2009年2月16日月曜日

1938年 南京 2月16日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月16日
 自治委員会の委員でもあり、同時にこっそり我々の仲間にも加わっているジミーからの知らせ。本部の建物を自治委員会が買い取って、国際委員会に贈ることになったそうだ。とてもよい思いつきだ。
 アリソン氏来訪。「緑豆問題」が解決したと知らせてくれる。豆を輸入し、安全区の中でも外でも分配できることになった。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月16日 水曜日
 今日は寒い風が吹いた。甫と老呉が樹木の植え替えを始めている。というのも、今がその時機なのだ。午前9時、衛生状態を調べに李さんと一緒に再び戸外に出た。それは、まさに絶望的な途方もない仕事で、何の効果も上がらない。みなさんに中央棟の裏手の小山を見て、その臭いを嗅いでいただきたいものだ。
 王さんと彼女を手伝う人たちが、赤札を新しい黄札に取り替える作業を終えた。現在、無料配給米をもらっている人は653人いる。無料配給米の札の配布を慎重にやりすぎているのだろうか。それほど慎重にやらなければ、現在以上にたくさんの人がキャンパスにとどまることになるだろう。私たちは、貸し付けたり供与したりする資金を(安全区国際)委員会から預かっているが、しかし、どうすれば賢い貸し付けや供与をすることができるかを見極めるのは、決して容易なことではない。今日は指輪や時計を抵当に2件の貸し付けをした。
 5時から6時の間にY.G.厳さんが訪ねてきた。彼は殺害されたと聞いていたのだが、しかし、彼にはその話はしなかった。彼の話によれば、占領の初期に三汊河で1万人が、燕子磯では2万人ないし3万人が、下関ではおよそ1万人が殺害されたと聞いたそうだ。彼は、多くの夫と息子は絶対に帰ってこないと確信している。頻繁に私のところにやってきては、嘆願書に書かれている情報を何か聞いていないかと尋ねる女性にたいし、あなたたちの夫が帰ってくることは絶対にない、などと、どうしてそんなことが言えようか。
 アリソン氏が、上海から包みを1個、手紙を2通、それにステラにかんする無線電報1通を届けてくれた。アメリカ本国の人たちは、南京に入ることがほとんど不可能であることを理解していない。
 ブランチは今も入院しているし、婁さんは病気でここにいる。いつも健康かかつ正常な状態を保つのは難しいことだ。
 上海から届いた包みには2月5日付け「ノース・チャイナ・デイリーニューズ」が入っていた。私の分がこなくなった11月14日以来久しぶりに目にしたものだ。・・・・・・・・・

     
「Imagine9」【合同出版】より



9条をつかって、


戦争のない世界をつくる。



「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
 日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
 第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
 同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月15日日曜日

1938年 南京 2月15日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月15日
昨晩、龍と周の2人がわが家を去った。今日発つという。どうやって家に帰るのかは知らない。計画は打ち明けられなかったし、ことらも聞かなかった。残念ながら我々の友情にはひびが入った。それはともかく、2人が無事に香港に戻れるよう祈る。けれどもまた会いたいとは思わない。
 今せっせと荷造りしているところだ。骨が折れる。体の調子があまりよくないのだ。2時間しか眠っていない。多分糖尿病と何か関係があるのだろうが、ま、しかたない!どうにかなる。きっと万事うまくいくさ!


「緑豆問題」はいまだに解決していない。日本軍は無条件で豆を自治委員会に渡せといってきている。さもなければ持ち込んではいけないそうだ。緑豆は鼓楼病院に送られることになっている。ということは、日本は食料品を民間の機関に引き渡すのを阻止しようとしているということだ。アリソン氏がいま説得しようとしている。
 たった今聞いたのだが、収容所の責任者たちが連名で上海のジーメンスに電報を打つという。私をここに残すよう頼もうというのだ。全く痛しかゆしだ。
 実際の話、かなり神経が参っていて、休暇を取りたくてたまらない。それに、収容所の責任者たちの電報が私の差し金だと思われはしないかと気にかかる。むろん、そんなことはしていないのだが。
 家具以外こまごましたものは残らず梱包した。家はがらんとして、殺風景もいいところだ。さしあたって大きな家具は韓に見張ってもらうことにしよう。荷造りしたものも。

 委員会の報告には公開できないものがいくるかあるのだが、一番ショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと3万もあるということだ。いままで毎日200人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は、下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。
 食べ物が乏しい中で、アメリカ人の友人が次々と送別会を開いてくれるのに感激している。今ミニ・ヴォートリンさんが来て、別れの茶会に招待してくれた。南京が最悪の状態だった昨年12月、女性の難民を400人引き連れて、金陵女子文理学院に避難させた女性だ。あれを見て以来、私はこの人に深い敬意を抱いている。
 イギリス大使館のジェフリー氏が今日、2月22日出航の太古公司の蒸気船万通号か、又は2日後のイギリスの砲艦エイフィスで上海に行けるよう、イギリス海軍に頼んでくれると言った。しかも、日本大使館が認めた使用人なら一緒に乗せてくれるというのだ。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月15日 火曜日
 春の小鳥たちがやってきた。私の部屋では「迎春花」が開花しかけている。
 今朝は避難民たちに新聞や雑誌を図書館の屋根裏へ戻してもらっている。屋根裏をきれいに片付けると言うあの仕事はすべて無駄だったのだ。屋根裏を戻すのは、新聞や雑誌で前を塞がれている本箱を利用できるようにする必要があるからだ。後刻、李さんと私は、より有効な屎尿処理方法を考え出そうと、中央棟の裏手で一時間ほど過ごした。壕が屎尿で次々にいっぱいになっている。どこもかしこも屎尿だらけだ。それは、私たちを悩ます果てしのない問題となっているが、みなの話では、ここの収容所はほかの収容所よりもこの問題をうまく解決している、と言うのだ。すぐに石灰を手に入れなければ、私たちはみな、夏が終わるまでに病気であの世に行っているだろう。・・・・・・


 南京防衛のためにどのくらいの数の中国軍将兵が犠牲になったか知りたいところだ。下関の周辺でおよそ3万人が殺されたと紅卍字会が見積もっているとの情報があり、また、今日の午後、燕子磯で「何万人もの兵士」が退路を塞がれてしまったー渡河しようにも船がなかったーと言う別の情報を聞いた。何とかわいそうに。
 2,3週間前に書いたことだが、たくさんの露店や喫茶コーナーや飲食コーナーが、雨後のたけのこのようにほとんど一夜のうちに上海路の両側に出現した。今日それらは同じように姿を消そうとしている。というのも、それらは、夜までにたたまなければ取り壊されるとの命令が出たからだ。お人好しの連中は、店をたたんで持ち去ろうとしているところだ。幸福人茶館が消えていくのを目にした。これらの店で売られている品物はほとんどが盗品であり、私たちの中には、安全区内での盗品販売は許可すべきではなかったと考える人もいた。道路をきれいにするために1,2ヶ月の間市の衛生局長になり、十分な数の苦力を指揮下に置きたいものだ。
 元南京郵便局長のリッチー氏が南京に戻っていて、郵便業務を復活しようとしているそうだ。私たちが外の世界とつながっているのは、砲艦を介してだけである。
 メリーと私は、木曜日にラーベ氏の送別ティーパーティを催すつもりだ。私の居間には8人しか入らないので、客は5人しか呼べないし、また、出したいと思っている茶菓については、何にもまして必要な材料がないのだが。
    
「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


9条がゆきわたった世界を。



Imagine,


A world filled with Article 9.


憲法9条は、日本という「国」のものではありません。
日本に住んでいる「人々」、つまりみなさん自身のものです。
そしてそれは、日本国民にとってだけではなく、すべての人類にとって重要なのです。
(アメリカ/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月14日土曜日

1938年 南京 2月14日

「南京事件」(笠原著:岩波新書)
2月14日・・・大本営、中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍の戦闘序列を解く
       (松井石根、司令官解任)
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月14日
脚気の患者が出たので、緑豆を100トン送ってくれるよう、上海に頼んでいた。豆は今日蒸気船の万通号で南京に着くはずだった。上海の日本海軍からは、船に積み込んで下関(シャーカン)で荷揚げする許可がおりていたのだが、南京の陸軍に申請したところ、案の定却下されてしまった。
 昼に上海のラジオニュースがこんなふうにいっていた。国際委員会がすんなり搬入できないのは、自治委員会と協力しないからだ。元々こういうことは自治委員会だけに許されているはずなのだから、と。
 南京で脚気が発生していることなど知らないと日本側は主張しているが、これは格別驚くことではない。ここの人たちの健康状態について全く無関心なのだから。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月14日 月曜日
 今朝は曇っていた。飛行機の爆音は聞こえなかった。農民の朱が来て、昨日午前一時に兵士がやってきたことを教えてくれた。7,8人がやってきて、ドアをどんどんとたたいたが、中に入れてやらなかった、という。あとで兵士たちは蘇の家の隣の楊の家へ行き、銃剣で無理やりにドアを開けて、「花姑娘」を出すよう強要した。「花姑娘」はいない、と言われると、彼らは腹を立てて銃剣を振り回した。その家の男たちの一人が、「咱們要報告」つまり「兵士が来ている事を通報する」と言うと、彼らは立ち去った。
 12時30分、いや、多分1時に洗濯屋の奥さんが私たちを呼びに駆けつけ、兵士が彼らの家に来ている、と言った。私たちが行ったときには、彼らはその前に立ち去ってしまった。
 30歳から40歳までで、洗濯婦として喜んで軍司令部に行くと言う女性は、午前中に1人しか見つからなかった。出入りの洗濯屋と店員が応じるところだったが、幸い、将校たちは彼らを迎えに来なかった。
 3時頃ビック王と一緒に「模範刑務所」へ出かけた。私たちの主な目的は、可能であれば、刑務所に一般市民がいるかどうかを確かめることだったが、たまたまたくさんの興味深い経験をした。雑踏する繁華街としてあなたたちが記憶しておられる北里門橋の一番奥の唱径楼は実に見るも無残だ。ここかしこで私たちは、自分の店や食堂に戻った勇敢な人たちー時計修理人、2人の食堂経営者、「焼餅」作りの職人ーに出会った。彼らの主な目的は、自分たちの焼け残った店や仕事場を守ることだった。街路にはほとんど人通りがなかった。すべての店が徹底的な略奪をこうむり、最高級の店は焼かれてしまった。事実上、商売は行われていなかった。少し東へ行ったところで1人の婦人(65歳)に出会った。彼女の話によれば、ほとんど2ヶ月間、昼間は自宅に帰っていたそうだ。初めのうちは、高価な物を手に入れようとして日本兵が略奪を働いていた。しかし、彼女が家にいたので、一般の人が、彼女の残っていた財産を盗むことはできなかったとのこと。そのあとすぐにある夫妻と息子が私たちを追いかけてきて、3人の息子が中国軍(日本軍の誤り?)に連れ去られたことを語り、妻は嘆き悲しんでいた。夫は、息子が帰ってくる可能性のあることを話して彼女を慰めようとした。だが、日本軍に拉致された人々は大部分が帰ってこないのが常であった。私たちが通り過ぎた2軒の家には日本人女性ー多分芸者ーがいた。
 「模範刑務所」に入っている一般市民についての報告を再確認してもらった後、ラーベ氏に会いに行き、刑務所にいる人たちの手紙や嘆願書を彼に渡した。彼らのために何をするのも容易ではない。というのも、方法を誤ると、彼ら全員の死を招くことになりかねないからだ。
 12月12日以来今日久しぶりに人力車を目にした。あれ以来これで2台めだ。人力車はみんなどこへ消えてしまったのだろうか。・・・・・・・・・・・

   
「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



ひとりひとりの安全を



大事にする世界を。



Imagine,


A world that values


the safety of each and every human.



政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が
大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。
政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。
私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に
平和をつくりたい。それが私の理想です。
(イラク/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月13日金曜日

1938年 南京 2月13日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月13日
今日、アメリカ大使館を通じて、さらに次のような電報受領通知書を受け取った。

   ジーメンス・香港       1937年12月1日
 上海の本社から、貴君へ届けるようにと、以下の電報を受け取った。「了承できず。即刻漢口へ向かい、社のためを第一に行動されたし」    香港支社

午後、平倉巷で礼拝。リンカーンについてのベイツの素晴らしい説教。リンカーンの言葉はいろいろな点でそのまま現代に当てはまる。1863年のリンカーンの宣言が読み上げられた。
 きょうもらった1937年12月1日の電報受領通知書のことだが、私は絶対にこの時の電報を受け取っていない。あのとき、これ以上の危険を避けるように、場合によってはドイツ大使館が南京から移動する時に合流するようにと、電報で助言してくれたのだ。その上私に、これからどうするつもりか知らせるようにいってきた。
 当時私は次のように返信した。
「私は、国際委員会の代表としてここにとどまり、20万人以上の非戦闘員の難民区の設立にかかわるつもりです。」
 この電報でわかるように、中国本社はそれを了承していない。だが繰り返すが、12月1日付けの電報は私の手には届かなかったのだ。・・・・・・・

 あのとき、私は会社の言う通りにしたつもりだった。だが、それが実は先方の意向に反していたことが今になってわかったというわけだ!

 とはいえ、あの時会社が私にどうするつもりかと聞いてきたのは、あくまでも身の危険を避けることを前提にしたうえだったのかもしれない。だが、一方では電報を受け取らなかったのは良かったとも言えるのだ。義理堅い私のことだ、土壇場で決心を翻して、ジャーディン海運社の船に乗り込んだことだろう。そうなったら、ここに残ったジーメンスの中国人社員やうちの使用人たちがはたしてまだ生きているかどうか大いに疑わしいと思っている。
 思いがけず木箱が手に入った。私の「老百姓」、つまり庭の難民の中に指物師がいて、そのつてで20個ばかりまわしてもらえたのだ。箱だけではない、わらもだ、土砂降りの雨の中、難民が数人がかりで、3000リットルほどのわらを遠く漢西門の前から運んできてくれた。荷造りは指物師が無償で手伝ってくれた。わらは全部でたったの2ドル。そうなのだ、貧しい人との友情もやはりなにかしら役に立つものなのだ。いや、それどころか、今度のように非常に役に立つこともある。板など、今じゃ市場ではまず見当たらないからだ。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月13日 日曜日
 今朝は激しく雨が降った。ついに重爆撃機の爆音が聞こえなくなった。咳が出て喉が痛いので、今日は家にいた。
 昨夜、真夜中ごろ4人ないし6人の兵士が私たちの洗濯場に近い農民朱の家に行き、激しくドアをたたいて「花姑娘」を要求したことが報告された。ドアを開けなかったので、最後に彼らは立ち去った。今夜その女の子たちが女子学院に戻ってくるのではないかと思う。
 午後三時ごろ将校2名、兵士1名、それに「傀儡協会」の中国人4名がキャンパスにやってきて、洗濯婦を4人見つけてもらえるか、と聞いた。30歳から40歳までの女性だ。報酬は米で支払うとのこと。彼らは、洗濯婦を迎えに明日の朝また来るという。それまでに何人かを見つけるために、できるだけのことはしよう。出入りの洗濯屋にも話したところ、彼は、夜に帰宅できるのであれば喜んで応じるとのことだ。妙な話だが、私が実験学校に戻る前に1人の女性がやってきて、その仕事をしたいと申し出た。私は、彼女が3人の兵士に強姦されたことをたまたま知っていた。間違いなく、彼女は勇気がある。
 ジョージ・フィッチが戻ってきているが、彼は、20万ドルの難民救援金の約束を取り付けている。問題は、どのようにすればそれだけの金額を賢く配分できるかだと思う。
 以前よりもたくさんの手紙と、同じくたくさんの包みが上海から届いた。友人たちは、私たちにとても親切にしてくれる。品物を買ってくれと頼むと、そうではなく贈り物をしてくれる。郵便局同然の仕組みがうまくまわり始めた。昨日私は、避難民のためにたしか20通の手紙ー大部分は上海の親族に送金を要請する手紙ーを送ったと思う。
・・・・・・
  
「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界を。



Imagine,


A world that instead of


preparing for war,prevents

war.




コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月12日木曜日

1938年 南京 2月12日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月12日
いよいよここからずらかるときが来た。ぐずぐずしちゃおられん。今朝7時に、張が天津出身の友達を連れてきた。馮(フォン)といってアメリカ人の家の留守番をしている男だ。かみさんが産気づいて三日になるというのに、まだ生まれないという。こんな嘆かわしい世の中だ、出てきたがらない気持ちもよくわかる。だがかみさんが危ないらしい。すぐ産まないと命にかかわる。そこで、こともあろうに私のところにやってきたのだ!
「だけど私は医者じゃないんだよ、張。産婆でもない。『市長』かもしれんがね。だからと言って知りもしない人間の子をやたらと産ませる義理はない。すぐ鼓楼病院に連れて行きなさい」
 すると張は言った。「ええ、おっしゃるとおりです。でもいっしょに来ていただかないと、困るんです。でないと病院に入れてもらえずに死んじゃいます。子どももです。いっしょに来てさえいただければ、それでいいんです。親子ともども助かります!」
そんなことってあるものか!
「まったく、どいつもこいつも・・・・・」
 かくして、私はつきあうことになった。すると、信じがたいことが起こった。私がその家に入ったとたん、男の子が生まれたのだ。母親は笑い、赤ん坊は泣き、みなは喜んだ。張のやつめ。またしてもこいつの言うとおりになった。しかも私はこの茶番劇に10ドル払うことになってしまった。お祝いをやらなくてはならないからだ。これが知れ渡ってみろ、破産してしまうじゃないか。なにしろ、町には難民が25万人もいるんだからな!
   
17時
 中国軍の空襲。空は一面爆撃機で埋め尽くされ、日本軍の防空部隊が必死で狙撃している。まったく当たらない。それでいいのだ。何しろ誰一人防空壕に入ろうとしないのだから。中国人は、祖国の空襲にはやられないと信じ込んでいる。


 今日の午後、フィッチが「親しくなった海軍軍人」と一緒に上海から戻ってきた。ソーセージやチーズ、インシュリン、それから郵便物をどっさり持ってきてくれた。なかにドーラの写真が一枚あり、ベルリンの新聞の切抜きが添えてあった。「南京市長ラーベ」を称えている記事だ。ああ、市長の年金でももらってのんびり隠居できたらどんなに良いだろう!
 南京陥落の直前、しばらく泊めてくれと頼みに来た人たちの中に国民政府の幹部が2名いた。私は承知した。2人はトランクいっぱい金を持っていて、うちの使用人に何かにつけてチップをはずんだが、その額ときたら、いくらなんでも程度を越えていた。
 国際委員会は、蒋介石から総額10万ドルの寄付を約束されていたが、実際には8万ドル徴収するのがやっとだった。だからこの2人に、国際委員会のための金はもう持っていない旨一筆書いてもらった。
 私がこんなことをした直接のきっかけは、ある日、書斎の机に5000ドルの札束を見つけたからだ。それにはメモが添えてあり、「哀れな人々を救う貴殿の誉れある行為に」とあった。
 私はすぐにそれを委員会に払い込み、2人に公式の領収書を渡した。2人ともちょっと驚いていた。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月12日 土曜日
 リンカンの誕生日だ。しかし、お祝いは何もしない。よい天気が続いている。
 ジョージ・フィッチが戻ってきている。今日アメリカ砲艦オアフ号で帰ってきたのだ。彼から是非情報を聞きたい。彼は、上海にいる私たちの友人からの荷物をたくさん持ってきたそうだ。
 4時から6時まで実験学校でパーティがあった。上海から届いたオレンジとポップコーンを食べた。F・陳さんの新しい息子の誕生日をお祝いした。赤ちゃんの誕生を知らせる手紙が汕頭から届いたのだ。
 6時30分、ジョン・マギーがいくつもの包みージョージ・フィッチが私たちに持ってきてくれた包みーを腕いっぱい抱えてやってきた。メリーは、初めての手紙をもらって大喜びだった。
 飛行機の活動状況から、爆撃が弱まることなく続いているのがわかるが、それ以外は、外の世界についてはほとんど何もわからない。午後、対空砲撃が行われた。多分演習だろう。ありとあらゆる噂が伝わってくるので、私たちには、蕪湖や杭州が日中両軍のいずれの手中にあるのかわからない。
 今日は日本人の訪問者はまったくなかった。
 2ヶ月ほど前から一般生物学研究室の実験台の上で暮らしている、2人の子持ちのとても魅力的な若い女性が相談にやってきた。彼女の話では、夫は上海に骨董店を持っているが、彼女自身はお金を持っていない。彼女は、このところずっとキャンパスで無料配給米に頼って生活している。彼女は、長い歴史のあるクエーカー系女学校の卒業生だ。彼女によれば、自分の家に帰りたい、そうすれば、彼女の家の近所には男が大勢いるので、兵士たちに悩まされることはあるまいと考えている、というのだ。彼女の帰宅については、何が起こるのではないかと、いささか心配だ。
 
 
「Imagine9」【合同出版】より




想像してごらん、



女性たちが



平和をつくる世界を。



Imagine,



A world where



women create peace.



戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を
果たす事ができます。
(アメリカ/先住民女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月11日水曜日

1938年 南京 2月11日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月11日
今日、委員会の苦力、銭は歩いて故郷の村に帰っていった。ここから3時間の道のりだ。銭の家族はまだ生きているだろうか。無事に会えただろうか。心配でたまらない。郊外ではまだかなりの人が殺されていると言う話だ。
 たった今、またもやこんな知らせが舞い込んできた。1人の兵士がある家に押し入った。天谷少将によれば、その素晴らしい軍紀によってつとに名高い日本軍の兵士が、だ。その家には母親と2人の娘が住んでいた。娘を強姦しようとしたが抵抗され、そいつは3人を家に閉じ込めて火をつけた。娘の1人は焼き殺され、母親は顔にひどいやけどを負った。この件を調査しなければ。
 シンバーグから聞いた話はもっとすさまじい。だが今度は中国人の話だ。同郷の1人が隠し金を持っていると睨んだ4人の中国人が、その男を縛り上げて火あぶりにして、金のありかをはかせたという。
 とにかくここはアジアなのだ!そう言い聞かせてはみても、こういう胸の悪くなるような残虐な話を次から次へと聞かされると、祖国が恋しくなる。
 上海から良い知らせだ。緑豆を100袋送ったとのこと。鼓楼病院が脚気の治療にと頼んでいたものだ。
 張は板を探しに行った。まだこまごました品物がたくさん残っている。できるだけ多く送りたいので、木箱を作らせるつもりだ。南京を再びこの目で見ることができるかどうかなど、誰にもわかりはしない!カルロヴィッツ社にもう1箱空き箱があるというので、シュペアリングがこっそり取ってきてくれるという。


 13時
 ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。まだ荷造りが終わっていないのが残念だ。そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。
 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。ローゼンは、上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも1本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚えがある。そのうちの幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人たちも写っていた。


 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月11日 金曜日
 郵便物は午後4時までに大使館に持って行けば、上海に届けてもらえる。
 陽光溢れるうららかな一日だった。春はもう遠くはない。今朝は頻繁に重爆撃機の爆音が聞こえてくるが、手や足を失った何百人もの兵士が、看護をしてくれる医師も看護婦もいない状態で、徐州府の近くの塹壕や戦場に取り残されている情景しか目に浮かんでこない。障害をこうむった痛々しい肉体が死によって苦痛から開放されるまで、彼らは塹壕や戦場で苦しみ続けることであろう。気の毒な人たち!現在、大学で安全に勉学している男子学生がこれらの負傷者の叫びを聞き、彼らを援助することを自発的に申し出てくれることを念じてやまない。学生たちなら、大きな働きをすることができるだろうからだ。私たちは、ヘレン・ボートンの安否をとても気遣っている。彼女の拉致についての新たな情報は入っていない。外国人が2,3人しかおらず、安全区が設けられていない蚌埠や懐遠の状況はいったいどうなっているのだろうか。合肥は戦場のただ中にあるに違いない。私は、そこにいる友人たちに絶えず思いを馳せている。彼らの備わっている以上の力と勇気を神が彼らにお与えになりますように、そしてまた、多くの人々を庇護し励ますために、彼らが活かされますように。・・・・・・


 アメリカ大使館でのことだが、大量の石炭が運び込まれているのを知った。漢西門の近くの石炭業者の1人は、いまだに在庫石炭を略奪されていないらしく、今後の略奪を防ぐため、アメリカ大使館に、それを引き取ってくれと頼み込んだ。悲しいかな、南京では1つの競争ー誰が先に米と石炭を手に入れることができるかを予見する競争ーが行われているのだ。
 ブランチと会うため、午後5時に病院へ行った。彼女は三等病棟にいたが、ひどく痛がっていた。病院は満員だったが、医師や看護婦の数は、気の毒なほど少なかった。外国人医師はいまなお2人だけ、それに、中国人医師が2人いるだけだ。
 私たちが兵士に悩まされているかどうかを確かめに、午後2時30分ごろ、アメリカ大使館の警官と憲兵2人が訪ねてきた。彼らは、避難民の数についても質問した。そういうわけで、私は、上述のことが彼らの来訪の真の目的なのだろうか、と疑問に思わざるをえなかった。一時は一万人もいたが、今は3000人ぐらいしかいない、と答えると、彼らは納得したようだった。
 
「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、

基地をなくして緑と海を

取りもどしていく世界を。


Imagine,

A world that gets rid of

military bases and reclaims

the forests and the oceans.


森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月10日火曜日

夏さんからのメッセージ!!

「ラーベの日記」1月29日に出てるのが夏さんの記事だ。
・・・マギーが8歳と4歳の少女を見つけた。親族は11人だったというが、残らず残忍な殺され方をしていた。近所の人々に救け出されるまでの14日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。・・・・

東中野氏が「『南京虐殺』の徹底検証」と言う本の中で史料に被害者として登場する「『八歳の少女』と夏淑琴とは別人と判断される」、「『八歳の少女(夏淑琴)』は事実を語るべきであり、事実をありのままに語っているのであれば、証言に、食い違いの起きるはずもなかった」、「さらに驚いたことには、夏淑琴は日本に来日して証言もしているのである」等と記載された。
 それに対して夏さんが名誉毀損と人格権の侵害で東中野氏と出版社展転社を訴えた裁判です。


■夏淑琴さんよりメッセージ ■


私の裁判が最高裁で勝訴したと聞き、とても嬉しいです。70歳過ぎに裁判が始まり、 私はもう80歳です。私はいつも心配していました。夢にまでみるほどでした。自分 が生きているうちに最終的な結果が出るのだろうかと考えていました。本日、ついに 勝利しました。
 私はここで、南京大屠殺紀念館の朱館長、談臻弁護士、呉明秀弁護士、日本の弁護団 に感謝を申し上げます。彼らは私の裁判のために多くの仕事をして下さりました。 私の、言われなき罪を洗い流すために、とても苦労したと思います。彼らはすごいです。 無実の人を陥れる日本の日本の右翼を見事に撃墜し、私の潔白を証明しました。勝訴を迎え た今も、私はやはりこう言いたいと思います。
私は偽の証人ではありません。私は南京大虐殺の生存者であり、真の歴史証人です。

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■ 朱成山館長(侵華日軍南京屠殺遇難同胞紀念館)よりメッセージ ■

 本日、皆さんよりお送り頂いた日本最高裁判所の夏淑琴名誉毀損裁判についての判決を読みました。裁判が最終的な勝訴を得たことを知りました。私は侵華日軍南京屠殺遇難同胞紀念館と南京屠殺史会を代表して、皆様に心から祝福を申し上げ、また皆様が苦労を惜しまず裁判にご尽力されてきましたことに心からの敬意を表します。
 夏淑琴名誉毀損裁判は、李秀英名誉毀損裁判に続く、南京大虐殺事件の被害者の名誉を守る裁判でした。更に言えば、南京大虐殺の史実を守る裁判闘争でした。
 日本の東京地方裁判所、東京高等裁判所、最高裁判所が均しく公正な判決を下し、喜び、安堵しました。この判決が、再度、南京大虐殺の歴史を否定することは許されないということを証明しました。
 夏淑琴さんの裁判の件では、皆様方は苦労を惜しまず南京へ来られ、聴き取りをされたり、夏淑琴さんの訪日、出廷のために心血を注がれました。皆様の崇高な理念、正義、被害者の権利を守るために尽力され、実際的な行動によって中日友好に貢献されたその行動に、心より感謝申し上げます。歴史を直視し尊重してこそ、中日両国国民の相互信頼、民族和解は堅固な基礎を築くことができ、共に平和な未来を構築できるのだと信じています。

館長 朱成山
2009年2月6日


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■ 談臻弁護士(夏淑琴名誉毀損事件弁護団補佐人)よりメッセージ ■

 2月5日、日本の最高裁判所が夏淑琴名誉毀損裁判について最終決定を出し夏淑琴は勝訴を獲得しました。この裁判の勝訴のために努力をされてきた日本の夏淑琴名誉毀損事件弁護団、支援団体の皆様に、江蘇法徳永衡律師事務所一同、熱烈な祝福を申し上げます。
 夏淑琴名誉毀損東京裁判は夏淑琴名誉毀損南京裁判と同様、重要な現実的意義、歴史的意義があります。このたびの勝訴は、法的側面から言えば、より一層、史実が守られることになりました。淑琴さんの名誉を守ったばかりでなく、亡くなった南京の30万の同胞の魂にとっても慰めとなりました。政治的側面から言えば、このたびの勝訴は東中野修道及び日本の右翼が南京大虐殺を否定し、歴史を改竄するといった行為に対する有力な反駁、暴露です。
 このたびの勝訴は、中日双方の弁護団の協力が実を結んだ良き成功例です。
 私たちは共同努力によって、さまざまな障害を克服し、歴史に学び未来に向かい、正義を貫いて平和を愛し、中日友好の発展に貢献できるものと信じています。

夏淑琴名誉毀損事件弁護団補佐人 
弁護士 談 臻




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