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731を問う!!
2018年11月9日金曜日
水俣病問題
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●水俣病問題
1956年(昭和31年)、熊本大学医学部の研究チームにより、有機水銀原因説が有力視されたのだが、同年11月12日には厚生省食品衛生調査会常任委員会・水俣食中毒特別部会が大学と同様の答申を出したところ、厚生省は翌13日に同部会を突如解散。1960年(昭和35年)4月、日本化学工業協会が塩化ビニール酢酸特別委員会の付属機関として、田宮猛雄・日本医学会会長を委員長とする「田宮委員会」を設置。後に熊本大学医学部研究班も加わることとなった。有機水銀説に対する異説として清浦雷作・東京工業大学教授らがアミン説を発表し、彼らの主張がそのままマスコミによって報道されたため、原因は未解明という印象を与えた。
(Wikipediaより)
医学は水俣病で何をしたか(抜粋)(ごんずい53号)宇井純
集中砲火を浴びた熊大研究班
原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた1959年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。(略)熊本大学医学部研究班が、東大を中心に水俣病をもみ消すために作られた田宮委員会に屈服し、チッソから金をもらって代表団をローマの国際神経学会に送ったのは1961年であり、64年にそれまでの研究をまとめたいわゆる赤本(熊本大学医学部水俣病研究班「水俣病-有機水銀中毒に関する研究-」・編集部注)が用意された段階では、水俣病を否定する医学界本流と熊大医学部の手打ち式は完了していたと見てよい。この赤本にはチッソから費用が出ていることが明記されている。(略)この間医学界主流にあった東京大学医学部を中心として作られた田宮委員会は、水俣病つぶしの有力な手段であり、日本化学工業協会とチッソから研究費をもらっていたが、表に出ないもくろみは、米国の公衆衛生院(NIH)から熊大へ支給された三万ドルの研究費をねらったらしいことが、複数の関係者の証言で裏づけられる。もみ消しだけで十分犯罪的である上に、横取りまで考えていたとなるとおそろしい話である。(略)日本医学会会頭、東大名誉教授田宮猛雄を委員長とし、公衆衛生学教授勝沼晴雄を幹事長とした田宮委員会と対立するということは、いわば日本医学界全体を敵とすることを意味する。こうして孤立した熊大医学部としては、水俣病の病像をすでに文献記載があって誰も文句のつけられないハンター・ラッセル症候群に限定しておくことが有利であった。新しい症状などをつけ加えたら、ますます学会から袋だたきにあうであろう。
出たよ出たよ。大企業は金で権威を買収し、自分たちに有利にマスコミを操作する手法は、今も昔も変わっていない。東電からは、200億円ともいわれる資金がマスコミに流れており、有名大学への寄付金も含めると、いかほどになるものか図りかねる。そして『原子力政策は国策です。個人の意見で左右されるものではありません。』なんていうお人好しを生んでいくのだ。原発稼動を望んでいる皆さん。原発は誰にとって「益」があるかおわかりですか?それは、原子力事業にかかわる天下り先を確保できる行政のトップの人々であり、経団連と関係のある原発建設関連の会社です。地元が補助金で潤うというのは見せかけであり、後々は補助金漬けで自立できない体質へと変えられ、震災が起これば土地を捨てて流浪の民になるしかないことは、もう福島で証明されてるじゃない?それでも原発は必要っていう人は、どんな洗脳をされてるんだろう?いろんなデータから客観的に判断する力を持とうよ。いいですか、もう一度言います。水俣病の時、当時の自民党政権は国民を守ることをせず、日本化学工業協会の利益を優先しました。その政権が推し進めた「原子力政策」が、誰のためのものであるか。今一度冷静に考えてみてください。
●全く活かされていない水俣病の教訓 -- 環境省の報告書を読んで類似性に唖然!
半世紀以上前に起きた水俣病を若い世代の人たちはほとんど知らないと思うが、
いまだに多くの人が苦しんでいるし裁判も係争中だ。
環境省・国立水俣病総合研究センターがまとめた水俣病の報告書がここにある。
「水俣病の悲劇を繰り返さないために --水俣病の経験から学ぶもの--」
http://www.nimd.go.jp/syakai/webversion/houkokushov3-1.html
通産省(当時)に責任転嫁するような表現が気になるが、内容はまともな報告書である。
少し長いがぜひ読んでいただきたい。福島原発事故と非常によく似ていることに驚くだろう。
類似点をいくつか挙げよう。
- 最初に起きた動物の異変 (ネコの狂死)
- 早くからわかっていた健康被害とその原因
- 御用学者の暗躍、インチキ学説による真の原因の隠蔽
- マスコミによる事実隠蔽、誤認報道
- 住民の健康・生命軽視
- 天下り先・大企業の利益最優先
- これだけの産業が止まったら日本経済に大打撃を与えるという殺し文句
- 全く動かない検察、全く問われない刑事責任
- 抗議する市民、被害者への弾圧
- 被害者に対する偏見と差別
- 全くされなかった汚染海域の漁業規制。漁協による操業自粛のみ。
- 関係者による水飲み安全パフォーマンス
報告書から一つ引用しよう。
----(引用ここから)-----------------------------------------------
<コラム>[通産省のチッソ擁護姿勢]
水産庁をかかえる農林省からの出向者は、排水を止めるべきだという主張もしていた。だが汲田は、通産省の官房に毎週のように呼び出され、強い指示を受ける。
「『頑張れ』と言われるんです。『抵抗しろ』と。止めたほうがいいんじゃないですかね、なんて言うと、『何言ってるんだ。今止めてみろ。チッソが、これだけの産業が止まったら日本の高度成長はありえない。ストップなんてことにならんようにせい』と厳しくやられたものね」
結局、経企庁も通産省も、水銀に関する水質規制や排水停止の措置はとらず、チッソの排水はそのまま流れ続けることになった。水俣の沿岸に水質規制が実施されたのは、水俣工場がアセトアルデヒド工場をスクラップしたあとの、1969年のことだった。
----(引用ここまで)-----------------------------------------------
チッソ→東電、水銀→放射能と置き換えれば、今起きていることそのものだ。
要するに役者が変わっただけで台本は全く同じなのである。結末もまた同じであろう。
一つ、非常に気がかりなのは、真の原因を隠蔽したまま迅速に対応をとらなかったために、
第二の水俣病が新潟県で発生してしまった事実だ。
これは、グズグズとまともな安全対策を施さないうちに、どこかの原発でまた致命的な爆発が起きることを示唆している。
それを考えると夜も眠れない。
もう一つ、序文から引用しよう。
------(引用ここから)----------------------------------------------
水俣病を経験した我が国は、これを教訓として、このような悲惨な公害がこの地球上で繰り返されることのないよう、日本国内のみならず、世界の国々に対しても、積極的な貢献をしていくべきである。
そのためには、水俣病がなぜ起こり、なぜ拡大したのか、また、なぜ発見から政府による公式見解まで12年間もかかったのか。その時々における行政決断の遅れや研究者、地域住民、原因企業等の対応を検証し、水俣病の経験から教訓を明らかにしたい。
そして、特に最終章を読む際に、あわせて今の自分の置かれた立場を振り返って、自分は今同じ過ちを繰り返そうとしていないかどうかを 問い直していただきたい。
------(引用ここまで)----------------------------------------
いったい誰に向かって言っているのか。何一つ水俣病の教訓から学んでいないではないか。
唖然とするばかりだ。開いた口がふさがらない。
水俣病に限らず、ダイオキシン、アスベスト禍からサリドマイド、キノホルム、薬害エイズまで、
すべてこの国の政治家・役人の利権と、無関心・無責任が産み出した悲劇である。
早急に対策をとれば被害・損害は最小で済むのに、企業・天下り先の利益最優先で何もせず、悲惨な結果となる。
多くの生命が失われ、金銭的損害も莫大になる。
しかし誰も責任をとらない。何度でも同じ間違いを繰り返す。学習能力ゼロ。
ミミズのT字迷路学習という実験がある。
左に曲がったときだけ電気ショックを与えると、右にしか曲がらなくなるというものだ。ミミズも学習するらしい。
懲りずに何度でも同じ間違いを犯すこの国の政治家・役人は、ミミズ以下と言われてもしかたがあるまい。
先ほど福島原発事故も水俣と同じ結末になると書いたが、今回は数百、数千倍と規模が違う。
水俣病は中央官庁から遠く離れた一地方での「他人事」であったが、今回はそうではない。
すでに霞ヶ関・経産省前の植え込みは1万ベクレル/kg、チェルノブイリ強制移住地域並の汚染である。
大気も水も食品も信じられないほど汚染されてしまった。
無責任極まる政治家や役人も今回は被曝被害者である。首都圏の汚染から逃げることは不可能だ。
今までの無責任な公務員の度重なる悪事に、ついに天の裁きが下ったのだと思う。
それでも性懲りもなく、真実に目を閉じ、「安全です、問題ありません」と被曝で倒れるまで、
国家が崩壊するまで彼らは繰り返すのだろう。
ミミズ以下のバカ者につける薬はない。バカは死ななければ治らないのである。
●田宮猛夫
前回取り上げた福見秀雄、宮川正に続いて、今回は日本医師会会長であった田宮猛雄と731部隊、
福島原発事故とのつながりを見ていこう[1][2][3]。
[経歴] ([4]に加筆)
1889年 大阪府で生まれる。
1915年 東京帝國大学医科大学(現・東京大学医学部)を12月に卒業、伝染病研究所の技手となる。
1918年 伝染病研究所の技官となる。
1924年 医学博士号を取得。論文の題は「脾脱疽感染及び免疫に関する実験的研究」
1927年 東京帝國大学伝染病研究所教授に就任。
1931年 同大学医学部教授となる。衛生学講座を担当。
1944年 伝染病研究所第7代所長に就任。
1945年 同大医学部長に就任。
1948年 日本医学会会長に就任、亡くなるまで務める。
1949年 東京大学を停年退官。名誉教授となる。
1950年 日本医師会会長となり2期務める。
1960年 水俣病研究懇談会(田宮委員会)の委員長となる。
1962年 国立がんセンター初代総長となる。
1963年 日本学士院会員になる。7月11日に胃癌のため死去。墓所は大阪市阿倍野区。正三位、勲一等。
医学者としてこれ以上は望めない輝かしい経歴だが、御用医学者としての業績もまた超一流である。
田宮猛雄といえば、水俣病研究懇談会、通称「田宮委員会」での悪行が有名である。
医師会会長の権威を利用して、腐った魚を喰ったせいだなどという説をでっちあげ、
真の原因である有機水銀説をつぶし、被害を拡大させ新潟での第二水俣病まで引き起こした[5]。
しかし彼は731部隊にも深く関与しており、部隊員とも懇意で、戦後も人体実験をしていたことは
あまり知られていない。
彼の死後、追悼文集が出版されたが、その中で北岡正見、安東洪次、目黒康雄、田嶋嘉雄など
731関係者が勢ぞろいして思い出を語っている[6]。
731部隊マラリア菌研究班に所属していた目黒康雄は、軍医として戦地に送られるところを
田宮の計らいで防疫給水部(731部隊の別名)の職を斡旋してもらったと語っている。
田宮は「徴兵逃れ」をエサに教え子を731部隊へ送り込んでいたのである。
また田宮は731部隊の別働隊でもある北京の1855部隊へ出張していたとも言われている[7]。
田宮は731部隊第2代部隊長・北野政次とも非常に親しく、戦後、北野が東大伝研に現われたとき、
もっとも北野の庇護したのが田宮であった[8]。
また福見秀雄や北岡正見とも一緒に研究をしている[2]。
終戦直後、GHQの軍医が田宮を訪れ、米軍の資金提供を受けて共同研究を始めた[8]。
田宮は英語が流暢で、GHQの信頼も厚かった。
1947年、GHQの命令で厚生省と東大伝研が府中刑務所の受刑者に対し、発疹チフス人体実験をしている。
この件で田宮は北野政次らと深く関与している。
発疹チフス人体実験は北野らが731部隊で行なっており、いわばその"続編"であった。
1952年に新潟大内科の桂重鴻教授らが新潟精神病院で精神病患者149人にツツガムシ病リケッチアを注射し、
8人が死亡、1人が自殺というとんでもない事件(ツツガムシ病人体実験事件)が起きた[9]。
実は米軍の資金援助により田宮が北岡正見らによびかけてツツガムシ病研究グループを組織し、
この人体実験事件を主導したことも判明している[8]。
いくら米軍から無理難題を押しつけられても、731部隊での犯罪を不問にしてもらっているから断れないし、
断るつもりもなかったのだろう。
田宮は731部隊で多くの人間を犠牲にしたことを反省するどころか、戦後も人体実験を続けて得た功績で
着々と出世を続け、ついに医学者として最高のポスト、日本医師会の会長まで登りつめる。
田宮委員会は御用医学者として最後の大仕事であり、大勢の犠牲者を出した。
さすがにこれだけ悪事を重ねると天罰が下るようで、数年後、田宮は末期の胃がんで亡くなった。
手の施しようのない状態だったという。
トップレベルのがん専門医を結集させた国立がんセンターの総長でもあった彼にしては、
無様な死に方であった。
731部隊や水俣病の犠牲者の呪いかもしれない。
数々の凄惨な人体実験に関わってきた悪魔のような人間が、最高のポストである日本医師会
会長の席におさまる。悪夢のような話だが、これが日本の現実なのである。
残念なことに彼の死後も医学の倫理に反する人体実験の伝統は脈々と受け継がれている。
田宮が所長を務めた東大医科学研究所(旧伝染病研究所)や、初代総長となった国立がん研究センター
(旧国立がんセンター)に勤務した上昌広教授は、国立病院では患者の治療よりも研究の成果や
効率が優先され、陸海軍の亡霊がいまだに行き続けていると述べている[10]。
陸海軍というより731部隊の亡霊と言ったほうが正しいだろう。
その上教授も、福島原発事故が起きるや否や、本来ならすぐに避難させなければならない福島の住民を
だましてモルモットにし、白血病のデータを収集して金儲けや出世に利用しようとしている。
やっていることは731部隊と何ら変わりはない。
731部隊の人体実験の責任を追及し、関係者を処罰し医療倫理を正さなかったために、
本人の同意も得ずに人間をモルモット代わりに使う悪しき伝統が現在まで続いているのだ。
新薬や新しい治療法には臨床試験が必ず必要である。それなしには医学の進歩はない。
しかし臨床試験にあたっては、被験者に期待される効果と危険性をきちんと説明して
同意を得なければならない。
正しい判断が出来ない幼児や精神病患者、あるいはノーと言えない若い自衛隊員や受刑者をだまして
実験台にすることは絶対に許されないことだ。
福島も全く同じである。
住民に被ばくの危険性をきちんと伝えず、安全だとだましてモルモット代わりにするとは言語道断である。
これは立派な犯罪である。
ちなみに、田宮家一族は学者が多く、息子は被爆直後の広島で放射線が脳細胞に与えた
ダメージを調べた精神医学者・島薗安雄、孫が著名な宗教学者で、原子力を批判している
島薗進・東大名誉教授である。
島薗進氏は東大理科3類に合格したが、医学界の権威主義や倫理性軽視が問われた
東大医学部紛争の中で苦悩。「生きている意味を含め考え直そう」と宗教学へ進んだという[11]。
紛争中、水俣病被害を拡大させた田宮猛雄も厳しく批判・非難された。
頭脳明晰な島薗氏は、おそらく医学者になっても素晴らしい業績をあげただろうが、
医学界では常に悪名高い祖父の名がつきまとうのに耐えられなかったのだろう。
歴史上の事実をきちんと認識し、あやまりを正し反省しなければ、極悪非道が繰り返され、
いつまでたっても日本はまともな国になれないだろう。
●水俣病問題
1956年(昭和31年)、熊本大学医学部の研究チームにより、有機水銀原因説が有力視されたのだが、同年11月12日には厚生省食品衛生調査会常任委員会・水俣食中毒特別部会が大学と同様の答申を出したところ、厚生省は翌13日に同部会を突如解散。1960年(昭和35年)4月、日本化学工業協会が塩化ビニール酢酸特別委員会の付属機関として、田宮猛雄・日本医学会会長を委員長とする「田宮委員会」を設置。後に熊本大学医学部研究班も加わることとなった。有機水銀説に対する異説として清浦雷作・東京工業大学教授らがアミン説を発表し、彼らの主張がそのままマスコミによって報道されたため、原因は未解明という印象を与えた。
(Wikipediaより)
医学は水俣病で何をしたか(抜粋)(ごんずい53号)宇井純
集中砲火を浴びた熊大研究班
原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた1959年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。(略)熊本大学医学部研究班が、東大を中心に水俣病をもみ消すために作られた田宮委員会に屈服し、チッソから金をもらって代表団をローマの国際神経学会に送ったのは1961年であり、64年にそれまでの研究をまとめたいわゆる赤本(熊本大学医学部水俣病研究班「水俣病-有機水銀中毒に関する研究-」・編集部注)が用意された段階では、水俣病を否定する医学界本流と熊大医学部の手打ち式は完了していたと見てよい。この赤本にはチッソから費用が出ていることが明記されている。(略)この間医学界主流にあった東京大学医学部を中心として作られた田宮委員会は、水俣病つぶしの有力な手段であり、日本化学工業協会とチッソから研究費をもらっていたが、表に出ないもくろみは、米国の公衆衛生院(NIH)から熊大へ支給された三万ドルの研究費をねらったらしいことが、複数の関係者の証言で裏づけられる。もみ消しだけで十分犯罪的である上に、横取りまで考えていたとなるとおそろしい話である。(略)日本医学会会頭、東大名誉教授田宮猛雄を委員長とし、公衆衛生学教授勝沼晴雄を幹事長とした田宮委員会と対立するということは、いわば日本医学界全体を敵とすることを意味する。こうして孤立した熊大医学部としては、水俣病の病像をすでに文献記載があって誰も文句のつけられないハンター・ラッセル症候群に限定しておくことが有利であった。新しい症状などをつけ加えたら、ますます学会から袋だたきにあうであろう。
出たよ出たよ。大企業は金で権威を買収し、自分たちに有利にマスコミを操作する手法は、今も昔も変わっていない。東電からは、200億円ともいわれる資金がマスコミに流れており、有名大学への寄付金も含めると、いかほどになるものか図りかねる。そして『原子力政策は国策です。個人の意見で左右されるものではありません。』なんていうお人好しを生んでいくのだ。原発稼動を望んでいる皆さん。原発は誰にとって「益」があるかおわかりですか?それは、原子力事業にかかわる天下り先を確保できる行政のトップの人々であり、経団連と関係のある原発建設関連の会社です。地元が補助金で潤うというのは見せかけであり、後々は補助金漬けで自立できない体質へと変えられ、震災が起これば土地を捨てて流浪の民になるしかないことは、もう福島で証明されてるじゃない?それでも原発は必要っていう人は、どんな洗脳をされてるんだろう?いろんなデータから客観的に判断する力を持とうよ。いいですか、もう一度言います。水俣病の時、当時の自民党政権は国民を守ることをせず、日本化学工業協会の利益を優先しました。その政権が推し進めた「原子力政策」が、誰のためのものであるか。今一度冷静に考えてみてください。
●全く活かされていない水俣病の教訓 -- 環境省の報告書を読んで類似性に唖然!
半世紀以上前に起きた水俣病を若い世代の人たちはほとんど知らないと思うが、
いまだに多くの人が苦しんでいるし裁判も係争中だ。
環境省・国立水俣病総合研究センターがまとめた水俣病の報告書がここにある。
「水俣病の悲劇を繰り返さないために --水俣病の経験から学ぶもの--」
http://www.nimd.go.jp/syakai/webversion/houkokushov3-1.html
通産省(当時)に責任転嫁するような表現が気になるが、内容はまともな報告書である。
少し長いがぜひ読んでいただきたい。福島原発事故と非常によく似ていることに驚くだろう。
類似点をいくつか挙げよう。
- 最初に起きた動物の異変 (ネコの狂死)
- 早くからわかっていた健康被害とその原因
- 御用学者の暗躍、インチキ学説による真の原因の隠蔽
- マスコミによる事実隠蔽、誤認報道
- 住民の健康・生命軽視
- 天下り先・大企業の利益最優先
- これだけの産業が止まったら日本経済に大打撃を与えるという殺し文句
- 全く動かない検察、全く問われない刑事責任
- 抗議する市民、被害者への弾圧
- 被害者に対する偏見と差別
- 全くされなかった汚染海域の漁業規制。漁協による操業自粛のみ。
- 関係者による水飲み安全パフォーマンス
報告書から一つ引用しよう。
----(引用ここから)-----------------------------------------------
<コラム>[通産省のチッソ擁護姿勢]
水産庁をかかえる農林省からの出向者は、排水を止めるべきだという主張もしていた。だが汲田は、通産省の官房に毎週のように呼び出され、強い指示を受ける。
「『頑張れ』と言われるんです。『抵抗しろ』と。止めたほうがいいんじゃないですかね、なんて言うと、『何言ってるんだ。今止めてみろ。チッソが、これだけの産業が止まったら日本の高度成長はありえない。ストップなんてことにならんようにせい』と厳しくやられたものね」
結局、経企庁も通産省も、水銀に関する水質規制や排水停止の措置はとらず、チッソの排水はそのまま流れ続けることになった。水俣の沿岸に水質規制が実施されたのは、水俣工場がアセトアルデヒド工場をスクラップしたあとの、1969年のことだった。
----(引用ここまで)-----------------------------------------------
チッソ→東電、水銀→放射能と置き換えれば、今起きていることそのものだ。
要するに役者が変わっただけで台本は全く同じなのである。結末もまた同じであろう。
一つ、非常に気がかりなのは、真の原因を隠蔽したまま迅速に対応をとらなかったために、
第二の水俣病が新潟県で発生してしまった事実だ。
これは、グズグズとまともな安全対策を施さないうちに、どこかの原発でまた致命的な爆発が起きることを示唆している。
それを考えると夜も眠れない。
もう一つ、序文から引用しよう。
------(引用ここから)----------------------------------------------
水俣病を経験した我が国は、これを教訓として、このような悲惨な公害がこの地球上で繰り返されることのないよう、日本国内のみならず、世界の国々に対しても、積極的な貢献をしていくべきである。
そのためには、水俣病がなぜ起こり、なぜ拡大したのか、また、なぜ発見から政府による公式見解まで12年間もかかったのか。その時々における行政決断の遅れや研究者、地域住民、原因企業等の対応を検証し、水俣病の経験から教訓を明らかにしたい。
そして、特に最終章を読む際に、あわせて今の自分の置かれた立場を振り返って、自分は今同じ過ちを繰り返そうとしていないかどうかを 問い直していただきたい。
------(引用ここまで)----------------------------------------
いったい誰に向かって言っているのか。何一つ水俣病の教訓から学んでいないではないか。
唖然とするばかりだ。開いた口がふさがらない。
水俣病に限らず、ダイオキシン、アスベスト禍からサリドマイド、キノホルム、薬害エイズまで、
すべてこの国の政治家・役人の利権と、無関心・無責任が産み出した悲劇である。
早急に対策をとれば被害・損害は最小で済むのに、企業・天下り先の利益最優先で何もせず、悲惨な結果となる。
多くの生命が失われ、金銭的損害も莫大になる。
しかし誰も責任をとらない。何度でも同じ間違いを繰り返す。学習能力ゼロ。
ミミズのT字迷路学習という実験がある。
左に曲がったときだけ電気ショックを与えると、右にしか曲がらなくなるというものだ。ミミズも学習するらしい。
懲りずに何度でも同じ間違いを犯すこの国の政治家・役人は、ミミズ以下と言われてもしかたがあるまい。
先ほど福島原発事故も水俣と同じ結末になると書いたが、今回は数百、数千倍と規模が違う。
水俣病は中央官庁から遠く離れた一地方での「他人事」であったが、今回はそうではない。
すでに霞ヶ関・経産省前の植え込みは1万ベクレル/kg、チェルノブイリ強制移住地域並の汚染である。
大気も水も食品も信じられないほど汚染されてしまった。
無責任極まる政治家や役人も今回は被曝被害者である。首都圏の汚染から逃げることは不可能だ。
今までの無責任な公務員の度重なる悪事に、ついに天の裁きが下ったのだと思う。
それでも性懲りもなく、真実に目を閉じ、「安全です、問題ありません」と被曝で倒れるまで、
国家が崩壊するまで彼らは繰り返すのだろう。
ミミズ以下のバカ者につける薬はない。バカは死ななければ治らないのである。
●田宮猛夫
前回取り上げた福見秀雄、宮川正に続いて、今回は日本医師会会長であった田宮猛雄と731部隊、
福島原発事故とのつながりを見ていこう[1][2][3]。
[経歴] ([4]に加筆)
1889年 大阪府で生まれる。
1915年 東京帝國大学医科大学(現・東京大学医学部)を12月に卒業、伝染病研究所の技手となる。
1918年 伝染病研究所の技官となる。
1924年 医学博士号を取得。論文の題は「脾脱疽感染及び免疫に関する実験的研究」
1927年 東京帝國大学伝染病研究所教授に就任。
1931年 同大学医学部教授となる。衛生学講座を担当。
1944年 伝染病研究所第7代所長に就任。
1945年 同大医学部長に就任。
1948年 日本医学会会長に就任、亡くなるまで務める。
1949年 東京大学を停年退官。名誉教授となる。
1950年 日本医師会会長となり2期務める。
1960年 水俣病研究懇談会(田宮委員会)の委員長となる。
1962年 国立がんセンター初代総長となる。
1963年 日本学士院会員になる。7月11日に胃癌のため死去。墓所は大阪市阿倍野区。正三位、勲一等。
医学者としてこれ以上は望めない輝かしい経歴だが、御用医学者としての業績もまた超一流である。
田宮猛雄といえば、水俣病研究懇談会、通称「田宮委員会」での悪行が有名である。
医師会会長の権威を利用して、腐った魚を喰ったせいだなどという説をでっちあげ、
真の原因である有機水銀説をつぶし、被害を拡大させ新潟での第二水俣病まで引き起こした[5]。
しかし彼は731部隊にも深く関与しており、部隊員とも懇意で、戦後も人体実験をしていたことは
あまり知られていない。
彼の死後、追悼文集が出版されたが、その中で北岡正見、安東洪次、目黒康雄、田嶋嘉雄など
731関係者が勢ぞろいして思い出を語っている[6]。
731部隊マラリア菌研究班に所属していた目黒康雄は、軍医として戦地に送られるところを
田宮の計らいで防疫給水部(731部隊の別名)の職を斡旋してもらったと語っている。
田宮は「徴兵逃れ」をエサに教え子を731部隊へ送り込んでいたのである。
また田宮は731部隊の別働隊でもある北京の1855部隊へ出張していたとも言われている[7]。
田宮は731部隊第2代部隊長・北野政次とも非常に親しく、戦後、北野が東大伝研に現われたとき、
もっとも北野の庇護したのが田宮であった[8]。
また福見秀雄や北岡正見とも一緒に研究をしている[2]。
終戦直後、GHQの軍医が田宮を訪れ、米軍の資金提供を受けて共同研究を始めた[8]。
田宮は英語が流暢で、GHQの信頼も厚かった。
1947年、GHQの命令で厚生省と東大伝研が府中刑務所の受刑者に対し、発疹チフス人体実験をしている。
この件で田宮は北野政次らと深く関与している。
発疹チフス人体実験は北野らが731部隊で行なっており、いわばその"続編"であった。
1952年に新潟大内科の桂重鴻教授らが新潟精神病院で精神病患者149人にツツガムシ病リケッチアを注射し、
8人が死亡、1人が自殺というとんでもない事件(ツツガムシ病人体実験事件)が起きた[9]。
実は米軍の資金援助により田宮が北岡正見らによびかけてツツガムシ病研究グループを組織し、
この人体実験事件を主導したことも判明している[8]。
いくら米軍から無理難題を押しつけられても、731部隊での犯罪を不問にしてもらっているから断れないし、
断るつもりもなかったのだろう。
田宮は731部隊で多くの人間を犠牲にしたことを反省するどころか、戦後も人体実験を続けて得た功績で
着々と出世を続け、ついに医学者として最高のポスト、日本医師会の会長まで登りつめる。
田宮委員会は御用医学者として最後の大仕事であり、大勢の犠牲者を出した。
さすがにこれだけ悪事を重ねると天罰が下るようで、数年後、田宮は末期の胃がんで亡くなった。
手の施しようのない状態だったという。
トップレベルのがん専門医を結集させた国立がんセンターの総長でもあった彼にしては、
無様な死に方であった。
731部隊や水俣病の犠牲者の呪いかもしれない。
数々の凄惨な人体実験に関わってきた悪魔のような人間が、最高のポストである日本医師会
会長の席におさまる。悪夢のような話だが、これが日本の現実なのである。
残念なことに彼の死後も医学の倫理に反する人体実験の伝統は脈々と受け継がれている。
田宮が所長を務めた東大医科学研究所(旧伝染病研究所)や、初代総長となった国立がん研究センター
(旧国立がんセンター)に勤務した上昌広教授は、国立病院では患者の治療よりも研究の成果や
効率が優先され、陸海軍の亡霊がいまだに行き続けていると述べている[10]。
陸海軍というより731部隊の亡霊と言ったほうが正しいだろう。
その上教授も、福島原発事故が起きるや否や、本来ならすぐに避難させなければならない福島の住民を
だましてモルモットにし、白血病のデータを収集して金儲けや出世に利用しようとしている。
やっていることは731部隊と何ら変わりはない。
731部隊の人体実験の責任を追及し、関係者を処罰し医療倫理を正さなかったために、
本人の同意も得ずに人間をモルモット代わりに使う悪しき伝統が現在まで続いているのだ。
新薬や新しい治療法には臨床試験が必ず必要である。それなしには医学の進歩はない。
しかし臨床試験にあたっては、被験者に期待される効果と危険性をきちんと説明して
同意を得なければならない。
正しい判断が出来ない幼児や精神病患者、あるいはノーと言えない若い自衛隊員や受刑者をだまして
実験台にすることは絶対に許されないことだ。
福島も全く同じである。
住民に被ばくの危険性をきちんと伝えず、安全だとだましてモルモット代わりにするとは言語道断である。
これは立派な犯罪である。
ちなみに、田宮家一族は学者が多く、息子は被爆直後の広島で放射線が脳細胞に与えた
ダメージを調べた精神医学者・島薗安雄、孫が著名な宗教学者で、原子力を批判している
島薗進・東大名誉教授である。
島薗進氏は東大理科3類に合格したが、医学界の権威主義や倫理性軽視が問われた
東大医学部紛争の中で苦悩。「生きている意味を含め考え直そう」と宗教学へ進んだという[11]。
紛争中、水俣病被害を拡大させた田宮猛雄も厳しく批判・非難された。
頭脳明晰な島薗氏は、おそらく医学者になっても素晴らしい業績をあげただろうが、
医学界では常に悪名高い祖父の名がつきまとうのに耐えられなかったのだろう。
歴史上の事実をきちんと認識し、あやまりを正し反省しなければ、極悪非道が繰り返され、
いつまでたっても日本はまともな国になれないだろう。
小泉親彦と宮川米次の絆
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小泉親彦と宮川米次の絆
『検証・中国に於ける生体実験ー東京帝大医学部の犯罪』美馬聰昭著 桐書房より
「日本医事新報」1955年12月17日号で、「小泉親彦を語る」と題して、座談会が持たれているが、小泉について、宮川米次は次のように語っている。
「私が、小泉君と相知ったのは、高等学校時代である岡山六高で、私とちょうど2つ違いである。その交友のはじまりには、面白いことがある 。 1901年のことであるが、賄い(寮の食事)の問題を中心として学校騒動をやった。その時からである。当時小泉君は、2部(医学部)の3年で最上級、私は1年であったが私もやんちゃをやるのは、人後に落ちなかったし、叉ちょうど1 年生の総代をやっていたから,すなわち両人相知る機会をえて,本当に兄貴のように、尊敬と親しみを感じていた。彼は事あるごとに、よく面倒をみてくれた。それは、私が東大に行ってからも続き、その後も小泉君とは一生変わらない間柄であった。
六高では、小泉君は、二回目、私は、四回目の卒業生である。六校会を開いて東京で酒を飲んでも、いつでも小泉君は、大将になってやってくる。酒も非常に強かった。ご承知の通り、六高という高等学校は、酒を飲んではいけない学校であった。それをその当時から飲もうと行って、たいてい牛肉屋でやった。必ず四合びんから、コップでぐいっと飲むという恰好であった。しかし気にいらないと一滴も飲まない、そういうところは年をとってからでも同じであった。
厚生省をつくったのは当時首相であった近衛文麿であるがその機運をつくったのは小泉と私であります.
1937年夏、いよいよ日中戦争(7月7日)がひどくなったある夜 一緒に酒を飲んだとき、小泉君がどうしても健民主義(健康な神民をつくる)で行かなければならない時なので、何とか近衛文麿(総理)を動かさなければならないので、 一寸骨を折ってくれるように頼まれた。
その結果、1937年8月6日保健省の予算が通り、紆余曲折はあったが、厚生省(1938年1月11 日成立)ができた。その後1,2年たって第2次近衛内閣のとき、厚生行政はぜひ医学畑の人から出ないと伴食大臣(役に立たない大臣)になってしまうと話したら、私に厚生大臣になれといわれたが、私は同仁会のことでお国に尽くしているからと固辞した。
小泉君を厚生大臣にしてくれないかと頼んだが、軍の現職にいるものを引っ張ると、軍から何をいわれるか解らない、ということで中止になった。このとき小泉とはどんな人かと近衛公に聞かれた。
第三次内閣のときにも、近衛公から同じような話があり、また私にやれといわれた。このときも同じように、私は同仁会のことで手が回らないと話した。今度は一度小泉君にあってみたい、チャンスをつくるようにといわれた。近衛公という人は、やはり気にいると酒もなかなか強い。そこで大いに三人で飲んだ。近衛公も完全に了解した。小泉君もまた腹がすわったので、それは面白い光景だった。」
その後、小泉は、1941年7月18日の第二次近衛内閣で、厚生大臣になる。この年の12月8日、日本は、ハワイの真珠湾の奇襲攻撃を行い、太平洋戦争が始まった。
小泉は、1944年7月22日まで、厚生大臣を務めた。その後、勅選によって貴族院議員となったが、そこでは、一言も発言しなかった。
小泉厚生大臣になった翌年の1942年10月から、全国民へのBCG接種に踏み切った。
このときは、まだ第八小(結核予防)委員会報告書は提出されていなかった。まずは、国民学校(現在の小学校)修了時の者について開始、その後、接種対象者は国民体力法(1940年4月に制定されたもので一五歳∼一九歳男子が対象)の対象になっていた青年男子ばかりでなく、学校に通学する児童生徒、工場で働く労働者、そして結核家族に及ぶ。全国民へと広げた。これによって、戦前 1000万人を超える国民がBCG接種を受けることになったのである。
小泉親彦と宮川米次の絆
『検証・中国に於ける生体実験ー東京帝大医学部の犯罪』美馬聰昭著 桐書房より
「日本医事新報」1955年12月17日号で、「小泉親彦を語る」と題して、座談会が持たれているが、小泉について、宮川米次は次のように語っている。
「私が、小泉君と相知ったのは、高等学校時代である岡山六高で、私とちょうど2つ違いである。その交友のはじまりには、面白いことがある 。 1901年のことであるが、賄い(寮の食事)の問題を中心として学校騒動をやった。その時からである。当時小泉君は、2部(医学部)の3年で最上級、私は1年であったが私もやんちゃをやるのは、人後に落ちなかったし、叉ちょうど1 年生の総代をやっていたから,すなわち両人相知る機会をえて,本当に兄貴のように、尊敬と親しみを感じていた。彼は事あるごとに、よく面倒をみてくれた。それは、私が東大に行ってからも続き、その後も小泉君とは一生変わらない間柄であった。
六高では、小泉君は、二回目、私は、四回目の卒業生である。六校会を開いて東京で酒を飲んでも、いつでも小泉君は、大将になってやってくる。酒も非常に強かった。ご承知の通り、六高という高等学校は、酒を飲んではいけない学校であった。それをその当時から飲もうと行って、たいてい牛肉屋でやった。必ず四合びんから、コップでぐいっと飲むという恰好であった。しかし気にいらないと一滴も飲まない、そういうところは年をとってからでも同じであった。
厚生省をつくったのは当時首相であった近衛文麿であるがその機運をつくったのは小泉と私であります.
1937年夏、いよいよ日中戦争(7月7日)がひどくなったある夜 一緒に酒を飲んだとき、小泉君がどうしても健民主義(健康な神民をつくる)で行かなければならない時なので、何とか近衛文麿(総理)を動かさなければならないので、 一寸骨を折ってくれるように頼まれた。
その結果、1937年8月6日保健省の予算が通り、紆余曲折はあったが、厚生省(1938年1月11 日成立)ができた。その後1,2年たって第2次近衛内閣のとき、厚生行政はぜひ医学畑の人から出ないと伴食大臣(役に立たない大臣)になってしまうと話したら、私に厚生大臣になれといわれたが、私は同仁会のことでお国に尽くしているからと固辞した。
小泉君を厚生大臣にしてくれないかと頼んだが、軍の現職にいるものを引っ張ると、軍から何をいわれるか解らない、ということで中止になった。このとき小泉とはどんな人かと近衛公に聞かれた。
第三次内閣のときにも、近衛公から同じような話があり、また私にやれといわれた。このときも同じように、私は同仁会のことで手が回らないと話した。今度は一度小泉君にあってみたい、チャンスをつくるようにといわれた。近衛公という人は、やはり気にいると酒もなかなか強い。そこで大いに三人で飲んだ。近衛公も完全に了解した。小泉君もまた腹がすわったので、それは面白い光景だった。」
その後、小泉は、1941年7月18日の第二次近衛内閣で、厚生大臣になる。この年の12月8日、日本は、ハワイの真珠湾の奇襲攻撃を行い、太平洋戦争が始まった。
小泉は、1944年7月22日まで、厚生大臣を務めた。その後、勅選によって貴族院議員となったが、そこでは、一言も発言しなかった。
小泉厚生大臣になった翌年の1942年10月から、全国民へのBCG接種に踏み切った。
このときは、まだ第八小(結核予防)委員会報告書は提出されていなかった。まずは、国民学校(現在の小学校)修了時の者について開始、その後、接種対象者は国民体力法(1940年4月に制定されたもので一五歳∼一九歳男子が対象)の対象になっていた青年男子ばかりでなく、学校に通学する児童生徒、工場で働く労働者、そして結核家族に及ぶ。全国民へと広げた。これによって、戦前 1000万人を超える国民がBCG接種を受けることになったのである。
小泉親彦と昭和天皇
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小泉親彦と昭和天皇
『検証・中国に於ける生体実験ー東京帝大医学部の犯罪』美馬聰昭著 桐書房より
小泉親彦(東大、1908年卒)は、東大の不真面目な医学生であった。時々教室から抜け出し、よく汁粉屋に行っていた。当然彼の成績はよくなかった。彼は1908年東大を卒業した。
卒後は陸軍に入隊。1910年には軍需工場で働く者の生活実態を調査し、「工人の生計および衛生」、1916年には「日射病の本態に関する実験的研究」を発表し、東京医学会(東大医学部卒業生の会)から、両論文とも優秀論文賞を受賞している。1914年6月、30歳で陸軍軍医学校の衛生学教室教官に任命されている。このとき一時毒ガスの研究に走り、1918年には毒ガスの防毒マスクの試作品をつくり、自ら生体実験を行ったが、排気室不備のため瀕死の重態になった。
「軍人は戦場で死ぬのが本懐(本望)なら、研究者が研究室で死ぬのは本懐である。」と言い張って、入院はせず、教官室のベッドで過ごしたという話は有名である。
彼は、1919年1月から1920年9月まで欧米各国へ留学に出かけた。
ちょうど第一次世界大戦が終わった頃で、戦勝国イギリスでは、1919年6月3日に英国保健省ができていた。これをみた小泉は、わが国にも内務省から独立した、英国保健省のような組織をつくることを夢見るようになった。このときすでに英国では結核問題を解決していた。
1921年7月には、陸軍の胸膜炎調査委員になり、わが国の結核問題の早期解決を決意している。
一方彼は人一倍、心底、現人神(この世に人間の姿をして現れた神)天皇の崇拝者でもあった。
その天皇(昭和天皇)が、1929年11月7日陸軍軍医学校新築を祝い、陸軍軍医学校に初めて行幸した。この様子が、『陸軍軍医学校五十年史』に書かれているが、現代語訳すると次のとおりになる。
「天皇は、9時45分に到着。学校長より陸軍軍医学校の沿革および現況について説明を受けた。その後休憩し、10時から見学を開始した。見学は第一講堂にはじまり、次いで標本室、軍陣衛生学教室および第二講堂に移られ、各室ともご熱心にご見学された。特に軍陣衛生学教室にては第一室より第九室まで各部屋とも丁寧にみられ、小泉教官の説明を熱心に聞かれた。特に兵衣、兵食における業績については、お褒めいただき、予定の時間を若干遅れた。最後に小泉は天皇と一緒に屋上まで上がったところ、朝から降っていた細雨(霧雨)がにわかに止んで、陽光が雲よりもれ、都下の風景が手に取るようにみえた。小泉教官は主要な建物の説明をした。
それに対して天皇は、いちいちうなずいていた。その後天皇は、再び便殿(天皇皇后などの休息所)に午前11時30分に入り、少し休息して11時40分に帰られた。」
『陸軍軍医学校五十年史』でみるかぎり、天皇は小泉にわざわざ会いにきた感があった。
その年の暮れも迫った12月24日、小泉は天皇から思し召しがあり、天皇、皇后を前にして、「被服地について」と題してご進講(講義)したのである。話の内容についての記載はないとのことであった(宮内庁による)が、ご進講は午後4時から始まり、天皇からの質問などがあり、1時間50分に及んだ。小泉は涙が止まらないほど感激し、皇居を去った。「これは小泉教官の光栄ばかりではなく、陸軍衛生部全体の名誉でもあった。」と『陸軍軍医学校五十年史』には書かれている。
背蔭河での生体実験は、陸海空軍の全面協力のもとに行われたわけで、天皇の許可なくしてこのような重大事を行うことは、できなかったはずである。この2回の天皇と小泉親彦の会談で、天皇は小泉を信じ、小泉に賭けてみたのではないかと考えらる。
小泉は、天皇と会談後の1932年4月には、近衛師団軍医部長になり、1933 年8月には陸軍軍医学校長に就任している。
また1932年8月には、石井軍医正以下5名の軍医を新たに配属して、防疫研究室を開設したが、研究の進行(背蔭河の研究)とともにすぐ狭くなったことで、翌年、近衛騎兵隊敷地約5000坪に新防疫研究室を新築した。
1933年4月工事費20万円をもって着工し、10月に完成した。建物は鉄筋コンクリート2階建てで、延べ1750㎡あった。建物の大きさは、北海道庁赤レンガ館1階フロアとほぼ同じである。このくらいの床面積があれば、背蔭河の実験材料の保存が可能であると推定した。
遠藤二郎の日記、1934年8月11日には、背蔭河訪問時には、良好な飛行場ができていたと記載されていた。陸軍防疫研究室ができると同時に狭くなり、急遽新築したということは、背蔭河の実験が順調に進んで、実験材料が急増し、陸軍防疫研究室に空輸されていたと思われる。
1934年3月5日小泉は陸軍軍医総監になった。彼は51歳で陸軍軍医として最高の地位に上り詰めたのである。
小泉親彦の甥小泉昂一郎(こういちろう)によると、戦後の1945年9月13日、夜8時過ぎ、目白警察署の署長が来訪。
明朝お迎えに来ますと言い、小泉はお役目ご苦労さまですと言った。それから変わったこともなく談笑し、11時頃立って仏間に入った。ここで香をたき、衣装を直し、備前久勝の軍刀で腹十字に切り、右頸動脈を切って絶息した。中国での生体実験の責任を、崇拝する天皇に累を及ぼさないために、自らの口を塞いだのであろう。
小泉親彦と昭和天皇
『検証・中国に於ける生体実験ー東京帝大医学部の犯罪』美馬聰昭著 桐書房より
小泉親彦(東大、1908年卒)は、東大の不真面目な医学生であった。時々教室から抜け出し、よく汁粉屋に行っていた。当然彼の成績はよくなかった。彼は1908年東大を卒業した。
卒後は陸軍に入隊。1910年には軍需工場で働く者の生活実態を調査し、「工人の生計および衛生」、1916年には「日射病の本態に関する実験的研究」を発表し、東京医学会(東大医学部卒業生の会)から、両論文とも優秀論文賞を受賞している。1914年6月、30歳で陸軍軍医学校の衛生学教室教官に任命されている。このとき一時毒ガスの研究に走り、1918年には毒ガスの防毒マスクの試作品をつくり、自ら生体実験を行ったが、排気室不備のため瀕死の重態になった。
「軍人は戦場で死ぬのが本懐(本望)なら、研究者が研究室で死ぬのは本懐である。」と言い張って、入院はせず、教官室のベッドで過ごしたという話は有名である。
彼は、1919年1月から1920年9月まで欧米各国へ留学に出かけた。
ちょうど第一次世界大戦が終わった頃で、戦勝国イギリスでは、1919年6月3日に英国保健省ができていた。これをみた小泉は、わが国にも内務省から独立した、英国保健省のような組織をつくることを夢見るようになった。このときすでに英国では結核問題を解決していた。
1921年7月には、陸軍の胸膜炎調査委員になり、わが国の結核問題の早期解決を決意している。
一方彼は人一倍、心底、現人神(この世に人間の姿をして現れた神)天皇の崇拝者でもあった。
その天皇(昭和天皇)が、1929年11月7日陸軍軍医学校新築を祝い、陸軍軍医学校に初めて行幸した。この様子が、『陸軍軍医学校五十年史』に書かれているが、現代語訳すると次のとおりになる。
「天皇は、9時45分に到着。学校長より陸軍軍医学校の沿革および現況について説明を受けた。その後休憩し、10時から見学を開始した。見学は第一講堂にはじまり、次いで標本室、軍陣衛生学教室および第二講堂に移られ、各室ともご熱心にご見学された。特に軍陣衛生学教室にては第一室より第九室まで各部屋とも丁寧にみられ、小泉教官の説明を熱心に聞かれた。特に兵衣、兵食における業績については、お褒めいただき、予定の時間を若干遅れた。最後に小泉は天皇と一緒に屋上まで上がったところ、朝から降っていた細雨(霧雨)がにわかに止んで、陽光が雲よりもれ、都下の風景が手に取るようにみえた。小泉教官は主要な建物の説明をした。
それに対して天皇は、いちいちうなずいていた。その後天皇は、再び便殿(天皇皇后などの休息所)に午前11時30分に入り、少し休息して11時40分に帰られた。」
『陸軍軍医学校五十年史』でみるかぎり、天皇は小泉にわざわざ会いにきた感があった。
その年の暮れも迫った12月24日、小泉は天皇から思し召しがあり、天皇、皇后を前にして、「被服地について」と題してご進講(講義)したのである。話の内容についての記載はないとのことであった(宮内庁による)が、ご進講は午後4時から始まり、天皇からの質問などがあり、1時間50分に及んだ。小泉は涙が止まらないほど感激し、皇居を去った。「これは小泉教官の光栄ばかりではなく、陸軍衛生部全体の名誉でもあった。」と『陸軍軍医学校五十年史』には書かれている。
背蔭河での生体実験は、陸海空軍の全面協力のもとに行われたわけで、天皇の許可なくしてこのような重大事を行うことは、できなかったはずである。この2回の天皇と小泉親彦の会談で、天皇は小泉を信じ、小泉に賭けてみたのではないかと考えらる。
小泉は、天皇と会談後の1932年4月には、近衛師団軍医部長になり、1933 年8月には陸軍軍医学校長に就任している。
また1932年8月には、石井軍医正以下5名の軍医を新たに配属して、防疫研究室を開設したが、研究の進行(背蔭河の研究)とともにすぐ狭くなったことで、翌年、近衛騎兵隊敷地約5000坪に新防疫研究室を新築した。
1933年4月工事費20万円をもって着工し、10月に完成した。建物は鉄筋コンクリート2階建てで、延べ1750㎡あった。建物の大きさは、北海道庁赤レンガ館1階フロアとほぼ同じである。このくらいの床面積があれば、背蔭河の実験材料の保存が可能であると推定した。
遠藤二郎の日記、1934年8月11日には、背蔭河訪問時には、良好な飛行場ができていたと記載されていた。陸軍防疫研究室ができると同時に狭くなり、急遽新築したということは、背蔭河の実験が順調に進んで、実験材料が急増し、陸軍防疫研究室に空輸されていたと思われる。
1934年3月5日小泉は陸軍軍医総監になった。彼は51歳で陸軍軍医として最高の地位に上り詰めたのである。
小泉親彦の甥小泉昂一郎(こういちろう)によると、戦後の1945年9月13日、夜8時過ぎ、目白警察署の署長が来訪。
明朝お迎えに来ますと言い、小泉はお役目ご苦労さまですと言った。それから変わったこともなく談笑し、11時頃立って仏間に入った。ここで香をたき、衣装を直し、備前久勝の軍刀で腹十字に切り、右頸動脈を切って絶息した。中国での生体実験の責任を、崇拝する天皇に累を及ぼさないために、自らの口を塞いだのであろう。
自衛隊とサリン
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地下鉄サリン事件
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
週間金曜日 2013年5月17日号
自衛隊とサリン 第1回
「私は自衛隊で毒ガス・サリンの製造に関わっていた」
世界を揺るがした地下鉄サリン事件より数十年も前から、陸上自衛隊はサリンを製造していたことが複数の資料と証言で明らかになった。サリンだけではない。VX、タブンといった猛毒の殺人ガスも・・・・。非核三原則と同様、日本政府は毒ガスについても「持たず、作らず、持ち込ませず」などと表明していたが、自衛隊によるサリン製造が事実なら(これは事実であった!!)、毒ガスのをめぐる戦後の歴史が塗り替えられる可能性がある。(塗り替えられた!!)
※日本が95年9月に批准した現行の化学兵器禁止条約では、サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有が包括的に禁止されているが、ここにも抜け道がある。同条約によれば、「生産量が年間1トン以下なら生産施設に当たらない」(第二条8)し、「防護目的」の生産・保有なら「この条約によって禁止されていない目的」(第二条9)に入る。国際機関である化学兵器禁止期間(OPCW)に申告し(第三条)、OPCWの査察を受け入れればその生産・保有・廃棄などが可能だ。防衛省によれば、同条約に基づき、1997年から2012年6月まで、計8回、OPCWの査察を受け、申告内容に問題がないことが確認されている、という。
週間金曜日 2013年5月24日号
自衛隊とサリン 第2回
元陸自化学学校長が毒ガス製造を認めた!
・サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
※国威発揚のオリンピックと戦争は大いに関係した。(1940年の東京オリンピック、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。この年皇紀2600年の記念行事として準備が進められていた。)
・1973年、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
毒ガス第2世代
第1次世界大戦(1914~18年)は「世界初の毒ガス戦争」とも言われる。・・・・
こうして1918年に終結した第1次世界大戦の中では、市民も含めて100万人以上が毒ガスを浴び、その1割に当たる約10万人が死亡したとされる。
その後も毒ガスの研究・開発は進み、第2次世界大戦(1939~45年)の前あるいは大戦中にナチス・ドイツが相次いで開発した毒ガスが「第2世代の毒ガス」と呼ばれるものだ。殺虫剤研究の中で1936年発見された「タブン」、そのタブンの2倍の毒性を持つと言われる「サリン」(1938年)、極秘に開発され第2次大戦終了後まで知られることはなかった「ソマン」(1944年)などである。
週間金曜日 2013年5月31日号
自衛隊とサリン 第3回
自衛隊は政府自民党をも欺いたのか?
1969年当時、「この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んで開発及び製造を禁止し、すでに貯蔵されているものをも破棄しなければならない」と国会答弁した佐藤栄作首相。(70年2月、国会での施政方針演説。)
・1950年代には米軍から毒ガス譲渡、60年代にはサリン製造。
・日本政府は再三にわたり毒ガス製造を否定!!
・毒ガスは「持たず、作らす、持ち込ませず」1970年代当時の日本政府の見解、全くの嘘だった!!
1970年当時の日本政府の見解
毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」
そもそも日本政府は毒ガスについてどのような見解を示してきたのか。
いわゆる毒ガスについて日本の国会で論戦に上がったのは大きく分けて次のような事件・事故、条約批准に絡んだ時期だ。
①沖縄の米軍・知花弾薬庫での毒ガス漏洩事故(1969年7月発生)及び毒ガス使用禁止を定めたジュネーブ議定書の批准(70年5月)。
②旧日本軍の毒ガス弾等全国調査(73年開始、2003年に結果発表)。
③地下鉄サリン事件(95年3月)及び化学兵器禁止条約の批准(同年9月)。
④中国での旧日本軍化学兵器遺棄問題(2000年から処理作業開始)や日本各地での旧軍の毒ガス弾など発見。
このうち、①の時期に絞って、毒ガスをめぐる日本政府の発言内容を紹介する。連載2回目(5月24日号)で山里洋介・元陸上幕僚監部化学室長が「サリンの合成に成功した」と証言した1964年の5、6年後だ。
まず、沖縄での毒ガス事故直後の1969年7月24日、第61回国会衆院本会議での佐藤栄作総理大臣(当時)の答弁を抜粋する。
〈政府の基本的な態度は、去る7月3日、ジュネーブの軍縮委員会における朝海代表の発言でおわかりの通り、この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んでその開発及び製造を禁止し、既に貯蔵されているものをも破棄しなければならないとするものであります〉。
また、翌70年の第63回国会で愛知揆一外務大臣(当時)も、ジュネーブ議定書批准(同年5月承認)に向けて日本政府の姿勢について、次のように答弁した。
〈日本政府の従来からの主張は、なるべく範囲を広くし、かつ、使用だけではなくて、製造あるいは貯蔵においてもこれを禁止するのが理想であるという主張をいたしておるわけでございます〉=衆議院予算委員会、70年2月26日。
こうした一連の発言が毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則と同様の日本政府の見解となってきた。
第63回国会では、興味深いやりとりがある。衆議院予算委員会での楢崎弥之助議員と中曽根康弘防衛庁長官(いずれも当時)との質疑応答の中で、「サリン」が登場するのである。要旨を抜粋し、紹介しよう。
楢崎:現在、自衛隊はBC(生物、化学)兵器関係の催涙剤も含めて、どういう種類のものをお持ちか。
中曽根:自衛隊が持っているのは催涙性のガスで、これは治安の場合に使うという程度のものであります。
楢崎:これ以外に置いてあるものはありませんか。
中曽根:それ以外にはありません。
楢崎:昨年、沖縄の米軍基地で問題になった、例のGBサリン、これを持っておるでしょう。
中曽根:政府答弁書にも書いてありますが、Gガスは持っておりません。(その後、実験用、研究用ではどうかなどと追及されると「浜田政府委員」が答弁に立ち・・・・)
浜田政府委員:実は、水の溶けました農薬あるいはそれに類するもの、それに対する浄水装置の試験でございまして、サリンを使ったものではございません。残念ながら、サリンそのものは作り出すことは現在の段階では出来ないのでありまして・・・・。
などと答えている。
「Gガス」とはジャーマンガス(ドイツのガス)のことで、「GB」とは米軍によるサリンのコードネームである(連載2回目参照)。
山里・元陸上幕僚監部化学室長の証言どおり、陸上自衛隊化学学校でサリンの合成に成功したのが1964年とすれば、ここに紹介した国会での政府側答弁はすべて実態を隠蔽した虚偽発言ということになる。かりに政府が自衛隊によるサリン製造の事実を知らなかったとすれば、シビリアンコントロール(文民統制)を無視した自衛隊の暴走ということにならないか。
それとも、自民党も毒ガスの製造、貯蔵のことを知っていたが、嘘を言って国民をだましているのか?
週間金曜日 2013年6月7日号
第4回
事件1報前に待機していた自衛隊。
・「解毒の方法を知っていますか?」
―事件発生数ヵ月前に化学学校に1本の電話が入った。
「・・・化学学校でサリンが製造されていることは自衛隊内部でも知られていないことなので、10人ほどの研究員はその電話に騒然となったようです。その数ヵ月後に地下鉄サリン事件が起き、あの電話はオウム(真理教の信者)からだったと再び騒然となったのです。・・・外部から直接電話が入ることもおかしいのですが、そもそも直通の番号を知っていること自体、あり得ない話なのです
・聖路加国際病院に、自衛隊中央病院の医師が突然現れた。「パムを使うといい」
・1報前に出動待機
実は、自衛隊は警視庁から防衛庁に「毒ガスらしきものが撒かれた」との1報が入る15分前に、すでに自衛隊中央病院に出動待機の連絡を出していた。
・・・以上の経緯を見れば、自衛隊は警視庁から事件の1報が入る前に原因物質がサリンであるとほぼ断定していたことになる。あるいは、この日のサリン撒布自体を事前に知っていたのではないかという疑問が生じる。事件後に称賛された除染活動も、こうして解毒剤をめぐる経緯を見ると、これまでとは違った色合いを帯びてこないか。
週間金曜日 2013年6月21日号
自衛隊とサリン 第5回
「『防護』というなら国民を守ってほしかった」
・繰り返された毒ガス殺人と未遂(オウム事件)
1993年11月・・・創価学会の池田大作名誉会長をサリンで襲撃失敗
1993年12月・・・同上
1994年5月9日・・・滝本弁護士をサリンで襲撃
1994年6月27日・・・松本サリン事件
1994年9月20日・・・ジャーナリスト江川紹子さんに毒ガス「ホスゲン」噴霧。
1994年12月12日・・・浜田忠仁さん殺人事件(VXガス)
1995年1月4日・・・永岡弘行さん殺人未遂事件(VXガス)
1995年3月20日・・・地下鉄サリン事件
1995年4月30日、5月3日、5月5日・・・東京新宿の地下トイレでテロ未遂事件(青酸ガス)
・(地下鉄サリン事件)事前に漏れた強制捜査の日にサリンは撒かれた
・警察も自衛隊のサリン製造を知らなかった?
・(自衛隊の情報)闇に閉じ込めておくとチェックも出来ない!!秘密にするな!!
週間金曜日 2013年6月28日号
自衛隊とサリン 第6回
「大宮駐屯地グランドに毒物入り一斗缶10缶を埋めた」
・「われわれはモルモットかよ!」-新型防護マスクの“人体実験”
・環境汚染の恐れは無いか、近くに民家や学校も
・「今も続く毒ガス製造と遺棄の解明が必要」
・防衛大臣、化学学校ともに事実上の取材拒否
サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器の「防護研究」も可能ということになる。
日本は国内外にも約44トンのプルトニウムを保有している(2012年9月、日本政府発表)。核兵器1発に使用されるプルトニウムの量は約4キログラム(IAEA=国際原子力機関によると倍の8キログラム)とされるので、数字上は5500~1万1000発の原子爆弾を作ることが可能だ。
陸上自衛隊の毒ガスは、どこまでが「防護研究」なのかを明確にしないまま、極秘裏に開発が進められた。そのため、国民(国会)のチェックはおろか、その事実さえ知られずに半世紀にわたりサリンが作られ続けてきたのである。
731部隊の設置許可、人体実験、毒ガス戦・細菌戦実施の許可した昭和天皇とそれに協力した日本医学界の責任、戦後、その人体実験、毒ガス戦・細菌戦を全く裁判にかけなかったマッカーサーとアメリカ政府の責任、1990年代から2000年代にかけて行われた裁判において、事実を認めながら、それを放置している司法・政治の責任、国民の認識は?
※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器の「防護研究」も可能ということになる。
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、核兵器!!こんな構図か?
【読み進めるうちに、幹部候補生用『特殊武器防護』がただの教科書ではないことがわかってきた。
これは防護技術を中心に解説しながらそのじつ、ほとんどサリン使用についてのマニュアルなのだ。
例えば、こういう記述がある。
「通常、蒸気程度の野外濃度においては神経剤は皮膚呼吸の危険性は少ない。したがって防護マスクの使用により気状のG剤は防護可能である。しかし、気状エアゾルの吸入及び液滴の眼・皮膚への付着は致命的で迅速な処置を必要とする」
防護マスクをつければ、サリンから身を守ることができるというのである。
裏を返せば、防毒マスクをつければ、サリンをエアゾル化して散布できるということでもある。】(『悪魔の白い霧』下里正樹著)
この防護衣を作っているのは、戦前から一貫して「軍」にその手のものを納入している藤倉ゴムである。・・・・
防毒マスクはどうか。こちらは奥研が納入メーカーである。・・・・
そのテストは、防護衣の材質をサリンガスに曝露するするものであろう。場合によっては、動物実験も行われているのではないか。
50年前までは、日本の対毒ガス用防護装備の水準は、世界一であった。・・・
元毒ガス部隊将校の証言によると、日本軍が持っていた当時最強の毒ガスは「茶」と呼ばれる青酸ガスだった。
陸軍第六研は、世界各国の防毒マスクを取り寄せ、「茶」に対する防護実験を行なった。
実験は、当時満州のハルビンから南方20キロの平房の地にあった731部隊の中で行われた。悪名高い細菌戦部隊の施設内である。
実験には多数の生きた人間モルモットが使われた。マルタと呼ばれる捕虜である。
実験の結果、青酸ガスに対して当時日本陸軍の防毒マスクが、最も防護性能が高いと分かった。
松本サリン事件・地下鉄サリン事件当時、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護の措置を熟知していたのは自衛隊化学学校だけである。
『オウムの黒い霧』を読んでいると、オウムの信者に自衛隊員が25名もいたという。その中の1人に自衛隊化学学校に勤めていた防衛大学校32期の2等陸尉がいたという。
果たしてオウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの力でサリンは製造できたのだろうか?プラントの知識もなくては製造不能!!
化学学校の情報は漏れていなかったのか???化学学校の管理体制はどうだったのか、自衛隊の毒ガス(製造技術)の管理は0に近い状態???
『悪魔の白い霧』(下里正樹著)には、「犯人はどこかの国の「軍」の化学兵器製造・使用・防護・治療のノウハウを入手した。また化学兵器のプロが実地に技術指導した。そう考えざるを得ない。」とか、「松本サリン事件発生翌日の午後、現場で土・水などの採集作業を行ったの作業服姿の男たちの正体は、埼玉県大宮市の陸上自衛隊大宮化学学校から来た毒ガス分析チームであった。長野県衛生公害研究所と自衛隊大宮化学学校。複数のラインが出した毒ガス分析データの詳細は、いまだ伏せられたままである。(事件発生から1ヶ月ほど経過した時点か?)」と書かれている。
地下鉄サリン事件
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
週間金曜日 2013年5月17日号
自衛隊とサリン 第1回
「私は自衛隊で毒ガス・サリンの製造に関わっていた」
世界を揺るがした地下鉄サリン事件より数十年も前から、陸上自衛隊はサリンを製造していたことが複数の資料と証言で明らかになった。サリンだけではない。VX、タブンといった猛毒の殺人ガスも・・・・。非核三原則と同様、日本政府は毒ガスについても「持たず、作らず、持ち込ませず」などと表明していたが、自衛隊によるサリン製造が事実なら(これは事実であった!!)、毒ガスのをめぐる戦後の歴史が塗り替えられる可能性がある。(塗り替えられた!!)
※日本が95年9月に批准した現行の化学兵器禁止条約では、サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有が包括的に禁止されているが、ここにも抜け道がある。同条約によれば、「生産量が年間1トン以下なら生産施設に当たらない」(第二条8)し、「防護目的」の生産・保有なら「この条約によって禁止されていない目的」(第二条9)に入る。国際機関である化学兵器禁止期間(OPCW)に申告し(第三条)、OPCWの査察を受け入れればその生産・保有・廃棄などが可能だ。防衛省によれば、同条約に基づき、1997年から2012年6月まで、計8回、OPCWの査察を受け、申告内容に問題がないことが確認されている、という。
週間金曜日 2013年5月24日号
自衛隊とサリン 第2回
元陸自化学学校長が毒ガス製造を認めた!
・サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
※国威発揚のオリンピックと戦争は大いに関係した。(1940年の東京オリンピック、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。この年皇紀2600年の記念行事として準備が進められていた。)
・1973年、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
毒ガス第2世代
第1次世界大戦(1914~18年)は「世界初の毒ガス戦争」とも言われる。・・・・
こうして1918年に終結した第1次世界大戦の中では、市民も含めて100万人以上が毒ガスを浴び、その1割に当たる約10万人が死亡したとされる。
その後も毒ガスの研究・開発は進み、第2次世界大戦(1939~45年)の前あるいは大戦中にナチス・ドイツが相次いで開発した毒ガスが「第2世代の毒ガス」と呼ばれるものだ。殺虫剤研究の中で1936年発見された「タブン」、そのタブンの2倍の毒性を持つと言われる「サリン」(1938年)、極秘に開発され第2次大戦終了後まで知られることはなかった「ソマン」(1944年)などである。
週間金曜日 2013年5月31日号
自衛隊とサリン 第3回
自衛隊は政府自民党をも欺いたのか?
1969年当時、「この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んで開発及び製造を禁止し、すでに貯蔵されているものをも破棄しなければならない」と国会答弁した佐藤栄作首相。(70年2月、国会での施政方針演説。)
・1950年代には米軍から毒ガス譲渡、60年代にはサリン製造。
・日本政府は再三にわたり毒ガス製造を否定!!
・毒ガスは「持たず、作らす、持ち込ませず」1970年代当時の日本政府の見解、全くの嘘だった!!
1970年当時の日本政府の見解
毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」
そもそも日本政府は毒ガスについてどのような見解を示してきたのか。
いわゆる毒ガスについて日本の国会で論戦に上がったのは大きく分けて次のような事件・事故、条約批准に絡んだ時期だ。
①沖縄の米軍・知花弾薬庫での毒ガス漏洩事故(1969年7月発生)及び毒ガス使用禁止を定めたジュネーブ議定書の批准(70年5月)。
②旧日本軍の毒ガス弾等全国調査(73年開始、2003年に結果発表)。
③地下鉄サリン事件(95年3月)及び化学兵器禁止条約の批准(同年9月)。
④中国での旧日本軍化学兵器遺棄問題(2000年から処理作業開始)や日本各地での旧軍の毒ガス弾など発見。
このうち、①の時期に絞って、毒ガスをめぐる日本政府の発言内容を紹介する。連載2回目(5月24日号)で山里洋介・元陸上幕僚監部化学室長が「サリンの合成に成功した」と証言した1964年の5、6年後だ。
まず、沖縄での毒ガス事故直後の1969年7月24日、第61回国会衆院本会議での佐藤栄作総理大臣(当時)の答弁を抜粋する。
〈政府の基本的な態度は、去る7月3日、ジュネーブの軍縮委員会における朝海代表の発言でおわかりの通り、この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んでその開発及び製造を禁止し、既に貯蔵されているものをも破棄しなければならないとするものであります〉。
また、翌70年の第63回国会で愛知揆一外務大臣(当時)も、ジュネーブ議定書批准(同年5月承認)に向けて日本政府の姿勢について、次のように答弁した。
〈日本政府の従来からの主張は、なるべく範囲を広くし、かつ、使用だけではなくて、製造あるいは貯蔵においてもこれを禁止するのが理想であるという主張をいたしておるわけでございます〉=衆議院予算委員会、70年2月26日。
こうした一連の発言が毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則と同様の日本政府の見解となってきた。
第63回国会では、興味深いやりとりがある。衆議院予算委員会での楢崎弥之助議員と中曽根康弘防衛庁長官(いずれも当時)との質疑応答の中で、「サリン」が登場するのである。要旨を抜粋し、紹介しよう。
楢崎:現在、自衛隊はBC(生物、化学)兵器関係の催涙剤も含めて、どういう種類のものをお持ちか。
中曽根:自衛隊が持っているのは催涙性のガスで、これは治安の場合に使うという程度のものであります。
楢崎:これ以外に置いてあるものはありませんか。
中曽根:それ以外にはありません。
楢崎:昨年、沖縄の米軍基地で問題になった、例のGBサリン、これを持っておるでしょう。
中曽根:政府答弁書にも書いてありますが、Gガスは持っておりません。(その後、実験用、研究用ではどうかなどと追及されると「浜田政府委員」が答弁に立ち・・・・)
浜田政府委員:実は、水の溶けました農薬あるいはそれに類するもの、それに対する浄水装置の試験でございまして、サリンを使ったものではございません。残念ながら、サリンそのものは作り出すことは現在の段階では出来ないのでありまして・・・・。
などと答えている。
「Gガス」とはジャーマンガス(ドイツのガス)のことで、「GB」とは米軍によるサリンのコードネームである(連載2回目参照)。
山里・元陸上幕僚監部化学室長の証言どおり、陸上自衛隊化学学校でサリンの合成に成功したのが1964年とすれば、ここに紹介した国会での政府側答弁はすべて実態を隠蔽した虚偽発言ということになる。かりに政府が自衛隊によるサリン製造の事実を知らなかったとすれば、シビリアンコントロール(文民統制)を無視した自衛隊の暴走ということにならないか。
それとも、自民党も毒ガスの製造、貯蔵のことを知っていたが、嘘を言って国民をだましているのか?
週間金曜日 2013年6月7日号
第4回
事件1報前に待機していた自衛隊。
・「解毒の方法を知っていますか?」
―事件発生数ヵ月前に化学学校に1本の電話が入った。
「・・・化学学校でサリンが製造されていることは自衛隊内部でも知られていないことなので、10人ほどの研究員はその電話に騒然となったようです。その数ヵ月後に地下鉄サリン事件が起き、あの電話はオウム(真理教の信者)からだったと再び騒然となったのです。・・・外部から直接電話が入ることもおかしいのですが、そもそも直通の番号を知っていること自体、あり得ない話なのです
・聖路加国際病院に、自衛隊中央病院の医師が突然現れた。「パムを使うといい」
・1報前に出動待機
実は、自衛隊は警視庁から防衛庁に「毒ガスらしきものが撒かれた」との1報が入る15分前に、すでに自衛隊中央病院に出動待機の連絡を出していた。
・・・以上の経緯を見れば、自衛隊は警視庁から事件の1報が入る前に原因物質がサリンであるとほぼ断定していたことになる。あるいは、この日のサリン撒布自体を事前に知っていたのではないかという疑問が生じる。事件後に称賛された除染活動も、こうして解毒剤をめぐる経緯を見ると、これまでとは違った色合いを帯びてこないか。
週間金曜日 2013年6月21日号
自衛隊とサリン 第5回
「『防護』というなら国民を守ってほしかった」
・繰り返された毒ガス殺人と未遂(オウム事件)
1993年11月・・・創価学会の池田大作名誉会長をサリンで襲撃失敗
1993年12月・・・同上
1994年5月9日・・・滝本弁護士をサリンで襲撃
1994年6月27日・・・松本サリン事件
1994年9月20日・・・ジャーナリスト江川紹子さんに毒ガス「ホスゲン」噴霧。
1994年12月12日・・・浜田忠仁さん殺人事件(VXガス)
1995年1月4日・・・永岡弘行さん殺人未遂事件(VXガス)
1995年3月20日・・・地下鉄サリン事件
1995年4月30日、5月3日、5月5日・・・東京新宿の地下トイレでテロ未遂事件(青酸ガス)
・(地下鉄サリン事件)事前に漏れた強制捜査の日にサリンは撒かれた
・警察も自衛隊のサリン製造を知らなかった?
・(自衛隊の情報)闇に閉じ込めておくとチェックも出来ない!!秘密にするな!!
週間金曜日 2013年6月28日号
自衛隊とサリン 第6回
「大宮駐屯地グランドに毒物入り一斗缶10缶を埋めた」
・「われわれはモルモットかよ!」-新型防護マスクの“人体実験”
・環境汚染の恐れは無いか、近くに民家や学校も
・「今も続く毒ガス製造と遺棄の解明が必要」
・防衛大臣、化学学校ともに事実上の取材拒否
サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器の「防護研究」も可能ということになる。
日本は国内外にも約44トンのプルトニウムを保有している(2012年9月、日本政府発表)。核兵器1発に使用されるプルトニウムの量は約4キログラム(IAEA=国際原子力機関によると倍の8キログラム)とされるので、数字上は5500~1万1000発の原子爆弾を作ることが可能だ。
陸上自衛隊の毒ガスは、どこまでが「防護研究」なのかを明確にしないまま、極秘裏に開発が進められた。そのため、国民(国会)のチェックはおろか、その事実さえ知られずに半世紀にわたりサリンが作られ続けてきたのである。
731部隊の設置許可、人体実験、毒ガス戦・細菌戦実施の許可した昭和天皇とそれに協力した日本医学界の責任、戦後、その人体実験、毒ガス戦・細菌戦を全く裁判にかけなかったマッカーサーとアメリカ政府の責任、1990年代から2000年代にかけて行われた裁判において、事実を認めながら、それを放置している司法・政治の責任、国民の認識は?
※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器の「防護研究」も可能ということになる。
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、核兵器!!こんな構図か?
【読み進めるうちに、幹部候補生用『特殊武器防護』がただの教科書ではないことがわかってきた。
これは防護技術を中心に解説しながらそのじつ、ほとんどサリン使用についてのマニュアルなのだ。
例えば、こういう記述がある。
「通常、蒸気程度の野外濃度においては神経剤は皮膚呼吸の危険性は少ない。したがって防護マスクの使用により気状のG剤は防護可能である。しかし、気状エアゾルの吸入及び液滴の眼・皮膚への付着は致命的で迅速な処置を必要とする」
防護マスクをつければ、サリンから身を守ることができるというのである。
裏を返せば、防毒マスクをつければ、サリンをエアゾル化して散布できるということでもある。】(『悪魔の白い霧』下里正樹著)
この防護衣を作っているのは、戦前から一貫して「軍」にその手のものを納入している藤倉ゴムである。・・・・
防毒マスクはどうか。こちらは奥研が納入メーカーである。・・・・
そのテストは、防護衣の材質をサリンガスに曝露するするものであろう。場合によっては、動物実験も行われているのではないか。
50年前までは、日本の対毒ガス用防護装備の水準は、世界一であった。・・・
元毒ガス部隊将校の証言によると、日本軍が持っていた当時最強の毒ガスは「茶」と呼ばれる青酸ガスだった。
陸軍第六研は、世界各国の防毒マスクを取り寄せ、「茶」に対する防護実験を行なった。
実験は、当時満州のハルビンから南方20キロの平房の地にあった731部隊の中で行われた。悪名高い細菌戦部隊の施設内である。
実験には多数の生きた人間モルモットが使われた。マルタと呼ばれる捕虜である。
実験の結果、青酸ガスに対して当時日本陸軍の防毒マスクが、最も防護性能が高いと分かった。
松本サリン事件・地下鉄サリン事件当時、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護の措置を熟知していたのは自衛隊化学学校だけである。
『オウムの黒い霧』を読んでいると、オウムの信者に自衛隊員が25名もいたという。その中の1人に自衛隊化学学校に勤めていた防衛大学校32期の2等陸尉がいたという。
果たしてオウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの力でサリンは製造できたのだろうか?プラントの知識もなくては製造不能!!
化学学校の情報は漏れていなかったのか???化学学校の管理体制はどうだったのか、自衛隊の毒ガス(製造技術)の管理は0に近い状態???
『悪魔の白い霧』(下里正樹著)には、「犯人はどこかの国の「軍」の化学兵器製造・使用・防護・治療のノウハウを入手した。また化学兵器のプロが実地に技術指導した。そう考えざるを得ない。」とか、「松本サリン事件発生翌日の午後、現場で土・水などの採集作業を行ったの作業服姿の男たちの正体は、埼玉県大宮市の陸上自衛隊大宮化学学校から来た毒ガス分析チームであった。長野県衛生公害研究所と自衛隊大宮化学学校。複数のラインが出した毒ガス分析データの詳細は、いまだ伏せられたままである。(事件発生から1ヶ月ほど経過した時点か?)」と書かれている。
近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
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近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
岩崎 稔
はじめに
今回、相州(神奈川県)の代表的な民権結社である「湘南社」講学会で行われていた憲法論議を例として、そこから、明治一五〇年の今を、即ち、明治以降の近現代史を《憲法視点》から問い直そうと試みた。いま、特に現日本国憲法の危機が叫ばれるなかで、自由民権運動のもたらした歴史的意義を再確認する作業の必要性を痛感し、改めて、自由民権運動を《憲法視点》から捉え直してみたいと思った次第である。
㈠ 近・現代史を理解するうえでの眼目とは何か?
単刀直入に、日本の近現代史を、憲法視点から敗戦後の、日本国憲法下の現在に至るまで、三つの時代を経てきたと捉えるべきだと、私は考えている。大日本帝国憲法制定への過程は、国民の憲法論議を保障しつつ(吸収しつつ)進められたのではなく、逆にそれを弾圧し解体したうえに制定されたもので、大日本帝国憲法制定へのプロセスは、自由民権運動解体のプロセスと一体であったことを承認すること、そのことが、歴史を読み解く鍵と思うのである。なぜ?鍵なのか、について言えば、国民主権を目指した運動(自由民権運動)が「主体」を奪われ、国家主権(天皇主権)へと転落した分岐点をなしているという意味においてである。つまり、大日本帝国憲法の制定によって国民が、国家の手段=臣民化の途がこれによってつくられたからである。自由民権運動は、天皇制の成立によって政治的に敗北した。
しかしながら、全国的な規模の、しかも長期にわたる日本で最初の、しかも最大の民主主義運動が長期にわたり人々を捉えたのは、日本史上、空前であると共に絶後でもあった。この運動がどのような意味で、空前絶後であったのか。それは結社数・憲法草案数・建白請願数などで空前絶後といえるだろう。①民権結社の結社数は、全国で二〇〇〇社を超える。神奈川では一四二社であった。それは②憲法草案数においても一〇〇を超えていた。③次に、その建白請願数においても、一八七四年から一八八一年の間、元老院に八〇件と太政官に四〇件と一二〇件提出されている。またこの間、④日本各地で行われた政談演説会などは数えきれない数であろう。
この事実の示すものは、自由民権運動期の時代は「自分たちが国をつくる」という主権者としての意欲と熱意が漲っていた時代、われわれが、近代日本を主導していくという気概と意欲に満ちていた時代と特徴づけることができるだろう。いかに明治期の人たちが、次に来る新しい時代の到来を切望していたか、また新しい時代の到来に、どのような国家(憲法)構想を用意したのか、その切実な熱意の叫びが伝わる。しかしながら、それらの思いを圧殺したうえに明治体制がつくられたことこそが、問題にされなければならない。
㈡ 新しい時代の到来は、憲法論議をもって始められた
① 「湘南社」の憲法論議の歴史的意義
湘南社では、「五日市憲法」などのような憲法草案の作成には至らなかったが、憲法を構成する基本原則についての学習と論議が活発に行われていた。そして、彼等の運動の遺産は、敗戦後の、日本国憲法の基本理念にしっかりと受け継がれている。講学会で講師細川瀏が与えたレポート「主権は何に帰属するや」に宮田寅治は、現日本国憲法第一条の象徴天皇論を彷彿させるような論議を提出している。
宮田はまず「憲法は国家の基本を規定するもの」だとして「主権ノ何ニ帰属スルヤ否ヤヲ以テ、世ノ開未開ヲ知ルベキモノ」と規定したうえで王権神授説やフランス革命等の事例を引き、帝王主権説に反駁し「帝王ハ宛モ主権ノ預リ人カ、或ハ主権ノ強盗人タルガ如キ有様」と述べ、「国民ハ主権ノ権力ヲ以テ主宰者タル、統領・帝王ヲ置クハ之レ主権者ノ命ズル処ニシテ、之ヲ制スルニ憲法ヲ以テス、故ニ主権ハ国民ニ帰属スルモノナリ」と論じている。また同様のレポートで、猪俣道之輔は、国民主権論を展開している。
私擬憲法草案の殆どが主権または立法権の帰属を「君民共治」の二元論においていたが、湘南社の憲法論議は、これら「君民共治」には同調せず、主権在民論を堂々と展開している点が注目される。
② 「憲法における国民の権利比較」の示すもの
憲法視点からみた三つの時代の「国民の権利比較表」は、自由民権運動の遺産が、どのように現日本国憲法に受け継がれているか、比較表に示されている。日本国憲法制定の意義は国家主権から国民主権への転換、つまり自由民権運動の復権と顕彰が実現したと同時に、帝国憲法下に「奪われてきた人権規定」の復権という、二つの復権の実現を意味する。その意味で日本国憲法の国民の権利及び義務の構成が示すものは、再び人権抑圧の時代にしてはならないという、反省が起点となっている。
③ 自民党改憲案の比較表とその特徴点
自民党の改憲案の特徴点の第一点は、人権の保障度をさげ、数多くの義務規定を盛り込むことで、立憲主義と決別している点である。第二点は、天皇を「戴く」という表現によって天皇の権威を強化している点で、国民主権を後退させるもの、すなわち、天皇の元首化と国民主権の後退である。第三点は、国民より国家を尊重し、国民主権を後退させている。「平和的生存権」を削除し「国民の防衛義務」が明記されている。平和主義を放棄し戦争ができる国へ、国民を動員しようとしている。総じて言えば、国家の義務放棄と国民の義務の強化がはかられている。権利保障には後ろ向きだが、義務の拡大には前のめりである。現憲法を「あってもなくてもいいように扱い」ながら、改憲案では「憲法尊重義務」を課せる。何ということか、唖然とせざるを得ない。
㈢ 自由民権運動「解体」の落し穴
① 近代主義の陥穽
大日本帝国憲法発布によって、自由民権運動に動員された民主主義的エネルギーが明治政府の仮借ない弾圧と巧妙な懐柔政策によって分散されることを通じて、体制内に吸収・併呑され、ここにおいて近代日本がその基礎構築を完了するに至った。大日本帝国憲法発布はそれを挙示する事件であったといえるだろう。
日本の近代化の過程は、自由民権運動の解体過程をつうじて成し遂げられた。その過程は言い換えれば、民権論が国権論に呑み込まれる近代主義の陥穽によって、近代化=資本主化=殖産興業・富国強兵をはかり、日本が「アジアの盟主」として、アジアを侵略し、西欧列強の仲間入りをする「帝国主義」にのし上がっていくことを意味した。所謂「脱亜入欧」が日本の目指すべき目標になった。端的に言えば、近代化が「民主化」の方向にではなく、近代化が、侵略主義、帝国主義への道をたどったのが日本の近代史であったといえるだろう。
② 対外侵略への道―日清戦争と福沢諭吉
帝国主義者・侵略主義者の典型として、日清戦争を扇動したのが福沢諭吉といえるだろう。幕末・吉田松陰の「一君万民」論から福沢諭吉の「絶対的天皇論」への道筋を示すまでもなく、福沢は、官民共存=民権と国権が共存していた『学問のすすめ』から、官権主義、すなわち「国民は手段」となった国権主義『文明論之概略』へ、さらに『時事新報』での侵略主義へと深化をたどっていくのは、まさに、大日本帝国憲法体制への道を準備するものであった。つまり脱亜入欧から『帝室論』(尽忠報国)は、福沢が、明治体制を下支えした思想家であったことを端的に、示している。日清戦争を「聖戦」と謳いあげ、野蛮を教化するための戦争とし、侵略主義を煽る。「文明と野蛮」という機軸でもってアジアを蔑視しかつ人権思想に離反したアジア蔑視を公言し、皆殺し(殲滅)を煽る。まさに侵略主義の思想である。
これらの風潮は、かつての民権家たちが、甲申事変の際に、日本の大手メディアに同調し対朝・対清主戦論的な国民世論が醸成され、殆どの著名人が「清国討つべし」との熱狂的な戦争支持へ転回したことを、反映してか、自由党でさえも『自由新聞』で、日本の国威・国益を拡大する「国権」論こそ、大事だ、アジア進出を煽っていた。日清戦争を熱狂的に支持した人たちをここに列記してみると、福沢諭吉、陸奥宗光、内村鑑三、森鴎外、徳富蘇峰、堺利彦、夏目漱石などがいた。そのなかには湘南社の側にいた中島俊子らもいた。
㈣ いま、われわれに求められていることは何か?
このような対外侵略への道をいとも簡単に許してしまったのはなぜ?だろうか。この点について最後に考えてみたい。先に、近代化が「民主化」の方向にではなく、近代化が、侵略主義、帝国主義への道をたどったのが近代史であったと述べたが、そうするためには「国民を国家の手段」(臣民)へと変えなければならなかったわけで、現憲法の、基本的人権の尊重(第一八条・二四条)をはじめとする基本権の保障の否定、つまり「生存権の否定」(名誉の戦死)のうえに個の国家への従属を強制する「国家主権と国家体制」の、国家主義の戦争体制(軍事体制)をつくらなければならなかった。その故に、個の身体的自由と内心の自由をも支配する国家主権の確立が戦争体制にはどうしても不可欠であった。
つまり、個を国家の道具として動員できる翼賛体制が必要であったのである。この意味で、いま国民主権を否定する「国家主義やナショナリズム」には最大の注意が必要であろう。幸徳秋水は『帝国主義論』において「愛国主義と軍国主義」による二つの織り成す世界を「帝国主義」と呼んだが、いまのわれわれにとっても、これは重要な意味をもっているように思う。個の尊厳と基本的人権を否定し、戦争へと煽るメディアによる世論形成や「国民的熱狂」には、特に注意をする必要があるだろう。ましては「個の尊厳を否定」し、愛国心と国家への義務」を国民に強要し、「戦争の放棄を否定」するような国家主義の策動を許してはならない。
勝海舟は、日清戦争と台湾併合、朝鮮侵攻に反対してアジアの協力発展の道を説いたが、他方、田中正造らの足尾鉱毒反対運動を支援した。鉱毒は、田畑の害ではなく「いのち」の問題だ。「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を荒らさず、人を殺さざるべし」。個の尊厳を核として、いのちが存在する。この生存権・人権の思想史のうえでの金字塔を打ち立てたのは、まさに、田中正造であった。
中島俊子は、侵略主義的な漢詩「偶成」で「清奴 膺すべき師(いくさ)名あり」と詠んだが、勝海舟は、逆に「隣国へ兵交わるの日 其の軍(いくさ)更に名無し」と、戦争に大義がないことを述べている。『氷川清話』で「支那を懲らすのは、日本のために不利益であった、といふ事を世間の人はいま悟ったのか。それは最初から分かって居た事だ」と述べている。他方、俊子は逆に「清奴 懲さずんば国是(こくぜ)をいかにせん」と、日中戦争の時の「暴支膺懲」のような言葉を吐いている。その時の熱狂に流されて主体を失ってはならないと思う次第である(東京唯物論研究会『会報』投稿原稿)。
近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
岩崎 稔
はじめに
今回、相州(神奈川県)の代表的な民権結社である「湘南社」講学会で行われていた憲法論議を例として、そこから、明治一五〇年の今を、即ち、明治以降の近現代史を《憲法視点》から問い直そうと試みた。いま、特に現日本国憲法の危機が叫ばれるなかで、自由民権運動のもたらした歴史的意義を再確認する作業の必要性を痛感し、改めて、自由民権運動を《憲法視点》から捉え直してみたいと思った次第である。
㈠ 近・現代史を理解するうえでの眼目とは何か?
単刀直入に、日本の近現代史を、憲法視点から敗戦後の、日本国憲法下の現在に至るまで、三つの時代を経てきたと捉えるべきだと、私は考えている。大日本帝国憲法制定への過程は、国民の憲法論議を保障しつつ(吸収しつつ)進められたのではなく、逆にそれを弾圧し解体したうえに制定されたもので、大日本帝国憲法制定へのプロセスは、自由民権運動解体のプロセスと一体であったことを承認すること、そのことが、歴史を読み解く鍵と思うのである。なぜ?鍵なのか、について言えば、国民主権を目指した運動(自由民権運動)が「主体」を奪われ、国家主権(天皇主権)へと転落した分岐点をなしているという意味においてである。つまり、大日本帝国憲法の制定によって国民が、国家の手段=臣民化の途がこれによってつくられたからである。自由民権運動は、天皇制の成立によって政治的に敗北した。
しかしながら、全国的な規模の、しかも長期にわたる日本で最初の、しかも最大の民主主義運動が長期にわたり人々を捉えたのは、日本史上、空前であると共に絶後でもあった。この運動がどのような意味で、空前絶後であったのか。それは結社数・憲法草案数・建白請願数などで空前絶後といえるだろう。①民権結社の結社数は、全国で二〇〇〇社を超える。神奈川では一四二社であった。それは②憲法草案数においても一〇〇を超えていた。③次に、その建白請願数においても、一八七四年から一八八一年の間、元老院に八〇件と太政官に四〇件と一二〇件提出されている。またこの間、④日本各地で行われた政談演説会などは数えきれない数であろう。
この事実の示すものは、自由民権運動期の時代は「自分たちが国をつくる」という主権者としての意欲と熱意が漲っていた時代、われわれが、近代日本を主導していくという気概と意欲に満ちていた時代と特徴づけることができるだろう。いかに明治期の人たちが、次に来る新しい時代の到来を切望していたか、また新しい時代の到来に、どのような国家(憲法)構想を用意したのか、その切実な熱意の叫びが伝わる。しかしながら、それらの思いを圧殺したうえに明治体制がつくられたことこそが、問題にされなければならない。
㈡ 新しい時代の到来は、憲法論議をもって始められた
① 「湘南社」の憲法論議の歴史的意義
湘南社では、「五日市憲法」などのような憲法草案の作成には至らなかったが、憲法を構成する基本原則についての学習と論議が活発に行われていた。そして、彼等の運動の遺産は、敗戦後の、日本国憲法の基本理念にしっかりと受け継がれている。講学会で講師細川瀏が与えたレポート「主権は何に帰属するや」に宮田寅治は、現日本国憲法第一条の象徴天皇論を彷彿させるような論議を提出している。
宮田はまず「憲法は国家の基本を規定するもの」だとして「主権ノ何ニ帰属スルヤ否ヤヲ以テ、世ノ開未開ヲ知ルベキモノ」と規定したうえで王権神授説やフランス革命等の事例を引き、帝王主権説に反駁し「帝王ハ宛モ主権ノ預リ人カ、或ハ主権ノ強盗人タルガ如キ有様」と述べ、「国民ハ主権ノ権力ヲ以テ主宰者タル、統領・帝王ヲ置クハ之レ主権者ノ命ズル処ニシテ、之ヲ制スルニ憲法ヲ以テス、故ニ主権ハ国民ニ帰属スルモノナリ」と論じている。また同様のレポートで、猪俣道之輔は、国民主権論を展開している。
私擬憲法草案の殆どが主権または立法権の帰属を「君民共治」の二元論においていたが、湘南社の憲法論議は、これら「君民共治」には同調せず、主権在民論を堂々と展開している点が注目される。
② 「憲法における国民の権利比較」の示すもの
憲法視点からみた三つの時代の「国民の権利比較表」は、自由民権運動の遺産が、どのように現日本国憲法に受け継がれているか、比較表に示されている。日本国憲法制定の意義は国家主権から国民主権への転換、つまり自由民権運動の復権と顕彰が実現したと同時に、帝国憲法下に「奪われてきた人権規定」の復権という、二つの復権の実現を意味する。その意味で日本国憲法の国民の権利及び義務の構成が示すものは、再び人権抑圧の時代にしてはならないという、反省が起点となっている。
③ 自民党改憲案の比較表とその特徴点
自民党の改憲案の特徴点の第一点は、人権の保障度をさげ、数多くの義務規定を盛り込むことで、立憲主義と決別している点である。第二点は、天皇を「戴く」という表現によって天皇の権威を強化している点で、国民主権を後退させるもの、すなわち、天皇の元首化と国民主権の後退である。第三点は、国民より国家を尊重し、国民主権を後退させている。「平和的生存権」を削除し「国民の防衛義務」が明記されている。平和主義を放棄し戦争ができる国へ、国民を動員しようとしている。総じて言えば、国家の義務放棄と国民の義務の強化がはかられている。権利保障には後ろ向きだが、義務の拡大には前のめりである。現憲法を「あってもなくてもいいように扱い」ながら、改憲案では「憲法尊重義務」を課せる。何ということか、唖然とせざるを得ない。
㈢ 自由民権運動「解体」の落し穴
① 近代主義の陥穽
大日本帝国憲法発布によって、自由民権運動に動員された民主主義的エネルギーが明治政府の仮借ない弾圧と巧妙な懐柔政策によって分散されることを通じて、体制内に吸収・併呑され、ここにおいて近代日本がその基礎構築を完了するに至った。大日本帝国憲法発布はそれを挙示する事件であったといえるだろう。
日本の近代化の過程は、自由民権運動の解体過程をつうじて成し遂げられた。その過程は言い換えれば、民権論が国権論に呑み込まれる近代主義の陥穽によって、近代化=資本主化=殖産興業・富国強兵をはかり、日本が「アジアの盟主」として、アジアを侵略し、西欧列強の仲間入りをする「帝国主義」にのし上がっていくことを意味した。所謂「脱亜入欧」が日本の目指すべき目標になった。端的に言えば、近代化が「民主化」の方向にではなく、近代化が、侵略主義、帝国主義への道をたどったのが日本の近代史であったといえるだろう。
② 対外侵略への道―日清戦争と福沢諭吉
帝国主義者・侵略主義者の典型として、日清戦争を扇動したのが福沢諭吉といえるだろう。幕末・吉田松陰の「一君万民」論から福沢諭吉の「絶対的天皇論」への道筋を示すまでもなく、福沢は、官民共存=民権と国権が共存していた『学問のすすめ』から、官権主義、すなわち「国民は手段」となった国権主義『文明論之概略』へ、さらに『時事新報』での侵略主義へと深化をたどっていくのは、まさに、大日本帝国憲法体制への道を準備するものであった。つまり脱亜入欧から『帝室論』(尽忠報国)は、福沢が、明治体制を下支えした思想家であったことを端的に、示している。日清戦争を「聖戦」と謳いあげ、野蛮を教化するための戦争とし、侵略主義を煽る。「文明と野蛮」という機軸でもってアジアを蔑視しかつ人権思想に離反したアジア蔑視を公言し、皆殺し(殲滅)を煽る。まさに侵略主義の思想である。
これらの風潮は、かつての民権家たちが、甲申事変の際に、日本の大手メディアに同調し対朝・対清主戦論的な国民世論が醸成され、殆どの著名人が「清国討つべし」との熱狂的な戦争支持へ転回したことを、反映してか、自由党でさえも『自由新聞』で、日本の国威・国益を拡大する「国権」論こそ、大事だ、アジア進出を煽っていた。日清戦争を熱狂的に支持した人たちをここに列記してみると、福沢諭吉、陸奥宗光、内村鑑三、森鴎外、徳富蘇峰、堺利彦、夏目漱石などがいた。そのなかには湘南社の側にいた中島俊子らもいた。
㈣ いま、われわれに求められていることは何か?
このような対外侵略への道をいとも簡単に許してしまったのはなぜ?だろうか。この点について最後に考えてみたい。先に、近代化が「民主化」の方向にではなく、近代化が、侵略主義、帝国主義への道をたどったのが近代史であったと述べたが、そうするためには「国民を国家の手段」(臣民)へと変えなければならなかったわけで、現憲法の、基本的人権の尊重(第一八条・二四条)をはじめとする基本権の保障の否定、つまり「生存権の否定」(名誉の戦死)のうえに個の国家への従属を強制する「国家主権と国家体制」の、国家主義の戦争体制(軍事体制)をつくらなければならなかった。その故に、個の身体的自由と内心の自由をも支配する国家主権の確立が戦争体制にはどうしても不可欠であった。
つまり、個を国家の道具として動員できる翼賛体制が必要であったのである。この意味で、いま国民主権を否定する「国家主義やナショナリズム」には最大の注意が必要であろう。幸徳秋水は『帝国主義論』において「愛国主義と軍国主義」による二つの織り成す世界を「帝国主義」と呼んだが、いまのわれわれにとっても、これは重要な意味をもっているように思う。個の尊厳と基本的人権を否定し、戦争へと煽るメディアによる世論形成や「国民的熱狂」には、特に注意をする必要があるだろう。ましては「個の尊厳を否定」し、愛国心と国家への義務」を国民に強要し、「戦争の放棄を否定」するような国家主義の策動を許してはならない。
勝海舟は、日清戦争と台湾併合、朝鮮侵攻に反対してアジアの協力発展の道を説いたが、他方、田中正造らの足尾鉱毒反対運動を支援した。鉱毒は、田畑の害ではなく「いのち」の問題だ。「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を荒らさず、人を殺さざるべし」。個の尊厳を核として、いのちが存在する。この生存権・人権の思想史のうえでの金字塔を打ち立てたのは、まさに、田中正造であった。
中島俊子は、侵略主義的な漢詩「偶成」で「清奴 膺すべき師(いくさ)名あり」と詠んだが、勝海舟は、逆に「隣国へ兵交わるの日 其の軍(いくさ)更に名無し」と、戦争に大義がないことを述べている。『氷川清話』で「支那を懲らすのは、日本のために不利益であった、といふ事を世間の人はいま悟ったのか。それは最初から分かって居た事だ」と述べている。他方、俊子は逆に「清奴 懲さずんば国是(こくぜ)をいかにせん」と、日中戦争の時の「暴支膺懲」のような言葉を吐いている。その時の熱狂に流されて主体を失ってはならないと思う次第である(東京唯物論研究会『会報』投稿原稿)。
近代天皇制の真髄は
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近代天皇制の真髄は明治憲法の第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」要するに「天皇が現人神である」というところにある。
天皇の神聖化が日本の近代のすべての過ちの原因なんですね。
我々は長い間日本政府がポツダム宣言を受諾し降伏したのはアメリカによる2つの原爆投下で力尽きたからだと思い込んでいたが『昭和天皇独白録』には思いもよらぬ事実が記されていた。
思いもよらぬ事実?
『昭和天皇独白録』では天皇が終戦の決心をしたのは1番目に「このままでは日本民族が滅びてしまう」から
2番目に「このままでは米軍が伊勢湾に上陸して伊勢神宮・熱田神宮を支配下においてしまい、三種の神器を守ることができない。それでは『国体』の維持ができない」からだと言っている。
三種の神器を守るですって!
1番目はまったくの飾り言葉よ
だってそれ以前に米軍による空襲で多くの多くの国民が命を失われ、そして米軍の空襲を防ぐ力が日本にはないことをよく知っていながら2発原発を落とされても天皇は終戦を決意しなかったじゃないの。
本当だ。
ところが原発を2発落されても終戦を決意しなかったその天皇は米軍に三種の神器を奪われるかもしれないと怯えたとたんに
終戦を決意したのだ。
国民より三種の神器の方が大事だったのね。
昭和天皇は万世一系の天皇が日本を統治する「国体」を護ることに凝り固まっていたことがよくわかる。
そうか
天皇自身近代天皇制の洗脳を受けていたんだ。
その通り。
・天皇家に生まれて近代天皇制の洗脳を受けた昭和天皇は自分が神聖な存在であると心底信じていた。
天皇の速記である木下道雄の『側近日誌』(文芸春秋)によれば天皇は敗戦後「天皇人間宣言」と言われている詔書の作成に際して「自分が神の子孫ではないと言う事には反対である」と言ったと記されている。
・敗戦後でも本当に自分が神の子孫で神聖な存在だと信じていたのね!
だが天皇になるべくして生まれて近代天皇制の天皇教育を受ければ誰でも昭和天皇のようになるだろう。
・そして自分が神聖な存在である現人神であるとしたらいったい誰に対して責任を取れと言うのか。
・神が人間に対して責任を取ることはあり得ない事だろう。
・確かになあ、神である自分が臣下の起こした戦争の責任を取るわけないな。
・だから「独白録」で弁明したり、「戦争責任は言葉のアヤ」だなんて言ったんだ。
・今はしょうちょうてんのうせいだから大丈夫ですね。
・とんでもない。1971年の記者会見で、昭和天皇は「天皇は日本国民の統合の象徴」という憲法第1条は「日本の国体の精神に合っている」と言っている。
・ええっ!象徴天皇制は「国体」に合っているというの!
・象徴天皇の意識は敗戦後も全然変わっていなかったのね!
・1945年9月27日昭和天皇は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーをアメリカ大使館公邸に訪問した。64年に書いた回顧録の中でマッカーサーはその時昭和天皇は「戦争遂行にあたってただ一人の責任者として、貴下が代表する国々の判断に我が身をゆだねるために、私はここにやってきました」と言ったと書いている。
・戦争のすべての責任は自分にあると言ったのですね。
・いさぎよい態度です。美談ですよ。
・ところが昭和天皇の死後90年に雑誌『文芸春秋』が「昭和天皇独白録」を公表し、後に一冊の本にした。(『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』文芸春秋)
・これは46年3月から4月にかけて寺崎英成などの5人の側近が昭和天皇から直接聞いてまとめたものだと記されている。
・昭和天皇は、張作霖の爆殺事件、15年戦争の始まりとなった満州事件から敗戦までの間の事を話している。
・へぇー、昭和天皇が自分から戦争との関わりを話したの!
・いったい何のために?
・2つの説があって、1つは「東京裁判」対策の弁明書というもの、もう1つは単なる回想録だというものだ。
・その時、昭和天皇は思い風邪にかかっていたのに、執務室にベッドまで持ち込んでまで独白録の作業を進めたのよ。単なる回想録なら、体調が良くなるのを待って、ゆっくり書けばいいのに。
・待てよ、東京裁判が、始まったのは。
・46年5月3日。
・そうか、もし弁明の書なら東京裁判が始まる前に仕上げなければならなかったから重い風邪をおしても作業を続けたことの説明がつく。
・それを決定づけたのがこの本だ。(『昭和天皇2つの「独白録」』東野真著、NHK出版)
・2つの独白録?
・NHKの取材班はマッカーサーの側近。ボナー・フェラーズの残した文章の中から「独白録」の英語版を発見した。同時に
この本には昭和天皇の元侍従長稲田周一の日記が収録されている。
・稲田周一は風邪をおしえてまで独白録を作るのは、東京裁判対策だとはっきり書いているし、発見された英語版が独白録は、連合国軍総司令部に提出するのが目的だったことを証明するものとなった。
・それじゃ独白録は東京裁判に備えた弁明の書だったんだわ。
・独白録で昭和天皇の言っていることは自分は戦争に反対だったが、自分は立憲君主だから開戦を決めた軍部と政府の方針を認めざるを得なかったという事に尽きる。
。しかも驚くことに、昭和天皇は、松岡洋右(ようすけ)をはじめ何人もの臣下を名指しで非難しているんだ。
・責任を臣下に押し付けているのね。
・マッカーサーに言った事と大分違うじゃないか。
・それにマッカーサーに会う2日前に、「ニューヨーク・タイムズ」のクルックホーン記者の質問状に対して「宣戦の詔勅を東条のやったように使用することは本意ではなかった」と言って、真珠湾奇襲を東条の責任にしたのよ。
・マッカーサーに会う前と会った後にマッカーサーに言ったのとは正反対で自分の責任逃れをしているなんて
・極めつけは75年10月訪米後の記者会見で天皇の戦争責任についてどう思うかという質問に対して昭和天皇は「そういう言葉のアヤについては私はそういう文学の方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんからそういう問題についてはお答えできかねます」と答えたことだ。
・ええっ!
・戦争責任が言葉のアヤ!
・戦争責任が文学方面のことですって!
・どうしてちゃんと答えなかったのだ!
・そんなのごまかしじゃないか。
・結局昭和天皇が、戦争責任を認めたというのは、マッカーサーの回顧録に書いてあるだけ。
・昭和天皇自身は一言も戦争責任を認める発言をしたことは無い。
・マッカーサーの回顧録について、アメリカのマサチューセッツ工科大学のジョン・ダワー教授は、マッカーサーが天皇の発言を脚色したと言っているわ。
・マッカーサーと昭和天皇の通訳をした奥村勝蔵の残した極秘メモにも天皇がマッカーサーにそんなことを言った事は全然記されていない。
・一体真相は何なんだ!
・昭和天皇の態度は不可解というより無責任と言った方がいいが、これは昭和天皇個人の人格のせいだけではない。
・近代天皇制の下で天皇になれば誰でもこんな態度取らざるを得ない。
・誰が天皇になってもですか?
・それが、近代天皇制の最大の害悪の1つなのだ。
近代天皇制の真髄は明治憲法の第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」要するに「天皇が現人神である」というところにある。
天皇の神聖化が日本の近代のすべての過ちの原因なんですね。
我々は長い間日本政府がポツダム宣言を受諾し降伏したのはアメリカによる2つの原爆投下で力尽きたからだと思い込んでいたが『昭和天皇独白録』には思いもよらぬ事実が記されていた。
思いもよらぬ事実?
『昭和天皇独白録』では天皇が終戦の決心をしたのは1番目に「このままでは日本民族が滅びてしまう」から
2番目に「このままでは米軍が伊勢湾に上陸して伊勢神宮・熱田神宮を支配下においてしまい、三種の神器を守ることができない。それでは『国体』の維持ができない」からだと言っている。
三種の神器を守るですって!
1番目はまったくの飾り言葉よ
だってそれ以前に米軍による空襲で多くの多くの国民が命を失われ、そして米軍の空襲を防ぐ力が日本にはないことをよく知っていながら2発原発を落とされても天皇は終戦を決意しなかったじゃないの。
本当だ。
ところが原発を2発落されても終戦を決意しなかったその天皇は米軍に三種の神器を奪われるかもしれないと怯えたとたんに
終戦を決意したのだ。
国民より三種の神器の方が大事だったのね。
昭和天皇は万世一系の天皇が日本を統治する「国体」を護ることに凝り固まっていたことがよくわかる。
そうか
天皇自身近代天皇制の洗脳を受けていたんだ。
その通り。
・天皇家に生まれて近代天皇制の洗脳を受けた昭和天皇は自分が神聖な存在であると心底信じていた。
天皇の速記である木下道雄の『側近日誌』(文芸春秋)によれば天皇は敗戦後「天皇人間宣言」と言われている詔書の作成に際して「自分が神の子孫ではないと言う事には反対である」と言ったと記されている。
・敗戦後でも本当に自分が神の子孫で神聖な存在だと信じていたのね!
だが天皇になるべくして生まれて近代天皇制の天皇教育を受ければ誰でも昭和天皇のようになるだろう。
・そして自分が神聖な存在である現人神であるとしたらいったい誰に対して責任を取れと言うのか。
・神が人間に対して責任を取ることはあり得ない事だろう。
・確かになあ、神である自分が臣下の起こした戦争の責任を取るわけないな。
・だから「独白録」で弁明したり、「戦争責任は言葉のアヤ」だなんて言ったんだ。
・今はしょうちょうてんのうせいだから大丈夫ですね。
・とんでもない。1971年の記者会見で、昭和天皇は「天皇は日本国民の統合の象徴」という憲法第1条は「日本の国体の精神に合っている」と言っている。
・ええっ!象徴天皇制は「国体」に合っているというの!
・象徴天皇の意識は敗戦後も全然変わっていなかったのね!
・1945年9月27日昭和天皇は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーをアメリカ大使館公邸に訪問した。64年に書いた回顧録の中でマッカーサーはその時昭和天皇は「戦争遂行にあたってただ一人の責任者として、貴下が代表する国々の判断に我が身をゆだねるために、私はここにやってきました」と言ったと書いている。
・戦争のすべての責任は自分にあると言ったのですね。
・いさぎよい態度です。美談ですよ。
・ところが昭和天皇の死後90年に雑誌『文芸春秋』が「昭和天皇独白録」を公表し、後に一冊の本にした。(『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』文芸春秋)
・これは46年3月から4月にかけて寺崎英成などの5人の側近が昭和天皇から直接聞いてまとめたものだと記されている。
・昭和天皇は、張作霖の爆殺事件、15年戦争の始まりとなった満州事件から敗戦までの間の事を話している。
・へぇー、昭和天皇が自分から戦争との関わりを話したの!
・いったい何のために?
・2つの説があって、1つは「東京裁判」対策の弁明書というもの、もう1つは単なる回想録だというものだ。
・その時、昭和天皇は思い風邪にかかっていたのに、執務室にベッドまで持ち込んでまで独白録の作業を進めたのよ。単なる回想録なら、体調が良くなるのを待って、ゆっくり書けばいいのに。
・待てよ、東京裁判が、始まったのは。
・46年5月3日。
・そうか、もし弁明の書なら東京裁判が始まる前に仕上げなければならなかったから重い風邪をおしても作業を続けたことの説明がつく。
・それを決定づけたのがこの本だ。(『昭和天皇2つの「独白録」』東野真著、NHK出版)
・2つの独白録?
・NHKの取材班はマッカーサーの側近。ボナー・フェラーズの残した文章の中から「独白録」の英語版を発見した。同時に
この本には昭和天皇の元侍従長稲田周一の日記が収録されている。
・稲田周一は風邪をおしえてまで独白録を作るのは、東京裁判対策だとはっきり書いているし、発見された英語版が独白録は、連合国軍総司令部に提出するのが目的だったことを証明するものとなった。
・それじゃ独白録は東京裁判に備えた弁明の書だったんだわ。
・独白録で昭和天皇の言っていることは自分は戦争に反対だったが、自分は立憲君主だから開戦を決めた軍部と政府の方針を認めざるを得なかったという事に尽きる。
。しかも驚くことに、昭和天皇は、松岡洋右(ようすけ)をはじめ何人もの臣下を名指しで非難しているんだ。
・責任を臣下に押し付けているのね。
・マッカーサーに言った事と大分違うじゃないか。
・それにマッカーサーに会う2日前に、「ニューヨーク・タイムズ」のクルックホーン記者の質問状に対して「宣戦の詔勅を東条のやったように使用することは本意ではなかった」と言って、真珠湾奇襲を東条の責任にしたのよ。
・マッカーサーに会う前と会った後にマッカーサーに言ったのとは正反対で自分の責任逃れをしているなんて
・極めつけは75年10月訪米後の記者会見で天皇の戦争責任についてどう思うかという質問に対して昭和天皇は「そういう言葉のアヤについては私はそういう文学の方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんからそういう問題についてはお答えできかねます」と答えたことだ。
・ええっ!
・戦争責任が言葉のアヤ!
・戦争責任が文学方面のことですって!
・どうしてちゃんと答えなかったのだ!
・そんなのごまかしじゃないか。
・結局昭和天皇が、戦争責任を認めたというのは、マッカーサーの回顧録に書いてあるだけ。
・昭和天皇自身は一言も戦争責任を認める発言をしたことは無い。
・マッカーサーの回顧録について、アメリカのマサチューセッツ工科大学のジョン・ダワー教授は、マッカーサーが天皇の発言を脚色したと言っているわ。
・マッカーサーと昭和天皇の通訳をした奥村勝蔵の残した極秘メモにも天皇がマッカーサーにそんなことを言った事は全然記されていない。
・一体真相は何なんだ!
・昭和天皇の態度は不可解というより無責任と言った方がいいが、これは昭和天皇個人の人格のせいだけではない。
・近代天皇制の下で天皇になれば誰でもこんな態度取らざるを得ない。
・誰が天皇になってもですか?
・それが、近代天皇制の最大の害悪の1つなのだ。
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