1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
4、東北人民の反満抗日闘争
日本軍の侵略と占領支配を受けた中国東北地方の各民族、各階層の民衆は、どのように抵抗し、闘争を続けたのでしょか。同地方の反満抗日闘争の戦いの歴史を見てみましょう。
馬占山(ばせんざん)と嫩江(のんこう)橋抗戦
満州事変を起こした関東軍は、遼寧(りょうねい)、吉林(きつりん)の2省をあいついで占領すると、黒龍江省(こくりゅうこうしょう)に侵攻しました。ところが嫩江橋において、黒龍江省の代理主席・馬占山が指揮する中国軍の頑強な抵抗を受けたのです。関東軍は何度か撃退された後、主力部隊と主力兵器を集中して激しい戦闘を繰り広げ、数ヶ月後にようやくチチハル市を占領しました。
抗日連軍
1935年前後、中国共産党の指導のもとで、満州の各地域の抗日武装勢力が連合して東北人民革命軍を編成しました。後に「東北抗日連軍」と改称して第1軍から第11軍まで、約3万人の兵力にまで拡大されました。
これに対して関東軍と「満州国」政府は、「治安粛正(しゅくせい)作戦」(抗日勢力を撃滅して支配を安定させようという作戦)を強力に押し進めました。抗日連軍は何度も「討伐」を受けて食糧と塩、薬品などの補給を完全に断たれ、多くの兵士たちが日本軍の討伐と攻撃のたびに犠牲になりました。犠牲があまりにも大きくなったため、抗日連軍は兵力を温存するために国境を越えてソ連領内に入り、小さくなった部隊の結集をはかりました。
1942年になると、抗日連軍の小部隊はソ連領内から満州へ戻り、日本軍の後方に深く侵入して、情報収集を行なったりして闘いを続けました。1945年8月8日にソ連が対日宣戦布告をすると、抗日連軍は満州に戻り、抗日闘争の最終的な勝利を迎えたのです。
▲楊靖宇(よう・せいう)
抗日連軍第一路軍の総指揮官、1940年戦死。日本軍がその遺体を解剖してみると、胃の中には未消化の木の皮、草の根、綿などがあっただけだった。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)群の中には熱い涙を流す者あり、大声で泣き叫ぶ者あり、不当な扱いを恨みわめく者ありで、嘆き訴える怒声が天を震わせました。私は心に思いました。17になったばかりの、こんなにも短い命で、今にも日本軍に殺害されようとしている。だけど、父母や家の人たちは私が外で殺害される様子をまだ知らないでいる。国破れて家滅びる恨めしさを私は感じましたが、同時に又人はどの道死ぬのだけれど、殺害されて死んではいまいましいとも想い、いちるの望みでもあるなら、起死回生を狙ってやろう、とも思いました。丁度その時、日本軍の親玉が私たちの殺害に刺し殺しを採用すると宣言しました。それで直ちに人の群の一番前の列から始めて、ゲートルで10人を1列につなぎ、引っ切り無しに河の水辺まで駆り立て、銃剣で刺し殺しては、河に倒れ込ますのでした。
私は最前列から10数メートルしか離れていなくて、すぐにしばられることになりそうでした。とっさに思いついて私は、人の群の一番端っこから、大急ぎで一番後ろの列まで移りましたが、日本軍が私たち全部を殺しつくそうとする時には、最後は私の番になるのでした。私は後ろの空き地にうずくまり住民のあばら家に近づきましたが、その壁は芦の柴と泥とでできた間垣で、たくさんの人に押し付けられて、家も壁も壊れ、芦の柴が丸出しになっていました。午後の4時頃までに、三汊河で囲み込まれた兵士と民衆のうちの、7割ほどがもう殺されていました。冬という季節は、昼間が短く夜の長いものですが、空には一面に黒雲が立ち込めて、天もどんより地も薄暗く、やがて日が落ちるかのようでした。日本軍はできるだけ早く殺し尽くしてしまおうと、急に残った3割の人たちを、河辺りまで駆り立て機関銃で掃射しました。ちょうどその時、私はある人が芦の柴でできた壁をほじくって穴を開けそこからもぐり抜けて逃げて行くのを見ましたが、かなりの人が草葺き小屋の屋根を腹ばいになって逃げるのもいて、よく見えてしまうので、日本軍に機関銃で射撃され、死骸が屋根から転げ落ちてくるのでした。この機に乗じて、私と他のもう2人も芦の柴の土塀をほじくり草葺き小屋の隣の一部屋にもぐりこみ、しばらく隠れていてから、機を見て又逃げて行きました。
まもなく暗くなろうという頃、河辺りに頻々と、機関銃の射撃のの音が聞こえていました。12月13日の午前9時から暗くなるまで、残忍野蛮な日本軍は、三汊河の沿岸で、わが軍と民との同胞2万人以上を殺害したのです。これはしかし、日本軍の虐殺のほんの一場面にしか過ぎないのです。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
ひとりひとりの安全を
大事にする世界
これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。
2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
731を問う!!
2009年4月10日金曜日
満州国
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
3、「満州国」の社会と経済
日本は、「満州国」の政治と経済から科学技術および文化、教育まであらゆる分野にわたって支配し、実質的に日本の植民地のようにしていきました。そのためどんな方法がとられたのでしょうか。
植民地教育
関東軍は満州を占領すると、反満抗日の教育を行なっている学校の教師と生徒を逮捕し、さらに学校を閉鎖しました。その後、植民地支配がある程度進み、秩序が安定し始めると、学校教育の回復と建設をはかるようになりました。小学校は「国民学校」と改称し、それまで合わせて6年間だった中学校と高等学校を4年間にして「国民高等学校」と名づけました。戦争政策に役立たせるために、基礎知識を学ぶ授業が大幅に削られ、実業教育の必要が強調されるようになりました。
学校では、教師と生徒は、毎日必ず日本の天皇と「満州国」皇帝に向かって遥拝させられ、「国歌」を歌い、溥儀の『国民調』を暗唱させられました。生徒たちは日本語と修身(後に「建国精神」と改称)を学ぶことを強制され、「日満一体」「忠君愛国」の思想が注入されました。中国では、日本の統治時期に強制された「皇民化教育」のことを「奴隷化教育」と呼んでいます。
■依蘭(いらん)県国民高等学校学生の回想
初代の副校長は中原という退役軍人で、軍閥の作風があり、いつも教師を譴責(けんせき)し、学生 を殴り、絶対君主としてふるまった。
食糧の強制的徴収
1939年、日本と「満州国」政府は日中戦争の長期化にともない、食糧500万トンを強制的に徴収する政策を決定しました。徴収量は毎年増加されてゆき、1945年には900万トンになりました。毎年秋の収穫期になると、当局は軍隊や警察を農村に派遣して穀物の徴収を監督したので、農民たちはやむを得ず、自分たちが食べる食糧や種まきの分まで供出しました。
大量の穀物が軍隊の食糧として徴収されたので、都市住民の1人当たりの1ヵ月の食糧は、わずか5キロほどしかなく、ドングリなどの木の実や野草を食べて飢えをしのぐしかありませんでした。当局は一般の中国人が米を食べることを禁止し、従わない者は「経済犯」と見なして処刑することもありました。
強制労働者の苦難
関東軍は、満州を対ソ戦争の作戦基地にするため、1939年から「北辺振興計画」を進め、ソ連との国境地帯に大規模な軍事施設を建設するための工事を行いました。そのため生じた満州の労働力不足を解決するため、日本と「満州国」政府は、華北地方において労働者の「募集」を行いました。華北労工協会の記録によれば、1941年と1942年に「募集」された労働者は100万人前後にのぼり、その中には日本軍との戦闘で捕らえられた捕虜も含まれていました。
「募集」とは名ばかりで実際は強制連行された労働者たちには、労働は過酷をきわめていたのに食糧はわずかしか支給されず、冬の防寒もろくになされませんでした。こうした非人間的な扱いを受けて、数多くの労働者が非業の死をとげました。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)私たち3人は日本軍は彼らを殺害しないと思って、少し後ろから三汊河まで付いて行きました。木橋まで来た時、前の方に日本軍が更に多くの兵力が布陣して、一大包囲網を形成しているのが見え、すこぶる殺気がみなぎっていました。日本軍は群の中に列から外に出るのがいるのを見つけると、銃剣で刺し殺したので、何人もが地に倒れ悲惨な叫びをあげて死にました。この突然の状況は私たちの予期に反したことで、様子からして日本軍はここで私たちへの虐殺をやろうとしているようでした。草葺き小屋に留まって、隠れていた方がずっと安全だったのに、三汊河までついてきたのは、死を求めたようなものだった、非常に悔やまれました。その時、とっさにいい知恵が浮かんで、すぐに後ろを向いて歩きました。ところが、後ろについて来ていた日本軍が、銃剣を私に突きつけてきたので、とっさに私が飛ぶように前に向き換えて、人の群に入り込んだところ、私の後ろにいた何人かの同胞が、いずれも日本軍に胸から背に銃剣で突っつかれ大声をあげて地に倒れて死に、私は一死を免れたのでした。
私たちは三汊河の木橋の西へ数百メートル行った南の河辺まで駆り立てられて、みんな日本軍の手の内に死ぬんだと知りました。何人もが日本軍の蛮刀の辱めを受けたくないと、ある者は頭を壁にぶっつけ、ある者は河に跳びこんだ自ら溺れ死に、泳げる者は、河にもぐって逃げようとし、みんな日本軍に射撃されて水中に没しました。
三汊河の河辺と空き地について、みんなで2万余りの中国人が包囲されたまま、日本軍は機関銃で射撃する準備を終わりました。けれども日本軍はまだ射撃を始めずに、又私たちを河辺から、岸の上(大通りより南の大同小麦粉工廠の広場)に駆り立てました。日本軍の首領で、うんと小さいのが、みんなに話(通訳つきで)をしました。「お前らはどうして恐れ多くも皇軍に刃向かったのか。お前らは有罪だ」「お前らはけしからん。どいつもこいつもスーラスーラ(死了死了=死んでしまえ、死んじまえ)」と、手を挙げ手まねで、首をはねる意を示しました。「今お前らに聴くが、どんな死に方がいいか。機銃掃射がいいか。小銃で撃つのがいいか。あるいはガソリンか焼夷弾で焼くのがいいか。それとも銃剣で刺し殺すのがいいか」。これを聞いて私は内心すごく憤慨し、日本軍が人を殺すのに、殺害される者にどういう死に方がいいかなどと聴くなんて、そんなことがあっていいんだろうか、と思いました。私たちはどうしても日本軍に全部殺害されることになりそうでした。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界
また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。
いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
3、「満州国」の社会と経済
日本は、「満州国」の政治と経済から科学技術および文化、教育まであらゆる分野にわたって支配し、実質的に日本の植民地のようにしていきました。そのためどんな方法がとられたのでしょうか。
植民地教育
関東軍は満州を占領すると、反満抗日の教育を行なっている学校の教師と生徒を逮捕し、さらに学校を閉鎖しました。その後、植民地支配がある程度進み、秩序が安定し始めると、学校教育の回復と建設をはかるようになりました。小学校は「国民学校」と改称し、それまで合わせて6年間だった中学校と高等学校を4年間にして「国民高等学校」と名づけました。戦争政策に役立たせるために、基礎知識を学ぶ授業が大幅に削られ、実業教育の必要が強調されるようになりました。
学校では、教師と生徒は、毎日必ず日本の天皇と「満州国」皇帝に向かって遥拝させられ、「国歌」を歌い、溥儀の『国民調』を暗唱させられました。生徒たちは日本語と修身(後に「建国精神」と改称)を学ぶことを強制され、「日満一体」「忠君愛国」の思想が注入されました。中国では、日本の統治時期に強制された「皇民化教育」のことを「奴隷化教育」と呼んでいます。
■依蘭(いらん)県国民高等学校学生の回想
初代の副校長は中原という退役軍人で、軍閥の作風があり、いつも教師を譴責(けんせき)し、学生 を殴り、絶対君主としてふるまった。
食糧の強制的徴収
1939年、日本と「満州国」政府は日中戦争の長期化にともない、食糧500万トンを強制的に徴収する政策を決定しました。徴収量は毎年増加されてゆき、1945年には900万トンになりました。毎年秋の収穫期になると、当局は軍隊や警察を農村に派遣して穀物の徴収を監督したので、農民たちはやむを得ず、自分たちが食べる食糧や種まきの分まで供出しました。
大量の穀物が軍隊の食糧として徴収されたので、都市住民の1人当たりの1ヵ月の食糧は、わずか5キロほどしかなく、ドングリなどの木の実や野草を食べて飢えをしのぐしかありませんでした。当局は一般の中国人が米を食べることを禁止し、従わない者は「経済犯」と見なして処刑することもありました。
強制労働者の苦難
関東軍は、満州を対ソ戦争の作戦基地にするため、1939年から「北辺振興計画」を進め、ソ連との国境地帯に大規模な軍事施設を建設するための工事を行いました。そのため生じた満州の労働力不足を解決するため、日本と「満州国」政府は、華北地方において労働者の「募集」を行いました。華北労工協会の記録によれば、1941年と1942年に「募集」された労働者は100万人前後にのぼり、その中には日本軍との戦闘で捕らえられた捕虜も含まれていました。
「募集」とは名ばかりで実際は強制連行された労働者たちには、労働は過酷をきわめていたのに食糧はわずかしか支給されず、冬の防寒もろくになされませんでした。こうした非人間的な扱いを受けて、数多くの労働者が非業の死をとげました。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)私たち3人は日本軍は彼らを殺害しないと思って、少し後ろから三汊河まで付いて行きました。木橋まで来た時、前の方に日本軍が更に多くの兵力が布陣して、一大包囲網を形成しているのが見え、すこぶる殺気がみなぎっていました。日本軍は群の中に列から外に出るのがいるのを見つけると、銃剣で刺し殺したので、何人もが地に倒れ悲惨な叫びをあげて死にました。この突然の状況は私たちの予期に反したことで、様子からして日本軍はここで私たちへの虐殺をやろうとしているようでした。草葺き小屋に留まって、隠れていた方がずっと安全だったのに、三汊河までついてきたのは、死を求めたようなものだった、非常に悔やまれました。その時、とっさにいい知恵が浮かんで、すぐに後ろを向いて歩きました。ところが、後ろについて来ていた日本軍が、銃剣を私に突きつけてきたので、とっさに私が飛ぶように前に向き換えて、人の群に入り込んだところ、私の後ろにいた何人かの同胞が、いずれも日本軍に胸から背に銃剣で突っつかれ大声をあげて地に倒れて死に、私は一死を免れたのでした。
私たちは三汊河の木橋の西へ数百メートル行った南の河辺まで駆り立てられて、みんな日本軍の手の内に死ぬんだと知りました。何人もが日本軍の蛮刀の辱めを受けたくないと、ある者は頭を壁にぶっつけ、ある者は河に跳びこんだ自ら溺れ死に、泳げる者は、河にもぐって逃げようとし、みんな日本軍に射撃されて水中に没しました。
三汊河の河辺と空き地について、みんなで2万余りの中国人が包囲されたまま、日本軍は機関銃で射撃する準備を終わりました。けれども日本軍はまだ射撃を始めずに、又私たちを河辺から、岸の上(大通りより南の大同小麦粉工廠の広場)に駆り立てました。日本軍の首領で、うんと小さいのが、みんなに話(通訳つきで)をしました。「お前らはどうして恐れ多くも皇軍に刃向かったのか。お前らは有罪だ」「お前らはけしからん。どいつもこいつもスーラスーラ(死了死了=死んでしまえ、死んじまえ)」と、手を挙げ手まねで、首をはねる意を示しました。「今お前らに聴くが、どんな死に方がいいか。機銃掃射がいいか。小銃で撃つのがいいか。あるいはガソリンか焼夷弾で焼くのがいいか。それとも銃剣で刺し殺すのがいいか」。これを聞いて私は内心すごく憤慨し、日本軍が人を殺すのに、殺害される者にどういう死に方がいいかなどと聴くなんて、そんなことがあっていいんだろうか、と思いました。私たちはどうしても日本軍に全部殺害されることになりそうでした。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界
また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。
いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月9日木曜日
満州国
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
3、「満州国」の社会と経済
日本は、「満州国」の政治と経済から科学技術および文化、教育まであらゆる分野にわたって支配し、実質的に日本の植民地のようにしていきました。そのためどんな方法がとられたのでしょうか。
日本の資本による満州経済の独占
満州の重要産業は、日本の国策会社である「南満州鉄道株式会社」(略称は満鉄)や日産コンツェルンの「満州重工業開発株式会社」(略称は満業)によって独占されました。金融・石炭・鉄鋼・交通・鉱山・電力などの分野において、「特殊会社」あるいは「準特殊会社」という名の国策会社をつくり、「一産業を一会社とする原則」をかかげ、中国の民族資本が入ってくることを許しませんでした。とくに1940年代に入ると、多くの中国民族資本は原料や市場の制約を受けて破産の危機に陥りました。
日本人の満州移民
日本の満州支配を維持し、日本国内の人口過剰の問題を解決し、さらにソ連との戦争に備えるために、日本は「在郷軍人(ざいごうぐんじん・・・現役を除隊した予備役の軍人)」を中核とする武装移民団を編成して満州北部に入植させました。1936年、日本政府は「満州農業移民20ヵ年百万戸送出計画」を定めました。
日本は、人口が多くて土地不足に悩む、貧しい地域の農民を集団で満州に移住させ、満州に日本と同じ村の名前をつけて「分村」と呼びました。また「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」を編成して、多くの青少年を満州に送り込みました。
日本の敗戦までに、日本人の満州移民の総数は約29万人にのぼりました。日本人のほかに、満州に強制的に移住させられた朝鮮人もいました。日本は「満州国」政府に対して、現地の中国人農民から土地や家を安く買い上げ、または強制的に取り上げて、日本移民に与えるように指示しました。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
1937年には、私は陸軍第64軍の156師、466旅、931団の現役兵で、南京防衛戦に参加しましたが、12月13日に南京が陥り、私たちは捕虜にされました。日本軍は南京を占領するや、たちまち大虐殺を始めました。その時の痛ましい様を思い起こしますと、いまだにありありと目に浮かびます。
12月13日の朝、私は城内の興中門の傍らの城壁の上から、水道用ズック製パイプで城外に滑り出しました。私が逃げ出た後、道路はみんな散り散りになった兵と一般の人とで、ひしめき合っていました。私は長江を渡って行こうと思いましたが、岸辺に泊まっている何隻かの大きな汽船には、人がぎっしり詰まっていて、1人として入っていかれず、重すぎるらしく、船出もできませんでした。我々まとまりのない部隊が、上新河の方向に突っ込んで行って囲みを突破しようとしたりしましたが、どれも成功しませんでした。そこで水西門の方向に転じて前進しましたが、半分行った所で、一万人余りの身に寸鉄も帯びていない同胞が、少数の日本軍に包囲されているのを見出しました。そしてすぐ又、兵士と民衆とがたくさん、続々とやってきて、全部で2万人余りほどになりました。
午前7時ごろ、私も人の群れの中にいて、日本兵が機関銃をたくさん、ずらりと据え付け、銃口を中国人に向け、みんなには銃口に顔を向けて、1人1人ひざまずくように命じているのを見ました。私は内心、もしも日本兵が突然機関銃で掃射したら、地べたにひざまずいている人たちは、1人も逃げられずに、全部命を落とすに違いない、と思いました。私はそこで周りの人たちに、急いでこの場を離れて逃げよう、と勧めました。けれども彼らは、「国際法で捕虜と無辜の民衆とを殺害してはならないことになっている、恐れるな」と言って私の勧告を聞かず、行こうとしませんでした。私は2人動員しただけで、3人でゆっくり移動し、歩いては止まり歩いては止まりし、何と言うことなしにしゃべっているといった方法で、日本軍が気付かないでいる隙に私たちその場を離れて、一里ほど離れた住民の草葺き小屋まで行って隠れました。
私たちは草葺き小屋で日本軍が包囲した人の群れをじいっと見ていましたが、ひとしきりしても、日本軍はまだその人たちへの射撃は始めませんでした。けれども日本軍の増援部隊が到着するや、直ちに行動を始めて、外側を包囲している兵力を増強しました。日本軍の銃には全て剣が付けられ、小銃、軽機関銃、重機関銃の銃口を、一律に人の群に狙いを付ける射撃の姿勢がとられました。もう少ししたら、又その群を三汊河の方向へ行かせ、日本軍は両側と後ろとで銃を構えて駆り立てるのでした。・・・(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界
「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。
2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
3、「満州国」の社会と経済
日本は、「満州国」の政治と経済から科学技術および文化、教育まであらゆる分野にわたって支配し、実質的に日本の植民地のようにしていきました。そのためどんな方法がとられたのでしょうか。
日本の資本による満州経済の独占
満州の重要産業は、日本の国策会社である「南満州鉄道株式会社」(略称は満鉄)や日産コンツェルンの「満州重工業開発株式会社」(略称は満業)によって独占されました。金融・石炭・鉄鋼・交通・鉱山・電力などの分野において、「特殊会社」あるいは「準特殊会社」という名の国策会社をつくり、「一産業を一会社とする原則」をかかげ、中国の民族資本が入ってくることを許しませんでした。とくに1940年代に入ると、多くの中国民族資本は原料や市場の制約を受けて破産の危機に陥りました。
日本人の満州移民
日本の満州支配を維持し、日本国内の人口過剰の問題を解決し、さらにソ連との戦争に備えるために、日本は「在郷軍人(ざいごうぐんじん・・・現役を除隊した予備役の軍人)」を中核とする武装移民団を編成して満州北部に入植させました。1936年、日本政府は「満州農業移民20ヵ年百万戸送出計画」を定めました。
日本は、人口が多くて土地不足に悩む、貧しい地域の農民を集団で満州に移住させ、満州に日本と同じ村の名前をつけて「分村」と呼びました。また「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」を編成して、多くの青少年を満州に送り込みました。
日本の敗戦までに、日本人の満州移民の総数は約29万人にのぼりました。日本人のほかに、満州に強制的に移住させられた朝鮮人もいました。日本は「満州国」政府に対して、現地の中国人農民から土地や家を安く買い上げ、または強制的に取り上げて、日本移民に与えるように指示しました。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
1937年には、私は陸軍第64軍の156師、466旅、931団の現役兵で、南京防衛戦に参加しましたが、12月13日に南京が陥り、私たちは捕虜にされました。日本軍は南京を占領するや、たちまち大虐殺を始めました。その時の痛ましい様を思い起こしますと、いまだにありありと目に浮かびます。
12月13日の朝、私は城内の興中門の傍らの城壁の上から、水道用ズック製パイプで城外に滑り出しました。私が逃げ出た後、道路はみんな散り散りになった兵と一般の人とで、ひしめき合っていました。私は長江を渡って行こうと思いましたが、岸辺に泊まっている何隻かの大きな汽船には、人がぎっしり詰まっていて、1人として入っていかれず、重すぎるらしく、船出もできませんでした。我々まとまりのない部隊が、上新河の方向に突っ込んで行って囲みを突破しようとしたりしましたが、どれも成功しませんでした。そこで水西門の方向に転じて前進しましたが、半分行った所で、一万人余りの身に寸鉄も帯びていない同胞が、少数の日本軍に包囲されているのを見出しました。そしてすぐ又、兵士と民衆とがたくさん、続々とやってきて、全部で2万人余りほどになりました。
午前7時ごろ、私も人の群れの中にいて、日本兵が機関銃をたくさん、ずらりと据え付け、銃口を中国人に向け、みんなには銃口に顔を向けて、1人1人ひざまずくように命じているのを見ました。私は内心、もしも日本兵が突然機関銃で掃射したら、地べたにひざまずいている人たちは、1人も逃げられずに、全部命を落とすに違いない、と思いました。私はそこで周りの人たちに、急いでこの場を離れて逃げよう、と勧めました。けれども彼らは、「国際法で捕虜と無辜の民衆とを殺害してはならないことになっている、恐れるな」と言って私の勧告を聞かず、行こうとしませんでした。私は2人動員しただけで、3人でゆっくり移動し、歩いては止まり歩いては止まりし、何と言うことなしにしゃべっているといった方法で、日本軍が気付かないでいる隙に私たちその場を離れて、一里ほど離れた住民の草葺き小屋まで行って隠れました。
私たちは草葺き小屋で日本軍が包囲した人の群れをじいっと見ていましたが、ひとしきりしても、日本軍はまだその人たちへの射撃は始めませんでした。けれども日本軍の増援部隊が到着するや、直ちに行動を始めて、外側を包囲している兵力を増強しました。日本軍の銃には全て剣が付けられ、小銃、軽機関銃、重機関銃の銃口を、一律に人の群に狙いを付ける射撃の姿勢がとられました。もう少ししたら、又その群を三汊河の方向へ行かせ、日本軍は両側と後ろとで銃を構えて駆り立てるのでした。・・・(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界
「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。
2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月8日水曜日
平頂山事件
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
「満州国」の出現
平頂山(へいちょうざん)事件と大規模な弾圧
日本は満州を占領した後、東北人民の抵抗闘争を弾圧しようと多くの残虐事件を引き起こしました。平頂山事件は、その一例です。1932年9月16日、抗日ゲリラに撫順(ぶじゅん)炭鉱事務所を襲撃された日本当局は、報復のために、撫順の日本軍守備隊と憲兵隊200人余りを出動させ、撫順近くの平頂山村を包囲しました。全村3000人余りの村民を一ヵ所のくぼ地に集め、機関銃を使ってほとんど全員を殺害したのです。女性や子ども、老人も一緒でした。
こうした民衆に対する虐殺事件は、老黒溝(ろうこくこう)事件、土龍山(どりゅうさん)事件などをはじめとして、その他の地域でも多く引き起こされました。日本の憲兵は、各地で大規模な逮捕と検挙を行ない、残酷な拷問(ごうもん)を加えて自供を迫り、「反満抗日」のメンバーと見なした多くの人々を殺害しました。数多くの罪の無い人々がこのような弾圧に巻き込まれ、過酷な刑罰を受け、無念の死をとげていったのです。
■チチハル憲兵上等兵・土屋芳雄の証言(朝日新聞山形支局『聞き書き ある憲兵の記録』朝日新聞社より)
伍長の助手として拷問に加わった。連日のように、なぐるけるの暴行だ。そして、木刀(ぼくとう)責めや水責め、つるし上げなどにエスカレートする。どの取調室からも、憲兵の怒号と、容疑者の悲鳴が絶え間なく聞かれた。ある軍曹が調べた王社長の背中は、一面紫色に変色してはれ上がり、たてに横に皮膚が裂け、血がにじみ出していた。それでも軍曹は拷問の手を休めなかった。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
李高山(男)の証言
私は本籍が広東省の茂名市後街錦光書室で、1925年に生まれましたが、11と12の時に父と母があいついで世を去りました。生活のために、私は13の時に国民党の部隊に行って、広東軍154師の三営三連で勤務兵になりました。それは丁度1937年の末で、日本軍が上海を攻めていて、私はその部隊が上海へ行って防衛任務を引き継ごうというのに付いて行きました。部隊はまず蘇州へ行くのに、鉄道線路が既に壊されていたので、歩いて進んだのですが、我々がまだ着かない前に、守備に当たっていた部隊がもう撤退してしまったので、我々も南京まで撤退して来ました。
1937年12月13日に南京が陥落し、その日私たちは宝塔橋一帯で長江を渡って逃げようと思いましたが、川面には船がなく、渡れませんでした。夜になって、挹江門(ゆうこうもん)から城内に入ろうと思ったのに、城門が既に土嚢(どのう)でふさがれていたので、闇に乗じて、縄でよじ登って城壁を越えましたが、明くる日の朝、挹江門内の大通りで日本軍に武装解除され、捕虜になりました。私たち大群がみんな後ろ手に縛られ、暗くなって日本軍に八字山公館の何軒かの洋館へ引っ立てられ、1人と1人が後ろ向きにくくられて、家の中に立たされたのが、みんなで何百人もでした。およそ8時か9時頃に、日本軍が突然機関銃で窓から家の中の人の群に向かって猛烈に掃射し、大部分がその場で撃ち殺されました。私は身体といい顔といい一面に血しぶきを浴びましたが、傷は受けず、何人かの活きている人たちと階段に沿って2階へ逃げました。その時日本軍が一階の死んだ同胞たちの体にガソリンをまき火をつけて燃やしたので、猛烈な煙と火とが一気に2階へ吹き上げてきて、私たち何人かは2階のテラスから跳び降り急いで逃げたのですが、その内のある者は脚を折って走れず、日本軍に殺害されました。私たち6人は夜陰に乗じて壁を乗り越えある家屋の屋上に駆け上がり、屋上の高殿の後ろに隠れ、丸々5日間飲まず食わずでした。やがて向かいに泊まっていた日本兵に見つかり、私たち6人は縄で後ろ手にされ、近くの沼に連行されて、5人とも日本兵にその場で射殺されましたが、私だけ殺されなかったのは、日本軍が私をまだ余りに小さいと見たからしく(その時私はやっと13でした)、頭をなでたり、からかったりし、やがては日本軍の部隊に連れて行き、クーリーをさせました。この部隊は「金野三騎兵部隊」だったと覚えていますが、数日後に、この部隊が夫子廟の状元鏡から武漢へ転進になり、「金野三部隊使用人」と書いた紙切れを私にくれたので、私は寧海路の難民区に身を寄せました。私は南京大虐殺の生き残りで証人なのです。(劉相雲が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
女性たちが
平和をつくる世界
ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
「満州国」の出現
平頂山(へいちょうざん)事件と大規模な弾圧
日本は満州を占領した後、東北人民の抵抗闘争を弾圧しようと多くの残虐事件を引き起こしました。平頂山事件は、その一例です。1932年9月16日、抗日ゲリラに撫順(ぶじゅん)炭鉱事務所を襲撃された日本当局は、報復のために、撫順の日本軍守備隊と憲兵隊200人余りを出動させ、撫順近くの平頂山村を包囲しました。全村3000人余りの村民を一ヵ所のくぼ地に集め、機関銃を使ってほとんど全員を殺害したのです。女性や子ども、老人も一緒でした。
こうした民衆に対する虐殺事件は、老黒溝(ろうこくこう)事件、土龍山(どりゅうさん)事件などをはじめとして、その他の地域でも多く引き起こされました。日本の憲兵は、各地で大規模な逮捕と検挙を行ない、残酷な拷問(ごうもん)を加えて自供を迫り、「反満抗日」のメンバーと見なした多くの人々を殺害しました。数多くの罪の無い人々がこのような弾圧に巻き込まれ、過酷な刑罰を受け、無念の死をとげていったのです。
■チチハル憲兵上等兵・土屋芳雄の証言(朝日新聞山形支局『聞き書き ある憲兵の記録』朝日新聞社より)
伍長の助手として拷問に加わった。連日のように、なぐるけるの暴行だ。そして、木刀(ぼくとう)責めや水責め、つるし上げなどにエスカレートする。どの取調室からも、憲兵の怒号と、容疑者の悲鳴が絶え間なく聞かれた。ある軍曹が調べた王社長の背中は、一面紫色に変色してはれ上がり、たてに横に皮膚が裂け、血がにじみ出していた。それでも軍曹は拷問の手を休めなかった。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
李高山(男)の証言
私は本籍が広東省の茂名市後街錦光書室で、1925年に生まれましたが、11と12の時に父と母があいついで世を去りました。生活のために、私は13の時に国民党の部隊に行って、広東軍154師の三営三連で勤務兵になりました。それは丁度1937年の末で、日本軍が上海を攻めていて、私はその部隊が上海へ行って防衛任務を引き継ごうというのに付いて行きました。部隊はまず蘇州へ行くのに、鉄道線路が既に壊されていたので、歩いて進んだのですが、我々がまだ着かない前に、守備に当たっていた部隊がもう撤退してしまったので、我々も南京まで撤退して来ました。
1937年12月13日に南京が陥落し、その日私たちは宝塔橋一帯で長江を渡って逃げようと思いましたが、川面には船がなく、渡れませんでした。夜になって、挹江門(ゆうこうもん)から城内に入ろうと思ったのに、城門が既に土嚢(どのう)でふさがれていたので、闇に乗じて、縄でよじ登って城壁を越えましたが、明くる日の朝、挹江門内の大通りで日本軍に武装解除され、捕虜になりました。私たち大群がみんな後ろ手に縛られ、暗くなって日本軍に八字山公館の何軒かの洋館へ引っ立てられ、1人と1人が後ろ向きにくくられて、家の中に立たされたのが、みんなで何百人もでした。およそ8時か9時頃に、日本軍が突然機関銃で窓から家の中の人の群に向かって猛烈に掃射し、大部分がその場で撃ち殺されました。私は身体といい顔といい一面に血しぶきを浴びましたが、傷は受けず、何人かの活きている人たちと階段に沿って2階へ逃げました。その時日本軍が一階の死んだ同胞たちの体にガソリンをまき火をつけて燃やしたので、猛烈な煙と火とが一気に2階へ吹き上げてきて、私たち何人かは2階のテラスから跳び降り急いで逃げたのですが、その内のある者は脚を折って走れず、日本軍に殺害されました。私たち6人は夜陰に乗じて壁を乗り越えある家屋の屋上に駆け上がり、屋上の高殿の後ろに隠れ、丸々5日間飲まず食わずでした。やがて向かいに泊まっていた日本兵に見つかり、私たち6人は縄で後ろ手にされ、近くの沼に連行されて、5人とも日本兵にその場で射殺されましたが、私だけ殺されなかったのは、日本軍が私をまだ余りに小さいと見たからしく(その時私はやっと13でした)、頭をなでたり、からかったりし、やがては日本軍の部隊に連れて行き、クーリーをさせました。この部隊は「金野三騎兵部隊」だったと覚えていますが、数日後に、この部隊が夫子廟の状元鏡から武漢へ転進になり、「金野三部隊使用人」と書いた紙切れを私にくれたので、私は寧海路の難民区に身を寄せました。私は南京大虐殺の生き残りで証人なのです。(劉相雲が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
女性たちが
平和をつくる世界
ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月7日火曜日
満州国
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
「満州国」の出現
関東軍の統治の仕組み
日本の満州占領は、激しい抵抗にあいました。現地の一部の中国軍と民衆は、はじめは抗日ゲリラを組織し、後に抗日連軍を編成して、長期にわたる苦しい武装闘争を続けました。関東軍は抗日武装勢力を鎮圧するため、軍隊、警察、憲兵、特務機関を総動員して抗日武装勢力の活動地域を討伐させました。そのため住民に対する迫害や民衆虐殺が多発しました。
日本と「満州国」政府は、抗日勢力を孤立させるため、村々を合併させ、村民たちを強制的に「集団部落」に移住させました。「集団部落」は、周囲を高い塀(へい)と深い堀で囲み、軍隊と警察が門を警備して自由な出入りを許さず、民衆と抗日軍との連絡を切断しました。自分の家や畑を離れようとしない民衆は、殺害されたり、家屋を焼き払われたり、田畑を荒らされたりしました。日本と「満州国」政府は、全農村に保甲(ほこう)制度(1村を1保とし、10戸を1甲として村民を組織)を実施して相互監視と警備を強化しました。もし、1人が罪を犯せば、10戸が連帯責任で罰金もしくは労役を課せられました。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
湯必俊(男、62歳)の証言
私の上の兄の湯必達は、1937年には25歳で、豚を殺して肉を売る仕事を手伝って暮らしを立てていました。日本軍が南京を攻めて占領した時、私たち家中で中山北路の新安旅社一帯の難民区に避難しました。
日本軍が南京を占領した翌日、日本兵が人を捕まえに難民区に入ってきて捜査しました。兄嫁と妹が家にいて、日本兵が来たのを見て芦の柴が積み上げられてある後ろに隠れました。兄が2人を守るために、階段の入口で日本兵をさえぎると、日本兵は兄を捕まえて行きました。兄と一緒に捕まったのがみんなで5人で、その内の劉という人が明くる日逃げ帰って来て、母に「息子さんから、手紙を母に持っていってくれ、下関の方に行ったと伝えてくれ、と頼まれました」と言いました。私と母は大急ぎで捜しに行きましたが、下関一帯はあまねく死体ばかりで、どうしても兄は見つかりませんでした。
私たちはここに住まって行けないと分かり、破れ布団をかつぎ、大方巷のアメリカのキリスト教会に避難しようと思いました。出かけて程なく、日本兵に止められ、ぴんたをなぐられ、足げりにされ、物も奪い取られてしまいました。(曹慧芳が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
女性たちが
平和をつくる世界
戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
「満州国」の出現
関東軍の統治の仕組み
日本の満州占領は、激しい抵抗にあいました。現地の一部の中国軍と民衆は、はじめは抗日ゲリラを組織し、後に抗日連軍を編成して、長期にわたる苦しい武装闘争を続けました。関東軍は抗日武装勢力を鎮圧するため、軍隊、警察、憲兵、特務機関を総動員して抗日武装勢力の活動地域を討伐させました。そのため住民に対する迫害や民衆虐殺が多発しました。
日本と「満州国」政府は、抗日勢力を孤立させるため、村々を合併させ、村民たちを強制的に「集団部落」に移住させました。「集団部落」は、周囲を高い塀(へい)と深い堀で囲み、軍隊と警察が門を警備して自由な出入りを許さず、民衆と抗日軍との連絡を切断しました。自分の家や畑を離れようとしない民衆は、殺害されたり、家屋を焼き払われたり、田畑を荒らされたりしました。日本と「満州国」政府は、全農村に保甲(ほこう)制度(1村を1保とし、10戸を1甲として村民を組織)を実施して相互監視と警備を強化しました。もし、1人が罪を犯せば、10戸が連帯責任で罰金もしくは労役を課せられました。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
湯必俊(男、62歳)の証言
私の上の兄の湯必達は、1937年には25歳で、豚を殺して肉を売る仕事を手伝って暮らしを立てていました。日本軍が南京を攻めて占領した時、私たち家中で中山北路の新安旅社一帯の難民区に避難しました。
日本軍が南京を占領した翌日、日本兵が人を捕まえに難民区に入ってきて捜査しました。兄嫁と妹が家にいて、日本兵が来たのを見て芦の柴が積み上げられてある後ろに隠れました。兄が2人を守るために、階段の入口で日本兵をさえぎると、日本兵は兄を捕まえて行きました。兄と一緒に捕まったのがみんなで5人で、その内の劉という人が明くる日逃げ帰って来て、母に「息子さんから、手紙を母に持っていってくれ、下関の方に行ったと伝えてくれ、と頼まれました」と言いました。私と母は大急ぎで捜しに行きましたが、下関一帯はあまねく死体ばかりで、どうしても兄は見つかりませんでした。
私たちはここに住まって行けないと分かり、破れ布団をかつぎ、大方巷のアメリカのキリスト教会に避難しようと思いました。出かけて程なく、日本兵に止められ、ぴんたをなぐられ、足げりにされ、物も奪い取られてしまいました。(曹慧芳が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
女性たちが
平和をつくる世界
戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月6日月曜日
満州国
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
満州国の出現
日本の関東軍は、満州占領を既成事実とするために、1932年3月、「満州国」の成立を急いで宣言すると、すでに退位していた清朝の皇帝・溥儀(ふぎ)をかつぎだし、名目上の「国家元首」にすえました。関東軍によってつくられた「満州国」とは、どのような「国家」だったのでしょうか。
「満州国」の性格
日本は、日本人、満州人(満族)、漢族(中国人)、朝鮮人、モンゴル人の5つの民族が「協和」する国家を満州に建国するのだと宣伝しました。しかし実際は、関東軍は満州を中国全面侵略戦争と対ソ戦の基地にしようとしたのです。「満州国」は関東軍が統制する傀儡(かいらい)政権であり、国務院および各部門の実権は、日本人の総務庁長の手ににぎられ、各部門の次長職に就任した日本人を直接に指揮しました。これらの日本人の地位は、部(日本の省庁にあたる)、省、市の中国人の長官より上位にあり、日本人が権力を独占する仕組みになっていました。大部分の政策は日本のものを踏襲しました。「満州国」皇帝溥儀は、ただ名前だけの地位でしかなく、実際の権力は全くありませんでした。ある者は、「満州国」を頭が獅子(関東軍)で胴が羊(天皇制国家)、しっぽが竜(中国皇帝)のギリシャ神話に出てくる怪物=キメラにたとえました。
キメラは、口から炎を吐き、大地を荒らし、家畜を略奪して去っていく、奇怪な幻想の怪物です。
※満州国皇帝は天意すなわち天皇の大御心(おおみこころ)に基づいて帝位についたのである。皇道連邦の中心である天皇に仕え、天皇の大御心をもって心とすることを在位の条件とする・・・それは月が太陽の光によって輝くことと同じである。【「満州国の基本理念と協和会の本質」関東軍司令部、1936年9月18日編纂『満州国史』(総論)】
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
霍友才(男、70歳)の証言
私は霍友才といって、1937年には家は火瓦巷79号之5で、冬月の11日に日本軍が入ってくる前に、保長さんが私たちを北京路の難民区へ駆り立てて住まわせました。そのころ難民区へ行く人がとても多く、みんなひしめき合っていて、地べたで眠るのでした。南京が陥落して1週間余りして、日本軍が難民をみんな登録させに北京路の十字路に駆り立て、自分は何を生業にしているかを説明させました。それから、日本軍は若いのを一方に選び出し、車に押し上げ下関の江辺に引っ張って行って集団虐殺をやりました。その時、日本兵が私を車に引き上げようとしていたときに、私の叔父の店の胡麻子という大工さんが、私を自分の息子だと言って、私を取り返してくれたので、一死を免れたのでした。一緒に登録に行った謝師匠(鍛冶屋、30歳余り)と王師匠(大工、25歳)は、引き取る人がいなかったので、下関まで引っ張られて行って銃殺されました。(劉君が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
基地をなくして
緑と海を取りもどしてい世界
基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。
フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本の中国東北地方への侵略
満州国の出現
日本の関東軍は、満州占領を既成事実とするために、1932年3月、「満州国」の成立を急いで宣言すると、すでに退位していた清朝の皇帝・溥儀(ふぎ)をかつぎだし、名目上の「国家元首」にすえました。関東軍によってつくられた「満州国」とは、どのような「国家」だったのでしょうか。
「満州国」の性格
日本は、日本人、満州人(満族)、漢族(中国人)、朝鮮人、モンゴル人の5つの民族が「協和」する国家を満州に建国するのだと宣伝しました。しかし実際は、関東軍は満州を中国全面侵略戦争と対ソ戦の基地にしようとしたのです。「満州国」は関東軍が統制する傀儡(かいらい)政権であり、国務院および各部門の実権は、日本人の総務庁長の手ににぎられ、各部門の次長職に就任した日本人を直接に指揮しました。これらの日本人の地位は、部(日本の省庁にあたる)、省、市の中国人の長官より上位にあり、日本人が権力を独占する仕組みになっていました。大部分の政策は日本のものを踏襲しました。「満州国」皇帝溥儀は、ただ名前だけの地位でしかなく、実際の権力は全くありませんでした。ある者は、「満州国」を頭が獅子(関東軍)で胴が羊(天皇制国家)、しっぽが竜(中国皇帝)のギリシャ神話に出てくる怪物=キメラにたとえました。
キメラは、口から炎を吐き、大地を荒らし、家畜を略奪して去っていく、奇怪な幻想の怪物です。
※満州国皇帝は天意すなわち天皇の大御心(おおみこころ)に基づいて帝位についたのである。皇道連邦の中心である天皇に仕え、天皇の大御心をもって心とすることを在位の条件とする・・・それは月が太陽の光によって輝くことと同じである。【「満州国の基本理念と協和会の本質」関東軍司令部、1936年9月18日編纂『満州国史』(総論)】
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
霍友才(男、70歳)の証言
私は霍友才といって、1937年には家は火瓦巷79号之5で、冬月の11日に日本軍が入ってくる前に、保長さんが私たちを北京路の難民区へ駆り立てて住まわせました。そのころ難民区へ行く人がとても多く、みんなひしめき合っていて、地べたで眠るのでした。南京が陥落して1週間余りして、日本軍が難民をみんな登録させに北京路の十字路に駆り立て、自分は何を生業にしているかを説明させました。それから、日本軍は若いのを一方に選び出し、車に押し上げ下関の江辺に引っ張って行って集団虐殺をやりました。その時、日本兵が私を車に引き上げようとしていたときに、私の叔父の店の胡麻子という大工さんが、私を自分の息子だと言って、私を取り返してくれたので、一死を免れたのでした。一緒に登録に行った謝師匠(鍛冶屋、30歳余り)と王師匠(大工、25歳)は、引き取る人がいなかったので、下関まで引っ張られて行って銃殺されました。(劉君が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
基地をなくして
緑と海を取りもどしてい世界
基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。
フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月5日日曜日
上海事変
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
上海事変
日本の満州占領に対して、国際世論の厳しい批判が集まったため、満州に傀儡(かいらい)政権を樹立しようとする日本にとって障害になりました。そこで、国際社会の注目を満州からそらすため、関東軍と日本の駐上海領事館の武官は共謀して、中国人暴徒に日本人僧侶を襲撃させる事件を企て、これを口実にして1932年1月28日、日本の海軍陸戦隊は、陸軍3個師団の増援を受け、上海の中国軍を攻撃しました。上海を防衛していた19路軍は激しく抵抗して、日本軍数万人を死傷させました。(第一次上海事変)。日中双方はイギリスの調停を受けて3月から交渉に入り、5月に「上海停戦協定」を結びました。
日本の華北分離政策
日本は満州を占領した後、さらに華北に侵略の目を向けました。1933年初め、関東軍は熱河省(ねっかしょう、1928年~1955年に存在した省)に侵入し、万里の長城を占領しました。中国軍は激しく抵抗しましたが、日本側の提案により5月に「塘沽(タンクー)停戦協定」を結び、長城の南側100キロを非武装地帯として、中国軍は撤退することを決めました。この協定によって華北侵略の足場をつくった関東軍は、1935年5月、万里の長城を越えて華北に侵入すると、支那駐屯軍と共同して「華北5省自治運動」を企て、親日政治家をかつぎあげて傀儡政権を成立させ、国民政府の勢力を華北地域から排除しようとしました。日本は華北の石炭や鉄などの資源を確保する一方で、中国全面侵略戦争の準備を進めていきました。この過程で、華北の鉱物資源が日本の支配下に入りました。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
鄭秀英(女、67歳)の証言
1937年に、私の兄は七家湾の雑貨屋で見習いをしていて、20歳でした。日本の軍隊が南京に侵略してきた時、家中で大方巷の難民区に避難しました。難民区の中は数え切れないほどの人で、地べたに座るしかありませんでした。日本軍がいっぱい剣をつけた銃を両手で構えて、難民区にやってくるのをこの目で見ました。日本軍は男をみんな一緒に捕まえ、私の兄も捕まりました。日本軍は男を8列にして捕まえて行き、数千人ほどいましたから、2時間余りもかかってやっと連れ終わりました。後で男の人が1人死人の堆から逃げ戻って来て言うには、この日本の強盗たちは下関の江辺で機銃掃射し、惨死した人がたくさんいました。兄が捕まって行ってから、ずっと何の音沙汰もありません。
(戦国利が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
基地をなくして
緑と海を取りもどしてい世界
戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。
世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
上海事変
日本の満州占領に対して、国際世論の厳しい批判が集まったため、満州に傀儡(かいらい)政権を樹立しようとする日本にとって障害になりました。そこで、国際社会の注目を満州からそらすため、関東軍と日本の駐上海領事館の武官は共謀して、中国人暴徒に日本人僧侶を襲撃させる事件を企て、これを口実にして1932年1月28日、日本の海軍陸戦隊は、陸軍3個師団の増援を受け、上海の中国軍を攻撃しました。上海を防衛していた19路軍は激しく抵抗して、日本軍数万人を死傷させました。(第一次上海事変)。日中双方はイギリスの調停を受けて3月から交渉に入り、5月に「上海停戦協定」を結びました。
日本の華北分離政策
日本は満州を占領した後、さらに華北に侵略の目を向けました。1933年初め、関東軍は熱河省(ねっかしょう、1928年~1955年に存在した省)に侵入し、万里の長城を占領しました。中国軍は激しく抵抗しましたが、日本側の提案により5月に「塘沽(タンクー)停戦協定」を結び、長城の南側100キロを非武装地帯として、中国軍は撤退することを決めました。この協定によって華北侵略の足場をつくった関東軍は、1935年5月、万里の長城を越えて華北に侵入すると、支那駐屯軍と共同して「華北5省自治運動」を企て、親日政治家をかつぎあげて傀儡政権を成立させ、国民政府の勢力を華北地域から排除しようとしました。日本は華北の石炭や鉄などの資源を確保する一方で、中国全面侵略戦争の準備を進めていきました。この過程で、華北の鉱物資源が日本の支配下に入りました。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
鄭秀英(女、67歳)の証言
1937年に、私の兄は七家湾の雑貨屋で見習いをしていて、20歳でした。日本の軍隊が南京に侵略してきた時、家中で大方巷の難民区に避難しました。難民区の中は数え切れないほどの人で、地べたに座るしかありませんでした。日本軍がいっぱい剣をつけた銃を両手で構えて、難民区にやってくるのをこの目で見ました。日本軍は男をみんな一緒に捕まえ、私の兄も捕まりました。日本軍は男を8列にして捕まえて行き、数千人ほどいましたから、2時間余りもかかってやっと連れ終わりました。後で男の人が1人死人の堆から逃げ戻って来て言うには、この日本の強盗たちは下関の江辺で機銃掃射し、惨死した人がたくさんいました。兄が捕まって行ってから、ずっと何の音沙汰もありません。
(戦国利が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
基地をなくして
緑と海を取りもどしてい世界
戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。
世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
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