「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
残虐行為、不法行為の内容は、次の二つに大きく分けることができる。
【生命・身体の侵害】
戦時国際法に違反して中国の負傷兵、投降兵、捕虜、敗残兵が集団あるいは個別に殺戮された。日本軍の包囲殲滅戦の犠牲となって住民が殺害され、「残敵掃蕩戦」「敗残兵狩り」によって元兵士と思われただけで多くの成年男子が殺害され、日本兵の気まぐれでも多くの市民が射殺・刺殺された。金陵大学のスマイスやベイツら南京国際救済委員会(南京安全区国際委員会が改称)の調査によれば、日本軍の掃蕩作戦中に殺害されたのは老人が多かった。南京城内の南部の人口密集区では、多くの老人が留守を守って残留し、攻め込んできた日本兵に虐殺された。城内では60歳以上の男性の28パーセントと女性の39パーセントが殺された割合になる。近郊の農村では、殺害された女性の83パーセントがが45歳以上の婦人で、そのうちの約半分が60歳以上の老婦人だった。彼女らは、従来は残忍な攻撃から安全であると考えられていたので、なけなしの家・財産を守るために残っていて、殺害された。
さらに同調査によれば、民間人の死傷者の割合は男子が64パーセントを占め、年齢にして30歳から44歳の民間人の死傷者のうち男子が76パーセントと高い割合を占めた。言うまでも無く、「敗残兵狩り」によって元兵士の疑いをかけられて殺害されたのだった。家族の被害の割合で言えば、南京城内では残留した家族の7分の1が夫や父親を失った。(「南京地区における戦争被害」)。
南京事件の中で際立って多かったのが婦女の強姦・輪姦および殺害だった。日本軍の南京占領後12月16日から強姦事件が多発するようになり、南京安全区国際委員会の計算では1日に千人もの女性が強姦され、占領初期には控えめに見ても8000人の女性が強姦され、翌年の2,3月まで何万という女性が強姦された(「アメリカキリスト者へのベイツの回状」『アメリカ関係資料編』)。強姦は女性の身体を傷つけただけでなく、心にも深い傷を与え、みずから命を絶った者、精神に異常をきたした者など、さらには悪性の性病をうつされて廃人同様になった者、妊娠させられたため無理な堕胎をこころみて身体を壊してしまった者など、あとあとまで残酷な悲劇は続いた。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
邱栄貴(男、70歳)の証言
1937年の冬月に、江東門の統○茶房の王明九のお母さんが死んで、お棺に入れられて門のところに置き、未だ埋めに行かないでいたら、日本兵が手榴弾一発でお棺と死体とを粉々に砕いてくれました。冬月12日、日本兵が王さんの家に住まおうとしながら、門口の死体のにおいが嫌で、私と王明九とにせっついて死体を引きずって行かせようとしたのに、死体がお棺に入っていて、2人では動かなかったので、日本軍がやってきて銃剣で私のお尻を一突きしましたが、幸いに着ていたのが綿入れだったので、死を免れたのでした。
冬月13日に、江東大隊積余村の王明才が日本軍の来るのを見て、肥えた豚を2匹隠したのですが、まもなく日本軍に見つかって、王明才は日本軍に銃殺され、豚も撃ち殺されました。そして、私と和尚さん1人とが日本軍に豚の皮を剥ぐようせっつかれ、和尚さんは袖口が大きくて、働くのに不便なので、袖をまくりあげていたときに、日本軍がこいつは手伝おうとしないだと言い張って、一撃の下に和尚さんを地に打ち倒し、和尚さんが這い上がろうとしたところを、またもや日本軍に踏みつけられため池に蹴りこまれて、溺れ死んでしまいました。それから私1人で豚の皮を剥いでしまうと、日本軍はついてくるようにと私に命じ、江東門の軍法処の門まで来たところで、豚を門のところの広場に置かせたのですが、その時に私は1000人以上の難民が監獄からしばられて連れ出され、江東橋の端から鳳凰街までずっと並ばされているのを見ました。何歩か毎に日本兵が1人ずつ、刀や銃を手にしていて、将校が一声大きく叫ぶや否や、銃剣でそれらの無辜の中国難民を滅多突きに突きまくり、1000名を超す中国人が血の海の中に倒れたのです。やがてこの人たちはみんな江東門の河の中に引きずり入れられ屍で積み上げた「橋」にされました。それと一部は軍法処のそばの茅の坑道に引きずって行かれました。
冬月17日、18日ころに、積余村の王華明と王月徳の家にいた110名の中国人難民が、みんな縛られたまま、日本軍に撃ち殺され、その死体が家の裏の大きな茅の坑にうずたかくなりました。その日に、私も日本軍に捕まりましたが、少しして逃げ出し、積余村の河辺に広げられていた芦の粗朶に隠れたので、捕まりませんでした。夜になって出てきたとき、その110名の難民はみんな死んでいました。
冬月20日に、日本軍が私と王進才を捕まえて舟を漕がせましたが、突然1人の若い女の人を見つけて、日本軍が2人跳びかかって行き、その女の人を身も世もないほどに踏みつけにしました。
(滕桂珍、滕桂芝、鐘金華、朱春香が整理)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和な世界を。
Imagine,
A peaceful world
without war.
でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのかな
一つひとつ考えてみよう。
But,how can such a
world be made?
let's think about it.
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
731を問う!!
2009年3月15日日曜日
南京大虐殺
「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
(2008年11月26日の記事と重複しますが復讐の意味で書きます。)
南京大虐殺の定義と範囲、内容
南京大虐殺事件は、日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対しておこなった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。
事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦(中国にとっては南京防衛戦)の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中支那方面軍が南京戦区に突入した、1937年12月4日前後からはじまる。大本営が中支那方面軍の戦闘序列を解いた38年2月14日が南京攻略作戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後も続いたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村では相変わらず続いていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考える事ができる。だたし、37年8月15日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民に対する無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
孫殿炎(男、58歳)の証言
1937年12月に、「中央軍」が三汊河や鳳凰街で日本軍と戦闘してから撤退しました。その後すぐに日本軍が大虐殺をやらかしたのです。その頃私たちは鳳凰街の2番目の叔父の家に住んでいて、地下の洞穴に隠れていたのですが、それでも外の銃声がはっきり聞こえました。やがて、銃声が静まったので、洞穴から這い出したのですが、数え切れないほどたくさんの人が死んでいて、眼も当てられないほどでした。日本人がしょっちゅう鳳凰街にやってきて騒ぎを起こすので、私たちは鳳凰街にいられなくなって、閻王廟の方へ向かいました。江東門の陸軍監獄あたりに差し掛かった時、見かけた死体がすごくたくさんでした。江東門の橋が前から爆破されていたのですが、日本軍が屍を土台にして、その上に木の板を敷き詰めていました。日本軍が入ってきて20日してから、紅卍字会がやっと組織的に死体の片づけをし、軍人監獄の向かいの長さ200メートル余り、幅1メートル、深さ1メートル半の塹壕と、煉瓦作りの粗末な便所2つの中に、屍をびっしり運び込んだのです。これもまた今日「万人坑」と言われているものです。
「Imagine9」【合同出版】より
MESSAGE(メッセージ)
環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。
人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。
あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。
ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
南京事件の全貌
(2008年11月26日の記事と重複しますが復讐の意味で書きます。)
南京大虐殺の定義と範囲、内容
南京大虐殺事件は、日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対しておこなった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。
事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦(中国にとっては南京防衛戦)の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中支那方面軍が南京戦区に突入した、1937年12月4日前後からはじまる。大本営が中支那方面軍の戦闘序列を解いた38年2月14日が南京攻略作戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後も続いたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村では相変わらず続いていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考える事ができる。だたし、37年8月15日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民に対する無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
孫殿炎(男、58歳)の証言
1937年12月に、「中央軍」が三汊河や鳳凰街で日本軍と戦闘してから撤退しました。その後すぐに日本軍が大虐殺をやらかしたのです。その頃私たちは鳳凰街の2番目の叔父の家に住んでいて、地下の洞穴に隠れていたのですが、それでも外の銃声がはっきり聞こえました。やがて、銃声が静まったので、洞穴から這い出したのですが、数え切れないほどたくさんの人が死んでいて、眼も当てられないほどでした。日本人がしょっちゅう鳳凰街にやってきて騒ぎを起こすので、私たちは鳳凰街にいられなくなって、閻王廟の方へ向かいました。江東門の陸軍監獄あたりに差し掛かった時、見かけた死体がすごくたくさんでした。江東門の橋が前から爆破されていたのですが、日本軍が屍を土台にして、その上に木の板を敷き詰めていました。日本軍が入ってきて20日してから、紅卍字会がやっと組織的に死体の片づけをし、軍人監獄の向かいの長さ200メートル余り、幅1メートル、深さ1メートル半の塹壕と、煉瓦作りの粗末な便所2つの中に、屍をびっしり運び込んだのです。これもまた今日「万人坑」と言われているものです。
「Imagine9」【合同出版】より
MESSAGE(メッセージ)
環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。
人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。
あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。
ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年3月14日土曜日
南京大虐殺
「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の終焉
松井司令官の解任
(昨日の続き)松井はこれに不満で「予は心中きわめて遺憾にしてまた忠霊にたいしても申し訳なきしだい」と日記(1月31日)に記し、さらに「予の離任はじっさい自負にあらざるも時期尚早なることは万人認むるところなるべきも」とまで書いている(「松井石根大将陣中日記」)。
2月14日、大本営は中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍の戦闘序列を解き、あらたに中支那派遣軍(司令官畑俊六大将、参謀副長に武藤章大佐留任)の戦闘序列を下令した。司令官を解任されて上海を去ることになった松井は、16日司令部の決別式において、「南京占領後2ヶ月間における大本営および政府と予の意見に相違ありて、ついに予の欲するところを実行しざりし苦衷を述べ、今頃万事を中途のままに帰還する予の胸中の苦悶と感慨を述べた」のである。(同前)松井石根の野心、功名心にとっても、南京攻略戦の結果は、挫折だった。
日本に帰還した松井が、「駅頭市民の歓呼は軍部の取扱に比し、すこぶる熱狂、感謝的なるを認む」と日記(2月25日)に記しているように、マスメディアは南京を陥落させた凱旋将軍として報道し、天皇も大軍功の殊勲者として勅語を与えた。陸軍中央は、松井石根の不作為による不法虐殺事件の発生を知って、内部措置のかたちで解任しながらも、その責任は不問に付し、国民に対してはその事実を隠蔽し続けたのである。
中支那方面軍の戦闘序列が解かれたことによって、作戦としての南京攻略戦は終結したが、その後も強姦を中心とする日本軍の残虐行為は続いた。それでも3月28日に、中支那派遣軍の工作による中華民国維新政府が南京に成立してからは、治安もほぼ回復し、安全区の難民も帰る条件のある者はほとんど自宅に戻った。ここにおいて、南京事件は一応終焉したと言うことができる。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
朱応泰(男、65歳)の証言
日本兵が南京を占領した時人を見れば殺すので、私は母と一緒に弟を連れて雷公廟の囲いの中に逃げて隠れました。日本軍はしょっちゅう雷公廟一帯にやってきて焼き、殺し、略奪し、婦女を強姦しました。人力車をひいていた労働者が1人日本軍に撃ち殺されるのを、私はこの目で見ました。父親を捜すので、恐る恐る涵洞口へ戻ったら、涵洞口の両側の家が全部焼き払われて跡形も無くなっていて、漢中門の河辺まで行ったら、日本兵に殺害された死体がうずたかくなっているのを見かけました。石城街や鳳凰街一帯は、道端という道端いたるところ死体だらけで数え切れませんでした。回り道をして江東門一帯の方に行ったら、道の両側に死体がうずたかくいくつもの小山なっているのが見えるだけで、江東橋は爆破された後、日本兵が屍を敷き詰め橋にして歩いているのでした。三伏荘でも、日本兵3人が中国人を4人捕まえ、雑多なお墓のそばまで引きずって行って銃で撃ち殺したのを、この目で見ました。(欧文華と張連英と夏龍生が記録)
李世梅(女、70歳)の証言
元の二道挭子醤園廠(今の南糧船廠)が、中国侵略日本軍が人を殺した場所で、殺害された中国同胞の数は数え切れず、屍がいっぱい醤油池にほうり込まれていたのです。張大言の父親や薛世洪の父親など10数人が二道挭子で捕まり、最南端のくぼ地の土手の中(今の市自動車12隊)まで連行されて、銃殺になったのですが、そこが「万人坑」なのです。日本軍は活きている人を射撃の的にして、憂さ晴らしにもしたのですが、孔造順(今は下河街に住んでいる)の父親が、あぜ道も上で日本軍に活きたままぶち殺されたのです。(左国家が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
はじめに
戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
南京事件の終焉
松井司令官の解任
(昨日の続き)松井はこれに不満で「予は心中きわめて遺憾にしてまた忠霊にたいしても申し訳なきしだい」と日記(1月31日)に記し、さらに「予の離任はじっさい自負にあらざるも時期尚早なることは万人認むるところなるべきも」とまで書いている(「松井石根大将陣中日記」)。
2月14日、大本営は中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍の戦闘序列を解き、あらたに中支那派遣軍(司令官畑俊六大将、参謀副長に武藤章大佐留任)の戦闘序列を下令した。司令官を解任されて上海を去ることになった松井は、16日司令部の決別式において、「南京占領後2ヶ月間における大本営および政府と予の意見に相違ありて、ついに予の欲するところを実行しざりし苦衷を述べ、今頃万事を中途のままに帰還する予の胸中の苦悶と感慨を述べた」のである。(同前)松井石根の野心、功名心にとっても、南京攻略戦の結果は、挫折だった。
日本に帰還した松井が、「駅頭市民の歓呼は軍部の取扱に比し、すこぶる熱狂、感謝的なるを認む」と日記(2月25日)に記しているように、マスメディアは南京を陥落させた凱旋将軍として報道し、天皇も大軍功の殊勲者として勅語を与えた。陸軍中央は、松井石根の不作為による不法虐殺事件の発生を知って、内部措置のかたちで解任しながらも、その責任は不問に付し、国民に対してはその事実を隠蔽し続けたのである。
中支那方面軍の戦闘序列が解かれたことによって、作戦としての南京攻略戦は終結したが、その後も強姦を中心とする日本軍の残虐行為は続いた。それでも3月28日に、中支那派遣軍の工作による中華民国維新政府が南京に成立してからは、治安もほぼ回復し、安全区の難民も帰る条件のある者はほとんど自宅に戻った。ここにおいて、南京事件は一応終焉したと言うことができる。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
朱応泰(男、65歳)の証言
日本兵が南京を占領した時人を見れば殺すので、私は母と一緒に弟を連れて雷公廟の囲いの中に逃げて隠れました。日本軍はしょっちゅう雷公廟一帯にやってきて焼き、殺し、略奪し、婦女を強姦しました。人力車をひいていた労働者が1人日本軍に撃ち殺されるのを、私はこの目で見ました。父親を捜すので、恐る恐る涵洞口へ戻ったら、涵洞口の両側の家が全部焼き払われて跡形も無くなっていて、漢中門の河辺まで行ったら、日本兵に殺害された死体がうずたかくなっているのを見かけました。石城街や鳳凰街一帯は、道端という道端いたるところ死体だらけで数え切れませんでした。回り道をして江東門一帯の方に行ったら、道の両側に死体がうずたかくいくつもの小山なっているのが見えるだけで、江東橋は爆破された後、日本兵が屍を敷き詰め橋にして歩いているのでした。三伏荘でも、日本兵3人が中国人を4人捕まえ、雑多なお墓のそばまで引きずって行って銃で撃ち殺したのを、この目で見ました。(欧文華と張連英と夏龍生が記録)
李世梅(女、70歳)の証言
元の二道挭子醤園廠(今の南糧船廠)が、中国侵略日本軍が人を殺した場所で、殺害された中国同胞の数は数え切れず、屍がいっぱい醤油池にほうり込まれていたのです。張大言の父親や薛世洪の父親など10数人が二道挭子で捕まり、最南端のくぼ地の土手の中(今の市自動車12隊)まで連行されて、銃殺になったのですが、そこが「万人坑」なのです。日本軍は活きている人を射撃の的にして、憂さ晴らしにもしたのですが、孔造順(今は下河街に住んでいる)の父親が、あぜ道も上で日本軍に活きたままぶち殺されたのです。(左国家が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
はじめに
戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年3月13日金曜日
南京大虐殺
「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の終焉
松井司令官の解任
1月上旬を過ぎると、日本軍の南京虐殺の事実は、南京にいた外国人記者の報道によって世界に知られるようになっていただけでなく、南京のアメリカ大使館が作成した日本軍の残虐・不法行為に関する膨大な記録と報告が本国の国務省や東京のアメリカ大使館に送信されたり、同じくドイツ大使館のローゼン書記官らの詳細な日本軍暴行記録が本国に報告されたりして、外交ルートを通じても、南京事件の事実が世界に知られるようになっていた。石井射太郎の日記(38年1月6日)は「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。ああこれが皇軍か。日本国民民心の廃頽の発露であろう。大きな社会問題だ」と記している。
南京の日本軍の軍機頽廃問題は、陸軍中央でもひそかに問題にするようになった。その頃予備役になっていた元教育総監真崎甚三郎大将は、上海派遣軍を視察してきた衆議院議員の江藤源九郎予備役少将の報告を聞いて、「軍紀風紀頽廃し、これを立て直さざれば真面目の戦闘に耐えずということに帰着せり。強盗、強姦、略奪、聞くに忍びざるものありたり」と日記(1月28日)に記している。(『南京戦史資料集Ⅱ』)。
こうした状況の中で、畑俊六教育総監は松井石根司令官の更迭を杉山元陸相に進言したことを日記(1月29日)に記している。
支那派遣軍も作戦一段落とともに、軍紀風紀ようやく頽廃、略奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代らしめ、また軍司令官、師団長などの召集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。この意見を大臣に進言いたしおきたる・・・・。(「畑俊六日記」)
こうした経緯があって参謀本部は松井中支那方面軍司令官の帰還を命令した。(続く)
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
陳永富(男、69歳)の証言
1937年の末に、日本軍が南京を占領した時に、私の家は江北へ避難しようと準備したのですが、長江が水面封鎖されて、渡る船が無かったので、行かないことになりました。戻ってくる途中で、鳳凰街を通り、ある屋敷の内庭に泊まりました。他にも知らない人たちが2、30人いてここで一緒に難をさけていました。ある日、私たちの内庭の隣の門を日本軍が打ち壊して入り込んで来たようで、門番の1人が打たれ続けているのが聞こえ、銃声も聞こえました。そして日本兵が5,6人私たちの内庭の門から突っ込んできて、私たち若い男子を5人門の外に追い出し、無理やりにひざまずかせたのですが、その5人の中に私の兄弟が3人いました。お隣のあの門番さんが、日本軍に殺され、血からまだ湯気が立っているのに続いて、日本軍が5人を殺そうとしたその時に、将校の1人が、日本軍に集まれと命令したので、私たち5人は一死を免れました。一緒にいた30何歳かの女性が1人強姦されました。
それに一度、日本軍に野菜を担がされ、鳳凰西街から江東門まで4,5里くらい行ったことがあって、その道でいっぱいやられた同胞の屍を見たのですが、その中には国民党の兵隊も少しいました。日本軍に殺された者あり、焼き殺された者あり、あっちの道端にゴロゴロこっちのため池に折り重なったりで、見るも悲惨なありさまでした。日本軍の駐屯している所まで野菜を運んでいったら、紙切れ一枚に何か書いて判を押したのをくれて、帰っていいと言われました。
日本軍が南京を占領してから一ヶ月余りして、鳳凰西街から芦席巷まで行ったら、私の家が3軒とも日本軍に焼かれてしまっていました。しかも芦席巷43号の地下の穴に日本軍に殺された7,8人の屍がありましたが、そのうち3人が近所の人や隣の人でした。20歳余りで革靴をつくっていた周家保に、30歳余りで家で商売していた龍花子に、30歳余りでロバを殺すのが仕事の沈延寿でした。(肖仲煌と左紀文が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。
また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
南京事件の終焉
松井司令官の解任
1月上旬を過ぎると、日本軍の南京虐殺の事実は、南京にいた外国人記者の報道によって世界に知られるようになっていただけでなく、南京のアメリカ大使館が作成した日本軍の残虐・不法行為に関する膨大な記録と報告が本国の国務省や東京のアメリカ大使館に送信されたり、同じくドイツ大使館のローゼン書記官らの詳細な日本軍暴行記録が本国に報告されたりして、外交ルートを通じても、南京事件の事実が世界に知られるようになっていた。石井射太郎の日記(38年1月6日)は「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。ああこれが皇軍か。日本国民民心の廃頽の発露であろう。大きな社会問題だ」と記している。
南京の日本軍の軍機頽廃問題は、陸軍中央でもひそかに問題にするようになった。その頃予備役になっていた元教育総監真崎甚三郎大将は、上海派遣軍を視察してきた衆議院議員の江藤源九郎予備役少将の報告を聞いて、「軍紀風紀頽廃し、これを立て直さざれば真面目の戦闘に耐えずということに帰着せり。強盗、強姦、略奪、聞くに忍びざるものありたり」と日記(1月28日)に記している。(『南京戦史資料集Ⅱ』)。
こうした状況の中で、畑俊六教育総監は松井石根司令官の更迭を杉山元陸相に進言したことを日記(1月29日)に記している。
支那派遣軍も作戦一段落とともに、軍紀風紀ようやく頽廃、略奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代らしめ、また軍司令官、師団長などの召集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。この意見を大臣に進言いたしおきたる・・・・。(「畑俊六日記」)
こうした経緯があって参謀本部は松井中支那方面軍司令官の帰還を命令した。(続く)
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
陳永富(男、69歳)の証言
1937年の末に、日本軍が南京を占領した時に、私の家は江北へ避難しようと準備したのですが、長江が水面封鎖されて、渡る船が無かったので、行かないことになりました。戻ってくる途中で、鳳凰街を通り、ある屋敷の内庭に泊まりました。他にも知らない人たちが2、30人いてここで一緒に難をさけていました。ある日、私たちの内庭の隣の門を日本軍が打ち壊して入り込んで来たようで、門番の1人が打たれ続けているのが聞こえ、銃声も聞こえました。そして日本兵が5,6人私たちの内庭の門から突っ込んできて、私たち若い男子を5人門の外に追い出し、無理やりにひざまずかせたのですが、その5人の中に私の兄弟が3人いました。お隣のあの門番さんが、日本軍に殺され、血からまだ湯気が立っているのに続いて、日本軍が5人を殺そうとしたその時に、将校の1人が、日本軍に集まれと命令したので、私たち5人は一死を免れました。一緒にいた30何歳かの女性が1人強姦されました。
それに一度、日本軍に野菜を担がされ、鳳凰西街から江東門まで4,5里くらい行ったことがあって、その道でいっぱいやられた同胞の屍を見たのですが、その中には国民党の兵隊も少しいました。日本軍に殺された者あり、焼き殺された者あり、あっちの道端にゴロゴロこっちのため池に折り重なったりで、見るも悲惨なありさまでした。日本軍の駐屯している所まで野菜を運んでいったら、紙切れ一枚に何か書いて判を押したのをくれて、帰っていいと言われました。
日本軍が南京を占領してから一ヶ月余りして、鳳凰西街から芦席巷まで行ったら、私の家が3軒とも日本軍に焼かれてしまっていました。しかも芦席巷43号の地下の穴に日本軍に殺された7,8人の屍がありましたが、そのうち3人が近所の人や隣の人でした。20歳余りで革靴をつくっていた周家保に、30歳余りで家で商売していた龍花子に、30歳余りでロバを殺すのが仕事の沈延寿でした。(肖仲煌と左紀文が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。
また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年3月12日木曜日
南京大虐殺
「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の終焉
戦略的に誤りだった南京攻略戦
陸軍中央における拡大派の急先鋒であった武藤章参謀本部作戦課長は、中国一撃論を主張し、「南京をやったら敵は参る」と言いきった。そして武藤ら参謀本部の拡大派が出向して中支那方面軍司令部の中枢を占めた。上海派遣軍司令官に予備役から抜擢された松井石根大将は、南京を落とせば国民政府は屈服すると考え、東京を発つ時から、「南京を攻略せば(蒋介石は)下野すべし」と、南京占領の意図を公言してはばからなかった。
南京攻略戦はもともと参謀本部の作戦計画になかったものを、中支那方面軍司令部と参謀本部の下村定第一部長らの拡大派とが策応して強行し、それを昭和天皇が追認、近衛内閣の追随し、さらにマスメディアが、南京を攻略すれば中国は容易に屈服して戦争は勝利するかのような安易な期待感を流布した。日本国民は、「南京に日章旗が翻る時」が戦争終結であるかのように報道する新聞記事に熱狂し、南京占領を「勝った!勝った!」と国を挙げて祝賀行事を展開した。
しかし、南京陥落後も蒋介石は下野せず、国民政府は屈服しなかった。中国は武漢(漢口と武昌よりなる)に事実上の首都機能を移転させ、中国軍民の抗戦継続の意志に支えられて、国民党と共産党の合作はかつてなく強化され、第三勢力と言われた民主諸党派も結集し、武漢は南京に代わって抗戦中国の強力な「首都」の役割を果たした。
ここに、武藤章や松井石根らの中国一撃論は完全に失敗したのだった。38年1月15日の大本営政府連絡会議(大本営と内閣が連席して重要な戦争政策を決定する会議)において、国民政府との和平交渉(トラウトマン工作)の最終打ち切りを決定し、翌16日に近衛首相が「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」という蒋介石国民政府を否定する政府声明を発表したことは、南京攻略戦の政略的な失敗を日本の政府と軍中央が自ら認めたかたちになった。首都南京を落としても中国は屈服しなかったから、中国が屈服するまで戦争を拡大・継続していくという決定をしたのである。この政府と軍中央の決定は、日本国民を長期日中全面戦争の泥沼に引きずり込んでいく決定的な契機となった。
この決定に際しては、参謀本部とりわけ不拡大派の多田駿参謀本部次長らが強く反対した。蒋介石政府否認後にくる長期泥沼戦争への突入を回避しようとした彼らは、最後は昭和天皇の「御裁断」を仰いで和平交渉打ち切りの阻止を図ったが、天皇はそれに応ぜず、交渉打ち切りに加担したのである。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
劉修栄(男、63歳)の証言
1937年には、私は16歳で、一家4人(父と兄と弟と私)が、江東門の街から一里ほど離れた所に住んでいました。その頃私たちは情勢が緊張しているは知っていましたが、こんなに早く日本軍がやってくるとは思いませんでしたし、家で飼っていた豚何頭かを無くしてしまうのももったいなくて、難民区には行きませんでした。冬月の9日に、雨花台が緊迫してきたので、私たちは長江の岸辺に駆けつけましたが、渡れなかったので、引き返して来て水関橋に隠れ、そこに住まうことにしました。
冬月11日に、まだ夜が明けないうちに、突然日本兵が数人私と兄が住まっている家に跳び込んできて、布団の中を銃剣でやたらに突き刺しました。私の小さなお腹に2度当たりましたが、布団越しだったので、傷は割りに浅くすみましたが、傷痕は今でもまだあります。私がその時突き刺されて泣き出したために、兄が助けに来ようとして、直ちに日本兵に捕まってしまい、門まで引きずられて、銃剣で何度も突き刺され、こめかみにも一発撃ち込まれて、その場で撃ち殺されました。何日かしてから、父が兄の死体を埋めてくれました。
日本兵は江東門でいっぱい殺しました。2日後に、日本兵が国民党軍の捕虜を陸軍監獄(私の家のすぐ近く)から大茶亭までの間2キロぐらいの所に集めて、銃剣で刺すやら、機関銃で掃射するやらして、一日中殺しまくり、死体がうずたかくなったのを、私は見ましたが、ほんのわずかな人しか九死に一生を得られませんでした。それに又、前に日本の飛行機に爆撃されて壊れた江東門の古い橋が、日本軍によって中国人平民の死体を積み重ね、上に木の板を敷き、それを橋にして歩くようにされたのを見ました。
暖かくなって雪が溶けた頃、江東門一帯は真っ赤な血の池となり、ぞうっと背筋が寒くなったのでした。(呉伝銘、劉興林、何煉生らが記録)
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
南京事件の終焉
戦略的に誤りだった南京攻略戦
陸軍中央における拡大派の急先鋒であった武藤章参謀本部作戦課長は、中国一撃論を主張し、「南京をやったら敵は参る」と言いきった。そして武藤ら参謀本部の拡大派が出向して中支那方面軍司令部の中枢を占めた。上海派遣軍司令官に予備役から抜擢された松井石根大将は、南京を落とせば国民政府は屈服すると考え、東京を発つ時から、「南京を攻略せば(蒋介石は)下野すべし」と、南京占領の意図を公言してはばからなかった。
南京攻略戦はもともと参謀本部の作戦計画になかったものを、中支那方面軍司令部と参謀本部の下村定第一部長らの拡大派とが策応して強行し、それを昭和天皇が追認、近衛内閣の追随し、さらにマスメディアが、南京を攻略すれば中国は容易に屈服して戦争は勝利するかのような安易な期待感を流布した。日本国民は、「南京に日章旗が翻る時」が戦争終結であるかのように報道する新聞記事に熱狂し、南京占領を「勝った!勝った!」と国を挙げて祝賀行事を展開した。
しかし、南京陥落後も蒋介石は下野せず、国民政府は屈服しなかった。中国は武漢(漢口と武昌よりなる)に事実上の首都機能を移転させ、中国軍民の抗戦継続の意志に支えられて、国民党と共産党の合作はかつてなく強化され、第三勢力と言われた民主諸党派も結集し、武漢は南京に代わって抗戦中国の強力な「首都」の役割を果たした。
ここに、武藤章や松井石根らの中国一撃論は完全に失敗したのだった。38年1月15日の大本営政府連絡会議(大本営と内閣が連席して重要な戦争政策を決定する会議)において、国民政府との和平交渉(トラウトマン工作)の最終打ち切りを決定し、翌16日に近衛首相が「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」という蒋介石国民政府を否定する政府声明を発表したことは、南京攻略戦の政略的な失敗を日本の政府と軍中央が自ら認めたかたちになった。首都南京を落としても中国は屈服しなかったから、中国が屈服するまで戦争を拡大・継続していくという決定をしたのである。この政府と軍中央の決定は、日本国民を長期日中全面戦争の泥沼に引きずり込んでいく決定的な契機となった。
この決定に際しては、参謀本部とりわけ不拡大派の多田駿参謀本部次長らが強く反対した。蒋介石政府否認後にくる長期泥沼戦争への突入を回避しようとした彼らは、最後は昭和天皇の「御裁断」を仰いで和平交渉打ち切りの阻止を図ったが、天皇はそれに応ぜず、交渉打ち切りに加担したのである。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
劉修栄(男、63歳)の証言
1937年には、私は16歳で、一家4人(父と兄と弟と私)が、江東門の街から一里ほど離れた所に住んでいました。その頃私たちは情勢が緊張しているは知っていましたが、こんなに早く日本軍がやってくるとは思いませんでしたし、家で飼っていた豚何頭かを無くしてしまうのももったいなくて、難民区には行きませんでした。冬月の9日に、雨花台が緊迫してきたので、私たちは長江の岸辺に駆けつけましたが、渡れなかったので、引き返して来て水関橋に隠れ、そこに住まうことにしました。
冬月11日に、まだ夜が明けないうちに、突然日本兵が数人私と兄が住まっている家に跳び込んできて、布団の中を銃剣でやたらに突き刺しました。私の小さなお腹に2度当たりましたが、布団越しだったので、傷は割りに浅くすみましたが、傷痕は今でもまだあります。私がその時突き刺されて泣き出したために、兄が助けに来ようとして、直ちに日本兵に捕まってしまい、門まで引きずられて、銃剣で何度も突き刺され、こめかみにも一発撃ち込まれて、その場で撃ち殺されました。何日かしてから、父が兄の死体を埋めてくれました。
日本兵は江東門でいっぱい殺しました。2日後に、日本兵が国民党軍の捕虜を陸軍監獄(私の家のすぐ近く)から大茶亭までの間2キロぐらいの所に集めて、銃剣で刺すやら、機関銃で掃射するやらして、一日中殺しまくり、死体がうずたかくなったのを、私は見ましたが、ほんのわずかな人しか九死に一生を得られませんでした。それに又、前に日本の飛行機に爆撃されて壊れた江東門の古い橋が、日本軍によって中国人平民の死体を積み重ね、上に木の板を敷き、それを橋にして歩くようにされたのを見ました。
暖かくなって雪が溶けた頃、江東門一帯は真っ赤な血の池となり、ぞうっと背筋が寒くなったのでした。(呉伝銘、劉興林、何煉生らが記録)
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年3月11日水曜日
南京大虐殺
「南京の真実」と「南京事件の日々」という2冊の書物を約3ヶ月間引用させていただいた。ラーベとヴォートリンの日記を通して、難民区の生活がおぼろげながら分かったのではないかと思う。日本軍が上海での戦いで苦戦し、多くの犠牲を出しながらも、何とか勝利すると、今度は軍の独断専行でその当時の中国の首都南京まで攻め込む。
この日中戦争の大義名分があいまいで、支那膺懲(中国を戦力でこらしめる)であった。宣戦布告もなかった。勝手に日本が中国を侵略していて、第二次上海事変が起きると、軍を増派して上海に送った。それも士気の弱い中年が多かった。上海で、犠牲者が続出する中、勝利すると今度は南京へ。犠牲者が出た分、敵愾心も強くなった。南京一番乗りを競って、各軍が競争となり、食糧などは現地調達であった。村々は略奪され、野営に使われた。村民は、男性は荷物を運ばされたあと殺されたり、又は集められて殺されたり、女性は強姦されたりした。敗残兵は捕虜として大事に取り扱われるわけではなく、軍刀の露になることが多かった。南京までの道のりでもいろいろな残虐行為が繰り返された。
南京が12月12日深夜陥落すると、翌日から掃蕩作戦を開始し、敗残兵を河べりや池の近くに集め機銃掃射して殺すことが多かった。日本軍はあらかじめこの作戦を海外に知られないよう、揚子江に停泊していて、外国人記者が無線記事の送信に利用していたアメリカ砲艦パナイ号を撃沈していた。
ラーベはナチの党員であるが、難民区に逃れてきた難民をアメリカ人宣教師などと一緒になって救おうと尽力した。時にはハーケンクロイツを日本兵の前にかざして大声を出して追っ払ったり、寝る間も惜しんで難民のために日本軍の前に立ちはだかった。帰国後、南京での日本軍の残虐な行為を、何とかヒトラー総統に知ってもらおうと上申書を書くが逆にゲシュタポに逮捕されてしまう。
戦中、ラーベは、心酔していたヒトラーがやっていたことを知ったとき、彼の失望はどれほどのものであったのか?想像するもの難しい!
正しいと信じていた人に裏切られた時のショックは相当のものだろう。
南京での輝かしい活躍が一瞬にして消えたのかもしれない。この話も、人生の不可解さを物語る。
一方、ヴォートリンも金陵女子文理学院で難民の世話に奔走した。まねのできるものではない。体を張って特に若い女性を守ろうとした。でも12月の日本軍の残虐行為が余りにも恐怖を彼女に与えたので、そのことがトラウマになったようだ。自分が難民を救うことができなかったといって、自殺するとは。何と責任感の強い人だ!なんとこの世の中は不条理なのだろうか?
もちろん、残虐行為を行った日本兵も、中国での自分のしたことがトラウマになって、戦後帰国しても夜に眠れなかったり、わめいたりしたりした人も多くいたようだ。
だが、裁かれて、死刑になったのはほんのわずかな人たちであり、ほとんどの兵士はやったことを後世に伝えずだんまりを決め込んだ。
もちろん戦友会の圧力や上からの命令もあったのではないかと思う。又、大日本帝国は降伏直後、大量の関係書類を焼却し、証拠隠滅を図った。当たり前のことだが!!
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
張従貴(男、79歳)の証言
1937年の冬月に、日本軍が南京を占領しました。その時私の家は宝塔山でしたが、日本人は殺そうと思う者を殺し、斬ろうと思う者を斬って、、私たちを死地に追い詰めたので、余所の地に逃げるしかありませんでした。江東門を通って江東門橋の上まで来たときに、橋のそばの葦ず張りの小屋から、実弾入りの銃を担いだ日本軍が何人か出てきました。彼らは有無を言わせずに、私たち一緒に歩いただけで誰も知らない9人を捕まえ、手まね足まねで、私たちにわらを運ばせたり、床を敷かせたり、飯を炊かせたりなどの雑事をやらせました。私たちは怒りを押さえじっと我慢して、何でも言われるままにせざるを得ませんでした。日本軍が晩飯を食べ終わったら、もう暗くなっていましたが、私たち9人を鉄条網で囲んだ運動場の中に行かせ、みんなひざまずかせました。両側に1人ずつ日本軍が立って、私たちを逃げないようにしました。別の日本軍9人が、それぞれ剣をつけた小銃を一挺ずつ持って、私たちめがけて突いて来ました。最初の一突きが腰に来ましたが、とても寒くて、長い綿入れを着ていたので、腰の肉までは刺さりませんでした。2突き目が首に刺さり、たちまち真っ赤の血が流れ出ました。あっという間もなく、出血が多すぎて、私は昏倒してしまい、何も分からなくなり、日本軍も私が死んだと思ったようです。真夜中になって、私は意識を取り戻したので、月明かりで見ると、他の8人があっちに3人こっちに2人と倒れていて、周りは血だらけでした。じいっと耳を澄ましても、何の物音も聞こえないので、多分日本軍はみんな眠ったのだろうと見当をつけて、重たい体を引きずって、鉄条網の前まで這って行き、鉄条網から転がり出ましたら、溝の中に落っこちました。それからまた傷の痛みを我慢して、一里余り這って行き、お墓のあるところでしばらく休みましたが、周りにわらの灰があるのを見かけたので、それを少しつまんで地面に敷き、横たわりました。傷が痛くて、全く眠れずに、夜が明けるまで一睡もせず、難民が何人かそこを通ったので、その人たちの後について行きました。私の体に血がついているために、その人たちは巻き添えを食うのを恐れて、私について行かせませんでした。毛公渡まで来て、妻の父が遠くないことから、その家にたどり着きました。岳父が剥いだばかりの鶏の皮を傷口に貼ってくれて、傷がだんだんよくなりました。こうして命拾いをし、生き残ってこれたのです。(肖仲煌と尹長風が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・平和を探ることが人類の進化だと思います。
私たちが本気になって平和を模索しなければ、いろいろな問題は改善されるどころか、悪化してしまいます。
(アメリカ、40代・女性)
・日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私はとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。(ベルギー、40代・男性)
・日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。
(インド、50代・女性)
・私の地域では、たえまない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。(レバノン、20代・女性)
・武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。私の国、コスタリカは武器をもたない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常に素晴らしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
(コスタリカ、60代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この日中戦争の大義名分があいまいで、支那膺懲(中国を戦力でこらしめる)であった。宣戦布告もなかった。勝手に日本が中国を侵略していて、第二次上海事変が起きると、軍を増派して上海に送った。それも士気の弱い中年が多かった。上海で、犠牲者が続出する中、勝利すると今度は南京へ。犠牲者が出た分、敵愾心も強くなった。南京一番乗りを競って、各軍が競争となり、食糧などは現地調達であった。村々は略奪され、野営に使われた。村民は、男性は荷物を運ばされたあと殺されたり、又は集められて殺されたり、女性は強姦されたりした。敗残兵は捕虜として大事に取り扱われるわけではなく、軍刀の露になることが多かった。南京までの道のりでもいろいろな残虐行為が繰り返された。
南京が12月12日深夜陥落すると、翌日から掃蕩作戦を開始し、敗残兵を河べりや池の近くに集め機銃掃射して殺すことが多かった。日本軍はあらかじめこの作戦を海外に知られないよう、揚子江に停泊していて、外国人記者が無線記事の送信に利用していたアメリカ砲艦パナイ号を撃沈していた。
ラーベはナチの党員であるが、難民区に逃れてきた難民をアメリカ人宣教師などと一緒になって救おうと尽力した。時にはハーケンクロイツを日本兵の前にかざして大声を出して追っ払ったり、寝る間も惜しんで難民のために日本軍の前に立ちはだかった。帰国後、南京での日本軍の残虐な行為を、何とかヒトラー総統に知ってもらおうと上申書を書くが逆にゲシュタポに逮捕されてしまう。
戦中、ラーベは、心酔していたヒトラーがやっていたことを知ったとき、彼の失望はどれほどのものであったのか?想像するもの難しい!
正しいと信じていた人に裏切られた時のショックは相当のものだろう。
南京での輝かしい活躍が一瞬にして消えたのかもしれない。この話も、人生の不可解さを物語る。
一方、ヴォートリンも金陵女子文理学院で難民の世話に奔走した。まねのできるものではない。体を張って特に若い女性を守ろうとした。でも12月の日本軍の残虐行為が余りにも恐怖を彼女に与えたので、そのことがトラウマになったようだ。自分が難民を救うことができなかったといって、自殺するとは。何と責任感の強い人だ!なんとこの世の中は不条理なのだろうか?
もちろん、残虐行為を行った日本兵も、中国での自分のしたことがトラウマになって、戦後帰国しても夜に眠れなかったり、わめいたりしたりした人も多くいたようだ。
だが、裁かれて、死刑になったのはほんのわずかな人たちであり、ほとんどの兵士はやったことを後世に伝えずだんまりを決め込んだ。
もちろん戦友会の圧力や上からの命令もあったのではないかと思う。又、大日本帝国は降伏直後、大量の関係書類を焼却し、証拠隠滅を図った。当たり前のことだが!!
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
張従貴(男、79歳)の証言
1937年の冬月に、日本軍が南京を占領しました。その時私の家は宝塔山でしたが、日本人は殺そうと思う者を殺し、斬ろうと思う者を斬って、、私たちを死地に追い詰めたので、余所の地に逃げるしかありませんでした。江東門を通って江東門橋の上まで来たときに、橋のそばの葦ず張りの小屋から、実弾入りの銃を担いだ日本軍が何人か出てきました。彼らは有無を言わせずに、私たち一緒に歩いただけで誰も知らない9人を捕まえ、手まね足まねで、私たちにわらを運ばせたり、床を敷かせたり、飯を炊かせたりなどの雑事をやらせました。私たちは怒りを押さえじっと我慢して、何でも言われるままにせざるを得ませんでした。日本軍が晩飯を食べ終わったら、もう暗くなっていましたが、私たち9人を鉄条網で囲んだ運動場の中に行かせ、みんなひざまずかせました。両側に1人ずつ日本軍が立って、私たちを逃げないようにしました。別の日本軍9人が、それぞれ剣をつけた小銃を一挺ずつ持って、私たちめがけて突いて来ました。最初の一突きが腰に来ましたが、とても寒くて、長い綿入れを着ていたので、腰の肉までは刺さりませんでした。2突き目が首に刺さり、たちまち真っ赤の血が流れ出ました。あっという間もなく、出血が多すぎて、私は昏倒してしまい、何も分からなくなり、日本軍も私が死んだと思ったようです。真夜中になって、私は意識を取り戻したので、月明かりで見ると、他の8人があっちに3人こっちに2人と倒れていて、周りは血だらけでした。じいっと耳を澄ましても、何の物音も聞こえないので、多分日本軍はみんな眠ったのだろうと見当をつけて、重たい体を引きずって、鉄条網の前まで這って行き、鉄条網から転がり出ましたら、溝の中に落っこちました。それからまた傷の痛みを我慢して、一里余り這って行き、お墓のあるところでしばらく休みましたが、周りにわらの灰があるのを見かけたので、それを少しつまんで地面に敷き、横たわりました。傷が痛くて、全く眠れずに、夜が明けるまで一睡もせず、難民が何人かそこを通ったので、その人たちの後について行きました。私の体に血がついているために、その人たちは巻き添えを食うのを恐れて、私について行かせませんでした。毛公渡まで来て、妻の父が遠くないことから、その家にたどり着きました。岳父が剥いだばかりの鶏の皮を傷口に貼ってくれて、傷がだんだんよくなりました。こうして命拾いをし、生き残ってこれたのです。(肖仲煌と尹長風が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・平和を探ることが人類の進化だと思います。
私たちが本気になって平和を模索しなければ、いろいろな問題は改善されるどころか、悪化してしまいます。
(アメリカ、40代・女性)
・日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私はとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。(ベルギー、40代・男性)
・日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。
(インド、50代・女性)
・私の地域では、たえまない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。(レバノン、20代・女性)
・武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。私の国、コスタリカは武器をもたない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常に素晴らしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
(コスタリカ、60代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年3月10日火曜日
その後のヴォートリン
「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
侵略戦争の犠牲になった中国女性の救済と教育への献身に疲れ果てていた彼女が味わった失望感はあまりにも強烈であった。上海から南京に戻ったヴォートリンは、極度の疲労感と無力感に襲われ、3週間も日記を書くことができなかった。1940年3月30日に、日本の占領工作に従った汪兆銘が国民政府(傀儡)の成立を南京で宣言したことが、ヴォートリンの抑鬱状態に追い打ちをかけた。日本軍占領下の金陵女学院と南京で、彼女が必死になって築き上げてきた努力が無に帰していく思いに陥ったのである。
それから半年後、ヴォートリンは4月14日の日記に「私の気力はもう消滅しそうだ。私はもうこれ以上前に進むことはできないし、仕事の計画を立てることもできない。あらゆる方法に必ずなんらかの障害が立ちはだかっているように思える」と書いたのを最後に、日記が書けなくなったのである。
それ以後ヴォートリンの抑鬱状態はさらに深刻になり、「自分の中国伝道は失敗した」「私は精神病にかかっているようだ」「生きているのが辛いからいっそ死んでしまいたい」と周囲にもらすようになった。
ここにいたって関係者はヴォートリンをアメリカに帰国させ、精神病療養施設で治療させることにして、5月14日、金陵女学院の親友の教師キャサリン・サザランドとジョン・マギー牧師が付き添ってアメリカに帰国させた。この時汽船から一度飛び込み自殺を図ろうとしている。アイダホ州の精神病院で検査をした結果、彼女は重いうつ病にかかっていると診断され、精神療養施設で長期の療養を受けることになった。その後症状が回復したのでテキサス州の静かな町で静養生活をおくらせていたところ、1941年2月、睡眠薬自殺を図ったのである。幸い未遂に終わったのでインディアナ州の精神病院に入院させ治療をほどこした。再び症状が回復、社会復帰を目指して金陵女学院理事会の仕事を手伝わせるまでになっていたが、同年5月14日、インディアナポリスのあった連合キリスト教伝道団の秘書のアパートの台所で突然ガス自殺を図り、自らの生命を絶ってしまったのである。享年55歳だった。
「私の中国での伝道は不成功に終わった」「不治の精神病に苦しむよりは死ぬほうがまだ楽です」という走り書きの遺書が残されていた。
・・・・・・・・以上で「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)からの引用は終了です。・・・・・・
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
劉世海(男、73歳)の証言
民国25年(1936年)に、私は国民党の第5軍に入りました。翌年上海へ赴いて日本軍と戦いましたが、やがて退却して南京に来ました。民国26年12月に、日本軍が南京に迫り、私は雨花台で2,3日戦闘しましたが、部隊が瓦解してしまいました。私たちは下関まで駆けて行って、長江を渡って行きたかったのですが、船がなくて渡れませんでした。
私は安徽の者でしたから、安徽(あんき)へ逃げようとする一団に加わりました。私たち一行は50人足らずで、三汊河から江東門まで来て、蕪湖の方向へ行くことにしていました。道には屍がいっぱい敷き詰められているようでしたが、ある電柱には屍が7つか8つかかっていて、それがみんな針金を鎖骨に通して1つにつなげてあり、男もあれば女もあり、子どものまでありました。さらに行け行くほど、死者は多くなってきました。
江東門まで来たら、模範監獄の門の前で、一隊の日本兵に差し止められました。私たちは白旗を掲げて日本兵に見せ、「我々は投降した兵士たちだ」と言いました。日本兵は有無を言わさず、私たちを強引に監獄の東側の野菜畑まで駆り立て、一列に並べと命令しましたが、周りには日本兵5,60人いて、そのうちの十数人が軍刀を引っさげ、その他はみんな銃に剣を着けていました。と、不意に日本兵が周りから一斉に跳びかかって来て、軍刀や銃剣やらで滅多斬りに滅多つきをくりかえし、私は首に一太刀やられました。私が覚えているのはただ、日本兵が軍刀を振りかざして斬りかかってくる恐ろしい姿だけで、あとは何も分かりませんでした。
意識を取り戻した時は、既に暗くなっていて、死んだ人2人に押し付けられていたのですが、力を入れて押しのけ立ち上がりました。幸いに傷が余り深くなく、血はもう止まっていました。まだ、明るくないうちに、急いでその野菜畑を離れ、半里ほど歩いたところで防空壕を見かけたので、その壕に隠れました。夜が明けると、日本兵が又やってきて、日本語でひとしきり大声をあげていましたが、「出て来い」とでも叫んでいたのでしょう。壕の中が暗くて、何も見えなかったので、日本兵はしばらくわめいただけで行ってしまいました。
遭難したのは、冬月の14日か15日でした。同行した50人足らずのうちで、私だけが生き残りました。今も首に刀のあとが10ミリほど残っています。(段月萍が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)
・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)
・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)
・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)
・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
侵略戦争の犠牲になった中国女性の救済と教育への献身に疲れ果てていた彼女が味わった失望感はあまりにも強烈であった。上海から南京に戻ったヴォートリンは、極度の疲労感と無力感に襲われ、3週間も日記を書くことができなかった。1940年3月30日に、日本の占領工作に従った汪兆銘が国民政府(傀儡)の成立を南京で宣言したことが、ヴォートリンの抑鬱状態に追い打ちをかけた。日本軍占領下の金陵女学院と南京で、彼女が必死になって築き上げてきた努力が無に帰していく思いに陥ったのである。
それから半年後、ヴォートリンは4月14日の日記に「私の気力はもう消滅しそうだ。私はもうこれ以上前に進むことはできないし、仕事の計画を立てることもできない。あらゆる方法に必ずなんらかの障害が立ちはだかっているように思える」と書いたのを最後に、日記が書けなくなったのである。
それ以後ヴォートリンの抑鬱状態はさらに深刻になり、「自分の中国伝道は失敗した」「私は精神病にかかっているようだ」「生きているのが辛いからいっそ死んでしまいたい」と周囲にもらすようになった。
ここにいたって関係者はヴォートリンをアメリカに帰国させ、精神病療養施設で治療させることにして、5月14日、金陵女学院の親友の教師キャサリン・サザランドとジョン・マギー牧師が付き添ってアメリカに帰国させた。この時汽船から一度飛び込み自殺を図ろうとしている。アイダホ州の精神病院で検査をした結果、彼女は重いうつ病にかかっていると診断され、精神療養施設で長期の療養を受けることになった。その後症状が回復したのでテキサス州の静かな町で静養生活をおくらせていたところ、1941年2月、睡眠薬自殺を図ったのである。幸い未遂に終わったのでインディアナ州の精神病院に入院させ治療をほどこした。再び症状が回復、社会復帰を目指して金陵女学院理事会の仕事を手伝わせるまでになっていたが、同年5月14日、インディアナポリスのあった連合キリスト教伝道団の秘書のアパートの台所で突然ガス自殺を図り、自らの生命を絶ってしまったのである。享年55歳だった。
「私の中国での伝道は不成功に終わった」「不治の精神病に苦しむよりは死ぬほうがまだ楽です」という走り書きの遺書が残されていた。
・・・・・・・・以上で「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)からの引用は終了です。・・・・・・
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
劉世海(男、73歳)の証言
民国25年(1936年)に、私は国民党の第5軍に入りました。翌年上海へ赴いて日本軍と戦いましたが、やがて退却して南京に来ました。民国26年12月に、日本軍が南京に迫り、私は雨花台で2,3日戦闘しましたが、部隊が瓦解してしまいました。私たちは下関まで駆けて行って、長江を渡って行きたかったのですが、船がなくて渡れませんでした。
私は安徽の者でしたから、安徽(あんき)へ逃げようとする一団に加わりました。私たち一行は50人足らずで、三汊河から江東門まで来て、蕪湖の方向へ行くことにしていました。道には屍がいっぱい敷き詰められているようでしたが、ある電柱には屍が7つか8つかかっていて、それがみんな針金を鎖骨に通して1つにつなげてあり、男もあれば女もあり、子どものまでありました。さらに行け行くほど、死者は多くなってきました。
江東門まで来たら、模範監獄の門の前で、一隊の日本兵に差し止められました。私たちは白旗を掲げて日本兵に見せ、「我々は投降した兵士たちだ」と言いました。日本兵は有無を言わさず、私たちを強引に監獄の東側の野菜畑まで駆り立て、一列に並べと命令しましたが、周りには日本兵5,60人いて、そのうちの十数人が軍刀を引っさげ、その他はみんな銃に剣を着けていました。と、不意に日本兵が周りから一斉に跳びかかって来て、軍刀や銃剣やらで滅多斬りに滅多つきをくりかえし、私は首に一太刀やられました。私が覚えているのはただ、日本兵が軍刀を振りかざして斬りかかってくる恐ろしい姿だけで、あとは何も分かりませんでした。
意識を取り戻した時は、既に暗くなっていて、死んだ人2人に押し付けられていたのですが、力を入れて押しのけ立ち上がりました。幸いに傷が余り深くなく、血はもう止まっていました。まだ、明るくないうちに、急いでその野菜畑を離れ、半里ほど歩いたところで防空壕を見かけたので、その壕に隠れました。夜が明けると、日本兵が又やってきて、日本語でひとしきり大声をあげていましたが、「出て来い」とでも叫んでいたのでしょう。壕の中が暗くて、何も見えなかったので、日本兵はしばらくわめいただけで行ってしまいました。
遭難したのは、冬月の14日か15日でした。同行した50人足らずのうちで、私だけが生き残りました。今も首に刀のあとが10ミリほど残っています。(段月萍が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)
・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)
・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)
・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)
・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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