの事実の的確な認定の為にはなお証拠の追加提出が可能かどうかが検討される必要があると思われるが、上記原告らの各陳述書及び本人尋問における各供述自体は十分了解し得る説得的なものである。
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難
「1931」斉藤準太郎の日記
三月二十一日
晴 風少し 旗日にて休みなれども射撃アリ 3発で78回割合によく当たった。火を囲んで車中の満期話に花が咲く
地方の人達と云うより満鉄従業員としての人々が 我々の勤務がいかにしておこなわれているかを研究し理解の目でみていただきたいのが 私の心持である
守備隊の兵隊はそれは非常に忙しい。内地の軍隊の比ではない(私は内地の軍隊生活をした事はないが内地から来た人々の話の様子にそのように知った。週番下士が平気で演習に出られるということでも十分知る事が出来る)その中にあって 銃剣術も射撃も各種訓練も内地式にやらねばならないのだ。
衛兵勤務が中隊と分遣隊と合わせ 週に二度ぐらい平均あると言っても それは守備隊の勤務状態や編成や日常の勤務を見ればわかるが それ以外に知ることはできないのであろう。一か月か二か月かに一回の勤務者が こうした味を持った軍隊生活が守備隊の内部に入れば必ず一驚することであろう。一か月半で帰る内地の人たちの恵まれた生活に比較して 二ヵ年の勤務の忙しさにはあまりにかけ離れた生活の差異ではあるまいかしら。
然し決して不平ではない。之も軍隊のような名誉に対する責務である故、喜んで服す。こうしたことが書き出してあるのを見た故、がらになく書いた次第だ。
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅱ 関連部隊・支部
細菌詩集
731部隊を詠む
とべ しゅん(仮名=ペンネーム)
1644部隊
〈経歴〉
1919年生まれ
1940年 中支那防疫給水部栄1644部隊に配属
1944年 帰国。召集解除
■この証言は『詩人会議』(1995年7月号)所収の文章に、これまで発表された詩と文章を加えてまとめたもの。
復員
東京出張を無事に終了して、1週間」と経たないうち、私は「陸、亜、機密第500号」と命令が発令になって、“特殊技術者”として千葉県の下志津陸軍病院に転属ということになりました。内地へ帰還、即日召集を解除するという内容で、栄部隊全体では対象者はわずか3名でした。
その頃、劣勢の濃くなっている中支戦線を一気に回復しようとして、大規模な長沙作戦が計画されており、そのために各支部から人員が部隊本部に終結し始めていました。私の転属命令は、集合してきた、特に同年兵の間に思いがけないほど急速に拡まって「廊下などで私を発見したら、ぶちのめしてしまえ」という、うらやましさから出た流言が私の耳にも入ってきました。実際にぶちのめされることはありませんでしたが、同年兵の気持ちは私にもよく理解できました。
●証言
生体解剖(旧日本軍の戦争犯罪)
中央档案館
中国第2歴史档案館
吉林省社会科学院編
江田憲司
兒島俊郎
古川万太郎編訳
Ⅰ東北
2 華北
4 山西
湯浅謙自筆供述書(1954年11月20日)
1942年4月14日、私は潞安陸軍病院(乙第1837部隊)内の配属で、伝染病と病理実験室の両室の軍医中尉の職務を担当していた。上官の命令によって太原に出張し、太原市小東門街第1軍工程隊(捕虜収容所)内で第1陸軍部長・軍医少将兵頭周吉及び太原陸軍病院院長・軍医中佐佐藤某の命令で、山西省内の各陸軍病院と野戦病院の軍医合わせて約30名を集め、4名の捕虜に対して生体解剖演習を行った。私はそのうちの1名に右肩切断手術を行った。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第7章なぜ日本軍は毒ガス兵器に依存して戦いを行ったのか
2 毒ガス戦に対する参謀本部の意識
イタリア軍・日本軍の毒ガス戦と国際勢力
ここで看過できないのは、日本が、イタリア軍の毒ガス戦とそれに対する国際連盟や諸国の対応から何を学んでいたのか、そしてそれが後の日本軍の軍事行動にどのような影響をもたらしたのかという問題である。その解明は今後の課題だが、もし仮に国際勢力がイタリアの毒ガス戦を止めさせることが出来たら、あるいはエチオピア戦争後に国際間で毒ガス兵器の禁止をより厳密に約すことができたならば、日本軍の毒ガス戦の実行はより困難になっていたはずである。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第7章 残虐な毒ガス戦
動かしようのない事実
付記:将軍の証言
それをオンドルの上や、椅子の上、古靴の中などにまいた。日本軍は古靴の中に毒を仕掛け、わざと捨て、中国の農民が拾うように仕向けた。履けばたちまち足がただれた。既に暑い5,6月だったため、人々は上半身裸で寝ていた。翌朝目覚めると、腕から腿、背中と体中がかゆくなり、水浴びするとかえって赤い湿疹が体中に広がった。2日目、3日目になると水ぶくれができる。大きいものは卓球のボールほどもあり、座ることも横になることもできず、水ぶくれがつぶれると、その水でまたただれが広がる。このびらん性の毒にあたったのは4人。4人は1つのオンドルの上に寝ていたのでこうなった。そのうちの1人が劉湘屏同志であった。
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
●『三光』 中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
核時代39年(1984年)5月初版発行
日本鬼子(リーベンクイズ)
懐柔
捕虜を密偵に仕立てようと画策
大井憲太郎
特捜班長 警佐兼地方保安局属官
〈略歴〉
本籍地 長崎県西彼杵郡
出身階級 雑貨小売商
学歴 私立長崎貿易商業学校4年中途退学
職業 市役所事務員
所属部隊名 旧満州興安総省警務庁特務科
被捕年月日場所 1945年11月25日
長春市祝町朝日ビル3階
年齢46歳
こうして小半時もたったころ、曲はがっくりと首を前に垂れた。せっかくつかんだ大物をこのまま殺しては惜しいと、あわてて下ろして縄を解き、頭から水をぶっかけた。「フーッ」と息を吹き返したので「大丈夫だ」と、そのまま引きずって監房に入れた。曲はすぐ拷問にへこたれると思ったが、思いのほか強情だ、このまま続けると参ってしまう。うまくやれば大手柄を立てられる。一つ手を変えてみようと腹を決め、高粱のうわ汁と岩塩の代わりに漬け葉っぱに少しばかり筋肉を入れてやり、たまには安い一品料理を取って食わせろと棚町に言いつけた。
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。
訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。
米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。
CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。
今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。
連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp
『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)
藤井治夫著
第4章 機密国家の復活
1、大日本帝国と国家機密
戦争と軍事機密
次に訪れた機密保護法令の大改悪は、日露戦争の直後であった。すなわち1908 (明治41)年10月1日、改正された刑法、陸軍刑法、海軍刑法がいずれも施行されることになり、その秘密保護規定は敗戦まで変わることがなかった。各規定は次のとおりである。
刑法
第85条 敵国ノ為二問諜ヲ為シ又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス
軍事上ノ機密ヲ敵国二漏泄シタル者亦同シ
陸軍刑法
第27条 左二記載シタル行為ヲ為シタル者ハ死刑二処ス
1、軍隊又ハ要塞、陣営、艦船、兵器、弾薬其ノ他軍用二供スル場所、建造物其ノ他ノ物ヲ敵国二交付スルコト
2、敵国ノ為二間諜ヲ為シ又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助スルコト
3、軍事上ノ機密ヲ敵国二漏泄スルコト〔以下略〕
海軍刑法第22条2号、3号は、陸軍刑法第27条2号、3号と同じである。続いて翌年には新聞紙条例が改められて新聞紙法となり、出版法とともに敗戦にいたるまで言論抑圧の武器となった。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
Ⅰ 生物・化学兵器を告発する
3、沖縄―核だけなく毒ガスも
沖縄基地の毒ガス事件
事実、沖縄では、琉大男子寮前で行われた毒ガス抗議集会が終了した後、バスで浦添村牧港の米民政府前に向かった学生が、民政府正面入口で毒ガス撤去、軍事基地撤去を叫び、一団が民政府構内の駐車場に突入し、一団が正面入口のポールに掲げられた米国国旗を引きずり降ろし、一団が庁舎内に突入するという事件がおき(『沖縄タイムス』7月26日)、29日には、沖縄県祖国復帰協議会の主催で、「毒ガス兵器撤去要求県民大会」を開き、次の宣言を採択した。
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第十七章 静穏な晩年と昭和の遺産
Ⅳ
佐藤と自民党保守勢力が権力を握っている時期には、高齢の天皇にとって、積極性をとり戻し、国家元首に戻ることを再び夢みることさえできた。彼は外国の高官や王族と会見を続けていた。かつての若いころのように、宮中晩餐会や優雅な園遊会を催した―もちろんそれらの意味は以前とはまったく異なっていたが―。国民体育大会に臨席し、自民党が日本の平和と繁栄のメッセージを世界に伝えるのに協力した。1970年、佐藤は天皇にふたたび訪欧するように勧め、天皇はそれを承諾して、70歳を迎えた翌71年、皇后とともにヨーロッパに向かった。50年前には右翼が彼の旅行に反対した。今回の反対は左派から起こり、彼自身も日本国民も突然のように、忘れていた過去に気づかされた。訪間した7ヵ国、とくにオランダ、西ドイツ、イギリスでは、憤慨したデモ参加者が彼の車列に物を投げつけたり、侮辱したりした。彼らは天皇を平和の象徴とは認めず、当時の日本でまだ一般的に考えられていたように、日本人を戦争のただの被害者とは見ていなかった。天皇と皇后は帰国したが、ヨーロッパでの抗議運動は、「戦争責任」がまだ過去の問題になっていないことを改めて教えた。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
※私が考える、今の異常気象の要因は
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
4、自動車社会の排ガス
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
● 核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future
●核融合もすべきではない!!
核開発に反対する物理研究者の会通信
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より
封印された原爆報告書
水爆実験
JCOの臨界事故
福島第1原発事故
●核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
●日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病
●731部隊(unit731)
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!