2009年2月1日日曜日

1938年 南京 2月1日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月1日
 ラウテンシュラーガー氏あてに祝電を打つ件だが、ローゼンが反対したので電報は見合わせた。波風をたてたくない。ヒトラー全権掌握五周年記念祝賀会へ電報を打とうとしたのだが、ユダヤ人の血を引くローゼンは招かれていなかったからだ。だから、南京のドイツ人がみな祝ったとは言えない。
 右を向いても左を向いても、聞こえてくるのは中国人の嘆きばかり。家に帰ったはいいが、妻や娘が強姦されたというのだ。結局あとからあとから安全区へ舞い戻ってきた。また受け入れてやるよりほかない。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月1日 火曜日
かなりよく晴れた暖かな一日だった。またまた飛行機が飛んでいる。大型機が北西方向に飛んでいる。今日は飛行船も飛んでいる。浦口付近上空だ。どういうわけでこんなに近いところを飛ぶのか合点がいかない。
 今朝9時から避難民のいる6つの建物で女子学院独自の避難民登録を始めた。というのも、避難民が家へ帰る前に彼らそれぞれの家庭についてもっと詳しいことを知りたいからだ。この作業を手伝ってくれる人がどの建物にもそれぞれ2人いる。作業を終了するには2日かかるだろう。王さんとフランシス陳が難民収容所所長会議に出かけた。私の代わりに王さんが出席するのが一番よさそうに思われた。その会議では、避難民をそれぞれの家に帰らせるという重要な問題について話し合うことになっているからだ。会議の大部分を通じ、家に帰ろうとした人々に対する暴行の報告が相次いだ。若い女性たちはどうすれば家へ帰れるのか、見当がつかない。それに、なぜ軍の責任者たちが彼女たちを帰宅させたがるのかも、私には理解できない。なぜなら、そんなことをすれば、たぶん、虐待や陵辱の話がいちじるしく増えるだろうからだ。会議の出席者たちは、軍の高官が参加するのだから、帰宅の期日を延期してもらうことはたぶん可能だと考えていた。
 ちょうど正午前、ある女性(39歳)が6時30分(ママ)に、彼女の悩みについて相談しにやってきた。今朝のことだが、彼女は、彼女と同じ家で働いている男性に、多分、家の品物が残っているだろうから、それを取りに(いっしょに)行ってくれ説得した。彼女は5人の兵士に捕まって強姦され、男は平手打ちされた上に9ドルを奪い取られた。彼女の夫は12月27日に拉致され、まだ戻ってきていない。この女性が私の執務室から立ち去ったすぐあと、57歳の別の女性が入ってきた。彼女と彼女の夫は日曜日に帰宅したのだが、夫が家から無理やり追い出されたあと、2人の兵士が彼女を陵辱した。女性たちは、自分から進んでこういった話はしない。そうしたことの恥辱をあまりにも深刻に感じているからだ。若い女性に家へ帰るようにと、どうして言えようか。キャンパスの端から端へと歩いて行くたびに、いつものように今日もまた一団の女性が集まってきて、キャンパスにずっといられるように取り計らってほしいと懇願した。彼女たちのことを思うと、何と心が痛むことか。
 今朝、ジョン・マギーに車を貸してもらい、メリーと程先生がクリスチアナ蔡の家に2人の老人を連れて行った。彼らが、その古びた立派な邸宅の残存部分を被害から守ることができるかどうか確かめるためだ。その家はすでに、ひどい略奪をこうむったあとだったが、比較的にずっしりしたマホガニーの家具が何点か邸内に残されていた。1時30分、ブランチ呉と一緒に、市の東部にある国立中央研究院へ出かけた。そこは、何と気を滅入らせる光景だったろう。いたるところで住宅や店舗はすっかり焼き払われ、略奪をこうむっていた。あたりには兵士以外はほとんど誰一人見かけなかった。研究院では主要な建物のうち3棟焼かれてしまい、目にしたのは、長年の努力の結実である立派な植物標本の焼け焦げた残骸だった。生物学研究棟は略奪を受けていたが、しかし、焼けてはいなかった。私たちは平(音訳)博士の研究室に行き、残されていた研究資料らしいものを集めようとした。私たちは、年輩の信頼できる人を何人かそこへ出向かせ、管理人として、残された資料を保全してもらうつもりだ。私たちが帰ってくると、そのあと程先生とメリーが再び出かけて行った。今度はメリー陳の家だ。何たる光景であろう。あらゆる物が略奪され、損壊されていたのだ。長い歴史をもつ南京で何が春まで残るのだろうか。・・・・・・・・・


「Imagine9」【合同出版】より



世界は、

9条をえらび始めた。


・平和を探ることが人類の進化だと思います。
私たちが本気になって平和を模索しなければ、いろいろな問題は改善されるどころか、悪化してしまいます。
(アメリカ、40代・女性)

・日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私はとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。(ベルギー、40代・男性)

・日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。
(インド、50代・女性)

・私の地域では、たえまない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。(レバノン、20代・女性)

・武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。私の国、コスタリカは武器をもたない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常に素晴らしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
(コスタリカ、60代・男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



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2009年1月31日土曜日

1938年 南京 1月31日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月31日
 中国の新年。使用人や従業員の祝日だ。難民が庭できちんと整列して、3度お辞儀をしてくれた。中には若い娘さんもたくさんいる。おかげで守られ、救われたと言って、誰もが感謝してくれるが、あいにくまだことは片付いていない。難民たちから縦横3×2メートルの大きな赤い絹の布を渡された。何か中国語で書いてある。感謝状ではないだろうか。
 張に渡すと、応接間にうやうやしく張りめぐらしたのでぎょっとした。中国人の客が何人か、神妙な顔つきでその前に立ち、中の一人が英語に訳してくれた。
「ラーベさんはあまたの人間にとって生ける仏です」
 ちゃんと聞いていたわけではないが、こんな風なことを言っていた。これではいくらなんでも誉めすぎだ。・・・・・・・・・


 あなたは仏様のような慈悲と勇気をお持ちです
 あなたは幾千もの寄る辺なき民をお救い下さいました
 どうか天の恵みが授けられますように
 あなたに幸福と神の祝福が訪れますように
           収容所難民一同

 こんな深刻な時代でさえなかったら、この感動的な献辞は笑い飛ばしたいところだ。 
 まだ「市長職」を退いてさえいないうちから、生き仏にされるとは!そんなことはともかく、爆竹のにぎやかな伴奏つきのこの贈り物をうかうか喜んではいられない。2月4日が、この人たちがここから追い出される日が、すぐそこまで来ているのだから。それでも私はドイツ国旗を見せれば最悪の事態は避けられるのではないか、という希望を捨てきれないでいる。
 神よ、神はどこにおいでになるのですか!果てしない日本人との闘いに、くじけてしまいそうです!


 今、張が知らせてきた。うちの収容所にいる24歳の娘さんが暴行されたのだ。今日の午前11時。場所は広州路46号。元住んでいた家だ。叔父が日本軍の指示で家に戻ったので、昼食の支度をしに行った矢先の出来事だった。銃剣を手にした兵に、命が惜しければ体を許せと迫られたという。
 6週間もの間、わが家の前にうち捨てられていた中国兵の死体が、ようやく埋葬されたと聞いて、胸のつかえがおりた。



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月31日 月曜日
 邪悪な精神を追い払い、幸運の新年を迎え入れる力を爆竹が持っているとすれば、くる年は、間違いなく、大いなる幸福と恵みの年となるだろう。早朝、まだ明るくならないうちから爆竹が鳴り始めた。一発ずつではなく、騒々しくめったやたらに炸裂し、その音はほぼ午前中ずっと続いた。・・・・・
・・・「新年が平和な年になりますように」と、深い意味を込めて挨拶したらよいのではないかと思った。
 午後、女性と子どもたちの集会のあと、庭師と私は農家へ出かけて行った。去年、とても見事な切花を売ってくれた農家の人に、腊梅の小枝を分けてもらえるかどうかを聞きたかったのだ。キャンパスの西の道路を北方向へ行った。途中、埋葬されていない2体の死体のそばを通り過ぎた。一体は12月中旬から放置されたままになっている。道路の西に広がる田園は真正の無人地帯で、生活が営まれている形跡は全くない。小さな家はことごとく窓に板が打ちつけられ、戸口は、横木を渡して開かないようにしてあった。寺院地区まで来ると、そこはあまりにもさびれ果てていたので、腊梅の切り花を手に入れるためとはいえ、そこを通って少し先の農家まで行く勇気は出なかった。そういうわけで、私たちは引き返すことにした。キャンパスのすぐ近くまで戻ってきてから丘に上った。3人の男の死体がいまだに転がっていた。私は、12月16日ごろ、彼らが射殺される際の銃声を耳にしており、その死体は、私の目には民間人のように見えた。庭師は彼の家に着くと、湯気の立っているチキンスープに卵を落とし、しきりにそれを私に勧めた。彼もきっと、(パール・バックの)『大地』のなかに描かれている人物なのだろう。勤勉な中国農民の典型であり、土にすっかり慣れ親しんでいる。
 キャンパスに戻ると、いくつかの少女のグループが私を取り囲んで、避難民の帰宅期日として「傀儡協会」が設定した2月4日以後もここに置いてほしいと懇願した。彼女たちは何という窮地に直面しているのだろう。

「Imagine9」【合同出版】より


世界は、

9条をえらび始めた。



・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)

・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)

・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)

・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)

・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年1月30日金曜日

1938年 南京 1月30日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月30日
 委員会としては気にかけていることを書いてローゼンに渡し、日本側にかけあってくれるよう頼んだ。とはいえ、これでよくなるという希望を抱いているわけではない。なぜなら、ローゼンは日本人にとって必ずしも好ましい外交官ではないからだ。いや、むしろその逆だ。けれども、いずれにせよ、2月4日に難民を強制的に立ち退かせる計画をやめさせるよう、できるだけのことはしなければならない。そうなると、結局ローゼンということになる。なんといっても私はドイツ人なので、やはりドイツ大使館を通じるのが一番だからだ。
 わが家の収容所はまたもや一面の泥沼になってしまった。2日間にわたってかなりの大雪になり、今その雪が溶けているのだ。難民たちはしょんぼりしている。2月4日にはここを立ち退かなければならない。600人がすでにそう覚悟を決めている。大半はここからそう遠くないところに住んでいるので、万が一の時はすぐに戻ってこられるだろう。
 中には百人ほど、特に貧しい人たちがいる。その人たちのために、韓と私の2人でささやかな募金をして、百ドルかき集め、一人一ドルずつ配ることができた。みな大喜びだった。
 貧困はすさまじい。それなのに明日は中国の新年(旧正月=春節)、中国人にとっての最大の祝日だ!わが家の収容所は比較的小さいのだが、新年の餅のための調味料代として委員会から5ドルの特別手当があった。600人にたったの5ドル。残念ながらこれ以上は出せないのだ。だがこれだってないよりはましだ。その上、一人当たり米をもう一カップ(内緒で!)配った。日々の割り当ては、かわいそうに、たった2カップしかないのだ。・・・・・・・・・


 午後4時、漢口路で大勢の中国人に車を停められた。50人はいる。聞けば女の人が日本兵に連れて行かれたという。どうか助けてください、とかわるがわる訴えている。薛家巷4号の家に入っていったというので、そこまで案内してもらった。
 中に入ると家中くまなく荒らされていた。床一面ありとあらゆる破片で足の踏み場もない。部屋は開け放しで、そのうちの一室には棺桶が安置されており、わらだのがらくただのが散らばっている隣の部屋でまさにことが始まろうとしている。間一髪だった。
 私はそいつを玄関へ引きずり出した。大勢の中国人と、ハーケンクロイツがついた私の車を見て泡を食ったらしく、やつは近くの瓦礫の中へいずこともなく姿を消した、中国人たちは家の前でなにやらぶつぶつ言っていてなかなか帰ろうとしない。こんなところでぐずぐずしていると別の日本兵がやってくるぞと言うと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 16時半・・・平倉巷での礼拝。
・・・・・・・・・・・・


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月30日 日曜日
 今日は飛行機が飛ばなかった。
 旧正月の到来を告げる爆竹の炸裂音が時折聞こえると、思わずはっとする。ごく最近まで銃や銃剣が支配していたのだ。
 今朝の礼拝は出席者があまり多くなかった。人々は自宅で本当に旧正月の準備をしているのだろうか。女子学院から金陵大学にかけての通りは、群衆でびっしり埋まっている。
 午後の礼拝は参加券の所持者を対象とし、クリスチャンの女性またはミッションスクールに通っている少女だけで行われた。南音楽教室は満席の状態だった。「新年を迎えるにあたって」と題して婁さんが素晴らしい話をした。家にではなく心に新年を迎える、と言う話である。・・・・・・・・

 メリーが平昌巷3号での英語の礼拝に行く番だった。彼女は、私たちの郵便物を積んだイギリス砲艦でジョージ・フィッチが昨日上海に向かったことを知った。彼は、南京を出ることを許された2人目になる。私たちもフィッチについて、上海の合同教会の礼拝に出かけた情景を想像してみると、南京に夫のいる女性たちが南京の情況を知りたいと真剣に彼に懇願する様が思い浮かぶ。彼は、南京に戻ってきてよいとの約束を取り付けた。本当に戻れるだろうか?3号にいる人たちは、上海からの食料ーミルク、ベーキングパウダー、缶詰などー持っている。何週間も食べ物が乏しかったあとだけに、そこの料理人は、そうした貯蔵食料を手にしてどんなにか喜んでいることだろう。ケーキやクッキーなどは、それこそ何週間も口にしたことがなかったのだ。
 使用人のための今晩の礼拝は、大晦日の礼拝の形式で行われた。過去の罪の許しを請い、新しい未知の道を拓く力を授かるよう願う礼拝である。使用人たちの間には素晴らしい精神がみなぎっている。彼らは誠実であり、つらい仕事をしてくれる。
 国際委員会は、2つに分けて金銭を贈ってくれた。一つを、食べ物しか持っていない臨時使用人への心づけとして、残りの一つを、余分に全員の食料を買うのに使うつもりだ。豚肉の値段は一ポンド70セントしている。無料米グループに野菜と食用油を臨時に配給した。

「Imagine9」【合同出版】より


世界は、

9条をえらび始めた。


・平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願ってます。(オーストラリア、20代・女性)


・このグローバル9条キャンペーンに非常に感動しました。憲法9条を維持しようというこの草の根運動には、日本がアジアとの関係に誠意を持って向かっている姿勢がうかがえます。このキャンペーンに多くの日本人が賛同し、成功することを望みます。がんばってください!(韓国、30代・男性)

・憲法9条に賛同します。このような憲法があることで、私たちは、戦争のもついかなる攻撃性に対して共に、立ち上がるような地域社会の結びつきを強くしていくことができると思います。私たち一人ひとりのの協力こそが、最高の平和の武器だと思います。(ベルギー、50代・男性)

・日本のような歴史を持つ国が、憲法9条を広めようという行動をとることは、世界のほかの国々にとっての模範です。ほかの国々もそれに続くことを祈って。私たちに必要なことは平和への挑戦です。
(コスタリカ、20代・女性)

・日本国憲法第9条の改定に反対です。(ロシア、20代・男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年1月28日水曜日

1938年 南京 1月29日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月29日
プリドー=ブリュン・イギリス領事とフィッチが今朝9時にビー号で出発した。私の日記帳もお供した。フィッチが近いうちに戻れるなどと、誰も信じていない。日本人との緊張感は日増しに高まっている。委員会を解散して、新たに救済委員会を組織し、新しい自治委員会と協力するようにしたほうがいいかもしれない。目下真剣に検討しているところだ。
 日本軍と協力しようと私は口を酸っぱくして言っているが、アメリカ人は反対だ。委員会が賛成してもいないのに日本側と交渉するわけにはいかない。それに向こうが同意するかどうかも全くわからないのだから。ひょっとするともう遅すぎるのかもしれない。時機を逸してしまったのではないだろうか。
 そうかといって、脅した通り、日本軍が2月4日に難民を強制的に立ち退かせて収容所に入れ、この前の赤十字病院の伝で立ち入り禁止にしてしまったら、我々は手も足も出ない。
 ドイツ大使館は日本軍から覚書を受け取った。そこには、難民に対するさまざまな援助には感謝しているが、2月4日に収容所を閉鎖するように、とあった。私は会議を開いて、それぞれの大使館に次のことを確認、ないしは調べてもらうことにした。


1、日本は、外国人の土地、もしくは外国人の家にある収容所からも難民を立ち退かせることができるのか?(収容所のかなりの数がアメリカ人の土地にある。ジーメンス・キャンプといわれるラーベの収容所もその対象になる。ドイツ人の庭にあるからだ)
2、もっと多くの難民を受け入れても良いのだろうか?
3、我々の立場を明らかにするまで、各大使館に本件に関する日本側への返事を待ってもらいたい。


 マギーが8歳と4歳の少女を見つけた。親族は11人だったというが、残らず残忍な殺され方をしていた。近所の人々に救け出されるまでの14日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月29日 土曜日
今日は雪が降っているが、寒くはない。旧正月の準備が何のわずらいもなく進められそうだ。期待感が漂っている。値段は例年になく高いが、通りには食料品がいつもよりもたくさん出回っている。
 午前中、新たな手紙と、わたし用の『アトランティック』誌1月号の他に『クリスチャン・センチュリー』誌12月号数部も届けられた。アメリカからの私宛の郵便物はどこに行ってしまったのだろうか。私は、南京の郵便局を信用していない。
 今日は程先生、王さん、薜さんと私とで4時間かけて、国際委員会に提出できるよう用紙に所定事項を記入した。最も困窮している避難民たちが上海及び国外からの救援基金による援助を受けられるかどうかは、私たちの勧告いかんによるのだ。幼い子どもを持つ女性についての私たちの所見は、多くが次のように書かれている。「夫が戻ってくれば何の問題はない。戻らない場合は、3月1日から6月30日まで金陵女子文理学院が運営する職業訓練学校または家政学校に入学させる。」多くの女性については、中国西部にいる夫と連絡がとれるまで小額の貸付金を借りることを勧める。一部の女性については、再出発するための援助金として5ドルを全額贈与する。彼女たちの再自立をどのように支援したらよいか知るのは難しい。女子学院には社会学部があり、社会学の専攻者いればよいのだが。
 程先生と私は、野菜・食料油・米を材料とする、明日旧暦大晦日の夕食の無料米グループ向け料理について最終の打ち合わせをした。交付された資金でこうした食事が約10回分提供できるはずであり、健康維持に多少とも役立つだろう。
 今日は兵士にも将校にも会っていない。というわけで、状況が変化したことがわかる。
 以前、金陵女子文理学院で働いていた手伝いの女性が農村から出てきて、14歳と18歳の女の子2人を引き取ってほしいと懇請した。彼女の話では、農村地域での状況はいまなお非常に悪く、兵士たちがありとあらゆるものを持ち去り、若い女性たちはいつも危険にさらされているそうだ。外国人が南京城外に出ることはまだ許されていないので、彼女が責任を持って少女を変装させ、何とか連れてくることになる。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 午後、紅卍字会会長の張南武が私に話してくれたところによれば、同会は2000体を埋葬したそうだ。彼に、寺院付近にある焼け焦げの死体を埋葬してほしいと懇請した。彼らの亡霊が絶えず私の前にあらわれる。




「Imagine9」【合同出版】より



世界は、

9条をえらび始めた。



・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)



・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。(モンゴル、60代・男性)



・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)



・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。(中国、40代・男性)



・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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1938年 南京 1月28日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月28日
 フィッチが今日、何の前触れもなく田中領事から上海へ行く許可をもらった。イギリスの砲艦ビーで行き、6日後にアメリカの砲艦オアフで戻ると言っている。なんだか妙な話だ。証明書とか旅券、あるいはそういうたぐいのものを一切よこさないだけに、なおさら変な気がする。
 昨日の晩、福井氏に、フィッチのために上海へ行く許可をだしてもらえないかと言った時にはにべもなく断られたのに。ひょっとすると、昨日の件で、アメリカ人に対して弱腰になったのかもしれない。何しろアメリカと日本の間には、ここのところ、それからそれへと不愉快な事件が続いたから。昨日、アメリカ大使館の南京責任者、アリソン書記官が、なんと日本兵に横面を張られるという事件が起きた。直ちにこれはワシントンに報告され、今日、ロンドン発の最新ニュースとしてラジオが伝えたばかりだ。日本はアリソン氏に謝罪することはしたが、氏が日本語でけしからんことを言って兵士を怒らせたからだ、という立場をあくまでも崩そうとしない。
 それにしてもローゼンにも困ったものだ。昨日、一緒に街をまわった時、日本軍から配属された衛兵を連れて行こうとしなかったのだ。言葉を尽くして説得したがだめだった。この件はすぐに日本大使館に報告され、今日、私のところに次のような声明文が届けられた。
 南京にはなお平服の中国兵(便衣兵)がいる。日本兵は、疑わしい人物はすべて撃つよう、命令されている。それゆえ大使館員には日本人の衛兵が付き添い、保護することになっている・・・・
 おっと、ここで一言言わせてもらおう。もし本当にまだ便衣兵がいたとしても、絶対に我々外国人に手出しはしない。いまや我々が中国人を保護するために残ったのを知らない者はないからだ。
 難民収容所を2月4日に強制的に解体する、との通達。難民たちはいやおうなしに瓦礫の町へ戻らなければならない。泊まる所があろうがあるまいが知ったことか、というわけだ!惨憺たることになるのは目に見えている。だが、だからと言って手の施しようがないのだ。権力を握っているのは日本軍なのだから。



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月28日 金曜日
 午前中いっぱい飛行機がさかんに飛んでいた。死と破壊を運ぶ重爆撃機が頭上を通って北西の方向へ飛んで行く。私たちには、中国全土が破壊されていくように思える。どんな運命が濾州府に降りかかったのだろうかと再三案じている。
 午前中、外界に出す手紙を書いて過ごした。今夜9時30分までにアメリカ大使館に持って行けば、アメリカ砲艦オアフ号で運んでもらえる。夜はキャンパスから出ないことにしているので、5時30分までには出かけよう。まるで何年間もー実際は12月12日以来だがー夜間の外出をしていないような気がする。
 午後、安全区内の地区長会議が「傀儡協会」ー陳さんが使っている名称だが、あまりにも的を射ているので変える必要がなさそうだーの本部に召集された。日本軍将校一名が同席していた。発表された計画によれば、安全区の避難民は全員が2月4日までに帰宅し、安全区の街路に並ぶにわか露店はすべて同日以後は撤去しなければならない。城内の秩序は維持されることとされている。兵士が非行を働いた場合、通報に基づいて処罰できるようにする方策が練られてきた。兵士は制限区域に留まることとされており、私たちとしては、発表どおりにこれが実現することを切望している。
 城内の3つの慈善事業団体が、極貧の人々に米1000袋と2000ドルを配布することを計画している。私たちの要請に沿って女子学院には、無料米グループ向けの、つまり「赤札」グループ向けの野菜と食用油の調達費として200ドルが交付された。現在、このグループは、子どもを含めておよそ1000人を数える。
 午前10時ごろ、大きな封筒に入った郵便物が校門に届けられた。外国船で上海から運ばれてきたものだ。私たちは、友人たちの消息をどんなに渇望していることか。夕食後、程先生の居間で、私たち一同宛の手紙や、誰にとっても興味深いような手紙を読み、ちょっとしたパーティとなった。これまでのところ、外国郵便は全く来ていない。
 難民の中には、盲目の少女が4人いて、現在、彼女たちは程先生の寄宿舎で生活している。とても明るくひたむきな少女たちで、私たちが会いに行くのを待ち焦がれている。今では、足音を聞いただけで私たちだとわかるほどだ。土曜日の午後の礼拝に彼女たちを連れて行ったところ、それ以来、主の祈りの文章の意味を質問してくる。いつか彼女たちを上海の盲人学校に行かせることができるといいのだが。
 避難民家族を受け入れて以来、8時30分には電燈が消えるので、夜の長い時間はロウソクかカンテラの明かりで書き物をしている。安全区内のいくつかの地域では市の電力供給が復旧している。市営水道の給水も、少なくとも安全区内では再開されている。電話はまだ通じていない。
 夕方・・・・・・


「Imagine9」解説【合同出版】より


9条がゆきわたった世界

 「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
 「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人々が、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
 第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
 国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。
同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年1月27日火曜日

1938年 南京 1月27日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月27日
 今日は皇帝ヴィルヘルム2世の誕生日だ。ちょっとくらい皇帝をしのんだところでナチ党員であるということに傷はつくまい。私のように皇帝の時代に生まれた人間は、やはりそうすっぱりと忘れることはできない。ただし、私が懐かしんでいるのは皇帝ではなく時代だ。指導者としてはヒトラーのほうがいいと思っている。だが、よく言うように、思い出というのは心の奥底に染み付いている。皇帝の誕生日がめぐってくるたび、色鮮やかな制服に身を包んで喜び勇んでパレードをしていた人々の亡霊が現れるからだ。どの人もそれは誇らしげだった。今ではその誰もが、いやほとんどが土に帰っている。安らかに眠らんことを!

 ラジオ上海によると、フランス政府は、ジャキノ神父にレジオン・ドヌール勲章を授けることにしたそうだ。我々の経てきた道のり、15人ものメンバーが力を合わせ、艱難辛苦に耐えてようやく克服できた数々の困難を思うにつけ、この人が、一人きりでそれを成し遂げたと思うと信じられない気がする。叙勲も当然だ。
 今日、午前中にローゼンと車で東部地区をまわった。家という家は軒並み略奪されてがらんとしており、しかもそのほぼ3分の1が焼けていた。
 たった今、背筋が寒くなるような知らせが舞い込んだ。鼓楼病院の責任者マッカラムが、押し入ってきた2人の日本兵に銃剣で襲われ、のどをけがしたのだ。幸い命には別状ないらしいが、実にゆゆしき事件だ。直ちにアメリカと日本の政府に電報が打たれた。




「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月27日  木曜日
 今日は飛行機がさかんに飛んでいる。たくさんの飛行機が北西方向へ飛んで行った。その中には重爆撃機もあった。城内にはありとあらゆる噂が広まっていて、なかには、中国兵がすぐ近くに来ていると考える人もいる。十分な衣服をまとっていない兵士たちは、厳しい寒さの中で難儀しているに違いない。
 今日紅卍字会【こうまんじかい(1)】が、「赤札」グループ向け、つまり無料米グループ向けの野菜及び食用油の調達費として200ドルを女子学院に交付してくれた。旧正月の贈り物である。
 北東の寄宿舎の浴室を使って浴場を開設することを計画している。余分な仕事が増えることになるが、多くの人々に喜んでもらえるだろう。第一の問題は石灰の入手で、第二の問題は、信頼できる運営責任者を見つけることだ。
 「最初の一ヶ月を回顧して」を書き終えた。数え切れないほどたくさんの邪魔が入った。今夜は時間をかけて読み返すのは無駄のような気がする。
 膨大な量の盗品が安全区に持ち込まれているのは頭が痛い。最初のうちは安全区は人の生命を救ったけれども、いまや盗品の蓄蔵と販売のための退避所になっている。街路には小さな店や露店が立ち並んでいる。このことから察すると、「老百姓」は大胆になり、安全区外の住宅に軒並み押しかけ、彼らが売りたい物や使いたい物を持ち去っている。今日ソーン氏が話してくれたところによると、安全区のちょうど境界ぎわにある彼の家から、危うくドアが持ち去られるところだったそうだ。安全区への盗品持ち込みは禁止しなければならないが、そうするには、持ち込む中国人を上回る大きな力を安全区側が持っていなければならない。マッカラム氏は、中華学校からこれ以上物が盗まれないようにするため、目下、そこに要員を投入しているところだ、と言っている。これから先の数ヶ月間にどんなことが起こるのだろうか。というのも、海中で炸裂する爆弾によっていっさいの滓(かす)と汚物が攪拌されるように、社会のすべての邪悪分子が解き放たれたように思えるからだ。

(1)紅卍字会は「道院」という新興宗教団体の社会慈善事業実行機関である。紅卍字会南京分会には会員300余人がいて埋葬隊を組織、南京自治委員会から資金援助を受けて死体埋葬作業を行った。中国赤十字会(中国語では中国紅十字会)は紅卍字会と違い、日本の赤十字にあたり、本部は上海にある。外国人が国際赤十字委員会を組織し、中国人が中国赤十字会を組織するという関係にある。


「Imagine9」解説【合同出版】より



9条がゆきわたった世界

 みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年1月26日月曜日

1938年 南京 1月26日

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
1月26日・・・日本軍将校がアメリカ大使館員アリソンを殴打、外交問題となる(アリソン事件)

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月26日 
中国人兵士の死体はいまだに野ざらしになっている。家の近くだからいやでも目に入ってしまう。いったいいつまでこんなことが続くのだろう。信じられない。なんでもたいそうなお偉いさんが来るという話しだ。こちらの軍隊ではなく、陸軍省直属の将校だとか。是非ともこの混乱をおさめてもらわなければ。もう限界に来ている。


 この間一人の若いアメリカ人が、日本の衛兵に付き添われてやってきた。イギリス大使館に配属されているそうだ。英米合弁製材会社の膨大な在庫を日本軍に売りにきたという。この人から聞いたのだが、上海からここへ来る途中、はじめの50マイルで出会った人間は全部でたった60人ぐらいだったという。いまだに大勢が住んでいるのはもはや南京だけだと言っていた。上海と南京の間はどこも死に絶えたも同然だ、と。

 安全区を出て人気のない道を行く。どの家にもそのまま入っていける。ドアが軒並みこじ開けられているか、大きく開けっぱなしになっているからだ。そして、くり返しすさまじい破壊の結果をみせつけられる。なぜこんなに野蛮なのか、理解できない。
 いったい何のためにこれほどひどいことをするのだろう。ただただ訳がわからない。日本大使館の態度から、軍部のやり方をひどく恥じていることがずっと前からわかっているだけになおさらだ。何とかしてもみ消そうとしている。南京の出入りを禁止しているのだって、要は南京の実態を世界に知られたくないからだ。だがそんなことをしたところで、しょせん時間の問題だと思うがね。ドイツ、アメリカ、イギリスの大使館が再び外交官を置くようになってから、何百通もの手紙が上海へ送られているのだから。それには、ここの状況が克明に記されている。大使館が電報で報告しているのは言うまでもない。
 南京の中で、安全区は人々が生活していることを感じさせる唯一の場所だ。ここの中心部には次々と新しい露店ができている。朝早く、たいていまだ薄暗いうちに、人々は手元に残った品物を手当たり次第に引きずってくる。まだ、売り物になるもの。あるいは、なる、と思っているもの。そして、誰か買ってくれないだろうか、ときょろきょろするのだ。食べ物以外のものに使える金をまだいくらかふところにしている人はいないだろうか、と。群衆は押し合いへしあいしながら、この露店の立ち並ぶ街、常設市を押し分けて進んでいく。貧困と窮乏の支配する市を。米、小麦粉、肉、塩、野菜、タバコなど、生活必需品や嗜好品のその時その時の相場で物価が決まる。
 我々はドイツをはじめ、アメリカやイギリスの各大使館に頼んで、何とかして食糧を取り返してもらいたいと考えている。市内の倉庫にはまだ米や小麦粉があるはずなのだ。だが日本軍の手に渡ってしまったので、取り戻せる見込みはきわめて少ない。
 我々の話を聞いた大使館の3人は、それはどうかな、という顔をして首を振った。たとえまだ残っているとしても日本軍は引き渡さないだろう。それどころか、何とかしてこれ以上補給させまいとがんばるに違いない。我々は彼らにとって目の上のこぶだからだ。厄介払いしたいに決まっている。一日一日と煙たい存在になっているのだ。そのうち、ぽいと上海に追い出されはしないかと、我々の方でもひやひやしている。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月26日 水曜日
 今朝再び爆撃機数機が西の方角に飛んで行ったが、その後、午後になって引き返してきた。どうやら句容から飛び立っているようだ。漢口、武昌、それに重慶のような都市のことも心配だ。
 今日キャンパスの避難民何人かが夜具がほしい、と言っていた。彼女たちの中には、自宅にずっととどまろうとした者もいたが、依然として兵士が押し入ってきて、夜具や「花姑娘」(若い娘)を要求しているのだ。一昨夜、王さんの弟と姑が寝具を奪われてしまった。水西門近くの自分の家で暮らそうとしている矢先のことだ。
 午前から午後の始めにかけて、「最初の一ヶ月を回顧して」と題する報告を書いていたが、やたらと邪魔が入るので、きちんとした報告が書けない。時としては一つの段落がまとまらないうちに3,4回も邪魔が入る。
 5時近くまで仕事をしたあと、思い切って金陵女子学院の西の通りへ散歩に出かけることにした。虎踞関という通りだ。家々はすべて戸締りされ板で囲われて、どの街路もほとんど人通りがなかった。やっと出会った人はアリソン氏の料理人の母親だった。彼女は、家の向かいの知人の家に寄寓している。兵士がやってくるかもしれないので、心配で自分の家に帰ることができないのだ。彼女は、残っているわずかばかりの物を「老百姓」(庶民)に盗まれないように見張りをしている。私は関邸ー明の第一代皇帝から関一族に与えられたものーを訪ねた。そこには、焼けて炭になった材木や黒焦げの瓦や煉瓦が一面に転がっている。年老いた管理人が挨拶に出てきて、火災原因について彼の推測を話してくれた。兵士たちが牛を盗み、料理するためにこの家に持ち込んだ。当然ながら、彼らは部屋の真ん中で派手に火を焚き、立ち去るさいにそれを消さなかった、というのだ。焼けこげた材木と牛の骨は、管理人の説明が真実であることを証明していた。こうして、興味深い史跡がまた一つ消えてしまった。
 廃墟からの帰途、知り合いの女性に出会った。彼女は私に、揚沟の池に多数の死体があることを知っているか、と尋ねた。そのことは多少聞いて知っているので行ってみたい、と答えると、同道しよう、と言ってくれた。しばらくして彼女の夫に出会い、彼が、私と私の使用人を案内してくれることになった。私たちは問題の池を見つけた。黒焦げになったたくさんの死体が岸辺に転がり、灯油かガソリンの空き缶2缶が死体に混じっていた。死人の両手は、背中の後ろで針金を使ってしばられていた。死体が何体あるのか、また、最初に機関銃で撃たれ、そのあと焼かれたのかどうかはわからない。だが、そうあればよいと思う。これ以外にも焼け焦げた死体は、西側の小さいほうの池におそらく20体ないし40体あった。履いていた靴の中には兵士の靴ではないものもあり、それらは一般民間人の靴のようだった。焼かれていない死体が丘陵地全体に見られる。


「Imagine9」解説【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


大事にする世界



 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。

 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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