2024年6月25日火曜日

第5章 平頂山事件の解決に向けた日中市民の取り組み

 








第5章 平頂山事件の解決に向けた日中市民の取り組み 

2006年5月16日の最高裁判所の決定で裁判は終わった。しかし、日中の市民は、2006 年6月5日の共同声明の精神に基づき、平頂山事件の被害者及び遺族が掲げる平頂山事件の解決のために、現在まで地道で粘り強い活動を続けている。以下、その活動のいくつかを紹介する。 

 

1  9・16撫順の式典に毎年参加・遺族との交流を続ける 

毎年9月16日には、撫順で「平頂山惨案記念式典」が催されている。平頂山弁護団と撫順から未来を語る実行委員会(その前身である「平頂山事件の勝利を目指す実行委員会」)は、2002年9月に開催された「平頂山同胞殉難70周年公祭大会」に招待されたときを皮切りに、2020年新型コロナ感染症のパンデミックで日本からの訪中が不可能となるまで、日本の弁護団・支援者は、毎年この式典に参加していた。 

また、この式典にあわせて、2005年から始まった国際学術シンポジウム(後述)にも参加して、撫順の関係者及び被害者やその遺族との交流も続けてきた。 

2016年9月16日には、平頂山弁護団と撫順から未来を語る実行委員会の井上久士駿河台大学教授、大谷猛夫さん、通訳をお願いした向蕾蕾さんが、平頂山事件84周年の式典と第12回国際シンポジウムに参加して、周学良記念館館長、肖慶全前館長、傅波前社会科学院院長、王平魯社会科学院副院長など、旧知の親しい仲間とともに、翌年(2017年)の平頂山事件85周年の年に向けて幸存者の日本政府に対する3要求事項実現に向けてまた一歩前進できるようにお互い努力すること、私たちの20年以上にわたる平頂山事件の解決に向けた活動の記録を日本と中国でより多くの人たちに(特に若い世代に)伝えていくことが日中双方の課題であることなどを確認しあった。 

その翌日は、楊玉芬さんのご自宅を訪問した。幸存者としてはお一人になってしまった楊玉芬さんは、笑顔で私たちを迎えてくれた。楊さんは、「どこも悪いところはない。ただ年をとっただけ。」などと冗談を言ってみんなを笑わせた。思ったよりもずっと元気そうな楊さんに一同安心して、来年もまた必ず会おうと約束しあった。 

9 月 18 日に、日本側一行は、撫順から長春まで汽車で移動して王質梅さんのお墓参りをし、息子の張英夫さんら遺族と交流した。19 日には、2015 年 7 月に亡くなった方素栄さんのお墓参りをするために一行は空路昆明に向かった。方さんの夫の曲達さんや娘さん、息子さんから子豚の丸焼きをごちそうしていただくなど、大変な歓迎を受けて旧交を温めた。4 名の幸存者の墓前に平頂山事件解決を誓い、実り多い旅となった。 

 


2  平頂山事件国際学術シンポジウム 

平頂山事件国際学術シンポジウムの目的は、訴訟が東京地裁で2002年に国家無答責で敗訴し、原告らは東京高裁に控訴したが、2005年5月13日には東京高裁でも敗訴した。高裁判決の翌日(14日)には、「今こそ平頂山事件の全面解決を-平頂山事件高裁判決を迎えて-」と題するシンポジウムを開催し、原告3名が日本政府に対して求めている「要求事項」の実現を支援する運動を広げることを確認するアピールを参加者一同で採択した。一方で私たちは、平頂山事件の歴史研究が必ずしも十分に進展していない実情にも直面していた。 

平頂山事件の根本的な解決のためには、平頂山事件に関する歴史認識を日中両国の民間でしっかりと定着させることが不可欠である。幸存者たちの要求事項の 3 番目は、「平頂山事件の悲劇を再び繰り返さないために、事実を究明し、その教訓を後世に伝えること」である。特に日本では、まだまだ平頂山事件の事実が十分に知られてはいない。平頂山事件の解決のためには、平頂山事件の歴史研究を進展させることが課題の一つであった。 

このように、平頂山事件の幸存者らの解決要求実現に向けた取組を強化することと、平頂山事件の歴史研究活動を進展させることを目的として、第 1 回目の国際学術シンポジウムが 2005 年に開催され、2018 年まで毎年 9 月に撫順で開催(2008年は東京の早稲田大学で開催)されてきた。その内容をいくつか紹介する。 

(1)2015年学術シンポジウム

駿河台大学教授の井上久士さんが、残された写真から責任の所在について論究した。平頂山事件の当日、川上中尉は現場にいなかったとして、井上少尉に全責任を負わせる論調があるが、この写真を見ると、川上中尉も映っていて、現場にいたことがはっきりする、ことに言及した。

続いて穂積剛弁護士が、この年の 5 月にドイツ・アウシュビッツを訪問して、ナチスドイツの住民虐殺との共通点などについて報告した。ナチスドイツは占領した各地で、住民虐殺をおこなっていて、そのなかの多くは被害者とその遺族が裁判を提起していて、平頂山事件とも重なる部分が多い。1943 年 6 月にギリシァのディストモ村での虐殺生き残り被害者が裁判に訴え、この被害者を支援しているドイツの弁護士・支援者とも交流してきたことを報告し、これも中国の被害者を日本の弁護士・市民が支援していることとも共通していることに触れた。

中国側から撫順社会科学院副院長の王平魯平頂山事件を世界に最初に報道したエドワード・ハンターについて報告し、シカゴトリビューン紙への報道をいかにおこなったかの調査についての報告をおこなった。ハンターは、日本軍の許可を得ずに潜入し、アメリカに記事を送信したことにふれた。また、傅波さんは、この国際シンポジウムの経過をふりかえり、その意義について、まとめの報告をおこなった。 

(2)2018年学術シンポジウム

川上詩朗弁護士から、この一年間に日本国内でおこなわれた実行委員会の連続講座のとりくみが紹介された。中央大学名誉教授の姫田光義さんから「撫順を世界記憶遺産に」という提案がおこなわれた。また、井上久士さんから「平頂山事件の実行者はだれか」という実証的な検証をした報告があった。虐殺を実行したのは撫順独立守備隊だと言われているが、200 人の守備隊のうち、100 人は他の場所にでかけていて、留守だった。守備隊の守りも必要なので、平頂山に出動したのは、40 名だけだった。この人数で 3000 人は殺せない。他の動員もあった。撫順の憲兵隊の動員があった。これは少人数だ。撫順市内の警察署から100 人が出動している。さらに撫順炭坑を守るための炭坑防護隊が組織されていて、ここにも動員がかかった。これは民間人だ。機関銃の引き金をひいたのは、これらの人々であった。これらは組織的・計画的におこなわれたものである、と井上さんは結んだ。中国側からの発表は、撫順の党史研究所の若い研究者・寇嘉慧さんが、満州国の時期、遼寧省で平頂山事件以外にも住民虐殺があったことを指摘し、10 人以上虐殺した事件のうち、20 の事件を調査し、日本兵の心理状況を分析する、という報告があった。 

(3)2020 年、2021 年オンライン交流会

2020年からは、コロナパンデミックの影響で日中の往来がかなわず、オンラインで、東京と撫順を結び交流会が開かれた。2020 年は、元国会議員の相原久美子氏、現国会議員の近藤昭一氏も参加し、実行委員会の福島豊さんから「平和のための戦争展のとりくみ」についての報告がおこなわれ、大江京子弁護士からは「2022 年の平頂山事件 90 周年までにとりくむこと」という提起があった。

平頂山事件惨案記念館の黄峰館長から、90 周年にむけてのとりくみとして、 ①展示のリニューアル、②中国各地の戦争記念館の代表を会してのつどいの計画などが提起された。 

シンポジウムの成果は、平頂山事件 80 周年記念事業のひとつとして、2015 年に「平頂山事件資料集」(柏書房)にまとめられ発刊された。また 2022 年 8 月には、井上久士駿河台大学名誉教授の研究成果が、「平頂山事件を考える-日本の侵略戦争の闇」(新日本出版社)にまとめられて刊行された。 

   

3  「『撫順』加害と再生の地から ~現代と未来を考えるシポジウム」
   (2008年9月13日 東京大学弥生行動) 

靖国神社への参拝を繰り返した小泉純一郎首相の退陣から3年が経ち、日中関係も好転の兆しが見えたのを受け、将来を展望し、平和で安定的な日中関係を築こうという思いで、『加害と再生の地から ~現代と未来を考えるシポジム』(2008年9月13日 東京大学弥生行動)を開催した。 

日中関係の将来を語るには、過去の戦争の歴史を風化させないことと、そこからの教訓をしっかりと掴み取ることが重要だ。タイトルの「加害と再生の大地から」は、撫順が旧日本軍による中国人大量虐殺事件「平頂山事件」の舞台となった「加害」を象徴する地である一方で、撫順戦犯管理所に収容された日本兵が人間性を取り戻し、日中友好運動に尽くすことになった「人間再生」の地であることから、つけられたものである。 

集会には、平頂山事件の幸存者王質梅さんが証言することになったため、マスコミの注目も高まり、会場いっぱいの260名が参加した。王さんは「敵国」日本に行って「無事に帰れるだろうか」と当初心配したという。しかし、帰国後に王さんと息子さんから来た「加害国の国民でありながら、被害国の被害者のために正義を主張し無私で誠実な、人を思いやる優しい心は私たちの被害者の気持ちを癒してくれました。とくにこのことを私たちは帰国後周囲の人たちに伝えています」という嬉しい手紙を頂いた。 


平頂山事件幸存者 王質梅さんの証言(通訳・藤原知秋) 

   <王質梅さんの略歴> 
 1921年撫順市平頂山で生まれる。平頂山事件当時11歳。事件で父,母,弟を殺される。自分も銃剣で背中を刺されるが奇蹟的に生き延びる。事件後,叔母の家に引き取られ,名前を代え,長春に移住。2005年9月,撫順市社会科学院の調査により,平頂山事件の生存者であることが初めて知れる。現在長春市在住。87歳。 

みなさんこんにちは。私は王質梅です(日本語で)。 

これから私は平頂山事件で体験したことをお話します。事件が起きたのは1932年。満州事変の翌年でした。そのとき、日本は東北三省を占領して、植民地化していました。当時、私は11歳でした。父親は李清寿、撫順炭鉱で働いていました。母は主婦でした。下に8歳、4歳の弟2人がいました。父親は病弱で、炭坑夫として過酷な仕事をさせられ、病気になりました。そのため炭鉱を止め、家族の生活はどん底でした。下の弟も病気がちで、4歳で亡くなりました。1932年9月16日の前夜、皆が寝静まった後、外で「殺せ!殺せ!」という声がして、私は怖くて、庭の長屋のような場所に隠れていました。 

翌朝、大人たちが、外が静かになったのを確認して私を呼びに来ました。後でわかりましたが、当時の「大刀会(抗日義勇軍)」が平頂山を通ったのでした。貯蔵庫の穴から上がって外の無事を確認したら、私たち一家も普段の生活をしようとしていました。ところが、朝の9時か10時頃、いきなり十数台のトラックに日本兵が乗って、銃を持ってきました。私たちに銃剣を突き付けて、村民を村から追い出しました。近所に病気のおばあちゃんが住んでいました。身振りで外に出ろと言われましたが、おばあちゃんは起き上がれなかったので、その日本兵は無残にもおばあちゃんを刺し殺しました。 

お父さんは隣のおばあちゃんが刺殺されたのを見て、私たちにも外に出るように言いました。私と弟、両親の4人で外に出ました。日本兵に銃剣で脅され、連れて行かれました。そこは落花生等を植えているところでした。後ろは山で、その山の前に大きな溝がありました。そこには、すでに大勢の人が集められていました。黒い布をかぶせた物があり、みんなは、「下で写真をとるのでしょうか?」と話をしていました。私たち村民が揃ったところで、日本人は座れと言い、私たちは地べたに座りました。そして「朝鮮人はいるか?」と聞かれ、村民の中の朝鮮人が出て行きました。 

しかし、まさにそのとき、黒い布が外されて機関銃が現れました。機関銃は扇のように私たちに向けられ、機銃掃射をしました。そして多くの人が倒れました。多くの人が裏の山に登り、逃げようとしましたが、その人たちも撃たれてボールのように転がり落ちました。私も後ろの山に逃げようとしましたが、お父さんに「伏せろ!」と言われたので、そのようにしました。私の隣で8歳ぐらいの男の子が、「お母さん!お母さん!」と泣きわめいていました。 

私は「静かにして!」と言ったけれど、その子は泣き止まず、結局銃で撃たれ、私の前で倒れました。しばらくしてその男の子が静かになり、その子の脳みそか血が私のところに飛び散りましたが、私はその子が死んでいるとは思いませんでした。その後もしばらく機銃掃射が続きましたが、やがて機関銃の音が止みました。それから、私は近くに日本兵がいることを感じてずっと静かにしていました。その後一人の日本兵が近づいてくる軍靴の音がしました。私は泣くこともしなかったのですが、その日本兵は私の背中を銃剣で刺しました。 

皆さん、想像してください。私は当時11歳で、それでも我慢して歯をくいしばっていました。私は息を飲んで痛みに耐えながら静かにしていました。周りには腹を刺されて、はらわたが飛び出た人もいて、そのむごたらしさは今でも忘れることはできません。 

日本兵は、生き残った人を銃剣で刺し殺していきましたが、私はじっとしていました。やがて静かになって、どこかのおばあちゃんの「日本兵はいなくなったから逃げろ!」という声が聞こえました。立ち上がって後ろを見たら血の海でした。お母さんとお父さんを捜そうとして、「お母さん、日本兵は行きました。うちに帰りましょう。お父さん、日本兵は行きました。うちに帰りましょう」と呼びかけました。でも死んだ人ばかりで、両親を見つけることはできませんでした。 

死んだ人の中に似ている人を見つけ、その服を引っ張って確認しようとしました。私は11歳で力もありませんでした。ようやくその服を引っ張ってその人を見ましたが、お父さんではありませんでした。結局、両親を見つけられず一人で逃げようとしましたが、11歳の子どもでしたので、誰かについて行こうと思いました。しかし周りは死体ばかりで、東西南北もわからないくらい。大人を見つけて、その人について逃げようとしましたが、最初に「逃げろ!」と叫んだおばあちゃんを捜しても見つけられませんでした。 

年配の男の人を見つけ、その人と逃げようと思いました。年配の男の人を追いかけて、死体の上を走りました。死後間もない死体は柔らかく、2、3回転んでしまいました。私はその年配の男の人を必死で追いかけました。その男の人も同じように銃剣で傷を受けていて、刺されたところから肉が垂れ下がり、走ると肉が飛び散っていました。その男の人と一緒に栗子溝という村まで行き、ある家の庭に逃げ込みました。その家の人から、「あなたたちはどうしてそんなに血だらけなのか」と聞かれました。私たちは平頂山村から逃げて来たと言いました。 

その家の人は「栗」という名の家で、そのおばあちゃんは私たちに話しかけてくれました。手も頭も血だらけだったので、体のどこかに傷があるのではないかと調べてくれました。頭についている白いねばねばしたものが何なのか調べたら、隣で死んだ子どもの脳みそや肉片であることが分かりました。おばあちゃんは私の背中の傷を見てくれましたが、薬はなく、台所の針を使って縫ってくれました。 

おばあちゃんは私に親族のことも尋ねました。母方のおじさんとおばさんがいると、言いました。「今は村に戻っても仕方ないので、しばらく家にいなさい。家にも2人の子どもがいるから、あなたも3番目の娘のようなものだ」と言ってくれました。おばあちゃんの家に3、4日間泊まりました。その家もまた日本兵が来るのではないかと恐れていたので、別のところに逃げようということになりました。その家はお金持ちの家だったらしく馬車があり、一家十数人とともに逃げました。人が多く私は馬車には乗れませんでしたので、歩いて逃げました。 

おばあちゃんの家族と一緒に闘山の広い庭付きの家に着きました。しばらくそこで過ごしました。その家では子供たちと遊んだりしましたが、私の家族のことを考えると、その家族の前で、あるいは夜、泣いてしまうこともありました。ある日、庭の果物を食べていたら、おばあちゃんが来て、「あなたのおじさんという人が来ている。本当にあなたの親族なら一緒に帰っていいが、違うなら売られてしまったりすることもあるから確認して」と言われました。その人は一緒に帰ろうと言いましたが、知らない人だったので、逃げ出して裏山に隠れ、日が暮れておばあちゃんの所に戻りました。今思うと、もう少しその人のことについて聞けばよかったと思います。おばあちゃんの家族と一緒に10日以上過ごして、その家族と一緒に栗子溝に戻りました。ある日、訪ねてきた老人が私のことを知っていて、「この子は李さんの所の娘だ」と言いました。父や母のことを聞かれました。親戚のことを聞かれたので、撫順におじさんとおばさんがいると話しました。その老人は撫順のおじさんとおばさんに私のことを伝えてくれました。おばさんが私を迎えに来てくれました。母方のおじさんも来て、やっと自分の親戚と会うことができ、抱き合って泣きました。私のことを連絡してくれた老人も、助けてくれた家族も、みんな泣いてくれました。 

その後おばさんの所に行きました。おばさんから、平頂山のことは絶対に話さないように言われました。姓も「李」でななく、おばさんの姓の「王」という名を使うように言われ、王質梅という名を付けられました。それからは「王質梅」の名前を使っています。おばさんの家で12歳まで過ごして、おばさんたちと一緒に撫順から長春に引っ越しました。おばさんの家も貧しいので、私も早く仕事をして家庭を助けようと、薬の包装をする仕事を見つけました。その後、日本の経営する丸善で働きましたが、平頂山事件のことは心の中に秘めて生きてきました。 

パネルディスカッション ―撫順・加害と再生の地から現代と未来を考える


パネリスト 傅波(中国撫順市社会科学院院長)
伊藤真(伊藤塾塾長 弁護士)
高橋哲郎(元日本軍兵士 元中国帰還者連絡会)
井上久士(駿河台大学教授 歴史学者)
司会  川上詩朗(平頂山事件弁護団)
通訳    張 剣波 ・ 藤原知秋 

報告1 -歴史学者の視点から- 井上久士 

井上久さん
駿河大学法学部教授。平頂山事件研究会代表。中国人戦争被害者の要求を支える会運営委員長。日本における平頂山事件研究の第一人者。

平頂山事件が起きた時期のことを振り返ると、それは1932年、昭和7年、ちょうど1 年前に満州事変9月18日が起きた時期でした。9月18日は日本の侵略戦争が起こされた日として中国では大事にされていました。まず満州事変がなぜ起こされたかです。あえて簡単に説明しようとすると次のように考えられます。 

 

関東軍・満州事変と抗日運動 

撫順には大きな炭坑があります。日本はこうした中国の資源を埋設している広大な土地、それを収奪するため中国を支配したいと思うようになりました。これらの動きが軍部を中心として出てきます。当時中国は国際連盟に加盟している独立国家ですから、これを切り離して日本が支配するというのは難しい。そこで謀略事件を起こして、自分たちが支配する満州鉄道を自ら破壊までして、自衛のためということで事変を起こし、その後広大な中国大陸を占領するに至りました。本来は朝鮮のように日本の一部にしようとしましたが、それはできなかったので、満州国が独立した形にして国際的非難をかわそうとしました。 

中国はこうした日本の動きに対して激しく抗議し、国際社会に訴えましたが、中国国民党政府はまだできたばかりで、中国政府樹立が優先され、日本と敵対することを控えざるを得ませんでした。これを非抵抗政策といったりします。しかし中国の国民感情としては、日本が中国の一部を占領してしまうということに対して、抗議したり反発したりして、自然発生的な抗日運動が起こりました。東北地方では、中国の政府軍はあまり抵抗しないということでありましたが、満州国ができることから、自然発生的な武力運動が起こってきました。これは非常に複雑ですが、政府軍の一部、地方部隊、在地の武装勢力、秘密結社の人たち、共産党系の人たちと様々な人たちが、日本に対する、または満州国に対する武装抵抗運動を起こし始めました。満州国ができるころになると、こうした人が30万人ぐらいいたと日本の資料にもあります。関東軍はそれを押さえなければならない。また満州国は国家なので、満州国の軍隊、警察も作りましたが、それは中国人が中心として作ったもので、関東軍は全然信用していないし、実際に弱いものでした。撫順が攻撃される8月ころ、満州国の中国人の警察が抗日ゲリラと通じているということで検挙されたりしました。日本は間接統治として満州を支配しようとしましたが、間接統治の当事者である現地の警察や軍隊は抗日の勢力と通じているかもしれないという疑心暗鬼が関東軍には強くありました。 

撫順は撫順炭坑があり、満州鉄道の付属地として日本人がたくさん住んでいました。昭和7年の夏頃から襲撃されるのではないか、といわれ噂が立ち、それに8月には現地の警察がゲリラに通じているということもあり、危ないといわれていた時の9月15日夜に抗日部隊が攻撃してきました。関東軍は警戒していましたが、市街地まで入られ、炭坑事務所は放火され、事務所長は殺害され、第2中隊が駐屯していましたが、大失態を招いたこととなりました。 

 

報復目的で行なった大量住民虐殺とその後の隠蔽工作 

これは何とかしなければならないということで、ゲリラと通じているということで、報復のためあるいは見せしめのため、抗日ゲリラが通った村の人たちを殺害しました。これは通常のゲリラに対する討伐作戦ではなく、単なる大量の殺人事件であり、軍規にも違反しているものでした。 これは本来軍規違反として日本で処罰されてもよかったといえます。当時の日本軍もまずいと思い、殺してしまったがなるべく知られないようにしようとし、死体に火をつけ焼き、上から土をかけて隠しました。当時の記録によると 130 人くらいの人が日本軍が引き上げたあと命からがら逃げ出したといわれています。この人たちが、周りの人に話す。当時炭坑で働いていた人も家に帰るとそれがなくなっているということでわかる。そして、その後この事実が中国の新聞に報道されることになります。 

国際連盟の代表であった松岡洋右は、この点を国際連盟で指摘され、わからないので現地に問い合わせるといって逃げました。後に、「そのような『交戦』がちょっとあったかもしれないが、これは住民を殺したのではなく、討伐をしたものであって、その行為を歪曲して非難することは皇軍の名誉を傷つけることとなる」と中国に伝えました。 

  

報告2-中国の視点から- 傅波 

こんにちは。本日このような機会をいただきうれしく思います。本日は時間に限りがあるので簡単に私の考えるところを話したいと思います。 


傳波さん
中国撫順市社会科学院院長。撫順市地方史学会理事長。中国における平頂山事件の歴史研究の第1人者であり、平頂山事件幸存者対日訴訟撫順市民声援団の団長として中国における支援の中心を担う。


平頂山事件訴訟の意義

1995,6年から私は日本の弁護団と協力して平頂山事件の証拠調査資料収集をしてきました。日本の弁護団の弁護士、平頂山事件の勝利をめざす実行委員会の人々は資料収集、裁判、集会と多くの苦労を重ねてきました。彼らは何十回も実地調査をし、被害者に会い、資料を収集し、集会に参加しました。彼らは正義の使者です。彼らはさらに多大な費用も費やしました。10年の訴訟は最終的には日本の裁判所によって不当な結果がもたらされ、ひどく私は心を痛めました。この判決は正義に反するものでした。日本政府は世界における地位向上のチャンスを失いました。しかし、一方で大きな実績を残す訴訟でもありました。原告は人格的に社会的に事実上正義と公正を勝ち取ったと思います。訴訟はその意味で大きな成果をもたらしました。 

 

1平頂山事件の事実が法的に認められた 

平頂山事件は1932年9月16日に起こり、そのわずか2ヶ月後に新聞メディアが報道しましたが、それにもかかわらず長年にわたり、中国では事件があった、日本ではなかったとの争いで終わっていました。70年の長い年月を経て、日本の裁判所がようやく判決という形でその事実を認めました。それは2002年6月28日の判決で認められたものです。70年という長い年月を経て事実が認定されました。ついに大きな一歩を踏み出したということができます。日本の裁判所が法的に平頂山事件の事実を認定したということで、今後の平頂山事件の解決に様々な道を広げました。 

 

2平頂山事件の真相が明らかとなり、正義が伝えられ、影響が拡大した 

10年間にわたる訴訟の中で、日中両国のメディアが注目し、たくさんの報道がなされました。人々は平頂山訴訟の結果に注目すると同時に、平頂山事件の大虐殺の事実を知ることができました。平頂山訴訟の中で大量の文字資料、写真、映像資料を残しました。 

この10年の間に、莫さん、楊さん、方さんらは十数回日本にきて法廷に立ち、また様々な集会にでました。本日も先ほど87歳の高齢の王さんがここで皆さんに話をして、日本兵の暴行を訴えました。王さんは嫌みを押しつけるためにきたのではなく、道義のため、日中の間で様々な友好をするためにきました。訴訟がなければこのようなことはありませんでした。 

 

3国境を越えた平頂山訴訟は、日中両国の学者の研究交流を促進した 

裁判を通して多くの研究者を結びつけることができました。2004年9月12日、撫順で両国の学者が参加する学術国際シンポジウムが開催されました。日本の小野寺弁護士、大江弁護士、井上先生、沖野さん、中国から私と肖さんらが報告しました。2005年から毎年連続して撫順で平頂山学術研究を行いました。昨日は東京でまた第4回の開催がありました。これらの学術シンポをとおして、両国で学者が学術研究を深めていきました。 

 

4平頂山訴訟を通じて日中両国民の相互の信頼と理解と友誼を高めた 

この10年の訴訟をとおして多くの日本の市民は平頂山事件が虐殺事件であることを理解しました。そしてますます多くの日本人の支援者がこれを支援することとなりました。それと同時に10年の訴訟をとおして、多くの中国人が日本における平和を求める人の力を確認することができました。この訴訟プロセスは両国人民の関係を深めるものでした。 

この訴訟のプロセスにおいて撫順市社会科学院、弁護士会、師範学校など、全力を挙げて弁護団の調査に協力してきました。特に2005年4月5日には撫順市市民声援団ができました。この裁判は正義を守ることに対して積極的な役割を果たしてきたと思います。平頂山の原告らは正義を守り公平を取り戻し侵略戦争に反対するという原則を堅持してきました。そのために平頂山訴訟は全世界の侵略戦争反対のなかの一つになっています。 

 

報告3 -元日本兵の視点から- 高橋哲郎 

元中国帰還者連絡会の高橋です。先ほど王質梅さんからお話を伺いました。この話を聞いて非常に胸を打たれたことが2つありました。 


高橋哲郎さん
 
元日本軍兵士。敗戦後、シベリア抑留を経て撫順戦管理所へ。56年には方素栄さんの話を聞 く。その後起訴免除となり帰国。中国帰還者連絡会(2002年解散)の最後の事務局長。

日本国民は日本軍の満州事変を後ろから支えていた 

私と王質梅さんは同じ年87歳です。王さんの平頂山における悲惨な恐怖に満ちた体験を聞き、当時11歳で私は何をやっていたのか、日本の片田舎で、満州事変を万歳万歳といって兵隊を送り出し、井上先生や傅波先生が抗日義勇軍のゲリラ戦と言われていましたが、当時の私たちは、満州は匪賊や馬賊が横行していて、それを日本兵が掃討討しているのであると思い、兵を送り出していました。日本の全国民が等しく日本軍の満州支配を後ろから支えていたのです。心から歓迎し、応援していたのです。私は王さんの話をお伺いして思うことは、私たちも国民もそれを支援し、平頂山事件に立った日本兵と同じことをしていたのではないかと思うのです。 

 

撫順戦犯管理所での生活 

私たちは戦争が終わって、シベリアの強制労働が終わり、シベリアから日本に帰れるのではないかと思っていましたが、撫順戦犯管理所に入れられました。それが1950年で、日本将兵と旧満州国の高級官僚たち969名でした。ようやく自分自身の中国侵略を自覚して、かつての自分たちの体験を反省し、時間をかけて見直すことができるようになったのは管理所に入って3 年くらいたってからでした。3 年間私たちは自分たちの過去のことについてはあまり考えず、不安のなかで遊びほうけていたと思います。その間の中国側の不思議なほどの処遇に私たちは胸をうたれました。部屋には冬はスチームが入り、強制労働もなく、一日三食ついていました。自由時間もあり、お風呂もあり、散髪にもいけました。 

それは私たちの想像を絶する待遇でした。私たちは、何か悪いことが起こるのではないか、と考えていました。969名は全員がかつて中国を侵略した者でした。その現行犯が我々でした。その処遇が非常に想像を絶するものだったのです。金源先生(当時の管理所の指導員)がおっしゃっていましたが、当初は私たちを管理している中国側の人も、どうしてあのように中国の同胞を殺戮した日本軍人をこのように処遇するのか悩んだそうです。そして私たち以上に勉強をしたということです。 

 

平頂山事件の被害者・方素栄さんの心情に触れて 

1956年春、私たちに社会見学という戦犯に対しては希な政策が行われるようになりました。私は一番最初の組で撫順の露天掘りを見学し、講堂で方素栄さんの話を聞くことになりました。通訳は崔仁傑先生(当時管理所の指導員)の非常にしっかりした通訳だったと記憶しています。 

先ほど王さんがおはなしになった体験を、方さんは当時28歳ですから、事件当時は4 歳くらいだったと思います。涙なしでは語れない思いだったと思いますが、悲痛な声でお話になりました。自分のおじいさん、両親、3歳の弟、赤ちゃんまで殺されてしまいました。方さんは返り血をあびたりしてようやく逃れた後も苦しい生活を強いられました。その時私は、既に35歳になっていましたが、被害者の中国人の生の声を聞くのは初めてでした。私だけではなく戦犯の全員がそうだったと思いますが、非常に強い衝撃を受けて頭が真っ白になり、何も言えずに管理所に帰りました。 

そして帰った後、平頂山事件とは何だったのか、何日も討論をしました。そして被害者の心情はこんなだったのだと初めて思い至りました。それまでは加害者の気持ちで討論をしてきました。しかし方さんの話で初めて被害者の心情を悟り始めたのです。このとき、私は被害者の心情が完全にわかったとはいえません。しかし、私たちはこういうことを引き起こしてきたのだ、私たちは中国全土で大中小の平頂山事件を作り出してきました。731部隊、南京事件、三光事件から毒ガス事件まで大中小の皆殺し作戦を行ってきました。私は、方さんの話を聞いて初めてその心情にふれることができたのです。 

 

天皇の命令、上官の命令なら何でもやらざるを得ないという考え 

当時は天皇を中心にした皇国史観に凝り固まっていました。学生時代に少しばかり自由主義的な本をかじったからといって、それは何らの行動も律することはなく、天皇教の呪縛の中で、その天皇の下の上官のいいなりになっていました。一貫しているのは軍国主義でした。天皇の命令、上官の命令なら何でもやらざるを得ないという考えでした。 

中国人の我慢強い教育のおかげで私は人間性を取り戻していったのです。学習を指導してくれた中国人に感謝しています。 

 

報告4 -憲法の視点から- 伊藤 真 

伊藤真さん
伊藤塾塾長。弁護士。法学館憲法研究所所長。司法試験の受験指導で多数の合格者を送り出すとともに、日本国憲法の理念を伝える伝道師として、各地で精力的に講演・執筆活動を行なう。


被害と同時に加害の事実も知らなければ9条の意味はわからない 

昨年、平頂山と撫順を訪ねてきました。私たちの塾では、合格者や塾生を連れて沖縄、韓国等を訪ねたりしています。法律家はまず事実を知らなければならない、という観点からそのようなことをしています。日本の戦争責任を考えるのです。以前、私は塾生たちに憲法の説明をする時に、憲法9条は、日本人が被害者となり、またアジアの皆さんへの加害者となり、その結果生まれたと説明をしたことがありました。するとある塾生から「それは、順序が逆ではないか」と指摘されたことがありました。「まず加害者になり、その後で被害者になったのでしょう」というわけです。この塾生に教えられました。 

この時、被害と同時に加害の事実も知らなければ9条の意味はわからないと強く思いました。過去の事実に意味を与えることによって未来をプラスに変えていくことができると考えています。 

 

憲法9条の功罪・憲法9条はアジアに向けた約束 

2005年秋、自民党は新憲法草案を出しました。一番のポイントは9条2項を削除して、軍隊を持つ「普通」の国にするということです。そしてアメリカと一緒に軍事行動できるようにする、というのがこの改憲案の本質です。自民党はこの改憲案と同じ発想で、教育基本法、防衛省への昇格などの法律改正を行ってきました。 

憲法9条があるということで、戦後、直接日本が戦争に関与することはありませんでした。日本人が戦争で人を殺すことはありませんでした。9条によってアジアの平和に貢献したはずです。しかし、9条とともに安保体制がありました。戦争をしません、ということによって過去の加害の事実と向き合うことができなくなったのではないでしょうか。9条があるので、私たちは過去と向き合わなくても許してもらえると思ってしまったのかもしれません。しかし、9条を変えるというのであれば、「ちょっと待て、あなたたちには加害の歴史がある」と言われるのです。9条というのはアジアに対する約束です。憲法を変えるのは国民の意思で行うことができますが、9条を持つことでアジアの皆さんに私たちの国はこうあると宣言し、それを認めてもらってきたのであり、これは決して国内問題にとどまるものではありません。 

 

軍隊・戦争の本質・アジアの安全保障の方向性-平頂山事件から学ぶべきこと 

「侵略戦争は絶対もういやだ。侵略戦争は反対である」というのはとても大切です。しかし当時日本の国民は侵略戦争だとは思っていませんでした。後から侵略戦争とわかりましたが、当時の国民には侵略という意識はなかったのではないかと思います。どんな戦争も正義を語って行われます。侵略戦争は絶対しないという教訓として平頂山事件をみてはいけません。どんな名目であっても戦争はしない、という位置づけにしなければなりません。侵略戦争をしないだけでは足りないのです。軍隊、戦争というものの本質を平頂山事件から学ばなければなりません。 

たとえテロを撲滅させるためであっても、軍隊を持たない。軍隊を持つことは決して正義の実現にはならない。アジアの安全保障の方向性をこの事件から学ぶべきです。核をなくすにはどうしたらよいか、軍縮するにはどうすればよいか、そうでなければドイツの二の舞になります。ドイツは戦後補償をして隣国から信頼を勝ち得たのですが、その結果、再軍備をし、コソボやアフガンで空爆をしました。ドイツから学ぶこともありますが、ドイツを反面教師にしなければならないこともあります。 




 



 4  民主党有志国会議員の手紙と相原議員の訪中((2009年5月5日)   

2009年5月5日、民主党の相原久美子参議院議員が、平頂山紀念館を訪問し、平頂山事件幸存者の日本政府に対する要求に賛同する民主党議員有志の信書を幸存者らに手渡した。相原議員は、事件現場に献花をし、また陵園の一助となるよう植林を行った。国会議員の手紙が、幸存者に届けられたのは、初めてのこと。 



民主党24人の議員から平頂山事件幸存者への手紙 

 平頂山事件の幸存者の皆様へ 

私たちは日本の民主党に所属する有志の国会議員です。このたび、平頂山事件に取り組む日本の弁護士より、事件の経過および幸存者の皆様の日本政府に対する要求事項を聞き、ぜひ現地を訪問して直接お話しを伺うとともに、お詫びの気持ちを伝えたいと思いました。しかしながら、日本では国会が開会中であり、今すぐに一同で訪問することができないため、まず手紙で気持ちをお伝えすることにし、有志議員の一人である相原久美子参議院議員が代表してお届けすることになりました。 

1932年9月、平頂山地区において、旧日本軍が、多くの無抵抗の住民を虐殺した事件について、1人の人間として、また国民から選ばれた国会議員としても、心からお詫びを申し上げます。また、現在に至るも、日本政府が公式に謝罪をせず、幸存者および遺族の方々のお気持ちが76年もの間、晴れることなく経過してしまっていることに対しても、申し訳ない気持ちでいっぱいです。私たちは、真に安定した日中関係を築き上げるためには、戦後遺留問題の解決が不可欠だと考えます。平頂山事件は、いわゆる15年戦争の初期に行なわれた日本軍による住民虐殺事件であり、この問題の解決は、日中間の他の戦後遺留問題の解決につながることだと思います。 

私たちは、幸存者の皆様が日本政府に対して要求している3点について賛同することを表明し、また、皆様の要求事項が実現するように努力することを約束します。今年中に現地を訪れ、皆様と直接お話しをしたいと思います。幸存者の皆様、どうか健康に留意されて、お過ごしください。 

  2009年5月5日 民主党国会議員有志一同 

  

王質梅さんと息子の張英夫さんからのお礼の手紙 

尊敬する相原久美子議員、24人の衆参議員の皆様 

はじめに、平頂山事件の生存者として、皆様に心からの感謝を申し上げます。皆様の誠意と無私のご支援に感謝申し上げます。 

このたび皆様が平頂山を訪れてくださったことに、私は深く感銘いたしました。夜遅く来訪され、朝早く帰国されるという旅の疲れがありましたでしょう。それにもかかわらず、苦労をいとわず私たちのために正義を広め、公正な道理を求めるという皆様の精神は私を深く感動させました。 

幸存者として皆様に深く深くお礼を申し上げます。ありがとうございます。 

平頂山事件は消し去ることのできない歴史の事実であり、日本軍国主義が中国で犯した人間性を喪失した罪業です。彼らは、まったく武器を持たない一般の人々を虐殺して何らはばかるところがありません。彼らは完璧な死刑執行人です。今、その時のことを思い起こすと胸がどきどきして恐怖が収まりません。胸の内は憎しみと恨みでいっぱいになります。彼らは私の家族全員を殺しました。この憎しみと恨みは私の胸の奥深いところにあるのです。すでに77年が過ぎました。私は、日本政府に公正な道理を求めます。亡くなった同胞に対して罪を償うことを求めます。謝罪することを求めます。私に起こったこのような歴史を民族の恨みにしてはなりません。家族の仇を次の世代に引き継いではなりません。最低限度の人間性の表れとして、被害者に対して謝罪すべきではありませんか。被害者たちの霊を慰めるべきではありませんか。 

私は、張英夫と申します。王質梅の息子です。 

今回、平頂山に来られた相原久美子議員の真実の涙を目の当たりにし、議員の方々のお詫びの意を表す手紙も読みました。大変感銘を受け感動しました。 

私は、小さい時から平頂山事件について、いつも母から話を聞いていました。そして、私の幼い心の中に激しい憎しみが深く埋め込まれていきました。日本人を非常に憎みました。彼らは私の家族を殺したのですから。心の中には復讐の気持がありました。(中略)現在、日本政府は、口では日中友好を何度も言っています。それなのに、なぜ彼らはこの歴史の事実を認める勇気がないのでしょうか。指導者に人間性はあるのでしょうか。 

昨年、私と母は、国際シンポジウムに参加するために東京に行きました。 そして、たくさんの日本の方々に会い、友好の気持を感じ取りました。とりわけ平頂山事件の罪状を問いただす弁護団は十数年にわたって正義を広めるために苦労を重ねて来ました。弁護団の方々の誠意や私心のなさに私は深く感動しました。 

侵略した国の国民として、被害を与えた国の被害者のために正義を広める苦労をいとわないその精神は崇高なものです。良識ある人々が示す模範です。その行為は、私達の心を慰めてくれました。幸存者の子どもとして深く感謝いたします。 

尊敬する議員の皆様 

私は、東京に滞在している間、多くの日本の方々とマスコミが平頂山事件に関心を持ち共感を寄せる様子を見ました。そして、人々の涙に心を打たれました。 

日本人は友好的です。そして、平和であることは幸せであると思いました。中日両国民は友好的に付き合うことが出来ると思いました。

心を込めて大きな声で言います。 平和友好万歳! 

尊敬する議員の皆様、日本政府が、一日も早く、幸存者が提出した三項目の要求に同意するように、連帯して要請して行きましょう! 

        2009年5月10日   王  質 梅     張  英 夫


訪中報告 参議院議員 相原久美子/2009年5月 

5月5日、平頂山事件弁護団5名とともに中国・撫順市を訪問しました。目的は、撫順市内にある平頂山事件の現地に伺い、幸いにも生き残られた“幸存者”の方々に民主党国会議員有志の手紙を直接お届けすることです。 手紙の趣旨は、幸存者の方々が日本政府に対して要求している3点について賛同するとともに実現に向けての努力を約束するものです。 

今回の訪問では、 目的である手紙をお届けするのみに留まらず、10年以上にも及ぶ日本の平頂山事件訴訟弁護団の皆様が中国側と培ってきた信頼関係に基づき、中国側の配慮で平頂山記念館と戦犯管理事務所の視察、幸存者の皆さんとの座談会等々をさせていただくことができました。事件現場では献花するとともに、その地に建つ記念館で歴史の事実である虐殺の跡を見学、 説明を伺いました。 また、幸存者の皆さんが希望されている陵苑の一助になればとの想いで植樹をさせていただきました。 記念館側では、 歴史を乗り越えた寛大なご配慮で大きな横断幕で迎えていただいたことに改めて身の引き締まる感がありましたこともご報告しなければなりませんし、この間弁護団の皆様が両国関係の構築に心血を注いでこられた結果であると感じた次第です。 

引き続き、撫順戦犯管理事務所に訪問しました。こちらは現在、歴史の事実を残すという政府の方針で改修中にもかかわらず、 見学できる範囲を案内いただきました。 

午後には、ホテルの会議室にて幸存者3名の皆さんと対話の時間をいただき、今回の一番の目的である手紙をお渡しすることができました。 歴史の事実を教訓化し、 二度とこのような悲劇を繰り返さないため努力をすることをお伝えしました。なお、この席には、市人大副主任(日本における自治体の副市長に当たる)他、関係者の方々も出席してくださいました。 その後、撫順市政治協主席とも会談し、今後両国の経済発展のためにも新たな関係を構築していくことが肝要、等々を話し合いました。 

夜の会食は中国側に招待いただき、 撫順市政治協主席、 市人大副主任、 そして今回ご尽力くださった撫順市社会科学院院長、幸存者3名とご家族、撫順に留学している日本の方々他を交えて意見交換をすることができました。 

いかなる戦争も加害者、 被害者の別はなく両国に大きな犠牲を出すことは、世界の歴史が示しています。 平和のために全ての英知を集めて悲劇を繰り返さない。真に健全な国際関係を築く努力が国会議員として必要であると再認識いたしたところです。 

 


5  「平頂山事件と撫順戦犯管理所」証言と講演のつどい 
(2010年10月2日月島社会教育会館4階ホール) 

2010年は、前年秋に民主党政権が発足し、鳩山由紀夫首相が「東アジア共同体」を提唱したこともあって、日中関係への期待も高まっていた。ところが、9月に尖閣諸島付近で中国漁船衝突事件が発生し、10月に予定していた都内での市民集会に中国撫順市からの参加が実現できるかが心配されたが、平頂山事件幸存者の楊玉芬さんをはじめ、撫順市社会科学院院長の傅波さん、同学院教授の王平魯さん、平頂山惨案紀念館館長の周学良さんの4人全員が予定通り来日し、改めて、私たちと撫順市との絆の強さを実感した。 

市民集会にも会場いっぱいの240名が来場した。集会では、楊玉芬さんが、「父の身体の下から這い上がり、血だらけで倒れている母に声をかけた。でも、返事はなかった」と話した後、「日中友好のために、事件のことをしっかりと伝えてほしい」と訴えた。

続いて、元中国帰還者連絡会事務局長の高橋哲郎さんが証言し、撫順戦犯管理所時代に平頂山事件幸存者の方素栄さんの話を聞いて「人間に戻った」ことを紹介。楊さんと高橋さんは、壇上で固く握手を交わした。 


「憲法9条を活かし、平和と共生の東アジアを」のテーマで講演した東京大学大学院教授・9条の会事務局長の小森陽一さんは「平頂山事件の犠牲者の思いをきちっと受け継いでいくこと、それが生き残っている私たちに問われている」と結んだ。 

主催者を代表して、平頂山事件弁護団団長の環直彌弁護士が歓迎のあいさつを行い、中国訪日団を代表して平頂山残案紀念館館長の周学良さんが挨拶をした。 



 平頂山事件幸存者 楊玉芬さんの証言 
(聞き手・泉澤章=平頂山事件弁護団弁護士、通訳・藤原知秋) 

楊玉芬 

1924年12月20日生まれ。平頂山事件発生当時満7歳。楊さんは父、母、妹の4人家族で、伯父が同居していた。事件当日、写真を撮るといいうことで広場に集められたが、写真機だと思っていたものが機関銃だとわかったと同時に機銃掃射が始まった。父は楊さんを、母は妹をかばった。母は機銃掃射で射殺されたが、父、妹と楊さんは奇跡的に助かった。初来日。 

生まれたところは、平頂山です。妹が一人いました。両親と4人の家族でした。家は農家でした。父は楊占有、母は楊姜氏です。妹は楊玉英という名で、4歳違いです.家は、平頂山の北側にありました。当時は食べるのに精一杯で、学校に行ったことなどありません。ずっと家の手伝いをしていました。当時、日本人街があるということは知っていましたが、日本人を見たことはありませんでした。 

1932年9月15日は中秋節でした。うちはとても貧しかったですが、父がリンゴを2つ買ってくれて、食べた思い出があります。当時、リンゴは月餅より高価だったので、とてもうれしかったのを覚えています。この日の夜、深夜2時頃だったと思いますが、家族と窓の外の月を見ていたら、たくさんの人が刀をかざして、「殺せ!殺せ!」と叫び、千金堡の方向、北東をめざして走って行きました。怖かったので、すぐ窓を閉めました。そして、家族全員で何も持たずに白菜畑の方へ逃げて、一夜をそこで過ごしました。怖くて、露でびしょびしょになって、眠ることなどできませんでした。 

翌朝、4時か5時頃、家に帰りました。母親は食事を作り、父は外へ出て行きました。  家に戻って少し経って、私が家の外へ出て食事の支度を待っていると、日本兵を乗せた車が通るのを見ました。車は去っていったので、安心して、母の作った食事を家族4人で食べました。食事を食べ終わった頃、2、3人の日本兵が家に来て、父に向かって片言の中国語で、「南へ、南へ、みなさんを守るので、南の方へ集まって」と言っていました。父からは、「日本兵は写真を撮ってあげる、大刀会(抗日義勇軍)から守ると言っている」と聞きました。私はとてもびっくりして、怖くて、怖くて、母の服にすがりました。 

私たち一家は家を出て、牛乳屋の近くにあった、「おかあさん」と呼んで親しんでいた人の家に行きました。しかし、そこにも日本兵が来て、一緒に家を出され、南の方へ行きました。私は、「おかあさん」の家を出るとき、そこは裕福だったので、リンゴや月餅をもらいました。私たち一家が南へ向かう道路は、あふれるほどの人でした。日本兵の姿は見ませんでした。私たちが追い立てられて集められた場所は、昔日本人が乳牛を飼っていた、崖下の広場でした。広場に入るとき、黒い布で覆われたものがありました。私は、これが写真機だと思いました。そこは広々としたところで、ばらばらに住民が集まってきていましたが,家族毎にひと固まりになって、密接していました。 

写真を撮ってもらえると、喜んでリンゴや月餅を持ってきたり、服を持ってきたりした人がいました。私もそれまで、写真を撮ったことなどありませんでしたから、嬉しかったことを覚えています。私の家族4人は一カ所に集まりました。周りには人がたくさんおり、雑談したり、リンゴや月餅を食べたりしていました。その向こうに日本兵の姿が見えました。すると日本兵が、集落に住んでいた朝鮮人を呼んで、どこかに連れて行きました。 

私たちは,何かおかしいと思い始めました。家のある方向から煙が出ているのが見えて、犬が鳴いたりしていました。突然、黒い布がとられました。それが写真なのか何なのか、わかりませんでしたが、その瞬間、すぐに撃ってきたので、機関銃だとわかりました。 

私たち家族と機関銃の距離がどれくらいだかわかりません。ドンドンドンと銃声が鳴り響き、雨のように銃弾がふってきましたが、私はすぐに父のふところに抱かれ、豆畑に伏せました。妹は母の身体の下に伏せました。私はすぐに伏せたので、目の前で撃たれた人を見たのは、手を打たれて叫んでいる老婆の姿だけでした。父は、肩を撃たれました。母も、身体を撃たれました。私と妹は無事でした。日本兵は撃つのを止めた後、銃剣で刺して行きましたが、父も私も妹も無事でした。 

私たちが広場に集められてから日本兵が立ち去るまで、どれくらいの時間がた経ったかわかりませんが、父が「起きなさい、日本兵が立ち去った」と言って、私が這い上がったときは、午後5時くらいになっていたと思います。私は父の身体の下からはい上がって、泣きながら母を捜しました。そうしたら、母はすぐそばで、血だらけで伏せて倒れていました。何度も声をかけましたが、返事はしませんでした。母の身体を起こすと、妹が下で気を失っていました。 

父に手を引かれて、現場から逃げようとしたとき、周りを見たら死体ばかりでした。死体の山の中で、負傷して泣いている子供が「助けてー」と叫んでいました。泣き叫ぶ声も聞こえました。 

私たちが現場から逃げるとき、同じように立ち上がって逃げる子どもを見ましたが、どこに行くのかはわかりませんでした。私たちは日本兵が来るのが怖くて、必至で逃げました。 

私たちは千金堡の方向へ逃げました。収穫の後のコーリャンやトウモロコシ畑に潜って隠れていました。途中の民家では、平頂山から逃げてきたというとかくまってくれませんでしたが、トウモロコシをもらいました。 

千金堡も焼かれていて、その後、栗子溝へ行きました。 

平頂山から逃げてきたと言うと、日本兵を恐れて、やはり栗子溝では泊めてくれなかったので、父の友人のいるところへ行きました。そこで私たちは頼み込んで、かくまってもらいました。私はそこでずっと暮らしてきました。その後、平頂山の生き残りだと知られるとどうなるかわからないので、私たちはずっと口をつぐんでいました。平頂山から逃げた人をかくまえば殺すというような張り紙が貼られていたと父から聞いていました。 

日中戦争中、日本兵を見たことはありません。1945年に日中戦争は終わりました。その後、解放戦争(国共内戦)がありましたが、その間も平頂山のことは誰も話しませんでした。 

 平頂山のことが話せるようになったのは、新中国の成立後です。 

 父の楊占有が平頂山事件のことを話したのは、1950年代。工場で労働者教育のために話すようになってからです。私が平頂山事件のことを人前で話すようになったのは、1967年頃です。このときは、父が高血圧で話せなくなったので、代わりに話をしました。 

父は、1974年に73歳くらいで亡くなりました。妹は、1993年に64歳で亡くなりました。 

 父には、平頂山に24人の親戚がいたけれど、この事件で18人が亡くなったと聞いています。 

 日本の植民地時代は日本のことを言えず、その後は平頂山事件のことなど考える余裕もなく、これまで必死に生きてきました。今回、私たち被害者の日本政府への要求実現のために、初めて日本に来ました。日本政府にはぜひ、平頂山事件の事実を認めて謝罪し、亡くなって人たちのため陵苑と記念碑を造り、将来の日中友好のためにも、事件のことをしっかりと伝えていって欲しいと思います。 

 

平頂山惨案紀念館 周学良館長の挨拶 

歴史にさかのぼると中日両国2000年余りの交流史上、中日友好というのは主流です。これは両国友好を発展させる基礎です。しかし、日本が中国を侵略した性質と罪を否認する人が未だにいます。軍国主義の戦争を美化し、歴史上で明らかに認定されたA級戦犯たちの罪を翻そうとしたりすることは、中国とアジア諸国の人民の感情に傷つけることになります。このような中日関係を破ろうとしている考え方を持っている人を、揺るがしている人を厳しく責めるべきではないでしょうか。 

撫順平頂山記念館の壁に「前事を忘れず、後事の師とする」という八つの文字が掲げてあります。これは2000年も前の中国の古典『戦国策』という書物の中の言葉です。過去の経験を忘れず教訓にするという意味です。歴史の問題に対する我々の態度は、歴史をしっかり覚えることを強調するのです。恨みを覚え続けることではありません。われわれは歴史を通じて、歴史を教訓にし、未来に向かおうという啓示を得ました。 

 歴史を忘れず、平和を大切にし、これは中日両国人民の共同の望みです。今日、このような集会に参加したわれわれも同じ望みを持ってきました。われわれは日本の弁護士さん達、歴史学者と大学教師、及び平頂山虐殺にご関心を寄せる皆様と一緒に、平頂山虐殺事件の起こった歴史の背景と原因と歴史教訓とは何かを検討し、そして、平頂山虐殺生存者対日訴訟その後の対策、中日友好関係の共同発展、アジアと世界の平和のために、民間のレベルで我々にできることをやっていきましょう。 

 友好な市民の皆様、 

 中日両国の民間交流と友好関係の絶え間なく発展することは、中日友好を支える土台となります。中日友好は、両国人民の共同の事業であり、両国の政治家、企業と知識人だけの事業ではありません。とりわけ一般国民の事業でもあります。両国間の弛まぬ交流だからこそ、相互理解と信頼がますます高めることができ、友好事業の基礎をしっかりと固めることができるわけです。 

 中日国交が正常化して、早くも四十年近くなってきました。多くの日本の友人、友好団体は、中日友好関係の発展のために、両国の経済と人員交流を促進するために、地道にいろんなことをしてくださいました。彼らは、一部の政治家が持っている歴史を曲解しようとする考え方に、中日友好関係を壊そうとしている動きに、反対行動をなさって、中日友好のために奔走されています。彼らは日本の正義の味方で、平和の使者です。私たちは彼らの皆さんに敬意を表させて頂きます。 

 最後に、平頂山虐殺記念館の館長として、主催者側の皆さんに、そして友好な日本の皆さんに、感謝を申し上げるとともに、皆様に真心を込めてお誘い致します。機会がありましたら、ぜひ平頂山記念館へ見学にいらしてください。私たちはいま一度、一緒に歴史を振り返ったり、歴史を考えることを通して、「歴史を忘れず、未来に向かう」という言葉に対する理解を深める上で、中日友好関係を深めていきましょう。中日両国人民の更なる幸せな生活を送る美しい未来のために、一緒に頑張りましょう! 

     

6  楊玉芬さん 国会議員との面談(2010年10月4日)

実行委員会は、2010年10月の楊玉券さんの来日が、幸存者が来日で きる最後のチャンスになるかもしれないとの危機感を持って、国会議員と楊玉芬との面談や院内集会の設定を行った。

井上哲士参議院議員(日本共産党)のお話

私もかかわっている原爆被害者の救済問題もそうですが、あまりにも解決に時間が かかりすぎる。被害者には時間がありません。一日も早い解決のために努力したいと 思います。歴史の真実に向き合うことが、本当の友好になると思います。 平頂山事件での日本政府の責任は明白であり、政府がその事実と責任を認めて謝罪せよとの皆さんの要求は、当然のことであると思います。党派を超えて要求の実現を国に求めて行きたいと思 います。 

近藤昭一衆議院議員(民主党)のお話

 日中関係に不愉快な出来事もあり、日本 政府の立場もありますが、中国の立場もあります。歴史のことも関係しています。歴史がわからないといけないと思います。 日本の若い人も当時の歴史の事実をわかって欲しいと思います。歴史のことがわかっ ていないと、感情が先にたってしまい、衝突が激しくなり、解決を困難にします。 私は戦後の生まれですが、私が生まれる前に日本は中国に対して過ちを犯 しました。ご家族が目の前で殺されるということは、本当に言葉に表せない 悲しみだと思います。その悲しみが長い時間続いていることに、私も悲しい 思いをしています。 

漆原良夫衆議院議員(公明党)のお話

日本と中国の間では、国交は正常化しでも様々な問題がなおも残っています。 木当に戦争が終わるということは、被害も何もかも元に戻った、被害者の心も癒されたということが必要で、それができて初めて戦争が終わったということになるのだと思います。

国と国との関係は正常化したといいま すが、個人の問題や遺棄化学兵器等たくさんの問題が残っています。これら のことに、皆さんや弁護団の方々が解決に向けて働いていらっしゃることに 心より感謝しています。法律ではなくて政治がかかわらなければ解決できな いと思います。皆様の要望を政治的に解決していきたいと思っております。


 横路孝弘衆議院議長のお話

  皆さんや弁護団の皆さんが求めていることを実現するには、議員立法が必要だと思います。「慰安婦、BC級戦犯の問題も議員立法を出していますが、なかなか進まない状況』にあります。色々な政党もあるし、民主党の中にも色々な見解があります。 平頂山のことは、まだ日本の国民によく知られておらず、議員も知っている人は少ないです。皆さんにお話をすることで、平頂山事件の事実は、歴史的事実として認められ、それに対して何もなされていないことも事実ですから、このことをみんなに知ってもらう必要があります。私も現場を見たけれど酷かった。 

国会は全人代と交流をしています。政府間で色々あっても、議会問、市民間、経済界などでは、交流を続けていかいといけない。 いずれにしても隣の国で、平頂山事件のように残っている問題は、政府で解決できるように理解して動いている日本 の議員もいるので、この点を理解してもらって、中国でも頑張っていただきたいと思います。 


 院内集会(参議院議員会館) 2010年10月4日 4日午後には超党派の国会議員を訪問し、問題解決の要請を行った後、院内集会 を開催しました。民主党、公明党、日本共産党、社民党から多くの国会議員、秘書の皆さんが参加され、幸存者の楊玉芬さんをはじめ、撫順市社会科学院院長の傅波さん、平頂山惨案紀念館館長の周学良さんたち中国側訪日団の訴えを熱心に聞いていただきました。ここでは、当時、民主党参議院議員で2013年4月に亡くなられた今野東さんのご挨拶を紹介します。「私は 20 0 6年だったと思いますけれど平頂山に行きまして楊宝山さんにお会いしました。平頂山事件の幸存者の皆さんの要求は、賠償金を要求するということではなくて、謝罪と謝罪の碑を建てて欲しいと、大変控えめな要求であります。私たちはそういう要求ですら、なかなか実現できないでいる国の仕組みの難しさを感じておりますけれども、なお皆さんと協力をして、皆さんの要求と、日中の平和のために一所懸命頑張って行きたいと思います

 

7  2012年5月~平頂山事件80周年
  『撫順の地から未来へ日中市民交流の軌跡展~』  

 日本側の「撫順から未来を語る実行委員会」と,中国側の「撫順市社会科学連合会」による共催企画『撫順の地から未来へ ~日中市民交流の軌跡展~』が,2012年5月 5日から開催されました。これは,2012年の「日中国交正常化 40 周年記念事業」として,正式に認定を受けて開催されたものです。撫順市と30年間友好都市関係にあるいわき市の後援も受けています。 

開催初日である5月5日には,会場となった撫順市図書館玄関口で開会記念セレモニーが行われ,国会議員2名(近藤昭一衆議院議員,相原久美子参議院議員)と瀋陽総領事館の加藤首席領事が参列してそれぞれ挨拶し,テープカットまで行いました。 

その後,図書館1階でパネル展示の一般公開が行われ,撫順市の多数の市民が見学に訪れました。 

展示されたパネルには,戦前から撫順に居住していた日本の市民との交流や,日中国交回復前に行われていた交流,さらに国交回復後に様々な形で行われるようになった若者交流,学術文化交流,平和交流や友好都市との交流などがあり,日本・中国双方の作成による数十点のパネルが展示されました。また瀋陽総領事館が作成した東日本大震災に関するパネルも会場に展示されました。 

 さらに記念講演「1972年~日中国交正常化報道の舞台裏~」として,日中国交回復前に日本のテレビ局として初めて中国国内を取材したときの体験について,撫順市図書館最上階で,中林良夫さん(元名古屋テレビ副社長)にご講演いただきました。会場には若い人が多く,中林さんの臨場感あるお話を熱心に聞いていました。

 同じ会場では記念講演前に,岩手で行われた日中の中学生交流に関するビデオが上映され,これも好評を博していました。 

2012年7月、尖閣諸島の領有問題で日中間の緊張感が続いているさなか、中国では大規模な反日デモが広まり、日中両国間で予定されていた民間交流の計画は次々と中止に追い込まれていました。そのような状況の中で『「撫順」から未来を語る実行委員会』が前年から進めていた 80 周年記念追悼式典参加の計画も実施可能かどうか危ぶまれました。しかし、実行委員会、日中友好協会、撫順の奇蹟を受け継ぐ会などが長年にわたって培ってきた撫順市との信頼関係に依拠して計画通り訪中することを中国側に伝え、中国側からは「受け入れます」との返事を受け取りました。そして、撫順市滞在の期間中(9/15~9/18)、中国側は相当の覚悟をもって訪中団を受け入れたのだということを随所で感じ取ることとなったのです。 

 

2012年9月15日、「撫順」から未来を語る実行委員会、日中友好協会、「再生の大地」合唱団の3団体が撫順市で合流し、訪中団は総勢70人を超えることになりました。 

現地では「大きい声で日本語を話さない、ホテルから外へ出ない、移動はバスで、公安が警備についている」などの注意を受け、中国側の緊張感がひしひしと伝わってきました。   

しかし、平頂山惨案紀念館で出迎えてくれた周館長は「このような状況でも我々の信頼は壊れません」と言いながらみんなとがっちりと握手。「困難な中、来て良かった」と思うとともに、長年の平頂山事件の解決をめざす取り組みや友好交流の積み上げが築き上げた「絆」を強く実感した瞬間でした。 

16日の平頂山事件80周年追悼式典は規模が縮小され、訪中団からは20名のみの代表参列になりました。小野寺利孝弁護士が日本側を代表して「日本政府に対し、加害の事実を認め、中国の人々に対して心からの反省と謝罪を行うことを希望します」と挨拶。「平頂山殉難同胞紀念碑」に献花。その間、式典に参列できなかった人たちは外出禁止のため、「歌声喫茶in撫順」をホテルで開催。式典終了後、式典に参列できなかった人たちが哀悼の意を共に示すことができるようにと、式典の模様を撮影してきたばかりの映像で伝える報告会を開催しました。歌声喫茶も報告会も急遽計画したものです。 

幸存者の楊玉芬さん、王質梅さんが訪中団を訪ねてくれました。初めて会う人も多く、心あたたまる交流の風景が繰り広げられると同時に、高齢になった幸存者の願いの実現は急がなければならないということを再度決意する場となりました。 

追悼式典後に予定していた野外舞台での「再生の大地」合唱団の演奏は中止となりましたが、中国側の配慮で25人の団員は小さいながら4か所で歌う機会を持つことが出来たことは、今後の撫順市での演奏会にむけての大きなきっかけづくりになったと思います。 

17日は「第8回平頂山事件国際学術シンポジウム」を日中共同で開催。日中70人余りが参加しました。双方からの報告や活発な議論が行われました。シンポジウムが予定通りに行われた背景には、シンポジウム開催の過去7年にわたる積み上げがあったことと傅波院長はじめ撫順市社会科学院の尽力によるものでした。 

平頂山事件 80 周年追悼式典参加の旅は厳しい状況の中で行動上の制約が多い旅でしたが、成功させることが出来たのは、参加した私たちにきちんとした歴史認識があることと長年にわたって培ってきた日中間の信頼関係があったからだと確信しました。そして、日中双方の努力によって互いの絆をより強めるという成果を生み出した旅であったと思います。        


8  平頂山事件パネル展開催(2014年9月6日~8日 日比谷図書館) 

2014 年9月におこなった市民集会にあわせ、日比谷図書館で平頂山事件パネル展が開催し、撫順市社会科学院作成のパネルの一部を提供していただいたパネルを3日間展示した。集会参加者を中心に3日間で 200 人以上の方がパネルを参観した。

パネルは、
①日本軍の中国東北部への侵略、
②撫順の炭坑での石炭資源の収奪をすすめたこと、
③1932 年の平頂山事件の経過、
④このことが世界に知られたのに、隠蔽しようとした日本政府の動き、
⑤戦後、この事実を中国でどう掘り起こし、伝えようとしたか、
⑥生き残った被害者が裁判に訴え、日本の弁護士、支援者とともに裁判闘争を闘ったこと、最後に
⑦被害者の要求を実現して歴史の事実を日本政府が認めることがこの問題の解決へつながることが示されている。


その後も、平頂山事件のパネル展が全国で開催されている。2020 年7月に、横浜の「平和のための戦争展」で、2021年7月には、高知県と京都市で平頂山事件のパネル展示が行われた。参観者からは、「日本の教科書に載っていない加害の歴史について知れたのは勉強になった」「これだけひどいことをやったのに、未だに謝っていない」「次世代へ伝えていくべきだと感じた」「事実を事実として受け止め、二度と戦争を起こさないようしっかり、国の政治のあり方を監視していかなければと思う」などの感想が寄せられている。

パネル展は、平頂山事件の事実を知らせるための貴重な活動といえる。 

 

9  2016年日本国憲法公布70周年記念 連続講座 

「日本が再び『戦前』にならないために ~平頂山事件に至る時代と今の時代を比較して~」  

 1 企画の趣旨  

日中戦争は 1937 年から,太平洋戦争は 1941 年からだが,平頂山事件の勃発はそれ以前の 1932(昭和 7)年のことである。この時期に日本は本格的な中国侵略を開始しており,その初期に起こされた象徴的事件が平頂山事件だ。  

現在,この国が再度の「戦前」となろうとしている状況で,「大正デモクラシー」など多少は自由主義的な雰囲気もあった社会が,どのようにして中国侵略に突き進んでいったのかを改めて整理することには,重要な意義がある。  

その整理にあたっては、歴史的観点はもちろん,大日本帝国憲法がどのようにして権力の暴走をもたらしたのかという法的観点,日本社会の文化や教育がどのように侵略に加担していったのかという文化・教育的観点,そこに報道機関がどのように加担するまでに至ったのかとのマスコミ史の問題,庶民の認識や感情はどう変化していったのかといった庶民史の観点,さらにこうした変化をドイツの暴走と比較検証するという国際的観点など,多様な視点から検証したい。このような趣旨で、連続講座を企画した。 

 

2 連続講座の紹介 

①第1回 憲法学者の杉原泰雄さん。戦前の憲法と今の憲法の違いは主権が誰にあるか、である。戦前は天皇が権利として統治権を持っていた。今は、国民の利益のために統治権のような条文はない。ところが軍事予算は世界有数で、集団的自衛権も認める方向になっている。 

②第2回 石田勇次・東京大学教授。「ナチスドイツと民主主義」というテーマで話された。一九三二年七月の選挙でナチス党が三八%の支持を得て、翌年一月には、ナチスのヒットラーが首相に就く。すると国会議事堂放火事件などの謀略事件をおこし、ナチスの支持を高めていく。そして、全権委任法ということで、国会を開かず、独裁体制を形成する。民主的な手続きを踏んだ上で、ファシズムを整えていくことになる。麻生副首相が「ナチスの手法に学ぶべき」と発言したことに注意を払う必要がある。 

③第3回 吉見義明中央大学教授。「戦争に巻き込まれていった民主」というテーマで話された。戦前の庶民の具体的な例で、話された。戦場に駆り出された農民は、中国戦線で敵愾心をもち、同僚がやられたことへの報復として、闘っている。非戦闘員を殺害したことへの逡巡もある。多くの兵士は、普通の市民であり、戦後は自由のありがたみを実感する。 

④第4回 上丸洋一・朝日新聞編集委員。新聞は、戦争をどのように伝えたか、という話しを諄諄と説明された。新聞は、九一八を追認していく。戦争は国家と国家でおこる。人が止めなければ、ならない。言葉の力は限界があるが、言論でしか戦争の手前で闘うしかない。戦争は絶対にだめ。 

⑤第5回吉 吉田裕・一橋大学教授。歴史的にみて、戦争を考えたのである。戦前、軍隊は天皇直属で、議会の同意を得ずに天皇の大権を行使した。参謀総長は直接現地軍に指揮命令はできないことになっていた。天皇が直接指揮下においた。臨時軍事費はまったくあきらかになっていない。学校では、毎朝宮城遙拝があり、天皇のいる方角を拝む。空襲が激しくなると、枕元に教科書を置いた。空襲の時持って逃げる。戦後、大事な教科書は墨塗をし、教育勅語は廃止された。今、九条の精神を地球憲章にしようという動きもある。軍国少年をつくってはいけない。 

⑥第6回 堀尾輝久東京大学名誉教授。1933年生まれ、父が中国戦線で戦病死して、靖国神社に祀られ「誉れの家」という紙が貼られた。小学2年の担任は音楽に非常に熱心な方だった。音楽は軍需品と発言した海軍大佐もいた。歌で国民意識を高揚しようとした。美術も戦意高揚に利用され“若い血潮の予科練の・・・”という歌詞は学校では習わなかったが、世の中の状況の中で自然に広がっていった。社会教育が大きな役割を担う。教科書の変化もあるが、どういう雰囲気をつくっていくか、社会意識の形成という問題がある。

⑦第6回 井上久士駿河台大学教授。平頂山事件研究の現段階、というテーマでの話しであった。この背景について、一九三一年九月に柳条湖での侵略戦争が始まり、三二年三月「満州国」の建国があり、九月十五日に日満議定書が締結された夜、撫順炭坑を抗日「ゲリラ」が襲撃する。撫順の独立守備隊が翌日早朝謀議をはかり、住民虐殺を計画する。この時守備隊はせかりでなく、憲兵隊、在郷軍人隊、日本人警察も召集する。これらの人々が守備隊のトラックで平頂山村に出かけ、家々から人々を追い出し、村はずれの崖下に集め、虐殺した。 

⑧第7回 姫田光義中央大学名誉教授。撫順の記憶を世界中で共有しよう、と世界遺産登録を目指そうという提起をおこなった。平頂山事件の舞台となった撫順には、戦犯管理所もある。ここでは、日本人戦犯が自らの犯した罪を認識し、反省し人間の心を取り戻したところである。加害と再生の大地である。日本人戦犯は戦争中鬼に変わっていた。それを戦犯管理所は人間の心を取り戻させた。ヒトから鬼へ、鬼からヒトへと変わったドラマがある。このことを世界中の人の記憶にとどめる運動をしよう。 


10  2022年9月 平頂山事件90周年に送るメッセージ 

平頂山事件90周年の2022年9月16日もコロナ感染症のため訪中は出来ず、平頂山事件訴訟弁護団、「撫順」から未来を語る実行委員会を代表して 井上久士実行委員会会長が、以下のメッセージを平頂山惨案紀念館に送った。 

本日私たちは、平頂山事件90周年を迎えました。1932年9月16日、関東軍撫順守備隊は、約三千名の無辜の平頂山全住民を暴力的に家から追い出し、付近の窪地に集合させ、機関銃を掃射したうえ銃剣で刺突し虐殺しました。翌日、遺体に重油(ガソリン)をかけて焼却し、その後崖を爆破して遺体を覆い隠しました。これは、日本軍の軍規や国際人道法に反するだけでなく、人間として許されない行為です。 

   私たちは、平和を愛し、正義と人道を尊重する日本人の立場から、犠牲となられた平頂山住民とご遺族のかたがたに、深甚なる哀悼の意を表します。二度とこのような悲劇を繰り返してはいけません。そのために重要なのは、この事件を決して忘れず、日中両国で史実を次の世代に伝えていくことです。 

   1996年、虐殺現場から奇跡的に生還した莫徳勝・楊宝山・方素栄の三氏は、日本政府の謝罪と賠償を求め日本の裁判所に提訴しました。裁判の過程で、原告の三人はそれぞれ日本を訪問し、平頂山事件の体験と正義の実現を日本で訴えました。環直彌弁護士を団長とする平頂山事件弁護団は、原告とともに十年間奮闘しました。日本でも原告の話しを聞き、共感し支援する人びとの輪が生まれました。 

   日本の裁判所は国家無答責の法理をもって原告の要求を認めませんでした。しかし、日本軍による住民虐殺事件があったことは認定されました。日本の裁判所も、歴史的事実を否定することはできなかったのです。 

   2006年に裁判が終わった後も、原告と訴訟に加わらなかった被害者の楊玉芬・王質梅氏らは「日本政府に対する3つの要求事項」を掲げて、事件の解決を求め活動を続けました。それは、歴史の事実を多くの人に知ってもらいたい、惨劇の責任を明確にしてもらいたい、そして二度と再びこのような悲劇を起こさないでもらいたいという強い願いにもとづくものでした。弁護団も日本の支援者も、その実現のための歩みを止めませんでした。また平頂山惨案紀念館をはじめ撫順の関係者も支援を続けてきました。 

   しかし、日本政府は今に到るまで歴史から学び、過去の中国侵略を率直に反省するに到っていません。中国の古いことばに、「過而不改、是謂過矣」(過ちて改めざる、これを過ちと謂う)とあります。歴史から学ばず改めない者は、いずれ歴史によって裁かれるに違いありません。 

   時の経過とともに、莫徳勝さん、楊宝山さん、方素栄さん、楊玉芬さん、王質梅さんらは、みな他界されました。弁護団団長であった環直彌弁護士も逝去されました。しかし、裁判の十年、その後の十五年を通じて、培われてきた日中両国関係者の信頼関係は生き続けています。 

   90周年に当たり、私たちは、理由もわからぬまま殺された平頂山住民の無念に思いをはせ、元原告のかたがたと環団長の遺志を引き継ぎ、平頂山事件の政治的解決、歴史の究明と普及のため今後も努力を続けていく決意です。新型コロナウイルス感染症がまだつづき、世界では戦火が絶えない不穏な情勢ですが、日中両国の信頼と平和がとこしえに続くことを心から祈念します。 

 

11  故方素栄さんの長男曲達さん来日行動(2023年9月)

  平頂山事件を教訓に日中友好と平和な世界を

1932年9月16日、日本軍守備隊が中国東北部部撫順市近郊の集落を襲い、約3000人とされる中国人を虐殺した「平頂山事件」から今年で91年目。この事件を風化させず、教訓にして、戦争のない平和な日中関係を築こうという集会「平頂山事件と新たな戦前を考える」が9月23日、東京都内で開催された。


参加者は約70人。主催は「撫順」から未来を語る実行委員会(代表=井上久士日中友好協会会長)。平頂山事件の幸存者・方素栄さん(2015年に死去)の長男・曲達さんが「私は日本政府に対し、歴史を尊重し、未来を見すえ、戦後の努力によって獲得された平和の成果を大切にし、両国の人びとの利益を損ねる行動を避け、平和な発展に寄与することを強く要望します」と訴えた。


母の遺言「三つの要求」

曲さんは、「事件当時、母は5歳。現場で8カ所の銃創を受けた。母の祖父が銃弾を受けて亡くなった後、祖父の体に押しつぶされる形で身を隠し、難を逃れた。傷者たちの惨めなうめき声や、日本の兵士たちに刺刀で殺される人びとの叫び声を聞いた時、とくに1歳の弟が母親のそばで、日本の兵士に刀で刺され、投げ飛ばされた光景を見た時、彼女は一瞬で気を失った」と話しました。

  そのうえで、「自分が日本に来たのは、母が生前に遺言として述べたことを実行するため。母は家族全員の前で、もし私がこの世を去ったら、平頂山事件の三つの要求を実現するよう、お前が引継いで欲しいと言った」と、来日に至った決意を述べました。

三つの要求は、日本での裁判終了後も裁判を闘った原告(幸存者)、弁護団、支援者らが日本政府に求めている。


①平頂山事件の事実と責任を認め、幸存者およびその遺族に対して公式に謝罪を行うこと

②謝罪の証として、

         ア.日本政府の費用で、(平頂山祈念館に)謝罪の碑を建てること

    イ.日本政府の費用で、平頂山事件被害者の供養のための陵苑を設置・整備すること

②平頂山事件の悲劇を再び繰り返さないために、事実を究明し、教訓を後世に伝えることです。


集会では曲さんに続き、平頂山事件弁護団の泉澤章弁護士が「平頂山事件訴訟と日中市民の試み」、井上会長が「平頂山事件の史実から、いま私たちが学ぶべきこと」のタイトルで講演を行った。


参加者から寄せられた感想文の中から、ひとりの若いお母さんの感想文を紹介する。

「平頂山事件については、日本中国友好協会を通じて知りました。学校では、アジア

の近現代史はなかなか教えられません。自分で興味を持って学んでいくしかない現状に歯がゆさを感じます。裁判の終了後も、こうしてこの歴史を人々に伝える活動をしてくださる人々に感謝します。

 私の娘は今4歳です。方さんが事件に合われた年齢です。曲さんのお話に自分の娘の姿が重なりました。もう少したったら、娘も連れてこのような学習会に参加できたらと思います。

来日してくださった曲さんご夫妻に感謝します。いつかまた、どちらかの国で私の娘共々曲さんにお会いできたらと希望を持ちます。会場への案内に立ってくださっていた実行委員会の方々に助けられました。ありがとうございました。」


曲さんは7日間の滞在中、実行委員会のメンバーと一緒に与野党の国会議員事務所、日中友好協会本部、在日中国大使館などを訪問した。

9月22日には日本中国友好協会本部を訪れ、出迎えた井上会長は「国と国の関係があまりうまくいかなくても、人民と人民の交流はできる」、矢崎光晴事務局長は「加害と被害の2世が交流し、日中の平和と友好に尽くせれば」と歓迎のあいさつをおこなった。


国会議員との面談で、曲さんは「平頂山事件の事実を国会議員はもちろんのこと、日本の多くの国民、未来の子どもたちに知ってもらい、それを教訓にすることが中日の友好・平和につながる」と切り出した。


海江田万里衆院副議長は「将来に向けた交流の話に深い感動をいただいた」、公明党の漆原良夫元衆院議員は「今の国会議員は平頂山事件の認識が薄いので、しっかり伝えていきたい」、日本共産党の穀田恵二衆院議員は「過去の侵略と加害に向き合ってこそ、日本の進路を見つけることができる」、社民党の福島瑞穂参院議員は「日中の関係は厳しい状況にあるが、絶対に東アジアで戦争が起きないように頑張りたい」、立憲民主党の近藤昭一衆院議員は「このような悲劇を繰り返さないために、私たちの世代はもちろんのこと、次の世代にこの歴史的事実を伝えていく必要がある」と応じ、それぞれ曲さんを激励した。


帰国後、曲達さんから、以下のメッセージが寄せられました。

各位日本律师团、执委会、中日友协的先生们早上好!我已于咋晚顺利的回到昆明,回顾近1个月的时间参加了抚顺9.16公祭活动后,又到东京与各位一起就平顶山惨案举行了一系列活动,通过参加这些活动我受到深刻的教育认识上也得到了升华。近30年的时间里日本这些主持正义爱好和平的朋友们无私奉献付出了很大的辛苦,顶着各种压力为平顶山惨案与本国政府对簿公堂令人敬佩。这里我还要再次对向蕾蕾、向茁、赵诗蔓、何红雲等朋友表示敬意,希望各位今后仍然对平顶山事件三项要求的落实给予支持。祝各位及家人健康幸福一切顺利!


日本の弁護士団、実行委員会、日中友好協会の皆様、おはようございます。私は昨晩無事に昆明に帰りました。抚顺9.16公祭に参加した後、東京で皆様と一緒に平頂山惨事に関する一連の活動を行いました。これらの活動に参加して、私は深い教育を受け、認識も高められました。この30年間、日本の正義と平和を愛する友人たちは、無私の奉仕と大きな苦労をして、さまざまな圧力に耐えて平頂山惨事で自国政府と裁判を行いました。これは敬服に値します。ここで、向蕾蕾さん、向茁さん、赵诗蔓さん、何红雲さんなどの友人に再び敬意を表します。今後も平頂山事件の三つの要求の実現にご支援いただけることを願っています。皆様とご家族の健康と幸せとすべてが順調であることを祈っています。

 

核・戦争のない世界!!
















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日本は過去を反省すべし!!

「原爆裁判」その歴史的意義と今後の課題

















カンパのお願い






NO WAR!!
あらゆる紛争を、武力ではなく話し合いで解決できないものか??
地球は、戦争と核実験によって壊れかかっている!!

戦争即停戦!!地球上から島が消える!!
11月17日、ジュネーブの国連本部におけるパレスチナ国連大使のスピーチ











【文鮮明】皇室と統一教会の関係|三笠宮と教祖の記念写真【皇族】


地球環境を破壊してきた最大の原因:戦争、核実験、原発。
これからの世界が真っ先に取り組まなければならないこと(SDGs)は、
1、核廃絶(核実験後の除染、核弾頭の処理、原発全廃、廃炉作業、核のゴミの処理)
2、戦争の後始末(地雷除去、化学兵器の処理、被害者の治療、PTSDの治療)
3、武器の廃棄(基地撤去、軍備全廃、環境整備)
※これらを実施するためには、国連改革が必要だ!!【紛争は話し合いで解決する!!、
五大国廃止(拒否権行使撤廃)等】

世界は、放射能の影響を無視し続けている!! 戦争反対!!

1945年から約半世紀の間に2379回(その内大気圏内は502回)の核実験が各国で行われた。そのエネルギーはTNT換算で530メガトン(大気圏内は440メガトン)でこれは広島へ投下されたリトルボーイ(TNT換算で15 kt)の3万5千発以上に相当する。

アメリカだけではない!!世界は核実験・原爆・原発事故により放射能で汚染され、地球は破壊された。多くの人が核被害で苦しみ、温暖化は進んでいる!!

世界に拡がる放射能汚染は、核抑止論・軍事機密のために、隠蔽され、矮小化されている!!



第9回「戦争の加害展」(横浜)


昭和天皇の戦争責任を問う!!















 


広島・長崎・ビキニ・福島と4度被ばくした日本はいつまで、危険な原発をやるつもりなのだ!! 核兵器廃絶!!脱原発!!医学者も声を上げよ!! いつ大地震が起きるかわかりゃしない!!

 3月20日に飯田市の飯田市平和祈念館に寄りました。下の写真のパネルは市教委が昨年9月に新たに作成したパネル。もう少し、詳しいパネルがほしい!!なんで日本は医学者が中心となって細菌兵器の開発に突き進んだのか?
                 飯田平和祈念館展示

検討委員会のある方のご意見 
・9月1日に新たに展示された731部隊のパネルは一歩前進ではあるが、下に展示されている医療器具や本との関連が説明されていません。どうしても731部隊の証言が必要です。 
昭和天皇が裁可したこの巨大施設で、細菌兵器の開発のため、人体実験が繰り返され、細菌兵器を製造し、中国各地で細菌戦が行われた!!(中国・平房)
改めて、昭和天皇・皇族・医学者の戦争責任を問う!!
ニュルンベルグでは、アメリカは医師裁判などを行い、医師裁判では23人の被告人が裁かれ、うち7名が絞首刑となった。

               市教委が展示したパネル



・山田先生の講演を聞いた人の感想
化学兵器や生物兵器は天皇の戦争責任にどう関係したでしょうか?小泉親彦や橋田邦彦の自死、あるいは帝銀事件が東京裁判で天皇の責任が問題になりそうな時に起きているのが気になっています。
・山田朗先生の回答
昭和天皇が化学戦・生物戦について認識していたことは、大本営からの命令(大陸指)の発令や、731部隊の関係者と接触した三笠宮からの報告で動かしがたいものだと思われます。ご指摘のように、敗戦から1947・48年の間にどのような隠蔽工作が行われたのか、これはまだほとんど解明されておりませんので、しっかり取り組んでいこうと考えております。ご指摘、ありがとうございました。

 会場には、100名を超える人々が参加して、山田さんの講演を聞き、又意見交換もしました。
              三笠宮と731部隊員の記念写真
三笠宮は回顧録の中で、「多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し毒ガスの生体実験をしている映画」を見たのを憶えている、としている。彼は次の様にも述べている。
「その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった」、と語っていました。
(『死の工場』シェルダン・H・ハリス著 柏書房 p227)
※三笠宮は紀元節復活に反対(ウィキペディアより)
1950年代後半から「紀元節」(神武天皇即位紀元(皇紀)に基づき、三笠宮自身の父系祖先と伝承される初代天皇・神武天皇が即位したとされる西暦紀元前660年2月11日を「日本建国の日」とするもの)の復活への動きが具体的なものになってくると、考古学者及び歴史学者としての立場から「神武天皇の即位は神話であり史実ではない」として、「『神話』と『史実』は切り離して研究されるべき」と強く批判し、皇族の身分でありながらも積極的に「紀元節復活反対」の論陣を張った。編著『日本のあけぼの』は、このときに刊行されたものである。

竹田宮と731部隊
竹田宮は、他にもっと直接的なつながりを、細菌兵器施設との間に持っていた。彼は関東軍司令部によって設置された、731部隊と100部隊の事業の監督をするための特別委員会の幕僚メンバーだった。彼の幕僚メンバーとしての最も重要な責務は、平房や他の支部施設を訪問する許可を与えるかどうかを決定することであった。関東軍に於ける医療行政官のチーフのように権力ある個人すら、平房(の施設)に立ち入る際には竹田宮・宮田(竹田宮は宮田武中佐と名乗っていた)が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れる時は、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。(『死の工場』シェルダン・H・ハリス著 柏書房 p228)




       
                 

入学式の日の丸

     



「はだしのゲン」巡り揺れる広島 教材から削除、販売は急増―原爆忌 






























「香川の子どもと教科書ネット」通信  

第69回会議報告(2024年6月5日・水)より

【 四 】 モラロジー道徳教育財団 

千葉県麗澤大学内にあるモラロジー団体は、いかにも民主的、平和的思想の集団であるかのごとくごまかした文章を必死になって発信し続けているが、その行間に隠されている彼らの本音は、我々市民とはかけ離れた一段、格の上の神様に近い存在に、天皇を奉っているやからなのである。

この団体の道徳サロン、講座、講演会等には、八木秀次、西岡力、髙橋史朗、中山理、所 功、野口芳宏、櫻井よしこ等、いわゆる右派思想を持つ人物の主張でうまっている。

さらに、廣池幹堂(もとたか)理事長は、2022年(令和4年)春の叙勲、「旭日中綬章(きょくじつちゅうじゅしょう)」を受章している日本会議代表委員でもある。

文科省も、香川県教育委員会も、このような右翼団体の活動を、「後援」し、「学校教育」「社会教育」の中に導入している事に、羞恥心、後ろめたさを微塵も感じていない。これも昭和天皇によって、戦後天皇制が残されてしまったが故に広まってしまった弊害なのだと思う。この姿を放置するわけにはいかない。

 7月3日(水)香川県と高松市教育委員会交渉の時に、「香川の子どもと教科書ネット」の会議で作成された「モラロジー道徳教育財団」の資料を提出する予定である。

















そして翌5月25日の夜22時過ぎから、470機のB-29による5回目の大規模空襲が始まった。この攻撃により中野・四谷・牛込・麹町・赤坂などの山手地域から霞ケ関、丸ノ内付近まで大火災が発生。東京赤煉瓦駅舎もこの空襲により全焼し、建造時のドーム型屋根を失った。





※カーチス・ルメイ・・・焦土作戦は東京・大阪・名古屋などの大都市を焼き払った後は、富山市・郡山市などの地方の中小都市も対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上が
らせ、日本側から「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と渾名された。

勲一等旭日大綬章の授与
1964年12月7日に日本に返還されたばかりの入間基地で、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は浦がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査・審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は小泉純也防衛庁長官と椎名悦三郎外務大臣の連名で行われ、防衛庁から佐藤栄作首相・賞勲局へ叙勲が適当であるという説明があった。勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例に基づいたものである。

授与への批判
ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対して批判も大きく、現在でも「勲章は返還するべきである」と唱える者もいる。当時は日本社会党・原水爆禁止団体・被爆者などから国民感情として納得できないという声が上がった。

 

東京大空襲

死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲。この3月10日の空襲だけで、
罹災者は100万人を超え、死者は9万5千人を超えたといわれる。
なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。


重慶爆撃

日中戦争の最中、中国の国民党政権の臨時首都となっていた重慶市にたいして、日本軍は、無差別爆撃をくり返し、多くの人々を殺傷しました。(中国人民政治協商会議四川省重慶市委員会文史資料研究会編『重慶抗戦紀事』によると、爆撃は1938年2月~43年8月にかけて218回、被害は死傷者2万6千人、焼失家屋1万7千戸。ほかに41年6月5日、
防空壕で数千人から1万人以上が窒息死したといわれる惨劇がある)

日本は戦争の加害をきちんと伝えるべきだ!!
2024年2月20日初版発行:アテネ出版(3000円+税)第533回 反核座り込み行動 核も戦争もない平和な21世紀に!!

この映画では、元731部隊員(レントゲン班)の宮川正(東大教授)は協力している。
汚染水放出反対!!(海の生態系の破壊!!)

 戦後、日本は、GHQ(主にアメリカ)によって占領され、そのGHQは、その占領政策をスムーズに進めるため、東京裁判が始まる前に、天皇に「人間宣言」をさせ、開戦を裁可した昭和天皇を戦犯免責にし、象徴天皇制と憲法9条を盛り込んだ憲法草案を提示し、それを日米でアレンジした。1946年6月、枢密院で可決された憲法改正案は、第90回臨時帝国議会に提出され、貴族院・衆議院両院で修正が行われた後、同年10月7日可決。この改正案を10月29日に枢密院が可決したことを受けて、日本国憲法は同年11月3日に公布された。
 東京裁判では、日本軍の上層部で活躍した皇族や極悪非道な、細菌戦や毒ガス戦、無差別爆撃に関わった、731部隊員、毒ガス部隊員、登戸研究所員等も戦犯免責にし、アメリカはその情報を持ち帰り生物戦、化学戦の研究を進めた。
 そして、アメリカの行った非人道的な原爆投下、無差別爆撃等は東京裁判では、全く取り上げられなかった。免責の見返りに、一部の731部隊関係者はアメリカの核戦略に全面的に協力し、被爆の被害の矮小化を図った。その流れが、ビキニ、福島、原発政策へと続き、依然として原子力村、安保村が日本の原発・軍事問題を牛耳っている。 
 唯一の最悪の地上戦を経験した沖縄は、昭和天皇によって、見捨てられ、戦後、アメリカの占領下となり、日本に復帰した現在も、米軍基地問題で大きく揺れている。 
 また、日本は、戦時中、百万人を超す朝鮮人を日本国内に強制的に連行し、苛酷な条件のもとに強制労働させたが、戦後は日本人ではないとして、戦後補償を受けられずに、非常に困難な生活を強いられた。 
 だが、軍事裁判では、日本軍兵士として、BC級戦犯となり、厳しく裁かれた。 
   靖国神社は、A級戦犯であった、東条、広田、板垣、松井等を合祀し、あの戦争を賛美し、反省をしていない。 
  日本は戦後、軍人や軍属、その遺族らに総額60兆円超の年金や恩給をいまも支払い続けている。戦犯の遺族にも支払っているが戦後、外国籍になった日本軍兵士には支払っていないということには驚く!!
 一方、天皇が、宣戦布告した戦争で、国は戦争被害者に損害を国民は同じように堪え忍ぶべきだという受忍論を押し付け、空襲で家や財産、親や子どもを奪われた人たちへの補償は全くしていないし、公的資金を投じた追悼施設さえない(東京大空襲等)。
  日本と中国では、戦後毒ガスによる被害者が多数出ているが、大久野島で毒ガスの製造に関わった被害者だけは、優遇されているがその他の被害者にはわずかの補償か、全く補償がない。
 アジアの国々に対して日本は、戦争責任を認めて、率直に謝罪することが出来ていない。 平和博物館では、展示が日本の空襲や戦時中の暮らし向きだけが展示され、加害の展示は殆どないのが現状だ。
  過去の侵略の事実を無かったことにしようとする日本政府の姿勢に疑問を強く感じる。
  戦争による、残虐事件の証拠隠滅が、戦時中、戦後すぐに行われ、その解明は、十分ではない。1つの絶対的な権力が形を変えて残ることは、その解明を妨げている。
 情報公開をオープンにし、実態解明ができる社会にしないと真実がわからない。
 最近の裁判所で起こっている証拠隠滅にも戦前の体質を垣間見る!!

靖国神社を廃止し、国立の戦没者追悼施設の建設を!!


東京裁判での東条の証言
(東条)「日本国の臣民が陛下の御意志に反してかれこれすることはありえぬことであります。いわんや日本の高官においておや。」
この発言に最も慌てたのがアメリカの首席検察官キーナンだった。
東条の言葉は、解釈次第では戦争開始の決定は天皇の意志によるものだった、ということになる。
アメリカ政府とGHQは、占領政策を円滑に進める上で、天皇は不可欠な存在と考え、天皇不訴追の考えを固めていた。
731部隊罪証陳列館見学に並ぶ長蛇の列(中国・ハルビン)

長生炭鉱(山口県宇部市)「ヒロシマ通信」から 山口宇部・長生炭鉱の「水非常」は、事故で亡くなった183 名のうちの136 名が朝鮮人でした。2月3日におこなわれた現地での追悼の集いは、さまざまな問いかけを私たちに突きつけてきます。・・・終わり近く9分ごろのところに金平記者が長生炭鉱のピーヤの見える海岸でインタビューしているシーンも出てきます。たいへんに貴重な28分ほどの映像、まだ観ていない方、ぜひ視聴をオススメします! https://www.youtube.com/watch?v=oT781LkmlmY&t=35s


 敵基地攻撃能力などいらない!!自衛隊を災害救助隊にすべし!! 


    
 日本の中国侵略、原発事故を問う!!
      
      

1月19日、「花地蔵物語」の完成披露演奏会が、東京の武蔵小金井の宮地楽器大ホールであった。会場は、満席で、大成功でした。 


珠洲原発があったら大惨事であった!!原発をなくそう!!


能登半島地震の写真や図説

未知の断層はまだまだあるのではないか?? 
同時に、原発事故が起きていたら?? 国策原発推進反対!! 

原発活用の国策見直しを!!
 ビキニ被災から70年!! 
地球を破壊した戦争・核実験・原発 世界に拡がる放射能汚染!! 
核兵器禁止条約批准せよ!! 
反原発!! 温暖化の一番の原因は2000回以上行われた核実験にあるのではないか?

あれだけの戦争をし、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマで4度の被ばくの体験した日本から、核廃絶・反原発・反戦をアピールしよう!! 


ビキニ被災から70年!!核廃絶!!

世界最大級の卸売市場と、ゴジラとの間にある共通項。それは、「第五福竜丸事件」だった。

by Kota Hatachi
籏智 広太 BuzzFeed News Reporter, Japan
築地市場が、その83年の歴史に幕を閉じる。
約480種類の水産物が1日あたり1676トン(2014年)取り扱われている、世界最大級の卸売り市場。その一角にかつて、「原爆マグロ」が埋められたという事実は、あまり知られていない。
あの「ゴジラ」にも着想を与えた、「第五福竜丸事件」にまつわる話だ。
各地に水揚げされた原爆マグロ
Amazon / Via amazon.co.jpゴジラ-昭和29年度作品-60周年記念版-DVD-宝田明/dp/B00ISOAL5Y/

1954年3月1日。太平洋・ビキニ環礁でアメリカが実施した水爆実験「ブラボー」に、日本の複数のマグロ漁船が巻き込まれた。うち一隻の「第五福竜丸」の乗組員が被曝し、半年後に無線長の男性が死亡した。
水爆実験で安住の地を奪われた、という設定の「ゴジラ」に着想を与えた「第五福竜丸事件」だ。
漁船の多くは、「死の灰」と呼ばれる放射性降下物を浴びた。その年の暮れまでに、各地の漁港には、計856隻から汚染されたマグロなどが水揚げされることになる。
汚染魚たちのことを、人々は「原子マグロ」や「原爆マグロ」と呼んだ。市場はパニックに陥り、マグロの価格は暴落。競りが不成立になるなど、被害は大きく拡大した。
広島、長崎の被爆から9年あまりしか経っていない時代だ。人々は「原爆」という言葉に強く反応したのだろう。
その年の11月に公開された映画「ゴジラ」には、こんな場面がある。電車内で、とある若い女性が不安げにつぶやくのだ。
嫌ねえ、原子マグロだ、放射能雨だ、そのうえ今度はゴジラと来たわ。東京湾にでも上がり込んできたら、どうなるの。せっかく長崎の原爆から命拾いした大切な体なんだもの。

2023「731・原爆・ビキニ・フクシマ」展

原子力村解体!!安保村解体!
      



アンケートから 
12月17日(日)
11、人を人とも思わぬ所業、怒りと共に、背筋が凍り付く思いです。なぜ核兵器を持ちたがるのか、原発を止められないのか、裏に金儲けの仕組みや上層部の思惑があることがよくわかる素晴らしい展示会だと思います。人類としてすごく重く深く考えさせられました、
 いろいろと御苦労もおありでしょうが、今後とも頑張って頂きたく思います。ずっと伝え続けていってほしいです。来年も展示をお願いしたいと思います。
(60代以上、市内、友人)








    
●三多摩平和交流会の感想 

7、今年も参加させてもらいました。退職して5年余りが経ちますが、こうした会に参加することで、社会の一員としての実感を持つことができます。実行委員の皆さんありがとうございます。展示の中の高校生平和ゼミナールと中学生のイラストを見学し、運動が継続されていることを強くうれしく思いました。(展示、ビデオの感想、チラシ、60代)



第5章 平頂山事件の解決に向けた日中市民の取り組み 
 
2006年5月16日の最高裁判所の決定で裁判は終わった。しかし、日中の市民は、2006年6月5日の共同声明の精神に基づき、平頂山事件の被害者及び遺族が掲げる平頂山事件の解決のために、現在まで地道で粘り強い活動を続けている。以下、その活動のいくつかを紹介する。 
 
1 9・16撫順の式典に毎年参加・遺族との交流を続ける 
 その翌日は、楊玉芬さんのご自宅を訪問した。幸存者としてはお一人になってしまった楊玉芬さんは、笑顔で私たちを迎えてくれた。楊さんは、「どこも悪いところはない。ただ年をとっただけ。」などと冗談を言ってみんなを笑わせた。思ったよりもずっと元気そうな楊さんに一同安心して、来年もまた必ず会おうと約束しあった。 







一昨年(2022年)4月2日に開かれた日本医学会記念事業では、「過去の過ちに学ぶ」で、731部隊のことが取り上げられた。


731部隊で非人道的な人体実験があったことを述べている!!
(以下の動画、5分20秒過ぎ)

医療倫理・研究倫理の深化




●ビキニ被ばく船員訴訟意見陳述
(2023年9月12日東京地裁) 
令和3年(行ウ)第594号 
原告増本美保外11名 被告
全国健康保険協会 

 意見陳述書              
2023年(令和5年) 9月12日

 東京地方裁判所 民事第51部lA係御中                       
原告ら訴訟復代理人 弁護士 内藤雅義 

第2 放射線の晩発性影響の評価

被告は、原告らの主張する放射線の晩発性影響が認められるには100mS vのしきい線量を超える被ばくをしたことが必要であるが、明石真言氏を座長とする保険部の報告書によれば、lmSvにも達しないので放射線影響とは認められないと主張します。
 そこで、まず、放射線晩発性影響の基準がどのように決められたかを述べます。

1 放射線影響評価と原爆被爆者調査

(4)初期放射線のみとしたことの背景
 なぜ、初期放射線のみで、残留放射線を考慮しなかったのでしょうか。
ウ  米軍が放射性物質による被ばくを無視したかった理由
アメリカは、占領開始直後、プレスコードを発出し、原爆被害の報道を禁じました。そこで隠され禁じられた中心被害は放射線被害でした。その背景には、放射性物質による被害が化学兵器、生物兵器の被害と同様に見えず、多くの人に影響を及ぼすことにあると思います。それが非人道的だとして世界的非難ヘの恐れが背景にあったと推測されます。ビキニついても同様なことがあります。 
 この点は、専門家による意見書で補充をする予定です。












被爆地選出の首相が、なぜ放射能の恐ろしさを語らない?? 再生可能エネルギーの積極的活用を!!




福島原発事故の写真



世界史上最悪(レベル7)の原発事故福島第1原発 原発推進、汚染水放出、アメリカと日本の関係?? 日本の医学界も、原発推進、汚染水放出等の問題に、なぜ沈黙する。
グリーンピースからのメールの一部より 

汚染水放出に反対、再生可能エネルギーへの早期転換を求めて 

8月22日、日本政府は、東京電力福島第一原発敷地内に貯留されている「ALPS処理汚染水」の海洋放出を気象や海象条件などに支障がなければ、9月24日にも開始することを発表しました。 グリーンピース・ジャパンは、 2023年8月17日、汚染水の海洋放出に反対する署名36,334筆を経済産業省に、原子力発電所に反対する署名18,642筆を内閣府に提出しました。  「放射能汚染水を海洋放出しないで」署名を経済産業省の担当者に提出しました。 日本政府および東京電力は、漁業関係者や住民、太平洋地域や近隣諸国の懸念を押し切って、放射性物質を含むALPS処理汚染水を海に放出する決断に踏み切りました。あらゆる問題を山積みにしたまま、数日のうちにも海洋放出が開始するかもしれないこの状況に、憤りを覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。 グリーンピースは8月17日、54,976筆の署名を、国際環境NGO FoE Japanなどが主催する政府・東電との討論会の場などで政府に提出しました。また8月18日には、市民団体「これ以上海を汚すな!市民会議」が、首相官邸前にて行った汚染水の海洋放出に反対する要請行動に参加しました。  

8月18日の「これ以上海を汚すな!市民会議」主催の抗議集会  

 放射性廃棄物の海洋放出は、福島第一原発の廃炉計画の失敗を明らかにしています。いったん海に流された放射性物質は決して回収できません。一方で、汚染水の発生を止める有効な手段はとられていないままです。放射性廃棄物を意図的に放出し、海を汚染するという選択は、日本の数十年にわたる原発政策が招いたものです。 

 署名提出、討論会でわかったこと 

 グリーンピースが政府に署名を提出した2023年8月17日、市民と政府および東京電力との討論会がありました(国際環境NGO FoE Japan主催)。経産省、原子力規制庁、東京電力から10名以上が出席し、市民側は放出に反対する福島県民、オンライン参加者も含め多くの参加がありました。 
 2015年、政府・東電は、「関係者の理解なしにいかなる処分も行わず、他核種除去設備で処理した水は発電所敷地内のタンクに貯留します」と文書で約束しています。討論会で「この約束は守られるのか」と問われた際には、はっきりと「守る」と回答していました。それにもかかわらず、海洋放出を推し進めようとする政府の不誠実な姿勢は、到底受け入れられるものではありません。 
 また、討論会では、グリーンピースはじめ、多くの研究者らが提案してきた陸上に保管する代替案について、ほとんど議論されていなかったことが改めて浮き彫りとなりました。東電は「モルタル固化処分案」については「ALPS小委員会においても検討が行われている」と回答しましたが、検討されたのは地下に埋設する別の方法についてであり、さらにそれも2行書いてあるだけで、会議資料にも議論の記録はありません。 処理費用と期間も大幅に膨れ上がっています。様々な処理方法が検討されていた2018年の時点で、海洋放出の費用は17〜34億円とされていましたが、現在の試算では1200億円となり、処理にかかる期間も52〜88ヶ月程度と書かれていましたが、現在は少なくとも30年以上と言われています。 

 海を汚染しない選択を求めます 

 福島第一原発の廃炉作業を進めるために「ALPS処理汚染水」の海洋放出は必要ありません。抜本的な解決策について、グリーンピースは元ゼネラル・エレクトリック社で東電福島第一原発などに勤務していた原子力コンサルタントの佐藤聡氏に委託し、2021年に具体的な提案を含むレポートを公表しています。 
 欧米で運用されているより高精度な多核種除去設備で限界まで放射性物質を取り除いた処理汚染水を、現行のタンクより堅牢な大型タンクに移し、さらに高度な除去技術を開発することが、現段階では最善の解決策であるとグリーンピースは考えます。 



2023年の「戦争の加害展」の感想 

◆9月3日(日)

204, 関東大震災の時の朝鮮・中国人の虐殺について

政府が「記録は見当たらない」と言っていることにいきどおりを覚えています。

なぜ歴史の事実をまげてなかったことにしてしまうのか

問題に向きあえないことが情ないです。

事実を伝えつづけなくてはいけないと思いました。

★ご要望

朝鮮の詩人で福岡刑務所でなくなった「尹東柱」さんのことを知りたいと思います。

(60代・藤沢・会場に来て・-)

 


長野県飯田市で起こっている731問題



飯田市の資料収集委員の方々が作られたパネル(展示されていない)
こんな大事なパネルが展示されていないとは!!

      


日本が中国に棄ててきた毒ガス問題



中国に戦後日本軍が遺棄した毒ガス被害に苦しむ人がいる(日本政府は補償していない)が、日本にも毒ガス工場で働いた人、毒ガス工場解体時に被害にあった人がいるが、その人たちへの補償はどうなっているのだろうか?
 以下は、毒ガス研究者の田中浩朗さんの『日本軍の毒ガス戦の歴史』による。
「1952年に大久野島毒瓦斯傷害者互助会が結成され、国に毒ガス傷害者の援護が求められた。そして、1954年の大蔵省通達「ガス障害者救済のための特別措置要綱」によって忠海製造所の旧従業員(旧陸軍共済組合の組合員)に対する援護(医療費や各種手当の支給など)の道が開かれた。その後、徐々に援護の対象が拡大され、現在では旧東京第二陸軍造兵廠忠海製造所、旧広島陸軍兵器補給廠忠海分廠、旧東京第二陸軍造兵廠曽根製造所、旧相模海軍工廠の旧従業員(財務省所管)および元動員学徒等(厚生労働省所管)に対する接護制度が存在する。最後の援護対象となった旧相模海軍工廠の旧従業員らが援護されるようなったのは、戦後半世紀以上が経過した1999年のことであった。」
忘れられた毒ガス被害者(相模海軍工廠)
毒ガス工場46年目の証言(東京第二陸軍造兵廠 曽根製造所跡)
毒ガス工場解体(大久野島の毒ガス工場解体)

化学兵器禁止条約が発効(1997年4月29日)されて10年過ぎても20年過ぎても(原則10年以内に廃棄)、中国に遺棄した日本軍の毒ガスは廃棄できないでいる。(廃棄完了は2027年の予定)分解できない砒素はドイツの地下に貯蔵?
 毒ガスの処理事業は、内閣府は、下記の資料では2022年に終了することになっていたが、終わらす、2027年には完了するとしているが、本当に終わるのであろうか??












 なぜ、処理事業で、処分できない砒素がドイツへ行くの? その遺棄化学兵器の処理が化学兵器禁止条約が発効した1997年から26年経ってもまだ終了していない。本当に内閣府の計画通り、今までに発見されている遺棄化学兵器は、2027年までに処理が完了するのであろうか? 次回裁判期日 7月18日(木)16時~703号法廷 

    
     News & Information \本日の弁論のご報告/  

被告は①3月末に開示決定変更通知を提示し、開示できる部分については開示する、②不開示理由については4月末に500ページ、5月末までに更に500ページ提出し、半年以内に全不開示理由を提出する旨陳述しました。これを受け、裁判長は原告に対し申立の変更手続きをするよう伝えました(元となる開示決定が無効になるため)。  原告の私としては不開示であったことの違法性について判決があってほしいところですが、裁判の進め方として、開示できる部分については開示させていくことや、新たな開示内容やその理由について追求したほうがよいという弁護団の判断で、どういうものが出てくるのか様子を見ることになりました。 なかなか亀の歩みで地味な裁判ですが、少しずつ進展を見せています。皆さまの注目が頼りです。引き続き、ご関心をお寄せ頂けたら幸いです。 \ご支援よろしくお願いします/ 





リーフレット
     





プレ企画 映画「隠された爪痕」「払い下げられた朝鮮人」の感想 

6、呉監督のお話を聞くことができ、とても心に響きました。DVD全部見たかった。
(70代、 横浜市内、フェミン)


「戦争と医の倫理」の検証を進める会シンポジウム 







「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。



南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈
        




 重慶爆撃               

原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
    


            

    
731部隊展
    



 原爆    



原爆投下にまつわる「俗説」を検証する【広島原爆から76年】


古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
2021/8/6(金) 10:29

2.原爆投下の背景には日本人への人種差別感情があった→嘘
 とすると、歴史にIFは無いが、1945年8月の段階でナチスドイツが降伏していなければ、まず間違いなく米軍は不発となって敵に再利用される恐れが絶対にない、広島型原爆をドイツに投下していただろう。結局その時点でヒトラーが自殺し、残る枢軸は日本一国となったから二発の原爆を米軍が日本に投下しただけで、人種差別的背景は薄い。そもそも当時のアメリカ政府も米軍も、原爆投下によってどのような「現実的」被害が敵にもたらされるのか、自分自身ですらその凄惨な実態を想定していなかったのである。だからこそマンハッタン計画に携わったアメリカの核研究者は、戦後になって原爆投下を悔やむものが出てきたのである。



日航123便の怪(1985年8月12日)


     

●東京帝国大学伝染病研究所
  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?

雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次

3、興味ある細菌学的所見
癩菌に関する研究

それは Sengenの液に家兎血清を加え、中性となし、モルモットの白血球を一定数に入れ、これに.癩結節を加えるのである。30度の許におくと癩菌は白血球内で盛んなる增殖を起すものである。然かもこの培地を特製 の茄子形のコルベンに入れその全体を昇汞水を入れて密封し得る硝子器に納め、常に一定の温度に保っておくことがよい。今日迄六代継代することが出來たのみならず、この材料によって動物に接種する事にも成功しているという。斯の如くして癩菌の動物実験にも、培養にも成功していることは、癩研究上、一大進歩というの外はない。




●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。

好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   

第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 


  天皇の第2の希望は、「現在の政治の弊を改善し、陸海軍の軍紀を振粛するは、一に首相の人格如何に依る」というものである。これは公務でもっとも重要な任務は首班選定にあるという天皇の関心を示していた。天皇のそのほかの希望は、二大保守政党の間で権力の交代が繰り返され、その必然的な結果として政策が変更されることに対する不快感の反映だった。天皇は、軍の統制を乱し、大元帥としての天皇の権限を侵犯した将校よりも、むしろ政党に基盤を置く内閣の方を非難していた。叛乱を起こした軍よりも議会政党の方に不信を抱き、政党内閣の力―これこそ原則だったのだが―を弱めることで、天皇の権力を強化しようとしたのである。
 





●日本国憲法9条 第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】 

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、 国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、 これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。 

 RENUNCIATION OF WAR Article 9.
 Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order,  the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes. 
In order to accomplish the aim of  the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. 
The right of belligerency of the state will not be recognized.

IMAGINE9 
解説 

9条をつかって、 戦争のない世界をつくる。 

あなたにできること
6.日本の国が何をしているのかを知ろう
 日本は、世界のなかで何をしているのだろう?―私たちが好むかどうかにかかわらず、日本の政府や企業の行動を世界の人たちは「日本の行動」とみる。政府はどんな政策をとっているのか。自衛隊の実態は。日本企業は海外で迷惑をかけていないか。自国を知ることが、地球人としての一歩だ。





※次期戦闘機の輸出が閣議決定され、色々な武器を自民党は輸出しようとしているし、武器の輸入も拡大している!!



鹿屋(かのや)航空基地  史料館』(鹿児島県鹿屋市)について 
 ~ご理解していただきたいことを文章にしました~ 
 2022年7月17日記鶴ヶ岡裕一(都内在住)  

 願わくは、戦没者たちが、自衛隊の「閉じ」の中から解放され、新たな地にて平和な社会の実現を見守って下さいますように。(鹿屋市内に一定の世論ができて、このような文章を書いているのではなく、私・鶴ヶ岡個人がこだわってきた、「戦没者」ということや「戦没者の遺念」ということへの思いから、書きました。また、鹿屋市当局も、資料館を取り戻すことなど、夢にも思っていないことでしょうし、自衛隊と利益関係でつながる出入り業者の数も多いですので、これまで(戦没者の冒涜に)気づいた人がいたとしても、なかなか声に出すことは出来なかったのではないかと思うのです。それだけ根の深い問題になっていますが、そこに光を灯すべき価値は大いにあるのではないでしょうか。数や金の上にあぐらをかいて、人々を、自分に都合のいい価値観にしばりつけているような地域性の中にある自衛隊の中でも「戦没者たち」が、埋没させられ、利用されてきました。自衛隊を包み込むそのような地域性があることもしっかりと見据えた上で、「自衛隊が戦没者たちを冒涜してきたということと、史料館は新たに平和祈念資料館として移転すべきこと」について、このような小さな声を、風に託すような思いで、届けたいです。)





黒井さんのメールより 
授業の生徒感想文の一部を紹介いたします。 
2024年2月16日、50分の授業を受け持ちました。 
★感想文 

8、今日講話をしていただいて、今までには知らなかった、また違った面から戦争について知ることができました。戦争によって苦しむのは兵士だけではなく、その家族も現在まで苦しんでいることが分かりました。今日、改めて戦争は絶対にしてはいけないと感じたし、これからもっと戦争とその事実と向き合って生きていこうと思います。


黒井秋夫さんのメールより 

戦争が世界を席巻しています。

戦争を仕掛ける集団(国家)と対抗する集団がこの瞬間も殺し合いを続けています。

戦争は集団同士の殺し合いです。

私は戦争することを決めた集団の意思と集団に属する個人の意思の尊重を考えます。

そもそも戦争することはどういう過程を経て決まったのでしょうか。国会で、大統領権限で、集団の長の意思で、あるいは集団の総意でしょうか。集団の多数意見でしょうか。

戦争をしている兵士は全て志願兵でしょうか。殺し合いの場である戦場に派遣されることに強制されたりしていないのでしょうか。全て自由意志でしょうか。






 祝 PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会
(元・PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会) 
立ち上げ6周年 

 ★2018年1月17日の立ち上げ宣言・全文 

父は戦争の事だけでなく他の事にも無口でした。 1948年生まれの私はそういう父を生来の父の姿と思ってきました。 しかしベトナム戦争で米兵の3割前後が悲惨な戦争体験で精神を崩し、元の社会に復帰できないという。 同じような日中戦争や太平洋戦争を体験した日本兵も、つまりは私の父たちも精神を侵されたとして不思議ではない。 本当は父は正常な精神に戻りたいと必死に戦後社会を生きていたのではないだろうか。 私は快活だったかも知れない出征前の父は知らない。復員した後の無口な父しか知らない。 私は「本当の父」を知らないままに父を亡くしたのではないだろうか。 2~3年前からそんな思いで父を振り返るようになりました。 だとしたら、父も私も不幸だった。本当の自分を見せることも心の内を語ることもできずに苦しんだかもしれない父。 そんな風には生前一度も思ったことの無い息子。 その無口の父に反発し続けた私。父を通じて私も又戦争の傷を心に負ったのかもしれない。 私たちの世代にも呼びかけたい。 父親たちを見直そう。父親たちの精神世界を想像してみよう。 語り合おうではないか。 若い人たち、我々の子供たち、孫たちにも戦争は兵士のみならずその家族をも。戦争が終わったその後も家族を通じて長い間影響を与え続けるのだと伝えたい。 この指にとまってほしい! 

2018年1月17日  黒井秋夫。

 






























































































































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