2009年5月15日金曜日

遺棄化学兵器の危害

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大日本帝国が行なった国家的犯罪!!それは大規模であり、あまりにも計画的で冷酷・残虐な施設・部隊である!!
 その部隊の主要なメンバーたちの大半は、驚くことに、裁判にかけられることも無く、戦後の医学会・製薬会社等で活躍できたのだ!!


『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 遺棄(いき)化学兵器の危害

 1925年に調印されたジュネーブ議定書は、化学兵器や生物兵器(細菌兵器)の使用を禁止していました。そのため、731部隊は、敗戦直前に撤退する時に、捕虜を殺害、建物を破壊して証拠の隠滅をはかり、重要な資料と物資は日本に持ち帰りました。その時、病原菌を植えつけられたネズミや家畜が周辺に逃げ出したため、ハルビン近郊ではペストが流行し、1950年代初めになってようやく終息(しゅうそく)しました。
 日本軍が大量の化学兵器(毒ガス弾・毒ガス筒)を中国に遺棄して撤退したため、戦後になって、遺棄毒ガスによる死傷事件、絶えることなく発生しています。最近の数年間においても、日本軍が秘密裏に埋めた毒ガスが発見され、死傷者が出ています。化学兵器禁止条約に基づいて、日本と中国は1999年、「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」を結び、日本政府の責任で、遺棄毒ガスの解体、処理の作業を始めました。

    516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  劉世尭(男、82歳)の証言

 1937年の冬月6日は、中国侵略日本軍が間もなく南京を占領しようとしていて、城内の住民は雑然とあちこち駆け回って難を逃れようとしていました。五台山の難民区の収容所に区分されて、本部が五台山の永慶寺に置かれた、という話でした。わが家はこの時五台山に1軒借りて先に住み着いていました。「中央軍」は南京を死守し、南京城と存亡を共にする、と言われていたのに、11月9日(農暦)になって彼らは闘わずに逃げてしまい、南京城内を混乱に陥れました。私の両親と初めの妻と子どもとは冬月6日の午後、雲南路の金陵大学農業専修科の2階へ駆け込んで住まいました。私の初めの妻は日本軍の南京占領で驚き脅えたことで、病気になり2年足らずで亡くなりました。この事が私には終生忘れられません。
 冬月8日に、難民収容所の本部から人が来て、沈という人と連携し、国際救済委員会の第35難民収容所が出来ました。沈というのが私と太平路の「美最時」革靴店の責任者とに共同で班長をやらせ、2人に現状を維持するよう責任を負わせました。冬月9日には、難民区の中は難民がとても多く、子女を抱え年寄りを支え泣くに泣けない有り様でした。2日目の晩になって、「中央軍」の兵士は銃器や弾薬を投げ棄て思い思いに逃げ出しました。35難民収容所には2000人余り難民がいて、押し合いへし合い、身の置き所も無いようでした。冬月11日の朝、日本大使館に日本の国旗が揚がったのを見て、難民たちはいっそう恐れ不安がりました。私は2階に住まっていたので、ずっとはっきり見えたのです。午前9時頃かに、突然日本兵が数人来て、収容所に闖入してくるや、いきなり発砲して1人を傷つけ、たちまち数十人捕まえて行って、それっきり帰って来ませんでしたから、きっと殺害されたのです。しかも、日本軍は毎日夜になると婦女をひったくりに来て、引っ張って行き強姦したのです。太平路や中華路一帯が日本軍に放火されて燃え、夜間に赤々とした焔(ほのお)が天を焦がしました。
 日本軍は殺し焼き犯し掠め(かすめ)、悪事の限りを尽くしたのです。
 冬月14日に、私は2階で見たのですが、日本軍は雲南路の角で道を通る中国人を捜査して捕まえ、午前10時過ぎまでに、数千人連れて行きました。お昼時分に機関銃の音が絶えず聞こえただけでした。この難民収容所の後ろに、沼が1つあって、2階で見たのですが、日本軍は湖南路から中国人をたくさん捕まえてきて、沼に向かって5人1列でひざまずかせ、それに発砲する度に、1列ずつ中国人が倒れていき、水際に倒れる者もあれば、沼の中に倒れる者もあるのでした。何日か後に、沼をさらって発見された屍がみんなで83ありました。
 一番初めは、日本軍は中国の同胞を数百名清涼山へ追い立て、そこの大きな防空壕に押し入れ、燃焼弾と機関銃とでその人たちをみんな殺してしまうという、全く残忍なひどいものでした。
 凶悪な大虐殺の後しばらくして、日本軍は南京に住んでいる者に良民証を持たせようとし、それが無ければ命に保証はないことにしました。冬月の末に、父と寧海路に行きましたら、良民証をもらう人がたくさんいました。その時、人の群の中に売国奴がいました。張栄光といって、江西の人だと言われていましたが、それが自動車の上に立って言うには、およそ壮丁や人夫に徴発された者と中国兵になった者で、そうだったと言う者は、皇軍は殺さずに、食べる者を与え、旅費を支給して家に帰らせるが、およそそうだと言わずに、調べられて判明した者は1人残らず銃殺される。売国奴のこの話を聞いて本当と信じ、立って出てきたのが数千人といました。間もなく、日本軍が車でこの人たちを運んで行ってから、いくらもしない内に、機関銃の音が聞こえました。この人たちも日本軍に集団虐殺されたのです。(何月英が記録)

 

   「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが


平和をつくる世界



戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月14日木曜日

毒ガス戦と細菌戦

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大日本帝国が行なった国家的犯罪!!それは大規模であり、あまりにも計画的で冷酷・残虐な施設・部隊である!!
 その部隊の主要なメンバーたちの大半は、驚くことに、裁判にかけられることも無く、戦後の医学会・製薬会社等で活躍できたのだ!!


『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 化学戦と細菌戦の実施

 廬溝橋(ろきょうこう)事件のすぐ後、日本は化学戦(毒ガス戦)部隊を編成して中国へ派遣しました。1937年7月28日、日本の参謀総長は、毒ガス使用許可の指示を出しました。以後、日本の各部隊では化学戦に従事する兵員を養成、訓練して、中国戦場で化学兵器を使用するようになります。
 中国の統計によれば、日本軍の化学兵器使用作戦数は2000回以上、死傷者は国民党軍兵士4万7000人、うち死者6000人、八路(はちろ)軍兵士が3万7000人、うち死者は1500人、民間人と捕虜の死傷者は1万余人に上ります。
 1939年、731部隊は、中国とモンゴル国境のノモンハンで起こしたソ連軍との戦闘(ノモンハン事件)において、初めて細菌兵器を使用しました。その後、日本は侵略戦争を拡大すると、関東軍、北支那・中支那・南支那の各方面および東南アジアの軍隊においても「防疫(ぼうえき)給水部」の名称で細菌戦部隊を創設しました。中国の浙江(せっこう)、湖南、山東、広東(かんとん)などにおいて細菌兵器を使用したため、多数の住民が被害を受けました。湖南省の常徳では、実名が判明した死者が7463人に達しました。


   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  大久野島(毒ガス島)

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       「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  張秀琴(女、57歳)の証言

 1937年の冬、日本軍が南京を占領した時、私は金陵女子大学の難民区に避難していましたが、それは寧海路でした。日本軍が難民区から中国の男の青年をたくさん捕まえていくのを、私は窓から見たのですが、どこから捕まえて来たのかわからないのもいて、日本軍はその人たちを縄で縛り、数十人を数珠繋ぎにしたのを、前と後ろから日本兵が銃で押さえるようにして、女子大学の後ろの山の上まで引っ張って行った後、機関銃がひとしきり響き渡るのが聞こえただけでしたが、みんな撃ち殺されたのです。私たちは恐くて家の中に隠れているだけで外には出られませんでした。この人たちほんとに痛ましい死に方をしたんだなあ、と思います!(章厚之と申全英が記録)

 
  
 「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月13日水曜日

731部隊

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大日本帝国が行なった国家的犯罪!!それは大規模であり、あまりにも計画的で冷酷・残虐な施設・部隊である!!
 その部隊の主要なメンバーたちの大半は、驚くことに、裁判にかけられることも無く、戦後の医学会・製薬会社等で活躍できたのだ!!


『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 「特別移送」と人体実験

関東軍の憲兵隊は、逮捕した抗日運動の活動家やソ連のスパイ工作員をひそかに731部隊まで移送して、細菌実験の「材料」(マルタ〈丸太〉と呼んだ)にしました。これを当時「特別移送」と呼びました。1999年と2001年、黒竜江省(こくりゅうこうしょう)と吉林省(きつりんしょう)の公文書館で、関東軍憲兵隊が残していった「特別移送」の資料が発見されました。
 731部隊は、「特別移送」されてきた人たちを秘密の監獄に入れて、ペスト、チフス、パラチフス、コレラ、馬鼻疽(ばびそ)など数十種もの細菌実験に使いました。さらに凍傷(とうしょう)実験、人間の血と馬の血を交換する実験、人体を逆さづりにする実験などを行ない、生体解剖まで行ないました。化学戦部隊と共同で毒ガス実験も行ないました。元731部隊員の証言によれば、少なくとも3000人がここで犠牲になりました。


  516部隊

  516部隊

  731部隊

  731部隊

  731部隊

  731部隊

  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  安翠雲(女、62歳)の証言

 日本軍が1937年の12月に南京を占領した時、私たちは家族全部で五台山の近くの金陵女子大学の中に避難していました。
 1937年の12月17日の午後、4時か5時頃に、日本兵がたくさん来て、難民収容所にいた中年と青年の男子を、1人1人検査し、およそ頭に帽子のたががある者と、手にたこのある者とは、みんな中国兵と見なされました。その日全部で20人余り引きずられ、斜め向かいの空き地まで連行され、機関銃で掃射され、いっぺんにみんな撃ち殺された後、日本兵は大手を振って立ち去りました。日本軍は縦に南京の同胞を虐殺し、中国人民に対してゆるすことの出来ない罪を犯したのです。※(蒋宝霞と劉維玉が記録)
 
 ※詳しくは「南京事件の日々(ミニー・ヴォートリンの日記)」【大月書店】の12月17日を見てください。

  
 「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。

 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月12日火曜日

化学戦部隊と細菌戦部隊の成立

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大日本帝国が行なった国家的犯罪!!
 あまりにも冷酷・残虐な部隊である!!
 その部隊の主要なメンバーたちの大半は、驚くことに、裁判にかけられることも無く、戦後の医学会・製薬会社等で活躍できたのだ!!

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日本軍による中国民衆への残虐行為

 4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 化学戦部隊と細菌戦部隊の成立
 第一次世界大戦後、日本陸軍はひそかに化学兵器の開発を行ない、毒ガス製造工場を設立しました。日本は、中国への侵略戦争を始めると、化学戦部隊を中国の戦場へ派遣しました。関東軍は、ソ連に対する化学戦を準備するため、化学戦部隊、516部隊を満州のチチハルに創設しました。
 1932年、石井四郎(陸軍軍医、医学博士)は、東京の陸軍軍医学校で細菌戦の準備を始めました。1936年5月30日、日本は「軍令陸甲第7号」により、ハルビンの平房に「関東軍防疫給水部」の名前で細菌戦部隊を正式に創設し、石井四郎が初代の部隊長に就任しました。1941年からは「満州第731部隊」と改称し、ハイラル、牡丹江、林口、孫呉などに支隊を設立しました。


   516部隊

  516部隊

  731部隊

  731部隊

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 731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。

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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  周鳳英(女、70歳)の証言

 1937年の冬月、私たち一家は二条巷に住んでいましたが、それは大方巷の難民区にあり、旧の兵工署の建物でした。日本の軍隊が12月13日に南京に入ってくるなり、一般市民に大虐殺をやりましたが、全くむごい非道なものでした。わが家は10人いたのが、日本兵の野蛮さで5人も惨殺されたのです。
 私の姑の周洪氏は、その時55歳で、叔父の周必富は、51歳でした。夫は5人兄弟で、一番上の周永春が36歳、2番目の周永寿が33歳、3番目の周永財が30歳、4番目の周永林が27歳、5番目が私の夫で、名を周永其といい、24歳でした。家にはまだ子ども2人と私がいました。日本兵がやって来て大虐殺をした3日目、つまり冬月14日の、朝8時過ぎに、日本兵7,8人が私たちのいた塀囲い内の難民100人余りをみんな駆り出し、鉄条網で囲み、1人1人検査して、頭に帽子のたがが見て取れる者と、手や肩にたこが出来ている者とを引っ張り出して、「中央兵」だと言い、別の列に並ばせました。我が家の男たちは止馬営で野菜を作っていて、兄弟たちと叔父は手に馬鍬をつかみ、肩に天秤を担ぐのですから、たこが厚くなるのは当然なのです。日本兵は叔父の周必富や義兄の永春、永寿、永財、永林たち5人をみんな立たせて、中央兵だと言い、「スーラスーラトィ(死んじまえ、死んじまえ)」と言いました。間もなく日が山に沈もうとする頃、日本軍7,8人が引っ張り出して来た110人をみんな陰陽営のある沼に駆り立て、機銃掃射して死なせました。何日経っても誰も死体を片付けられませんでした。10何日もしてやっと紅卍字会が死体を埋めてくれたのです。
 明くる日、姑が恐がって私の夫と子ども2人とを天井板の上に隠し、私を金陵女子大学にやって身を隠させました。我が家が災難にあった日は、丁度3番目の兄永財の誕生日だったので、かなりはっきり覚えているのです。かわいそうに永財兄さんは、冬月14日のこの日が、生まれた日であり、死ぬ日でもあったわけで、何とも惨めです!姑は一日の内に息子4人と、義弟1人が死んでしまったのですから、もう悲しみに打ちひしがれ、難民区では泣けませんでしたが、止馬営の家に帰るなり大泣きに泣いて、その所為で大病を患ってしまい、3ヶ月余りしてやっとよくなりました。日本の侵略者のこの野蛮な行動は、私たちは永遠に忘れられません。(馬管良と陳裕民が記録)

  
 
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武器を使わせない世界


核兵器を全面禁止することこそ必要です。世界のNGOは、「核兵器禁止条約」をつくることを提案しており、国連で交渉を始めることを呼びかけています。
 生物・化学兵器は、国際条約ですでに全面禁止されています。もちろん禁止しても、隠れて開発する国や人々が出てくる可能性はあります。その時には国際機関が査察を行い、科学技術を用いて調査し、法に従って解決すべきです。

 ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もちこませない」という「非核三原則」をもっています。
 原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみを誰にも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月11日月曜日

「無人区」の設定

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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 3、無差別爆撃・三光作戦と「無人区」の設定

  日本の中国侵略戦争が長期持久戦の段階に入ってから、日本軍は占領地に対してどのような軍事作戦を実施したのでしょうか。

 「無人区」の設定

 日本軍は抗日勢力を孤立させるため、農民多数を居住地から強制的に追い立て、一定の場所に建設した「集団部落」に集中して居住させました。こうして、広い地域を「無人区」に設定し、民衆と抗日軍との連絡を切断しようとしたのです。
 日本軍は万里(ばんり)の長城を「満州国」と華北との境界地帯にしていましたが、1941年秋から42年にかけて、共産党と八路(はちろ)軍の指導のもとに、長く伸びる長城線の南北に、広大な帯状の抗日根拠地が築かれました。これに脅威をいだいた日本軍は、傀儡(かいらい)の「満州国」軍を動員して、この区域一帯の住民を集団部落に強制移住させたあと、もとの村々を焼き払い、抵抗する住民を殺害し、長城線上500キロ以上にわたって「無人区」を設定しました。住む家や畑を失って、膨大な数の農民が飢えや寒さ、疫病などで死んでいきました。
 日本軍は、農民が「無人区」に住んで耕作することを厳しく禁止しました。
集団部落内では米穀(べいこく)を統制する政策が実施され、農民たちは穀物を食品に加工する道具まで没収されました。日本軍は農民が生産したいっさいの食糧・果物類を倉庫に保管することを定めて、個人が蓄えたり、売買することを厳しく禁止しました。従わなければ、厳罰を受けました。集団部落の生活は農民の身体の自由まですべてを奪ったのです。

   無人区  


  長城線無人区を行く    


「この事実を・・・・」

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1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  王鵬清(男、72歳)の証言

 日本の軍隊が南京に来てなかった時、私の家は居安里7号でした。私は鍛冶屋の仕事をしていて、父母はいずれも50歳前後で、家にはほかに妹1人と私の妻が居て、家の暮らしは主として私に依っていました。
 1937年の12月13日に、日本兵が入ってきた時に、わが家は牯嶺路18号の難民区へ引き移りました。私はその時もう25歳になっていて、半年前に結婚したばかりでした。私たちは一日中家の中に隠れていましたが、妹と妻とは外で隠れていて、家に帰ろうとしませんでした。日本軍が入って来て半月くらいした、ある日の午前中、晴れた日だったと覚えていますが、日本兵がわが家の家の付近一帯で戸別に捜査をして、もう既にたくさんの人を寧海路に集め、その人たちの手にたこができているかどうか、頭に帽子のたこがあるかどうかを調べていましたが、それは主に兵隊だったかどうかを見たのでした。私は逃げられるものではないと思い、家で隠れているしかありませんでした。昼ご飯を食べた後、確か1時か2時頃かに、日本兵が4,5人わが家に捜索にやってきて、私の手に鉄を打つのでできた硬いたこがあるのを見つけ、どうしても連れて行こうとしました。母が泣きながら「これは兵隊ではありません。鉄工をしていたのです」と言い、鍛冶屋の道具を持ち出してきて見せましたが、兵隊たちは全く相手にせず、むしろ憎々しげに銃床で父と母とを殴り倒し、やっほやっほと無理矢理に私を連れて行きました。私は母が身も世もなく泣き叫ぶのを聞き、自分の命が保ち難いと知り、これから先父と母と妻と妹とが生活をどうやって行くのだろうと思ったら、途端に悲しくて悲しくて、どっと目に涙が溢れ、声を上げて泣きました。
 日本兵は私を寧海路に連れて行きましたが、そこには既に200人余り捕まってきた人がいて、みんな平民大衆でした。日本兵は縄で1人ずつ両手首を縛り、4人1組にし一緒に縛り付け、日本兵が両側に付いて、私たちを虎踞関まで駆り立てました。虎踞関に着いたら、私たちはそばに沼のあるくぼ地の1つに追い立てられ、日本兵がその周り地の利の良い所に機関銃を据え付け。数十人が私たちを取り囲みました。この時既に午後3時か4時で、日本軍将校の号令一下、機関銃やら小銃やらが一斉に私たちを射撃しました。弾が一発頭の上をかすめて鮮血がほとばしり、私は頭が何だかこん棒で殴られたような感じでしたが、途端に倒れてしまいました。射撃が停まった後、足で死体を蹴る音をかすかに聞きました。蹴られた時は、動きませんでしたが、間もなく気を失ってしまいました。気が付いた時は、もう真夜中で、日本兵はとっくに行ってしまっていました。私は死体のうずたかくなった中からゆっくり這い出しましたが、身体中血だらけでした。私は来た道に沿って手探りで家に帰りましたが、道には1人もいませんでした。家に着いて戸を叩いたら、母が起きてきて戸を開け、私が帰ってきたのを見て、びっくりして大喜びし、急いで頭の血をきれいに洗い落とし、灰をぬってくれました。こうして何とか急死に一生を得て、思いがけず活きてこれたのです。(秦景峰と曹義富と顧蘇寧が記録)
 
       
 
 
 「Imagine9」【合同出版】より



武器を使わせない世界


世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。
 たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。
 また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。

 広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。
 このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。
 いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月10日日曜日

三光作戦

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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 3、無差別爆撃・三光作戦と「無人区」の設定

  日本の中国侵略戦争が長期持久戦の段階に入ってから、日本軍は占領地に対してどのような軍事作戦を実施したのでしょうか。

 三光(さんこう)作戦

日本軍は、華北において中国軍がおさえていた地域、とくに中国共産党が解放した抗日根拠地に対して掃討(そうとう)作戦を実施しました。それは、日本軍に抵抗する軍人・民衆の生存条件を徹底的に破壊することを目指した作戦で、中国では焼光(焼き尽くし)、殺光(殺し尽くし)、搶光(奪い尽くし)した「三光作戦」と呼んでいます。日本軍はこれを「燼滅掃討作戦(じんめつそうとうさくせん・・・燃えかすがなくなるまで徹底的に滅ぼす作戦)と呼びました。
 北坦(ほくたん)村の虐殺事件は、日本が華北で行なった「三光作戦」の1つです。1942年5月、日本軍の北支那方面軍の第110師団の一大隊が冀中(きちゅう・・・河北省中部)抗日根拠地の定県の東南25キロにある北坦村を急襲しました。村は平原にあって、220世帯、1227人が住んでいました。村人たちは日本軍から逃れるため、全村をつないで掘っていた坑道に隠れました。
 その坑道に日本軍は毒ガスを投入したのです。中毒死と射殺によって1100人余りが殺害されました。女性は、毒ガスで殺害されたほか、多数が強かんされました。村の家屋36軒が焼かれ、食糧や財産も略奪されました。

  三光作戦
化学兵器CAREみらい基金ブログ
 
     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  韓宝如(男、80歳)の証言
 1937年に日本軍が南京を占領した時、私は老西家大塘15号に住んでいました。日本兵が入ってきた2日目に、私は家の戸口で日本軍が銃で男女6人を撃ち殺したのを目撃しました。3日目には天山路で4人日本軍に殺されるのを見ました。1937年の12月中旬に、日本兵が天山路43号に泊まっていたのを、隣の倪徳秋が好奇心から見に出かけたら、日本軍に一発撃たれ、腸が流れ出て死んでしまいました。その場にいた人が驚いて叫びだしたので、日本兵がすぐ驚き叫んだ人に向かって発砲し、隣人の王伯母さんと、施校支さんと、施校賓さんとの3人を撃ち殺しました。私はその時家で隠れていて、窓からこの惨状を目にしたのです。(賀家宝が記録)

       
 
 
 「Imagine9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと


約束した世界



地球規模では、世界各国では軍隊を減らす一方、国連に「緊急平和部隊」をつくり、紛争や人権侵害を防止しようという提案がなされています。また、イタリア憲法11条は、日本国憲法9条と同様に「戦争の放棄」をうたっていますが、そこには「国どうしの平和的関係のためには、国の主権が制限される場合もある」と定められています。つまり、国際的なルールや制度によって平和を保つ事が重要であり、「自国を守るため」といって勝手な行動をとることは許されないということです。
 グローバル化の時代、人々は国境を越えて行き来し、経済や社会はつながりあっています。安全を自国の軍事力で守ろうとすることよりも、国どうしで約束をつくり、国際的に平和のシステムをつくることの方が、現実的に必要とされてきているのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月9日土曜日

無差別爆撃

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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 3、無差別爆撃・三光作戦と「無人区」の設定

  日本の中国侵略戦争が長期持久戦の段階に入ってから、日本軍は占領地に対してどのような軍事作戦を実施したのでしょうか。

 無差別爆撃

 日本軍は、国民政府の抗戦意識を失わせ、屈服、投降を迫るため、1938年から1943年にかけて、膨大な数の飛行機を出動させ、中国抗戦の政治・軍事の中心であった重慶(じゅうけい)に対して「戦略爆撃」を行ないました。そのため、多数の市民が犠牲になりました。
 1941年6月5日、日本軍機24機が3隊に分かれてくり返し重慶を爆撃し、空襲は5時間にも及びました。この時、18梯(てい)大地下壕にたくさんの市民が避難しましたが、人数が多すぎたうえに通風が悪かったため、1200人前後の市民が窒息死(ちっそくし)しました。これが有名な「6・5大地下壕事件」です。
 中国の辺境に位置するいくつかの省を除いて、他の全省が日本軍機の爆撃を受けました。軍隊・軍事施設と民間人とを区別しない無差別爆撃は、民衆の生活に大きな災難をもたらし、人々の生活を長期間にわたり恐怖に陥(おとしい)れました。

  無差別爆撃


     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  戴秀英(女、69歳)の証言

 1937年の12月13日に日本の侵略者が南京に入った時、私は家中で難民区にいました。2,3日もしない内に、日本軍の2,30人ほどが、武器を携え、難民みんなに広場に集まらせ、集めてから男女分かれて立たせました。日本軍は男の人たちの前に行き、1人1人調べ、凡そ手にたこのできている者や、頭に帽子でたがをかけたあとのある者は、兵隊だったと見なし、トラックで2台ほど一緒に連れて行きました。連れて行かれた人たちは玄武門の近くで銃殺されました。後に、西家大塘でこの人たちの死骸を見つけた人がいました。(井昇安と丁亜慶が記録)

      
 
 
 「Imagine9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと


約束した世界



「相手が攻めてくるから、準備しなければならない」
 軍隊は、いつもそう言って大きくなってきました。でも、こちらが準備することで、相手はもっと不安に感じ、さらに軍備を増やしていきます。その結果、安全になるどころか、互いに危険がどんどん増えていきます。
 このような競争や衝突を避けるため、国々は「お互いに攻めない」という約束を結ぶ事ができます。
とくに、地域の中でこのような取り決めを行っているところは多く、ヨーロッパには「欧州安全保障・協力機構(OSCE)」が、東南アジアには「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が、アフリカには「アフリカ聯合(AU)」が地域の平和のための枠組みとして存在します。

 日本を取り囲む東北アジア地域には、このような枠組みはありません。朝鮮半島は南と北に分断されており、中国と台湾は軍事的ににらみ合っています。日本では多くの人が「北朝鮮が怖い」と感じていますが、逆に朝鮮半島や中国の人たちの間では「日本の軍事化が怖い」という感情が高まっています。
 NGOは、「東北アジア地域に平和メカニズムをつくろう」と提案しています。
 その一つのアイデアは、東北アジアに「非核地帯」をつくることです。
日本や韓国、北朝鮮は核を持たないことを誓い、一方でアメリカ、中国、ロシアなどの核保有国はこれらの国に「核による攻撃や脅しをしない」という法的義務を負うような条約をつくるのです。すでにこのような非核地帯条約は南半球のほとんどにできており、最近では中央アジアにもできました。
 また、日本とロシアの間で争いになっている「北方領土」周辺に平和地帯をつくるとか、中国と台湾それぞれが軍備を減らし平和交流を増やすといった提案がなされています。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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