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「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。人間の自由平等を説いた福澤諭吉。明治の偉人だが、その実体は超国家主義者だとしたら……。『マンガまさかの福澤諭吉』(遊幻舎)の作者・雁屋哲氏が、検証した福澤のウラの顔を本誌に語った。
─「美味しんぼ」の原作者がなぜ福澤諭吉に関心を持ったのですか。
中学高校で教わった通り、福澤諭吉は民主主義の先駆者だと思い込んでいました。ところが30年ほど前にあるきっかけから福澤の「帝室論」「尊王論」を読むと、日本国民は「帝室の臣子(家来)なり」と書かれていて驚いた。世間の福澤諭吉像を覆すような文章がどんどん出てくる。それが興味を持った始まりです。
──あの名言も実は福澤の言葉ではなかった。
代表作「学問のすすめ」の冒頭には「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と言えり」とあります。「言えり」は伝聞体で、本人の言葉ではない。一説によるとアメリカの独立宣言の一部を意訳したとも言われている。つまり、もともと福澤の思想から出た言葉ではないのです。このことは福澤が創立者となった慶応義塾大学のウェブサイトにも明記されています。
──「まさか」ですね。
まさに、まさかの連続でした。「学問のすすめ」だけを読んでも「分限(身の程)を知れ」「(自分の)身分に従え」など、およそ自由平等とは程遠い言葉が次々に出てくる。教育のない者を「無知文盲の愚民」と呼び、そうした人々を支配するには力ずくで脅すしかないと言いきっています。独裁者でもここまで露骨なことは言えません。
──「学問のすすめ」は、教育の大切さを説く本です。なぜ、そんなことを言ったのでしょうか。
教育といっても、福澤は政府が政治をしやすいような人間になるために学問を推奨し、その結果、国民に報国心を抱かせようとしていた。そうなると「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は単なるキャッチコピーに過ぎません。最初にこの言葉に興味を持った人を、民主主義とは反対の方向へ導こうとする。これでは思想的な詐欺と変わりありません。「学問のすすめ」では「大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり」など、人間本来の平等を説いている部分も何カ所かある。これは人が経済的、社会的に成功するかどうかは智を持っているかどうかで、生まれつきの違いはないと福澤が考えていたからです。こうした思想は、中津藩の下級藩士だった父親が身分格差から名を成すことができなかったことが影響しているといわれています。一方で智なき愚人は嫌悪の対象とし、当時の平民を「表向きはまず士族と同等のようなれども、(中略)その従順なること家に飼いたる痩せ犬のごとし」と見下しています。
──福澤が明治15年に立ち上げた時事新報は、当時の新聞が政党機関紙化していたなかで独立を掲げ、一躍日本を代表する新聞になりました。
ところが福澤はその新聞発行の趣旨で、自分が一番やりたいことは国権皇張だと言っています。これは日本の権力を他の国に及ぼすという意味。つまりアジア侵略です。侵略される側からしたらたまったものではありません。日本最大の新聞を発行し、慶応の塾長も務めた人間がこんなことを堂々と述べていたのです。もともと福澤の大本願は日本を「兵力が強く」「経済の盛んな国にする」こと。そのために天皇を国民の求心力の象徴として利用しました。
──富国強兵ならぬ強兵富国とは。つまり民主主義者とは正反対の考えを持っていたということですか。
実際に、日本が朝鮮支配を進めるために福澤が果たした役割は小さくなかった。詳しくはマンガを読んでほしいのですが、朝鮮宮廷内で起きたクーデターを計画したうえで実行にも加担し、明治政府が仕掛けた日清戦争では言論であおりまくった。戦争に勝つと国権皇張ができたと嬉し泣きしています。そのうえ軍は天皇直属であり、日清戦争は外交の序開きだと言うなど、侵略している意識すらなかったのです。戦争になったら国のために死ぬことが大義だと言い、教育勅語を歓迎した人物が民主主義者のわけがありません。福澤は天皇制絶対主義や皇国思想を日本人に浸透させ、朝鮮人、中国人への激しい侮蔑心をあおった。そのレールの上を走り、日本は第2次世界大戦に負けました。アジア蔑視は、現代の日本人にまで尾を引いています。
──しかし、福澤はそうした軍国主義的な思想を自分の新聞で堂々と述べています。それがなぜいまや民主主義の礎を築いた偉人に?
昭和に入り福澤諭吉を高く評価し、その研究に多くの時間を割いた丸山眞男氏の罪です。丸山氏は福澤の言葉のなかから、自分の都合の良い部分だけつまみ食いしました。例えば「市民的自由主義」という言葉を使っていますが、福澤の文章のどこをとってもそんな表現はない。逆に福澤が「人民は政府の馬だ」と述べた部分は一切省いている。丸山氏は福澤の文章の行間を重視したり、著書をバラバラにして再構築する方法を採ったと述べています。それでは一体、福澤が何を言いたかったのかわからなくなります。
──なんのためにそんなことを?
丸山眞男は戦後を代表する知識人。日本に民主主義を根付かせるために、あえて福澤を誤読したとも言われています。ですが、そのためにオリジナルの主張を捻(ね)じ曲げているとしたらとんでもない。多くの人は原本を読まず、丸山氏ら学者の権威に従って福澤を偉人と思い込んでいるのです。
──福澤の思想が、現代の保守政治家たちにも影響を及ぼしているのが問題だと。
安倍晋三首相は2013年の施政方針演説で、福澤の「一身独立して一国独立す」の言葉を使い、日本を強い国にすると言いました。また日本会議は天皇を中心とする大日本帝国的な社会に戻ることを目指しています。これらの考えの最初の一歩を始めたのが福澤諭吉。つまり、福澤が明治の人々に行った洗脳はいまだ続いています。いま日本は、駆けつけ警護という訳のわからぬ言葉で、自衛隊が海外で敵と思った相手を銃撃できる国になりました。人を殺す戦争のできる強い国を目指すのは、まさに福澤の思想です。
──日本会議は皇室を敬愛する国民の心が日本の伝統にあるといいます。でも明治時代前の日本人は、殿様は知っていても天皇は知らなかった時代が長かったのでは?
日本会議の言う日本の伝統とは討幕後の明治時代に意図的につくられたもの。大日本帝国時代のわずか80年の歴史だけをもって、日本の伝統ということ自体がおかしいのです。
(構成 桐島 瞬)
※週刊朝日 2017年1月27日号
福沢諭吉
・「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というのは福沢諭吉自身の言葉ではない。福沢諭吉自身の思想を表したものでもない。
・福沢諭吉自身は、江戸時代からの封建的な身分差別意識を強く持っていた。「民主主義者」ではない。
・天皇は神聖であり、日本人はすべて天皇の臣子である。一旦戦争になったら天皇のために死ぬべきである、と主張する「教育勅語」を歓迎する福沢諭吉が「民主主義者」の訳がない。福沢諭吉は、第2次大戦に日本を引きずり込んだ「天皇制絶対主義」「皇国思想」を日本人に広く浸透させた。
・また明治維新後、明治維新は朝鮮支配を推し進め、その朝鮮支配を巡って、清に日清戦争を仕掛けたが、福沢諭吉はそれを言論で煽り、それだけでなく、自分自身、日本の朝鮮支配を進めるために、朝鮮宮廷内でのクーデタを計画し、その実行に加担した。
・福沢諭吉は朝鮮人、中国人に対する激しい侮蔑心を煽り、それが日本人の朝鮮人差別、中国人差別の意識を深め、ひいては現代までアジアの人々全体に対する差別心を抱かせる元となった。
・「軍国主義」を確立し、しかもその軍を、天皇を最高指導者とし、兵は天皇のために死ぬ「皇軍」とすることに力を尽くした。
・福沢諭吉の「大本願」である「国権皇張」を求めれば必然的にアジア侵略を導くものであって、事実、福沢諭吉は清国の侵略を強硬に主張し、「皇軍による侵略」という1945年の敗戦に至る道は、福沢諭吉が描いた通りになった。
・福沢諭吉こそ、1945年の破滅に突き進むように日本の方向を定め、人々をその方向に駆り立てた張本人の1人だった。
福沢諭吉の台湾に対する方針は、最初から変わりません。
・「欲しいのは台湾の土地であって、台湾人は眼中にない」
・「日本人を多く移住させて、台湾の殖産を日本人のものにする」
・「そのために抵抗する台湾人は容赦なく殺し尽くす」
この3つが福沢諭吉の台湾に対する一貫した態度で、台湾住民の抵抗が激しくなると、それに合わせて激烈になりますが、基本は変わることがことがありません。
旅順虐殺について
・虐殺の始まった1894年11月21日のことです。福沢諭吉の「時事新報」の12月7日付けの紙面にも、次の記事が掲載されています。
「敵兵が抵抗を試みて無残の最期を遂げたもの、多くはその屍は山のように重なり、値は流れて川となり、市街の道路は行く所敵の死体を見ない所はなく、現在この地に生存する清国人は極めて僅かである」
・福沢諭吉は外国でのこの事件の評判が気になっていました。同月30日に掲載された「我が軍隊の挙動に関する外人の批評」では、「(要約)旅順港を攻め落とした我が軍隊の挙動について外国人の中にはあれこれ非難がましい評価するものがいる。双方の戦いは激しく、敵兵に死者が多いのは怪しむに足らない。わが軍の銃剣にかかったのは、無辜の人民ではなく、軍服を脱ぎ捨て一般人に扮した清国兵である・・・開戦以来今日に至るまで、日本軍隊の挙動はほとんど完全無欠で称賛する言葉を探すのに苦労する次第だ」と、日本軍は完全無欠であると強弁しています。福沢諭吉は、旅順の虐殺はなかったものにしようという、伊藤博文以下明治政府の思惑に沿って、旅順の虐殺を否定する論説をしているのです。
朝鮮王妃閔氏虐殺について
閔氏は韓国では明成(ミョンソン)皇后と呼ばれています。時の朝鮮国王、高宗の后(きさき)です。閔氏は美貌で聡明でした。日本政府は、日本の朝鮮支配に、閔氏が邪魔だと考え、閔氏を取り除くことを決めたのです。日本政府はそれまでの井上馨公使の代わりに三浦梧楼陸軍中将を任命しました。
三浦梧楼は、朝鮮国王の実父である大院君と親しい岡本柳之助を用いて、再び大院君を担ぎだし、大院君のクーデタを装って政権につかせ、その大院君の要請に従う形で日本軍を朝鮮王宮に送り込んで、閔氏を殺しました。1895年10月8日の事です。
1895年の12月7日の「28日の京城事変」では、
「先月28日の京城事変では、暴行を行った者の中に外国人もいたし、外国公使館の中にも関係したものいるという。現今の朝鮮は糞土の牆(糞のように汚らしい土で作った塀)であって、腐敗の頂点に達し、政府もあってもないも同然。例えて言えば、野外に遊びに出かけた若者が、謡い騒いだ挙句興に乗って無益の殺生をして憂さ晴らしをするのと変わらない。であれば、朝鮮王妃閔妃暗殺の際の王宮乱入も、今の朝鮮の国情からすれば、野外の遊興、遊びとしての無益な殺生として見るべきだろう」
・朝鮮を糞土の牆(しょう)と馬鹿にするのも、すさまじいものですが、何と福沢諭吉は、朝鮮王妃閔氏の暗殺を、若者たちが憂さ晴らしのためにする「野外の遊興、無益の殺生」と同じ事としてしまったのです。
・「独立自尊」心は「仁義忠孝」が自然にできるようになるためのものだ、と福沢諭吉は言っているのです。
福沢諭吉は「独立自尊」の心構えがあれば「仁義忠孝」を意識的に行なうのではなく、自然に行動すればそれが「仁義忠孝」になると言っているのです。
「仁義」とは授業で決められた人の行うべき道の事です。「忠」とは主君に身も心も従う事。「孝」とは親を大事にするという事だけでなく、親の言う事に従う事です。これこそ「教育勅語」の言う事そのままではありませんか。
「明治憲法」は、国の一切を統治する天皇が人民に与えられたもので、司法・立法・行政の三権が天皇の支配の元にあり、しかも天皇が、「天皇大権」と言って、軍の統帥権や緊急勅令・独立命令など、議会と相談せずに自由に行使しうる権限も認められていました。国民の権利は、法律の範囲内でしか認めておらず、手続きさえ整っていたら、国は人権を犯す法律を作ることが出来ました。
戦前に、人々の思想を取締り、7万人の人を捕らえ、1600人を殺し(中西三洋『治安維持法下の青春』光陽出版、139ページ)、多くの人々を迫害した「治安維持法」も、明治憲法下では完全に憲法で認められていたことなのです。
731を問う!!
2018年11月9日金曜日
『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』
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NHKスペシャル 『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』 20170813
NHKスペシャル『731部隊の真実 エリート医学者と人体実験』その1 マスコミ(165)2017年8月17日・Ⅱ
命を守るべき医学者がなぜ人体実験に手を染めたのか
きょうの未明、午前1時に再放送されたNHKスペシャル『731部隊の真実 エリート医学者と人体実験』を録画しておいて見た。力作である。NHKの良心的な仕事がここにあった。
まずは、冒頭のタイトルが出るまでを詳しく再現してみよう。
ナレーション
関東軍防疫給水部いわゆる731部隊。戦時中、細菌兵器の開発を行った日本軍の秘密部隊です。これまで、厚いベールの被われてきたこの組織、その全貌を知る手掛かりがロシア・モスクワで見つかりました。
【ロシア国立音声記録アーカイブの映像】
担当者の声と映像
これは1949年のハバロフスク裁判のオリジナルの磁気テープです。
ナレーション
当事者たちの肉声を記録した22時間に及ぶ音声テープ。終戦から4年後、731部隊の幹部らを裁くために旧ソ連で開かれた軍事裁判の記録です。
テープの音声
マイクの前に寄ってください。
【被告人たちの映像】
ナレーション
細菌兵器開発のために生きた人間を実験の材料として使ったと証言されていました。
テープの音声 関東軍軍医部長の証言
秘密中の秘密というのは、細菌戦をもって攻撃をやるという研究をやったということと、それから人体実験を行ったという、2つ点であります。
テープの音声 731部隊衛生兵の証言
びらんガスを人体実験に使用して、手とか足、顔がびらんガスにかかってただれて、留置所の中に入っているのを見ました。
ナレーション
731部隊の実験を行っていたのは、中国東北部の旧満州にある秘密研究所。生きたまま実験材料とされ、亡くなった人は3000人に上るともいわれています。
【捕虜が柱に縛られている映像】
なぜ、人体実験はこれほどの規模で推し進められたのか。
【慶応義塾大学や東京帝国大学、京都帝国大学の医学資料や写真の映像】
NHKは、国内外の数百点の資料を収集しました。浮かび上がってきたのは、軍人だけでなく、東大や京大などから集められたエリート医学者たちの、人体実験を主導していた実態でした。
【学者の写真】
京大出身のこの細菌学者は、致死率の高いチフス菌を研究、細菌を詰めた爆弾で、大量感染を引き起こす実験をしていました。【爆弾の図】
【別の学者の写真】
この医学者は、人の手や足を人為的に凍傷に罹(かか)らせる実験をしていたといわれます。【日本兵士の凍傷の写真】
テープの音声 731部隊憲兵隊員の証言
その中国人の手を見ますと、3人は手の指がもう全部黒くなって落ちておりました。残りの二人はただ骨だけ残っておりました。
ナレーション
専門知識をもった医学者が集められ、組織されたことで、実験が大規模に進められていったのです。
731部隊元隊員インタビュー
薬学博士だとか理学博士、だから731部隊っていえばねぇ、そういったその各界の権威が集まっていましたよ。
ナレーション
命を守るべき医学者がなぜ人体実験に手を染めたのか。70年の時を経て明らかになる731部隊の真実です。
タイトル
「731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~」
ナレーション
中国東北部にある都市ハルビン。ロシア人が建設したこの国際都市は、戦争中、日本軍の拠点となっていました。【ハルビンの現在の映像】
ハルビンの郊外20キロ、731部隊の本部跡が今も残っています【破壊された731部隊跡の現在の映像】。破壊された建物の残骸、終戦間際、存在を隠すために爆破されました。
当時の写真です。
部隊は、周囲数キロに及ぶ広大な敷地で、極秘に研究を進めていました。四角い形の3階建てのビルには、冷暖房を備えた最先端の研究室が並んでいたといいます。
その中央に周囲から見えない形で牢獄が設置され、実験材料とされていた人々が捕らわれていたといいます。
731部隊が編成されたのは1936年。当時の日本は旧満州に進出、国境を接し、軍事的脅威となっていたソ連に対抗するため、細菌兵器を開発していたのです。
部隊を率いていたのは、軍医・石井四郎です。【731部隊部隊長・石井四郎の顔写真】
当時、細菌兵器は国際条約で使用が禁止されていました。
しかし、防衛目的の研究はできるとして開発を進めました。
部隊の人数は最大3000人。【竹田宮を中心とする731部隊の集合写真】
石井は、細菌兵器開発のため、全国の大学から医学者を集めていました。
極秘で進められた731部隊の研究
その活動を公けにしたのが、【ロシアハバロフスクの現在の映像】終戦から4年後に旧ソ連が開いた軍事裁判、ハバロフスク裁判でした。
裁かれたのは、731部隊の幹部や関東軍の幹部ら12人。多くの医学者が日本へと引き上げた中、逃げ遅れ、ソ連に抑留された人々でした。
この裁判はこれまで、ソ連が公表した文書しかなく捏造だと批判する声もありました。今回見つかった音声記録では部隊の中枢メンバーが人体実験の詳細を証言していました。
テープの音声 検察側(ロシア語)
人体実験はどのようの行われたのか、できる限り詳しく話してください。【検察側の写真】
テープの音声 731部隊衛生兵・古都証人
昭和18年の末だと記憶しています。ワクチンの効力検定をやるために中国人、それから満人(注:満州人)を約50人余り人体実験に使用しました。
砂糖水を作って、砂糖水の中にチブス菌を入れて、そして、それを強制的に飲ませて細菌に感染させて、そして、その人体実験によって亡くなった人は12~13名だと記憶しています。
ナレーション
医学者たちの指示のもとで、致死率が高い細菌を使って、人体実験を繰り返したと語られました。
テープの音声 731部隊軍医・西俊英の証言
ペスト蚤(注:ペスト菌に感染させた蚤)の実験をする建物があります。その建物の中に約4~5名の囚人を入れまして、家の中にペスト蚤を散布させて、そうしてその後、その実験に使った囚人は全部ペストに罹ったといいました。
生きて監獄を出たものはいない
ナレーション
これは731部隊の隊員が持っていた中国人の写真です。【3人が杭(丸太)に立ったまま縛り付けられている写真】
こうした人々が部隊に送られ、実験材料にされたといいます。
当時の日本軍は、日本に反発する中国やソ連の人たちを匪賊(ひぞく)と呼び、スパイや思想犯として捕えていました。【捕虜の写真】
ロシアで発見された資料です。【『関東軍実兵隊司令部警務部長通達』の写真】
逆スパイにするなどの利用価値がないと軍が判断した人は、裁判を経ずに731部隊に送られたと記されています。その中には女性や子どもも含まれていたと裁判で証言されました。
テープの音声 検察側(ロシア語)
囚人の中に女性がいましたか
テープの音声 731部隊第一部(細菌研究)部長・川島清の証言
おりました おそらくロシア人だと思います【被告人の写真、同上】
(以下、検察側と川島証人のやり取り)
検察 それらの女性の1人は乳飲み子を持っていましたか
川島 持っておりました
検察 人を細菌に感染させた後は、部隊で治療していましたか
川島 治療します
検察 その人間が回復した後はどうしましたか
川島 相当長い期間置きました後に また他の実験に供されるのが常であります
検察 そうしてその人間が死に至るまで実行したわけですか
川島 そういうことになります
検察 そうすると あなたが部隊に勤務中 この部隊の監獄より生きて出たものは一人もいないわけですか
川島 そのとおりであります
731部隊少年隊員へのインタビュー
ナレーション
こうした人体実験に大学から集められた医学者たちは、どうかかわっていたのか。当時を知る元部隊員にたどり着きました。14歳の時に731部地に入隊した三角武さんです。
【731部隊元少年隊員・三角武さんの自宅インタビュー映像】
事実を知ってほしいと、今回初めて取材に応じました。
部隊が保有する飛行機の整備に携わった三角さん。医学者の実験のため囚人が演習場に運ばれた時に立ち会いました。囚人は“マルタ”と呼ばれていました。
三角さん 頭、丸坊主。全部刈ってしまって丸坊主。マルタはみんな丸坊主。杭を打ってね、ずーっと杭を打って、そこにマルタをつないでおくんです。実験の計画に沿って、憲兵が連れて行って何番の杭に誰を縛るか、つなぐとかやるわけね。
ナレーション
三角さんたちは、少年部隊員と呼ばれ、1年間、細菌学などの教育を受けました。指導したのは全国の大学から集められた優秀な医学者でした。
三角さん 薬学博士だとか、理学博士、医学博士なんて言うのが、いっぱいいますからね。だから731部隊といえばそう言った各界の権威が集まっていましたよ。そろっていましたよ。
ナレーション
元部隊員の一人、須永鬼久太さんです。【731部隊元少年隊員・須永鬼久太さんの自宅インタビュー映像】
これまで全貌が知られていなかった医学者たちの関与。その手掛かりとなる貴重な資料を保管していました。731部隊の戦友会が戦後まとめた名簿です。【『帝国陸軍防疫給水部編成総覧』の写真】
須永さん 京大、東大医学部、そういう所が多いですね。
ナレーション
載っているのは731部隊に集められた医学者たちの出身大学と名前です。こうした人々は技師と呼ばれ軍の所属となっていました。
ナレーション
私たちはこの資料だけでなく、現存する部隊名簿や論文などから技師の経歴を洗い出し、確認していきました。
その結果明らかになった内訳です。【日本地図に大学名の映像、そこに人数が書き加えられていく】
最も多くの研究者を出していたのは京都大学。ついで東京大学。
【東北帝国大学1名、東京帝国大学6名、慶應義塾大学2名、北里研究所1名、京都帝国大学11名、京都府立医科大学1名、京城帝国大学2名、満州医科大学3名、その他の満州の研究所12名】
少なくとも10の大学や研究機関から合わせて40人の研究者が731部隊に集められました。
技師となった医学者たちは軍医と並ぶ将校クラスと位置づけられ731部隊の中枢にいました。【ピラミッド型の図のいちばん上が技師、真ん中に下士官など、最下層に衛生兵や少年隊】
エリート医学者が部隊の研究を指導していたのです。なぜこれほど多くの医学者が731部隊にかかわることになったか。取材を進めるうちに、部隊と大学の知らぜらる関係が浮かび上がってきました。
京都帝国大学に731部隊から多額の研究費
最も多い11人の技師が確認された京都大学です。公文書を保存する文書館が取材に応じました。【京都大学文書館の現在の映像】
文書館の担当者
文部省と京都大学の間の往復文書を年ごとに閉じていると、そういった資料ですね。
ナレーション
その中から731部隊と大学の金銭のやり取りを示す証拠が初めて見つかりました。【731部隊からの特別費用の書類】
細菌研究の報酬として現在の金額で500万円に近い金額が研究者個人に支払われていたのです。【1600円の支給を示す資料】
受け取っていたのは医学部助教授だった田部井和(たべい・かなう)です。致死率の高いチフス菌の研究をしていた田部井。【731部隊第一課(チフス)課長田部井和の顔写真】
731部隊設立後間もなく赴任し、研究班の責任者となります。そこでどんな実験をしていたのか。部下が証言をしています。
ハバロフスク裁判の音声テープ 731部隊衛生兵(田部井の部下)古都証人
チブス菌を注射器でもってスイカ、マクワ(うり)に注射しました。そして、それを研究室へ持って帰って菌がどのように繁殖したか、または減ったか等を検査しました。そして、完全に菌が増殖しているのを確かめてから、それを満州人と支那人に約5~6名の人間に対して食べさせました。
音声テープ 検察側(ロシア語)
果物を食べた哀れな人間はどうなったんですか。
古都 全員感染しました。
ナレーション
人体実験をしていたという田部井。同じ時期、京大からは医学者7人が部隊に赴任していました。取材を進めると、教え子たちを部隊へ送ったとみられる教授たちの存在が浮かびあがってきました。【教授たちの写真】
大きな影響力を持っていたのが医学部長を2度にわたって務めた戸田正三です。戸田は軍と結びつくことで多額の研究費を集めていたことがわかりました。それを裏付ける戸田の研究報告書です。【1943年の報告書の写真】
陸軍などから委託された防寒服の研究で8000円、軍の進出先の衛生状態の研究で7000円…(注:ほかの委託研究費も含めて)現在の額で合わせて2億5000万円にものぼる研究費を得ていました。
軍との関係を深めていった戸田。そのきっかけとなったのが満州事変でした。(1931年~)
傀儡国家満州国が建国されると国民はそれを支持します。こうした世論の中で大学は満州の病院などに医師を派遣。現地の人を病気から守る防疫活動【当時の写真】のためとしてポスト争いを始めます。戸田が所属する京大からも多くの医師が派遣されます。東大や慶大などと競いながら【東大 1933年35人→1940年48人、慶応 1936年40人→1940年54人】、京大はその数を倍増させていきました。【京大 1936年36人→1942年75人】
当時戸田は、医学者も国の満州国進出に貢献すべきだと語っていました。
医学部長・戸田正三と731部隊長・石井四郎の関係
戸田の発言【満州日々新聞1936年「移民衛生調査委員会議」より】 俳優による復元音声
今まで未開であったところの東洋の北部を開く指導者になることは、我々に与えられた一大試金石である。
ナレーション
こうした中、大学への影響力を拡大したのが731部隊です。巨額の国家予算が与えられていたといいます。
テープの音声 検察側(ロシア語)
部隊の経費としていかなる金額が供出されていましたか。
テープの音声 731部隊第一部(細菌研究)部長・川島清の証言
確実な数字はただいま記憶しておりませんが、だいたいの数字を申しますと昭和15年度におきましてはだいたい1000万円(現在の金額で約300億円)に近い予算が使われておったように記憶しております。
ナレーション
いまの金額で年間300億円の予算。それを動かしていたのが731部隊の部隊長・石井四郎でした。京大医学部出身の石井は母校の指導教官の一人だった戸田と関係を深めていました。戸田は石井と人事の話もしていたといいます。
戸田の弟子の回顧録【雑誌『国民衛生』】 俳優による再現音声
戸田先生が東京へ出られると石井君と3人でよく会談をした。研究の件もあれば人事の件もあり、先生はよく京大や若い人のために奔走され、そのため占領地の支那本土へも旅行された。
ナレーション
戸田が部隊の研究内容を把握していた文書も見つかっています。教え子が書いた回顧録によれば戸田は中国の731部隊の関連施設を繰り返し訪れていたといいます。
戸田の弟子の回顧録 俳優による再現音声
戸田先生が来ると早速高等官、将校一同を集めて学術講演会が開かれ、和気藹々と部隊の研究を推進された。
ナレーション
戸田と関係が深い教授の研究室からは8人の医学者が、京大全体では11人が731部隊に赴任したことがわかっています。【写真】
ナレーション
京大に次いで多くの研究者が731部隊に集められた東京大学。【東京大学の現在の映像】
取材に対し、組織として積極的に関わったとは認識していないと回答しています。
取材を進めると東大の幹部が石井と交流していた事実が明らかになりました。医学者で東大の総長を務めた長與又郎【顔写真】です。
遺族の許可を得て入手した長與の日記です。【日記の写真】
そこには総長時代から石井と接点があったこと、そして、退任後の昭和15年、731部隊の本部を視察していたことが記されていました。
長與の日記 俳優による再現音声
関東軍司令部に赴き、軍医部長を訪い(おとない)、さらに司令官に面会す。平房(注:731部隊のあった所の地名)に石井部隊を訪い、石井大佐の案内にて事業の一般を見学、水だき(水炊き)の饗応を受く。
ナレーション
この時の記録には、東大から赴任した研究者たちの名前が記されていました。東大からは戦時中、少なくとも6人が集められたことがわかっています。【「長與又郎博士歓迎会出席者」】
東大で開かれた微生物学会の集合写真、石井を囲んでいるのは、全国から集まった名だたる教授たちです。大学の幹部と石井が結びつく中で、優秀な医学者が集められていったのです。
零下50度の外に出し扇風機をあて凍傷にさせる
ナレーション
医学者のなかには、731部隊に送られた経緯を詳細に書き残していた人もいました。
(京都帝国大学医学部講師・吉村寿人の写真)
京大医学部の講師、吉村寿人です。基礎医学の研究で多くの命を救いたいと医学者を志したといいます。国内で研究を続けたいと思いながらも教授の命令には抗えなかったと回想しています。
吉村の回想【「喜寿回顧」】 俳優による再現音声
軍の方とすでに約束済みのようであった。先生は突然、満州の陸軍の技術援助をせよと命令された。せっかく熱を上げてきた研究を捨てることは身を切られるほどつらいことであるから私は即座に断った。
ところが先生は、今の日本の現状から、これを断るのはもってのほかである。もし軍に入らねば破門するから出て行けと言われた。
ナレーション
吉村らが送られた731部隊の秘密研究所。実験のために運び込まれた囚人は年間最大600人に上ったと言われています。【現在の研究所跡の映像】
生理学が専門だった吉村が命じられたのは、凍傷の研究でした。当時は関東軍の兵士たちは、寒さによる凍傷に悩まされていました。【足の凍傷の写真】
その症例と対策を探る目的で、人体実験を行っていた様子が裁判で語られていました。【凍傷実験棟跡の写真】
ハバロフスク裁判の音声テープ 731部隊軍医・西俊英の証言
第一部の吉村技師から聞きましたところによりますと、極寒期において、約零下20度くらいのところに、監獄におります人間を外に出しまして、そこに大きな扇風機をかけまして、風を送って、その囚人の手を凍らして、凍傷を人工的に作って研究をしておるということを言いました。
そうして凍傷が人工的にできた場合は、小さな棒でその指を叩くと、板のように硬くなると吉村は言っておりました。
ナレーション
人間を凍傷に罹らせる実験をしたという吉村。部隊で凍傷研究を進めながら満州の医学会では論文も発表していました。【731部隊吉村の論文「凍傷について」の写真】
論文には様々な条件に人間を置いて実験していたことが記されていました。
絶食3日、一昼夜不眠などの状態に置いてから、零度の氷水に指を30分つけて観察していました。
裁判では吉村の研究室で凍傷実験の対象となった人を実際に見たという証言もありました。
裁判の音声テープ 731部隊憲兵班・倉員証人
人体実験を自分で見たのは、1940年の確か12月ごろだったと思います。
まずその研究室に入りますと、長い椅子に5名の中国人の囚人が腰を掛けております。それでその中国人の手を見ますと、3人は手の指がもう全部黒くなって落ちておりました。残りの2人は指がやはり黒くなって、ただ骨だけ残っておりました。それは、吉村技師のその時の説明によりますと、凍傷実験の結果、こういうことになったということを聞きました。
医学者はなぜ残忍な人体実験に手を染めたのか マスコミ(170)2017年8月24日・Ⅲ
NHKスペシャル『731部隊の真実 エリート医学者と人体実験』その5
世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。
そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。
人間であることを拒絶した者なのです。
そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。
これはハンナ・アーレントの有名な言葉。ナチスのホロコースの最高責任者の一人、アイヒマンのエルサレムでの裁判を傍聴して得た結論である。周りがみんなそうだったからとか、上からの命令に従っただけだとか、そのような、考えることを拒否した人間の犯す悪が最も恐ろしい悪であると喝破したのだ。
アーレントの言うことは当然、731部隊の軍人や生体実験に協力した医学者たちにもあてはまる。ハバロフスク裁判における妙に落ち着いていて淡々とした証言態度からは、「悪の凡庸さ」を感じないわけにはいかない。
今回は、細菌爆弾の実戦使用と、医学者たちがなぜ一線を越えてしまったのか、その背景を描いた部分を紹介する。
ナレーション
部隊から高額の報酬を受けとっていた京大の田部井和。【731部隊第一課(チフス)課長・田部井和の写真】
実験室の研究から実戦使用の段階へと進んでいきます。開発したのは細菌爆弾。大量感染を引き起こす研究を始めていたのです。【細菌爆弾の図の写真】
一度に10人以上の囚人を使い、効果を確かめたと部下が証言しています。
ハバロフスク裁判のテープ音声 731部隊衛生兵(田部井の部下)古都証人
安達の演習場で自分の参加した実験はチフス菌であります。それは瀬戸物で作った大砲の弾と同じ型をした細菌弾であります。
空中でもって爆破して地上に噴霧状態になって、その菌が落ちるようになってました。そして菌が地上に落ちたところを被実験者を通過させたのと、それから杭に強制的に縛り付けておいてその上でもって爆破して頭の上から菌を被せたのと、2通りの方法が行われました。
大部分の者が感染して、4人か5人が亡くなりました。
ナレーション
生きた人間を実験材料にした医学者たち。本来人の命を守るべき医学者はなぜ一線を越えたのか。それを後押ししたとみられるのが日本国内の世論です。
1937年(注:731部隊編成の翌年)日中戦争が勃発。中国側の激しい抗戦で日本側も犠牲が増していきます。日本軍は反発する中国人らを匪賊と呼び、掃討作戦を行っていきます。【日中戦争の映像】
政府もメディアも日本の犠牲を強調し、中国人への憎悪をかり立てました。【当時の新聞の写真。「暴虐極まる匪賊」「匪賊を徹底殲滅」】
世論は軍による処罰を強く支持。匪賊に対する敵意が高まっていたのです。そうした時代の空気と研究者は無縁ではありませんでした。
731部隊以外でも学術界では匪賊を蔑視する感情が広がっていました。それを示す資料が北海道大学で見つかりました。当時の厚生省が主催する研究会が発行した雑誌です。【厚生省予防局優性課内民族衛生研究会、『外国に於ける断種法実施状況』の写真】
染色体を研究する大学教授の講演の記録。満州の匪賊を生きたまま研究材料としたことを公けに語っていました。
北海道帝国大学教授の講演記録【『民族衛生資料』1940年】 俳優による再現音声
匪賊の人間を殺すならば、その報復ではないが、その匪賊を材料にしてはどうかと思いついた。死んだ者は絶対にダメである。染色体の状況が著しく悪くなる。匪賊一人を犠牲にしたことは決して無意義ではありません。これほど立派な材料は従来断じてないということだけはできます。
ナレーション
14歳の時に731部隊に入隊した三角さん。【731部隊元少年隊員】
匪賊は死刑囚だから実験材料として利用してよいと教えられたといいます。
三角さん こういう時代なんだからそうしなきゃ俺たちがやられるんだよと、そういった考えでしたね。だから口には出せないんです。可哀そうだとか、何だとかということは。見ても口には出せないです。出したら非国民だとやられちゃう。そういった雰囲気というか、そういった一般的な風潮がそうだったんです
ナレーション
戦争が泥沼化していった1940年代。731部隊は遂に細菌兵器の実戦使用に踏み込みます。中国中部の複数の年で少なくとも3回、細菌を散布。細菌兵器での攻撃は、国際条約で禁止されていましたが、日本は批准しないまま、密かに使用しました
裁判のテープ音声 731部隊第1部(細菌研究)部長・川島清の証言
私がおりました間のことを申しますと、昭和16年(1941年)に第1回、それから昭和17年に1回、中支において第731部隊の派遣隊は、中国の軍隊に対して細菌兵器を使用しました
ナレーション
さらに民間人にまで感染を広げる目的で、中国の集落に細菌を撒いたと証言されています
川島清の証言 使われる細菌は主としてペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌であることが決定しました。ペスト菌は主としてペスト蚤(ペスト菌に感染させた蚤)の形で使われました。その他のものはそのまま水源とか井戸とか貯水池というようなところに撒布されたのであります
裁判のテープ音声 731部隊衛生兵・古都証人
あの当時、現地に中国人の捕虜収容所が2か所ありました。その人員は約3000名と言われてました
饅頭(マントウ)作りに参加しました。少し冷やしてからそれに注射器でもって菌を注射しました
検察側 その後は(3000個の饅頭を)どうしましたか
古都証人 その収容所へ持ってきて、それを各人に食べるようにして渡して
検察側 そして細菌の入ったその毒の饅頭を食べさせてから、中国人の捕虜をどうしたんですか
古都証人 その現地でもって解放しました
検察側 パラチフスを大量感染させる目的でしたか
古都証人 はい、自分はそのように聞きました
NHKスペシャル『731部隊の真実 エリート医学者と人体実験』その6(最終回) マスコミ(171)2017年8月30日
敗戦ですべての囚人を殺害
医学者たちには特別な列車が用意され、いち早く日本に帰国した
番組は最後に、責任をとらずにまっ先に逃げ帰り、戦後も反省するどころか、医学界の権威として生き続けた医学者たちを静かに告発する。
相変わらず、真実を見つめず、歴史を修正しようとする日本人への警告である。
ナレーション
そして、戦争末期の1945年8月9日、ソ連が満州に侵攻。【当時の映像】
731部隊は直ちに撤退を始めます。部隊は証拠隠滅のため、すべての囚人を殺害。実験施設を徹底的に破壊しました。医学者たちには特別の列車が用意され、いち早く日本へ帰国しました。
部隊のことは一切口外するなと言われた三角さん。この時、死体の処理を命じられました。
三角さん【インタビュー映像】
死体の処理に少年隊来いって引っ張られて行って、死体の処理を各独房から引っ張り出して、中庭で鉄骨で井桁組んで、ガソリンをぶっかけて焼いたわけ。
焼いてね。全部焼き殺して骨だけにして、こんど骨を拾う。いや、戦争っていうものはこんなものかと、戦争ってものは絶対するもんじゃないと……つくづくそう思いましたね。ほんとにね。一人で泣いた……。
ナレーション
人体実験を主導し、日本へいち早く帰国した医学者たち。戦後、その行為について罪に問われることはありませんでした。アメリカは人体実験のデータ提供と引き換えに隊員の責任を免除したのです。
多くの教え子を部隊に送ったとみられる戸田正三は金沢大学の学長に就任。部隊とのかかわりは語らないまま医学界の重鎮となりました。【顔写真】
チフス菌の爆弾を開発していた田部井和(たべい・かなう)。【顔写真】
京都大学の教授となり、細菌学の権威となりました。
凍傷研究の吉村寿人も教授に就任。自分は非人道的な実験は行っていないと生涯否定し続けました。
吉村寿人の回想 『喜寿日記』 俳優による再現音声
私は軍隊内において、凍傷や凍死から兵隊をいかにして守るかについて、部隊長の命令に従って研究したのであって、決して良心を失った悪魔になったわけではない。
ナレーション
当事者たちが口を閉ざす中でタブーとなってきた731部隊。戦後72年となる今年、その歴史が改めて問われています。
医学者をはじめ、様々な科学者の代表が集う日本学術会議です。【日本学術会議、第173回総会の映像】
防衛省から大学への研究資金が急増する中で、いま、大学と軍事研究の在り方が議論されています。
研究者の発言(男性)
軍事研究=兵器研究ではないですよと、兵器研究ではない。軍事研究はもうちょっと幅の広いものだと、こういうふうな認識ではないかと私は思っています。【発言者の映像】
ナレーション
会場では731部隊がアメリカの原爆開発と並んで取り上げられました。
研究者の発言(女性)
科学者の責任ということです。科学者は戦争に動員されたのではなくて、むしろ歴史を見てくると、科学者が戦争を残酷化してきたという歴史があると思います。
ナレーション
いま、私たちに問いかける医学者と731部隊の真実。それは戦争へと突き進む中で、いつの間にか人として守るべき一線を越えていったこの国の姿でした。
今回発見された音声記録。その最後には被告たちが自らの心情を語った発言が残っていました。医学者・柄沢十三夫、人体実験に使われた細菌を培養した責任者でした。戦争が終わってから初めて罪の重さに気づいたと語っています。
ハバロフスク裁判のテープ音声 731部隊軍医・柄沢十三夫の証言
自分は現在平凡な人間といたしまして、自分の実際の心の中に思っていることを少し申してみたいと思います。
私には現在日本に……82になります母と妻、並びに2名の子どもがございます。なお、私は自分の犯した罪の非常に大なることを自覚しております。そうして終始懺悔をし、後悔をしております。私は将来生まれ変わってもし余生がありましたならば(泣き声)自分の行いました悪事に対しまして、生まれ変わった人間として人類のために尽くしたいと思っております。【裁判で証言する柄沢の写真】
文字
この医学者は刑に服した後、帰国直前に自殺したと伝えられている。
(終わり)
NHKスペシャル 『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』 20170813
NHKスペシャル『731部隊の真実 エリート医学者と人体実験』その1 マスコミ(165)2017年8月17日・Ⅱ
命を守るべき医学者がなぜ人体実験に手を染めたのか
きょうの未明、午前1時に再放送されたNHKスペシャル『731部隊の真実 エリート医学者と人体実験』を録画しておいて見た。力作である。NHKの良心的な仕事がここにあった。
まずは、冒頭のタイトルが出るまでを詳しく再現してみよう。
ナレーション
関東軍防疫給水部いわゆる731部隊。戦時中、細菌兵器の開発を行った日本軍の秘密部隊です。これまで、厚いベールの被われてきたこの組織、その全貌を知る手掛かりがロシア・モスクワで見つかりました。
【ロシア国立音声記録アーカイブの映像】
担当者の声と映像
これは1949年のハバロフスク裁判のオリジナルの磁気テープです。
ナレーション
当事者たちの肉声を記録した22時間に及ぶ音声テープ。終戦から4年後、731部隊の幹部らを裁くために旧ソ連で開かれた軍事裁判の記録です。
テープの音声
マイクの前に寄ってください。
【被告人たちの映像】
ナレーション
細菌兵器開発のために生きた人間を実験の材料として使ったと証言されていました。
テープの音声 関東軍軍医部長の証言
秘密中の秘密というのは、細菌戦をもって攻撃をやるという研究をやったということと、それから人体実験を行ったという、2つ点であります。
テープの音声 731部隊衛生兵の証言
びらんガスを人体実験に使用して、手とか足、顔がびらんガスにかかってただれて、留置所の中に入っているのを見ました。
ナレーション
731部隊の実験を行っていたのは、中国東北部の旧満州にある秘密研究所。生きたまま実験材料とされ、亡くなった人は3000人に上るともいわれています。
【捕虜が柱に縛られている映像】
なぜ、人体実験はこれほどの規模で推し進められたのか。
【慶応義塾大学や東京帝国大学、京都帝国大学の医学資料や写真の映像】
NHKは、国内外の数百点の資料を収集しました。浮かび上がってきたのは、軍人だけでなく、東大や京大などから集められたエリート医学者たちの、人体実験を主導していた実態でした。
【学者の写真】
京大出身のこの細菌学者は、致死率の高いチフス菌を研究、細菌を詰めた爆弾で、大量感染を引き起こす実験をしていました。【爆弾の図】
【別の学者の写真】
この医学者は、人の手や足を人為的に凍傷に罹(かか)らせる実験をしていたといわれます。【日本兵士の凍傷の写真】
テープの音声 731部隊憲兵隊員の証言
その中国人の手を見ますと、3人は手の指がもう全部黒くなって落ちておりました。残りの二人はただ骨だけ残っておりました。
ナレーション
専門知識をもった医学者が集められ、組織されたことで、実験が大規模に進められていったのです。
731部隊元隊員インタビュー
薬学博士だとか理学博士、だから731部隊っていえばねぇ、そういったその各界の権威が集まっていましたよ。
ナレーション
命を守るべき医学者がなぜ人体実験に手を染めたのか。70年の時を経て明らかになる731部隊の真実です。
タイトル
「731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~」
ナレーション
中国東北部にある都市ハルビン。ロシア人が建設したこの国際都市は、戦争中、日本軍の拠点となっていました。【ハルビンの現在の映像】
ハルビンの郊外20キロ、731部隊の本部跡が今も残っています【破壊された731部隊跡の現在の映像】。破壊された建物の残骸、終戦間際、存在を隠すために爆破されました。
当時の写真です。
部隊は、周囲数キロに及ぶ広大な敷地で、極秘に研究を進めていました。四角い形の3階建てのビルには、冷暖房を備えた最先端の研究室が並んでいたといいます。
その中央に周囲から見えない形で牢獄が設置され、実験材料とされていた人々が捕らわれていたといいます。
731部隊が編成されたのは1936年。当時の日本は旧満州に進出、国境を接し、軍事的脅威となっていたソ連に対抗するため、細菌兵器を開発していたのです。
部隊を率いていたのは、軍医・石井四郎です。【731部隊部隊長・石井四郎の顔写真】
当時、細菌兵器は国際条約で使用が禁止されていました。
しかし、防衛目的の研究はできるとして開発を進めました。
部隊の人数は最大3000人。【竹田宮を中心とする731部隊の集合写真】
石井は、細菌兵器開発のため、全国の大学から医学者を集めていました。
極秘で進められた731部隊の研究
その活動を公けにしたのが、【ロシアハバロフスクの現在の映像】終戦から4年後に旧ソ連が開いた軍事裁判、ハバロフスク裁判でした。
裁かれたのは、731部隊の幹部や関東軍の幹部ら12人。多くの医学者が日本へと引き上げた中、逃げ遅れ、ソ連に抑留された人々でした。
この裁判はこれまで、ソ連が公表した文書しかなく捏造だと批判する声もありました。今回見つかった音声記録では部隊の中枢メンバーが人体実験の詳細を証言していました。
テープの音声 検察側(ロシア語)
人体実験はどのようの行われたのか、できる限り詳しく話してください。【検察側の写真】
テープの音声 731部隊衛生兵・古都証人
昭和18年の末だと記憶しています。ワクチンの効力検定をやるために中国人、それから満人(注:満州人)を約50人余り人体実験に使用しました。
砂糖水を作って、砂糖水の中にチブス菌を入れて、そして、それを強制的に飲ませて細菌に感染させて、そして、その人体実験によって亡くなった人は12~13名だと記憶しています。
ナレーション
医学者たちの指示のもとで、致死率が高い細菌を使って、人体実験を繰り返したと語られました。
テープの音声 731部隊軍医・西俊英の証言
ペスト蚤(注:ペスト菌に感染させた蚤)の実験をする建物があります。その建物の中に約4~5名の囚人を入れまして、家の中にペスト蚤を散布させて、そうしてその後、その実験に使った囚人は全部ペストに罹ったといいました。
生きて監獄を出たものはいない
ナレーション
これは731部隊の隊員が持っていた中国人の写真です。【3人が杭(丸太)に立ったまま縛り付けられている写真】
こうした人々が部隊に送られ、実験材料にされたといいます。
当時の日本軍は、日本に反発する中国やソ連の人たちを匪賊(ひぞく)と呼び、スパイや思想犯として捕えていました。【捕虜の写真】
ロシアで発見された資料です。【『関東軍実兵隊司令部警務部長通達』の写真】
逆スパイにするなどの利用価値がないと軍が判断した人は、裁判を経ずに731部隊に送られたと記されています。その中には女性や子どもも含まれていたと裁判で証言されました。
テープの音声 検察側(ロシア語)
囚人の中に女性がいましたか
テープの音声 731部隊第一部(細菌研究)部長・川島清の証言
おりました おそらくロシア人だと思います【被告人の写真、同上】
(以下、検察側と川島証人のやり取り)
検察 それらの女性の1人は乳飲み子を持っていましたか
川島 持っておりました
検察 人を細菌に感染させた後は、部隊で治療していましたか
川島 治療します
検察 その人間が回復した後はどうしましたか
川島 相当長い期間置きました後に また他の実験に供されるのが常であります
検察 そうしてその人間が死に至るまで実行したわけですか
川島 そういうことになります
検察 そうすると あなたが部隊に勤務中 この部隊の監獄より生きて出たものは一人もいないわけですか
川島 そのとおりであります
731部隊少年隊員へのインタビュー
ナレーション
こうした人体実験に大学から集められた医学者たちは、どうかかわっていたのか。当時を知る元部隊員にたどり着きました。14歳の時に731部地に入隊した三角武さんです。
【731部隊元少年隊員・三角武さんの自宅インタビュー映像】
事実を知ってほしいと、今回初めて取材に応じました。
部隊が保有する飛行機の整備に携わった三角さん。医学者の実験のため囚人が演習場に運ばれた時に立ち会いました。囚人は“マルタ”と呼ばれていました。
三角さん 頭、丸坊主。全部刈ってしまって丸坊主。マルタはみんな丸坊主。杭を打ってね、ずーっと杭を打って、そこにマルタをつないでおくんです。実験の計画に沿って、憲兵が連れて行って何番の杭に誰を縛るか、つなぐとかやるわけね。
ナレーション
三角さんたちは、少年部隊員と呼ばれ、1年間、細菌学などの教育を受けました。指導したのは全国の大学から集められた優秀な医学者でした。
三角さん 薬学博士だとか、理学博士、医学博士なんて言うのが、いっぱいいますからね。だから731部隊といえばそう言った各界の権威が集まっていましたよ。そろっていましたよ。
ナレーション
元部隊員の一人、須永鬼久太さんです。【731部隊元少年隊員・須永鬼久太さんの自宅インタビュー映像】
これまで全貌が知られていなかった医学者たちの関与。その手掛かりとなる貴重な資料を保管していました。731部隊の戦友会が戦後まとめた名簿です。【『帝国陸軍防疫給水部編成総覧』の写真】
須永さん 京大、東大医学部、そういう所が多いですね。
ナレーション
載っているのは731部隊に集められた医学者たちの出身大学と名前です。こうした人々は技師と呼ばれ軍の所属となっていました。
ナレーション
私たちはこの資料だけでなく、現存する部隊名簿や論文などから技師の経歴を洗い出し、確認していきました。
その結果明らかになった内訳です。【日本地図に大学名の映像、そこに人数が書き加えられていく】
最も多くの研究者を出していたのは京都大学。ついで東京大学。
【東北帝国大学1名、東京帝国大学6名、慶應義塾大学2名、北里研究所1名、京都帝国大学11名、京都府立医科大学1名、京城帝国大学2名、満州医科大学3名、その他の満州の研究所12名】
少なくとも10の大学や研究機関から合わせて40人の研究者が731部隊に集められました。
技師となった医学者たちは軍医と並ぶ将校クラスと位置づけられ731部隊の中枢にいました。【ピラミッド型の図のいちばん上が技師、真ん中に下士官など、最下層に衛生兵や少年隊】
エリート医学者が部隊の研究を指導していたのです。なぜこれほど多くの医学者が731部隊にかかわることになったか。取材を進めるうちに、部隊と大学の知らぜらる関係が浮かび上がってきました。
京都帝国大学に731部隊から多額の研究費
最も多い11人の技師が確認された京都大学です。公文書を保存する文書館が取材に応じました。【京都大学文書館の現在の映像】
文書館の担当者
文部省と京都大学の間の往復文書を年ごとに閉じていると、そういった資料ですね。
ナレーション
その中から731部隊と大学の金銭のやり取りを示す証拠が初めて見つかりました。【731部隊からの特別費用の書類】
細菌研究の報酬として現在の金額で500万円に近い金額が研究者個人に支払われていたのです。【1600円の支給を示す資料】
受け取っていたのは医学部助教授だった田部井和(たべい・かなう)です。致死率の高いチフス菌の研究をしていた田部井。【731部隊第一課(チフス)課長田部井和の顔写真】
731部隊設立後間もなく赴任し、研究班の責任者となります。そこでどんな実験をしていたのか。部下が証言をしています。
ハバロフスク裁判の音声テープ 731部隊衛生兵(田部井の部下)古都証人
チブス菌を注射器でもってスイカ、マクワ(うり)に注射しました。そして、それを研究室へ持って帰って菌がどのように繁殖したか、または減ったか等を検査しました。そして、完全に菌が増殖しているのを確かめてから、それを満州人と支那人に約5~6名の人間に対して食べさせました。
音声テープ 検察側(ロシア語)
果物を食べた哀れな人間はどうなったんですか。
古都 全員感染しました。
ナレーション
人体実験をしていたという田部井。同じ時期、京大からは医学者7人が部隊に赴任していました。取材を進めると、教え子たちを部隊へ送ったとみられる教授たちの存在が浮かびあがってきました。【教授たちの写真】
大きな影響力を持っていたのが医学部長を2度にわたって務めた戸田正三です。戸田は軍と結びつくことで多額の研究費を集めていたことがわかりました。それを裏付ける戸田の研究報告書です。【1943年の報告書の写真】
陸軍などから委託された防寒服の研究で8000円、軍の進出先の衛生状態の研究で7000円…(注:ほかの委託研究費も含めて)現在の額で合わせて2億5000万円にものぼる研究費を得ていました。
軍との関係を深めていった戸田。そのきっかけとなったのが満州事変でした。(1931年~)
傀儡国家満州国が建国されると国民はそれを支持します。こうした世論の中で大学は満州の病院などに医師を派遣。現地の人を病気から守る防疫活動【当時の写真】のためとしてポスト争いを始めます。戸田が所属する京大からも多くの医師が派遣されます。東大や慶大などと競いながら【東大 1933年35人→1940年48人、慶応 1936年40人→1940年54人】、京大はその数を倍増させていきました。【京大 1936年36人→1942年75人】
当時戸田は、医学者も国の満州国進出に貢献すべきだと語っていました。
医学部長・戸田正三と731部隊長・石井四郎の関係
戸田の発言【満州日々新聞1936年「移民衛生調査委員会議」より】 俳優による復元音声
今まで未開であったところの東洋の北部を開く指導者になることは、我々に与えられた一大試金石である。
ナレーション
こうした中、大学への影響力を拡大したのが731部隊です。巨額の国家予算が与えられていたといいます。
テープの音声 検察側(ロシア語)
部隊の経費としていかなる金額が供出されていましたか。
テープの音声 731部隊第一部(細菌研究)部長・川島清の証言
確実な数字はただいま記憶しておりませんが、だいたいの数字を申しますと昭和15年度におきましてはだいたい1000万円(現在の金額で約300億円)に近い予算が使われておったように記憶しております。
ナレーション
いまの金額で年間300億円の予算。それを動かしていたのが731部隊の部隊長・石井四郎でした。京大医学部出身の石井は母校の指導教官の一人だった戸田と関係を深めていました。戸田は石井と人事の話もしていたといいます。
戸田の弟子の回顧録【雑誌『国民衛生』】 俳優による再現音声
戸田先生が東京へ出られると石井君と3人でよく会談をした。研究の件もあれば人事の件もあり、先生はよく京大や若い人のために奔走され、そのため占領地の支那本土へも旅行された。
ナレーション
戸田が部隊の研究内容を把握していた文書も見つかっています。教え子が書いた回顧録によれば戸田は中国の731部隊の関連施設を繰り返し訪れていたといいます。
戸田の弟子の回顧録 俳優による再現音声
戸田先生が来ると早速高等官、将校一同を集めて学術講演会が開かれ、和気藹々と部隊の研究を推進された。
ナレーション
戸田と関係が深い教授の研究室からは8人の医学者が、京大全体では11人が731部隊に赴任したことがわかっています。【写真】
ナレーション
京大に次いで多くの研究者が731部隊に集められた東京大学。【東京大学の現在の映像】
取材に対し、組織として積極的に関わったとは認識していないと回答しています。
取材を進めると東大の幹部が石井と交流していた事実が明らかになりました。医学者で東大の総長を務めた長與又郎【顔写真】です。
遺族の許可を得て入手した長與の日記です。【日記の写真】
そこには総長時代から石井と接点があったこと、そして、退任後の昭和15年、731部隊の本部を視察していたことが記されていました。
長與の日記 俳優による再現音声
関東軍司令部に赴き、軍医部長を訪い(おとない)、さらに司令官に面会す。平房(注:731部隊のあった所の地名)に石井部隊を訪い、石井大佐の案内にて事業の一般を見学、水だき(水炊き)の饗応を受く。
ナレーション
この時の記録には、東大から赴任した研究者たちの名前が記されていました。東大からは戦時中、少なくとも6人が集められたことがわかっています。【「長與又郎博士歓迎会出席者」】
東大で開かれた微生物学会の集合写真、石井を囲んでいるのは、全国から集まった名だたる教授たちです。大学の幹部と石井が結びつく中で、優秀な医学者が集められていったのです。
零下50度の外に出し扇風機をあて凍傷にさせる
ナレーション
医学者のなかには、731部隊に送られた経緯を詳細に書き残していた人もいました。
(京都帝国大学医学部講師・吉村寿人の写真)
京大医学部の講師、吉村寿人です。基礎医学の研究で多くの命を救いたいと医学者を志したといいます。国内で研究を続けたいと思いながらも教授の命令には抗えなかったと回想しています。
吉村の回想【「喜寿回顧」】 俳優による再現音声
軍の方とすでに約束済みのようであった。先生は突然、満州の陸軍の技術援助をせよと命令された。せっかく熱を上げてきた研究を捨てることは身を切られるほどつらいことであるから私は即座に断った。
ところが先生は、今の日本の現状から、これを断るのはもってのほかである。もし軍に入らねば破門するから出て行けと言われた。
ナレーション
吉村らが送られた731部隊の秘密研究所。実験のために運び込まれた囚人は年間最大600人に上ったと言われています。【現在の研究所跡の映像】
生理学が専門だった吉村が命じられたのは、凍傷の研究でした。当時は関東軍の兵士たちは、寒さによる凍傷に悩まされていました。【足の凍傷の写真】
その症例と対策を探る目的で、人体実験を行っていた様子が裁判で語られていました。【凍傷実験棟跡の写真】
ハバロフスク裁判の音声テープ 731部隊軍医・西俊英の証言
第一部の吉村技師から聞きましたところによりますと、極寒期において、約零下20度くらいのところに、監獄におります人間を外に出しまして、そこに大きな扇風機をかけまして、風を送って、その囚人の手を凍らして、凍傷を人工的に作って研究をしておるということを言いました。
そうして凍傷が人工的にできた場合は、小さな棒でその指を叩くと、板のように硬くなると吉村は言っておりました。
ナレーション
人間を凍傷に罹らせる実験をしたという吉村。部隊で凍傷研究を進めながら満州の医学会では論文も発表していました。【731部隊吉村の論文「凍傷について」の写真】
論文には様々な条件に人間を置いて実験していたことが記されていました。
絶食3日、一昼夜不眠などの状態に置いてから、零度の氷水に指を30分つけて観察していました。
裁判では吉村の研究室で凍傷実験の対象となった人を実際に見たという証言もありました。
裁判の音声テープ 731部隊憲兵班・倉員証人
人体実験を自分で見たのは、1940年の確か12月ごろだったと思います。
まずその研究室に入りますと、長い椅子に5名の中国人の囚人が腰を掛けております。それでその中国人の手を見ますと、3人は手の指がもう全部黒くなって落ちておりました。残りの2人は指がやはり黒くなって、ただ骨だけ残っておりました。それは、吉村技師のその時の説明によりますと、凍傷実験の結果、こういうことになったということを聞きました。
医学者はなぜ残忍な人体実験に手を染めたのか マスコミ(170)2017年8月24日・Ⅲ
NHKスペシャル『731部隊の真実 エリート医学者と人体実験』その5
世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。
そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。
人間であることを拒絶した者なのです。
そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。
これはハンナ・アーレントの有名な言葉。ナチスのホロコースの最高責任者の一人、アイヒマンのエルサレムでの裁判を傍聴して得た結論である。周りがみんなそうだったからとか、上からの命令に従っただけだとか、そのような、考えることを拒否した人間の犯す悪が最も恐ろしい悪であると喝破したのだ。
アーレントの言うことは当然、731部隊の軍人や生体実験に協力した医学者たちにもあてはまる。ハバロフスク裁判における妙に落ち着いていて淡々とした証言態度からは、「悪の凡庸さ」を感じないわけにはいかない。
今回は、細菌爆弾の実戦使用と、医学者たちがなぜ一線を越えてしまったのか、その背景を描いた部分を紹介する。
ナレーション
部隊から高額の報酬を受けとっていた京大の田部井和。【731部隊第一課(チフス)課長・田部井和の写真】
実験室の研究から実戦使用の段階へと進んでいきます。開発したのは細菌爆弾。大量感染を引き起こす研究を始めていたのです。【細菌爆弾の図の写真】
一度に10人以上の囚人を使い、効果を確かめたと部下が証言しています。
ハバロフスク裁判のテープ音声 731部隊衛生兵(田部井の部下)古都証人
安達の演習場で自分の参加した実験はチフス菌であります。それは瀬戸物で作った大砲の弾と同じ型をした細菌弾であります。
空中でもって爆破して地上に噴霧状態になって、その菌が落ちるようになってました。そして菌が地上に落ちたところを被実験者を通過させたのと、それから杭に強制的に縛り付けておいてその上でもって爆破して頭の上から菌を被せたのと、2通りの方法が行われました。
大部分の者が感染して、4人か5人が亡くなりました。
ナレーション
生きた人間を実験材料にした医学者たち。本来人の命を守るべき医学者はなぜ一線を越えたのか。それを後押ししたとみられるのが日本国内の世論です。
1937年(注:731部隊編成の翌年)日中戦争が勃発。中国側の激しい抗戦で日本側も犠牲が増していきます。日本軍は反発する中国人らを匪賊と呼び、掃討作戦を行っていきます。【日中戦争の映像】
政府もメディアも日本の犠牲を強調し、中国人への憎悪をかり立てました。【当時の新聞の写真。「暴虐極まる匪賊」「匪賊を徹底殲滅」】
世論は軍による処罰を強く支持。匪賊に対する敵意が高まっていたのです。そうした時代の空気と研究者は無縁ではありませんでした。
731部隊以外でも学術界では匪賊を蔑視する感情が広がっていました。それを示す資料が北海道大学で見つかりました。当時の厚生省が主催する研究会が発行した雑誌です。【厚生省予防局優性課内民族衛生研究会、『外国に於ける断種法実施状況』の写真】
染色体を研究する大学教授の講演の記録。満州の匪賊を生きたまま研究材料としたことを公けに語っていました。
北海道帝国大学教授の講演記録【『民族衛生資料』1940年】 俳優による再現音声
匪賊の人間を殺すならば、その報復ではないが、その匪賊を材料にしてはどうかと思いついた。死んだ者は絶対にダメである。染色体の状況が著しく悪くなる。匪賊一人を犠牲にしたことは決して無意義ではありません。これほど立派な材料は従来断じてないということだけはできます。
ナレーション
14歳の時に731部隊に入隊した三角さん。【731部隊元少年隊員】
匪賊は死刑囚だから実験材料として利用してよいと教えられたといいます。
三角さん こういう時代なんだからそうしなきゃ俺たちがやられるんだよと、そういった考えでしたね。だから口には出せないんです。可哀そうだとか、何だとかということは。見ても口には出せないです。出したら非国民だとやられちゃう。そういった雰囲気というか、そういった一般的な風潮がそうだったんです
ナレーション
戦争が泥沼化していった1940年代。731部隊は遂に細菌兵器の実戦使用に踏み込みます。中国中部の複数の年で少なくとも3回、細菌を散布。細菌兵器での攻撃は、国際条約で禁止されていましたが、日本は批准しないまま、密かに使用しました
裁判のテープ音声 731部隊第1部(細菌研究)部長・川島清の証言
私がおりました間のことを申しますと、昭和16年(1941年)に第1回、それから昭和17年に1回、中支において第731部隊の派遣隊は、中国の軍隊に対して細菌兵器を使用しました
ナレーション
さらに民間人にまで感染を広げる目的で、中国の集落に細菌を撒いたと証言されています
川島清の証言 使われる細菌は主としてペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌であることが決定しました。ペスト菌は主としてペスト蚤(ペスト菌に感染させた蚤)の形で使われました。その他のものはそのまま水源とか井戸とか貯水池というようなところに撒布されたのであります
裁判のテープ音声 731部隊衛生兵・古都証人
あの当時、現地に中国人の捕虜収容所が2か所ありました。その人員は約3000名と言われてました
饅頭(マントウ)作りに参加しました。少し冷やしてからそれに注射器でもって菌を注射しました
検察側 その後は(3000個の饅頭を)どうしましたか
古都証人 その収容所へ持ってきて、それを各人に食べるようにして渡して
検察側 そして細菌の入ったその毒の饅頭を食べさせてから、中国人の捕虜をどうしたんですか
古都証人 その現地でもって解放しました
検察側 パラチフスを大量感染させる目的でしたか
古都証人 はい、自分はそのように聞きました
NHKスペシャル『731部隊の真実 エリート医学者と人体実験』その6(最終回) マスコミ(171)2017年8月30日
敗戦ですべての囚人を殺害
医学者たちには特別な列車が用意され、いち早く日本に帰国した
番組は最後に、責任をとらずにまっ先に逃げ帰り、戦後も反省するどころか、医学界の権威として生き続けた医学者たちを静かに告発する。
相変わらず、真実を見つめず、歴史を修正しようとする日本人への警告である。
ナレーション
そして、戦争末期の1945年8月9日、ソ連が満州に侵攻。【当時の映像】
731部隊は直ちに撤退を始めます。部隊は証拠隠滅のため、すべての囚人を殺害。実験施設を徹底的に破壊しました。医学者たちには特別の列車が用意され、いち早く日本へ帰国しました。
部隊のことは一切口外するなと言われた三角さん。この時、死体の処理を命じられました。
三角さん【インタビュー映像】
死体の処理に少年隊来いって引っ張られて行って、死体の処理を各独房から引っ張り出して、中庭で鉄骨で井桁組んで、ガソリンをぶっかけて焼いたわけ。
焼いてね。全部焼き殺して骨だけにして、こんど骨を拾う。いや、戦争っていうものはこんなものかと、戦争ってものは絶対するもんじゃないと……つくづくそう思いましたね。ほんとにね。一人で泣いた……。
ナレーション
人体実験を主導し、日本へいち早く帰国した医学者たち。戦後、その行為について罪に問われることはありませんでした。アメリカは人体実験のデータ提供と引き換えに隊員の責任を免除したのです。
多くの教え子を部隊に送ったとみられる戸田正三は金沢大学の学長に就任。部隊とのかかわりは語らないまま医学界の重鎮となりました。【顔写真】
チフス菌の爆弾を開発していた田部井和(たべい・かなう)。【顔写真】
京都大学の教授となり、細菌学の権威となりました。
凍傷研究の吉村寿人も教授に就任。自分は非人道的な実験は行っていないと生涯否定し続けました。
吉村寿人の回想 『喜寿日記』 俳優による再現音声
私は軍隊内において、凍傷や凍死から兵隊をいかにして守るかについて、部隊長の命令に従って研究したのであって、決して良心を失った悪魔になったわけではない。
ナレーション
当事者たちが口を閉ざす中でタブーとなってきた731部隊。戦後72年となる今年、その歴史が改めて問われています。
医学者をはじめ、様々な科学者の代表が集う日本学術会議です。【日本学術会議、第173回総会の映像】
防衛省から大学への研究資金が急増する中で、いま、大学と軍事研究の在り方が議論されています。
研究者の発言(男性)
軍事研究=兵器研究ではないですよと、兵器研究ではない。軍事研究はもうちょっと幅の広いものだと、こういうふうな認識ではないかと私は思っています。【発言者の映像】
ナレーション
会場では731部隊がアメリカの原爆開発と並んで取り上げられました。
研究者の発言(女性)
科学者の責任ということです。科学者は戦争に動員されたのではなくて、むしろ歴史を見てくると、科学者が戦争を残酷化してきたという歴史があると思います。
ナレーション
いま、私たちに問いかける医学者と731部隊の真実。それは戦争へと突き進む中で、いつの間にか人として守るべき一線を越えていったこの国の姿でした。
今回発見された音声記録。その最後には被告たちが自らの心情を語った発言が残っていました。医学者・柄沢十三夫、人体実験に使われた細菌を培養した責任者でした。戦争が終わってから初めて罪の重さに気づいたと語っています。
ハバロフスク裁判のテープ音声 731部隊軍医・柄沢十三夫の証言
自分は現在平凡な人間といたしまして、自分の実際の心の中に思っていることを少し申してみたいと思います。
私には現在日本に……82になります母と妻、並びに2名の子どもがございます。なお、私は自分の犯した罪の非常に大なることを自覚しております。そうして終始懺悔をし、後悔をしております。私は将来生まれ変わってもし余生がありましたならば(泣き声)自分の行いました悪事に対しまして、生まれ変わった人間として人類のために尽くしたいと思っております。【裁判で証言する柄沢の写真】
文字
この医学者は刑に服した後、帰国直前に自殺したと伝えられている。
(終わり)
水俣病問題
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●水俣病問題
1956年(昭和31年)、熊本大学医学部の研究チームにより、有機水銀原因説が有力視されたのだが、同年11月12日には厚生省食品衛生調査会常任委員会・水俣食中毒特別部会が大学と同様の答申を出したところ、厚生省は翌13日に同部会を突如解散。1960年(昭和35年)4月、日本化学工業協会が塩化ビニール酢酸特別委員会の付属機関として、田宮猛雄・日本医学会会長を委員長とする「田宮委員会」を設置。後に熊本大学医学部研究班も加わることとなった。有機水銀説に対する異説として清浦雷作・東京工業大学教授らがアミン説を発表し、彼らの主張がそのままマスコミによって報道されたため、原因は未解明という印象を与えた。
(Wikipediaより)
医学は水俣病で何をしたか(抜粋)(ごんずい53号)宇井純
集中砲火を浴びた熊大研究班
原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた1959年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。(略)熊本大学医学部研究班が、東大を中心に水俣病をもみ消すために作られた田宮委員会に屈服し、チッソから金をもらって代表団をローマの国際神経学会に送ったのは1961年であり、64年にそれまでの研究をまとめたいわゆる赤本(熊本大学医学部水俣病研究班「水俣病-有機水銀中毒に関する研究-」・編集部注)が用意された段階では、水俣病を否定する医学界本流と熊大医学部の手打ち式は完了していたと見てよい。この赤本にはチッソから費用が出ていることが明記されている。(略)この間医学界主流にあった東京大学医学部を中心として作られた田宮委員会は、水俣病つぶしの有力な手段であり、日本化学工業協会とチッソから研究費をもらっていたが、表に出ないもくろみは、米国の公衆衛生院(NIH)から熊大へ支給された三万ドルの研究費をねらったらしいことが、複数の関係者の証言で裏づけられる。もみ消しだけで十分犯罪的である上に、横取りまで考えていたとなるとおそろしい話である。(略)日本医学会会頭、東大名誉教授田宮猛雄を委員長とし、公衆衛生学教授勝沼晴雄を幹事長とした田宮委員会と対立するということは、いわば日本医学界全体を敵とすることを意味する。こうして孤立した熊大医学部としては、水俣病の病像をすでに文献記載があって誰も文句のつけられないハンター・ラッセル症候群に限定しておくことが有利であった。新しい症状などをつけ加えたら、ますます学会から袋だたきにあうであろう。
出たよ出たよ。大企業は金で権威を買収し、自分たちに有利にマスコミを操作する手法は、今も昔も変わっていない。東電からは、200億円ともいわれる資金がマスコミに流れており、有名大学への寄付金も含めると、いかほどになるものか図りかねる。そして『原子力政策は国策です。個人の意見で左右されるものではありません。』なんていうお人好しを生んでいくのだ。原発稼動を望んでいる皆さん。原発は誰にとって「益」があるかおわかりですか?それは、原子力事業にかかわる天下り先を確保できる行政のトップの人々であり、経団連と関係のある原発建設関連の会社です。地元が補助金で潤うというのは見せかけであり、後々は補助金漬けで自立できない体質へと変えられ、震災が起これば土地を捨てて流浪の民になるしかないことは、もう福島で証明されてるじゃない?それでも原発は必要っていう人は、どんな洗脳をされてるんだろう?いろんなデータから客観的に判断する力を持とうよ。いいですか、もう一度言います。水俣病の時、当時の自民党政権は国民を守ることをせず、日本化学工業協会の利益を優先しました。その政権が推し進めた「原子力政策」が、誰のためのものであるか。今一度冷静に考えてみてください。
●全く活かされていない水俣病の教訓 -- 環境省の報告書を読んで類似性に唖然!
半世紀以上前に起きた水俣病を若い世代の人たちはほとんど知らないと思うが、
いまだに多くの人が苦しんでいるし裁判も係争中だ。
環境省・国立水俣病総合研究センターがまとめた水俣病の報告書がここにある。
「水俣病の悲劇を繰り返さないために --水俣病の経験から学ぶもの--」
http://www.nimd.go.jp/syakai/webversion/houkokushov3-1.html
通産省(当時)に責任転嫁するような表現が気になるが、内容はまともな報告書である。
少し長いがぜひ読んでいただきたい。福島原発事故と非常によく似ていることに驚くだろう。
類似点をいくつか挙げよう。
- 最初に起きた動物の異変 (ネコの狂死)
- 早くからわかっていた健康被害とその原因
- 御用学者の暗躍、インチキ学説による真の原因の隠蔽
- マスコミによる事実隠蔽、誤認報道
- 住民の健康・生命軽視
- 天下り先・大企業の利益最優先
- これだけの産業が止まったら日本経済に大打撃を与えるという殺し文句
- 全く動かない検察、全く問われない刑事責任
- 抗議する市民、被害者への弾圧
- 被害者に対する偏見と差別
- 全くされなかった汚染海域の漁業規制。漁協による操業自粛のみ。
- 関係者による水飲み安全パフォーマンス
報告書から一つ引用しよう。
----(引用ここから)-----------------------------------------------
<コラム>[通産省のチッソ擁護姿勢]
水産庁をかかえる農林省からの出向者は、排水を止めるべきだという主張もしていた。だが汲田は、通産省の官房に毎週のように呼び出され、強い指示を受ける。
「『頑張れ』と言われるんです。『抵抗しろ』と。止めたほうがいいんじゃないですかね、なんて言うと、『何言ってるんだ。今止めてみろ。チッソが、これだけの産業が止まったら日本の高度成長はありえない。ストップなんてことにならんようにせい』と厳しくやられたものね」
結局、経企庁も通産省も、水銀に関する水質規制や排水停止の措置はとらず、チッソの排水はそのまま流れ続けることになった。水俣の沿岸に水質規制が実施されたのは、水俣工場がアセトアルデヒド工場をスクラップしたあとの、1969年のことだった。
----(引用ここまで)-----------------------------------------------
チッソ→東電、水銀→放射能と置き換えれば、今起きていることそのものだ。
要するに役者が変わっただけで台本は全く同じなのである。結末もまた同じであろう。
一つ、非常に気がかりなのは、真の原因を隠蔽したまま迅速に対応をとらなかったために、
第二の水俣病が新潟県で発生してしまった事実だ。
これは、グズグズとまともな安全対策を施さないうちに、どこかの原発でまた致命的な爆発が起きることを示唆している。
それを考えると夜も眠れない。
もう一つ、序文から引用しよう。
------(引用ここから)----------------------------------------------
水俣病を経験した我が国は、これを教訓として、このような悲惨な公害がこの地球上で繰り返されることのないよう、日本国内のみならず、世界の国々に対しても、積極的な貢献をしていくべきである。
そのためには、水俣病がなぜ起こり、なぜ拡大したのか、また、なぜ発見から政府による公式見解まで12年間もかかったのか。その時々における行政決断の遅れや研究者、地域住民、原因企業等の対応を検証し、水俣病の経験から教訓を明らかにしたい。
そして、特に最終章を読む際に、あわせて今の自分の置かれた立場を振り返って、自分は今同じ過ちを繰り返そうとしていないかどうかを 問い直していただきたい。
------(引用ここまで)----------------------------------------
いったい誰に向かって言っているのか。何一つ水俣病の教訓から学んでいないではないか。
唖然とするばかりだ。開いた口がふさがらない。
水俣病に限らず、ダイオキシン、アスベスト禍からサリドマイド、キノホルム、薬害エイズまで、
すべてこの国の政治家・役人の利権と、無関心・無責任が産み出した悲劇である。
早急に対策をとれば被害・損害は最小で済むのに、企業・天下り先の利益最優先で何もせず、悲惨な結果となる。
多くの生命が失われ、金銭的損害も莫大になる。
しかし誰も責任をとらない。何度でも同じ間違いを繰り返す。学習能力ゼロ。
ミミズのT字迷路学習という実験がある。
左に曲がったときだけ電気ショックを与えると、右にしか曲がらなくなるというものだ。ミミズも学習するらしい。
懲りずに何度でも同じ間違いを犯すこの国の政治家・役人は、ミミズ以下と言われてもしかたがあるまい。
先ほど福島原発事故も水俣と同じ結末になると書いたが、今回は数百、数千倍と規模が違う。
水俣病は中央官庁から遠く離れた一地方での「他人事」であったが、今回はそうではない。
すでに霞ヶ関・経産省前の植え込みは1万ベクレル/kg、チェルノブイリ強制移住地域並の汚染である。
大気も水も食品も信じられないほど汚染されてしまった。
無責任極まる政治家や役人も今回は被曝被害者である。首都圏の汚染から逃げることは不可能だ。
今までの無責任な公務員の度重なる悪事に、ついに天の裁きが下ったのだと思う。
それでも性懲りもなく、真実に目を閉じ、「安全です、問題ありません」と被曝で倒れるまで、
国家が崩壊するまで彼らは繰り返すのだろう。
ミミズ以下のバカ者につける薬はない。バカは死ななければ治らないのである。
●田宮猛夫
前回取り上げた福見秀雄、宮川正に続いて、今回は日本医師会会長であった田宮猛雄と731部隊、
福島原発事故とのつながりを見ていこう[1][2][3]。
[経歴] ([4]に加筆)
1889年 大阪府で生まれる。
1915年 東京帝國大学医科大学(現・東京大学医学部)を12月に卒業、伝染病研究所の技手となる。
1918年 伝染病研究所の技官となる。
1924年 医学博士号を取得。論文の題は「脾脱疽感染及び免疫に関する実験的研究」
1927年 東京帝國大学伝染病研究所教授に就任。
1931年 同大学医学部教授となる。衛生学講座を担当。
1944年 伝染病研究所第7代所長に就任。
1945年 同大医学部長に就任。
1948年 日本医学会会長に就任、亡くなるまで務める。
1949年 東京大学を停年退官。名誉教授となる。
1950年 日本医師会会長となり2期務める。
1960年 水俣病研究懇談会(田宮委員会)の委員長となる。
1962年 国立がんセンター初代総長となる。
1963年 日本学士院会員になる。7月11日に胃癌のため死去。墓所は大阪市阿倍野区。正三位、勲一等。
医学者としてこれ以上は望めない輝かしい経歴だが、御用医学者としての業績もまた超一流である。
田宮猛雄といえば、水俣病研究懇談会、通称「田宮委員会」での悪行が有名である。
医師会会長の権威を利用して、腐った魚を喰ったせいだなどという説をでっちあげ、
真の原因である有機水銀説をつぶし、被害を拡大させ新潟での第二水俣病まで引き起こした[5]。
しかし彼は731部隊にも深く関与しており、部隊員とも懇意で、戦後も人体実験をしていたことは
あまり知られていない。
彼の死後、追悼文集が出版されたが、その中で北岡正見、安東洪次、目黒康雄、田嶋嘉雄など
731関係者が勢ぞろいして思い出を語っている[6]。
731部隊マラリア菌研究班に所属していた目黒康雄は、軍医として戦地に送られるところを
田宮の計らいで防疫給水部(731部隊の別名)の職を斡旋してもらったと語っている。
田宮は「徴兵逃れ」をエサに教え子を731部隊へ送り込んでいたのである。
また田宮は731部隊の別働隊でもある北京の1855部隊へ出張していたとも言われている[7]。
田宮は731部隊第2代部隊長・北野政次とも非常に親しく、戦後、北野が東大伝研に現われたとき、
もっとも北野の庇護したのが田宮であった[8]。
また福見秀雄や北岡正見とも一緒に研究をしている[2]。
終戦直後、GHQの軍医が田宮を訪れ、米軍の資金提供を受けて共同研究を始めた[8]。
田宮は英語が流暢で、GHQの信頼も厚かった。
1947年、GHQの命令で厚生省と東大伝研が府中刑務所の受刑者に対し、発疹チフス人体実験をしている。
この件で田宮は北野政次らと深く関与している。
発疹チフス人体実験は北野らが731部隊で行なっており、いわばその"続編"であった。
1952年に新潟大内科の桂重鴻教授らが新潟精神病院で精神病患者149人にツツガムシ病リケッチアを注射し、
8人が死亡、1人が自殺というとんでもない事件(ツツガムシ病人体実験事件)が起きた[9]。
実は米軍の資金援助により田宮が北岡正見らによびかけてツツガムシ病研究グループを組織し、
この人体実験事件を主導したことも判明している[8]。
いくら米軍から無理難題を押しつけられても、731部隊での犯罪を不問にしてもらっているから断れないし、
断るつもりもなかったのだろう。
田宮は731部隊で多くの人間を犠牲にしたことを反省するどころか、戦後も人体実験を続けて得た功績で
着々と出世を続け、ついに医学者として最高のポスト、日本医師会の会長まで登りつめる。
田宮委員会は御用医学者として最後の大仕事であり、大勢の犠牲者を出した。
さすがにこれだけ悪事を重ねると天罰が下るようで、数年後、田宮は末期の胃がんで亡くなった。
手の施しようのない状態だったという。
トップレベルのがん専門医を結集させた国立がんセンターの総長でもあった彼にしては、
無様な死に方であった。
731部隊や水俣病の犠牲者の呪いかもしれない。
数々の凄惨な人体実験に関わってきた悪魔のような人間が、最高のポストである日本医師会
会長の席におさまる。悪夢のような話だが、これが日本の現実なのである。
残念なことに彼の死後も医学の倫理に反する人体実験の伝統は脈々と受け継がれている。
田宮が所長を務めた東大医科学研究所(旧伝染病研究所)や、初代総長となった国立がん研究センター
(旧国立がんセンター)に勤務した上昌広教授は、国立病院では患者の治療よりも研究の成果や
効率が優先され、陸海軍の亡霊がいまだに行き続けていると述べている[10]。
陸海軍というより731部隊の亡霊と言ったほうが正しいだろう。
その上教授も、福島原発事故が起きるや否や、本来ならすぐに避難させなければならない福島の住民を
だましてモルモットにし、白血病のデータを収集して金儲けや出世に利用しようとしている。
やっていることは731部隊と何ら変わりはない。
731部隊の人体実験の責任を追及し、関係者を処罰し医療倫理を正さなかったために、
本人の同意も得ずに人間をモルモット代わりに使う悪しき伝統が現在まで続いているのだ。
新薬や新しい治療法には臨床試験が必ず必要である。それなしには医学の進歩はない。
しかし臨床試験にあたっては、被験者に期待される効果と危険性をきちんと説明して
同意を得なければならない。
正しい判断が出来ない幼児や精神病患者、あるいはノーと言えない若い自衛隊員や受刑者をだまして
実験台にすることは絶対に許されないことだ。
福島も全く同じである。
住民に被ばくの危険性をきちんと伝えず、安全だとだましてモルモット代わりにするとは言語道断である。
これは立派な犯罪である。
ちなみに、田宮家一族は学者が多く、息子は被爆直後の広島で放射線が脳細胞に与えた
ダメージを調べた精神医学者・島薗安雄、孫が著名な宗教学者で、原子力を批判している
島薗進・東大名誉教授である。
島薗進氏は東大理科3類に合格したが、医学界の権威主義や倫理性軽視が問われた
東大医学部紛争の中で苦悩。「生きている意味を含め考え直そう」と宗教学へ進んだという[11]。
紛争中、水俣病被害を拡大させた田宮猛雄も厳しく批判・非難された。
頭脳明晰な島薗氏は、おそらく医学者になっても素晴らしい業績をあげただろうが、
医学界では常に悪名高い祖父の名がつきまとうのに耐えられなかったのだろう。
歴史上の事実をきちんと認識し、あやまりを正し反省しなければ、極悪非道が繰り返され、
いつまでたっても日本はまともな国になれないだろう。
●水俣病問題
1956年(昭和31年)、熊本大学医学部の研究チームにより、有機水銀原因説が有力視されたのだが、同年11月12日には厚生省食品衛生調査会常任委員会・水俣食中毒特別部会が大学と同様の答申を出したところ、厚生省は翌13日に同部会を突如解散。1960年(昭和35年)4月、日本化学工業協会が塩化ビニール酢酸特別委員会の付属機関として、田宮猛雄・日本医学会会長を委員長とする「田宮委員会」を設置。後に熊本大学医学部研究班も加わることとなった。有機水銀説に対する異説として清浦雷作・東京工業大学教授らがアミン説を発表し、彼らの主張がそのままマスコミによって報道されたため、原因は未解明という印象を与えた。
(Wikipediaより)
医学は水俣病で何をしたか(抜粋)(ごんずい53号)宇井純
集中砲火を浴びた熊大研究班
原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた1959年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。(略)熊本大学医学部研究班が、東大を中心に水俣病をもみ消すために作られた田宮委員会に屈服し、チッソから金をもらって代表団をローマの国際神経学会に送ったのは1961年であり、64年にそれまでの研究をまとめたいわゆる赤本(熊本大学医学部水俣病研究班「水俣病-有機水銀中毒に関する研究-」・編集部注)が用意された段階では、水俣病を否定する医学界本流と熊大医学部の手打ち式は完了していたと見てよい。この赤本にはチッソから費用が出ていることが明記されている。(略)この間医学界主流にあった東京大学医学部を中心として作られた田宮委員会は、水俣病つぶしの有力な手段であり、日本化学工業協会とチッソから研究費をもらっていたが、表に出ないもくろみは、米国の公衆衛生院(NIH)から熊大へ支給された三万ドルの研究費をねらったらしいことが、複数の関係者の証言で裏づけられる。もみ消しだけで十分犯罪的である上に、横取りまで考えていたとなるとおそろしい話である。(略)日本医学会会頭、東大名誉教授田宮猛雄を委員長とし、公衆衛生学教授勝沼晴雄を幹事長とした田宮委員会と対立するということは、いわば日本医学界全体を敵とすることを意味する。こうして孤立した熊大医学部としては、水俣病の病像をすでに文献記載があって誰も文句のつけられないハンター・ラッセル症候群に限定しておくことが有利であった。新しい症状などをつけ加えたら、ますます学会から袋だたきにあうであろう。
出たよ出たよ。大企業は金で権威を買収し、自分たちに有利にマスコミを操作する手法は、今も昔も変わっていない。東電からは、200億円ともいわれる資金がマスコミに流れており、有名大学への寄付金も含めると、いかほどになるものか図りかねる。そして『原子力政策は国策です。個人の意見で左右されるものではありません。』なんていうお人好しを生んでいくのだ。原発稼動を望んでいる皆さん。原発は誰にとって「益」があるかおわかりですか?それは、原子力事業にかかわる天下り先を確保できる行政のトップの人々であり、経団連と関係のある原発建設関連の会社です。地元が補助金で潤うというのは見せかけであり、後々は補助金漬けで自立できない体質へと変えられ、震災が起これば土地を捨てて流浪の民になるしかないことは、もう福島で証明されてるじゃない?それでも原発は必要っていう人は、どんな洗脳をされてるんだろう?いろんなデータから客観的に判断する力を持とうよ。いいですか、もう一度言います。水俣病の時、当時の自民党政権は国民を守ることをせず、日本化学工業協会の利益を優先しました。その政権が推し進めた「原子力政策」が、誰のためのものであるか。今一度冷静に考えてみてください。
●全く活かされていない水俣病の教訓 -- 環境省の報告書を読んで類似性に唖然!
半世紀以上前に起きた水俣病を若い世代の人たちはほとんど知らないと思うが、
いまだに多くの人が苦しんでいるし裁判も係争中だ。
環境省・国立水俣病総合研究センターがまとめた水俣病の報告書がここにある。
「水俣病の悲劇を繰り返さないために --水俣病の経験から学ぶもの--」
http://www.nimd.go.jp/syakai/webversion/houkokushov3-1.html
通産省(当時)に責任転嫁するような表現が気になるが、内容はまともな報告書である。
少し長いがぜひ読んでいただきたい。福島原発事故と非常によく似ていることに驚くだろう。
類似点をいくつか挙げよう。
- 最初に起きた動物の異変 (ネコの狂死)
- 早くからわかっていた健康被害とその原因
- 御用学者の暗躍、インチキ学説による真の原因の隠蔽
- マスコミによる事実隠蔽、誤認報道
- 住民の健康・生命軽視
- 天下り先・大企業の利益最優先
- これだけの産業が止まったら日本経済に大打撃を与えるという殺し文句
- 全く動かない検察、全く問われない刑事責任
- 抗議する市民、被害者への弾圧
- 被害者に対する偏見と差別
- 全くされなかった汚染海域の漁業規制。漁協による操業自粛のみ。
- 関係者による水飲み安全パフォーマンス
報告書から一つ引用しよう。
----(引用ここから)-----------------------------------------------
<コラム>[通産省のチッソ擁護姿勢]
水産庁をかかえる農林省からの出向者は、排水を止めるべきだという主張もしていた。だが汲田は、通産省の官房に毎週のように呼び出され、強い指示を受ける。
「『頑張れ』と言われるんです。『抵抗しろ』と。止めたほうがいいんじゃないですかね、なんて言うと、『何言ってるんだ。今止めてみろ。チッソが、これだけの産業が止まったら日本の高度成長はありえない。ストップなんてことにならんようにせい』と厳しくやられたものね」
結局、経企庁も通産省も、水銀に関する水質規制や排水停止の措置はとらず、チッソの排水はそのまま流れ続けることになった。水俣の沿岸に水質規制が実施されたのは、水俣工場がアセトアルデヒド工場をスクラップしたあとの、1969年のことだった。
----(引用ここまで)-----------------------------------------------
チッソ→東電、水銀→放射能と置き換えれば、今起きていることそのものだ。
要するに役者が変わっただけで台本は全く同じなのである。結末もまた同じであろう。
一つ、非常に気がかりなのは、真の原因を隠蔽したまま迅速に対応をとらなかったために、
第二の水俣病が新潟県で発生してしまった事実だ。
これは、グズグズとまともな安全対策を施さないうちに、どこかの原発でまた致命的な爆発が起きることを示唆している。
それを考えると夜も眠れない。
もう一つ、序文から引用しよう。
------(引用ここから)----------------------------------------------
水俣病を経験した我が国は、これを教訓として、このような悲惨な公害がこの地球上で繰り返されることのないよう、日本国内のみならず、世界の国々に対しても、積極的な貢献をしていくべきである。
そのためには、水俣病がなぜ起こり、なぜ拡大したのか、また、なぜ発見から政府による公式見解まで12年間もかかったのか。その時々における行政決断の遅れや研究者、地域住民、原因企業等の対応を検証し、水俣病の経験から教訓を明らかにしたい。
そして、特に最終章を読む際に、あわせて今の自分の置かれた立場を振り返って、自分は今同じ過ちを繰り返そうとしていないかどうかを 問い直していただきたい。
------(引用ここまで)----------------------------------------
いったい誰に向かって言っているのか。何一つ水俣病の教訓から学んでいないではないか。
唖然とするばかりだ。開いた口がふさがらない。
水俣病に限らず、ダイオキシン、アスベスト禍からサリドマイド、キノホルム、薬害エイズまで、
すべてこの国の政治家・役人の利権と、無関心・無責任が産み出した悲劇である。
早急に対策をとれば被害・損害は最小で済むのに、企業・天下り先の利益最優先で何もせず、悲惨な結果となる。
多くの生命が失われ、金銭的損害も莫大になる。
しかし誰も責任をとらない。何度でも同じ間違いを繰り返す。学習能力ゼロ。
ミミズのT字迷路学習という実験がある。
左に曲がったときだけ電気ショックを与えると、右にしか曲がらなくなるというものだ。ミミズも学習するらしい。
懲りずに何度でも同じ間違いを犯すこの国の政治家・役人は、ミミズ以下と言われてもしかたがあるまい。
先ほど福島原発事故も水俣と同じ結末になると書いたが、今回は数百、数千倍と規模が違う。
水俣病は中央官庁から遠く離れた一地方での「他人事」であったが、今回はそうではない。
すでに霞ヶ関・経産省前の植え込みは1万ベクレル/kg、チェルノブイリ強制移住地域並の汚染である。
大気も水も食品も信じられないほど汚染されてしまった。
無責任極まる政治家や役人も今回は被曝被害者である。首都圏の汚染から逃げることは不可能だ。
今までの無責任な公務員の度重なる悪事に、ついに天の裁きが下ったのだと思う。
それでも性懲りもなく、真実に目を閉じ、「安全です、問題ありません」と被曝で倒れるまで、
国家が崩壊するまで彼らは繰り返すのだろう。
ミミズ以下のバカ者につける薬はない。バカは死ななければ治らないのである。
●田宮猛夫
前回取り上げた福見秀雄、宮川正に続いて、今回は日本医師会会長であった田宮猛雄と731部隊、
福島原発事故とのつながりを見ていこう[1][2][3]。
[経歴] ([4]に加筆)
1889年 大阪府で生まれる。
1915年 東京帝國大学医科大学(現・東京大学医学部)を12月に卒業、伝染病研究所の技手となる。
1918年 伝染病研究所の技官となる。
1924年 医学博士号を取得。論文の題は「脾脱疽感染及び免疫に関する実験的研究」
1927年 東京帝國大学伝染病研究所教授に就任。
1931年 同大学医学部教授となる。衛生学講座を担当。
1944年 伝染病研究所第7代所長に就任。
1945年 同大医学部長に就任。
1948年 日本医学会会長に就任、亡くなるまで務める。
1949年 東京大学を停年退官。名誉教授となる。
1950年 日本医師会会長となり2期務める。
1960年 水俣病研究懇談会(田宮委員会)の委員長となる。
1962年 国立がんセンター初代総長となる。
1963年 日本学士院会員になる。7月11日に胃癌のため死去。墓所は大阪市阿倍野区。正三位、勲一等。
医学者としてこれ以上は望めない輝かしい経歴だが、御用医学者としての業績もまた超一流である。
田宮猛雄といえば、水俣病研究懇談会、通称「田宮委員会」での悪行が有名である。
医師会会長の権威を利用して、腐った魚を喰ったせいだなどという説をでっちあげ、
真の原因である有機水銀説をつぶし、被害を拡大させ新潟での第二水俣病まで引き起こした[5]。
しかし彼は731部隊にも深く関与しており、部隊員とも懇意で、戦後も人体実験をしていたことは
あまり知られていない。
彼の死後、追悼文集が出版されたが、その中で北岡正見、安東洪次、目黒康雄、田嶋嘉雄など
731関係者が勢ぞろいして思い出を語っている[6]。
731部隊マラリア菌研究班に所属していた目黒康雄は、軍医として戦地に送られるところを
田宮の計らいで防疫給水部(731部隊の別名)の職を斡旋してもらったと語っている。
田宮は「徴兵逃れ」をエサに教え子を731部隊へ送り込んでいたのである。
また田宮は731部隊の別働隊でもある北京の1855部隊へ出張していたとも言われている[7]。
田宮は731部隊第2代部隊長・北野政次とも非常に親しく、戦後、北野が東大伝研に現われたとき、
もっとも北野の庇護したのが田宮であった[8]。
また福見秀雄や北岡正見とも一緒に研究をしている[2]。
終戦直後、GHQの軍医が田宮を訪れ、米軍の資金提供を受けて共同研究を始めた[8]。
田宮は英語が流暢で、GHQの信頼も厚かった。
1947年、GHQの命令で厚生省と東大伝研が府中刑務所の受刑者に対し、発疹チフス人体実験をしている。
この件で田宮は北野政次らと深く関与している。
発疹チフス人体実験は北野らが731部隊で行なっており、いわばその"続編"であった。
1952年に新潟大内科の桂重鴻教授らが新潟精神病院で精神病患者149人にツツガムシ病リケッチアを注射し、
8人が死亡、1人が自殺というとんでもない事件(ツツガムシ病人体実験事件)が起きた[9]。
実は米軍の資金援助により田宮が北岡正見らによびかけてツツガムシ病研究グループを組織し、
この人体実験事件を主導したことも判明している[8]。
いくら米軍から無理難題を押しつけられても、731部隊での犯罪を不問にしてもらっているから断れないし、
断るつもりもなかったのだろう。
田宮は731部隊で多くの人間を犠牲にしたことを反省するどころか、戦後も人体実験を続けて得た功績で
着々と出世を続け、ついに医学者として最高のポスト、日本医師会の会長まで登りつめる。
田宮委員会は御用医学者として最後の大仕事であり、大勢の犠牲者を出した。
さすがにこれだけ悪事を重ねると天罰が下るようで、数年後、田宮は末期の胃がんで亡くなった。
手の施しようのない状態だったという。
トップレベルのがん専門医を結集させた国立がんセンターの総長でもあった彼にしては、
無様な死に方であった。
731部隊や水俣病の犠牲者の呪いかもしれない。
数々の凄惨な人体実験に関わってきた悪魔のような人間が、最高のポストである日本医師会
会長の席におさまる。悪夢のような話だが、これが日本の現実なのである。
残念なことに彼の死後も医学の倫理に反する人体実験の伝統は脈々と受け継がれている。
田宮が所長を務めた東大医科学研究所(旧伝染病研究所)や、初代総長となった国立がん研究センター
(旧国立がんセンター)に勤務した上昌広教授は、国立病院では患者の治療よりも研究の成果や
効率が優先され、陸海軍の亡霊がいまだに行き続けていると述べている[10]。
陸海軍というより731部隊の亡霊と言ったほうが正しいだろう。
その上教授も、福島原発事故が起きるや否や、本来ならすぐに避難させなければならない福島の住民を
だましてモルモットにし、白血病のデータを収集して金儲けや出世に利用しようとしている。
やっていることは731部隊と何ら変わりはない。
731部隊の人体実験の責任を追及し、関係者を処罰し医療倫理を正さなかったために、
本人の同意も得ずに人間をモルモット代わりに使う悪しき伝統が現在まで続いているのだ。
新薬や新しい治療法には臨床試験が必ず必要である。それなしには医学の進歩はない。
しかし臨床試験にあたっては、被験者に期待される効果と危険性をきちんと説明して
同意を得なければならない。
正しい判断が出来ない幼児や精神病患者、あるいはノーと言えない若い自衛隊員や受刑者をだまして
実験台にすることは絶対に許されないことだ。
福島も全く同じである。
住民に被ばくの危険性をきちんと伝えず、安全だとだましてモルモット代わりにするとは言語道断である。
これは立派な犯罪である。
ちなみに、田宮家一族は学者が多く、息子は被爆直後の広島で放射線が脳細胞に与えた
ダメージを調べた精神医学者・島薗安雄、孫が著名な宗教学者で、原子力を批判している
島薗進・東大名誉教授である。
島薗進氏は東大理科3類に合格したが、医学界の権威主義や倫理性軽視が問われた
東大医学部紛争の中で苦悩。「生きている意味を含め考え直そう」と宗教学へ進んだという[11]。
紛争中、水俣病被害を拡大させた田宮猛雄も厳しく批判・非難された。
頭脳明晰な島薗氏は、おそらく医学者になっても素晴らしい業績をあげただろうが、
医学界では常に悪名高い祖父の名がつきまとうのに耐えられなかったのだろう。
歴史上の事実をきちんと認識し、あやまりを正し反省しなければ、極悪非道が繰り返され、
いつまでたっても日本はまともな国になれないだろう。
小泉親彦と宮川米次の絆
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小泉親彦と宮川米次の絆
『検証・中国に於ける生体実験ー東京帝大医学部の犯罪』美馬聰昭著 桐書房より
「日本医事新報」1955年12月17日号で、「小泉親彦を語る」と題して、座談会が持たれているが、小泉について、宮川米次は次のように語っている。
「私が、小泉君と相知ったのは、高等学校時代である岡山六高で、私とちょうど2つ違いである。その交友のはじまりには、面白いことがある 。 1901年のことであるが、賄い(寮の食事)の問題を中心として学校騒動をやった。その時からである。当時小泉君は、2部(医学部)の3年で最上級、私は1年であったが私もやんちゃをやるのは、人後に落ちなかったし、叉ちょうど1 年生の総代をやっていたから,すなわち両人相知る機会をえて,本当に兄貴のように、尊敬と親しみを感じていた。彼は事あるごとに、よく面倒をみてくれた。それは、私が東大に行ってからも続き、その後も小泉君とは一生変わらない間柄であった。
六高では、小泉君は、二回目、私は、四回目の卒業生である。六校会を開いて東京で酒を飲んでも、いつでも小泉君は、大将になってやってくる。酒も非常に強かった。ご承知の通り、六高という高等学校は、酒を飲んではいけない学校であった。それをその当時から飲もうと行って、たいてい牛肉屋でやった。必ず四合びんから、コップでぐいっと飲むという恰好であった。しかし気にいらないと一滴も飲まない、そういうところは年をとってからでも同じであった。
厚生省をつくったのは当時首相であった近衛文麿であるがその機運をつくったのは小泉と私であります.
1937年夏、いよいよ日中戦争(7月7日)がひどくなったある夜 一緒に酒を飲んだとき、小泉君がどうしても健民主義(健康な神民をつくる)で行かなければならない時なので、何とか近衛文麿(総理)を動かさなければならないので、 一寸骨を折ってくれるように頼まれた。
その結果、1937年8月6日保健省の予算が通り、紆余曲折はあったが、厚生省(1938年1月11 日成立)ができた。その後1,2年たって第2次近衛内閣のとき、厚生行政はぜひ医学畑の人から出ないと伴食大臣(役に立たない大臣)になってしまうと話したら、私に厚生大臣になれといわれたが、私は同仁会のことでお国に尽くしているからと固辞した。
小泉君を厚生大臣にしてくれないかと頼んだが、軍の現職にいるものを引っ張ると、軍から何をいわれるか解らない、ということで中止になった。このとき小泉とはどんな人かと近衛公に聞かれた。
第三次内閣のときにも、近衛公から同じような話があり、また私にやれといわれた。このときも同じように、私は同仁会のことで手が回らないと話した。今度は一度小泉君にあってみたい、チャンスをつくるようにといわれた。近衛公という人は、やはり気にいると酒もなかなか強い。そこで大いに三人で飲んだ。近衛公も完全に了解した。小泉君もまた腹がすわったので、それは面白い光景だった。」
その後、小泉は、1941年7月18日の第二次近衛内閣で、厚生大臣になる。この年の12月8日、日本は、ハワイの真珠湾の奇襲攻撃を行い、太平洋戦争が始まった。
小泉は、1944年7月22日まで、厚生大臣を務めた。その後、勅選によって貴族院議員となったが、そこでは、一言も発言しなかった。
小泉厚生大臣になった翌年の1942年10月から、全国民へのBCG接種に踏み切った。
このときは、まだ第八小(結核予防)委員会報告書は提出されていなかった。まずは、国民学校(現在の小学校)修了時の者について開始、その後、接種対象者は国民体力法(1940年4月に制定されたもので一五歳∼一九歳男子が対象)の対象になっていた青年男子ばかりでなく、学校に通学する児童生徒、工場で働く労働者、そして結核家族に及ぶ。全国民へと広げた。これによって、戦前 1000万人を超える国民がBCG接種を受けることになったのである。
小泉親彦と宮川米次の絆
『検証・中国に於ける生体実験ー東京帝大医学部の犯罪』美馬聰昭著 桐書房より
「日本医事新報」1955年12月17日号で、「小泉親彦を語る」と題して、座談会が持たれているが、小泉について、宮川米次は次のように語っている。
「私が、小泉君と相知ったのは、高等学校時代である岡山六高で、私とちょうど2つ違いである。その交友のはじまりには、面白いことがある 。 1901年のことであるが、賄い(寮の食事)の問題を中心として学校騒動をやった。その時からである。当時小泉君は、2部(医学部)の3年で最上級、私は1年であったが私もやんちゃをやるのは、人後に落ちなかったし、叉ちょうど1 年生の総代をやっていたから,すなわち両人相知る機会をえて,本当に兄貴のように、尊敬と親しみを感じていた。彼は事あるごとに、よく面倒をみてくれた。それは、私が東大に行ってからも続き、その後も小泉君とは一生変わらない間柄であった。
六高では、小泉君は、二回目、私は、四回目の卒業生である。六校会を開いて東京で酒を飲んでも、いつでも小泉君は、大将になってやってくる。酒も非常に強かった。ご承知の通り、六高という高等学校は、酒を飲んではいけない学校であった。それをその当時から飲もうと行って、たいてい牛肉屋でやった。必ず四合びんから、コップでぐいっと飲むという恰好であった。しかし気にいらないと一滴も飲まない、そういうところは年をとってからでも同じであった。
厚生省をつくったのは当時首相であった近衛文麿であるがその機運をつくったのは小泉と私であります.
1937年夏、いよいよ日中戦争(7月7日)がひどくなったある夜 一緒に酒を飲んだとき、小泉君がどうしても健民主義(健康な神民をつくる)で行かなければならない時なので、何とか近衛文麿(総理)を動かさなければならないので、 一寸骨を折ってくれるように頼まれた。
その結果、1937年8月6日保健省の予算が通り、紆余曲折はあったが、厚生省(1938年1月11 日成立)ができた。その後1,2年たって第2次近衛内閣のとき、厚生行政はぜひ医学畑の人から出ないと伴食大臣(役に立たない大臣)になってしまうと話したら、私に厚生大臣になれといわれたが、私は同仁会のことでお国に尽くしているからと固辞した。
小泉君を厚生大臣にしてくれないかと頼んだが、軍の現職にいるものを引っ張ると、軍から何をいわれるか解らない、ということで中止になった。このとき小泉とはどんな人かと近衛公に聞かれた。
第三次内閣のときにも、近衛公から同じような話があり、また私にやれといわれた。このときも同じように、私は同仁会のことで手が回らないと話した。今度は一度小泉君にあってみたい、チャンスをつくるようにといわれた。近衛公という人は、やはり気にいると酒もなかなか強い。そこで大いに三人で飲んだ。近衛公も完全に了解した。小泉君もまた腹がすわったので、それは面白い光景だった。」
その後、小泉は、1941年7月18日の第二次近衛内閣で、厚生大臣になる。この年の12月8日、日本は、ハワイの真珠湾の奇襲攻撃を行い、太平洋戦争が始まった。
小泉は、1944年7月22日まで、厚生大臣を務めた。その後、勅選によって貴族院議員となったが、そこでは、一言も発言しなかった。
小泉厚生大臣になった翌年の1942年10月から、全国民へのBCG接種に踏み切った。
このときは、まだ第八小(結核予防)委員会報告書は提出されていなかった。まずは、国民学校(現在の小学校)修了時の者について開始、その後、接種対象者は国民体力法(1940年4月に制定されたもので一五歳∼一九歳男子が対象)の対象になっていた青年男子ばかりでなく、学校に通学する児童生徒、工場で働く労働者、そして結核家族に及ぶ。全国民へと広げた。これによって、戦前 1000万人を超える国民がBCG接種を受けることになったのである。
小泉親彦と昭和天皇
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小泉親彦と昭和天皇
『検証・中国に於ける生体実験ー東京帝大医学部の犯罪』美馬聰昭著 桐書房より
小泉親彦(東大、1908年卒)は、東大の不真面目な医学生であった。時々教室から抜け出し、よく汁粉屋に行っていた。当然彼の成績はよくなかった。彼は1908年東大を卒業した。
卒後は陸軍に入隊。1910年には軍需工場で働く者の生活実態を調査し、「工人の生計および衛生」、1916年には「日射病の本態に関する実験的研究」を発表し、東京医学会(東大医学部卒業生の会)から、両論文とも優秀論文賞を受賞している。1914年6月、30歳で陸軍軍医学校の衛生学教室教官に任命されている。このとき一時毒ガスの研究に走り、1918年には毒ガスの防毒マスクの試作品をつくり、自ら生体実験を行ったが、排気室不備のため瀕死の重態になった。
「軍人は戦場で死ぬのが本懐(本望)なら、研究者が研究室で死ぬのは本懐である。」と言い張って、入院はせず、教官室のベッドで過ごしたという話は有名である。
彼は、1919年1月から1920年9月まで欧米各国へ留学に出かけた。
ちょうど第一次世界大戦が終わった頃で、戦勝国イギリスでは、1919年6月3日に英国保健省ができていた。これをみた小泉は、わが国にも内務省から独立した、英国保健省のような組織をつくることを夢見るようになった。このときすでに英国では結核問題を解決していた。
1921年7月には、陸軍の胸膜炎調査委員になり、わが国の結核問題の早期解決を決意している。
一方彼は人一倍、心底、現人神(この世に人間の姿をして現れた神)天皇の崇拝者でもあった。
その天皇(昭和天皇)が、1929年11月7日陸軍軍医学校新築を祝い、陸軍軍医学校に初めて行幸した。この様子が、『陸軍軍医学校五十年史』に書かれているが、現代語訳すると次のとおりになる。
「天皇は、9時45分に到着。学校長より陸軍軍医学校の沿革および現況について説明を受けた。その後休憩し、10時から見学を開始した。見学は第一講堂にはじまり、次いで標本室、軍陣衛生学教室および第二講堂に移られ、各室ともご熱心にご見学された。特に軍陣衛生学教室にては第一室より第九室まで各部屋とも丁寧にみられ、小泉教官の説明を熱心に聞かれた。特に兵衣、兵食における業績については、お褒めいただき、予定の時間を若干遅れた。最後に小泉は天皇と一緒に屋上まで上がったところ、朝から降っていた細雨(霧雨)がにわかに止んで、陽光が雲よりもれ、都下の風景が手に取るようにみえた。小泉教官は主要な建物の説明をした。
それに対して天皇は、いちいちうなずいていた。その後天皇は、再び便殿(天皇皇后などの休息所)に午前11時30分に入り、少し休息して11時40分に帰られた。」
『陸軍軍医学校五十年史』でみるかぎり、天皇は小泉にわざわざ会いにきた感があった。
その年の暮れも迫った12月24日、小泉は天皇から思し召しがあり、天皇、皇后を前にして、「被服地について」と題してご進講(講義)したのである。話の内容についての記載はないとのことであった(宮内庁による)が、ご進講は午後4時から始まり、天皇からの質問などがあり、1時間50分に及んだ。小泉は涙が止まらないほど感激し、皇居を去った。「これは小泉教官の光栄ばかりではなく、陸軍衛生部全体の名誉でもあった。」と『陸軍軍医学校五十年史』には書かれている。
背蔭河での生体実験は、陸海空軍の全面協力のもとに行われたわけで、天皇の許可なくしてこのような重大事を行うことは、できなかったはずである。この2回の天皇と小泉親彦の会談で、天皇は小泉を信じ、小泉に賭けてみたのではないかと考えらる。
小泉は、天皇と会談後の1932年4月には、近衛師団軍医部長になり、1933 年8月には陸軍軍医学校長に就任している。
また1932年8月には、石井軍医正以下5名の軍医を新たに配属して、防疫研究室を開設したが、研究の進行(背蔭河の研究)とともにすぐ狭くなったことで、翌年、近衛騎兵隊敷地約5000坪に新防疫研究室を新築した。
1933年4月工事費20万円をもって着工し、10月に完成した。建物は鉄筋コンクリート2階建てで、延べ1750㎡あった。建物の大きさは、北海道庁赤レンガ館1階フロアとほぼ同じである。このくらいの床面積があれば、背蔭河の実験材料の保存が可能であると推定した。
遠藤二郎の日記、1934年8月11日には、背蔭河訪問時には、良好な飛行場ができていたと記載されていた。陸軍防疫研究室ができると同時に狭くなり、急遽新築したということは、背蔭河の実験が順調に進んで、実験材料が急増し、陸軍防疫研究室に空輸されていたと思われる。
1934年3月5日小泉は陸軍軍医総監になった。彼は51歳で陸軍軍医として最高の地位に上り詰めたのである。
小泉親彦の甥小泉昂一郎(こういちろう)によると、戦後の1945年9月13日、夜8時過ぎ、目白警察署の署長が来訪。
明朝お迎えに来ますと言い、小泉はお役目ご苦労さまですと言った。それから変わったこともなく談笑し、11時頃立って仏間に入った。ここで香をたき、衣装を直し、備前久勝の軍刀で腹十字に切り、右頸動脈を切って絶息した。中国での生体実験の責任を、崇拝する天皇に累を及ぼさないために、自らの口を塞いだのであろう。
小泉親彦と昭和天皇
『検証・中国に於ける生体実験ー東京帝大医学部の犯罪』美馬聰昭著 桐書房より
小泉親彦(東大、1908年卒)は、東大の不真面目な医学生であった。時々教室から抜け出し、よく汁粉屋に行っていた。当然彼の成績はよくなかった。彼は1908年東大を卒業した。
卒後は陸軍に入隊。1910年には軍需工場で働く者の生活実態を調査し、「工人の生計および衛生」、1916年には「日射病の本態に関する実験的研究」を発表し、東京医学会(東大医学部卒業生の会)から、両論文とも優秀論文賞を受賞している。1914年6月、30歳で陸軍軍医学校の衛生学教室教官に任命されている。このとき一時毒ガスの研究に走り、1918年には毒ガスの防毒マスクの試作品をつくり、自ら生体実験を行ったが、排気室不備のため瀕死の重態になった。
「軍人は戦場で死ぬのが本懐(本望)なら、研究者が研究室で死ぬのは本懐である。」と言い張って、入院はせず、教官室のベッドで過ごしたという話は有名である。
彼は、1919年1月から1920年9月まで欧米各国へ留学に出かけた。
ちょうど第一次世界大戦が終わった頃で、戦勝国イギリスでは、1919年6月3日に英国保健省ができていた。これをみた小泉は、わが国にも内務省から独立した、英国保健省のような組織をつくることを夢見るようになった。このときすでに英国では結核問題を解決していた。
1921年7月には、陸軍の胸膜炎調査委員になり、わが国の結核問題の早期解決を決意している。
一方彼は人一倍、心底、現人神(この世に人間の姿をして現れた神)天皇の崇拝者でもあった。
その天皇(昭和天皇)が、1929年11月7日陸軍軍医学校新築を祝い、陸軍軍医学校に初めて行幸した。この様子が、『陸軍軍医学校五十年史』に書かれているが、現代語訳すると次のとおりになる。
「天皇は、9時45分に到着。学校長より陸軍軍医学校の沿革および現況について説明を受けた。その後休憩し、10時から見学を開始した。見学は第一講堂にはじまり、次いで標本室、軍陣衛生学教室および第二講堂に移られ、各室ともご熱心にご見学された。特に軍陣衛生学教室にては第一室より第九室まで各部屋とも丁寧にみられ、小泉教官の説明を熱心に聞かれた。特に兵衣、兵食における業績については、お褒めいただき、予定の時間を若干遅れた。最後に小泉は天皇と一緒に屋上まで上がったところ、朝から降っていた細雨(霧雨)がにわかに止んで、陽光が雲よりもれ、都下の風景が手に取るようにみえた。小泉教官は主要な建物の説明をした。
それに対して天皇は、いちいちうなずいていた。その後天皇は、再び便殿(天皇皇后などの休息所)に午前11時30分に入り、少し休息して11時40分に帰られた。」
『陸軍軍医学校五十年史』でみるかぎり、天皇は小泉にわざわざ会いにきた感があった。
その年の暮れも迫った12月24日、小泉は天皇から思し召しがあり、天皇、皇后を前にして、「被服地について」と題してご進講(講義)したのである。話の内容についての記載はないとのことであった(宮内庁による)が、ご進講は午後4時から始まり、天皇からの質問などがあり、1時間50分に及んだ。小泉は涙が止まらないほど感激し、皇居を去った。「これは小泉教官の光栄ばかりではなく、陸軍衛生部全体の名誉でもあった。」と『陸軍軍医学校五十年史』には書かれている。
背蔭河での生体実験は、陸海空軍の全面協力のもとに行われたわけで、天皇の許可なくしてこのような重大事を行うことは、できなかったはずである。この2回の天皇と小泉親彦の会談で、天皇は小泉を信じ、小泉に賭けてみたのではないかと考えらる。
小泉は、天皇と会談後の1932年4月には、近衛師団軍医部長になり、1933 年8月には陸軍軍医学校長に就任している。
また1932年8月には、石井軍医正以下5名の軍医を新たに配属して、防疫研究室を開設したが、研究の進行(背蔭河の研究)とともにすぐ狭くなったことで、翌年、近衛騎兵隊敷地約5000坪に新防疫研究室を新築した。
1933年4月工事費20万円をもって着工し、10月に完成した。建物は鉄筋コンクリート2階建てで、延べ1750㎡あった。建物の大きさは、北海道庁赤レンガ館1階フロアとほぼ同じである。このくらいの床面積があれば、背蔭河の実験材料の保存が可能であると推定した。
遠藤二郎の日記、1934年8月11日には、背蔭河訪問時には、良好な飛行場ができていたと記載されていた。陸軍防疫研究室ができると同時に狭くなり、急遽新築したということは、背蔭河の実験が順調に進んで、実験材料が急増し、陸軍防疫研究室に空輸されていたと思われる。
1934年3月5日小泉は陸軍軍医総監になった。彼は51歳で陸軍軍医として最高の地位に上り詰めたのである。
小泉親彦の甥小泉昂一郎(こういちろう)によると、戦後の1945年9月13日、夜8時過ぎ、目白警察署の署長が来訪。
明朝お迎えに来ますと言い、小泉はお役目ご苦労さまですと言った。それから変わったこともなく談笑し、11時頃立って仏間に入った。ここで香をたき、衣装を直し、備前久勝の軍刀で腹十字に切り、右頸動脈を切って絶息した。中国での生体実験の責任を、崇拝する天皇に累を及ぼさないために、自らの口を塞いだのであろう。
自衛隊とサリン
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地下鉄サリン事件
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
週間金曜日 2013年5月17日号
自衛隊とサリン 第1回
「私は自衛隊で毒ガス・サリンの製造に関わっていた」
世界を揺るがした地下鉄サリン事件より数十年も前から、陸上自衛隊はサリンを製造していたことが複数の資料と証言で明らかになった。サリンだけではない。VX、タブンといった猛毒の殺人ガスも・・・・。非核三原則と同様、日本政府は毒ガスについても「持たず、作らず、持ち込ませず」などと表明していたが、自衛隊によるサリン製造が事実なら(これは事実であった!!)、毒ガスのをめぐる戦後の歴史が塗り替えられる可能性がある。(塗り替えられた!!)
※日本が95年9月に批准した現行の化学兵器禁止条約では、サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有が包括的に禁止されているが、ここにも抜け道がある。同条約によれば、「生産量が年間1トン以下なら生産施設に当たらない」(第二条8)し、「防護目的」の生産・保有なら「この条約によって禁止されていない目的」(第二条9)に入る。国際機関である化学兵器禁止期間(OPCW)に申告し(第三条)、OPCWの査察を受け入れればその生産・保有・廃棄などが可能だ。防衛省によれば、同条約に基づき、1997年から2012年6月まで、計8回、OPCWの査察を受け、申告内容に問題がないことが確認されている、という。
週間金曜日 2013年5月24日号
自衛隊とサリン 第2回
元陸自化学学校長が毒ガス製造を認めた!
・サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
※国威発揚のオリンピックと戦争は大いに関係した。(1940年の東京オリンピック、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。この年皇紀2600年の記念行事として準備が進められていた。)
・1973年、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
毒ガス第2世代
第1次世界大戦(1914~18年)は「世界初の毒ガス戦争」とも言われる。・・・・
こうして1918年に終結した第1次世界大戦の中では、市民も含めて100万人以上が毒ガスを浴び、その1割に当たる約10万人が死亡したとされる。
その後も毒ガスの研究・開発は進み、第2次世界大戦(1939~45年)の前あるいは大戦中にナチス・ドイツが相次いで開発した毒ガスが「第2世代の毒ガス」と呼ばれるものだ。殺虫剤研究の中で1936年発見された「タブン」、そのタブンの2倍の毒性を持つと言われる「サリン」(1938年)、極秘に開発され第2次大戦終了後まで知られることはなかった「ソマン」(1944年)などである。
週間金曜日 2013年5月31日号
自衛隊とサリン 第3回
自衛隊は政府自民党をも欺いたのか?
1969年当時、「この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んで開発及び製造を禁止し、すでに貯蔵されているものをも破棄しなければならない」と国会答弁した佐藤栄作首相。(70年2月、国会での施政方針演説。)
・1950年代には米軍から毒ガス譲渡、60年代にはサリン製造。
・日本政府は再三にわたり毒ガス製造を否定!!
・毒ガスは「持たず、作らす、持ち込ませず」1970年代当時の日本政府の見解、全くの嘘だった!!
1970年当時の日本政府の見解
毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」
そもそも日本政府は毒ガスについてどのような見解を示してきたのか。
いわゆる毒ガスについて日本の国会で論戦に上がったのは大きく分けて次のような事件・事故、条約批准に絡んだ時期だ。
①沖縄の米軍・知花弾薬庫での毒ガス漏洩事故(1969年7月発生)及び毒ガス使用禁止を定めたジュネーブ議定書の批准(70年5月)。
②旧日本軍の毒ガス弾等全国調査(73年開始、2003年に結果発表)。
③地下鉄サリン事件(95年3月)及び化学兵器禁止条約の批准(同年9月)。
④中国での旧日本軍化学兵器遺棄問題(2000年から処理作業開始)や日本各地での旧軍の毒ガス弾など発見。
このうち、①の時期に絞って、毒ガスをめぐる日本政府の発言内容を紹介する。連載2回目(5月24日号)で山里洋介・元陸上幕僚監部化学室長が「サリンの合成に成功した」と証言した1964年の5、6年後だ。
まず、沖縄での毒ガス事故直後の1969年7月24日、第61回国会衆院本会議での佐藤栄作総理大臣(当時)の答弁を抜粋する。
〈政府の基本的な態度は、去る7月3日、ジュネーブの軍縮委員会における朝海代表の発言でおわかりの通り、この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んでその開発及び製造を禁止し、既に貯蔵されているものをも破棄しなければならないとするものであります〉。
また、翌70年の第63回国会で愛知揆一外務大臣(当時)も、ジュネーブ議定書批准(同年5月承認)に向けて日本政府の姿勢について、次のように答弁した。
〈日本政府の従来からの主張は、なるべく範囲を広くし、かつ、使用だけではなくて、製造あるいは貯蔵においてもこれを禁止するのが理想であるという主張をいたしておるわけでございます〉=衆議院予算委員会、70年2月26日。
こうした一連の発言が毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則と同様の日本政府の見解となってきた。
第63回国会では、興味深いやりとりがある。衆議院予算委員会での楢崎弥之助議員と中曽根康弘防衛庁長官(いずれも当時)との質疑応答の中で、「サリン」が登場するのである。要旨を抜粋し、紹介しよう。
楢崎:現在、自衛隊はBC(生物、化学)兵器関係の催涙剤も含めて、どういう種類のものをお持ちか。
中曽根:自衛隊が持っているのは催涙性のガスで、これは治安の場合に使うという程度のものであります。
楢崎:これ以外に置いてあるものはありませんか。
中曽根:それ以外にはありません。
楢崎:昨年、沖縄の米軍基地で問題になった、例のGBサリン、これを持っておるでしょう。
中曽根:政府答弁書にも書いてありますが、Gガスは持っておりません。(その後、実験用、研究用ではどうかなどと追及されると「浜田政府委員」が答弁に立ち・・・・)
浜田政府委員:実は、水の溶けました農薬あるいはそれに類するもの、それに対する浄水装置の試験でございまして、サリンを使ったものではございません。残念ながら、サリンそのものは作り出すことは現在の段階では出来ないのでありまして・・・・。
などと答えている。
「Gガス」とはジャーマンガス(ドイツのガス)のことで、「GB」とは米軍によるサリンのコードネームである(連載2回目参照)。
山里・元陸上幕僚監部化学室長の証言どおり、陸上自衛隊化学学校でサリンの合成に成功したのが1964年とすれば、ここに紹介した国会での政府側答弁はすべて実態を隠蔽した虚偽発言ということになる。かりに政府が自衛隊によるサリン製造の事実を知らなかったとすれば、シビリアンコントロール(文民統制)を無視した自衛隊の暴走ということにならないか。
それとも、自民党も毒ガスの製造、貯蔵のことを知っていたが、嘘を言って国民をだましているのか?
週間金曜日 2013年6月7日号
第4回
事件1報前に待機していた自衛隊。
・「解毒の方法を知っていますか?」
―事件発生数ヵ月前に化学学校に1本の電話が入った。
「・・・化学学校でサリンが製造されていることは自衛隊内部でも知られていないことなので、10人ほどの研究員はその電話に騒然となったようです。その数ヵ月後に地下鉄サリン事件が起き、あの電話はオウム(真理教の信者)からだったと再び騒然となったのです。・・・外部から直接電話が入ることもおかしいのですが、そもそも直通の番号を知っていること自体、あり得ない話なのです
・聖路加国際病院に、自衛隊中央病院の医師が突然現れた。「パムを使うといい」
・1報前に出動待機
実は、自衛隊は警視庁から防衛庁に「毒ガスらしきものが撒かれた」との1報が入る15分前に、すでに自衛隊中央病院に出動待機の連絡を出していた。
・・・以上の経緯を見れば、自衛隊は警視庁から事件の1報が入る前に原因物質がサリンであるとほぼ断定していたことになる。あるいは、この日のサリン撒布自体を事前に知っていたのではないかという疑問が生じる。事件後に称賛された除染活動も、こうして解毒剤をめぐる経緯を見ると、これまでとは違った色合いを帯びてこないか。
週間金曜日 2013年6月21日号
自衛隊とサリン 第5回
「『防護』というなら国民を守ってほしかった」
・繰り返された毒ガス殺人と未遂(オウム事件)
1993年11月・・・創価学会の池田大作名誉会長をサリンで襲撃失敗
1993年12月・・・同上
1994年5月9日・・・滝本弁護士をサリンで襲撃
1994年6月27日・・・松本サリン事件
1994年9月20日・・・ジャーナリスト江川紹子さんに毒ガス「ホスゲン」噴霧。
1994年12月12日・・・浜田忠仁さん殺人事件(VXガス)
1995年1月4日・・・永岡弘行さん殺人未遂事件(VXガス)
1995年3月20日・・・地下鉄サリン事件
1995年4月30日、5月3日、5月5日・・・東京新宿の地下トイレでテロ未遂事件(青酸ガス)
・(地下鉄サリン事件)事前に漏れた強制捜査の日にサリンは撒かれた
・警察も自衛隊のサリン製造を知らなかった?
・(自衛隊の情報)闇に閉じ込めておくとチェックも出来ない!!秘密にするな!!
週間金曜日 2013年6月28日号
自衛隊とサリン 第6回
「大宮駐屯地グランドに毒物入り一斗缶10缶を埋めた」
・「われわれはモルモットかよ!」-新型防護マスクの“人体実験”
・環境汚染の恐れは無いか、近くに民家や学校も
・「今も続く毒ガス製造と遺棄の解明が必要」
・防衛大臣、化学学校ともに事実上の取材拒否
サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器の「防護研究」も可能ということになる。
日本は国内外にも約44トンのプルトニウムを保有している(2012年9月、日本政府発表)。核兵器1発に使用されるプルトニウムの量は約4キログラム(IAEA=国際原子力機関によると倍の8キログラム)とされるので、数字上は5500~1万1000発の原子爆弾を作ることが可能だ。
陸上自衛隊の毒ガスは、どこまでが「防護研究」なのかを明確にしないまま、極秘裏に開発が進められた。そのため、国民(国会)のチェックはおろか、その事実さえ知られずに半世紀にわたりサリンが作られ続けてきたのである。
731部隊の設置許可、人体実験、毒ガス戦・細菌戦実施の許可した昭和天皇とそれに協力した日本医学界の責任、戦後、その人体実験、毒ガス戦・細菌戦を全く裁判にかけなかったマッカーサーとアメリカ政府の責任、1990年代から2000年代にかけて行われた裁判において、事実を認めながら、それを放置している司法・政治の責任、国民の認識は?
※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器の「防護研究」も可能ということになる。
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、核兵器!!こんな構図か?
【読み進めるうちに、幹部候補生用『特殊武器防護』がただの教科書ではないことがわかってきた。
これは防護技術を中心に解説しながらそのじつ、ほとんどサリン使用についてのマニュアルなのだ。
例えば、こういう記述がある。
「通常、蒸気程度の野外濃度においては神経剤は皮膚呼吸の危険性は少ない。したがって防護マスクの使用により気状のG剤は防護可能である。しかし、気状エアゾルの吸入及び液滴の眼・皮膚への付着は致命的で迅速な処置を必要とする」
防護マスクをつければ、サリンから身を守ることができるというのである。
裏を返せば、防毒マスクをつければ、サリンをエアゾル化して散布できるということでもある。】(『悪魔の白い霧』下里正樹著)
この防護衣を作っているのは、戦前から一貫して「軍」にその手のものを納入している藤倉ゴムである。・・・・
防毒マスクはどうか。こちらは奥研が納入メーカーである。・・・・
そのテストは、防護衣の材質をサリンガスに曝露するするものであろう。場合によっては、動物実験も行われているのではないか。
50年前までは、日本の対毒ガス用防護装備の水準は、世界一であった。・・・
元毒ガス部隊将校の証言によると、日本軍が持っていた当時最強の毒ガスは「茶」と呼ばれる青酸ガスだった。
陸軍第六研は、世界各国の防毒マスクを取り寄せ、「茶」に対する防護実験を行なった。
実験は、当時満州のハルビンから南方20キロの平房の地にあった731部隊の中で行われた。悪名高い細菌戦部隊の施設内である。
実験には多数の生きた人間モルモットが使われた。マルタと呼ばれる捕虜である。
実験の結果、青酸ガスに対して当時日本陸軍の防毒マスクが、最も防護性能が高いと分かった。
松本サリン事件・地下鉄サリン事件当時、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護の措置を熟知していたのは自衛隊化学学校だけである。
『オウムの黒い霧』を読んでいると、オウムの信者に自衛隊員が25名もいたという。その中の1人に自衛隊化学学校に勤めていた防衛大学校32期の2等陸尉がいたという。
果たしてオウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの力でサリンは製造できたのだろうか?プラントの知識もなくては製造不能!!
化学学校の情報は漏れていなかったのか???化学学校の管理体制はどうだったのか、自衛隊の毒ガス(製造技術)の管理は0に近い状態???
『悪魔の白い霧』(下里正樹著)には、「犯人はどこかの国の「軍」の化学兵器製造・使用・防護・治療のノウハウを入手した。また化学兵器のプロが実地に技術指導した。そう考えざるを得ない。」とか、「松本サリン事件発生翌日の午後、現場で土・水などの採集作業を行ったの作業服姿の男たちの正体は、埼玉県大宮市の陸上自衛隊大宮化学学校から来た毒ガス分析チームであった。長野県衛生公害研究所と自衛隊大宮化学学校。複数のラインが出した毒ガス分析データの詳細は、いまだ伏せられたままである。(事件発生から1ヶ月ほど経過した時点か?)」と書かれている。
地下鉄サリン事件
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
週間金曜日 2013年5月17日号
自衛隊とサリン 第1回
「私は自衛隊で毒ガス・サリンの製造に関わっていた」
世界を揺るがした地下鉄サリン事件より数十年も前から、陸上自衛隊はサリンを製造していたことが複数の資料と証言で明らかになった。サリンだけではない。VX、タブンといった猛毒の殺人ガスも・・・・。非核三原則と同様、日本政府は毒ガスについても「持たず、作らず、持ち込ませず」などと表明していたが、自衛隊によるサリン製造が事実なら(これは事実であった!!)、毒ガスのをめぐる戦後の歴史が塗り替えられる可能性がある。(塗り替えられた!!)
※日本が95年9月に批准した現行の化学兵器禁止条約では、サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有が包括的に禁止されているが、ここにも抜け道がある。同条約によれば、「生産量が年間1トン以下なら生産施設に当たらない」(第二条8)し、「防護目的」の生産・保有なら「この条約によって禁止されていない目的」(第二条9)に入る。国際機関である化学兵器禁止期間(OPCW)に申告し(第三条)、OPCWの査察を受け入れればその生産・保有・廃棄などが可能だ。防衛省によれば、同条約に基づき、1997年から2012年6月まで、計8回、OPCWの査察を受け、申告内容に問題がないことが確認されている、という。
週間金曜日 2013年5月24日号
自衛隊とサリン 第2回
元陸自化学学校長が毒ガス製造を認めた!
・サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
※国威発揚のオリンピックと戦争は大いに関係した。(1940年の東京オリンピック、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。この年皇紀2600年の記念行事として準備が進められていた。)
・1973年、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
毒ガス第2世代
第1次世界大戦(1914~18年)は「世界初の毒ガス戦争」とも言われる。・・・・
こうして1918年に終結した第1次世界大戦の中では、市民も含めて100万人以上が毒ガスを浴び、その1割に当たる約10万人が死亡したとされる。
その後も毒ガスの研究・開発は進み、第2次世界大戦(1939~45年)の前あるいは大戦中にナチス・ドイツが相次いで開発した毒ガスが「第2世代の毒ガス」と呼ばれるものだ。殺虫剤研究の中で1936年発見された「タブン」、そのタブンの2倍の毒性を持つと言われる「サリン」(1938年)、極秘に開発され第2次大戦終了後まで知られることはなかった「ソマン」(1944年)などである。
週間金曜日 2013年5月31日号
自衛隊とサリン 第3回
自衛隊は政府自民党をも欺いたのか?
1969年当時、「この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んで開発及び製造を禁止し、すでに貯蔵されているものをも破棄しなければならない」と国会答弁した佐藤栄作首相。(70年2月、国会での施政方針演説。)
・1950年代には米軍から毒ガス譲渡、60年代にはサリン製造。
・日本政府は再三にわたり毒ガス製造を否定!!
・毒ガスは「持たず、作らす、持ち込ませず」1970年代当時の日本政府の見解、全くの嘘だった!!
1970年当時の日本政府の見解
毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」
そもそも日本政府は毒ガスについてどのような見解を示してきたのか。
いわゆる毒ガスについて日本の国会で論戦に上がったのは大きく分けて次のような事件・事故、条約批准に絡んだ時期だ。
①沖縄の米軍・知花弾薬庫での毒ガス漏洩事故(1969年7月発生)及び毒ガス使用禁止を定めたジュネーブ議定書の批准(70年5月)。
②旧日本軍の毒ガス弾等全国調査(73年開始、2003年に結果発表)。
③地下鉄サリン事件(95年3月)及び化学兵器禁止条約の批准(同年9月)。
④中国での旧日本軍化学兵器遺棄問題(2000年から処理作業開始)や日本各地での旧軍の毒ガス弾など発見。
このうち、①の時期に絞って、毒ガスをめぐる日本政府の発言内容を紹介する。連載2回目(5月24日号)で山里洋介・元陸上幕僚監部化学室長が「サリンの合成に成功した」と証言した1964年の5、6年後だ。
まず、沖縄での毒ガス事故直後の1969年7月24日、第61回国会衆院本会議での佐藤栄作総理大臣(当時)の答弁を抜粋する。
〈政府の基本的な態度は、去る7月3日、ジュネーブの軍縮委員会における朝海代表の発言でおわかりの通り、この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んでその開発及び製造を禁止し、既に貯蔵されているものをも破棄しなければならないとするものであります〉。
また、翌70年の第63回国会で愛知揆一外務大臣(当時)も、ジュネーブ議定書批准(同年5月承認)に向けて日本政府の姿勢について、次のように答弁した。
〈日本政府の従来からの主張は、なるべく範囲を広くし、かつ、使用だけではなくて、製造あるいは貯蔵においてもこれを禁止するのが理想であるという主張をいたしておるわけでございます〉=衆議院予算委員会、70年2月26日。
こうした一連の発言が毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則と同様の日本政府の見解となってきた。
第63回国会では、興味深いやりとりがある。衆議院予算委員会での楢崎弥之助議員と中曽根康弘防衛庁長官(いずれも当時)との質疑応答の中で、「サリン」が登場するのである。要旨を抜粋し、紹介しよう。
楢崎:現在、自衛隊はBC(生物、化学)兵器関係の催涙剤も含めて、どういう種類のものをお持ちか。
中曽根:自衛隊が持っているのは催涙性のガスで、これは治安の場合に使うという程度のものであります。
楢崎:これ以外に置いてあるものはありませんか。
中曽根:それ以外にはありません。
楢崎:昨年、沖縄の米軍基地で問題になった、例のGBサリン、これを持っておるでしょう。
中曽根:政府答弁書にも書いてありますが、Gガスは持っておりません。(その後、実験用、研究用ではどうかなどと追及されると「浜田政府委員」が答弁に立ち・・・・)
浜田政府委員:実は、水の溶けました農薬あるいはそれに類するもの、それに対する浄水装置の試験でございまして、サリンを使ったものではございません。残念ながら、サリンそのものは作り出すことは現在の段階では出来ないのでありまして・・・・。
などと答えている。
「Gガス」とはジャーマンガス(ドイツのガス)のことで、「GB」とは米軍によるサリンのコードネームである(連載2回目参照)。
山里・元陸上幕僚監部化学室長の証言どおり、陸上自衛隊化学学校でサリンの合成に成功したのが1964年とすれば、ここに紹介した国会での政府側答弁はすべて実態を隠蔽した虚偽発言ということになる。かりに政府が自衛隊によるサリン製造の事実を知らなかったとすれば、シビリアンコントロール(文民統制)を無視した自衛隊の暴走ということにならないか。
それとも、自民党も毒ガスの製造、貯蔵のことを知っていたが、嘘を言って国民をだましているのか?
週間金曜日 2013年6月7日号
第4回
事件1報前に待機していた自衛隊。
・「解毒の方法を知っていますか?」
―事件発生数ヵ月前に化学学校に1本の電話が入った。
「・・・化学学校でサリンが製造されていることは自衛隊内部でも知られていないことなので、10人ほどの研究員はその電話に騒然となったようです。その数ヵ月後に地下鉄サリン事件が起き、あの電話はオウム(真理教の信者)からだったと再び騒然となったのです。・・・外部から直接電話が入ることもおかしいのですが、そもそも直通の番号を知っていること自体、あり得ない話なのです
・聖路加国際病院に、自衛隊中央病院の医師が突然現れた。「パムを使うといい」
・1報前に出動待機
実は、自衛隊は警視庁から防衛庁に「毒ガスらしきものが撒かれた」との1報が入る15分前に、すでに自衛隊中央病院に出動待機の連絡を出していた。
・・・以上の経緯を見れば、自衛隊は警視庁から事件の1報が入る前に原因物質がサリンであるとほぼ断定していたことになる。あるいは、この日のサリン撒布自体を事前に知っていたのではないかという疑問が生じる。事件後に称賛された除染活動も、こうして解毒剤をめぐる経緯を見ると、これまでとは違った色合いを帯びてこないか。
週間金曜日 2013年6月21日号
自衛隊とサリン 第5回
「『防護』というなら国民を守ってほしかった」
・繰り返された毒ガス殺人と未遂(オウム事件)
1993年11月・・・創価学会の池田大作名誉会長をサリンで襲撃失敗
1993年12月・・・同上
1994年5月9日・・・滝本弁護士をサリンで襲撃
1994年6月27日・・・松本サリン事件
1994年9月20日・・・ジャーナリスト江川紹子さんに毒ガス「ホスゲン」噴霧。
1994年12月12日・・・浜田忠仁さん殺人事件(VXガス)
1995年1月4日・・・永岡弘行さん殺人未遂事件(VXガス)
1995年3月20日・・・地下鉄サリン事件
1995年4月30日、5月3日、5月5日・・・東京新宿の地下トイレでテロ未遂事件(青酸ガス)
・(地下鉄サリン事件)事前に漏れた強制捜査の日にサリンは撒かれた
・警察も自衛隊のサリン製造を知らなかった?
・(自衛隊の情報)闇に閉じ込めておくとチェックも出来ない!!秘密にするな!!
週間金曜日 2013年6月28日号
自衛隊とサリン 第6回
「大宮駐屯地グランドに毒物入り一斗缶10缶を埋めた」
・「われわれはモルモットかよ!」-新型防護マスクの“人体実験”
・環境汚染の恐れは無いか、近くに民家や学校も
・「今も続く毒ガス製造と遺棄の解明が必要」
・防衛大臣、化学学校ともに事実上の取材拒否
サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器の「防護研究」も可能ということになる。
日本は国内外にも約44トンのプルトニウムを保有している(2012年9月、日本政府発表)。核兵器1発に使用されるプルトニウムの量は約4キログラム(IAEA=国際原子力機関によると倍の8キログラム)とされるので、数字上は5500~1万1000発の原子爆弾を作ることが可能だ。
陸上自衛隊の毒ガスは、どこまでが「防護研究」なのかを明確にしないまま、極秘裏に開発が進められた。そのため、国民(国会)のチェックはおろか、その事実さえ知られずに半世紀にわたりサリンが作られ続けてきたのである。
731部隊の設置許可、人体実験、毒ガス戦・細菌戦実施の許可した昭和天皇とそれに協力した日本医学界の責任、戦後、その人体実験、毒ガス戦・細菌戦を全く裁判にかけなかったマッカーサーとアメリカ政府の責任、1990年代から2000年代にかけて行われた裁判において、事実を認めながら、それを放置している司法・政治の責任、国民の認識は?
※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器の「防護研究」も可能ということになる。
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、核兵器!!こんな構図か?
【読み進めるうちに、幹部候補生用『特殊武器防護』がただの教科書ではないことがわかってきた。
これは防護技術を中心に解説しながらそのじつ、ほとんどサリン使用についてのマニュアルなのだ。
例えば、こういう記述がある。
「通常、蒸気程度の野外濃度においては神経剤は皮膚呼吸の危険性は少ない。したがって防護マスクの使用により気状のG剤は防護可能である。しかし、気状エアゾルの吸入及び液滴の眼・皮膚への付着は致命的で迅速な処置を必要とする」
防護マスクをつければ、サリンから身を守ることができるというのである。
裏を返せば、防毒マスクをつければ、サリンをエアゾル化して散布できるということでもある。】(『悪魔の白い霧』下里正樹著)
この防護衣を作っているのは、戦前から一貫して「軍」にその手のものを納入している藤倉ゴムである。・・・・
防毒マスクはどうか。こちらは奥研が納入メーカーである。・・・・
そのテストは、防護衣の材質をサリンガスに曝露するするものであろう。場合によっては、動物実験も行われているのではないか。
50年前までは、日本の対毒ガス用防護装備の水準は、世界一であった。・・・
元毒ガス部隊将校の証言によると、日本軍が持っていた当時最強の毒ガスは「茶」と呼ばれる青酸ガスだった。
陸軍第六研は、世界各国の防毒マスクを取り寄せ、「茶」に対する防護実験を行なった。
実験は、当時満州のハルビンから南方20キロの平房の地にあった731部隊の中で行われた。悪名高い細菌戦部隊の施設内である。
実験には多数の生きた人間モルモットが使われた。マルタと呼ばれる捕虜である。
実験の結果、青酸ガスに対して当時日本陸軍の防毒マスクが、最も防護性能が高いと分かった。
松本サリン事件・地下鉄サリン事件当時、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護の措置を熟知していたのは自衛隊化学学校だけである。
『オウムの黒い霧』を読んでいると、オウムの信者に自衛隊員が25名もいたという。その中の1人に自衛隊化学学校に勤めていた防衛大学校32期の2等陸尉がいたという。
果たしてオウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの力でサリンは製造できたのだろうか?プラントの知識もなくては製造不能!!
化学学校の情報は漏れていなかったのか???化学学校の管理体制はどうだったのか、自衛隊の毒ガス(製造技術)の管理は0に近い状態???
『悪魔の白い霧』(下里正樹著)には、「犯人はどこかの国の「軍」の化学兵器製造・使用・防護・治療のノウハウを入手した。また化学兵器のプロが実地に技術指導した。そう考えざるを得ない。」とか、「松本サリン事件発生翌日の午後、現場で土・水などの採集作業を行ったの作業服姿の男たちの正体は、埼玉県大宮市の陸上自衛隊大宮化学学校から来た毒ガス分析チームであった。長野県衛生公害研究所と自衛隊大宮化学学校。複数のラインが出した毒ガス分析データの詳細は、いまだ伏せられたままである。(事件発生から1ヶ月ほど経過した時点か?)」と書かれている。
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