●中国侵略戦争
●細菌(生物)戦争
●『BCGと人体実験』 美馬聡昭著
●731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
●防疫研究室と昭和天皇の関係
●1940年と2020年の東京オリンピック
●731部隊と国立感染症研究所の問題
●731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
●情報公開裁判「化学学校記事」「衛生学校記事」
●ABC企画委員会
●731部隊・100部隊展
●記憶の継承を進める神奈川の会
黒井秋夫講演会
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
―医学と人権を考える―
(以下、パネル展の内容)
◎ハンセン病
出来上がった畝を見下ろし、くわに手を置いて一息入れていた時だった。突然、背後から男性職員2人に羽交い締めにされ引きずり出された。必死にもがく男性を押さえ、職員は耳元で言い放った。「おまえの番だ」。連れて行かれた場所は手術室だった。手術台に寝かされた男性はふんどしを看護婦にはぎ取られた。指で性器をぱちぱちとはじく看護婦の顔には薄笑いが浮かんでいた。
沖縄県名護市済井出にあるハンセン病療養施設「沖縄愛楽園」に強制隔離された男性(97)は、1947年ごろ、強制された断種の様子を初めて証言した。今も家族にすら明かせない体験を語るその口調は怒りに満ちていた。「人間のやることじゃない」
ハンセン病は以前「らい病」と呼ばれ、病名そのものに偏見が含まれていた。国は1907年、「ライ予防ニ関スル件」を公布し、31年に「癩(らい)予防法」を制定した。沖縄を含め、全国で患者の強制隔離を進め、「患者根絶」を図った。愛楽園は1938年、設立された。沖縄戦と米統治を経て、今も147人の元患者が暮らす。
不妊手術を強制された男性は20代前半で愛楽園に隔離された。園で出会った女性と恋仲になり、25歳で結婚した。
男性は、隔離された人々への強制不妊が施されていたことは知っていた。愛楽園では園内で暮らすことや、結婚を条件に断種を実施した。入所者名簿を基に、看護婦や職員が対象者を呼び出して施術した。呼び出しに応じないものは探し出して手術台へ連行した。
当時、愛楽園は一つの村のような広さがあり、強制的に連れてこられた人々と医師らの居住区はそれぞれ分かれていた。「断種しないと園におられなかったから、呼び出しに応じた人もいた。だけど、私は園内を逃げ回っていた」
「妻に腹いっぱい食べさせてやりたい」。おびえながらも、農作業に汗を流す日々がしばらく続いたが、園が男性を見逃すことはなかった。
あれから70年余。男性は屈辱的な光景が今も脳裏を離れない。「国にとってね、私らは人じゃなかった。恥よ。恥の子供を残させんと考えていたんだろう」。コンクリートの手術台に男性は全裸で押さえ付けられた。医師は有無を言わさずメスを入れた。
愛楽園内にある病棟。命が宿り膨らんだおなかをめがけ、看護婦が針を突き立てた。薬剤を注射され、母親のおなかから死産で出された赤ちゃんは真っ黒に変色していた。愛楽園は男性への断種だけでなく、妊娠した女性の堕胎も強制していた。
1950年、9歳で愛楽園に収容された金城幸子さん(77)=うるま市=はのちに回復者として実名を公表し、ハンセン病をめぐる社会の責任を長く訴えてきた。その中でも、金城さんにとって強烈な記憶として残る出来事がある。入所以来、金城さんを妹のようにかわいがってくれた女性から聞いた話だった。
その女性が妊娠すると、愛楽園の医師らが堕胎させようと注射をおなかに打ったが、赤ちゃんは生きたまま母胎から産まれた。だが、看護婦は赤ちゃんを体重計の皿に置き、そのまま放置した。赤ちゃんは母親を求めるかのように、小さな手足を懸命にばたつかせた。しかし、誰も手を差し伸べず、赤ちゃんはやがて動かなくなった。「治療されてたら今も生きている命だ」。見殺しにされた赤ちゃんを思い、金城さんの涙は今も止まらない。
ハンセン病患者・回復者の女性は妊娠すると、家族や知人を頼って園外に逃亡し、周囲に知られないよう出産するしかなかった。堕胎させられた赤ちゃんの遺体は、親が自ら園内に埋めた。
51年、9歳だった金城さんは愛楽園内の小屋に偶然入った。普段は施錠され、試験室と呼ばれる場所だった。内部は薄暗い。目を凝らすと、壁際の棚には複数のガラス瓶が置かれていた。中に入っているのは、人間だということが少女の目でも分かった。瓶の高さは30センチほど。胎児だけでなく大人の大きさの手、内臓のようなものまで、それぞれの瓶に入っていた。「こんなことが許された。まるで動物だ」。その衝撃は金城さんの中で怒りに変わった。
愛楽園交流会館などによると、園内の強制断種・堕胎は戦前から行われてきた。断種と堕胎の強制は繰り返されてきたが、「vasketomie(断種)」と記された患者カルテが複数枚残っているだけで、多くはカルテに記載されなかった。ホルマリン漬けの胎児について証言する元患者も多い。しかし、その内容や目的、現存するか否かなど今も未解明な点がほとんとだ。実態が闇から闇に葬られることへ、元患者らの懸念は根強い。
愛楽園自治会は2007年、産まれることを許されなかった赤ちゃんたちを慰霊する「声なき子供たちの碑」を園内に建立した。子どもたちを悼む琉歌が刻まれた。「天と地の恵み しらん水子たや やみの世の嵐 うらみきるな」(天地の恵みを受けずに逝った子よ 縁無き世相を恨まず蓮上の華となり 咲いてくれることを父母は祈っています)
断種を強制された男性は70年がたつ今も、怒りと悔しさで叫び出しそうになる。堕胎された友人の子を布できれいに巻いて一緒に園内に埋葬したこともある。「国による殺人さ。あんた、どう思うね」。男性は赤く腫らした目でこう問い掛けた。 (佐野真慈)
◇ ◇
名護市済井出の愛楽園開園から11月で80年を迎える。19、20日には県内で7年ぶり2回目となる全国「第14回ハンセン病市民学会総会・交流会」も開かれる。回復者の証言などを通し「らい予防法」廃止から22年が経過してもなお残る回復者や家族の苦しみを探る。
・関わった元731部隊員・・・小林六造(戦時中は、731部隊の嘱託。戦後国立予防衛生研究所長、国立癩(らい)研究所長を歴任
隠された毒ガス兵器
『従軍日記』 小津安二郎
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】
1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された
関東大震災と朝鮮人虐殺「なかった」ことにしたい集会、誰が参加するの か?
歴史改ざん(「風を読む」)
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルス。これは、細菌戦(生物戦)ではないのか?
過去に、日本が中国で行なった細菌戦のように。(以下は現在分かっている細菌戦)
日本政府・日本医学界が、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に立ち向かわない限り、オリンピック開催はないであろう。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日 731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日 731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日 731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日 731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した
8月 731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月 100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
【コロナは生物兵器か】人工のコロナウイルスショックによる文明の転換点 船瀬俊介氏が語る
米軍300人が新型コロナの感染が広がる前に武漢にいたという。
新型コロナウィルスを撒いたのは??
10分で学びなおす 「731部隊」より(『週刊現代』より)
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
1929(昭和4)年 実験医学雑誌第13巻雑報
雑報
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
第2部
第1審判決に対する原告団、弁護団の怒りの声と控訴審の決意
第1章 原告団から
日本は道徳を持ち謝罪と賠償を
周 洪根(原告、浙江省義烏市塔下洲)
先ほど申し上げたように私は1930年生まれで、1931年9月18日、私が2歳の時、日本軍が、9.18事件を起こしそれを口実に東北三省に侵攻し溥儀を皇帝に立てて満州国を建国しました。それから華北・中原地域にまで入り、北京や南京まで軍を進めました。私が8歳のとき盧溝橋事件が起こりました。1942年、私が13歳の時、ふるさと浙江省にまでやってきました。1945年、私が16歳の時日本軍が降伏しました。いくら強い国であっても、正義を守らず道徳を持たなければ長く続かないということをここに言いたいのです。ここに来てくださった皆様は平和を愛する方々だと信じています。
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難
●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
三月二日
晴 風少々、中隊予備第二回射撃 炭鉱分遣上番 第二三列車午後七時半 零下三度最上八度
中隊を午前七時四十分出発 風あれども非常に暖かく春風ー今すぐにも芽の出る様な陽気だ 今日は此の間の様な撃ち方をしなくとも大変落ち着いている事ができる 午後四時ニ十分発の列車にて上番故。自分としても射撃は下手だ こんな訳がないと思いながらやはり下手なものは仕様がない。下手なんだから。白旗が出れば笑い チコンカンができては皮肉って本当に二等兵らしい射撃だ 記号板の役を割り当てられたり採点をやらされたり こんなところに来てもなかなか遊ばせてくれない。最後には交代係迄やらされるんだもの。
1 広島への最初の旅
第九回原水爆禁止大会が終わった後、この大会に希望と成功しか発見しない者たちも、失望と崩壊しか見いだせないものたちも、その両極の中間にいる多数の者たちもまた、皆、あの開会式にこの大会の全ての兆候があったと考えるに違いない・・・
例えば、やはり被爆者であり平和運動の現実的な働き手である広島のひとりの老婦人―森滝代表理事の夫人である彼女は論理的かつ具体的な言葉を、魅力と威厳とに満ちて話す―は、この夜の全ての出来事と、老哲学者が群衆の前を去ってからどうしたかということについてこう語るのだった。
唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅰ 731部隊
生体解剖をやらされた
意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・
鎌田信雄(かまたのぶお)
731部隊・少年隊
(経歴)
1923年生まれ
1938年 731部隊入隊
1940年 新京の防疫でペスト感染
1943年 病気療養の為帰国
■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。
私たちは「まぼろしの少年隊一期生」と言われていますが、“まぼろし”というのは、後に正式な形で少年隊の一期から四期が編成される以前の募集だったからです。私の同期は、23~28人ぐらいだったと思います。この時はまだ平房の本部建物は完成していませんでした。ハルビン郊外にあった南棟に接するレンガ造りの建物で石井式濾水機について教えられました。その頃は待遇がよく、貧乏だった私の田舎では見たこともないような御馳走を食べることが出来ました。
●『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』
中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
四 細菌兵器製造の為の大がかりな鼠類収集
関東軍第731部隊昭和20年度畑栗鼠収集計画
方針
本年度の畑栗鼠収集については、関東軍の支援の下、満洲国の行政権力行使を督促し、部隊の現場指導と結合させて、必要数□□□万匹を必ず確保する。
実施要領
1、満洲国政府の協力提供に関しては、総司令官に申請しなければならない。
2、政府の司令と部隊の現場指導を互いに結び付け、関係各省がこの任務を着実に執行するよう求める。
2、(ママ)省側の指導と結び付け、部隊は関係各県・旗に対して具体的な指導を行う。
4、各省との間の買付協定は第659部隊長が署名し、各県・旗との間の買付協定は第659部隊経理課長が署名する。
5、各省の収集量、収集の時期、及び収集する県・旗については付表Ⅰを参照のこと〔付表は省略〕。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第1章毒ガス兵器の製造と教育
3 民間企業は毒ガスの製造にどのように関与したか
民間企業で毒ガスとその原料を製造
表9 陸軍の毒ガス兵器関係の軍需品を納入した民間企業(1934年)
民間企業名 陸軍軍需品納入内容
15、東海曹達株名古屋工場(愛知県) 主要原材料、化学戦資材
16、日本染料製造株(大阪府) 主要原材料、化学戦資材
17、ラサ工業株大阪工場(大阪府) 主要原材料、化学戦資材
18、大阪曹達株尼崎工場(兵庫県) 主要原材料、化学戦資材
19、南海晒粉株青岸工場(和歌山県) 化学戦資材
20、南海晒粉株小雑賀工場(和歌山) 化学戦資材
21、住友化学工業株新居浜工場(愛媛県) 化学戦資材
22、大阪曹達株小倉工場(福岡県) 主要原材料、化学戦資材
(表中、「主要原材料、化学戦資材」と「化学戦資材」とあるのが毒ガスやその原料などを納入していたことを示すと思われる。「特種被服、化学戦資材」とあるのはガスマスクや防護服ないしはその原材料を納入していたことを示すと思われる)
〔出典:陸軍省「陸軍軍需品生産能力調査実施工場名簿」1934年(『密大日記」1935年第2冊所収、防衛庁防衛研究所図書館所蔵)〕
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第1章 「陸軍科学研究所」-日本の毒ガス兵器のゆりかご
化学兵器の研究
日本の国内世論は、軍縮に関しては国際的に見ればはるかに遅れていた。だから、戦争が終わるとすぐに陸軍は欧米各国に技術的中心となるような優れた人材を派遣して各国の軍事技術情報を集めさせた。当時日本のイギリス駐在大使館付き武官であった久村種樹中佐は、特にフランスとドイツに赴き、火薬と毒剤の生産設備を視察し、国内に重要な情報を送ってきた。大戦終わったその年、日本陸軍は兵器と兵器材料の研究を目的とした「陸軍科学研究所」を創設した。
●『三光』 中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
釘うち拷問
残忍極まりない取り調べ
原田左中(はらださちゅう)
憲兵軍曹
〈旧部隊名〉
元関東軍第一特別警備隊第五大隊第一中隊
その弾みを食った中隊長は軍刀を持ったままひょろひょろと2,3歩前によろめき、男の体にどっと突き当たった。
大尉の肩章が男の血でべっとり染まった。きゅっと顔を歪めたと思うと、「この野郎ッ」破(わ)れ鐘のような声で怒鳴った次の瞬間、軍刀は鞘ぐるみ男の肩先に唸りを生じて飛んだ。「ウウーン・・・」男は低いうめき声をあげ、がっくりと首を垂れた。男の肩先は肉が破れ、真っ赤な血がドクッドクッと噴き出した。
「うん、こいつ図太い野郎だ。原田兵長、もっと叩きのめせ、打ち殺して構わん」怒鳴る様にこう言うと、中隊長は震える足取りで軍刀をガタガタ土間に叩きつけながら表に出て行ってしまった。
2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
・731部隊関連の「情報公開裁判」に関する報告
和田千代子(731細菌戦部隊の実態を明らかにする会事務局長)
第2『衛生学校記事』裁判の問題点と争点
②衛生学校『図書原簿』(手書き、1963年~1977年)の中に『衛生学校記事』の記載があり2005年9月まで図書室に保管されていたことが判明されました。しかし被告国は2005年9月に赤線で消されているため、廃棄されたと主張しています。
しかし、廃棄手続きは規則で定められており廃棄簿に記載しなければならないことが判明しています。他の赤線部分にある「廃棄」や「廃棄文書番号」の記載も無いので「廃棄処分」を意味していません。被告国は「廃棄」していないことを裏付ける廃棄簿は「5年」保管の為廃棄して現在保管していないと主張していますが、むしろ赤線が「廃棄」の証拠にはならないことが明白になったと言えます。
DEMO RESE TV「731部隊の真実part1」
・次回『化学学校記事」情報公開裁判は(第16回)東京地裁?号法廷(未定)は
12月16日(水)11:00~になりました。
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。
2、ベトナムにおける生物・化学兵器使用とその背景
アメリカにおける生物・化学兵器の開発
米陸軍が、大量の神経ガス、糜爛ガス(マスタード)を大西洋に投棄しようとしていたことが、マッカーシー米上院議員によって暴露(69年5月)され話題を呼んだことがある。
同議員が調べたところによると、米陸軍は第2次世界大戦中に製造した2万7千トンにのぼる毒ガスを廃棄することになり、貯蔵している基地から大西洋岸のニュージャージー港まで鉄道輸送する計画であった。しかも米陸軍は、この危険物を輸送するための危険防止措置を講じる計画を持たず、今までも毒ガス入りの3ガロン缶を民間機で普通貨物並みの注意で輸送していたと指摘した。
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第13章 遅すぎた降伏
V
大御心に副い奉る事もなし得ず、自ら戈(ほこ)を納むるの止むなきに至らしめた民草を御叱りもあらせられず、かえって「朕の一身は如何あろうとも、これ以上国民が戦火に斃(たお)れるのを見るのは忍びない」と宣わせられ、国民への大慈大愛を垂れさせ給ふ大御心の有難さ、忝(かたじけ)なさに、誰が自己の不忠を省みないものがありましょうか。
和田は繰り返し詔書の目的を述べ、解説を次のように締めくくった。「事ここに至た以上、挙国一家、相倶(あいとも)に神州の不滅を信じ、将来の建設と言う任重くして道遠きこの重大使命のため総力を振て邁進し、誓て国体の精華を発揚し、世界の進運に後れらんことを期せよと、深く今後の国民を御激励遊ばされたのでございます」。こうして天皇の降伏宣言に関する放送が終わると、今度はポツム宣言についてのニース解説が続き、改めて国民に敗北を受け入れるよう促してそのあるべき心構えを説いた。そして、「時局を痛憤する余り、同胞互に傷つけ合い、その結果、経済的、社会的道徳的混乱を惹き起すような事は、皇国減亡の因である事を固く銘記すべきと存じます」として、現実を直視することを訴えたのである。
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
地球の温暖化や異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
●『二酸化炭素温暖化説の崩壊』広瀬隆(集英社新書 2010年発行)
第2章 都市化と原発の膨大な排熱
誰が電力問題を起こしている最大消費者か
加えて、プルトニウムを取り出すのだと言って始まった青森県六ケ所村の再処理工場と、取り出したプルトニウムを増やすのだと言って始まった高速増殖炉もんじゅを合わせると、開発費と建設費、維持費で合計6兆円という大金を使って、どちらも目的を失い、完全に破綻、迷走したままの状態にある。
※私が考える、今の異常気象の要因は
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
4、自動車社会の排ガス
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
●核実験(ウキペディアより)
若くして白血病で亡くなった夏目雅子、本田美奈子、また五輪候補選手だったスイマーが白血病になったのは、放射能の影響ではないのか?
核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アメリカ合衆国
アムチトカ島での核実験
1965年から1971年までにアラスカのアムチトカ島で3回実験が行われた。1971年11月6日の"CANNIKIN"は地下実験最大の5Mt(迎撃ミサイル「LIM-49A スパルタン」のW71核弾頭を使用)であり、各国の抗議を引き起こした。グリーンピースは、この実験を契機として発足した。
水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)
●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future
●核融合もすべきではない!!
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より
・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。
封印された原爆報告書
水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した!!
JCOの臨界事故
福島第1原発事故
●核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
●日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病
●731部隊(unit731)
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!